園 佳也子(その かやこ、1929年〈昭和4年〉10月7日 … 園 佳也子(その かやこ、1929年〈昭和4年〉10月7日 - 2010年〈平成22年〉7月27日)は、日本の女優。東京府(現・東京都)生まれ、大阪府大阪市天王寺区育ち。神戸女学院中学部・高等学部、神戸女学院大学文学部卒業。 1953年、NHKの大阪放送劇団の聴講生になり、同局の『ボーナス』に出演し、テレビ草創期から活動。 芸名は、ジャズ喫茶やクラブ歌手として活動していた当時、同時期に活動していた歌手が「花園」「田園」など園の付く字の芸名を名乗っていた人が多かったことから「園」、佳也子はちょうどその当時読んでいた本の主人公の名から採った。 1960年には『水戸黄門 天下の大騒動』で映画デビュー。
大藤 正雄(おおとう まさお、1929年10月7日 - 20… 大藤 正雄(おおとう まさお、1929年10月7日 - 2012年2月1日)は、日本の医学者、医師。 千葉県東金町生まれ。旧制成東中学校、旧制浦和高等学校を経て、千葉大学医学部卒、同大学院博士課程修了、1959年医学博士。千葉大学助教授、教授、1996年定年退官、名誉教授。放射線医学総合研究所、国保成東病院。さんむ医療センター顧問。海堂尊は大藤を心の師と呼んでいる。
海老原 義彦(えびはら よしひこ、1928年(昭和3年)10… 海老原 義彦(えびはら よしひこ、1928年(昭和3年)10月7日 - )は、日本の官僚、政治家。元総理府次長。元参議院議員。日本会議代表委員。
志水 晴児(しみず せいじ、1928年(昭和3年)10月7日… 志水 晴児(しみず せいじ、1928年(昭和3年)10月7日 - 2005年(平成17年)1月21日)は、日本の彫刻家。石造彫刻を中心に、建築や広場などで環境彫刻も手がけた。東京都出身。東京芸術大学卒。
山根巴(やまね ともえ、1928年10月7日- )は、日本… 山根巴(やまね ともえ、1928年10月7日- )は、日本の日本近代文学研究者、相模女子大学名誉教授。 広島県比婆郡西条町(現東広島市)出身。1954年広島大学文学部国文科卒、1959年同大学院博士課程満期退学。相模女子大学助教授、教授。99年定年、名誉教授。長塚節、中村憲吉など近代の歌人について研究した。
高森 隆勝(たかもり たかかつ、1927年10月7日 - 2… 高森 隆勝(たかもり たかかつ、1927年10月7日 - 2006年9月4日)は京都府出身の北海道大学名誉教授。工学博士(北海道大学)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武井 良平(たけい りょうへい、1925年10月7日 - 2… 武井 良平(たけい りょうへい、1925年10月7日 - 2020年3月26日)は、日本の実業家。元帝国繊維社長。 神奈川県南足柄市のみかん農家に生まれた。旧制県立小田原中学(今の神奈川県立小田原高等学校)、慶応義塾大学経済学部卒業後、1952年富士銀行入行、1972年に浜松支店長を務めた。帝国繊維の社長、会長を務め、72歳で退職。日本における麻織物の発展に努めた。日本工業倶楽部俳句会で稲畑汀子に師事し、2001年第18回朝日俳壇賞受賞。2020年3月26日94歳で死去。
西川 俊男(にしかわ としお、1925年(大正14年)10月… 西川 俊男(にしかわ としお、1925年(大正14年)10月7日 - 2015年(平成27年)1月1日)は、日本の実業家。元名古屋商工会議所副会頭。元日本チェーンストア協会会長。元中京大学ビジネススクール客員教授。 愛知県愛知郡下之一色町(現:名古屋市中川区下之一色)生まれ。「西川屋」(現:ユニー)の創業者、西川長十の三男。岐阜薬学専門学校(現:岐阜薬科大学)卒業。日本薬化学勤務を経て、家業の衣料品店西川屋の経営に参加。1963年(昭和38年)「西川屋チェン」を設立し、取締役に就任。兄である社長の西川義雄と共に店舗のチェーン化をすすめる。 1971年(昭和46年)名古屋のスーパー「ほていや」と合併し、ユニーを設立、副社長。
田中 里子(たなか さとこ、1925年10月7日-2007年… 田中 里子(たなか さとこ、1925年10月7日-2007年3月28日)は、市民運動家、元全国地域婦人団体連絡協議会事務局長。 東京都京橋生まれ。1945年実践女子専門学校卒。在学中は学徒動員で「風船爆弾」を作るも、東京大空襲の影響で世田谷に移住する。 生田花世の松花塾で詩や短歌を習い、山高しげりのもとで1952年から全地婦連事務局に勤め、1963年、事務局長(1986年まで)。国民生活審議会委員。原水爆禁止の3団体(原水禁、原水協、市民運動)の統一行動に挺身した。 1978年、第1回国連軍縮特別総会において日本代表として演説した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
後藤 俊彦(ごとう としひこ、1925年10月7日 - 20… 後藤 俊彦(ごとう としひこ、1925年10月7日 - 2010年5月15日)は、日本の経営者。阪神銀行頭取、会長を務めた。東京都出身。 1950年に東京大学経済学部経済学科を卒業し、同年に神戸銀行に入行した。1975年5月に太陽神戸銀行取締役に就任し、1978年6月に常務を経て、1982年10月には浦井和男社長の死去に伴い、阪神相互銀行社長に就任した。1989年2月には阪神銀行頭取に就任。1991年6月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1994年6月から相談役を務めた。 1992年11月に藍綬褒章を受章した。 2010年5月15日肺炎のために死去。84歳没。
平井龍明(ひらい たつあき、1925年10月7日 - )は日… 平井龍明(ひらい たつあき、1925年10月7日 - )は日本の大蔵官僚。 大蔵省国際金融局総務課長、アジア開発銀行日本理事(第2代)、大臣官房審議官(国際金融局担当)、関東財務局長、ソニー・プルデンシャル生命社長などを務めた。 第三高校から東京大学に入学。1947年12月:大蔵省仮入省(事務取扱嘱託)。東京大学法学部政治学科卒業。1948年3月:大蔵省本入省(主計局)。1950年4月から東京国税局調査査察部、大阪国税局調査査察部で査察関係の仕事に携わった。 1959年7月 主計局。同年8月 主計局主計官補佐(運輸、国鉄係主査)。1962年6月 主計局総務課長補佐。1963年5月 行政管理庁行政管理局管理官。
河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年… 河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年1月30日)は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手。 高岡中学校(現:富山県立高岡高等学校)では「富山球界一の投手」として話題になる。しかし、在籍中は高岡商業や富山商業の前に敗れ、甲子園には縁が無かった。最上級年においては、1941年の甲子園は戦争のために中断となり、富山県では予選すら行われなかった。高岡中時代は、「嘆きのエース」とも呼ばれていた。卒業後、満州に渡り、満鉄倶楽部に所属した。戦後は、母の故郷である北海道に住み小樽野球協会に所属。1948年には、第19回都市対抗野球大会に出場している。この都市対抗野球では、小樽野球協会は初戦となった対西日本鉄道戦で敗れ敗退した。
今井 宏(いまい ひろし、1924年(大正13年)10月7日… 今井 宏(いまい ひろし、1924年(大正13年)10月7日- )は、日本の法学者(商法)。法学博士(京都大学・論文博士・1975年)。元九州大学教授。姫路獨協大学名誉教授、大阪府立大学名誉教授。弁護士。2024年4月17日没 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
平野 一郎(ひらの いちろう、1924年10月7日 - )は… 平野 一郎(ひらの いちろう、1924年10月7日 - )は、ジャーナリスト、人権問題研究者。 京都府生まれ。1944年神戸経済専門学校卒、1949年朝日新聞社入社、66年大阪本社通信部長、67年東京本社内政部長、69年大阪本社通信部長、73年同編集局次長、76年名古屋本社編集局次長、のち局長、79年朝日カルチャーセンター(大阪)社長、88年定年、相談役。1988-96年愛知大学教授。94年世界人権問題研究センター理事、96年大阪人権博物館館長。
志岐 守哉(しき もりや、1924年10月7日 - 1994… 志岐 守哉(しき もりや、1924年10月7日 - 1994年1月9日)は、日本の経営者。三菱電機社長、会長を務めた。福岡県大川市出身。 1947年に東京大学工学部電気工学科を卒業し、同年に三菱電機に入社した。1979年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1985年6月に社長に就任し、1992年6月に会長に就任した。 日本電機工業会会長、日本電子機械工業会会長、トロン協会会長、経団連常任理事、経済同友会幹事なども歴任した。 1986年に毎日工業技術賞を受賞し、1989年に藍綬褒章を受章した。 1994年1月9日消化管出血のために死去。69歳没。
青木 富夫(あおき とみお、1923年(大正12年)10月7… 青木 富夫(あおき とみお、1923年(大正12年)10月7日 - 2004年(平成16年)1月24日)は、日本の俳優。松竹蒲田撮影所時代に名子役として活躍した。 横浜市に生まれ、実家が経営していた酒場に松竹蒲田撮影所の俳優が出入りしていたのが縁で、撮影所によく遊びに行くようになった。 1929年(昭和4年)、ここで小津監督に見いだされ、小津の『会社員生活』に出演。同年、主演した『突貫小僧』が大ヒットし、松竹蒲田の子役スターとなった。12月には『全部精神異常あり』(斎藤寅次郎監督)に出演、斎藤監督のナンセンス喜劇でも重用された。 1931年(昭和6年)から芸名を「突貫小僧」と改める。 以降、小津監督作品に12本に出演したほか、成瀬巳喜男監督、斎藤寅次郎監督、清水宏監督、五所平之助監督の名作や話題作に立て続けに出演。
巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日… 巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日 - 2021年(令和3年)1月31日)は、日本の実業家。住友銀行頭取を歴任したほか、マツダ再建に尽力したことでも知られる。福井県出身。旧姓は中野。 旧制京都府立桃山中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年京都大学法学部を卒業後、住友銀行入行。 1963年平野支店長、本店営業部次長、一宮支店長、1968年審査第二部長、1971年審査第一部長、融資部長を経て、1972年取締役。1975年常務取締役。1979年代表取締役専務。1982年副頭取。 1975年に東洋工業(現:マツダ)の再建を担当。同社とフォード・モーターの資本提携交渉では橋渡しを務め、米国の独占禁止法の審査では英語で証言に臨むなど奔走した。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 19… 齋藤 次郎(さいとう じろう、1923年10月7日 - 1986年6月2日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や長崎地方裁判所長、福岡高等裁判所部総括判事などを務めた。水俣病第一次訴訟の裁判長を務めた。 熊本地方裁判所勤務時には水俣病第一次訴訟に携わり、初めてチッソの過失責任を認める判決を下した。その際、チッソと水俣病患者家族互助会との間で1959年に結ばれた見舞金契約によって支払われた金銭は「お見舞い」であって補償金ではないため、これをもって賠償とするのは金額が低く公序良俗に反するため無効との判断を示し、弁護士費用も含め9億3千万円の賠償を命じた。この額は他の四大公害病訴訟の中では最高額となる。
岩田 巌(いわた いわお、1923年10月7日 - 1986… 岩田 巌(いわた いわお、1923年10月7日 - 1986年5月22日)は、日本の実業家。 北海道出身。岩田徳治の長男。子息に岩田圭剛がいる。1944年に明治大学商学部を卒業したが、軍に召集を受けた。 1946年に復員後、岩田組に入社した。1949年に岩田建設専務取締役となり、1960年同社長に就く。 江別大橋、幌平橋、豊水橋、雁来大橋などを手掛け、父に続いて「橋の岩田」と称された。また北海道学芸大学附属小学校・北海道学芸大学附属中学校、北海道立図書館などを手掛けた。 公職として札幌建設業協会理事・北海道建設業協会理事(以上1972年就任)、札幌建設業協会副会長(1981年就任)を務め、1982年には札幌建友会会長に就任した。
山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10… 山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10月7日 - 2014年(平成26年)6月4日)は、日本の著述家。山本五十六記念館名誉館長。山本五十六(日本の海軍軍人)の長男。母は山本礼子。 1922年(大正11年)、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町で生まれた。父・山本五十六が結婚5年目の38歳の時の待望の嫡子であった。山本家は結婚当初は、青山高樹町、以後、千駄ヶ谷、霞ヶ浦、鎌倉、青山南町と移り住み、霞ヶ浦時代には妹・澄子も誕生した。義正は、ハリス記念鎌倉幼稚園から鎌倉第一小学校に通い、その後、父・五十六の切望であった東京府立一中(現・日比谷高)入学の為に、青山南町に一家で引越し、比較的合格率の高かった青南小学校に六年生の一年間通った。
旦弘昌(だん ひろすけ、1922年10月7日 - 2006年… 旦弘昌(だん ひろすけ、1922年10月7日 - 2006年1月1日)は、日本の大蔵官僚。関税局総務課長、大臣官房審議官(大臣官房担当)、国際金融局次長、関税局長、国際金融局長、日本銀行理事などを務めた。 満州営口市生まれ(父母は岡山県真庭郡勝山町出身)。第一高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に入学するも1943年12月 臨時招集となる。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校し、同年9月に卒業。1945年9月 海軍主計中尉。1946年3月 予備役。1947年12月 高等試験行政科。1948年9月 東京大学法学部政治学科を卒業し、大蔵省入省。
降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月… 降矢 敬雄(ふるや けいゆう、1921年(大正10年)10月7日 - 1993年(平成5年)7月14日)は、昭和期の農業協同組合指導者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県で生まれる。1939年(昭和14年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業。1943年(昭和18年)陸軍予備士官学校を卒業し、満洲国、フィリピンなどを転戦し、陸軍中尉で終戦を迎えた。 戦後、郵政事務官となり、全国特定郵便局従業員組合中央本部書記長、同副委員長を務めた。山梨県議会議員に選出され5期在任し、同議長も務めた。その他、山梨県森林組合連合会副会長・理事、同県農業協同組合中央会・信用農業協同組合連合会・経済農業協同組合連合会・全国共済農業協同組合連合会共通会長理事、家の光協会監事、全国新聞情報農業協同組合連合会理事、全国農業協同組合中央会理事などを務めた。
武部 文(たけべ ぶん、1920年(大正9年)10月7日 -… 武部 文(たけべ ぶん、1920年(大正9年)10月7日 - 2001年(平成13年)4月24日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。位階は正四位。 鳥取県米子市出身。1938年(昭和13年)鳥取県立米子商蚕学校(現鳥取県立米子南高等学校)商業科卒。1945年(昭和20年)米子郵便局に入局。1955年(昭和30年)鳥取県総評議長に就任し10期務めた。 1963年(昭和38年)第31回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から日本社会党公認で立候補し次点で落選。1967年(昭和42年)第31回総選挙で初当選。1986年(昭和61年)の第38回総選挙で落選。1990年(平成2年)第39回総選挙で復帰。
宮崎 啓一(みやざき けいいち、1920年10月7日 - 2… 宮崎 啓一(みやざき けいいち、1920年10月7日 - 2006年6月13日)は、日本の裁判官。徳島市生まれ。第二水俣病裁判の裁判長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
山下 徳夫(やました とくお、1919年10月7日 - 20… 山下 徳夫(やました とくお、1919年10月7日 - 2014年1月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 厚生大臣、内閣官房長官、総務庁長官、運輸大臣、衆議院議員などを歴任。 佐賀県伊万里市出身。山下徳次郎の長男として誕生。福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、明治大学専門部法科を経て、1944年、専修大学法学部卒業。 父の徳次郎は1926年に炭鉱向け材木店(現・ヤマシタ)を創業。大学卒業後の1947年に佐賀県議会議員に初当選。1949年に父の家業である山下徳次郎商店の代表取締役に就任する。その後、日本杭木協会理事や全国木材協会理事、佐賀県木材協会会長を歴任し佐賀県議会にて議員4期・議長2選を経て、1969年、旧佐賀県全県区から第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・林義郎・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2… 小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2006年10月16日)は、日本の化学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1943年東京文理科大学(現・筑波大学)化学科卒業。東京学芸大学教授。同大学名誉教授。文教大学教授。1977年東京学芸大学附属大泉中学校(現・東京学芸大学附属国際中等教育学校)校長。1992年勲三等旭日中綬章受勲。
松原 治(まつばら おさむ、1917年〈大正6年〉10月7日… 松原 治(まつばら おさむ、1917年〈大正6年〉10月7日 - 2012年〈平成24年〉1月3日)は、日本の実業家。紀伊國屋書店名誉会長などを務めた。 山口県佐波郡徳地町(現在の山口市)に軍人の息子として生まれる。のちに父は電柱の銘板を取り扱う会社を経営していた。 大阪市築港南尋常高等小学校を卒業した1930年(昭和5年)、大阪府立市岡中学校(旧制)に入学。旧制浪速高等学校を経て東京帝国大学法学部に進む。同期に中曾根康弘がいた。 卒業後は南満洲鉄道に入社するも召集を受け、陸軍経理学校を首席卒業。中国各地を転戦し、陸軍主計中尉として太平洋戦争の敗戦を迎える。 復員後、1946年、大日本塩業株式会社に取締役業務部長として入社。
人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 200… 人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 2000年11月4日)は、日本の教育者、学校法人昭和女子大学の第2代理事長、昭和女子大学第5代学長。1974年から死去した2000年まで26年間にわたり長く学園経営のトップであり、学外での役職も数多く歴任し、「カリスマ理事長」として知られた。 岡山県出身。父は、詩人で昭和女子大学創設者の人見東明(圓吉)。 旧制第四高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部を卒業。旧制第八高等学校の漢文講師などを経て、1946年に父が経営する学園(後の学校法人昭和女子大学)に入り、1951年に関連法人である学校法人昭和高等学校に付設された昭和幼稚園の主事、次いで同法人が設けた昭和小学校の主事となり、1960年には第2代幼稚部園長となった。
本間 一夫(ほんま かずお、 1915年(大正4年)10月7… 本間 一夫(ほんま かずお、 1915年(大正4年)10月7日 - 2003年(平成15年)8月1日)は、日本点字図書館の創立者。点字図書・録音図書の製作と貸出を主とする図書館事業に取り組み、視覚障害者の読書環境向上に貢献した。 北海道増毛町の商家丸一本間家に生まれる。1920年(大正9年)、脳膜炎にかかり視力を失う。1929年(昭和4年)、函館盲唖院に3年生として入学。点字を知る。琵琶の稽古を始める。1932年(昭和7年)、北海道弁論大会で2位を取る。演題は「明日の希望に生きよ」。1933年(昭和8年)、函館の組合教会で岩橋武夫の講演を聴く。東北・北海道弁論大会で1位を取る。演題は「聞け黎明に高鳴る響きよ」。
吉村 吉雄(よしむら よしお、1915年(大正4年)10月7… 吉村 吉雄(よしむら よしお、1915年(大正4年)10月7日 - 1997年(平成9年)9月9日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。位階は正五位。 福島県安積郡、のちの郡山市で生まれる。1941年(昭和16年)国鉄中央教習所専修部を修了した。 日本国有鉄道郡山工場技術掛となる。その後、国鉄労働組合郡山市工場支部執行委員長、同仙台地方本部執行委員長、同中央執行委員、福島県労働組合協議会副議長、郡山市開発審議会委員、郡山市公平委員、福島県労働対策審議会委員などを務めた。 1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙で福島県第1区から日本社会党公認で出馬し初当選。次の第30回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月… ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本のプロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級王者。次兄から順に、基治、宏(元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏)、喬久という堀口4兄弟(いずれもプロボクサー)の長兄。孫は元ボクサーの堀口昌彰で、日本ライト級2位に格付けされていた。現在はピストン堀口道場の指導者を務める。 「ピストン堀口」の呼称は正式なリングネームではなく、あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、いつの頃からか「ピストン・堀口恒男」との異名が新聞記事などで使われるようになり、一般に「ピストン堀口」の呼称が定着してしまった。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
今井 功(いまい いさお、1914年(大正3年)10月7日 … 今井 功(いまい いさお、1914年(大正3年)10月7日 - 2004年(平成16年)10月24日)は、日本の物理学者(流体力学)。理学博士(論文博士・1943年)。文化勲章受章者。航空機の飛行に関係した空気力学の基礎理論において大きな業績を上げた。 1914年に関東州大連に生まれ、神戸市で育った。幼少時より学業に秀で、跳び級制度により小学校5年修了で第一神戸中学校に入学した。1年の飛び級で卒業し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科で寺沢寛一教授に師事、1936年に卒業。 卒業してからは、しばらく大阪帝国大学理学部の友近晋教授のもとで助手を務め、2年半のちに東大へ講師として戻り、1942年に助教授、1950年に教授に昇進した。
大池 弥三郎(おおいけ やさぶろう、1913年10月7日 -… 大池 弥三郎(おおいけ やさぶろう、1913年10月7日 - 1997年12月22日)は日本の医学者。専門は内科学。弘前大学元学長、日本脳卒中学会元会長。長野県出身。 著書に『脳卒中の臨床と研究』がある。
水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10… 水野 健次郎(みずの けんじろう、1913年〈大正2年〉10月7日 - 1999年〈平成11年〉4月15日 )は、日本の実業家。ミズノ社長・会長を務めた。父はミズノ創業者の水野利八(次男)。長男はミズノ会長の水野正人、次男はミズノ社長の水野明人。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1936年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業。大日日本電線での勤務を経て、1942年5月に美津濃取締役に就任。1947年に副社長に就任し、1969年には社長に昇格した。社長在任時には、1969年にアメリカに現地法人を設立するなど、ミズノを世界有数のスポーツ用品メーカーに育て上げた。1988年に会長に就任。 1972年から1994年までに関西経済同友会幹事を務めた。
島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正… 島村 千枝子(しまむら ちえこ、旧姓:生越、1912年〈大正元年〉10月7日 - 1976年〈昭和51年〉9月2日)は、日本のピアニスト。 元東京音楽学校教授。元武蔵野音楽大学音楽学部教授。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校ピアノ科卒業。東京都出身。息子は地震学者の島村英紀。 東京都出身。1937年(昭和12年)に東京音楽学校ピアノ科を卒業した。 1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで東京音楽学校で教鞭を執り、その後は武蔵野音楽大学音楽学部や徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 1976年(昭和51年)9月2日、死去。享年63。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
吉倉 真(よしくら まこと、1911年10月7日 - 200… 吉倉 真(よしくら まこと、1911年10月7日 - 2003年3月27日)は、日本のクモ学者。正字では眞。福井県出身。 1911年、福井県生まれ。1943年広島文理科大学卒業。阿部余四男教授の下、「ジグモの糸腺の組織学的研究」という卒業論文を作成。熊本大学名誉教授、九州クモの会会長。1984年、勲三等旭日中綬章を受章。2003年3月27日午後1時10分、老衰のため岐阜市の病院で死去(自宅は岐阜県各務原市)。91歳没。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
安斎 実(あんざい みのる、1911年10月7日 - 199… 安斎 実(あんざい みのる、1911年10月7日 - 1997年12月22日)は、ライフル選手、砲術史研究家。 東京出身。暁星中学校卒、1935年明治大学卒。中学時代から射撃を始め、1950年全日本選手権、51年国体で優勝、1969年JOC常任委員、監督としてオリンピックに六回出場、86年のアジア大会では選手団長、87年日本ライフル射撃協会会長、のち名誉会長。三協食品工業勤務、相談役。砲術史についても著作がある。
安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 1… 安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 10月7日 - 1995年 <平成7年> 9月15日)は、日本の裁判官。位階は正三位。 神奈川県立横浜第三中学校、東京帝国大学法学部卒業。1935年に司法官試補となり、東京地裁判事、宇都宮地・家裁所長、最高裁首席調査官を経て、1971年10月から東京地裁所長、1973年2月に最高裁事務総長、1974年12月に東京高裁長官に就任。1975年10月に定年退官。 1976年4月に法制審議会監獄法改正部会部会長を務め、代用監獄制度について1979年11月に運用を改善する事で存続するという結論を出した。1979年3月に日本プロ野球選手会初代理事長に就任。
井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1… 井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1973年10月5日)は、日本の農業経済学者。 山口県出身で税関長などを務めた井上徳太郎の二男として兵庫県神戸市中山手通二丁目の税関官舎で生まれる。 五高を経て、1934年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、農林省に入る。立田信夫の筆名で講座派マルクス主義の立場から協同組合論などを展開。1938年に中華民国出張、39年から興亜院技師、43年に帰国、農林省米穀利用研究所技師。戦後の1946年農政局経営課長となり農地改革を進めるが49年レッドパージで農林省を追われ、10年間東畑精一会長の農業発達史調査会メンバーとして「日本農業発達史」の編集、執筆に従事。
橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10… 橋本 作市(はしもと さくいち、1905年〈明治38年〉10月7日 - 1973年〈昭和48年〉5月27日)は、昭和時代の政治家。北海道留萌市長(2期)。 北海道出身。1929年(昭和4年)北海道帝国大学水産専門部卒業。留萌町に奉職し、資源課長などを歴任した。 その後、留萌町助役を経て、1947年4月、留萌町議会議員となり、翌月には副議長となる。同年10月留萌市発足により、留萌市議会議員、同副議長に就任した。1951年の留萌市長選挙に立候補したが、現職の原田太八に敗れ落選した。 1954年2月に前市長の原田太八が任期途中で辞職したことに伴う翌3月の市長選挙には橋本作市、小澤久吉、城川徹郎の3人が立候補し、橋本は初当選を果たす。
斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉… 斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉10月7日- 1979年〈昭和54年〉12月15日)は、元将棋棋士。1966年に日本将棋連盟を退会、連盟在籍時は石井秀吉七段門下。 1904年、東京府城東区(現:東京都江東区)大島町で生まれる。 1927年に二段で石井秀吉に入門。1929年(昭和4年)に四段。 1937年(昭和12年)に八段。第2期名人戦(1937年 - 1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加。1965年(昭和40年)に引退。 引退後の1966年8月20日に、「一身上の都合」により日本将棋連盟を退会した。退会に際し、日本将棋連盟は将棋雑誌に「お知らせ」を掲載した。
森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 198… 森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 1981年2月20日)は、日本のヤクザ。森川組初代。四代目山口組舎弟・矢嶋長次は、娘婿。愛媛県川之江町(現:四国中央市)出身。 明治37年(1904年)10月7日、愛媛県川之江町(現:川之江市)で生まれた。生家は士族の旧家だったが、すでに没落していた。幼少期には、メンコに熱中した。 その後、森川鹿次は、松山市に出て、呉服屋に丁稚奉公した。 大正14年(1925年)、森川鹿次は、妹・悦子と妹婿の檜垣信太郎とともに、満州大連に移り住んだ。森川鹿次と檜垣信太郎は、クリーニング屋を隠れ蓑にして、大連で拳銃を買い集め、大阪に密輸した。森川鹿次は、税関吏・宮内を買収していた。
曽根原 弘(そねはら ひろし、1902年(明治35年)10月… 曽根原 弘(そねはら ひろし、1902年(明治35年)10月7日 - 1939年(昭和14年)4月25日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台中市尹。 長野県北安曇郡大町(現・大町市)に生まれる。長野県立大町中学校、松本高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治科に入学。在学中の1925年(大正14年)11月高等試験行政科に合格し、翌年大学を卒業し、渡台する。 台湾総督府専売局書記として庶務課勤務を皮切りに、専売局副参事、台北州七星郡守、台南州虎尾郡守を経て、1933年(昭和8年)10月、台中市尹に就任した。ついで1935年(昭和10年)9月、台南州内務部教育課長に転じた。1939年4月、台湾総督府税関長在任中に死去した。
宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 198… 宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 1986年10月11日)は、日本の天文学者、理学博士。 広島県因島市(現・尾道市)出身。旧制第六高等学校を経て、1925年東京帝国大学理学部天文学科卒業。ジャワ島ボスカ天文台長、東京天文台国際報時所研究主任を経て東京大学教授兼東京天文台技官となり、東京天文台長を務めた。1964年測地学審議会長となり、日本地図センター長も務めた。
村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7… 村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7日 - 1975年〈昭和50年〉3月2日)は、日本の詩人。日本現代詩人会会長。理研コンツェルン役員。長男はセイコー株式会社代表取締役社長を務めた村野晃一。 東京北多摩郡多磨村に生まれた。父、兄たちが、それぞれ俳句や短歌を作るという文学的環境に育った。慶大理財科を卒業したが、詩への情熱は強く、1926年に第1詩集『罠』を刊行。ドイツ近代詩の影響を受け、モダニストの立場を鮮明にした。 頭で考えるのではなく、実際の物に即して考えるという新即物主義にもとづいた『体操詩集』は、人間存在と社会と宇宙の関係をとらえた画期的な詩集。戦後は独自の歩みをつづけ、「不在の神への近接」という実存的な詩境に達した。
曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 19… 曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 1991年1月2日)は、日本の東洋史学者。 徳島県美馬郡美馬町(現美馬市)出身。1927年京都帝国大学文学部史学科卒、1947年「宋代財政史」で文学博士。 京都帝大副手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1940年教授。東北大学教授、1965年定年退官し名誉教授。1966年国士舘大学教授。1973年退職。
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月… 太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。
江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1… 江頭 恒治(えがしら つねはる、1900年10月7日 - 1978年10月5日)は、日本の経済学者。滋賀大学名誉教授。 佐賀県生まれ。1924年佐賀高等学校を卒業。同年、京都帝国大学経済学部に入学し、本庄栄治郎のもとで日本経済史を学び、1927年卒業。浪速高等学校講師などを務めたのち、1933年黒正巌が開設した日本経済史研究所の所員となる。1937年、満州建国大学助教授、1940年に同大学教授。戦後、1947年2月に彦根経済専門学校講師となり、翌3月同校教授。1949年に同校が新設の滋賀大学に包摂されると、同大学教授となり、兼ねて同大学彦根経済専門学校教授に任ぜられる。1961年、定年退官、名誉教授。