胡 美芳(こ びほう)(1926年11月20日 - 2009… 胡 美芳(こ びほう)(1926年11月20日 - 2009年11月7日)は、和歌山県生まれの中国人歌手。日本名で、周 朝子(しゅう あさこ)とも名乗っていた。戦後日本でデビューし、渡辺はま子や李香蘭の歌のカバーで人気を博した。日本コロムビア所属。1974年にキリスト教に入信し、以後、福音歌手として教会を回っての活動を続けた。 息子は、東京・新橋で新橋やきとんまこちゃん本店を経営している。
河東 けい(かとう けい、1925年11月20日 - 202… 河東 けい(かとう けい、1925年11月20日 - 2024年7月17日)は、日本の女優。 本名は西川 紫洲江(にしかわ しづえ)。兵庫県神戸市出身。日本女子大学卒業。特技はピアノ、狂言。1952年に民衆劇場に入団。1957年に結成された関西芸術座創立メンバーの一人。 晩年までテレビドラマ、舞台などに多数、出演し、活躍していた。関西芸術座では演出もおこなった。関西新劇界を代表する女優の一人である。 2024年7月17日、老衰のため死去。98歳没。
小関 治男(おぜき はるお、1925年11月20日 - 20… 小関 治男(おぜき はるお、1925年11月20日 - 2009年1月13日)は、日本の分子生物学者。京都大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
川上 武(かわかみ たけし、1925年11月20日 - 20… 川上 武(かわかみ たけし、1925年11月20日 - 2009年7月2日)は、日本の医師、医事評論家。 山梨県出身。順天堂医学専門学校(現順天堂大学)卒業。社会福祉法人康和会久我山病院、杉並組合病院、医療法人財団健和会柳原病院など民間の地域医療機関に勤務し、労働者の集団検診にとりくんだ。医療をめぐる問題を社会科学的に分析し、矛盾を追及した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
石田 よし宏(いしだ よしひろ、1924年(大正13年)11… 石田 よし宏(いしだ よしひろ、1924年(大正13年)11月20日 - 2015年(平成27年)5月14日)は、日本の俳人。栃木県宇都宮市出身。宇都宮農林専門学校(現宇都宮大学農学部)農業経済学科卒業。本名は石田 榮宏(いしだ よしひろ)。 現代俳句協会に所属した俳句作家(本人は俳人ではなく俳句作家という肩書きを好んで使っていた)で、作品は前衛的な俳句、難解俳句と評される。評論も得意とし、『月々のことば』と称する俳句の評論を、毎月はがきで発行し、ライフワークとなっていた。 20代で作句を始め、俳誌「風」、「鬼怒」(創刊同人)、「鷹」を経て、平成12年「地祷圏」創刊・代表就任。平成21年通信句会『統』発足・主宰就任。
庄司 肇(しょうじ はじめ、1924年11月20日 - 20… 庄司 肇(しょうじ はじめ、1924年11月20日 - 2011年2月1日)は、日本の作家、文芸評論家、眼科医。 千葉県生まれ。九州高等医学専門学校卒。眼科医のかたわら小説、評論を書き文芸誌『きゃらばん』を主宰する。 作品に『庄司肇コレクション』『庄司肇作品集』がある。現代作家論が多い。 2011年2月1日、転移性肺腫瘍のため86歳で死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月2… 越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月20日 - 2006年(平成18年)1月10日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授。専門は近代イギリス史。 1923年、愛媛県で生まれた。第三高等学校を卒業後、兵役についた。戦後京都大学文学部に進学し、1948年に卒業。英国ハル大学に留学して学んだ。 1952年、京大文学部助教授に就任。1969年、学位論文『近代英国の起源』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1970年に教授昇格。1987年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都橘女子大学教授として教鞭をとり、1989年に同大学学長に就いた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
金 在植(キム・ジェシク、朝鮮語: 김재식、1923年11月… 金 在植(キム・ジェシク、朝鮮語: 김재식、1923年11月20日 - 2016年3月1日)は、大韓民国の政治家、陸軍軍人(陸軍大領)、実業家。元水産庁長、第16代全羅南道知事、第10代韓国国会議員。 本貫は金海金氏、号は老農(ノノン、노농)。円仏教徒。 日本統治時代の全羅南道の長城郡に生まれた。1944年に拓殖大学を卒業後、1955年に工兵基地廠長を務め、1960年に陸軍大学校を卒業した。1963年に農林部水産局長を務め、1964年に水産業協同組合中央会長、1968年に水産庁長を歴任した。1969年10月25日から1973年9月25日まで第16代全羅南道知事を務め、1972年に全南大学校行政大学院を修了し、1973年より東立産業振興公社株式会社の社長を務めた。
野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月2… 野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月20日 - 2002年〈平成14年〉8月4日)は、日本放送協会(NHK)、及び東京放送(TBSテレビ = 局契約)アナウンサー。 中央大学法学部在学中の1943年(昭和18年)12月、学徒出陣で海軍に入る。第14期予備学生。1944年(昭和19年)、第六五三海軍航空隊戦闘一六六飛行隊付。捷一号作戦で空母「瑞鶴」に配乗し、比島沖海戦に参加。3時間半の漂流後に救助。上海の中支空で終戦。海軍中尉。復員。 1946年(昭和21年)に中央大学を卒業、NHKに入局。戦後初のアナウンサーとなり、プロ野球中継を担当。1964年東京オリンピックの総合司会や『それは私です』『スタジオ102』『連想ゲーム』などの司会も務めた。
白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 19… 白川 宏(しらかわ ひろし、1921年11月20日 - 1991年8月16日)は、日本の経営者。東陶機器社長を務めた。 福岡県行橋市出身。1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東洋陶器に入社。 1965年1月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1985年2月から1987年2月までに社長を務めた。 1985年に藍綬褒章を受章。
宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)1… 宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)11月20日 - 2009年(平成21年)11月26日)は、昭和時代から平成時代の電気工学者、通信技術者。 香川県に生まれる。戦時体制中の1943年(昭和18年)9月に半年繰り上げで東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業。卒業後は、内定していた海軍技術士官への道を捨て、新しく発足した大学院特別研究生となり5年の研究生活を送る。特別研究生満了後、東京帝国大学助教授、教授を歴任し、1982年(昭和57年)定年退官後は東京理科大学教授、嘱託教授、非常勤講師を歴任した。その間、1959-60年(昭和34-35年)には文部省在外研究員としてアメリカのコロンビア大学の客員助教授を務めた。
善川 三朗(よしかわ さぶろう、本名:中川 忠義、1921年… 善川 三朗(よしかわ さぶろう、本名:中川 忠義、1921年〈大正10年〉11月20日 - 2003年〈平成15年〉8月12日)は、日本の宗教家。実業家。農業・畜産指導者。幸福の科学名誉顧問。徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市鴨島町樋山地)出身。青年師範学校卒業。長男は富山誠。次男は幸福の科学総裁である大川隆法。妻は中川君子。姉は作家の中川静子。 宮大工である中川源左衛門輝房とその妻であるテルノの次男として1921年(大正10年)11月徳島県麻植郡東山村樋山地(現・吉野川市鴨島町樋山地)に生まれる。父の源左衛門は宮大工の棟梁をしており、県内各地の寺社にその仕事の履歴を残している。 父輝房が亡くなった8歳の1930年(昭和5年)頃、中川一家は川島町に移住し、この時に「汝は、今生に大いなる責任を持って生まれたものである。
青木 生子(あおき たかこ、1920年11月20日 - 20… 青木 生子(あおき たかこ、1920年11月20日 - 2018年11月14日)は、日本の国文学者。専門は万葉集研究。学位は、文学博士(東北大学・1962年)(学位論文「日本古代文芸における恋愛」)。日本女子大学名誉教授。 東京・日本橋の問屋の娘として生まれるが、父が関東大震災で亡くなったため、店を畳んで大磯に移住する。神奈川県立平塚高等女学校(現・神奈川県立平塚江南高等学校)で高瀬兼介らの薫陶を受け、周囲の反対を押し切り、日本女子大学校国文学部へ進学する。同大学校卒業後、東北帝国大学法文学部国文科教授の岡崎義恵『日本文芸学』を読み、岡崎の指導を受けるべく、東北帝国大学法文学部国文科へ進学。1944年、東北帝国大学を繰り上げ卒業し、日本女子大学に教員として戻る。
清水 信(しみず しん、本名の読み:しみず まこと〈漢字表記… 清水 信(しみず しん、本名の読み:しみず まこと〈漢字表記は同じ〉、1920年11月20日 - 2017年2月7日)は、日本の文芸評論家。。 長野県出身。明治大学専門部文科(文芸科)卒。大学時代には評論家・小林秀雄の講義を受講した。卒業後、外務省事務官として北京の日本大使館に勤務。この間、中薗英助らと文芸同人誌『燕京文学』を創刊。また、最初の評論集『日曜手帳』(北京書房刊)を刊行。 戦後になると、三重県鈴鹿市で中学校の国語科教諭を務める傍ら、評論活動を続けた。「読みたい文学は、自分たちの手で書く。その発表の方法も、自分たちで作る」という信念のもと、1949年に仲間4人で同人誌『北斗』を創刊主宰。
桃野作次郎(ももの さくじろう、1919年11月20日 - … 桃野作次郎(ももの さくじろう、1919年11月20日 - 2014年9月26日)は、日本の農学者、農業経済学者、元技官官僚。学位は、農学博士(北海道大学)。専門は、テンサイ農業の経営および経済活動についての研究。北海道大学名誉教授。元北海学園北見大学学長・北海学園北見短期大学学長。渡邊侃門下。弟子は大谷俊昭。北海道生まれ。
友松諦道(ともまつ あきみち・たいどう、1919年11月20… 友松諦道(ともまつ あきみち・たいどう、1919年11月20日 - 2001年1月28日)は、日本の僧侶・幼児教育者。 友松円諦の長男として東京に生まれる。1942年慶応義塾大学文学部卒。神田寺住職。東京神田寺幼稚園園長。真理学園理事長。 1987年に藍綬褒章、1994年に勲四等瑞宝章を受章。2001年1月28日、心不全のため死去。
石原 八束(いしはら やつか、1919年(大正8年)11月2… 石原 八束(いしはら やつか、1919年(大正8年)11月20日 - 1998年(平成10年)7月16日)は、日本の俳人。 山梨県錦村二之宮(現・笛吹市御坂町二之宮)に生まれる。父親は俳人の石原舟月(起之郎)。本名は「登」であったが、病弱であったため生後一ヶ月で長命を願い「八束」に改名した。 1937年(昭和12年)、父の師である飯田蛇笏に師事する。飯田蛇笏は現在の笛吹市境川町において俳誌「雲母」を主催していた俳人で、八束も「雲母」に投句を始める。1943年(昭和18年)に中央大学法学部を卒業する。戦後は東京世田谷の石原舟月宅に「雲母」発行所が移転され、八束は1947年(昭和22年)より蛇笏の子息・飯田龍太とともに「雲母」編集に携わる。
みな子(みなこ、1919年〈大正8年〉11月20日 - 20… みな子(みなこ、1919年〈大正8年〉11月20日 - 2010年〈平成22年〉5月31日)は、日本の芸妓。本名、長尾 みつ(ながお みつ)。昭和初期から平成期まで、約80年にわたって芸妓としての活動を続けた。戦後も舞台やイベントでも活躍して、90歳で死去するまで生涯現役を貫き、吉原の文化と芸を世の中に伝え続けたことで、「最後の吉原芸者」と呼ばれた。吉原の伝統芸の継承にも熱心で、晩年は後進の育成や座敷芸の映像保存にも力を注いだ。没後は晩年の5年間の活動を記録したドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん』が公開され、日本国内外で好評を得た。 北海道當別村(後の当別町)で、6人弟妹(1男5女)の長女として誕生した。
縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 … 縣 聡(あがた さとし、1918年(大正7年)11月20日 - 2003年(平成15年)2月10日)は、日本の政治家。元長野県大町市長。 長野県北安曇郡大町(現大町市)生まれ。旧制大町中学(現長野県大町岳陽高等学校)を経て、1940年(昭和15年)3月、旧制高岡高等商業学校卒業。同年に渡満し、満州特産物輸出貿易業・瓜谷商店に勤務。翌年応召し、1946年(昭和21年)復員。1951年(昭和25年)3月、北安曇農業高等学校(現長野県池田工業高等学校)教諭となり、1953年(昭和27年)退職し、大町商工会議所専務理事となる。1954年(昭和29年)8月、大町市役所に入庁し、税務課長、税務課長、総務課長を歴任した。
野本 重雄(のもと しげお、1917年(大正6年)11月20… 野本 重雄(のもと しげお、1917年(大正6年)11月20日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県桶川市長(2期)。勲四等旭日小綬章。 埼玉県北足立郡桶川町(現・桶川市)出身。1935年、埼玉県立大宮工業学校(現・埼玉県立大宮工業高等学校)卒。桶川市議会議員、同議長を経て、1985年、桶川市長選挙に立候補し現職の岡田仲太郎を破って当選する。桶川市長を2期務め、1993年に退任した。1999年秋の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
服部 毅一(はっとり きいち、1917年(大正6年)11月2… 服部 毅一(はっとり きいち、1917年(大正6年)11月20日 - 1999年(平成11年)10月25日)は、日本の政治家。静岡県焼津市長(4期)。位階は正五位。 静岡県志太郡焼津町出身。1935年、静岡県立焼津水産学校(現・静岡県立焼津水産高等学校)卒。1951年、焼津市議会議員に初当選、3期務め、議長も務めた。1963年、静岡県議会議員に初当選、4期務め、副議長と議長を務めた。1975年、焼津市長に当選、市長を4期務めた。1991年、5期目を目指したが落選した。1999年死去。
今堀 宏三(いまほり こうぞう、1917年(大正6年)11月… 今堀 宏三(いまほり こうぞう、1917年(大正6年)11月20日 - 2001年(平成13年)2月20日)は、日本の生物学者。大阪府大阪市出身。広島文理科大学卒業。父は教育者・心理学者の今堀友市、兄は東洋史学者・今堀誠二、弟は生化学者・今堀和友。
横堀 武夫(よこぼり たけお、1917年11月20日 - 2… 横堀 武夫(よこぼり たけお、1917年11月20日 - 2017年10月9日)は、日本の工学者(材料工学・機械工学)。 勲等は勲二等。学位は工学博士(東京大学・1956年)。東北大学名誉教授、帝京大学名誉教授、日本材料強度学会名誉会長、日本バイオマテリアル学会名誉会長、日本学士院会員、文化功労者。位階は正四位。 東京大学理工学研究所技官、東北大学工学部教授、東北大学工学部附属材料強度研究施設施設長(初代)、東海大学産業科学研究所教授、帝京大学理工学部教授、帝京大学理工学部学部長、帝京大学大学院理工学研究科研究科長、学校法人帝京大学理事などを歴任した。 栃木県出身の工学者である。材料工学や機械工学を専攻しており、材料の強度と破壊に関する研究の先駆者として、物性と金属工学と材料力学とを融合させた材料強度学を創始した。
平山 三郎(ひらやま さぶろう、1917年(大正6年)11月… 平山 三郎(ひらやま さぶろう、1917年(大正6年)11月20日 - 2000年(平成12年)3月24日)は、東京出身の作家。 東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)に生まれる。1932年(昭和7年)鉄道省東京鉄道局に就職した。戦後も日本国有鉄道の機関紙『國鐵』の編纂に従事しながら法政大学文学部を卒業した。大学時代は授業料を内田百閒に肩代わりしてもらっていた。 内田百閒の教え子として知られ、夏目漱石の流れを汲む作家でもある。その生涯を通して、内田百閒の身辺の叙述・研究に当たった。 百閒の代表作『阿房列車』シリーズにおいては、百閒の旅のお供をする「ヒマラヤ山系」として登場している。対して平山は百閒を「四ッ谷の先生」と呼んでいた。
大平 志げ子(おおひら しげこ、1916年〈大正5年〉11月… 大平 志げ子(おおひら しげこ、1916年〈大正5年〉11月20日 - 1990年〈平成2年〉5月31日)は、日本の68・69代内閣総理大臣である大平正芳の妻。東京府出身。 三木証券創立者である鈴木三樹之助の二女として生まれる。桜蔭女学校を卒業。1937年(昭和12年)4月15日に大蔵省に入省したばかりの大平正芳と見合いで結婚。夫と共にクリスチャンであった。 1952年(昭和27年)に夫・正芳が衆議院議員に当選し代議士の妻となる。また1978年(昭和53年)12月7日には正芳が内閣総理大臣に就任し、志げ子もファーストレディとして活動する。しかし、夫・正芳が1980年(昭和55年)6月12日の総理任期中に急死し、志げ子は未亡人となる。
村田 克己(むらた かつみ、1916年11月20日 - 没年… 村田 克己(むらた かつみ、1916年11月20日 - 没年不詳)は、日本の政治学者。 鹿児島県日置郡に生まれ、警察官吏の養子となる。1934年福岡県中学修猷館を経て、1938年5月早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、河野一郎会頭の中央畜産会に就職、機関紙「畜産」編集部に勤務する。 1939年1月熊本西部第24部隊(輜重兵第6連隊)自動車中隊へ現役入営、1940年11月陸軍少尉となり、同年12月陸軍省兵務局防衛課に出頭を命ぜられ、陸軍中野学校乙種長期第3期学生を命ぜられる。1941年7月同校を退校し、陸軍中野学校学生隊付を命ぜられ、第3期丙種学生(将校学生)係長を命ぜられる。同年10月参謀本部付となる。
清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 201… 清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 2012年8月17日)は日本の俳優。 香川県高松市出身。1939年に新国劇に入団。解散後は数々の舞台や時代劇などに出演。2005年には日本演劇協会演劇功労者賞を受賞した。 2012年8月17日に肝不全のため死去。
小宮 武喜(こみや たけき、1916年11月20日 - 19… 小宮 武喜(こみや たけき、1916年11月20日 - 1999年4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 長崎県西彼杵郡香焼町(現長崎市)出身。1933年長崎三菱職工学校卒。三菱重工長崎造船所に勤務する。同所の労組委員長や全日本労働総同盟長崎地方同盟議長、香焼村議、同副議長を経て、1969年の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区から民社党公認で立候補して初当選。連続3期務めた。国会内では農林水産、災害対策の各委員、党内では労働対策委員、中央執行委員などを歴任した。1979年の第35回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退した(後継者は小渕正義)。 1987年に勲三等旭日中綬章を受章した。
石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2… 石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2001年3月27日)は、日本の画家。 1915年11月20日、宮崎県で9人兄弟の5男として生まれる。父親が国鉄に勤務していたことから各地を転々としていた。幼少の頃からカリエスを患うなど病弱で、満足に学校に通うことがままならず、1937年に岡山二中を中退。その後、小林喜一郎の画塾「赤坂洋画研究所」に通い、絵の勉強を始めた。 小林指導の下、画力をつけていくが、二科展では一度も入選する事無く同塾に通っていた中田政夫の勧めで春陽会に出品、1941年に入選を果たす。その後は春陽会への作品出品を続け、1965年には同会の審査員として声がかかるようになった。
萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 199… 萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 1990年6月26日)は、 日本の医師。イタイイタイ病の命名者。医師で詩人の萩野卓司は弟。 長崎県に、医師・萩野茂次郎の長男として生まれる。1940年に旧制金沢医科大学(現・金沢大学医学部)を卒業し、同病理学教室の研究生となる。同年10月に応召入隊。1946年中国より復員し、富山県婦中町(現・富山市)の実家の「萩野病院」を継ぐ。 萩野を待ち受けていたのは、苦痛のあまり「痛い!痛い!」と叫ぶ、原因不明の奇病に苦しむ多くの女性患者たちであった。足は何箇所も折れ曲がり、満足に歩くことができない。診断しようと腕を取っただけで骨折してしまう。「風土病」「業病」と恐れられ、やがて家族からも遠ざけられながら、脳は冒されないため意識だけは明瞭なままで、激痛に悶えながら衰弱死に至る。
庄野 英二(しょうの えいじ、1915年11月20日 - 1… 庄野 英二(しょうの えいじ、1915年11月20日 - 1993年11月26日)は、日本の児童文学者。元帝塚山学院大学学長。 父は帝塚山学院の初代校長・庄野貞一。桃山中学校の元教員で、1917年に帝塚山小学校が開校する際に弱冠30歳で校長に抜擢された。弟は作家の庄野潤三。山口県萩市に生まれ、生後まもなく大阪に移る。1936年関西学院専門部文学部哲学科卒業。在学中から創作をし、佐藤春夫、坪田譲治(びわの実学校)に師事する。 1937年入営、北満洲にいる時日中戦争がある。1940年負傷して帰還。1942年ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友。敗戦時はマレーにあって一時抑留、1946年帰国。
李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20… 李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20日 - 1966年4月24日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員、第8代慶尚北道知事を歴任した。 慶尚北道醴泉郡出身。日本大学専門部文科卒。大韓光復青年団醴泉郡支部長、大韓青年団醴泉郡団団長を務めた。36歳の時は1950年の第2代総選挙で醴泉郡選挙区から大韓青年団の候補として当選したが、1954年の第3代総選挙では自由党の公認をもらったものの落選した。民主党政権時代は第8代慶尚北道知事(1960年10月7日〜1961年5月23日)を務めた。1963年の第6代総選挙では民主党の公認を受けて立候補したが、再び落選した。 1966年4月24日、大邱市中区の自宅にて心臓麻痺により死去。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正… 市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。 娯楽映画からドキュメンタリー、さらにはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』をはじめとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。 1915年(大正4年)11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。
内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - … 内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - 1974年5月16日)は、社会運動家で、政治運動家。 出典は『内藤知周著作集』。 神奈川県横須賀市生まれ。1932年神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)卒業。1937年中央大学専門部法学科卒業。1941年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。在学中に学生運動に加わり、1938年に検挙され無期停学。卒業後、繊維需給調整協議会に就職。大日本帝国陸軍自動車第31連隊に召集を受け、中国河北へ。 1946年に復員し、日本共産党に入る。同党山口県委員として徳山市で活躍。1948年同党地方委員・常任委員。1952年同党労対書記・政策委員会書記。
見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - … 見坊 豪紀(けんぼう ひでとし、1914年11月20日 - 1992年10月21日)は、日本の日本語学者・辞書編纂者。『明解国語辞典』『三省堂国語辞典』の編纂者として知られ、「ケンボー先生」と親しまれる。 東京府出身(本籍は岩手県盛岡市)。青森県、福島県、当時の南満州を経て、1932年、旧制山口高校入学。1年の病気休学期間を経て卒業。 1936年、上京して東京帝国大学文学部国文科に入学。同期には後に『明解国語辞典』に補助的な立場で関わる山田忠雄がいる。1939年、卒業。その後、同大学大学院に進学。 大学院在学中、金田一京助の紹介で『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に当たる。この辞書は、基本的な項目は当時の『小辞林』に基づいているものの、ほぼ見坊の独力により編纂され、「金田一京助編」と冠して1943年に刊行された(1952年に改訂版)。
武邑 尚邦(たけむら しょうほう、1914年11月20日 -… 武邑 尚邦(たけむら しょうほう、1914年11月20日 - 2004年8月19日)は、日本の仏教学者・僧侶。東京大学仏教文化研究所で高楠順次郎に師事、龍谷大学に奉職、因明学と真宗学を中心に研究、龍谷大学学長・浄土真宗本願寺派勧学寮頭を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
西村 貞二(にしむら ていじ、1913年11月20日 - 2… 西村 貞二(にしむら ていじ、1913年11月20日 - 2004年3月15日)は、日本の西洋史学者。東北大学名誉教授。兄はイギリス文学者の西村孝次で、従兄に文芸評論家の小林秀雄がいる。 京都府生まれ。1937年に東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 東北大学文学部助教授、教授を務める。1977年に定年退官、名誉教授。 ルネサンス期を専門とし、近世・近代ヨーロッパの歴史家でも、伝記研究・訳書を多く出版した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田中 忠雄(たなか ただお 1911年11月20日 - 19… 田中 忠雄(たなか ただお 1911年11月20日 - 1983年10月19日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長。秋田県出身。 旧制埼玉県立浦和中学校、旧制浦和高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 1976年6月、小林宏治の後任として日本電気社長に就任。コンピュータトレーニングキットTK-80が発売されたのは、田中の社長就任直後の1976年8月であった。1980年、関本忠弘に譲る形で社長を退任した。1983年10月19日、死去。71歳没。 学生時代はバレーボール部に所属。日本電気女子バレーボール部(現・NECレッドロケッツ川崎)は、田中が社長在任中だった1978年にヤシカバレーボール部からの移籍という形で創部された。
長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)1… 長谷川 政友(はせがわ まさとも、1910年(明治43年)11月20日 - 1980年(昭和55年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福井県大野郡上庄村木本(現大野市)出身。政治家を目ざして16歳で上京し、苦学して1935年(昭和10年)日本大学法文学部政治科を卒業した。 北海道庁嘱託、同農林主事を歴任。1942年(昭和17年)に応召し、終戦により1945年(昭和20年)に復員した。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福井県全県区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
渕 通義(淵、ふち みちよし、1910年(明治43年)11月… 渕 通義(淵、ふち みちよし、1910年(明治43年)11月20日 - 1994年(平成6年)2月10日)は、昭和期の農学者、政治家。衆議院議員、農学博士。 宮崎県児湯郡都農村(現都農町)で生まれた。1931年(昭和6年)宮崎高等農林学校林学科を卒業した。 東京帝国大学農学部嘱託、全国木材組合連合会常務理事、日本林業技術協会理事、日本農業経済研究所長、財団法人東京植物科学研究所理事長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県から東方会所属で出馬(非推薦)して落選。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区に出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。
海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)1… 海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)11月20日 - 1992年(平成4年)1月3日)は、日本の歴史学者。専門は、キリスト教・キリシタン史。文学博士(東京大学)。元立教大学文学部史学科教授。窪田幸夫の別名もある。 兵庫県尼崎市生まれ。1934年(昭和9年)立教大学文学部史学科卒業。卒業論文は、「京都南蛮寺建立考」。同志社高等女学部で教員を務める。1943年(昭和18年)応召入隊し、1946年(昭和21年)に復員する。 1949年(昭和24年)聖心女子大学教授、1960年(昭和35年)立教大学文学部史学科教授、立教大学ラテンアメリカ研究所・所長。キリシタン音楽史の研究を始めた、同僚の皆川達夫の指導も行った。
細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1… 細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1969年11月29日)は、日本の新聞記者。 山梨県甲府市出身。東京外国語学校フランス語科卒。東京市役所勤務ののち、1939年読売新聞社に入社。ハノイ特派員、バンコク支局長などを経て、1946年論説委員となり、1955年から夕刊コラム「よみうり寸評」を担当した。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員を務めた。
綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1… 綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1989年11月10日)は、青森県南津軽郡(現在の黒石市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 勝雄(たかはし かつお)。最高位は西前頭5枚目(1940年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重82kg。得意手は右四つ、下手投げ、捻り、足癖、とったり。 農家に生まれ、幼少時から力が強く米2俵を両手に担ぎ近在の評判になったという。同じ津軽出身の綾櫻を慕って上京、出羽海部屋に入門して1925年1月場所に綾櫻に因んだ「綾若」の四股名で初土俵を踏んだ。綾櫻や大ノ里らの指導を受け、入門から5年後の1930年5月場所で十両に昇進した。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - … 二反長 半(にたんおさ なかば、1907年11月20日 - 1977年7月5日)は、日本の小説家・児童文学作家。 大阪府茨木市出身。本名は二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)で、父の音蔵は「日本のアヘン王」と呼ばれた製薬業者だった。 府立茨木中卒業。1932年、法政大学高等師範部国漢科卒業。高等女学校の教師となるが、中学時代の同窓だった川端康成と大宅壮一への憧れから文筆業に転じる。 その後、寄稿していた少年雑誌の編集者の薦めで児童文学を手がけるようになり、1939年に川端・大宅・井伏鱒二・宇野浩二・小川未明・坪田譲治・豊島与志雄・村野四郎と少年文芸懇話会を結成。『少年文学』を発行し、戦時中の厳しい世相の下で児童文学の創作を続けた。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)… 土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)11月20日 - 1997年(平成9年)5月3日)は、日本の医学者、皮膚科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。東京慈恵会医科大学附属青戸病院・東京慈恵会医科大学附属病院院長を歴任し、私学として初の日本皮膚科学会会頭を務めた。医学博士(1937年、東京帝国大学)。 皮膚科学の権威で日本皮膚科学会創立者土肥慶蔵は大叔(伯)父、父は元国立金沢病院院長で日本皮膚科学会名誉会頭土肥章司。 妻・多喜子は陸軍大将本郷房太郎の次女。子の土肥孝夫は、麻布中学校在学中の1954年に内郷丸遭難事件で犠牲となった。
倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39… 倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39年> 11月20日 - 1985年 <昭和60年> 9月22日)は、日本の実業家・政治家だった人物。位階は正五位。 北海道岩見沢市出身。岩見沢尋常高等小学校(現・岩見沢市立岩見沢小学校)卒業。合資会社を起業して社長業を営む。1942年岩見沢町議会議員に初当選。1943年岩見沢市に移行したのに伴い岩見沢市議会議員。以後、岩見沢市消防団長、岩見沢市議会議長や1973年北海道消防協会5代会長(~1982年)、1974年空知管内体育協会連絡協議会初代会長などを経て、1963年まで5期務めた。1963年北海道議会議員選挙に岩見沢市選出の無所属として初当選。
江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1… 江口 見登留(えぐち みとる、1905年11月20日 - 1993年6月13日)は、日本の官僚。海軍司政官。第62代警視総監。 実父が早くに亡くなったため、男児のなかった叔父・江口菅太郎の長男として養子となる。大分県宇佐郡高並村(現・宇佐市)出身。旅順中学校、三高、京都帝国大学法学部卒業後、内務省入省(兵庫県警部補)。内務官僚を経て内閣官房副長官、警視総監等を歴任。正四位勲一等瑞宝章。 防衛省・自衛隊の前身(草創期)に当たる警察予備隊で本部長官(認証官)に次ぐ本部次長を、その後わずか2週間ながら防衛研究所の前身に当たる保安研修所の初代所長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月2… 中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の政治家。大阪市長(1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。 1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現:西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校(現:攻玉社中学校・高等学校)に編入し、1922年卒業。 1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。