伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 20… 伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 2001年6月5日)は、昭和から平成にかけての日本の洋画家である。白日会、日展を中心に活躍した。日本芸術院賞恩賜賞受賞者(1976年)、文化勲章受章者(1996年)。 作風は一貫して女性美を追求した。また豊岡市立美術館「伊藤清永記念館」による伊藤の人物解説によれば「繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られる」「70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了している」と説明されている。 1911年(明治44年)2月24日、兵庫県出石郡下谷(現豊岡市出石町下谷)に生まれる。
平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 -… 平戸灘 常吉(ひらとなだ つねきち、1911年2月24日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。山分部屋所属。本名は松本 政雄。最高位は十両6枚目。 佐賀県東松浦郡鎮西町(現唐津市)出身。山分部屋に入門し、1930年10月「白鷺」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月十両に昇進。十両の中位から下位にとどまった。1941年5月に「平戸灘」と改名したが、翌1942年1月全休し、そのまま廃業した。
山村 聰(やまむら そう、1910年(明治43年)2月24日… 山村 聰(やまむら そう、1910年(明治43年)2月24日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の俳優・映画監督。映画やテレビドラマやDVDのクレジットによっては山村聡の表記もある。 奈良県天理市出身。
茅野 健(かやの たけし、1910年2月24日 - 1997… 茅野 健(かやの たけし、1910年2月24日 - 1997年12月29日)は、日本の技術者。 東京都生まれ。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。日本放送協会技術研究所員、田辺製薬取締役を経て陸軍多摩研究所技師。1944年名古屋帝国大学教授になる。その後電電公社経営調査室次長を経て、松下通信工業専務取締役、松下電器産業技術本部東京事務所長。株式会社オーケンの社長になる。1958年にデミング賞を受賞。 (節出典:「平常心」三笠書房 知的生きかた文庫 著者プロフィール欄)
山村 聰(、1910年〈明治43年〉2月24日 - 2000… 山村 聰(、1910年〈明治43年〉2月24日 - 2000年〈平成12年〉5月26日)は、日本の俳優・映画監督。作品により、山村 聡のクレジット表記もある。本名は古賀 寛定(こが ひろさだ)。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する俳優のひとりで、小津安二郎監督作品への出演で知られる。国際的にも知名度が高く、1950年代以降は日本国外の映画にも出演した。生涯で出演した映画本数は195本に上る。 奈良県山辺郡出身。神戸一中、旧制一高を経て東京帝国大学文学部卒業。 研究劇団「太陽座」に入団。戦前の劇団文化座等での舞台活動を経て、1946年(昭和21年)、『命ある限り』で映画初出演。1947年(昭和22年)、『女優須磨子の恋』で田中絹代演じる松井須磨子の愛人役・島村抱月役に抜擢され、1950年(昭和25年)には『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞。
知里 真志保(ちり ましほ、1909年〈明治42年〉2月24… 知里 真志保(ちり ましほ、1909年〈明治42年〉2月24日 - 1961年〈昭和36年〉6月9日)は、アイヌの言語学者。文学博士。北海道大学名誉教授。専攻はアイヌ語学。姉は『アイヌ神謡集』著者の知里幸恵、伯母は口承文芸伝承者の金成マツ。 1909年2月24日、北海道幌別郡登別村(現在の登別市登別本町)で生まれた。。1929年3月、北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)を卒業し、地元の幌別役場に勤務する。その後、喜田貞吉と金田一京助が両親に大学進学を勧め、進学を決意した。 1930年、上京して東京・杉並の金田一家に逗留し、第一高等学校に150人中12番の成績で合格し入学。1933年3月に卒業。
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月… 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。 大阪府出身。実業家・藤村義正の長男として生まれる。堺中学を経て、1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。1928年(昭和3年)10月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1934年(昭和9年)7月、「長月」砲術長に就任、以後、砲術学校専攻科学生、「綾波」砲術長、砲術学校教官、「白雲」「厳島」の各砲術長を歴任。1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に昇進。1940年(昭和15年)4月、海軍大学校(甲種37期)を首席で卒業した。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 19… 森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 1999年5月14日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 茨城県水戸市出身。1930年青山学院英文科卒。卒業後は新聞連合社(のち同盟通信社)に入り、欧州特派員、政治部次長などを務める。戦後、同盟通信社は共同通信社となり、論説委員となる。1947年片山内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙において茨城地方区から日本社会党公認で立候補して初当選。連続3期務める。国会内では参議院懲罰、決算各委員長を歴任し、党内では茨城県委員長、党外交部長などを務めた。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。
日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39… 日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39年〈1906年〉2月24日 - 平成5年〈1993年〉2月16日)は、日本の実業家。住友金属工業名誉会長、第8代関西経済連合会会長(1977年 - 1987年)。山梨県出身。 新日鐵会長、経団連会長の稲山嘉寛が「ミスター・カルテル」と呼ばれ、企業経営にもつねに「協調哲学」を打ち出したのに対し、日向は、市場経済思想に基づく「競争哲学」の信奉者として知られ、政府との対決も辞さなかった。勲一等旭日大綬章受章。 山梨県西八代郡下部町(現・南巨摩郡身延町)出身。生家は極貧であったが、篤志家の森家(日向の妻は森家の長女である)の援助と奨学金により、旧制東京高等学校を経て、1931年東京帝国大学法学部卒業。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月… 小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉 助治郎、1904年2月24日 - 1983年4月8日)は、日本の映画俳優、映画監督。作曲家の小杉太一郎は息子。息子の妻は漫談家の山野一郎の娘。 宮城県石巻市に生まれる。石巻商業学校を卒業後、上京し、「日本橋白木屋百貨店」に就職する。しかし、1923年、日本映画俳優学校設立と同時に入学する。同期に八木保太郎、吉村廉、島耕二などがいる。 1925年、日活京都撮影所に入社する。当時の日活は看板スターであった鈴木傳明や岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。また、左翼思想の台頭などもあり、たくましさも兼ね備えた小杉が新しい時代を象徴する存在として注目された。
井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 -… 井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 - 1946年5月行方不明)は、福井県出身の俳人。 出生名・岸本久七。敦賀生まれ。1906年、報恩寺住職の養子となり、井上隆證(りょうしょう)と改称。法華寺学林、第三高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。その後関西大学、立命館大学などで講師として教鞭を取る。 俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「ホトトギス」「馬酔木」に投句。京大三高俳句会を復興し「京大俳句」を平畑静塔らと創刊。時事的な句や評論を執筆。当時の句に、反戦的と思われる「往く人の母は埋れぬ日の丸に」(1937年)、「我講義軍靴の音にたゝかれたり」(1937年)等がある。
瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 … 瀬下 耽(せじも たん、1904年(明治37年)2月24日 - 1989年(平成元年)9月5日)は、日本の探偵小説家。代表作に「欺く灯」「柘榴病」など。別名義に秘名生。本名は綱良(つなよし)。 ペンネームは、オスカー・ワイルドの耽美主義的な小説に惹かれていたことによる。 現在の新潟県柏崎市出身。慶應義塾大学法学部卒。 1927年(昭和2年)、雑誌『新青年』の懸賞に応募した「綱」(ロープ)が第二席に入りデビュー。以後、同誌を中心に短編を多く発表する。この間、「四本足の男」のみは秘名生名義で発表した。 1933年(昭和8年)の「罌粟島の悲劇」を最後にいったん文筆活動から離れるが、太平洋戦争後の1947年(昭和22年)に「手紙」を発表し復帰する。
大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24… 大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24日 - 1983年(昭和58年)4月30日)は、日本の新聞記者、経済評論家。 大蔵省や都市銀行の頭取クラスに対して絶大な影響を持ち、アジア開発銀行の設立やがん保険の認可に関わり、「金融界の黒幕」や「金融界のフィクサー」と呼ばれた。 栃木県下都賀郡絹村(現: 小山市)出身[要出典]。 1929年に慶應義塾大学文学部史学科を卒業後、ジャパンタイムズに入社、1937年頃からは同盟通信社に転じた。 戦前には日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)による対外資本の導入を研究し、外務省の矢野征記らとともに原案を草案した。 その後戦時中は大東亜省に転じた[要出典]。
坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 20… 坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 2002年3月18日)は日本の実業家。日清製油元会長。長野県上高井郡川田村(現長野市)生まれ。 その他、日本油脂協会会長、世界製油協会副会長、日本経済団体連合会常任理事などを歴任した。
呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2… 呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2月24日 - 1946年2月28日)は朝鮮の詩人。本名は呉熙秉(오희병)。号は一島。詩誌『詩苑』の発行に尽力し、朝鮮の詩文学に貢献する。自身も豊かな自然を叙情的に吟じた。 1901年陰暦2月24日、楽安呉氏の集姓村である慶尚北道英陽郡英陽面甘川洞780番地に次男として生まれる。父は楽安呉氏の呉益休、母は義興朴氏。漆原県監呉時俊の10代目の子孫であり、家はたいへん豊かな大地主である。呉は、生まれてすぐ、形式的に祖父の兄弟のところの養子となったが、実際は生家で教育を受ける。14歳まで私塾で漢文を勉強し、1915年に地元の公立普通学校に入学する。
番浦 省吾(ばんうら しょうご、1901年2月24日 - 1… 番浦 省吾(ばんうら しょうご、1901年2月24日 - 1982年10月15日)は、日本の漆芸家。日展参事。第5回日展出品作「象潮」により日本芸術院賞を受賞した。 石川県七尾市に生まれる。七尾尋常高等小学校を卒業し、初め画家を志したが、1921年より蒔絵の技術を習得して漆芸の道に入った。1924年頃に京都に移り、1930年の第11回帝展に「秋之夜蒔絵棚」が初入選した。1936年の文展鑑査展では「草花図彩漆衝立」が選奨となり、1937年のパリ万国博覧会では名誉賞を受賞した。 戦後は1945年に漆芸団体創人社を結成して主宰し、1953年には新たに朱玄会を結成した。日展では1947年の第3回日展以後たびたび審査員を務め、1949年より依嘱出品、1958年評議員、1962年会員、1971年理事、1976年参与、1980年参事となった。
大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1983年11月26日)は、京都を中心として活躍した建築家。京都工芸繊維大学学長、西日本工業大学学長などを務めた。
蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1… 蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、日本の政治家、経済学者、統計学者。初代中小企業庁長官。元京都府知事(1950年 - 1978年)。 東京府東京市深川区深川入船町(現在の東京都江東区木場一丁目)の材木商の家に生まれた。旧制東京府立第三中学(現:東京都立両国高等学校・附属中学校、同学年に正木ひろし(弁護士)がおり、英語教諭だった北昤吉(北一輝の弟)の授業を受ける)、農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学、1923年に卒業。1927年、同助教授となる。当初はマルクス経済学者の河上肇に私淑し、漁業水産経済学を研究していたが、ドイツに留学後、『統計利用に於ける基本問題』で経済学博士号を取得するも教授に昇格するのはずっと遅く1942年(昭和17年)だった。
長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 19… 長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 1972年11月12日)は、日本の哲学者・宗教学者、九州大学名誉教授。 新潟県出身。京都帝国大学哲学科卒。龍谷大学教授、京都帝大講師、九州大学教授。1961年「アウグスティーヌス哲学の研究」で日本学士院賞受賞。同年定年退官、名誉教授。関西学院大学教授。
重松 信弘(しげまつ のぶひろ、1897年2月24日 - 1… 重松 信弘(しげまつ のぶひろ、1897年2月24日 - 1983年11月13日)は、日本の国文学者。愛媛大学名誉教授。 源氏物語の思想研究における第一人者。没後出版された『源氏物語のこころ』(1990年5月、佼成出版社)には、膨大な重松源氏のエッセンスが凝縮されている。妻の重松みよの著した『藍と紫とえのころ草』は、学者として一生を終えた重松の生涯を細やかな筆致で描いている。 専門の源氏研究以外にも造詣が深く、国学、国語学、仏教思想、近代評論に通じ、多くの弟子を育てた。宮城女子専門学校の教え子たちによる「源氏物語を読む会」は、晩年まで継続された。機関誌『藝文』第16号(1984年10月)は「重松信弘追悼号」として特集を組み、国語学研究の白方勝、近代文学研究の半田美永らが追悼文を寄せている。
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月… 花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。 1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。 第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。 1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。
金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 19… 金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 1994年4月16日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長及び会長。 大分県出身。1924年京都帝国大学法学部を卒業。同年鉄道省に入り、札幌鉄道管理局総務部長などを務め、1940年退官。同年、日本通運に入り、事業部長、門司支社長などを歴任し。1955年、社長に就任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で出馬して初当選。後に自由民主党に入る。翌1960年には日通会長に就任した。国会内では逓信、運輸、商工の各委員長を務め、第一次佐藤内閣で通商産業政務次官を務めた。 長年、運輸業界での産業安全普及推進に努め実績を積み振興に寄与した功労により1963年、藍綬褒章受章。
粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月2… 粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月24日 - 1949年〈昭和24年〉1月1日)は、大正期から昭和戦前期にかけて活動した日本画家。雅号は新児、心児。 1896年(明治29年)2月24日、粥川八郎、ミチ夫妻の長男として大阪府大鳥郡向井村中筋(現在の堺市)に生まれる。 1902年(明治35年)、堺市英彰尋常小学校(現在の堺市立英彰小学校)に入学する。途中、体が弱く一年間休学する。 1909年(明治42年)、大阪大倉商業学校(現在の関西大倉中学校・高等学校)に入学するが、1910年(明治43年)、結核性骨髄炎となり右足を切断する。 後の進路を親族会議で相談した結果、本人が幼少より絵が好きであったため、画家にさせることに決定。
木下 孝則(きのした たかのり、1894年2月24日 - 1… 木下 孝則(きのした たかのり、1894年2月24日 - 1973年3月29日)は、日本の洋画家。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下義謙は実弟。父の木下友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 学習院初等科、学習院中等科を経て学習院高等科を卒業する。京都帝国大学法科大学政治経済学科および東京帝国大学文科大学哲学科をいずれも中退。このころに小島善太郎など複数の画家と知り合い、油絵を開始。1921年、二科展に入選。その後フランスに留学。帰国後に二科会展で樗牛賞および二科賞受賞。1936年に二科会を脱会して一水会創立会員になった。1958年には日本芸術院賞受賞。1973年に没し、勲四等旭日小綬章受章。
喜多 壯一郎(きた そういちろう、1894年2月24日 - … 喜多 壯一郎(きた そういちろう、1894年2月24日 - 1968年1月28日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→改進党→日本民主党)。法学者。専門は国際法。 石川県羽咋郡北大海村(現在の宝達志水町)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学英語政治科を卒業した後、アメリカ合衆国のノースカロライナ州立大学大学院、プリンストン大学、ジョンズ・ホプキンス大学、スイスのチューリッヒ大学に留学した。1922年(大正11年)に帰国し、早稲田大学で講師として「新聞研究講座」を担当。また第一早稲田高等学院教授を務めた。1925年(大正14年)に再び留学し、アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスの大学を視察した。1928年(昭和3年)に帰国後、早稲田大学新聞学会会長、同講演部長、教授に就任した。
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月2… 三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日 - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。 1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている。
岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 198… 岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 1987年10月16日)は、日本の政治家、実業家。京都府出身。 兵庫県知事(官選1期・公選2期)、参議院議員(2期)を歴任した。 1893年(明治26年)、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府に生まれる。第三高等学校を経て1916年(大正5年)に京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格するも官僚とはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社した。1920年(大正9年)、イタリアのジェノヴァで開催された国際労働者会議に使用者代表の随行員として参加する。日本に帰国後、大阪商船子会社の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ出向して神戸支店および東京支店長を務めた。
大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1… 大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1964年4月16日)は、福岡県山門郡大和町(現在の柳川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は塩塚 又吉。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、90kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、上手投げ、突っ張り。 1911年(明治44年)6月場所、序ノ口で初土俵を踏んだ。5年後の1916年(大正5年)5月場所に十両昇進、その翌年、1917年(大正6年)5月場所には入幕を果たした。この場所、初日から勝ち続けて9連勝、千秋楽こそ預りとなったものの9勝1預無敗の堂々たる成績で優勝旗手となった(この場所、優勝は同成績の大関栃木山)。新入幕力士の無敗は1914年(大正3年)5月場所の前頭14枚目両國以来の快挙で、その後も1945年(昭和20年)11月場所の前頭10枚目千代ノ山を最後に出ていない。
本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月2… 本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月24日 - 1937年(昭和12年)8月14日)は、大正期から昭和初期に大阪を中心に活躍した建築家。兵庫県出身。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月2… 立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。 立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。
西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1… 西村 啓造(にしむら けいぞう、1890年2月24日 - 1955年2月18日)は、日本の実業家、技術者。元古河電気工業社長。元東京大学生産技術研究所協議会会長。 兵庫県出身。西村純一の長男。1914年東京帝国大学工科大学卒業。「古河日光精銅所に於ける精銅並びに加工」により1937年に日本鉱業会学会賞(渡辺賞)を受賞。古河電気工業日光精錬所所長を経て、1946年から古河電気工業社長を務め、サッカー部(のちのジェフユナイテッド市原・千葉)を創設。1948年兵器処理委員会に関する問題で、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年に東京大学生産技術研究所協議会が発足すると評議員に就任。
青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 19… 青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 1961年6月23日)は、日本の文芸評論家。 新潟県佐渡島出身。早稲田大学英文科卒業後、読売新聞記者となるが争議を指導したことにより解雇され、その後は新聞社を転々とした。 1919年、日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表したのを機に、プロレタリア文学評論家として文筆活動を始め、1922年に「階級闘争と芸術運動」を発表。『種蒔く人』の同人として活動。「『調べた』芸術」(『文芸戦線』1925年7月)、「自然生長と目的意識」(『文芸戦線』1926年9月)、「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った。
本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉2月24日 - 1959年〈昭和34年〉9月19日)は、昭和期の国家主義者。頭山満の高弟。号は紫山。 古河町(現在の茨城県古河市)出身。父秋田代吉は古河藩士秋田重柔の二男、母本間まさ(お正とも記述する)は水戸藩主徳川斉昭の侍医であった本間玄調の孫(玄調の長男・高佐=たかすけの二女)。 明治24年(1891年)1月に父が死去し、同年2月27日に母ともども本間家に復籍。翌明治25年(1892年)に母が再婚し東京へ行くものの、憲一郎は水戸市藤坂町(現在の水戸市泉町三丁目、五軒町三丁目のあたり)の伯父本間包三(かねみつ)方に預けられた。 憲一郎は水戸市五軒小学校、水戸市三の丸高等小学校、茨城県水戸中学校を経て、明治44年(1911年)に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学。
西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 19… 西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 1966年7月18日)は、日本の政治家、位階は従三位。 衆議院議員(7期)。岩国市長。岩国市名誉市民。 山口県玖珂郡岩国町(現・同県岩国市)出身。農商務省附属水産講習所(現・東京海洋大学)及び東京帝国大学理科大学卒業。20代から岩国町会議員・玖珂郡会議員・山口県会議員を歴任、山口県会においては県会副議長を務めた。1928年の普通選挙による最初の総選挙で旧山口2区から立憲政友会公認で立候補して当選、中央政界に入った。その後通算7回衆議院議員総選挙に当選した。1931年犬養内閣の海軍参与官に就任。政友会内では同じく山口県出身・選出の久原房之助と行動をともにし、1939年の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属した。
菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月2… 菅源三郎(かん げんざぶろう、1883年(明治16年)2月24日 - 1942年(昭和17年)5月20日)は、日本の航海士、船長。 1883年、愛媛県越智郡歌仙村(現在の菊間町)で生まれる。愛媛県の松尾尋常小学校、旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て1908年に商船学校を卒業し、日本郵船に入社。その後日本郵船の外国航路の乗組船員として熱田丸、阿波丸などの乗務に就く。1916年に甲種船長免状を取得した後に三菱合資会社、近海郵船へ移籍して日華連絡航路、日台連絡航路の乗務に従事し、1939年に東亜海運に移って上海航路の乗務に就いた。 第二次世界大戦時に定期船長崎丸の船長として海軍の捜索要請に協力、揚子江河口にてアメリカの客船「プレジデント・ハリソン」を発見し、これを追跡して座礁させた。
神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月… 神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月24日 – 1956年(昭和31年)6月27日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道理事、北支那開発副総裁。 京都府出身。衆議院議員・法制局長官神鞭知常の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入って、ロンドン駐在財務官附となり、1911年(明治44年)に帰国。税関事務官として横浜税関に勤務し、大蔵省関税課長、横浜税関長を歴任した。 1927年(昭和2年)、南満州鉄道株式会社の理事に就任し、経理部長・販売部長・用度部長を務めた。さらに昭和製鋼所常務取締役となり、1938年(昭和13年)からは北支那開発株式会社の副総裁を務めた。
田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治1… 田口 易之(たぐち やすゆき / えきし、1883年(明治16年)2月24日 - 1965年(昭和40年)2月13日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、政治家。官選大分県知事、和歌山市長。 岡山県西北条郡上田邑村(田邑村を経て現津山市上田邑)出身。田口徳一郎の二男として生まれた。1912年10月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年12月、司法官試補に任じられ静岡地方裁判所検事局事務修習となる。 1913年10月、静岡区裁判所検事代理に就任。同年7月、検事に昇格し名古屋地方裁判所検事局勤務となる。以後、富山区裁判所検事、輪島区裁判所検事、金沢区裁判所検事などを歴任。1920年6月、内務省に転じ、大阪府警視・刑事課長に就任。
高木 三五郎(1880年2月24日〈明治13年2月24日〉 … 高木 三五郎(1880年2月24日〈明治13年2月24日〉 - ?)は、日本の柔術家である。号は柳振斎、名は愛民。 1880年2月24日(明治13年)東京市に高木芳雄の四男として生まれる。高木家は代々医師であり、三五郎も日本医学校 を卒業し医師免許を持っていた。 父の高木芳雄は天神真楊流を開いた磯又右衛門の弟子であり、高木三五郎は青年の時より天神真楊流を学び免許皆伝を受けた。天神真楊流の門人は数千人であり門弟中三段四段五段の腕前を有する者が多かった。 1921年(大正十年)~1925年(大正14年)まで警視庁の柔道整復師試験委員を務めていた。 高木三五郎は芝区内で信用が厚く芝区会議員を務めた。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年… 大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年〈明治7年〉2月24日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の内務・警察官僚。官選沖縄県知事、小樽区長。 石川県石川郡金沢(現:金沢市)小将町[要出典]で、旧加賀藩士・大味如金の長男として生まれる。1894年7月、第四高等中学校を卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。拓殖務省に入省し拓殖務属となり南部局勤務となる。同年9月、拓殖務省が廃止され、内閣属・台湾事務局勤務に転じた。1898年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1899年1月、内務省に転じ内務属・大臣官房文書課兼警保局勤務となった。以後、香川県参事官、奈良県参事官、奈良県警部長、山梨県警部長、福島県警部長、福島県事務官・第四部長、山口県事務官・第四部長、同警察部長、青森県事務官・警察部長、徳島県事務官・警察部長、山形県事務官・内務部長などを歴任。
吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2… 吉村 友之進(よしむら とものしん、1873年(明治6年)2月24日 - 1951年(昭和26年)4月13日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。吉村角次郎の子。 地元の旧家で実業家・貴族院議員の吉村角次郎の長男として和歌山県那賀郡、のちの岩出村(岩出町を経て現岩出市)に生まれ、1891年(明治24年)東京法学院を卒業する。1902年(明治35年)5月、家督を相続する。農業を営む傍ら、家業の製糸業を継ぎ、吉村製糸社長、和歌山紡績取締役、南方酒造監査役などを歴任した。 1939年(昭和14年)和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944… 森 広蔵(もり こうぞう、1873年2月24日 - 1944年1月12日)は、日本の実業家。台湾銀行頭取等を経て、安田保善社理事に就任。昭和初期に安田財閥の最高経営者として組織・人事の再編成を行った。東京銀行集会所会長、経団連副会長等も務めた。 1873年(明治6年)2月24日に鳥取市本町の商家に生まれる。同郷の奥田義人特許局長の玄関番となり特許局で働きながら予備校で学んで、東京高等商業学校(現一橋大学)に入学すると旧藩主による奨学金・寄宿舎に頼りながら、銀行家を目指して学ぶ。1897年(明治30年)7月に卒業すると、高橋是清副頭取の口添えで横浜正金銀行に就職した。1898年(明治31年)3月から上海支店に勤務し、1905年(明治38年)春に満洲の牛荘支店副支配人となった。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明… 柵瀬 軍之佐(さくらい ぐんのすけ、1869年2月24日(明治2年1月14日) - 1932年8月28日)は、日本の政治家。元立憲民政党衆議院議員(6期)。台湾を中心とした植民地事業で財を成した企業家であり、32社の経営に関わった。 岩手県西磐井郡中里村(現:一関市)出身。1889年英吉利法律学校(現:中央大学)卒。山梨日々新聞主筆、東京毎日新聞編集長などを経て、大倉組台湾支店支配人、合名会社柵瀬商会を設立した。1910年の第10回衆議院議員総選挙で初当選。以来6回当選。加藤高明内閣と第1次若槻内閣で商工政務次官を務めた。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。