文 鍾斗(ムン・ジョンドゥ、朝鮮語: 문종두、1916年12… 文 鍾斗(ムン・ジョンドゥ、朝鮮語: 문종두、1916年12月25日 - 1987年8月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育公務員、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 本貫は南平文氏(朝鮮語版)。号は悟耕。 日本統治時代の慶尚北道漆谷郡出身。大邱公立商業学校(現・大邱商苑高等学校(朝鮮語版))、中央大学法科卒。大邱市学務課長署理、慶尚北道知事官房、人事審査院慶尚北道高試課長、金泉中学期成会会長、慶尚北道理事官・教育委員、金泉時報社長、金泉商工会議所会長、金泉新聞記者団団長、民主共和党慶尚北道金泉地区党委員長・中央常任委員を務めた。 晩年は尹奉吉義士義挙55周年記念事業推進会副会長を務めた。
本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2… 本間 正義(ほんま まさよし、1916年12月25日 - 2001年10月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県長岡市出身。旧制長岡中学、旧制二高、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。東京国立近代美術館次長を経て、1975年(昭和50年)大阪国立国際美術館長、1982年(昭和57年)埼玉県立近代美術館長。 サンパウロビエンナーレ、現代日本美術展など、国内外の主要美術展の審査員としても活躍した。専門の近代彫刻のほか、美術館運営や企画、国際展の審査などで活躍。ユニークな展覧会を企画する名物館長として知られた。美術評論家連盟会長。オーボエ奏者で古楽研究者であった本間正史(1947-2016)は子息。
横田 伊佐秋(よこた いさあき、1916年〈大正5年〉12月… 横田 伊佐秋(よこた いさあき、1916年〈大正5年〉12月25日 - 1998年〈平成10年〉1月14日)は、日本の物理学者。理学博士。新潟大学名誉教授。専門は物性物理学。 九州帝国大学医科大学生理学教室助手・横田武三(本籍:埼玉県)の長男として出生。1917年(大正6年)9月の父・横田武三の新潟医学専門学校生理学教室第2代教授への就任に伴って新潟県新潟市(現 新潟市中央区)に転居。 1933年(昭和8年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1936年(昭和11年)3月に新潟高等学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1939年(昭和14年)に北海道帝国大学理学部助手に就任、1942年(昭和17年)5月に中央気象台附属気象技術官養成所教授に就任、1946年(昭和21年)7月に新潟高等学校教授に就任。
福田 孝(ふくだ たかし、1916年(大正5年)12月25日… 福田 孝(ふくだ たかし、1916年(大正5年)12月25日 - 1998年(平成10年)8月19日)は、日本の技術者、実業家、経営者、フクダ電子創業者。 千葉県印旛郡大森町(現在の印西市)に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、大学で学んだ知識を医療に生かそうと、特に1930年代に登場した心電計に着目した。1939年(昭和14年)に独力で福田特殊医療電気製作所(現・フクダ電子)を創業。当時の心電計は直流電池を電源に真空管3本と可動鉄片型ガルバー、ゼンマイ式モーターを使った簡単な構造の心電計で、オシログラフペーパーに記録し現像するという代物だった。 戦後、交流電源を使うようになったが、今度は雑音が激しく専門家が操作を手助けするような状況で、まだまだ臨床での利用にはほど遠かった。
芹沢 守利(せりざわ もりとし、1915年12月25日 - … 芹沢 守利(せりざわ もりとし、1915年12月25日 - 2003年9月25日)は、日本の実業家。 長野県小県郡城下村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1941年に東北帝国大学法律学科を卒業し、同年に湘南電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社。1965年に取締役に就任し、自動車部長、常務、鉄道事業本部長、専務を経て、1981年6月に副社長に就任し、1987年6月には社長に昇格し、1991年6月に会長に就任した。 1993年から1995年までに日本民営鉄道協会会長を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1996年4月に勲一等瑞宝章を受章した。 2003年9月25日、肺炎のために死去。
中村 登一(なかむら とういち、1915年(大正4年)12月… 中村 登一(なかむら とういち、1915年(大正4年)12月25日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、日本の建築指導者、建築家で、戦後の日本建築界を席捲した民主化運動の中心的存在。日本初の分譲マンション「九段コーポラス」を設計し、艮衆のための住宅設計に力を注いだ。東京本所生まれ。 1938年、東京美術学校建築科卒業。東京市役所建築部に就職。12月兵役によって満州に渡る。1944年、陸軍建築研究所勤務。 1945年、吉田五十八建築研究所員。東京美術学校専任講師。1947年、新日本建築家集団(NAU)の結成に参加。1949年、東京芸術大学文部教官。1950年、東京芸術大学を辞任、匠建築研究所所長となる。
岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月2… 岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月25日 - 1982年(昭和57年)7月16日)は日本の陸上選手、スキー指導者、スキー選手、政治家。 日本初の常設スキー学校開設者であり、全日本スキー連盟(SAJ)公認スキー学校の起案者。勲五等瑞宝章(現・瑞宝双光章)受勲。 岡澤(旧姓・香川)惣吉の二男。兄に喬。妹に千賀子、友子。妻は冨美。子に伸夫、由美子。 北海道網走郡美幌村(現・美幌町)に生をうける。 学生時代は陸上選手として活躍する。1927年(昭和2年)、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)に進学、陸上競技にうちこみ、ハードルでは常に上位の成績をおさめている。新潟商業学校4年の時、香川県の父の実家に預けられ、父の母校でもある香川県立高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)4年に編入する。
佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1… 佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家である。 第二次世界大戦後の新東宝、東宝、東京映画で活動した。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った。 1913年(大正2年)12月25日、東京市(現在の東京都)に生まれる。 早稲田大学を卒業後、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。
阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008… 阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008年2月26日)は、作家、キリスト教伝道者。本名、山室光(みつ)。
日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没… 日景 一郎(ひかげ いちろう、1911年12月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。高砂熱学工業社長を務めた。 東京都出身。1936年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1955年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務を経て、1975年に副社長に就任し、1976年8月には社長に昇格。1986年4月に会長を経て、1989年6月から相談役を務めた。
福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月2… 福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月25日 - 1999年(平成11年)8月20日)は、日本の実業家。フジテレビジョン副社長。サンケイアトムズオーナー(球団社長兼務)。東京府出身。 1934年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。専攻は「交通論」だった。卒業と同時に満鉄に入社。その後華北交通に派遣され、終戦まで勤務した。 戦後は、母校の早稲田大学で講師と秘書役を務める。 1954年にニッポン放送に入社し、総務部長、編成部長、編成局次長などを歴任した。日本テレビ、NHKがともに活気を帯びて、受像機が次第に茶の間に進出するようになったことを受け、1956年9月、ニッポン放送がテレビ実施本部を作ると、福田は総括責任者となった。
末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - … 末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - 1993年8月30日)は、日本の経営学者。専門は中小企業適正規模論。名古屋大学名誉教授。日経・経済図書文化賞受賞、日本中小企業学会初代副会長。 その学術論ゆえに、信用金庫整理において小原鐵五郎に敗北したことでも有名。 岐阜県出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。上田貞次郎門下。1961年「中小企業の成長に関する経営経済学的研究」で名古屋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教諭、山口高等商業学校助教授、名古屋経済専門学校教授、名古屋大学経済学部助教授、教授、1974年定年退官し名誉教授となり、愛知大学法経学部教授を務めた。1980年から1986年まで山中篤太郎初代会長等の下で日本中小企業学会初代副会長。
浮田 佐武郎(うきた さぶろう、1909年12月25日 - … 浮田 佐武郎(うきた さぶろう、1909年12月25日 - 1987年3月27日)は、日本の俳優、著作家。八丈島に配流となった宇喜多一族の流れを汲む。 東京府北豊島郡板橋町出身。立教大学卒業。新築地劇団に入団後、榎本健一一座などを経て、戦時中は移動劇団の瑞穂劇団に所属した。 エノケン一座の一員だった関係から1939年の1年間に東宝の『エノケンの鞍馬天狗』、『エノケンの森の石松』、『エノケンの弥次喜多』の3本の映画に出演した。瑞穂劇団の時代から戯曲も書き、戦後はテレビに出演、演劇関連の文筆家としても活躍した。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。
松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - … 松原 祐善(まつばら ゆうぜん、1906年12月25日 - 1991年1月7日)は、日本の仏教学者、真宗学者。金子大栄、 曽我量深に師事。 大谷大学名誉教授、元学長。 1906年、福井県大野市生まれ。旧制福井県立大野中学校(現福井県立大野高等学校)卒。大谷大学卒。大谷大学教授、学長。1980年退任、名誉教授。真宗大谷派円徳寺元住職。
春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12… 春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12月25日 - 1998年(平成10年)10月17日)は、日本の僧侶。臨済宗妙心寺派第29代管長、妙心寺642世、海清寺住職、全日本仏教会会長。道号・諱は文勝無覚、室号は「南隠窟」「南陽室」「喝雲窟」「大楠窟」「大楠樹」「自春見」「大楠」遷化時の「大楠」には窟は付けない。 1905年(明治38年)12月25日に岐阜県美濃加茂市にて、父は兼四郎、母はひさの三男として生まれる。男五人、妹一人の六人兄弟。1919年(大正8年)に美濃加茂市の瑞林寺大崎文渓和尚に就て得度。1923年(大正12年)には京都の花園中学入学。1931年(昭和6年)法政大学高等師範部卒業、法政大学に入学。
渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12… 渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。 1941年八段。順位戦に3期参加した後、1949年に引退。 1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。
清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1… 清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1999年1月16日)は、日本の社会学者。 愛知県渥美郡田原町出身。本籍・広島県。1931年九州帝国大学法文学部哲学科卒。九大助手を経て満鉄調査部に勤務し、「支那社会の研究」を発表。京都帝国大学人文科学研究所助教授、1949年京都大学人文科学研究所教授、58年「支那家族の構造」で京都大学文学博士。68年定年退官、名誉教授、関西大学教授、1974年松山商科大学教授、1977年駒澤大学教授。中国の社会関係の研究を行った。
松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12… 松岡 松平(まつおか まつへい、1904年(明治37年)12月25日 - 1975年(昭和50年)3月1日)は、日本の弁護士。政治家。衆議院議員(3期)。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 富山県出身。1924年中央大学法律科を卒業し、弁護士となる。戦後、公職追放となり、追放中の1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で富山1区から立候補して当選し、翌1953年の総選挙で落選した。1955年の総選挙で再選したが、1958年の総選挙で落選してから、5回連続落選した。1972年の総選挙で14年ぶりに国政に復帰。国会内では商工委員長を務めた。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12… 舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家の舟橋和郎。日本芸術院会員。文化功労者。 大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。 戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。
中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - … 中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - 2005年1月12日)は、日本の実業家。 高知県出身。1928年に東京帝国大学工学部を卒業し、同年に湘南電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社。取締役、専務、副社長を経て、1969年11月から1975年5月までに社長を務め、1975年5月から1981年6月までに会長を務めた。 1968年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2005年1月12日、急性心不全のために死去。101歳没。
神田 博(かんだ ひろし、1903年12月25日 – 197… 神田 博(かんだ ひろし、1903年12月25日 – 1977年6月30日)は、日本の政治家。位階は正三位。厚生大臣(第28、29、40、41代)、衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。 現在の新潟県東蒲原郡阿賀町に生まれる。1928年法政大学専門部法律科を卒業した後内務省に入る。同省地方局から静岡県属となり、水産、人事、秘書、商工の各課長を務める。その後、理研軽金属工業静岡工場長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から静岡全県区から立候補し当選を果たす。翌年の第23回衆議院議員総選挙からは旧静岡1区に移り、通算当選8回。村上勇とともに、大野伴睦の最も早い時期からの側近であった。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - … 彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - 1989年3月27日)は、日本の原子核物理学者。新潟大学名誉教授。愛知県渥美郡老津村(現・豊橋市)出身。理学博士(東北大学、1950年)。 長男は社会評論家、翻訳家、社会運動家の彦坂諦。四男は物理学者の彦坂正道。岳父(妻の父)は西洋史学者の阿刀田令造。 愛知県出身。旧制愛知県立第四中学校を経て、旧制第二高等学校を卒業後、1923年に東北帝国大学理学部物理学科に入学した。1926年に同大学を卒業し、当時の同大学教授高橋胖のもとで助手を務めた。1934年に原子核の内部構造を提唱し、当時広く考えられていたニールス・ボーアの液滴模型とは異なった今日殻模型と呼ばれるものに近い模型を発表したが、広く受け入れられることはなかった。
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1… 玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。 1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。
島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25… 島田 叡(しまだ あきら、1901年〈明治34年〉12月25日 – 1945年〈昭和20年〉6月26日)は、日本の内務官僚、沖縄県知事(官選第23代)。 第二次世界大戦末期、沖縄戦時の知事であり、「島守」として知られる。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。 1901年(明治34年)、兵庫県武庫郡須磨村(現在の神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれた。須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科から兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)へ進学。須磨小、神戸二中では重成格(内務官僚、鹿児島県知事、参議院議員)と同期。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。
横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月… 横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月25日 - 1981年(昭和56年)12月20日)は、日本の詩人、国文学者。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。1927年(昭和2年)に早稲田大学文学部国文科卒業。 1921年(大正10年)、西條八十の門下に入る。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた。 1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた。
大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)… 大山 朝常(おおやま ちょうじょう、1901年(明治34年)12月25日 - 1999年(平成11年)11月24日)は、琉球政府および沖縄県の政治家。1954年に立法院議員に当選。1958年から1974年まで4期16年間にわたりコザ市長を務めた。沖縄社会大衆党の結党メンバーの1人で、沖縄の本土復帰運動のリーダーであった。位階は正六位。沖縄戦の後の沖縄の政治、行政に大きな影響を与え、現在の沖縄市の基礎を築いたと評される。晩年、『沖縄独立宣言』 を出版し、「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」として琉球独立を主張した。 琉球列島米国民政府(略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。
藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月… 藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年〈明治33年〉12月25日 - 1946年〈昭和21年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士33期、陸大42期。 別名、田友・田通。髭の参謀とも呼ばれた。通化事件の首謀者として八路軍に拘束され、肺炎で急死した。 鹿児島県の士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。 ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。
島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1… 島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1993年4月27日)は日本の牧師である。俳人でもあり哉哉(さいさい)と称した。 高知県安芸郡室戸村室津(現室戸市)で捕鯨業の家に生まれる。1930年に明治学院大学神学部を卒業し、前橋で開拓伝道をする。そして、10年間群馬教会牧師として仕える。 1939年富士見町教会の牧師に就任する。第3代目主任牧師三吉務の元で奉仕を続ける。1948年3月に三吉が主任牧師を辞任すると、1950年より富士見町教会第4代目主任牧師に就任する。1963年に日本基督伝道会の会長に就任する。1969年以降は俳誌『九十九里』の選者になる。 1979年に牧師を引退し、名誉牧師になる。
尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月2… 尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月25日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、日本の小説家。三重県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒。志賀直哉に師事。生活苦の中で執筆し、短編集『暢気眼鏡』で芥川賞受賞。その後大病を患い、療養生活の中で自然や生き物への観察眼を深め、身近に迫る死を見つめた心境小説を発表して高い評価を受けた。昭和期の代表的な私小説作家であり、『虫のいろいろ』や『美しい墓地からの眺め』などの作品は、作者のみならず心境小説の代表的作品として知られている。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 実家は祖父の代まで神奈川県小田原市北東部の宗我神社の神官を務めた一族だが、父・尾崎八束(1872-1920)は東京帝国大学文学部史学科卒、神宮皇學館講師をしており、三重県宇治山田町(現・伊勢市)で生まれる。
重友 毅(しげとも き、1899年12月25日 - 1978… 重友 毅(しげとも き、1899年12月25日 - 1978年8月11日)は、日本の国文学者。 1899年、山口県吉敷郡山口町で生まれた。1917年に早稲田大学部学部予科に入学するも、同年7月に中退し、第一高等学校に入学。1920年に同校を卒業後、東京帝国大学文学部国文科に進学。1924年に卒業。 同1924年、旅順工科大学予科教授に就いた。1933年、東京体育専門学校教授に転じた(1941年まで)。1938年より武蔵高等学校教授も兼ねた。 1949年に武蔵大学教授となり、法政大学教授を兼任。1952年、学位論文『雨月物語の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1956年に武蔵大学を辞任し、法政大学および同大学大学院教授のみとなった。
小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1… 小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。 山梨県西八代郡高田村出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満洲・長春へ赴任。夫人の小澤さくらによれば、「昼間まじめに診察していたのは、1931年(昭和6年)の満洲事変の前まで」だった。また、長春にいた頃、奉天の鉄道の責任者になり、初めて視察に行った際に、駅のプラットホームで何者かに狙撃されたが無事だった。1928年(昭和3年)に満州青年聯盟を、1932年(昭和7年)には満洲国協和会を結成し民衆の教化を行った。 満洲事変の立役者であった関東軍の板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。
久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 -… 久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 - 1986年7月31日)は、日本の宗教社会学者・仏教学者、立正大学仏教学部元教授。名誉教授。日蓮宗の僧。 新潟県生まれ。1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1926年、ロンドン大学で社会学を専攻。1930年、立正大学文学部教授。1960年、「宗教集団の社会学的研究」により、日本大学文学博士。1973年、立正大学名誉教授。
金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月… 金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の詩人。本名:金子安和(かねこ やすかず・後に保和を名乗る)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいて、衆議院議員の河野密(妹・捨子の夫)は義弟にあたる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現:津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 19… 浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 1969年10月9日)は、日本の言語学者。台湾を中心としたオーストロネシア語族諸言語を研究した。日本言語学会評議員、日本民族学会評議員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員を務めた。 1894年、石川県能美郡苗代村(現・小松市)で浄土真宗大谷派住職・浅井恵定の長男として生まれた。1912年、県立小松中学校を卒業。第四高等学校に進学し、在学中にエスペラントを独学。1915年に卒業し、東京帝国大学文科大学に進学した。言語学科専攻で学び、1918年に卒業。 卒業論文『ポリネシア諸民族とその諸言語』はエスペラントで執筆した。1919年、日本エスペラント学会の創立に関わった。
戸川 貞雄(とがわ さだお、1894年(明治27年)12月2… 戸川 貞雄(とがわ さだお、1894年(明治27年)12月25日 - 1974年(昭和49年)7月5日)は、日本の小説家、平塚市の第7・8代市長。勲三等瑞宝章。 東京は本郷の森川町生まれ。幼少から父の仕事により台湾へ移り、本土へ戻ってからも静岡や名古屋などへ移り続けた。 静岡県立静岡中学校に学ぶ。早稲田大学文学部英文科在学中から執筆活動を行い、卒業後は東京社(現在のハースト婦人画報社)の編集者を経たのち退職し、1921年10月に『蠢く』で作家デビュー。翌年東京から平塚市に移住し、戦前から戦後にかけて作家として活動する。 1955年に河野謙三からの要請を受けて平塚市長選挙に出馬。所属していた作家クラブの小説家や芸能人の応援もあり、710票差の接戦を制し当選。
水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25… 水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25日 - 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の童話作家、少女詩人。 東京出身。本名は勝。早稲田大学卒。コドモ社『良友』編集者、『少女画報』主筆などをへて童話作家となる。1928年千葉省三らと同人誌『童話文学』を創刊。
大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12… 大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12月25日 - 1953年(昭和28年)4月21日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で生まれる。 18歳頃から棒頭(人足頭)として足尾線工事、利根川改修工事に従事。徴兵検査後に上京し三河島造船尻ケ崎鉄工所で働き、労働運動に加わり日本友愛会向島支部長に就任した。1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に労働代表顧問として出席。マーガレット・サンガーに賛同して産児調節運動に取り組むが、出版法違反で投獄された。 満洲に移り、その後、盧溝橋近くで大島鉱業所を経営した。
安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月2… 安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月25日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住房吉の庶子。家業の農業に従事する。1914年に舞鶴砲兵大隊に入隊し1916年に上等兵に進級、帰休退営する。在郷軍人那岐村分会理事、或いは分会長に就任する。 1929年、砲兵伍長に任官し、また同年に那岐村長に就任、1932年、辞任する。那岐村農会長、自治会長をつとめる。1933年、那岐村会議員に選任される。 那岐運送取締役である。 那岐村の有力者として知られる。不言実行の人である。1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、地価所有高は「666円32銭」である。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月2… 高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月25日 - 1984年(昭和59年)4月28日)は、日本の政治学者、アメリカ研究者、政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。東京大学名誉教授、日本学士院会員。 東京帝国大学教授、太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。 英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。外戚の佐賀藩士の高木家の養子となる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受ける。1918年(大正7年)、母校でアロンゾ・バートン・ヘボンの寄付で設置された米国憲法・歴史及び外交講座(通称「ヘボン講座」)の初代担当者となる。
佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - … 佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - 1978年11月8日)は、日本の彫刻家。 1889年、富山県下新川郡愛本村大字音沢村(現在の黒部市宇奈月町音沢)生まれ。本名、長次郎。黒難温泉を経営する裕福な家庭に生まれ、男女7人兄妹の下から2番目の子であった。 富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高等学校)を経て、1914年、東京美術学校彫刻科本科彫部卒業。1920年、第2回帝国美術院展覧会に出品した「誕生の頃」が特選に選ばれ、1929年には「紫津久」で帝国美術院賞を受賞した。1935年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教授となる。1937年、ヘレン・ケラーに塙保己一の像を贈る。1951年、多摩美術大学教授。
長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 -… 長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 - 1957年9月10日)は、日本の宗教家、立正佼成会の元副会長。現在は、脇祖として尊崇されている。改名前の名前は長沼政(まさ)という。 埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。 1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、同年3月5日に庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。
尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月… 尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1951年(昭和26年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)、富山市長。旧姓は大野。 富山県婦負郡富山手伝町(現富山市)で大野清兵衛の三男として生まれ、1899年、富山市千石町の尾山定次郎の養子となる。1905年3月、富山市立富山商業学校(現富山県立富山商業高等学校)を卒業した。 富山市蛯町の (株) 青物市場に入社。同支配人、同社長、帝国館社長、富山鉄道監査役、富山県食糧営団理事、富山県水産業会副会長、富山消防組組頭、富山警防団長、大日本警防協会理事などを務めた。 政界では、富山市会議員(6期)、富山県会議員(4期)に選出され、市会副議長、同議長も務めた。
藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)… 藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)12月25日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本の中国文学者、真宗大谷派僧侶。 1911年、第三高等学校を卒業。1914年、京都帝国大学中国文学科を卒業。同志社大学教授、同志社女専講師を歴任。僧侶としては西宗寺(京都府京都市下京区)の住職を務めていた。 大正のおわりごろ現地で購入して以来、長年親しんできた中国の李汝珍の小説『鏡花縁』の翻訳を、大学を退官した70歳のとき(1968年)に決意、以後20年以上の歳月を掛けてこれを翻訳し、92歳のとき(1980年)これを出版した。
洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12… 洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1974年(昭和49年)4月1日)は、日本の政治家、教育家である。柏崎市長を務めた。 新潟県にて大地主の家系だった洲崎伝吾の長男として生まれる。早稲田大学卒業後の1918年(大正7年)に同県比角村の村長を務め、その傍らで比角小学校(現在の柏崎市立比角小学校)の青年教師として自由教育の奨励に携わった。また洋画家の中村彝や苦学生の援助にも携わり、新潟県の青年団副団長や柏崎体育連盟の会長、新潟県体育協会の副会長を歴任する。第二次世界大戦直後には戦時中の青年団活動を反省したことで世界平和運動に参加し、1951年(昭和26年)には柏崎市長に就任した。
江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月… 江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月25日 - 1966年(昭和41年)1月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。 ※ 吉村和嘉著 『かかる師ありき 恩師・江本茂夫傳』、暮らしの手帖社、2008年(注:国立国会図書館の蔵書本) ※ 江利川春雄著 『英語と日本軍 知られざる外国語教育史』、NHKBOOKS1238 第2刷2016年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
真保 一輔(しんぼ いっぽ、1887年〈明治20年〉12月2… 真保 一輔(しんぼ いっぽ、1887年〈明治20年〉12月25日 - 1964年〈昭和39年〉7月17日)は、日本の植物学者。新潟大学名誉教授。 新潟県中蒲原郡庄瀬村大字牛崎(現 新潟市南区牛崎)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1909年(明治42年)7月に第一高等学校を卒業、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。 東京帝国大学理科大学大学院で3年間、植物生理学を研究、東京帝国大学理科大学植物学教室副手に就任、1919年(大正8年)6月に新潟高等学校教授に就任、植物学と動物学と生物学を担当。 1928年(昭和3年)3月に文部省在外研究員として植物学の研究のため、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカへの留学に出発、1930年(昭和5年)4月に帰国。