望月 力(もちづき つとむ、1922年(大正11年)10月1… 望月 力(もちづき つとむ、1922年(大正11年)10月17日 - 2007年(平成19年)3月29日)は、日本の登山家。新潟県出身。 戦後金物の町三条市で鍛冶屋が作って製品を各地に卸す集散地問屋にある家業を継いだ。また戦前始めた登山も再開した。戦前に比べると登山用具は少しずつ手に入りやすくなったが、やはりハーケンやカラビナはほとんど持つことができなかった。 1950年、鈴文という鍛冶屋に話を持ちかけ、二人で共同して自分で使うためのハーケン作りを始めた。望月がホームグランドにしていた谷川岳では岩が複雑でリスのすぐ奥でその間隙が狭かったりくねったりすることが多く、従前のハーケンでは曲がった先のリスには入りにくかったが、望月は鍛造した軟鉄でハーケンを作ることを考えつき、リスのカーブに沿って侵入しかつ曲がっても折れにくいハーケンができた。
大島 隆夫(おおしま たかお、1920年10月17日 - 2… 大島 隆夫(おおしま たかお、1920年10月17日 - 2008年2月27日)は、日本の実業家。富士火災海上保険社長。
中牟田 栄蔵(なかむた えいぞう、1920年10月17日 -… 中牟田 栄蔵(なかむた えいぞう、1920年10月17日 - 1997年7月18日)は、日本の経営者。岩田屋社長を務めた。福岡県出身。 1943年に同志社大学経済学部を卒業し、1945年に岩田屋に入社した。1947年に取締役に就任し、1956年に常務、1971年に専務、1979年に副社長を経て、1985年5月に社長に就任した。1989年5月から相談役を務めた。 1997年7月18日肺癌のために死去。76歳没。
柏木 雄介(かしわぎ ゆうすけ、1917年〈大正6年〉10月… 柏木 雄介(かしわぎ ゆうすけ、1917年〈大正6年〉10月17日 - 2004年〈平成16年〉8月27日)は、関東州(現中国)大連市出身の大蔵官僚。大蔵省財務官を経て東京銀行頭取を務めた。 父・横浜正金銀行大連支店次長(後に頭取)柏木秀茂、母・きよのもとに生まれる。父の転勤に伴って少年時代をロンドン、ニューヨークで過ごした。 1941年(昭和16年)入省の同期には、鳩山威一郎(外相、大蔵事務次官、主計局長)、塩崎潤(総務庁長官、経済企画庁長官、主税局長)、亀徳正之(協栄生命保険社長、国税庁長官、大臣官房長、財務参事官)、吉村慎一(四国銀行頭取)、加治木俊道(証券局長、関西電力副社長)、森鼻武芳(北海道公安委員会委員長、北海道銀行会長、同行頭取)。
殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30… 殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。 神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾()である。父親は広島県生口島出身。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京府東京市中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」である。
西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年〈大正3年〉10月… 西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年〈大正3年〉10月17日 - 1993年〈平成5年〉5月31日)は、日本の漫才師、漫談師、放送タレント。本名:河内 弘明。 毒舌と鋭い社会風刺を売り物にした漫談で知られ、戦後の民間放送誕生初期に人気を博した。 大阪府大阪市生まれ。旧制浪華商業学校卒業、関西大学専門部中退。最初、五代目笑福亭松鶴に弟子入りするが芸人を志し、来阪した古川ロッパや初代大辻司郎に弟子入り志願をしたが断られ、知人の紹介で当時「漫談屋」と称していた花月亭九里丸の内弟子となる。「西条」の亭号は九里丸のペンネーム「西条ちかし」および西条八十から、「凡児」は麻生豊の漫画『只野凡児』から取ったとされる。
小室 恒夫(こむろ つねお、1913年10月17日 - 20… 小室 恒夫(こむろ つねお、1913年10月17日 - 2001年11月1日)は、日本の官僚、経営者。茨城県出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に商工省に入省。貿易庁、通商産業省での勤務を経て、1958年に公益事業局長に就任し、1960年には通商局長に就任し、1961年までに務めた。 1961年に八幡化学工業(のちの新日鉄化学)副社長に就任し、1965年には社長に昇格。1979年に会長を経て、1984年から相談役を務めた。 1981年に藍綬褒章を受章し、1986年に勲二等瑞宝章を受章した。 2001年11月1日肺炎のために死去。88歳没。
柴田 健三(しばた けんぞう、1913年10月17日 - 2… 柴田 健三(しばた けんぞう、1913年10月17日 - 2004年6月27日)は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1935年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に日本窒素肥料に入社した。1959年5月に取締役に就任し、1964年5月から1967年5月までに常務を務めた。 1966年5月に積水化学工業専務に就任し、1971年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格した。1979年1月に取締役相談役に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1980年5月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2004年6月27日肺炎のために死去。90歳没。
杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ… 杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ)、1910年10月17日-1988年12月12日)は、日本の写真家。報道写真およびヌード写真に長ける。 1923年、早稲田中学在学中に関東大震災にあい、その後中学を中退。 映画のカメラマンとして出発し、1934年に写真家に転身。 1934年に創刊された雑誌『NIPPON (グラフ誌)』にも作品が掲載された(日本工房に所属していたわけではない)。 1938年7月に、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、光墨弘、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を設立し、活躍した。例えば、1939年4月30日から10月31日まで開催されたニューヨーク万国博覧会(前期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「躍進日本」には、同会の土門拳、若松不二夫、山川益男、溝口宗博とともに杉山吉良の写真作品も使用された。
木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 197… 木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 1976年12月19日)は、日本の経営者、工学博士。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。 福島県会津若松市出身。1933年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。 1957年11月に取締役に就任し、1962年に常務、1965年11月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。 1976年12月19日、くも膜下出血のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10… 作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10月17日 - 1932年〈昭和7年〉2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人で爆弾三勇士の一人。最終階級は工兵伍長。勲八等功六級。長崎県北松浦郡平戸村大字平戸田助浦183番地(現・平戸市田助町)出身。 家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。
曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日… 曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日 - 1996年2月13日)は、国文学者。中古・中世文学が専門。 長野県上高井郡小山村(現須坂市)生まれ。旧制須坂中学(長野県須坂高等学校)を経て、1933年京都帝国大学文学部国文科卒。旧制大阪府立市岡中学、池田中学などの旧制中学校教諭を経て、1943年大東亜錬成院錬成官、1944年長岡工業専門学校教授、1947年奈良女子高等師範学校教授、1950年奈良女子大学教授、1963年文学部長、1971年学長。1977年定年退官、名誉教授、摂南大学国際言語文化学部教授。仏教美術協会理事長。文化庁平城宮跡保存整備委員会委員などを歴任した。
川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10… 川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10月17日 - 1992年〈平成4年〉5月21日)は、日本の法学者。専門は、民法・法社会学。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1969年)(学位論文「所有権法の理論」)。東京大学名誉教授。弁護士。1979年学士院会員、1991年文化功労者。我妻栄門下。弟子に、潮見俊隆、渡辺洋三、唄孝一、廣中俊雄、石村善助、平井宜雄、六本佳平、石田穣、淡路剛久など。 岐阜県岐阜市生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、丸山眞男、大塚久雄とともに戦後民主主義、啓蒙主義を代表する論者。東京帝国大学教授、スタンフォード大学客員教授等を歴任。東京大学教授退官後は弁護士として活動した。
尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月… 尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月17日 - 平成11年(1999年)4月19日)は、三井金属(現・三井金属鉱業)社長・会長・名誉相談役。位階は従三位。
尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 19… 尾高 邦雄(おだか くにお、1908年10月17日 - 1993年9月11日)は、日本の社会学者。東京大学文学部名誉教授。子爵・渋沢栄一の孫にあたる。 1908年、実業家・尾高次郎の五男として東京市根岸に生まれた。1926年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、勝田守一、宗像誠也(共に「東大教育の3M」)らがいた。第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部社会学科に入学。次第にマックス・ウェーバーに関心を持つようになった。1932年に卒業論文『社会学における了解的方法』を提出して卒業。 卒業した同1932年に、母校・東京帝国大学文学部副手に採用された。
宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月… 宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年〈明治41年〉10月17日 - 2007年〈平成19年〉7月18日)は、日本の政治家・共産主義者・文芸評論家。通称ミヤケン。 戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。国会に議席を持つ国政政党の党首でありながら、国会議員ではなかった時期がある。 山口県熊毛郡光井村(現・光市)出身。父は、隣の島田村で米穀、肥料、雑貨などの小売商を営んでいたが、中学入学当時に破産状態になり、都濃郡富田村(現・周南市)にあった母の実家に預けられ、そこから中学に1年くらい通った。
北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - … 北沢 喜代治(きたざわ きよじ、1906年10月17日 - 1980年8月11日)は、日本の作家。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学国文科卒業。 富山県旧制高岡中学(富山県立高岡高等学校)などの教壇に立つ傍ら、1937年、臼井吉見らと同人誌『鳰の巣』を発行し「最後の銅貨」などの小説を発表。『早稲田文学』には「雁の書」が掲載された。 詩集『兄の最後の手紙』(1935年)では貧困への憎悪を表現したものであるが、秋山清には酷評された。 戦時中は宇野浩二が北沢を頼り松本に疎開。戦後は小谷剛主宰の『作家』に「日之島」、「夢三代」などの小説集を出した。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsus… 荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsusaburo Arai、1904年10月17日 - 1990年7月25日)は、日本のカトリック高位聖職者。横浜司教区第6代教区長及び第4代司教。洗礼名はルカ。 栃木県宇都宮市出身。東京の暁星中学校を経てフランスに留学し、パリのサンスルビス神学大学哲学神学部を卒業後、1930年に当地で司祭に叙階された。 帰国後は東京大司教区の千葉教会、本郷教会、麹町教会担当及び大司教館付を歴任。 1949年には松戸教会の建設用地を確保し、1950年に定礎式を司式している 1951年5月に引退した脇田浅五郎司教の後任として同年12月9日に司教に任命され、1952年2月24日に司教に叙階された。
長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年… 長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年12月21日)は、日本の小説家、児童文学者。 福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。ちなみに、東宮永小学校は琴奨菊関の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。1932年(昭和7年)浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -19… 立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -1971年10月25日)は日本の小説家。 千葉県市原郡五井町(現・市原市五井地区)生まれ。旧制関東中学校中退。 4歳で母と生別し、12歳で父を失い、祖父母に養育される。中学時代に短歌を始め、窪田空穂らの「國民文学」に投稿。1921年に山田清三郎・松本昌夫・奧貫信盈・元吉利義らとともに短歌同人雜誌「曠野」を発刊。1922年に親戚の伊藤恣・山田清三郎らとともにプロレタリア文学雑誌『新興文学』を発刊し、同誌に評論「階級の文学」を發表。20歳で市原郡五井町役場に就職するも、2年後に佐倉步兵連隊に入営。除隊後の1925年頃より雑誌『文芸戦線』にエッセイや評論、詩を寄稿。
奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 … 奥村 竹之助(おくむら たけのすけ、1902年10月17日 - 1960年2月1日)は、日本の元ラグビー選手。主なポジションはセカンドロー (LO)。 大阪府大阪市靱出身。神戸一中(現:兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都帝国大学へと進む。京大のラグビー部では主将を務め、本場、イギリスに倣い、『3・2・3』の8人制フォワードシステムを取り入れるなどした成果が現れ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で優勝に貢献。また、京大在籍時代に高等文官試験にも合格したが、1926年に卒業後は三菱商事に入社。三菱商事時代も、イギリス勤務時代は現地のクラブでプレーするなどして活動した他、谷村順蔵、吉田義人とともに、『全三菱ラグビー倶楽部』の結成に尽力した。
真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没… 真道 永次(しんどう えいじ、1902年10月17日 - 没年不詳)は、日本の地理教育者。 神奈川県生まれ。神奈川県師範学校卒。文検地理合格、小・中・高校教師ののち、帝国書院、清水書院などで地理教科書の執筆にあたる。
宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - … 宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - 1985年8月19日)は、日本の政治家。日中友好協会理事長を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世龍の実兄、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(1919年卒業)を経て、1924年に東京帝国大学法学部を卒業した。1913年に、孫文が革命成功の謝礼として、熊本県荒尾市の民蔵宅を訪問したときの記念写真に、孫文の隣にいる姿が残されている。『土地農民にかえる』などを翻訳した。 日中友好運動に貢献し、日中友好協会結成に尽力。1963年5月13日に、日中友好協会第13回全国大会で専従の理事長に就任し、17年間その職を務めた。 理事長就任時には、岸内閣・佐藤内閣の反中国政策のために、中華人民共和国との民間交流も断絶していた。
大畑 末吉(おおはた すえきち、1901年10月17日 - … 大畑 末吉(おおはた すえきち、1901年10月17日 - 1978年4月25日)は、日本のドイツ文学者・北欧文学者・翻訳家。文学博士(東京大学・論文博士・1962年)。一橋大学教授・早稲田大学教授を歴任。 アンデルセンの著作を日本でデンマーク語の原典から初めて翻訳し、長く森鷗外のドイツ語からの訳で読まれていた『即興詩人』を原典から訳した。 指導学生に宮野悦義(一橋大学名誉教授)がいる。一対一の指導になったという。 1978年4月25日、動脈りゅう破裂により東京都立養育院附属病院にて死去。76歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1… 鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1998年1月26日)はドイツで学んだとされる日本のヴァイオリニスト。スズキ・メソードの創始者であり、世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名で、その教育理論は、日本よりも欧米で、とりわけアメリカ合衆国で高く評価されている。
森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)1… 森口 淳三(もりぐち じゅんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1975年(昭和50年)3月10日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。静岡県引佐郡気賀町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 静岡県引佐郡気賀町(細江町を経て現浜松市浜名区)に生まれる。1917年(大正6年)浜松商業学校卒業。 陸軍歩兵中尉として支那事変に従軍した。気賀町長、静岡県会議員、同副議長を歴任。ほか、在郷軍人会郡連合分会長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は、翼賛会政調幹事、内閣、農林兼務委員を歴任した。
森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年… 森本 軍蔵(軍藏、もりもと ぐんぞう、1897年(明治30年)10月17日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。森本徳次郎の長男として生まれる。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第71連隊付となる。1919年(大正8年)8月から1920年(大正9年)5月までシベリア出兵に出征した。1922年(大正11年)3月、歩兵中尉に昇進。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し飛行第7連隊付となる。 1926年12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官。
大宮 伍三郎(おおみや ごさぶろう、1897年(明治30年)… 大宮 伍三郎(おおみや ごさぶろう、1897年(明治30年)10月17日 - 1957年(昭和32年)6月14日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員(2期)。号・呉山楼。 広島県沼隈郡赤坂村(現福山市)で、大宮亀吉の長男として生まれる。1921年(大正10年)5月、名古屋新聞東京支局に入社し、その後明治大学で学んだ。 1925年(大正14年)名古屋新聞東京支局長に就任し、新聞広告の分野でその才能を発揮した。その後、名古屋本社に転じ専務理事に就任した。戦時下に入り新聞統制が強化されて日本新聞連盟が成立し名古屋新聞から大宮が派遣され、新聞用紙の供給減に対処するため共販制を考案してその実現に尽力した。
佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 19… 佐藤 武雄(さとう たけお、1895年10月17日 - 1958年7月1日)は、日本の法医学者。医学博士(1928年、東京帝国大学)。 長野県小県郡大門村(現長和町)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学医学部卒業。1926年東京医学専門学校教授、1929年京城帝国大学教授、1944年に東京で行われた法医学会出席のため帰国し、そのまま郷里で終戦を迎えた。1948年旧制松本医学専門学校教授、同法医学教室主任教授、1950年校長兼信州大学医学部長、1954年学長を歴任した。 俳人としては「眉峰」と号し、高浜虚子に師事し、「ホトトギス」同人。京城時代に俳句結社「水砧」を主宰した。
川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 19… 川田 芳子(かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日)は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。 1895年(明治28年)10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの市山流四代目 市山七十世師匠と、父原良一の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、「川上芳子」の芸名で貞奴一座の『八犬伝墨田の高楼』(帝国劇場)で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。 松竹の新派などを経て、1920年(大正9年)、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。
飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 19… 飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 1970年1月24日)は、日本の日本画家、俳人、俳諧関係資料の収集家。 神奈川県橘樹郡大綱村(現在の横浜市港北区の一部)の江戸時代以来の素封家に、三男として生まれた。父・快三は、大綱村長や神奈川県議会議員を務めた人物で、飯田家の家長の名である助太夫を第11代として襲名し、海山と号した有力者であった。 東京美術学校を卒業し、さらに川合玉堂の下で日本画を修行し、帝国美術院展覧会(帝展)などで作品を発表した。 後には俳画に取り組み、自ら主宰する「香蘭会」で指導にあたった。 1952年には第1回横浜文化賞の受賞者のひとりとなった。 飯田は、松尾芭蕉、宝井其角、与謝蕪村らの真筆など、多数の短冊・色紙などからなる俳諧関係の資料を収集したが、このコレクションは神奈川県の県史編集室に寄託され、その後、神奈川県立文化資料館、神奈川県立図書館が管理して現在に至っている。
山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1… 山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 山梨県南都留郡禾生村(現:都留市)出身。現在の都留市四日市場の岩生山保寿院住職の山崎玄洞の二男として生れる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊附となる。 1918年(大正7年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。同連隊の大隊副官、中隊長を務め、1928年(昭和3年)5月、済南事変に出動。
沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月1… 沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)は、日本の外交官。外務次官後、駐フランス特命全権大使・初代ビルマ特命全権大使を経て、再び外務次官。初代国連大使、世界経済調査会議長。 旧制鳥取県第一中学校から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。外交官試験に首席合格し外務省入省。外務省きってのフランス語・英語の堪能者で、戦前は宮内省御用掛を兼務し、昭和天皇の通訳を務め、戦後も元首等との通訳にあたった。また、財団法人滝乃川学園理事長(第4代)などもつとめた。妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は、三菱合資会社社長・岩崎家当主男爵岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘。
鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 195… 鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 1957年9月1日)は、軟式野球に用いるボールを発明した人物である。
中村 貫之(なかむら かんし、1888年(明治21年)10月… 中村 貫之(なかむら かんし、1888年(明治21年)10月17日 - 1983年(昭和58年)12月31日)は、大正から昭和期の銀行家、華族。男爵、貴族院議員。孫の橋本久美子は第82・83代内閣総理大臣橋本龍太郎の妻。政治家の橋本岳は曾孫。 陸軍軍人・中村雄次郎の二男として生まれる。学習院中等科から高等科で里見弴と親しく、共に回覧雑誌『麦』を刊行、『白樺』同人であった[要出典]。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。父の死去に伴い1928年(昭和3年)11月1日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1914年(大正3年)、横浜正金銀行に入行する。カルカッタ支店副支配人、カラチ出張所副主任を経て蘭貢支店支配人、東京支店副支配人、ラングーン支店支配人、シアトル支店支配人、本店支配人などを歴任。
鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年… 鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年9月11日)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師。 レフ・トルストイの『戦争と平和』の全訳やカナダでの労働組合運動で知られる(後述)。 鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。
大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - … 大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - 1964年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大分県佐伯市出身。アメリカに渡り、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学、コロンビア大学大学院で学ぶ。帰国後万朝報の記者となり、主筆となる。その後、陸海軍の嘱託講師を経て、関東軍、支那派遣軍、北支派遣軍の各司令部の嘱託となる。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の大分1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補して当選する。翼政会政調陸軍委員となった。戦後、推薦議員のため、公職追放となり、追放解除後も立候補することはなかった。1964年(昭和39年)死去。
結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月1… 結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月17日 - 1977年(昭和52年)3月4日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。参議院議員。 結城萬蔵の二男、結城堅の弟として茨城県取手町(現取手市)に生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、三井物産に入り、本店、上海、大阪各支店にて勤務する。1924年(大正13年)清浦内閣の時、逓信大臣秘書官に任ぜられた。実業界では早川電力、東京電力、大井川鐵道などの重役、自動車鋳物、大井川電力各社長、三河水力電気、伊豆水力電気、上毛電力、東京湾電気、寸又川水力電気各取締役などを歴任した。
林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉1… 林 久治郎(はやし きゅうじろう、1882年〈明治15年〉10月17日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の外交官。駐ブラジル大使、南洋協会理事長。 栃木県下都賀郡壬生町生まれ。同期11名中9位の成績で外務省に入省。同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、池邊龍一(のちに東洋拓殖総裁)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、尾崎洵盛(のちに男爵)ら。 奉天総領事着任直後に関東軍の謀略により張作霖爆殺事件が起こると、当時外相であった幣原喜重郎に関東軍が陰謀を目論んでいる旨の電報を打電するなど、軍部の行動を批判し平和的解決に努めた。
高木 尚右(たかぎ しょうすけ、1880年(明治13年)10… 高木 尚右(たかぎ しょうすけ、1880年(明治13年)10月17日 - 1958年(昭和33年)5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 山口県出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。のち東京帝国大学工科大学機械工学科卒業。 1924年(大正13年)12月に陸軍工兵大佐・工兵第20大隊長、1927年(昭和2年)7月に陸軍技術本部附、1930年(昭和5年)8月に陸軍少将・舞鶴要塞司令官を経て、1931年(昭和6年)8月1日に待命、同月29日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月… 田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月17日 - 昭和25年(1950年)1月30日)は、日本の逓信官僚・政治家。大阪府知事・内閣書記官長・逓信大臣・内務大臣を歴任した。山梨県出身。妻は杉山叙の養子である正四位勲二等東京府士族杉山四五郎の養妹である真知。 山梨県東山梨郡神金村(現在の甲州市)の酒造業者の次男に生まれる。明治38年(1905年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、逓信省に入省する。横浜郵便局長、大阪郵便局長、逓信監理局書記官、同事務官、逓信省参事官兼為替貯金局事務官、大阪逓信局長、東京逓信局長を務めフランスに留学した後、無線電信法の制定に尽力するなど、通信行政の専門家として活躍して大正13年(1924年)には通信局長になり、「通信閥」の長と見られていた。
丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17… 丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17日 - 1953年10月14日)は、愛知県出身の日本の曹洞宗の僧侶。 明治10年(1877年)10月17日、愛知県碧海郡筒針村(現・岡崎市)山田栄助の三男として生まれる。1891年、静岡県磐田郡井通村(現・磐田市)の正医寺住職榑松賢童に就いて出家得度。可睡斎で修行し西有穆山・丘宗潭に師事して後を継ぐ。 1902年(明治35年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業、1915年(大正4年)に修禅寺38世住職・安泰寺住職を継ぐ。 曹洞宗大学林副学監、永平寺後堂、總持寺西堂、ソウル博文寺住職を歴任し、1947年(昭和22年)に帰国後、永平寺西堂、永平寺東京別院監院、永平寺副貫首となる。
立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 -… 立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 - 1955年4月2日)は、日本の仏教学者、哲学博士。曹洞宗の僧侶。第14代駒澤大学学長、学監。号は天眞。 佐賀県杵島郡南有明村(現・白石町)生まれ。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学。1905年(明治36年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。宗門海外留学生としてセイロン(現スリランカ)に渡り、コロンボ市ピデョーダヤ・カレッジ(ピヂョノダヤ・カレッジ)でパーリ語や梵語(サンスクリット)、原始仏教を学ぶ。1919年(大正8年)インドシナ、タイ、ビルマなどを経て英国オックスフォード大学に留学。1922年、同大学にて哲学博士号を取得(研究成果は1926年「The Ethics of Buddhism」として出版)し帰国。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
南部 利克(なんぶ としなり、1873年〈明治6年〉10月1… 南部 利克(なんぶ としなり、1873年〈明治6年〉10月17日 – 1950年〈昭和25年〉5月6日)は旧八戸藩南部家の12代当主であり子爵。 陸奥盛岡藩主・南部利剛の十一男として1873年(明治6年)生まれる。1878年(明治11年)に姉の麻子の養子となり、同年5月17日に4歳で八戸南部家の家督を相続。1880年(明治13年)従五位に叙せられ、1884年(明治17年)に子爵となった。慶應義塾幼稚舎を経て大学部まで進む。1893年(明治26年)、水野忠敬の長女銓子と結婚。宮内省に出仕して式部官を務めた。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5… 木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5年9月15日) - 1940年(昭和15年)10月1日)は、日本の検察官、宮内・台湾総督府官僚。高雄州知事、官選函館市長。 福島県出身。木村宗順の長男として生まれる。1899年7月10日、東京帝国大学法科大学を卒業。同年7月29日、司法官試補となり検事代理として神戸区裁判所詰を命ぜられた。 以後、神戸地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、徳島地方裁判所検事を歴任。1914年7月、宮内省に転じ同事務官に就任。以後、調度寮勤務、大礼準備委員、大礼使事務官、調度部勤務、大礼記録編纂委員会委員、久邇宮附、帝室林野管理局事務官などを務めた。 1923年6月、台湾総督府に転じ参事官に就任し、同年8月13日、同府税関長に任じられた。
山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。