久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10… 久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10日 - 1935年〈昭和10年〉3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の兄(次兄)、第125代天皇・明仁(上皇)の伯父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大伯父にあたる。 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。
伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3… 伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3月10日 - 1981年〈昭和56年〉6月12日)は、日本の運輸官僚・政治家。運輸事務次官に任じられたのち国政に転身し、参議院議員となり、防衛庁長官などを歴任した。 千葉県佐原町(現在の香取市)川岸に生まれる(ただし、本籍は同県中山村北方(現在の市川市北方)にあった)。 第四高等学校・東京帝国大学英法学科を経て、1926年(大正15年)に鉄道省入省(東鉄局書記)、1935年(昭和10年)より在外研究員として欧米各国の交通事情を調査、帰国後の1939年(昭和14年)には鉄道監察官に任じられる。 その後、1943年(昭和18年)運輸通信省書記官兼大臣官房文書室長、翌年には門司鉄道管理局長を歴任、戦後には運輸省鉄道総局長官となった。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月1… 明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月10日 - 1979年〈昭和54年〉11月16日)は、昭和時代前期の内務官僚、台湾総督府官僚。旧名は俊雄。 東京市蒲田区萩中(現・大田区萩中)に生まれる。荏原中学校、国勢院統計講習所を経て、1922年(大正11年)4月、中央大学法律科正科を卒業する。社会局、復興局、社会局保健部管理課を経て、1931年(昭和6年)7月、地方理事官に進み、福島県、三重県と転々とする。ついで1935年(昭和10年)4月、沖縄県宮古支庁長に就任した。 のち渡台し、1939年(昭和14年)4月、台湾総督府地方理事官に任ぜられ、台中州竹山郡守となり、ついで台東庁総務課長を経て、1942年(昭和17年)4月、宜蘭市長に就任した。
田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月1… 田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月10日 - 1935年(昭和10年)4月20日)は日本の小説家。本名は涌島コヨ(わくしまこよ)。鳥取県気高郡逢坂村(現在の鳥取市気高町)出身。大正初期より『女子文壇』、『文学世界』などに短歌や散文などを投稿。1915年(大正4年)、山陰日日新聞社へ入社し県下初の女性新聞記者になる。同年文芸誌『我等』同人となり雑誌や新聞に多くの作品を投稿し文学青年の崇拝を集める。若き女流作家として将来を期待されたが、持病のためその後は多くの作品を残すことはなかった。地元鳥取でも知名度は高くなかったが、2023年に米子市出身の作家・三上幸四郎の江戸川乱歩賞受賞作『蒼天の鳥』で、娘の田中千鳥とともに取り上げられ知られるようになった。
石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10… 石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10日 - 1950年(昭和25年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 千葉県出身。東京私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を卒業し歩兵第75連隊中隊長に発令された。 1928年(昭和3年)8月、支那駐屯軍司令部付となる。参謀本部員、参謀本部付(支那研究員・南京在勤)を経て、1932年(昭和7年)2月から同年5月まで上海派遣軍参謀として第一次上海事変に出動した。
松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 19… 松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本の実業家。元三越社長。 香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。 両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した。 1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。
中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月1… 中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月10日 - 1977年(昭和52年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県出身。地主・中野佐太郎の長男として生まれる。小城中学校(現佐賀県立小城高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第8連隊中隊長に就任した。 1927年(昭和2年)12月、参謀本部付勤務(通信課)となり、参謀本部員、関東軍参謀を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3… 亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3月10日 - 昭和20年(1945年)10月11日)は日本のドイツ文学者。東京高等学校教授。 鳥取県米子市糀町出身。家業は足袋製造業。亀尾定右衛門の四男。 米子中学校、岡山の第六高等学校を経て、大正10年(1921年)、東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手となる。1919年、坪田譲治、相良守峯らと『地上の子』を創刊する。 ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン『ゲエテとの対話』を完訳して世に問うたのは大正11年(1922年)、27歳のときである。 大正14年(1925年)東京高等学校教授となる。
楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - … 楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - 1973年7月16日)は、秋田県仙北郡南外村(現在の大仙市)出身で湊川部屋(入門時は追手風部屋)に所属した力士。本名は佐藤 政吉(さとう まさきち)。171cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は右四つ、押し。 入門する前は盛岡高等農林学校で相撲選手として活躍していたが、郷里の地主と父に勧められて追手風部屋へ入門、1914年1月場所で初土俵を踏む。1916年に湊川部屋独立に際して移籍、1918年5月場所十両昇進。1923年1月場所に入幕、勝率4割程度ながら筆頭まで進んだ。前捌きのうまさが知られていた。1927年の師匠の死去により、部屋の後継候補にも目されたがかなわず、1927年10月場所限りで廃業した。
北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 195… 小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 1955年2月11日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 立ち技を中心にして隆盛を極めた大正・昭和期の講道館にあって、それまでの古流柔術等を更に発展させた常胤流と呼ばれる独自の寝技技術を構築、旧制第二高校や旧制第四高校を指導して高専柔道の発展に大きく貢献し、寝技の大家と知られた。なお、名の正確な読みは「つねたね」だが、文献によっては「じょういん」とも記されており、海外でもそちらの名がよく通っている。 山梨県南都留郡船津村(のちの河口湖町、富士河口湖町)の浅川に生まれた。当時の南都留郡には中学校が無かったため、親族を頼って静岡県立沼津中学校(のちの静岡県立沼津東高等学校)に入学し、ここで柔道を始めた。
出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 -… 出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日) は、日本の哲学者。 岡山県苫田郡津山町(現津山市)で、渡部惟明(元鶴山高等小学校校長)の次男として生まれる。津山中学校在学中に叔父・出道直の養子となる。第六高等学校を経て東京帝国大学卒業、大学院に入り、副手を嘱託される。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝国大学助教授となり、1925年より二年間、英国、およびドイツに留学。 1928年(昭和3年)、立教大学文学部教授に就任し、哲学史(古代哲学)や哲学演習を担った。
塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月… 塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月10日 - 1966年(昭和41年)12月17日)は、大正から昭和期の雑誌編集者、政治家。衆議院議員。 大分県大野郡三重村(三重町を経て現豊後大野市)で、塩月古五郎の長男として生まれる。故郷や大分の呉服店に奉公後、19歳で上京。苦学して、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 安田保善社に入社し、その後、秘書課長に就任。政界入りを目指して安田保善社を退職し、第一出版社を経営し、日本青年社を創立し雑誌『青年日本』を発刊した。 1929年(昭和4年)東京市疑獄事件を受けて実施された東京市会議員選挙に出馬して最高点で当選。
菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - … 菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - 1977年4月7日)は、日本の経営者。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。 1917年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に住友総本店に入社。1948年に住友本社清算人となり、住友不動産で社長、常務監査役を歴任した。 1977年4月7日、心不全のために死去。85歳没。
冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日… 冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日 - 1957年(昭和32年)3月13日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。富田とも表記されている。 千葉県天羽郡湊町桜井(君津郡湊町、天羽町、富津町を経て現富津市桜井)で、富田伊三郎、たく の三男として生まれる。湊小学校分教場和合小学校を経て、1907年(明治40年)天羽農学校(現千葉県立天羽高等学校)を卒業し家業に従事した。 1908年(明治41年)9月、君津郡役所の要請で湊小学校の代用教員に就任。準教員を経て1910年(明治43年)教員検定試験に合格し訓導となる。その後、木更津町真舟小学校訓導、君津郡中村小学校訓導を歴任。
上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治… 上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月18日)は日本の実業家。中外製薬創業者・元代表取締役社長。位階は正五位。 鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥。 1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。 その後貿易会社の大正貿易商会紐育(ニューヨーク)支店長を務めたが、会社が倒産。関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立。1942年に中外製薬に改組・改名。
池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 19… 池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任。 1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる。 長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している。
関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 … 関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長(2期)。 新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ。1906年(明治39年)新潟県高田師範学校卒。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する。 1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する。※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts) 同年4月10日に就任した。
中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - … 中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。芸術院会員。毎日芸術大賞・朝日文化賞受賞。文化功労者。文化勲章受章。 1890年(明治23年)3月10日、現在の静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。
太田 藤太郎(おおた とうたろう、1889年〈明治22年〉3… 太田 藤太郎(おおた とうたろう、1889年〈明治22年〉3月10日 – 1973年〈昭和48年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 明治44年(1911年)、陸軍士官学校・第23期・歩兵科を卒業し、任官後弘前歩兵第31連隊 に入隊。大正14年(1925年)から山形及び秋田の諸学校で配属将校として勤務する。満州出征後の昭和12年(1937年)に陸軍歩兵大佐となり、以後、敦賀連隊区司令官、歩兵第16旅団長、新潟連隊区司令官、浦和連隊区司令官兼地区司令官、等を歴任。この間、陸軍少将まで進級した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 昭和48年(1973年)卒去し新潟の起願寺に葬られた。
永海 佐一郎(ながみ さいちろう、1889年3月10日 - … 永海 佐一郎(ながみ さいちろう、1889年3月10日 - 1978年1月13日) は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。隠岐の島町名誉町民。 島根県隠岐島中町出身。西郷町小学校を経て、松江市の旧制中学校を2年で中退後、東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科見習職工として加藤与五郎の化学助手を務めた。新潟県長岡市立商業高校(現新潟県立長岡商業高等学校)教師を経て、1917年東北帝国大学理学部卒業、講師。1926年理学博士。東北帝国大学助教授、東京高等工業学校教授、東京工業大学教授を経て、1949年定年退職、東京工業大学名誉教授。西郷町に帰郷し研究に従事した。1968年勲三等旭日中綬章受章。
奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治… 奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治20年)3月10日-1967年(昭和42年)10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会(日弁連)会長、第二東京弁護士会(二弁)会長を歴任。在野法曹界の元老格だった。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民(旧・名瀬市名誉市民)。 鹿児島県にある徳之島の亀津(現・大島郡徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校卒業(現・徳之島町立亀津小学校)。沖縄県にわたって学資をかせぎ、遭難のすえ宮崎県に漂着して鹿児島県本土経由で上京。東京で弁護士事務所の書生をしながら正則英語学校の夜学に通い、後にドイツ語教授の住み込み書生に転じて京華中学校 (旧制)卒業。1906年(明治39年)の旧制高等学校試験に合格。
金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 -… 金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は、日本の牧師。 1887年、長野県南安曇郡上野村(現・松本市)に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、第一高等学校に入学、一高時代に、新渡戸稲造校長の感化を受けて、求道して、山室軍平の説教に感動して、松本教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難する。それをきっかけに伝道者になる決意をして、東京神学社に入学。 東京神学社卒業後、一時、朝鮮仁川に開拓伝道に赴く、帰国して日本基督教会の伝道師として、高知教会、牧師になってからは山梨教会、市ヶ谷教会(現、日本基督教団池袋西教会)の牧師として活動する。 1917年(大正6年)の2月11日から15日日本基督教会主宰の山梨修養会では、中田重治と一緒に説教した。
吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - … 吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - 1948年4月12日)は、日本の物理学者。愛媛県出身。主な著書に「物理学」、「物理学実験」がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月… 吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月10日 - 1967年(昭和42年)3月1日)は、日本の内務官僚、実業家。政友会系官選県知事、鳥取市長、鳥取銀行頭取。 現在の鳥取市立川町出身。第一高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。日本銀行に入るが三カ月で退職。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、鳥取県八頭郡長、宮城県理事官、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務、同都市計課長兼鉄道書記官、兼土木局河川課長などを歴任し、1924年、大阪府書記官・内務部長に就任。 1927年11月、青森県知事に就任。
福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - … 福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - 1972年12月1日)は、日本の文学者、美術史家。東北大学名誉教授。 大学卒業後、50年以上にわたり文化財の調査、指定、保存に尽力。専門分野は仏教美術、尾形光琳、俵屋宗達、乾山、絵巻物、水墨画と多方面に及んだ。
鈴木 清太郎(すずき せいたろう、1886年(明治19年)3… 鈴木 清太郎(すずき せいたろう、1886年(明治19年)3月10日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の物理学者。農業気象の研究者。 1886年(明治19年)3月10日、香川県生まれ。東京帝国大学を卒業し、欧米に留学。1925年(大正14年)に九州帝国大学の教授となる。1942年(昭和17年)から1957年(昭和32年)まで日本農業気象学会会長を務めた。 1961年(昭和36年)、日本気象学会岡田賞を受賞。 1962年(昭和37年)、日本農業気象学会 永年功労会員(フェロー)。 1977年(昭和52年)3月3日、死去。90歳没。
丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月1… 丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月10日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、精神科学者。専門は精神分析学。元東北帝国大学医学部精神病学講座教授。弘前大学初代学長。医学博士。理学博士。東北大学名誉教授。 日本における精神分析学黎明期に活躍した人物である。アメリカでアドルフ・マイヤー教授に師事し、日本にひろく精神分析を紹介した。帰国後東北帝国大学にて精神分析学講義を始めた。またその精神分析的研究発表を巡っては森田正馬、下田光造らと激しい論争を繰り広げた。弟子に古沢平作、山村道雄、懸田克躬らがいる。 兵庫県人・丸井清太郎の7男として神戸市に生まれる。第四高等学校を経て、1913年、東京帝国大学医科大学を卒業し、青山胤通の東大青山内科に入った。
横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10… 横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10日 - 1971年(昭和46年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 長野県飯山市出身。陸軍士官学校第19期卒業。1925年(大正13年)3月、陸軍騎兵少佐に進級し、同年9月時点で陸軍騎兵学校附の任にあった。1924年(大正14年)9月時点で騎兵第13連隊附を発令され、成蹊高等学校兼成蹊実務学校配属となり、1928年(昭和3年)3月に近衛騎兵連隊附に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍騎兵中佐進級と同時に騎兵第16連隊附に着任した。1931年(昭和6年)3月に軍馬補充部十勝支部長に就任し、1933年(昭和8年)8月に騎兵第9連隊長(第9師団)に転補され、1934年(昭和9年)8月に陸軍騎兵大佐に進級した。
岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(… 岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(明治18年)3月10日 - 1946年(昭和21年)8月15日)は、日本の大正・昭和期における大蔵省官僚・銀行家。大蔵省官僚としては主に特殊銀行・植民地金融を担当した。滋賀県出身。 1885年(明治18年)3月10日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の三番目の妻・義子。八男七女の六男として誕生したが、長男・四男が夭折により対外的には四男と称す。 京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)より第四高等学校(1905年(明治38年)7月5日卒業)を経て、1909年(明治42年)7月10日東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。
中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1… 中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1951年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県出身。1911年東京帝国大学造船科卒。鉄道管理局技手、逓信局技師、手野村議、天草郡農会長、熊本県購買販売組合、同信用組合各連合会長、同森林組合連合会理事、産業組合中央金庫評議員、所得税調査委員、人事調停委員、借地借家調停委員、北天草電気(株)監査役、熊本県木材(株)取締役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では熊本2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本自由党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除から間もなく死去した。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月1… 前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月10日 - 1943年(昭和18年)4月10日)は、日本の逓信官僚。 三重県出身。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。翌年に高等文官試験に合格した。逓信局書記、通信事務官補、通信副事務官、逓信局副事務官、逓信局事務官、逓信書記官を歴任し、その間に和歌山郵便局長、京都中央電話局長、北海道逓信局総務部長、熊本逓信局監察課長、同監理課長、東京逓信局規画課長を務めた。さらに逓信局電話課長、電務局規画課長などを歴任。1927年(昭和2年)、仙台逓信局長に就任し、大阪逓信局長、東京逓信局長も務めた。1933年(昭和8年)、退官。
澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日… 安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。位階は正五位。学位は工学博士。 元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)出身。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1906年(明治39年)7月に鉄道作業局に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当。
佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月1… 佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月10日) - 1945年(昭和20年)5月17日、俗名:佐々木栄多)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京美術学校彫刻選科(後の東京芸術大学)を卒業。米国仏教協会(後の米国第一禅堂)を1930年にニューヨークに創設した。アメリカ合衆国での禅宗発展に影響を与えた指月は、米国で生活し指導を行った最初の日本人師家たちの一人である。1944年、米国人ルース・フラー・エヴェレットと結婚した。1945年5月、法嗣を残さずに死去。著名な彼の生徒の一人アラン・ワッツは、1930年代後半に短い間彼の許で学んだ。号は曹溪庵。 1882年、三重県に生まれた。
太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、… 橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、1879年(明治12年)3月10日 - 1936年(昭和11年)3月23日)は、日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸 頑鉄」(はしど がんてつ)。
長塚 忠策(ながつか ちゅうさく、1879年(明治12年)3… 長塚 忠策(ながつか ちゅうさく、1879年(明治12年)3月10日 - 1948年(昭和23年)9月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 茨城県北相馬郡稲戸井村(現在の取手市)出身。東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、1901年(明治34年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補として水戸区裁判所に勤務し、1903年(明治36年)からは判事として横浜区裁判所、前橋地方裁判所に勤務した。1906年(明治39年)に退官して、新治郡土浦町(現在の土浦市)に弁護士事務所を開いた。土浦町会議員を経て、1915年(大正4年)から茨城県会議員を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
草村 北星(くさむら ほくせい、1879年3月10日 - 1… 草村 北星(くさむら ほくせい、1879年3月10日 - 1950年5月25日)は、日本の小説家。明治期家庭小説の作家。 熊本県玉名郡高瀬村(現玉名市)生まれ。本名・松雄。父は地主で自由党員。熊本英学校卒業後上京、東京専門学校(現早稲田大学)に入学、1900年卒業し、小説を『明星』に載せる。1902年金港堂に入り編集に従事、1902年『浜子』を刊行、『青年界』『文藝界』を編集し文章を載せ、『新声』にも寄稿、1904年「東京朝日新聞」に「相思怨」を連載、金港堂を辞職。1905年『新声』を佐藤儀助から譲り受けて隆文館より刊行、1910年『百合子』を刊行して以後筆を絶つ。以後は隆文館ほかの出版事業に従事、大正末年隆文館を引退し龍吟社を設立。
井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日… 井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日 - 1920年(大正9年)6月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 熊本県熊本市出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。弁護士を開業し、熊本市会議員、熊本県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に肥後酒精株式会社監査役を務めた。
森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月1… 森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月10日 - 1964年(昭和39年)12月5日)は日本のキリスト教徒、学者。 樽井藤吉と森本ふさの三男として生まれ、キリスト教について学び、後に津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)を設立した。その他にも、学者の一面があり、現在、森本慶三記念館に慶三の遺物が展示されている。 津山一の素封家であった樽井藤吉の三男として岡山県伏見町に生まれる。京都府立洛北高等学校・附属中学校を卒業した後、兄の後を継いで家業の呉服商「錦屋」を営んだ。しかし商売は上手くいかなったため、子供の頃から生きる事に悩んでいたとされている。キリスト教徒である内村鑑三に救われ、自らもキリスト教に入信し、1900年に上京して内村に師事した。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1… 米沢 与三次(米澤 與三次、よねざわ よそじ / よさじ、1872年3月10日(明治5年2月2日)- 1947年(昭和22年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・伊東、幼名・貞三。 新川県新川郡沼保村(富山県下新川郡泊町沼保を経て現朝日町)で、伊東次郎左衛門祐明の三男として生れ、1890年12月、同郡入善町入善の米沢家の養子となり与三次と改名した。1895年、専修学校(現・専修大学)理財科卒。農業を営み、入善町農会長、入善商工会長、下新川郡教育会副会頭、泊銀行、入善銀行各頭取、入善倉庫、富山水力電気各(株)社長、生地銀行、富山県模範織物工場、小川温泉各(株)取締役、越中銀行、茨木商店各(株)監査役となる。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4… 藤山 常一(ふじやま つねいち、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1936年1月4日)は、日本の技術者。日本におけるカーバイド製造の祖とされる人物である。 佐賀県出身。藤山種廣の長男として生まれる。弟には機械工学者の田中不二がいる。 1898年に東京帝国大学工科大学電気学科を卒業した。1902年に仙台で野口遵とともにカーバイドの製造に着手した。1908年に欧州から戻り、渡欧中に研究完成した石灰窒素の製造法の特許を取得し、日本窒素肥料を設立し取締役に就任した。1912年に北海道に王子製紙苫小牧工場の隣接地に北海カーバイド工場を設立し、王子製紙の余剰電力でカーバイド、石灰窒素等を生産した。
松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3… 松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3月10日) - 昭和18年(1943年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 新潟県中頸城郡津有村(現在の上越市)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科卒業後、司法官試補、検事代理を経て、新潟・旭川・長岡の各区裁判所、新潟地方裁判所判事を歴任した。1902年(明治35年)に判事を退職し、弁護士を開業。新潟市弁護士会会長、新潟新聞監査役も務めた。 新潟市会議員・新潟県会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に新潟1区(小選挙区)から憲政会で出馬し、当選。以後、4回の当選回数を重ねた。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。