柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1… 柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1981年6月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。岡山県出身。 1920年(大正9年)中央大学法学部を卒業。1921年(大正10年)に弁護士登録。 1961年(昭和36年)4月に柏原が所属する会派から順送りで推されて、無競争のまま東京弁護士会会長に選出されて就任。会長に選ばれた時に「抱負は別にないが、弁護士の職域を広げること。正義の実現を旨とする弁護士のあり方は、もっと世間に受け入れられていいと思う」と述べる。 1963年(昭和38年)12月に最高裁判所判事に就任。1958年(昭和33年)と1962年(昭和37年)にも日弁連から最高裁入りを推され固辞したこともあり、三度目に了承したことになる。
後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982… 後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982年1月19日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。 茨城県出身。1922年に東京帝国大学機械科を卒業し、同年に鉄道省に入省。 1949年5月に関東特殊製鋼常務に就任し、同年6月に近畿車輛専務を経て、1959年11月には社長に就任。1970年6月には相談役に就任した。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年1月19日、心不全のために死去。84歳没。
山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月2… 山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月20日 - 1975年(昭和50年)4月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知市西町出身。山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 19… 荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 1978年2月10日)は、日本の篤農家。 長野県北佐久郡東長倉村(現軽井沢町)生まれ。尋常小学校卒業後、農業に従事し、軽井沢町会議員などを務める。昭和7年(1932年)、野菜の温床苗代に伸びていたイネ苗を発見し、これをきっけに高冷地のイネの育苗法や冷害対策研究に没頭し、水苗代の改良に取り組み、委託苗代や、温床苗代、水陸折衷苗代等の試作を重ねた末、イネを早植をすることで冷温による障害やイモチ病への抵抗力が高まることを発見し、昭和17年(1942年)には、種を撒いた苗代の上に油紙を置いて地温を上昇させ、発芽時期を早める「保温折衷苗代」を考案し、同年農林大臣より食糧増産功労者として顕彰された。
川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月… 川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月20日 - 1963年(昭和38年)1月4日)は、台湾総督府官僚、陸軍司政長官。 鹿児島県出身。1918年(大正7年)に高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。拓殖局属を経て、1921年(大正10年)に台湾総督府事務官となり、専売局煙草課長、樟脳課長、庶務課長、殖産局特産課長、総督官房文書課長・調査課長、殖産局山林課長・鉱務課長、台南州内務部長、総督官房審議室勤務・調査課長などを経て、1936年(昭和11年)に台南州知事に就任した。その後、台北州知事、拓務省拓南局長を歴任し、1941年(昭和16年)に退官した。 1942年(昭和17年)、陸軍司政長官となり、ベンクレン州長官、ペラ州長官を務めた。
久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9… 久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9月20日 - 1965年(昭和40年)7月31日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・山本。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)で山本家に生まれ、久芳安之進の養子となる。1912年(明治45年)山口県師範学校を卒業した。 その後、山口県視学、公立国民学校訓導、同校長、萩市青年団長、萩市女子青年団長、山口県青年学校教育会理事長、日本体育会山口県支部評議員、日本教育会山口県支部国民学校教育部会長、光市島田農業協同組合長などを務めた。山口市内の小学校で教員として勤務していた大正時代後期には、山口県阿武郡を拠点とする教育実践グループ「更新会」に所属し、機関紙「更新」においてエッセイを寄稿するなど活動に参画していた。
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9… 市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人で、日本海軍の航空草創期のパイロットである。硫黄島の戦いで戦死。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。 佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。旧制唐津中学校を卒業後、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)に海軍兵学校第41期に入校し、1913年(大正2年)に118名中46位の成績で卒業した。1917年(大正6年)12月、第3期航空術学生(飛行学生の前身)となり、1918年(大正7年)12月に卒業し、パイロットの資格を習得。
永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20… 永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1965年〈昭和40年〉9月29日)は、日本の舞踊批評家、歌人。 1910年、東京外国語学校英語科を卒業する。村井吉兵衛の秘書を務めたのち1921年(大正10年)に帝国劇場文芸部に入り、関東大震災での解散までそこに勤めた。部の解散後、舞踊批評家に転身する。 時事新報の嘱託も務め、西洋舞踊や邦楽の批評を執筆し、村松道弥らと音楽新聞も創刊した。西欧舞踊の黎明期から晩年まで多くの批評を残し、印象批評と独自な見解に定評がある。 スペイン語の永田寛定、詩人の永田助太郎を親族に持つ[要出典]。
大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの とも… 大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか〉、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1964年〈昭和39年〉5月29日)は、日本の政治家。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。1955年の保守合同に際し三木武吉と協力し、自民党結成に尽力。1957年以降自民党副総裁を長く務めた。派閥の力関係を巧みに操る寝業師型の政治家とされる。 「政治は義理と人情だ」[要出典]「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した。
矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年… 矢口 達(やぐち たつ、1889年9月20日 - 1936年4月4日)は、日本の英文学者、翻訳家。 茨城県新治郡高浜町(現在の石岡市)生まれ。土浦中学校在学中には、一期上の熊岡美彦や同期の永瀬義郎らと交流を持つ。1913年早稲田大学英文科卒業。 日夏耿之介らの『聖盃』同人。東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)教師、早稲田高等学院教授、早稲田大学講師を歴任。 息子はエッセイストの矢口純。
伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978… 伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978年4月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、熊本日日新聞社長。熊本県近代文化功労者、八代市名誉市民。 熊本県芦北郡日奈久町(現八代市)生まれ。上京して早稲田大学専門部政治経済科に入学、永井柳太郎の講義を聴いていた。上京後、同郷の池辺三山を頼るが、一年足らずで亡くなったため、池辺三山の弟分である鳥居素川に相談する。鳥居素川が安達謙蔵に話をして、故郷熊本の九州日日新聞の東京通信員という名目で学費を補助してもらうことになり、雑誌にも毎月二十枚ほど書くようになった。鳥居素川から卒業したら朝日新聞に入れてやると言われ、1915年(大正4年)に早大卒業翌日に東京朝日新聞編集局長の松山忠二郎と面会して外務省担当を打診されるが、九州日日新聞から通信員の名目で学費補助を受けていたことを説明して、九州日日新聞に入社する。
稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月2… 稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月20日 - 1973年(昭和48年)3月8日)は、日本の内務官僚、教育者。官選秋田県知事。 熊本県下益城郡海東村南海東小園に、海東村長・稗方惟一の長男として生まれる。熊本県立中学済々黌、第五高等学校を経て、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し熊本県属となる。以後、大正4年(1915年)に山口県警視、大正6年(1917年)に山口県佐波郡長、大正7年(1918年)に宮城県理事官、大正10年(1921年)に福岡県理事官から内務省に異動し国勢院書記官となり、大正13年(1924年)11月に山梨県書記官・内務部長となり、その後、神奈川書記官・内務部長などを歴任。
早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20… 早坂 力(はやさか ちから、1887年〈明治20年〉9月20日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、昭和期の実業家。岩手県出身。東京高等工業学校(現・東京工業大学)卒。 『工作機械と文明―早坂力全集』による。
小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月… 小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月20日 - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、ジャーナリスト、教育者。台湾総督府郵便電信書記官、朝日新聞社外報部記者、台湾銀行通信員、スタンダード・オイル通信員、立教大学教授。英文通信の権威として知られ、教育者として商業英語を教えた。 茨城県西茨城郡、のちの南川根村で小野祐太郎の長男として生まれた。 1897年(明治30年)10月まで、台湾総督府郵便電信書記官を務める。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 その後、朝日新聞社に入り、外報部記者を務めた。そのほか、日本における英文通信の権威として、台湾銀行や米国のスタンダード・オイル社の東洋通信員を務めた。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月… 福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。澎湖庁長。通称は康行。 鹿児島県鹿児島郡川上村(現・鹿児島市川上町)に生まれる。第七高等学校造士館を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学経済学部を卒業し、翌年10月文官高等試験行政科試験に合格。直ちに官界に入り、茨城県工場官補、同県結城郡・真壁郡長、同県理事官を経て、1924年(大正13年)栃木県属に転じ、さらに翌年長野県書記官を経て、1927年(昭和2年)和歌山県書記官を拝命する。 ついで渡台し、1932年(昭和7年)台北州内務部長、1935年(昭和10年)澎湖庁長を経て、1936年(昭和11年)府事務官に転じ退官。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 19… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 1953年11月9日)は、日本の冶金学者で鉱山技術者。前半生は藤田組(現・DOWAホールディングス)で製錬技術改良を手がけ、学術に転じた後半生は秋田鉱山専門学校 (旧制)校長を務めた後、同校を母体とした秋田大学の事実上の初代学長となった。 現在の秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)に生まれる。父の孫一は県内の田子内鉱山の経営者となる。孫一は元は仙北郡の出身で、謙三が生まれた年に秋田に出て企業の経営に加わり、1886年に田子内鉱山の運営を始めた。 秋田師範附属小学校(現・秋田大学教育文化学部附属小学校)から旧制秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に進む。
青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉… 青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉9月20日 - 1940年〈昭和15年〉5月25日)は、日本の政治家。長野県会議員。長野県参事会員。長野県下高井郡養蚕業組合長。有限責任北信共同乾繭販売組合理事。 長野県下高井郡延徳村(現・中野市)生まれ。青木彦兵衛の長男。小県蚕業学校、足利工業学校を卒業。県農工技手に就任。 1年志願兵として歩兵第15連隊に入り累進、中尉に任官。日露戦争に従軍して、勲六等、功五級金鵄勲章を賜う。凱旋後下高井郡農商学校教諭となった。中野農学校養蚕教師として奉職し、1923年に退職。 下高井郡書記、郡農会技師、農林技師、県農会技師、須坂支所長等を歴任。1906年以来県養蚕連合会に関係し、県養蚕連合会評議員、全国養蚕連合会評議員である。
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月2… 大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年(大正3年)に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。やがて大山を含めた「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授連は早大当局に対して様々な改革要求を突きつけることになる。
柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20… 柴田 桂太(しばた けいた、1877年〈明治10年〉9月20日 - 1949年〈昭和24年〉11月19日)は、日本の植物生理学者・生化学者・微生物化学者。薬学者・柴田承桂の長男。弟に化学者柴田雄次がいる。薬学者・柴田承二(文化功労者)の父。 東京府出身。1899年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、第一高等学校・東北帝国大学などで教鞭をとった後、1910年に母校講師となり、直後にドイツに留学してヴィルヘルム・ペッファーに師事した。1912年に帰国して助教授となると、日本で最初の植物生理学・生化学の講座を開いた。1918年、植物界におけるフラボン体の研究で学士院恩賜賞を受賞、同年教授に昇進する。
中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年>… 中野 種一郎(なかの たねいちろう、1876年 <明治9年> 9月20日 - 1974年 <昭和49年> 1月24日)は、日本の政治家、実業家。伏見町長、伏見市長を経て、衆議院議員や、京都放送会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長などを歴任した。 京都府乙訓郡調子村(現・長岡京市)生まれ。佛教専門学校(現佛教大学)卒業。家業の酒造業に従事する。1908年に紀伊郡会議員となり、以後4期務めた。また、1909年3月からは伏見町会議員となって、3期務めた。1914年からは郡会議長も務めた。1923年の郡制廃止まで郡会議長と議員を務めた。1926年8月3日に伏見町長に就任した。
胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)… 胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)9月20日 - 1947年(昭和22年)3月22日)は、日本の大正・昭和期の政治家、実業家、自由民権運動家。農林審議会議員、米穀統制調査会委員、大日本国粋会幹事長、藤原製材会社社長。 明治9年(1876年)9月20日、旅館業を営む胎中弥平の次男として、高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生れる。母は芳子。 この明治9年(1876年)9月は、折しも明治天皇が国憲草案起創の詔勅を元老院へ御下賜された時にあたり、楠右衛門はことあるごとにそれを深く認識するようになり、晩年「憲政碑」の建立へもその思いがつながっている。 明治23年(1890年)、上京し、神奈川県愛甲郡厚木町(現・厚木市)に居を定めた。
伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 19… 伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 1956年11月19日)は日本の法学者、教育者。専門は民法。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長。長男伴素彦はサンモリッツオリンピックスキージャンプ日本代表で日本製粉株式会社の会長も務めた。 1874年(明治7年)京都市伏見区生まれ。京都府尋常中学校、第四高等学校 (旧制)を経て1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し京都帝国大学法科大学講師となる。翌1903年(明治36年)助教授となり、1908年(明治41年)からイギリス、フランス、ドイツへ留学。1912年(明治45年)帰国し7月より北海道の小樽高等商業学校に教授として赴任する。
志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月… 志波 安一郎(しば やすいちろう、1873年(明治6年)9月20日 - 1932年(昭和7年)6月10日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)。 長崎県高来郡神代村(現在の雲仙市)出身。志波三九郎の長男。第三高等学校を中退後、京釜鉄道社員、神代郵便局長、数寄屋銀行神代支店長、長崎農工銀行監査役、肥前銀行顧問などを務めた。 長崎県会議員を3期務めた後、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
新元 鹿之助(にいもと しかのすけ、1870年9月20日(明… 新元 鹿之助(にいもと しかのすけ、1870年9月20日(明治3年8月25日)- 1949年(昭和24年)3月8日)は、日本の鉄道技師、土木技術者、歌人。台湾総督府鉄道部長。旧姓・福崎、号・松園。 薩摩国鹿児島郡、のちの鹿児島県鹿児島市で、福崎市兵衛の二男として生まれ、新元正兵衛の養子となる。鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校本科から1895年(明治28年)7月、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省して鉄道作業局技手に任官し、のち技師として福島県、静岡県などの保線事務所に勤務して鉄道建設、改良工事に従事した。1897年(明治30年)4月、台湾総督府に転じ、一貫して鉄道技師として台湾での鉄道改良、建設のため測量、建設、改良などに尽力した。
和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治… 和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治2年8月15日) - 1939年(昭和14年)6月11日)は、日本の実業家。大日本製氷社長。製氷業のパイオニアといわれる。また今日言うM&Aの先駆け的経営者でもあった。族籍は東京府士族。 広島市土手町出身。広島藩士・和合善男と梅子の長男。岡山中学校卒業。1890年、渋沢栄一や浅野総一郎などが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社する。この時代は寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであった。 1897年、気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機(機械製氷)を導入した機械製氷株式会社が設立された。
下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20… 下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20日(明治2年8月25日) - 1947年(昭和22年)5月30日)は、日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。 長野県伊那郡原村(現・駒ヶ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日清戦争・日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。同年、東京都田端348番地(現・東京都北区田端1丁目15番)に、楽天堂医院を開業。田端鉄道病院に嘱託医師としても勤めた。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深め、「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の会の主要メンバーを務めた。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日[3])は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日[4] - 1922年(大正11年)5月27日[5])。静岡県出身。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日)は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日 - 1922年(大正11年)5月27日)。静岡県出身。 1865年9月20日(慶応元年8月1日)、後の静岡県に生まれる。大学予備門、東京帝国大学法学部を卒業後官僚となり、長野県参事官、石川県参事官、岡山県警部長、茨城県書記官、東京税務監督局長、神戸税関長、大蔵省主税局長、税関臨時工事部長、大蔵省関税局長、専売局長、大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取などを歴任。 1920年(大正9年)、名市長と呼ばれた鹿島房次郎の後任として第5代神戸市長に就任。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月… 渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日)- 1936年(昭和11年)4月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、貴族院勅選議員。 現在の岐阜県で渡辺新次郎の二男として生まれる。幼少より学問を好み、1889年(明治22年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。卒業後、代言人(弁護士)の登録をしたが、1891年(明治24年)日本銀行に入行した。北海道支店長に昇進したが、その後辞職し、帝国商業銀行副支配人となる。 その後、大阪に移り北浜銀行頭取岩下清周の招きで同行副支配人となり、さらに支配人に就任した。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、大阪株式取引所理事、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)会長なども務めた。
中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9… 中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9月20日) - 1944年(昭和19年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家。高知県高岡郡須崎町長、高知市長。高知県会議員。 五藤家の旧臣・中島作次の次男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。1883年(明治16年)高知県師範学校中等科を卒業後、安芸郡大井・井ノ口、土佐郡潮江などの訓導を経て、幡多郡視学。その後、県属となり、1908年(明治41年)香美郡長、1912年(大正元年)吾川郡長、1914年(大正3年)高岡郡長を経て、1917年(大正6年)12月、高知市長に就任。1921年(大正10年)12月まで務める。 満期辞任後は、1922年(大正11年)高知県教育会長を15年務め、さらに同年、高知信用組合を設立し、組合長に就任した。
中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864… 中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) - 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。 月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓・惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、月岡芳年の内弟子となった。 月岡芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は元治元年(1864年)に甲府道祖神祭礼における幕絵制作のため甲府を訪れており、1871年(明治4年)にも山梨県を訪れている。
早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久… 早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久3年8月8日〉 - 1916年〈大正5年〉4月17日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県海津郡今尾町(平田町を経て現海津市)出身。早川理右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)10月、家督を相続する。 1890年(明治23年)の岐阜県会議員選挙に安八郡選挙区から立候補して初当選を果たしたが、任期途中で辞職した。そのほか、南濃銀行頭取、土地家屋貸付会社社長、七十六銀行、真宗生命保険、大垣銀行、美濃商業銀行、竹鼻銀行、岐阜市貯蓄銀行、濃飛農工銀行、治水共同社、福寿生命保険取締役、美濃貯蓄銀行、高須貯蓄銀行各重役などを歴任した。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日… 10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日(安政5年8月14日)- 1934年(昭和9年)4月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・林。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の二男として生まれ、のちの岐阜市玉井町の材木商・9代桑原善吉の婿養子となる。1889年(明治22年)7月、家督を相続した。 家業の材木商「桑善」を営む。1877年(明治10年)10月に創立した第十六国立銀行(後の十六銀行)の経営に参画し、重役を経て頭取に就任した。また、岐阜電気取締役、岐阜貯蓄銀行頭取、岐阜材木同業組合長、第4代岐阜商業会議所会頭、岐阜県地方森林会議員などを務めた。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年… 高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年9月20日〉 - 1923年〈大正12年〉5月20日)は、明治時代から大正時代の鉄道員・鉄道官吏。新橋停車場の下級駅夫より鉄道院副参事まで累進した最古参の鉄道員として知られた。初代東京駅長。名は「ぜんいち」とも。 三河国渥美郡西伊古部村(現・豊橋市伊古部町)にて、河合善七(福井県平民)の次男として生まれ、幼くして同郡赤沢村(現・豊橋市赤沢町)の高橋祐二の養子となり、のち高橋さくと婚姻した。 数え14歳で海軍を志して上京、早稲田の北門社に入塾したが、新橋・横浜間の汽車を見物したの機に、1873年(明治6年)につてを得て新橋停車場(のち汐留駅)の下級駅夫として雇われた。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(… 斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(1854年9月20日) - 1925年(大正14年)7月25日) は、戦前宮城県の資産家、政治家、実業家。石巻市黒沢斎藤家9代目。名は有成。前谷地村二等戸長、斎藤株式会社社長、財団法人斎藤報恩会理事長、仙台信託取締役社長。 安政元年閏7月28日(1854年9月)、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。
土屋 嘉雄(つちや・よしお、昭和7年9月20日-)は、日本の… 土屋 嘉雄(つちや・よしお、昭和7年9月20日-)は、日本の実業家。ベイシアグループ総帥。ワークマン、カインズ、ベイシアなどの代表を務めた。長男はカインズ会長の土屋裕雅、甥はワークマン専務の土屋哲雄。 日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一と同じ埼玉県深谷市に、1932年に生まれる。江戸時代から続く呉服屋「いせや呉服店」の二男として生まれ、埼玉県立深谷商業高等学校卒業後、商業の修行のために群馬県高崎市に行く。1951年より同市の服地店「藤五」に勤めたのち、実家の呉服店に服地部を設けたが、独立し、1958年、ベイシア・グループの前身となる『いせや』を妻とともに伊勢崎市で創業。以降、以下の各株式会社の役員を務めた。
菖蒲 菜月(あやめ なつき、9月20日 - )は、日本の女優… 菖蒲 菜月(あやめ なつき、9月20日 - )は、日本の女優 。 2023年、テレビ朝日暴太郎戦隊ドンブラザーズ第44話ゲスト女性社員役で初のテレビドラマキャスト出演を果たし、同年ミュージカルゴーストミュージカル(音楽監督山口琇也)にてミュージカルでの初のメインキャスト三人姉妹・長女役を演じ、山科諒馬と共演。 5歳よりクラシックバレエとピアノを始め、小学校から国立音楽大学附属で学び、附属高校声楽専攻を卒業後、ミュージカルに転向。 また14歳より牧阿佐美バレヱ団附属橘バレヱ学校で学ぶ。物心ついた頃から、宝塚の花總まりに影響を受け、将来をミュージカルの世界で生きると決意。 母の伯母(母方の祖父の姉)がOSK日本歌劇団に在団していたことがあるという。
岡本 美歌(おかもと みか、9月20日 - )は、日本の声優… 岡本 美歌(おかもと みか、9月20日 - )は、日本の声優、舞台女優。滋賀県高島市出身。アミュレート所属。 声優を目指したきっかけの作品は『NARUTO -ナルト-』。また、洋画を多く見ていたことから「吹き替えってこの世界の人物になれるのか!」と思ったこともそのきっかけだという。 高校時代は寮生活をしており、部活動をしていた。両者とも上下関係が厳しかったこともあり、声が枯れるまで挨拶をしていたという。 2014年2月、ラビット番長「天召し〜テンメシ〜」にて舞台デビュー。以後、女優として舞台で活躍する他、後に声優としても活躍。 2018年4月よりアミュレートに所属。 趣味として1人カラオケと観劇、特技としてゆるい似顔絵とクラリネットをそれぞれ挙げている。
葉咲 うらら(はさき うらら、9月20日 - )は、元宝塚歌… 葉咲 うらら(はさき うらら、9月20日 - )は、元宝塚歌劇団宙組の娘役。 福岡県福岡市、福岡女学院高等学校出身。身長161cm。愛称は「urara」。 2018年、宝塚音楽学校入学。 2020年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に106期生として入団。入団時の成績は17番。月組公演「WELCOME TO TAKARAZUKA/ピガール狂騒曲」で初舞台。その後、宙組に配属。 2023年、真風涼帆・潤花トップコンビ退団公演となる「カジノ・ロワイヤル」で、初のエトワールに抜擢。 2024年3月31日付で宝塚歌劇団を退団。
彩葉 ゆめ(いろは ゆめ、9月20日 - )は、宝塚歌劇団花… 彩葉 ゆめ(いろは ゆめ、9月20日 - )は、宝塚歌劇団花組に所属する娘役。 山口県山口市、山口大学教育学部附属山口中学校出身。身長162cm。愛称は「ゆめみっち」、「YUME」。 2022年4月、宝塚音楽学校に入学。 2024年3月、宝塚音楽学校を卒業し、第110期生として宝塚歌劇団に首席入団。同月、月組宝塚大劇場公演「Eternal Voice 消え残る想い/Grande TAKARAZUKA 110!」で初舞台。公演終了後、組回りを経て2025年3月11日付で花組に配属。 2025年の阪急阪神初詣ポスターモデルに起用。 2025年7月、宝塚大劇場公演「悪魔城ドラキュラ」新人公演で新人公演初ヒロイン。