山口 岳志(やまぐち たかし、1934年1月13日 - 19… 山口 岳志(やまぐち たかし、1934年1月13日 - 1993年4月5日)は、日本の地理学者、東京大学教養学部教授。都市地理学と北アメリカ地域研究を専攻し、地理学における計量革命の初期段階にあったアメリカ合衆国やカナダなどにおける研究動向を日本の学界に紹介するとともに、日本における応用研究にも取り組み、主成分分析を用いた都市機能分類などで先駆的業績を挙げた。 福岡県生まれ。1952年、東京都立立川高等学校卒業。1958年、東京大学理学部地学科地理学課程卒業。同年、第1回カナダ政府留学生としてトロント大学大学院に留学、修士(MA)取得後、1960年からペンシルベニア州立大学大学院博士課程に学ぶ。
和田 直(わだ すなお、1934年1月13日 ‐ 2021年… 和田 直(わだ すなお、1934年1月13日 ‐ 2021年4月29日)は、三重県津市塔世西裏出身の日本のギタリスト・ソングライター。名城大学卒業。血液型O型。著作権協会正会員。名古屋市中区東桜「JazzSpot Swing」のオーナーである。 10歳の頃からギターを始め、大学在学中から名古屋で活動を始め、1965年に拠点を東京に移す。その後、再び名古屋に戻りジャズ・クラブ「ココ」を経営する一方、森剣治(sax)らと活動。以降、名古屋を拠点に演奏活動を続け、ジャズ・クラブ「Swing」のオーナーも務める。アルバムは1972年録音の初リーダー作『ココのブルース』の他、『ブルース・ワールド』など。2021年4月29日に87歳で逝去。
足立 明男(あだち あけお、1934年(昭和9年)1月13日… 足立 明男(あだち あけお、1934年(昭和9年)1月13日 - 2023年7月)は、日本の美術教育者。山口県立美術館副館長、山口県立萩美術館・浦上記念館館長、山口情報芸術センター館長などを歴任した。 1934年、山口県生まれ。山口大学教育学部卒業後、山口県内の小学校・中学校の教員として16年働いた後、1973年には山口県立美術館設立準備室にスタッフとして着任。その後、東京国立近代美術館での研修を経て、1979年の山口県立美術館開館から学芸課課長に着任、1989年から副館長を兼任。1991年からは山口県立萩美術館・浦上記念館の設立準備に着手し、1996年の開館から館長に就任。2007年4月から山口情報芸術センターの館長を務めた後、2018年4月からは顧問に就任している。
芦田 甚之助(あしだ じんのすけ、1934年1月13日 - … 芦田 甚之助(あしだ じんのすけ、1934年1月13日 - 2011年11月10日)は、日本の労働運動家。日本労働組合総連合会(連合)2代目会長。後に連合顧問、日弁連法務研究財団理事を務めた。勲位・勲等は従三位旭日大綬章。 新潟県出身。1956年3月、早稲田大学教育学部社会学科を卒業後、ゼンセン同盟に入局。入局後は各県支部長、同局書記長などを歴任し、1988年に同会長、友愛会議議長に就任。 1994年10月に、山岸章の後を受けて第2代連合会長に就任し、1997年10月に至るまで同職を務めた。他に政府の対外経済協力審議会委員、行政改革会議委員、法制審議会委員を歴任。 2005年11月に旭日大綬章を授与される。
堀切 実(ほりきり みのる、1934年1月13日 - )は、… 堀切 実(ほりきり みのる、1934年1月13日 - )は、日本の国文学者。専門は日本近世文学、特に俳文学・松尾芭蕉・井原西鶴。学位は、文学博士(早稲田大学・1984年)(学位論文「蕉風俳論の研究 支考を中心に」)。早稲田大学名誉教授。 東京都生まれ。1957年、早稲田大学第一文学部国文科卒業。東京都立高校の教員を経て、1961年、早稲田大学大学院文学研究科終了(特殊学生)。1969年、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。1974年、フェリス女学院大学講師、翌年助教授。1981年、早稲田大学教育学部助教授、1983年同大学教授。1984年、「蕉風俳論の研究 支考を中心に」で、早稲田大学より文学博士の学位を取得。
山田 晴河(やまだ はるか、1933年1月13日 - 198… 山田 晴河(やまだ はるか、1933年1月13日 - 1988年5月7日)は、日本の化学者。元関西学院大学教授。専門は物理化学、特に赤外ラマン分光学、界面化学。 現在の東京都文京区出身。1955年にお茶の水女子大学化学科を卒業。1960年に東京工業大学で博士号を取得し、同大学助手。1961年から1963年まで、米国アイオワ大学化学科で研究を行う。1964年に関西学院大学理学部に着任。1972年に同大学教授。 「赤外ラマン分光法による固体表面の吸着種の構造」が主たる研究業績。 固体表面の吸着現象に関して、レーザーラマン分光法による研究を行い、世界で初めて微量吸着種の共鳴ラマンスペクトルの測定に成功した。
片山 松造(かたやま しょうぞう、1933年1月13日 - … 片山 松造(かたやま しょうぞう、1933年1月13日 - 2015年3月26日)は、日本の実業家。東洋ゴム工業(現在のTOYO TIRE)代表取締役社長・会長、日本自動車タイヤ協会会長、タイヤ公正取引協議会会長などを歴任した。 京都府出身。1955年、神戸大学経営学部を卒業後、東洋ゴム工業に入社した。1993年から代表取締役社長を務め、菱東タイヤの吸収合併や、鬼怒川ゴム工業との業務提携、人員削減などのリストラ策等を行い、業績回復を果たした。2002年、代表取締役会長に就任した。日本自動車タイヤ協会会長、タイヤ公正取引協議会会長等も歴任した。2004年度旭日中綬章を受章した。2015年に肝臓がんのため死去した。
田頭 博昭(たがしら ひろあき、1933年(昭和8年)1月1… 田頭 博昭(たがしら ひろあき、1933年(昭和8年)1月13日 - 2023年(令和5年)2月20日)は、日本の工学者。工学博士。元室蘭工業大学学長、北海道大学名誉教授。北海道島牧村出身。 1958年(昭和33年)北海道大学工学部卒業。リバプール大学大学院工学研究科博士課程修了。1962年(昭和37年)北海道大学工学部助教授。1973年(昭和48年)同工学部教授。1996年(平成8年)北海道大学退官。同名誉教授。北海道工業大学工学部教授。1997年(平成9年)室蘭工業大学理事・室蘭工業大学11代学長に就任。2006年室蘭工業大学退官。 電気工学を専門とし、プラズマプロセス用プラズマやペーパーミスト誘電体による高電圧絶縁、極低温液体による電気絶縁を研究。
笠原 伸夫(かさはら のぶお、1932年1月13日 - 20… 笠原 伸夫(かさはら のぶお、1932年1月13日 - 2017年11月8日)は、日本近代文学研究者・文芸評論家。日本大学名誉教授。 北海道小樽市生まれ。1950年、日本大学第一高等学校卒業。1954年、日本大学文学部国文学科卒業。1979年、日本大学文理学部教授。2002年、同名誉教授。 はじめ歌作を行う。評論は中世文学から出発し、1967年、『中世の発見』『中世の美学』を刊行。その後、近代文学における情念に関心を寄せながら、『虚構と情念』『泉鏡花 美とエロスの構造』『谷崎潤一郎 宿命のエロス』などを刊行。現代短歌や現代俳句も論じている。
田中 敏朗(たなか としろう、男性、1932年1月13日 -… 田中 敏朗(たなか としろう、男性、1932年1月13日 - )は、日本の元プロボクサー、現役のプロボクシング・プロモーター。熊本県出身。全日本パブリックボクシングジム会長。三池高校および明治大学出身の経済学士。 日本中央競馬会元騎手で調教師の田中剛は実子。フリーアナウンサーの田中歩は実孫(剛の娘)。 両親は教師、実兄は陸軍幼年学校を経た医師という家系に生まれる。自身も陸軍幼年学校を受験したが不合格、一年浪人し高校に進学しアマチュアボクシングを始め、インターハイ出場し、スポーツ推薦で明治大学に進学し全日本選手権でライトフライ級及びフライ級の二階級制覇、白井義男のスパーリングパートナーも務めた。 卒業した1955年に日興ジム所属でプロデビューし1967年まで現役で活躍し矢尾板貞雄と引き分けた実績も有したが、明大時代からの後輩米倉健志に世界挑戦のチャンスを譲りバンタム級に転向。
小田 喜美雄(おだ きみお、1932年1月13日 - 201… 小田 喜美雄(おだ きみお、1932年1月13日 - 2012年6月)は、熊本県出身のプロ野球選手(外野手)。
松本 良太(まつもと りょうた、1932年1月13日 - )… 松本 良太(まつもと りょうた、1932年1月13日 - )は、日本の経営者。ノーリツ社長を務めた。 兵庫県出身。1959年、富山大学経済学部を卒業し、1962年、能率風呂工業(現在のノーリツ)に入社。1969年2月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1989年3月に副社長に就任し、1995年1月から1999年1月まで社長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
関根 則之(せきね のりゆき、1931年〈昭和6年〉1月13… 関根 則之(せきね のりゆき、1931年〈昭和6年〉1月13日 - 2022年〈令和4年〉6月19日)は、日本の自治官僚・政治家。 第17代消防庁長官、参議院議員(2期)、静岡県副知事を務めた。位階勲等は正四位勲二等。 埼玉県比企郡吉見町出身。1943年、埼玉県立松山中学校入学。1945年、海軍兵学校入学。1948年、旧制浦和高等学校入学。 1953年、東京大学法学部第3類(政治コース)卒業、自治省入省。1957年、フルブライト留学生としてシラキュース大学、マンハッタン大学(英語版)に留学。 1960年、宮城県地方課長。1971年、三重県教育長。1976年、自治省財政局財政課長、大臣官房審議官。
内山 康(うちやま やすし、昭和6年(1931年)1月13日… 内山 康(うちやま やすし、昭和6年(1931年)1月13日 - 平成4年(1992年)8月25日)は、広島県出身の実業家。レーザーテック株式会社の創業者。
豊田 都峰(とよた とほう 1931年1月13日 - 201… 豊田 都峰(とよた とほう 1931年1月13日 - 2015年7月25日)は、日本の俳人。京都府出身。立命館大学文学部卒。卒業後は京都府内の高校で教諭として務める。1948年、鈴鹿野風呂の「京鹿子」に入会。1973年、同編集長。1993年、同副主宰。1999年、丸山海道から引継ぎ「京鹿子」主宰。2006年より関西現代俳句協会の会長を務める。 2004年、『雲の唄』により第1回文学の森俳句大賞受賞。2010年、『土の唄』により第10回俳句四季大賞受賞。2013年、京都市芸術振興賞受賞。京都の風土性と現代との接点を探索。長谷川素逝の研究家でもある。
井田 毅(いだ たけし、1930年〈昭和5年〉1月13日 -… 井田 毅(いだ たけし、1930年〈昭和5年〉1月13日 - 2013年〈平成25年〉8月20日)は、日本の実業家。サンヨー食品の創業者で、同社2代社長。インスタントラーメン商品「サッポロ一番」の開発に携わった。後任社長の井田純一郎は子。 1930年(昭和5年)群馬県佐波郡玉村町で井田文夫の長男として生まれる。父・文夫は井田酒造の生まれで、1933年(昭和8年)前橋に泉屋酒店を開業した。毅は7人きょうだいの長男で、前橋商業学校(現・群馬県立前橋商業高等学校)を卒業後、旧制巣鴨経済専門学校(現・千葉商科大学)を卒業した。 父と共に、1953年(昭和28年)に乾麺業を創業。1955年(昭和30年)に株式会社富士製麺を設立し、専務取締役に就任。
田中 一光(たなか いっこう、1930年1月13日 - 20… 田中 一光(たなか いっこう、1930年1月13日 - 2002年1月10日)は、日本のグラフィックデザイナー。奈良県奈良市出身。本名は同じ表記で、読みは「たなか かずあき」。 昭和期を代表するグラフィックデザイナーの一人として活躍した。グラフィックデザイン、広告の他、デザイナーとして日本のデザイン界、デザイナーたちに大きな影響を与えた。特にセゾングループのクリエイティブディレクターとして、セゾン文化の裏方を担った。 自身の作風は琳派に大きな影響を受けており、間接的ながら琳派の作風を現代(1970年代以降2020年現在に至るまで)に広め紹介することとなった。
佐倉 朔 (さくら はじめ、1930年1月13日 - 201… 佐倉 朔 (さくら はじめ、1930年1月13日 - 2015年1月27日)は、日本の人類学者。札幌学院大学教授を歴任。 1953年、東京大学大学院在学中に鎌倉材木座中世遺跡発掘調査に参加し、人類学者としてのスタートを切った。 その後、東京医科歯科大学助教授(難治疾患研究所応用人類学部門)、国立科学博物館人類研究部人類第一研究室での研究に従事する傍ら、1961年と1967年には鈴木尚教授を団長とする東京大学西アジア洪積世人類遺跡調査団の主要メンバーとしてアムッド洞窟(イスラエル)の発掘調査を行なった。 平成3年(1991年)には 札幌学院大学教授に就任し、北海道の人類学関係の仕事の傍ら、新宿戸山の旧陸軍軍医学校、現在の国立感染症研究所の建設工事現場で発見された100体以上の人骨の鑑定を行った。
星野 二郎(ほしの じろう、1930年1月13日 - )は、… 星野 二郎(ほしの じろう、1930年1月13日 - )は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。大阪府出身。 1952年に東京大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三井造船に入社。1984年6月に取締役に就任し、1987年6月に常務、1989年5月に専務を経て、1993年6月に社長に就任。1997年6月には相談役に就任。
鞠子 正(まりこ ただし、1930年1月13日 - )は、日… 鞠子 正(まりこ ただし、1930年1月13日 - )は、日本の地球科学者。専門は鉱床学・鉱物学。東京都墨田区生まれ。 1950年旧制横浜工業専門学校電気科を卒業し、早稲田大学理工学部に編入学。1953年同鉱山学科卒業。1954年早稲田大学大学院工学研究科入学。1961年同博士課程を修了し、早稲田大学より工学博士の学位を取得、学位論文の題名は「鉱物の物性とその鉱床学的研究 : とくに磁硫鉄鉱の磁性について」。 1959年早稲田大学理工学部助手となり、1965年早稲田大学教育学部に専任講師として転任し、1967年同助教授、1972年同教授に昇進した。1998年早稲田大学を定年退職し、名誉教授となる。
正田 彬(しょうだ あきら、1929年(昭和4年)1月13日… 正田 彬(しょうだ あきら、1929年(昭和4年)1月13日 - 2009年(平成21年)6月1日)は、日本の法学者。専門は経済法。学位は、法学博士(慶應義塾大学・論文博士・1968年)。慶應義塾大学名誉教授。カトリック信徒(洗礼名アロイジオ)。 正田彬は数学者・正田建次郎の長男としてベルリンで生まれる。父方の祖父は日清製粉グループ本社創業者の正田貞一郎、母方の祖父は天文学者の平山信。元日清製粉(現・日清製粉グループ本社)社長の正田英三郎は父方の叔父で、建築家の平山嵩は母方の伯父。また父方の従弟に医師・政治家の水島裕と日清製粉グループ本社名誉会長相談役の正田修が、父方の従妹に上皇后美智子が、母方の従兄に物理化学者の坪井正道がおり、父方の義理の伯父に化学者の水島三一郎が、母方の義理の伯父に地球科学者の坪井誠太郎が、母方の義理の叔父に元東洋製作所社長の佐竹義利がいる。
佐治 乾(さじ すすむ、1929年1月13日 - 2001年… 佐治 乾(さじ すすむ、1929年1月13日 - 2001年2月7日)は、日本の脚本家。 兵庫県出身。関西大学文学部英文学科卒業。主に映画、テレビドラマなどを手掛けた。生前は脚本家事務所・ラグス所属。 大学在学中より官能小説を中心とした投稿作家として多額の賞金を稼ぎ、卒業後、脚本家の八木保太郎に師事。 1954年、映画『ママの日記』でデビュー。1955年、日活と契約。1959年、東映に移り、50年代は日活、60年代は主に東映アクション、サスペンスものを多数執筆した。 珍しい名前のため、最初に名前を聞いた者からは、誰かの変名かペンネームかと思われたという。特に『恋と太陽とギャング』(石井輝男監督)、『誇り高き挑戦』(深作欣二監督)など現代ギャングものに才能を発揮し、1970年には日活ニューアクションの傑作『反逆のメロディー』を執筆。
松成 博茂(まつなり ひろしげ、1927年 <昭和2> 1月… 松成 博茂(まつなり ひろしげ、1927年 <昭和2> 1月13日 - 2015年 <平成27年> 8月29日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は正四位。 広島県出身。1952年に京都大学経済学部を卒業し、同年に川崎汽船に入社。1981年6月に取締役に就任し、1982年6月に常務、1984年12月に専務を経て、1988年6月に社長に就任。1992年6月に会長に就任。 1991年11月に藍綬褒章を受章し、1997年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2015年8月29日老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
田中 英夫(たなか ひでお、1927年1月13日 - 199… 田中 英夫(たなか ひでお、1927年1月13日 - 1992年8月20日)は日本の法学者。専門は英米法。東京大学法学部長・名誉教授。末延三次門下。弟子に寺尾美子など。 一橋大学名誉教授田中和夫の長男として東京に生まれる。 1943年福岡県中学修猷館卒業、1945年第一高等学校卒業を経て、1951年、東京大学法学部を卒業し、1954年、同大学院を修了。1962年、法学博士(東京大学)の学位を取得する(学位論文「私有財産権の保障規定としてのデュー・プロセス・クローズの成立」)。 その後、1954年10月、東京大学法学部助教授を経て、1964年、東京大学法学部教授に就任。この間、2度にわたりハーバード大学ロー・スクールにおいて客員教授として日本法を講義している。
田中 郁三(たなか いくぞう、1926年1月13日 - 20… 田中 郁三(たなか いくぞう、1926年1月13日 - 2015年2月16日)は日本の化学者、理学博士。東京工業大学名誉教授。文化功労者。専門は光化学。 東京工業大学教授、学長などを歴任。光イオン化質量分析法の開発や、分子の電子状態を精密に測定する分子光化学の先駆的な手法開発などで知られる、光化学のパイオニア。
長野 規(ながの ただす 1926年1月13日 - 2001… 長野 規(ながの ただす 1926年1月13日 - 2001年11月24日)は編集者、詩人。『週刊少年ジャンプ』初代編集長。
近藤 健次(こんどう けんじ、1926年1月13日 - 20… 近藤 健次(こんどう けんじ、1926年1月13日 - 2017年2月17日)は、日本の実業家。株式会社ビー・エム・エル創業者・元代表取締役社長。 静岡県磐田郡幸浦村大野(現袋井市大野)で万屋の四男として生まれる。幸浦尋常小学校(現袋井市立浅羽南小学校)、陸軍少年通信兵学校を経て、1954年専修大学商経学部卒業。 1955年相互ブラッド・バンク(のちのビー・エム・エル)を設立し、代表取締役社長に就任。1986年同社代表取締役会長。1997年勲五等瑞宝章受章。 2005年浅羽町善行表彰受賞。2007年ビー・エム・エル代表取締役最高顧問。同年袋井市に3億円を寄付し、2008年に袋井市市政功労賞受賞。
西平 直喜(にしひら なおき、1926年1月13日 - )は… 西平 直喜(にしひら なおき、1926年1月13日 - )は、日本の教育心理学者、創価大学名誉教授。 東京生まれ。東京高等師範学校国語漢文専攻卒、東京文理科大学心理学科卒業。1950年財団法人野間教育研究所勤務、1953年山梨大学講師、助教授、教授、保健管理センター所長・付属中学校校長兼職、1980年「青年心理学の方法論的研究」で九州大学より教育学博士の学位を取得。1988年創価大学教育学部教授。特任教授、名誉教授。日本青年心理学会名誉会員。財団法人野間教育研究所評議員。京大教授の西平直は子。
島岡 譲(しまおか ゆずる、1926年〈大正15年〉1月13… 島岡 譲(しまおか ゆずる、1926年〈大正15年〉1月13日 - 2021年〈令和3年〉9月30日)は、日本の作曲家、音楽学者、音楽理論家。国立音楽大学名誉教授、元東京藝術大学教授。娘は法学者の島岡まな。 1926年、群馬県前橋市に生まれる。桃井小学校に入り群馬師範学校の岩上行忍からオルガンと和声学を習う。1935年に上京し忍岡小学校へ編入。1936年から平井康三郎にピアノと作曲を師事する。1938年田端に転居し聖学院中学に入学。1942年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学し、橋本國彦、下総皖一に師事した。1945年、東京音楽学校本科作曲部卒業。池内友次郎に師事し、1947年に同学研究科を修了。
山崎 つる子(やまざき つるこ、1925年〈大正14年〉1月… 山崎 つる子(やまざき つるこ、1925年〈大正14年〉1月13日 - 2019年〈令和元年〉6月12日)は、日本の美術家。前衛美術グループ「具体美術協会」の創設メンバー17名のひとりとしても知られる。ブリキを用いた立体作品、パフォーマンス、絵画作品など多様な作品を手掛けた。兵庫県芦屋市出身。 1925年、兵庫県芦屋市に生まれる。家族構成は両親と兄と姉と妹。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進む。 1946年夏、精道小学校で開催された芦屋市主催の市民講座に聴講に行った山崎は、講師として呼ばれた吉原治良に出会う。吉原はモンドリアンについて講演し、3日目の最終日の実習では教室の手洗い場を描かせる風変わりな講座であった。
下中 邦彦(しもなか くにひこ、1925年1月13日 - 2… 下中 邦彦(しもなか くにひこ、1925年1月13日 - 2002年6月6日)は、昭和時代の実業家。兵庫県出身。下中弥三郎の四男。慶應義塾大学工学部卒。1958年から、父親の弥三郎が設立した「平凡社」の社長を28年間務めた。そのほか、「国民百科事典」などを発行するなどした。。 邦彦没後、弥三郎三男の下中直也が平凡社三代目社長に就任した。
虎尾 俊哉(とらお としや、1925年1月13日 - 201… 虎尾 俊哉(とらお としや、1925年1月13日 - 2011年1月5日)は、日本の歴史学者、国立歴史民俗博物館・弘前大学名誉教授。日本古代史専攻。 長崎市出身。愛媛県松山市生まれ。1943年第五高等学校卒業、東京帝国大学文学部国史学科入学、兵役のため休学ののち1947年卒業。1952年同大学大学院(旧制)満期退学。1953年弘前大学理学部講師、1955年助教授、1962年「班田収授法の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1965年改組により弘前大学人文学部助教授、1967年教育学部教授、1969年文部省在外研修員としてロンドン大学に滞在、1974年プリンストン大学客員教授、1982年弘前大学教育学部長、1983年国立歴史民俗博物館教授、1990年定年退官、名誉教授。
並木 俊守(なみき としもり、1925年 1月13日- )は… 並木 俊守(なみき としもり、1925年 1月13日- )は、日本の法学者、弁護士、公認会計士。専攻は商法。日本大学教授、警視庁刑事部顧問等を歴任。 陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。賜銀時計。1949年東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学在学中は陸上競技部に所属し、関東学生陸上競技対校選手権大会においてハンマー投で優勝した。田中誠二に師事。東京経済大学講師、日本大学教授、一橋大学非常勤講師、警視庁刑事部顧問等を歴任。 商法研究者や弁護士として著名であったが、顧問先であった加商株買取の相手方会社から1億円を超える謝礼を受けたことが、弁護士法に違反すると指摘された。これを受け自ら弁護士を登録抹消したため、弁護士会からの懲戒処分は受けなかった。
秋山 虔(あきやま けん、1924年1月13日 - 2015… 秋山 虔(あきやま けん、1924年1月13日 - 2015年11月18日)は、日本の文学者。専門は、国文学・中古文学。東京大学名誉教授。紫綬褒章受章。日本学士院会員、文化功労者。勲二等瑞宝章受章。 国士舘短期大学助教授、東洋大学助教授、東京大学文学部教授、東京女子大学教授、駒沢女子大学教授、紫式部学会会長などを歴任した。 岡山県出身の国文学者であり、主として中古文学を専攻した。『源氏物語』の成立論をはじめ、構造論、人物論、さらには作者である紫式部に関する作家論など、多彩な方法論を展開した。その結果、『源氏物語』研究の指導的存在となり、学界に大きな影響を与えた。また、平安時代の和歌をはじめ、物語、説話文学、さらには漢文学に至るまで、作品成立時の社会的環境の下での作者の心理、意識、表現などを解明した。
小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月… 小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月13日 - 1976年8月24日)は、昭和期の日本の洋画家。東京府出身。甥の上矢津(かみやしん)は画家、現代美術家、版画家。 本名の読みは「おのぎ まなぶ」であるが、絵本作家としての筆名は本名と同じ表記で「おのき がく」の読みを用いている。 1924年、北豊島郡巣鴨町(現・豊島区)に小野木秀雄・シヅ夫妻の四男として生まれる。軍事教練中に肺を患い、療養中に独学で油絵を学ぶ。のち農林省関連の施設に勤務するかたわら、絵画の勉強を続ける。1952年の第17回自由美術展で入選。翌1958年に自由美術協会会員となるが、1961年から翌1962年にかけてパリへ留学した後の1963年に退会。
和田 稔(わだ みのる、1922年(大正11年)1月13日 … 和田 稔(わだ みのる、1922年(大正11年)1月13日 - 1945年(昭和20年)7月25日)は、福岡県小倉出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 福岡県小倉市立堺町尋常小学校、静岡県立沼津中学校、第一高等学校(一高)を首席で卒業後、現役で東京帝国大学法学部に合格。沼津で開業医の温厚な父と、愛情深い母、兄思いの3人の妹と1人の弟の7人家族であった彼は、一高から東京帝大というエリートコースを順調に進み、都会に出て独り暮らしをするが、故郷が恋しくて、週末はよく沼津に帰郷していた。 帝大に入ってから、彼は学生生活と言いながら、軍事教練ばかりする生活に嫌気が差していた。日々、ラジオでは戦況の悪化が知らされている頃だ。
泉 茂(いずみ しげる、1922年1月13日 - 1995年… 泉 茂(いずみ しげる、1922年1月13日 - 1995年5月11日)は、日本の洋画家及び版画家。
大森 実(おおもり みのる、1922年1月13日 - 201… 大森 実(おおもり みのる、1922年1月13日 - 2010年3月25日〈日本時間3月26日〉)は、日本のジャーナリスト。兵庫県神戸市出身。 作家の柴田錬三郎は従兄弟。
藤原 一郎(ふじわら いちろう、1922年(大正11年)1月… 藤原 一郎(ふじわら いちろう、1922年(大正11年)1月13日 - 2000年(平成12年)7月18日)は、昭和から平成時代の通産官僚。実業家。通産事務次官。電源開発社長、同顧問。 岡山県岡山市出身。藤原末作・貞子の長男として生まれる。旧制一高を経て1948年(昭和23年)東京大学法学部政治学科を卒業し、翌1949年商工省総務局に入る。同期に牧野隆守、村上信二郎、平松守彦、大永勇作(元中小企業信用保険公庫総裁)、大薗英夫(元日本自転車振興会理事長)らがいる。大臣秘書官事務取扱、貿易振興局輸出保険課長、大臣官房審議官、化学工業局化学第一課長、企業局外資課長、貿易振興局貿易振興課長、産業政策局総務課長、中小企業庁小規模企業部長、通産省大臣官房審議官、生活産業局長、官房長、通商政策局長を経て、1981年(昭和56年)6月、通産事務次官に就任した。
星野芳郎(ほしの よしろう、1922年1月13日 - 200… 星野芳郎(ほしの よしろう、1922年1月13日 - 2007年11月8日)は、日本の技術評論家。 東京府生まれ。松本高等学校理科甲類を経て、1944年(昭和19年)東京工業大学電気化学科卒業。内閣技術院参技官補、海軍少尉兵学校教官、文部省科学官補を経て、1946年(昭和21年)に民主主義科学者協会の設立に参加する。 1962年(昭和37年) - 1968年(昭和43年)立命館大学経営学部教授。1981年(昭和56年) - 1997年(平成9年)帝京大学経済学部教授。その他の時期は、主に技術評論家として技術論と現代技術史の研究に専念する。 1961年(昭和36年)に発表された代表的な著作『マイ・カー』は、日本の本格的モータリゼーション初期におけるオーナードライバー向け通俗啓蒙書であり、オーナー自らが運転する自家用自動車を指す「マイカー」my car という和製英語を一般に普及させたとされる。
内山 正熊(うちやま まさくま、1918年1月13日 - 2… 内山 正熊(うちやま まさくま、1918年1月13日 - 2011年4月30日)は、日本の国際政治学者・外交学者。 東京都出身。本籍新潟県。1935年3月、第一東京市立中学校(のち東京都立九段高等学校)を卒業。1941年12月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1942年1月、日本郵船に入社したが、同年12月に退職し慶応大学大学院に入学した。1943年6月、高等試験行政科に合格。 1943年10月、慶應義塾大学法学部助手となり、助教授を経て1953年4月、教授に就任。同年7月、ブリティッシュ・カウンシル留学生としてロンドン大学(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)に留学。1960年3月、論文「外交と国際政治」で法学博士(慶應義塾大学)を取得。
宇佐見 英治(うさみ えいじ、1918年1月13日 - 20… 宇佐見 英治(うさみ えいじ、1918年1月13日 - 2002年9月14日)は、日本の詩人・フランス文学者・美術評論家。明治大学名誉教授。 大阪府出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部倫理学科卒。48年『同時代』の創刊に矢内原伊作らと参加、同誌の第3次第二号(黒の会、1997年5月)では個人特集も組まれた。そのほか『歴程』にも参加。明治大学商学部教授を務め、88年定年。 1957年(昭和32年)、初の著書となる『ピエールはどこにいる』を刊行。同書に収録された中編小説「死人の書」は宇佐見英治の小説における代表作であり、その後も推敲が加えられ『夢の口』『死人の書』に再録されている。 1982年(昭和57年)『雲と天人』が第20回藤村記念歴程賞を、97年『明るさの神秘』を始めとする評論活動の業績から第7回宮沢賢治賞を受賞。
平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 202… 平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 2021年2月21日)は、大正末期から昭和初期にかけて童謡のジャンルで活躍した日本の歌手である。出生名は林 秀(はやし ひで)、結婚後の姓名は鈴木 英子(すずき ひでこ)あるいは鈴木 英(すずき ひで)、旧姓は平井。 東京府東京市四谷区(現:東京都新宿区)塩町出身。7歳で幸田露伴の妹幸田延子に師事しピアノを学ぶ。その頃、作曲家の中山晋平の門下生となり、1928年(昭和3年)、ニッポノホン(日本コロムビアの前身)から童謡歌手としてデビューする。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)の創立と同時に専属の童謡歌手となる。 野口雨情・中山晋平のコンビによって作曲・作詞された童謡を主に歌っていたが、佐々紅華が作詞・作曲した楽曲も歌い、本人談によると、一番「かわいがって頂いた」のは紅華だという。
上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉… 上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉1月13日 - 2002年〈平成14年〉2月8日)は、日本のプロ野球選手、政治家。 日大三中から明治大学へ進学。卒業後に満洲電電へ進み、1947年に中部日本ドラゴンズへ入団。 1949年に東急フライヤーズへ移籍。この年は93試合に出場し、翌年も73試合に出場した。東急時代にバッテリーを組んでいた白木義一郎(池田大作の妻・香峯子の従兄弟)に折伏されて創価学会に入信。 1952年に毎日オリオンズへ移籍し、1953年に現役引退。1954年から2年間、高橋ユニオンズでコーチを務めた。 1955年のシーズン中に創価学会を支持母体として船橋市市議会議員選挙に立候補して当選。
景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13… 景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13日 - 1999年〈平成11年〉6月26日)は、日本の警察官僚、剣道家。位階は正四位。景山民夫の父。 広島県三次市で生まれ、小学生の時に祖母の実家である広島市内の景山家の養子となる。旧制武蔵高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省する。 1942年に警部補を拝命し、原爆投下時には徳島県で警察官をしていた。特高に席を置いていたため、敗戦後公職追放となる。 警視庁神田警察署長、刑事部鑑識課長、総務課長、第五方面部長、第一方面部長を務め、山梨県警察、秋田県警察、熊本県警察、埼玉県警察、神奈川県警察の各本部長を歴任。関東管区警察局長を最後に退官した。
宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 19… 宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 1984年6月16日)は、東京都出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。
中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 19… 中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。 中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。
山口 武秀(やまぐち たけひで、1915年1月13日 - 1… 山口 武秀(やまぐち たけひで、1915年1月13日 - 1992年8月23日)は、昭和期の農民運動家、政治家。 茨城県鹿島郡鉾田町(現在の鉾田市)出身。旧家地主兼廻船問屋に生まれる。 茨城県立鉾田中学校(現在の茨城県立鉾田第一高等学校)で学ぶが、東京の女子大学に進学した姉の影響で資本主義の矛盾を知り、1931年に中退して農民運動に身を投じた。全国農民組合の若手活動家として活躍。18歳にして千葉県の農村争議に介入して名を上げる。 1933年日本共産党に入党。幾度かの検挙を経て転向し社会大衆党に入党。1937年に全農茨城県連書記長となる。日中戦争中に前線への慰問袋に農村の窮状を訴える手紙を挿入するよう指導し、同年検挙される。
淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月… 淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。 熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。 代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月… 西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。 1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。