三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月1… 三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月15日 - 2006年(平成18年)1月5日)は、日本のプロスキーヤー。 青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校(現 青森県立青森高等学校)、北海道帝国大学(北海道大学)農学部卒業。 北大在学中に八甲田山での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田のフィルム記録にスキー滑降で参加した。青森林友スキー部に所属し、選手、監督、部長を経験した。全日本スキー連盟の技術委員を務めたこともある。 1955年(昭和30年)、51歳で青森営林局を退職し、東京都練馬区に移住。この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行った。また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残し、イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞する。
太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照… 太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照(あつてる)、旧姓・井上、幼名・淳麿、1904年2月15日-1985年8月4日)は、日本の宗教家、浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派総長、全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長を歴任。光接寺(阿久根市)住職。 鹿児島県谷山町和田(現・鹿児島市内)の妙行寺の生まれ(次男)。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)文科を1924年3月に卒業。1928年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1929年鹿児島県阿久根町の光接寺の養子となる。1950年から1974年まで宗会議員(7期)。浄土真宗本願寺派内局総務(1952年~1953年)、築地別院輪番(1956年~1960年)を経て、1962年~1965年と1969年~1974年に本願寺派総長。
中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - … 中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - 1990年8月6日)は、日本の英文学者、演劇評論家、翻訳家。 大阪外国語学校、関西学院大学卒。戦後、南山大学文学部教授。1973年、大妻女子大学教授。英語戯曲の翻訳、演劇評論で活動、ほか推理小説の翻訳もした。
福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 20… 福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 2001年4月2日)は、日本のピアニスト。富山県上市町出身。学校法人武蔵野音楽学園名誉学園長、元東京芸術大学学長。勲二等旭日重光章(1974年に受章)。 武蔵野音楽大学創立者・福井直秋の長男として生まれる。弟に武蔵野音楽大学学長を務めた福井直弘、妹にピアニストの若尾輝子がいる。 東京音楽学校研究科を卒業。萩原英一、レオニード・コハンスキに師事。1930年、ベルリンに渡りアルトゥル・シュナーベルに師事。帰国後、新交響楽団(現:NHK交響楽団)との共演や、「ベートーベン:ソナタ・アルバム」などの校訂に携わる。 武蔵野音楽大学教授を経て、東京芸術大学音楽学部の教授に就任。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 198… 平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 1986年11月20日)は、日本の建築家・建築学者。専門は、建築環境工学。工学博士。 1903年、東京府(現・東京都)出身。1926年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。留学してハーバード大学修了の後、マサチューセッツ工科大学大学院に進み修了した。 帰国した後大蔵省営繕管財局に入り、国会議事堂の室内意匠・音響設計等に従事。1930年、東京帝大工学部講師となった。翌1931年に東大助教授に昇格し、助教授時代に公衆衛生院建築衛生部長を兼任した。1940年より東大教授。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東洋大学工学部教授として後進の指導にあたった。
金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月… 金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月15日または1909年2月15日または1910年2月25日 - 1977年8月26日〈陰暦7月12日〉または9月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、実業家、政治家。慶南体育会会長、国際新報(現・国際新聞)社長、第5代韓国国会議員(参議員)、東海生命保険(現・KDB生命保険(朝鮮語版))社長を歴任した。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。字は泰寛、号は一耕(イルギョン、일경)。筆名は九徳山人。元国家安全企画部長・国会議員・統一院長官・副総理の金悳(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚南道固城郡出身。日本大学専門部中退または卒業。
神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15… 神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15日 - 1977年〈昭和52年〉1月24日)は、日本の編集者、出版事業家。カッパ・ブックスの創始者。光文社二代目社長。かんき出版創業者。「戦後最大の出版プロデューサー」と呼ばれる[要出典]。 兵庫県加古川市西神吉町出身。1922年、東京外国語学校仏語部貿易科卒業。1927年、東京帝国大学文学部仏文科を中退し、講談社に入社。自ら8か国語に堪能と称し、野間清治社長から破格の給与で遇された。キングレコード時代は童謡プロデューサーとして「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」「ふたァつ、ふたァつ、何でしょね」などのヒット曲を飛ばす。 1945年10月光文社創立に参加し、編集局長となり、1965から1970年社長を務めた。
野田 清武(のだ きよたけ、1901年2月15日 - 196… 野田 清武(のだ きよたけ、1901年2月15日 - 1963年5月13日)は、日本の農林官僚、満州国官吏。徳島県知事。 佐賀県出身。野田清種の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、農商務省に入り食糧局属となる。1925年4月、農商務省が農林省と商工省に分割され、農林属となる。以後、営林局山林事務官、同局事務官、農林事務官、産業組合事務官、農林書記官などを歴任。 その後、満州国に転じ、国務院実業部理事官に就任。以後、農務司農政科長兼墾務科長、地籍整理局事務官、実業部理事官、総務庁参事官などを歴任。
犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 200… 犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 2007年9月17日)は、日本の脚本家、映画監督である。最高齢の映画人であった。長谷川一夫のデビュー作と引退作の脚本を執筆し(デビュー作『稚児の剣法』 は監督兼任)、勝新太郎の当たり役『座頭市』の脚本家としても知られる。 1901年(明治34年)2月15日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)花川戸に生まれ、台湾の台北市で少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身の一つとされる『成美団』の座付作家・大須賀豊(本名・犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した。 成人して台北銀行(※犬塚本人の回想では台湾銀行)に就職するが、演劇に興味を持ち退職。
内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日… 内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉7月17日)は、洋画家。内田魯庵の子。 東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。 1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。
村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月1… 村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1989年〈平成元年〉9月15日)は、日本の実業家。中国電力副社長、中国電気工事社長、広島商工会議所会頭を歴任した。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制第三高等学校を経て、1925年(大正14年)3月東京帝国大学工学部電気工学科卒業、同年大同電力株式会社入社。 1939年(昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により日本発送電が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。 1941年の配電統制令を経て、1951年(昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い帰郷、発足したばかりの中国電力株式会社に入社し、理事および技術研究所長に就任。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> … 谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> 2月15日 - 1993年 <平成5年> 1月30日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。位階は従五位。 富山県出身。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に鴻池銀行に入行。1926年に鴻池信託を経て、1939年に大東京火災海上保険に転じ、1944年に取締役に就任し、1945年に常務、1956年に専務を経て、1957年には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1966年には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年1月30日心不全のために死去。93歳没。
猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 19… 猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 1980年1月16日)は、日本の経済学者。 富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて1927年助教授、1937年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した。 妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15… 井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。 1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ土居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。 1905年、加茂小学校入学。
片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - … 片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - 1983年12月29日)は、日本の法学者(商法・民法・英米法)。学位は、法学博士(中央大学)。中央大学学長を務めた。 学部時代は兼任講師として教えに来てたローマ法の春木一郎の薫陶を受け、助手時代に学外指導教授として松本烝治及び田中耕太郎に民法、商法の薫陶を受けた。
稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15… 稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15日 - 1937年(昭和12年)8月15日)は、日本の教育者。元京都府立桃山中学校(現:京都府立桃山高等学校)の英語科教員。 明治の文豪小泉八雲の次男。
大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 197… 大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 1970年10月12日)は、日本の経営者。 長崎県長崎市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一合資(のちの山一證券)に入社。1935年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1954年11月に社長に就任。1964年から1965年までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章。 1970年10月12日慢性腎炎と腸狭窄で死去。73歳没。
野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月… 野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月15日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。 生家は三菱長崎造船所御用達の洋服商。外交官を目指し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、当時活況にあった貿易業に興味を持ち進路を転換。1918年の卒業とともに三井物産に入社。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。 1922年、現地の弁護士の娘で米国の三井物産でタイピストをしていたアリス・カリタ・コーストン(愛称はカリタ)と結婚するが、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、これが原因となって翌年三井物産を退社する。
松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月… 松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月15日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。功四級。 1897年(明治30年)に長崎県で生まれた。陸軍経理学校第12期主計候補生として1918年(大正7年)5月20日に卒業した。1934年(昭和9年)4月から1936年(昭和12年)3月まで東京帝国大学経済学部で陸軍派遣員外学生として聴講し、大学院にも進んだ。1939年(昭和14年)8月に北支那方面軍参謀部附となり日中戦争に出動した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍主計大佐進級と同時に関東軍司令部附となった。1941年(昭和16年)11月に陸軍経理学校附となり、1943年(昭和18年)2月に大阪陸軍糧秣支廠長に就任した。
安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月… 安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月15日 - 1962年(昭和37年)4月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選山梨県知事。 福島県伊達郡梁川町(現伊達市梁川町)元陣内で、眼科医・安岡正熈(せいき)の二男として生まれる。梁川小学校、福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1918年10月、高等試験に合格。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月に 内務省に入省し内務属・会計課勤務となるが休職となり、同年12月に一年志願兵として善通寺歩兵第43連隊に入隊し現役満期後に再び内務属となった。 以後、1921年(大正10年)4月に長崎県警視、同年12月神奈川県警視、1923年(大正12年)4月に愛媛県理事官となり、1925年(大正14年)5月に兵庫県に転じ、1929年(昭和4年)7月岡山県書記官・学務部長、1931年(昭和6年)1月長崎県書記官・学務部長、同年12月千葉県書記官・警察部長、1932年(昭和7年)8月京都府書記官・警察部長、1935年(昭和10年)1月広島県書記官・総務部長、1937年(昭和12年)7月兵庫県書記官・総務部長、1939年(昭和14年)4月神奈川県書記官・総務部長などを歴任。
森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15… 森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15日 - 1950年〈昭和25年〉4月13日)は、朝鮮総督府の学務官僚。編修官として国語(日本語)教科書の編纂や、朝鮮における日本語普及政策に携わった。国際経済学者の森田桐郎(元東京大学経済学部教授)は長男。 1896年(明治29年)、新潟県北蒲原郡乙村(現・胎内市)にて生まれた。1915年、新潟県立新発田中学校を卒業。朝鮮半島に渡り、1918年3月に京城中学校附属臨時小学校教員養成所を卒業。 卒業後は朝鮮公立小学校訓導に任じられ、釜山第二尋常小学校に赴任した。1920年、金海公立尋常高等小学校訓導に転任後、同年中に京城櫻井公立尋常小学校訓導に異動。
平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月… 平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月15日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の国史学者。文学博士。専門は日本中世史。東京帝国大学教授。号は布布木の屋、寒林子、白山隠士[要出典]。 福井県出身の国史学者。東京帝国大学教授、平泉寺白山神社第4代宮司、皇學館大学学事顧問等を歴任。白山神社名誉宮司、玄成院第二十四世。 国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、「代表的な皇国史観の歴史家」といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。近衛文麿など政界とのつながりも深かった。 日本を守る国民会議の結成に際して、発起人として参加している。著作に『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月15日)、『国史学の骨髄』(1932年9月18日)など。
遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 19… 遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 1986年11月10日)は、日本の照明技師。舞台照明の草分け。広島県出身。 1915年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒。東京電気(現東芝)に4年半勤務のち退職して演劇の道に入る。1920年、田中良を主唱者とする舞台美術会(トンボヤの会)に土方与志、伊藤憙朔らと共に参加。「私がやらなければ恐らく誰もやらないだろう」と1920年から本格的に舞台照明に関わる。1921年から新劇、新歌舞伎、新舞踊の舞台照明を担当。当時未開であった舞台照明の研究と確立を目指し、その実践を行うため1929年、小川昇、神保道臣等と共に「遠山照明研究所」(TIL)を創設した。
石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1… 石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1963年11月27日)は、日本の建築家。同期卒業の堀口捨己、山田守らと分離派建築会を結成し、日本の近代建築運動の第一歩を記した。数寄屋橋の旧朝日新聞社でデピュー後に設立した設計事務所において、支所の開設や法人化など、時代を先取りした事務所経営を行なった。 神戸市生まれ。大阪市高津尋常小学校卒業、旧制大阪府立今宮中学校卒業、東京高等工業学校中退、旅順工科大学予科中退、旧制第三高等学校卒業。 1920年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大阪の竹中工務店に入店。 1922年から自費で欧米を視察し、特にドイツの近代建築運動にふれた。 1927年、白木屋の設計を機に竹中工務店を退社。
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – … 井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。 島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。 1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。
沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 -… 沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 - 1972年(昭和47年)11月29日)(澤ゆき。澤ゆき子。)は、大正-昭和時代の詩人。本名は飯野ゆき。「炬火(たいまつ)」などの詩誌に叙情詩を発表。1921年(大正10年)の詩集『孤独の愛』は島崎藤村から激賞された。茨城県出身。詩集に『孤独の愛』『沼』『浮草』がある。 1893年(1894年記載のものもあるが正しくは1893年)2月15日に茨城県稲敷郡茎崎村小茎(現・つくば市小茎)で生まれた。旧姓相澤ゆき(相沢ゆき)。牛久沼畔にある酒造家に生まれ、沼に親しんで育つ。沼は彼女の作品に多く描かれる。 1905年、単身上京し1908年に技芸大学(共立女子職業学校)(現、共立女子大学)に入学、1911年同大学を卒業。
飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月1… 飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月15日 - 1982年(昭和57年)11月14日)は、日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の一人である。妻は南弘の娘・櫂子。 福島県会津若松市生まれ。父は白虎隊士飯沼貞吉の弟で会津松平家家令・飯沼関弥。東京小石川の旧黒田小学校(現在の文京五中の敷地)、府立四中、一高を経て、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省。土木局属。神社局総務課長、都市計画課長、埼玉県知事、紀元二千六百年式典の事務局長を務めた後、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事、内務省神社局長、神祇院副総裁を歴任。 第二次世界大戦後の1946年3月12日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年… 大鷹 正次郎(おおたか しょうじろう、1892年〈明治25年〉2月15日 - 1966年〈昭和41年〉11月4日)は、日本の外交官。駐ラトビア公使。 岩手県和賀郡黒沢尻町(現・北上市)出身。盛岡中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に高等試験外交科に合格した。外交官補としてベルギーに、ついで領事官補としてハルビン、天津に勤務した。さらにドイツ大使館三等書記官、オーストリア公使館三等書記官、オランダ公使館二等書記官、ベルギー公使館一等書記官、満州国大使館一等書記官、青島総領事を歴任。1938年(昭和13年)、駐ラトビア公使に任命され、駐リトアニア公使・駐エストニア公使も兼ねた。
高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 … 高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 - 1919年3月30日)は、日本のダンサーである。大正年間の一大ムーヴメントである「浅草オペラ」にアメリカ流のダンスで火をつけたことで知られる。トウシューズで踊った日本初のダンサーである。のちに離婚して「永井 徳子」(ながい とくこ)に戻る。 1891年(明治24年)、東京市神田区今川小路(現在の神田神保町)に生まれる。永井胆一の先妻の子であり、父親の永井は旧幕臣で、印刷局の技師をしていた。神田高等女学校を中退し、継母らの勧めで1906年に15歳で高木陳平と結婚し渡米、11月末ニューヨークに到着。 陳平は料理人、徳子はメイドとしてアメリカ人宅で働く。
山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正… 山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正鄕、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 山口県出身。山口県立徳山高等学校を経て1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を席次5番で卒業。伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、そして山県本人も含めたこの期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。 遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - … 尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - 1955年8月26日) は、日本の化学者。理化学研究所名誉研究員。帝国学士院賞受賞。 山形県上山町(現上山市)出身。1911年に山形師範学校を経て、1914年、広島高等師範学校卒業。1919年、東北帝国大学理学部物理学科入学。松生義勝と同時に同化学科に転じ、1922年に化学科を卒業し、理化学研究所へ入所。1927年理学博士。1941年帝国学士院賞受賞。1942年理化学研究所主任研究員。1955年定年退職、理化学研究所名誉研究員、星薬科大学教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年… 千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年12月23日)は、日本の国文学者(上代文学)。元京都女子大学教授。 芳賀矢一の学統をつぎ、とくに万葉集の校訂などに成果をあげた。歌人として短歌・俳句も嗜んだ。 1889年、徳島県に生まれる。第五高等学校を経て、1912年に東京帝国大学文科大学国文学科を卒業、大学院に進学し、芳賀矢一の指導のもと万葉集を研究、本文校訂事業に没頭する。1914年、大学院修了。同年に芳賀矢一の推薦で東京府立第三中学校教諭、1917年には芳賀および上田万年の推挙で神宮皇學館教授に就任。1942年、勲三等・瑞宝章。 戦後は本務校が廃校となり、1942年から講師をしていた京都女子専門学校(のち新制の京都女子大学に移行)において五高時代の同級である松信定雄校長の勧めにより専任の教授となる。
香川 鉄蔵(かがわ てつぞう、1888年2月15日 - 19… 香川 鉄蔵(かがわ てつぞう、1888年2月15日 - 1968年12月9日)は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦後にかけて大蔵省に嘱託として勤務した人物。セルマ・ラーゲルレーヴ『ニルスのふしぎな旅』を日本語へ翻訳したことで知られる。 1888年、東京市浅草区の区会議員を務める香川直吉の三男として生まれる。1892年に父・直吉が49歳で死去、長男の初太郎は旧制中学の英語教員を勤め家計を助けたが1905年に30歳で死去している。 鉄蔵は兄や姉の支援を受け、1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進み心理学を専攻するが、大学卒業直前の1911年12月に自主退学した。
九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 19… 九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授。文学博士。 1888年、東京府東京市で生まれた。父は文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将の九鬼嘉隆。 1904年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校独法科に進むも、文科に転じた。東京帝国大学文科大学に進学し、哲学科ではラファエル・フォン・ケーベルに師事した。卒業後は、同大学大学院に進学。 大学院中退後、妻・九鬼縫子とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学。初めドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、それでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、その哲学の強い影響を受けた。
中屋 重治(なかや しげはる / じゅうじ、1888年〈明治… 中屋 重治(なかや しげはる / じゅうじ、1888年〈明治21年〉2月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月13日)は、日本の内務官僚。川崎市長。岩手県宮古市長。 福岡県戸畑(現北九州市)出身。1914年(大正3年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、さらに1916年(大正5年)に同法律科を卒業した。その間、高等文官試験に合格し、島根県理事官、同鹿足郡長、台湾総督府財務局事務官、台湾総督府高等商業学校教授、台湾総督府中央研究所事務官、新竹州警務部長、宮城県書記官・警察部長、栃木県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長を務めた。 1932年(昭和7年)、川崎市長に選出され、1935年(昭和10年)まで務めた。
鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2… 鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2月15日 - 1960年(昭和35年)3月14日)は、日本の官僚、政治家。第8代和歌山市長。 1886年(明治19年)2月15日、岡崎定治郎の次男として和歌山県西牟婁郡宇津木村(のち白浜町宇津木)で生まれ、後に西牟婁郡万呂村大字下万呂(現:田辺市下万呂)の鈴木まさゑと結婚して改姓。和歌山県立田辺中学校卒業後、1911年(明治44年)4月に西牟婁郡書記となり、1918年(大正7年)には和歌山県属に昇進したが、在任中の手腕が認められて内務属となり中央官界で活躍。 1926年(大正15年)10月、京都市の課長に就任し、累進して中京区長となって5年間務めた後、1938年(昭和13年)に和歌山市助役に迎えられた。
大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月… 大村 一蔵(おおむら いちぞう、1884年(明治17年)2月15日 - 1944年(昭和19年)1月29日)は日本の鉱山技師。石油調査・研究を専門とし、帝国石油副総裁や日本地質学会会長を歴任したほか、アマチュアスポーツの指導者としても活動した。 鳥取県鳥取片原二十番屋敷(現:鳥取市片原町)生まれ。鳥取県尋常中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、明治学院普通学部(現:明治学院高等学校)、第五高等学校(現:熊本大学)を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)地質学科に入学。 帝大卒業後、下関市の黒鉛会社を経て、1912年(明治45年)に、当時日本石油と並ぶ二大石油会社であった宝田石油(本社・長岡市)に技師として入社。
有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15… 有馬 浅雄(ありま あさお、明治17年〈1884年〉2月15日 - 昭和18年〈1943年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県上伊那郡伊那部村(現伊那市)生まれ。明治41年(1908年)に上京し、東京府北豊島郡滝野川町役場の吏員となる。後に助役、町長に推挙され、東京府会議員となる。 東京府税務協議会長、東京府五郡町村互助会長、大日本消防協会理事、帝都教育会理事など各種団体の役員、顧問、相談役に就任して奔走し、九十九里漁業会社などの企業重役も務める。 昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に長野県3区から出馬し当選、同年東京市会議員に当選。同11年(1936年)に政界を引退し、大政翼賛会東京支部常務員となったが、太平洋戦争中の同18年(1943年)に没した。
佐々木 志賀二(ささき しがじ、1882年(明治15年)2月… 佐々木 志賀二(ささき しがじ、1882年(明治15年)2月15日 – 1934年(昭和9年)9月18日)は、明治末から昭和初期の朝鮮総督府官僚、地主、政治家。衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。 岡山県和気郡和気町の長谷川家に生まれ、佐々木孚一郎の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。統監府理事庁属、朝鮮総督府中枢院属兼朝鮮総督府属、朝鮮総督府試補、朝鮮総督府道事務官となり、忠清北道財務部長、同第二部長、全羅北道第二部長、京畿道第二部長を歴任した。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1925年(大正14年)には岡山県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属し1932年(昭和7年)9月28日まで1期在任した。
伴野 喜四郎(ともの きしろう、1882年(明治15年)2月… 伴野 喜四郎(ともの きしろう、1882年(明治15年)2月15日 - 1953年(昭和28年)3月30日[要出典])は、日本の裁判官、検察官。 長野県南佐久郡野沢町(現在の佐久市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所予備検事、水戸区裁判所検事、土浦区裁判所検事、水戸区裁判所検事、東京地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事、台湾総督府法院覆審部長、同上告部判官、台北地方法院院長、高等法院検察官長を経て、1937年(昭和12年)からは高等法院長を務めた。
小久江 美代吉(おぐえ みよきち、1880年(明治13年)2… 小久江 美代吉(おぐえ みよきち、1880年(明治13年)2月15日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)。 静岡県城東郡岡崎村(小笠郡笠原村、磐田郡袋井町を経て現袋井市)で小久江利兵衛の長男として生まれた。裁判所書記登用試験に合格し掛川区裁判所書記となる。 1901年(明治34年)に明治法律学校を卒業し、1903年(明治36年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、弁護士業に従事する。高木益太郎事務所で実習後に独立した。 神田区会議員、東京市会議員・学務委員などを経て、1928年(昭和3年)に第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。
高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月… 高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月1日)は、日本の宮内官、神職、華族。貴族院子爵議員、伊勢神宮大宮司。旧姓・藪。1936年(昭和11年)2月、高倉に復姓(中国語版)した。 東京府で華族・藪実休(さねたる)の二男として生まれる。1882年(明治15年)10月7日、祖父・藪実方の隠居に伴い家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1907年(明治40年)明治大学政治科を卒業し、さらに東京外国語学校仏語専修科で学んだ。 1890年(明治23年)侍従職出仕となり、1898年(明治31年)主猟官に転じた。1914年(大正3年)1月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1940年(昭和15年)2月20日に辞任した。
堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15… 堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1931年〈昭和6年〉9月12日)は、日本の実業家、衆議院議員。日魯漁業株式会社(現株式会社マルハニチロ)の創業者。実弟は新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎。 堤清六は1880年2月15日 に、新潟県南蒲原郡三条町上町(現三条市)の呉服商「近清」(堤家)7代目の清七、千代の長男(第1子)として生まれた。三条町立尋常高等小学校(現三条市立三条小学校)を卒業後、北米教校に進学した。1895年 には、祖父の東京出張に同行していたが、その祖父が急死し遺骨を持ち帰ることになる。1904年 には、 日露戦争で御用商人(酒保)を志願、満州に渡る1906年、清六はアムール川下流のブロンゲ岬で平塚常次郎と出会う。
長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月… 長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月15日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、旧制中学校の教員。長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代町)においてビン詰めによるエノキタケの人工栽培法を考案した。