山内 大介(やまうち だいすけ、1925年2月26日 - 1… 山内 大介(やまうち だいすけ、1925年2月26日 - 1987年12月22日)は、毎日新聞社長。 福岡県出身。1949年東京大学法学部卒。同年毎日新聞入社。1952年フルブライト奨学生としてアメリカに留学、1962年毎日新聞ニューヨーク支局長。その後、帰国して取締役企画室長、代表取締役主筆を経て、1980年代表取締役社長に就任した。このほか、パレスサイドビルディング社長や横綱審議委員を務めた。
津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2… 津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2017年10月10日)は、日本のイラストレーター、西部劇研究家。 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。本名・小林久三。別名・白井哲。1948年東京美術学校油絵科卒。NHKに2年勤めた後、フリーのイラストレーターとなり1963年渡米。ニューヨークで18年間過ごし、1980年帰国。千葉大学工学部教授としてイラストを教えた。1999年定年退官。西部劇研究家でもあった。
田邉 昇(たなべ のぼる、1925年2月26日 - 2018… 田邉 昇(たなべ のぼる、1925年2月26日 - 2018年2月14日)は、日本の大蔵官僚。近畿財務局長や、大蔵省大臣官房審議官を経て、西武化学工業社長、オールステート自動車・火災保険社長などを歴任した。 東京府生まれ。1947年高等文官試験行政科に2番の成績で合格。1948年東京商科大学(現一橋大学)卒業。同年に大蔵省入省後、ハーバード大学ハーバード・ロー・スクール留学。1949年金融検査官。1951年札幌国税局室蘭税務署長。1952年金沢国税局総務部総務課長。 国税庁長官官房審議官補佐を経て、1963年国税庁長官官房審議官。1964年大蔵省為替局局付、国際通貨基金シニア・エコノミスト。1967年大蔵省主税局税制第二課長。
西村 豁通(にしむら ひろみち、1924年2月26日 - 2… 西村 豁通(にしむら ひろみち、1924年2月26日 - 2010年12月3日)は、日本の社会政策学者。同志社大学名誉教授。 京都市伏見区深草出身。桃山中学校卒、第三高等学校卒、1947年東京帝国大学経済学部卒、京都大学大学院入学。1953年大阪市立大学講師、1953年同志社大学経済学部専任講師、1955年助教授、1961年教授、1969-1971年経済学部学部長、1995年定年、名誉教授。90年「現代社会政策の基本問題」で、経済学博士(北海道大学)。短歌も詠んだ。
竹下 登(たけした のぼる、1924年〈大正13年〉2月26… 竹下 登(たけした のぼる、1924年〈大正13年〉2月26日 - 2000年〈平成12年〉6月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。 内閣総理大臣(第74代)、大蔵大臣(第84・86・87・90代)、建設大臣(第38代)、内閣官房長官(第35・38代)、内閣官房副長官(第1次佐藤内閣・第1次佐藤第1次改造内閣)、通商産業政務次官(第3次池田内閣)、衆議院予算委員長、衆議院議員(14期)、島根県議会議員(2期)、自由民主党総裁(第12代)、同幹事長、同幹事長代理、同青年局長を歴任した。異母弟は、自身の秘書を経て復興大臣、自由民主党総務会長、平成研究会会長、衆議院議員などを務めた竹下亘。
大藪寿一(おおやぶ じゅいち、1924年2月26日 - 20… 大藪寿一(おおやぶ じゅいち、1924年2月26日 - 2001年10月16日)は、日本の社会学者。大阪市立大学名誉教授。社会病理学を専門とした。 福岡県生まれ。九州帝国大学法文学部卒。熊本短期大学助教授、大阪市立大学助教授、教授、86年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。
奥住 正道(おくずみ まさみち、1924年2月26日 - 2… 奥住 正道(おくずみ まさみち、1924年2月26日 - 2020年8月12日)は、日本の経営コンサルタント。奥住マネジメント研究所取締役会長。 大阪府生まれ。1945年、慶應義塾大学経済学部を卒業。1954年に日本NCRに入社する。同社MMM(モダーン・マーチャンダイジング・メソッド)大学学長として、流通業界、外食業界の近代化の指導にあたる。 1963年、社団法人日本セルフサービス協会設立に参画し以来、顧問を務める。 1971年に日本NCRを退社、株式会社奥住マネジメント研究所を設立する。社団法人日本ショッピングセンター協会、社団法人日本フランチャイズチェーン協会(いずれも1972年設立)、社団法人日本フードサービス協会(1974年設立)、社団法人日本専門店協会(1987年設立)の各法人の創立に参加し、顧問を務めた(日本ショッピングセンター協会は相談役顧問)。
谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2… 谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2007年8月19日)は、日本の編集者、文芸評論家。堀辰雄の研究で知られる。妻は詩人の牟礼慶子。 徳島県生まれ。兵庫県神戸市出身。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を経て、京都大学文学部卒。在学中から堀辰雄研究を行い、大阪府立桜塚高等学校教諭時代に遠藤周作と知り合った縁から、「三田文学」に「堀辰雄年表」が掲載される。1954年に新潮社に入社。出版部時代、『武者小路実篤全集』を皮切りに、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、編集者として数々の話題作を手掛けた。1976年『新潮』編集長。町田に転居した遠藤に誘われて「町田会」にも参加し、多くの文豪たちと交友を持った。
秋山 さと子(あきやま さとこ、本名:秋山達子(読み方同じ)… 秋山 さと子(あきやま さとこ、本名:秋山達子(読み方同じ)、1923年2月26日 - 1992年1月5日)は、ユング派の心理学者。お茶の水女子大学講師、駒澤大学講師、東洋大学講師。東京ユング研究会主宰。 東京都出身。1923年、曹洞宗の寺院に生まれる。1940年、文化学院を卒業。19歳の時結婚。28歳で離婚。その後ジャズ歌手やディスクジョッキー、デザイナーとして活動する。35歳の時に駒澤大学仏教学部に入学、更に大学院へ進学。1964年に渡欧して、ユング心理学研究所に4年間在籍。その経験は、「チュリッヒ夢日記」として出版され、当時のユング派の夢分析の実体験を知ることができる。
今川 彦二(いまがわ ひこじ、1923年2月26日 - 20… 今川 彦二(いまがわ ひこじ、1923年2月26日 - 2009年9月6日)は、日本の経営者。住友セメント(現在の住友大阪セメント)社長、会長を務めた。 徳島県出身。1948年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年に住友鉱業(現在の住友金属鉱山)に入社した。1973年4月に住友セメントに転じ、1975年5月に取締役に就任し、1978年6月に常務を経て、1982年6月に社長に就任し、1990年6月には会長に就任した。1994年10月に取締役相談役に就任し、1996年6月に相談役を経て、2000年6月には名誉顧問に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章した。 2009年9月6日、腎不全のために死去。
吉田 禎吾(よしだ ていご、1923年2月26日 - 201… 吉田 禎吾(よしだ ていご、1923年2月26日 - 2018年5月29日)は、日本の人類学者。東京大学名誉教授。1999年勲三等瑞宝章受章。 1923年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部心理学科で学び、1947年に卒業。 卒業後は、東京学芸大に奉職後、1949年ガリオア留学生としてオレゴン大に学ぶ。1953年九州大学教育学部助教授に就任。1969年、東京大学教養学部教授となった。1983年に東京大学を定年退官し、1987年に東京大学名誉教授となった。1985年、学位論文『神秘性の構造:宗教人類学再考』を慶応義塾大学に提出して文学博士号を取得。東京大学を退任後も、聖心女子大学教授、慶應義塾大学客員教授、桜美林大学教授として教鞭をとると同時に、研究を続けた。
三輪 勇之助(みわ ゆうのすけ、1920年2月26日 - 1… 三輪 勇之助(みわ ゆうのすけ、1920年2月26日 - 1990年1月1日)は、三重県四日市市出身の日本の洋画家。 同じ四日市市生まれの従兄弟に芥川賞受賞作家の近藤啓太郎がいる。
川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月2… 川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日本の作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 1920年(大正9年)、函館市青柳町の日蓮宗住職の家に生まれた。実家は寺を持たず貧しい生活で、大森尋常小学校(現・大森浜小学校)を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)に東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した。
東屋 五郎(あずまや ごろう、1920年2月26日 - 20… 東屋 五郎(あずまや ごろう、1920年2月26日 - 2010年7月8日)は、日本の数学者。神奈川県横浜市出身。 1940年、東京大学に入学。1949年、彌永昌吉のもとで学位を取得。多元環の研究で知られており、東屋多元環(英語版)やクルル・シュミット・東屋の定理、東屋の補題(いわゆる中山の補題)に名を残している。名古屋大学、北海道大学などで教授を務め、亡くなる際にはインディアナ大学で教授を務めていた。1949年に中山正と共に第2回中日文化賞を受賞。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26… 黒田 三郎(くろだ さぶろう、1919年(大正8年)2月26日 - 1980年(昭和55年)1月8日)は、日本の詩人。 東大経済学部卒。戦後の『智恵子抄』とも言える恋愛詩集『ひとりの女に』(1954年)と、妻の入院中、父娘2人の生活をうたった絶唱『小さなユリと』(1960年)で現代詩を誰にもわかる平明なものにした。ほかに『時代の囚人』(1965年)など。 広島県呉市出身。呉海兵団の副団長であった父・勇吉(海軍兵学校第21期)の退役に伴い、3歳からは、父の故郷・鹿児島で育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制) 、第七高等学校造士館 (旧制) を経て東京大学経済学部卒業。戦時中、会社から派遣されたり現地召集で南洋の島々で過ごした。
松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2… 松形 祐堯(まつかた すけたか、1918年2月26日 ‐ 2007年8月23日)は、日本の政治家、官僚。 宮崎県知事(公選第10‐15代)、林野庁長官を歴任。 宮崎県えびの市出身。宮崎県立小林中学校(現・宮崎県立小林高等学校)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)、九州帝国大学農学部卒業。1942年農林省に入省。林野庁長官などを歴任後、1976年の参議院議員補欠選挙に宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補したが落選。1979年当時の宮崎県知事黒木博の任期途中での辞職により同県知事選に立候補し当選、2003年まで宮崎県知事を6期務めた。6期目では全国で最高齢の知事であった。2004年旭日大綬章受章。
山村 昌(やまむら さかえ、1918年(大正7年)2月26日… 山村 昌(やまむら さかえ、1918年(大正7年)2月26日 - 2005年(平成17年)6月7日)は、日本の電気工学者。リニアモーターの理論的研究で知られる。日本学士院会員(1988年12月12日-2005年6月7日)。長女は化学者の松本和子。 1918年、鳥取県鳥取市で生まれた。父は第9代鳥取市長を務めた山村栄太郎。 1936年に鳥取県立鳥取第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1940年に東京大学工学部電気工学科を卒業。1941年より同大学工学部に助手として奉職。1943年から同学部講師を経て、1944年から助教授を務め、助教授在職中の1950年にオハイオ州立大学に留学し研究を続け、1953年に同大学から博士号(Ph.D)を授与された[要出典]。
鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 … 鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人、実業家、作家。最終階級は海軍少佐。『海軍第十六防空隊』など多数の日本軍関係本の著者。 徳島県生。旧制徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)卒業後、1934年(昭和9年)に海軍兵学校に入学した。 海兵65期として1938年(昭和13年)に卒業する。八雲・陸奥・剣埼・夕立・村雨・五月雨などの海軍軍艦および艦艇に乗船した。[要出典] 1940年(昭和15年)に舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊副官になる。1941年(昭和16年)に夕立と村雨の砲術長兼分隊長、1943年(昭和18年)に海軍第16防空隊長になる。1944年(昭和19年)海軍少佐に昇進し、1945年(昭和20年)に海軍兵学校教官兼海軍兵学校監事となる。
大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26… 大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26日 - 2018年(平成30年)2月27日)は昭和・平成時代の日本の禅僧。 兵庫県西宮市出身。室号は大隠窟、道号は際断。法諱は令碩、俗姓は大井。1990年(平成2年)に臨済宗方広寺派管長ならびに方広僧堂師家に就任、1990年より2018年まで務めた。2018年(平成30年2月27日)遷化。世寿104。 1915年(大正4年)、兵庫県西宮市に生まれる。6歳のとき、西宮市の臨済宗東福寺派茂松寺和尚、かつ実父の大井洞雲について得度した。 1940年(昭和15年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、1940年(昭和15年)に家永一道のいる京都の東福僧堂に掛搭。
山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 19… 山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 1990年5月30日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。大阪府池田市出身。 1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社。1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1975年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任した。1988年6月から会長を務めた。阪急電鉄取締役、関西テレビ放送取締役も務めた。 小学校からテニスをプレーしており、1985年にはダンロップグランドマスターズで優勝を果たした。 1990年5月30日心不全のために死去。
藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日… 藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日本の倫理学、明治教育史学者。 岐阜県長良村(現在の岐阜市)生まれ。父の仕事で長野県松本市、群馬県前橋市と転々とし、水戸高等学校卒、1939年東京帝国大学文学部哲学科卒、外務省に入る。1940-42年入隊。1943年東京女子高等師範学校嘱託としてドイツ語を教える。1946年山梨工業専門学校専任講師、1949年明治大学教養部助教授、1954年教授、ドイツでボルノーに学ぶ。1969年東京農工大学教授、1978年定年退官、立正大学文学部教授、1986年退職。
和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月2… 和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月16日)は、日本近代文学研究者、歌人。 京都府京都市生まれ。立命館大学法文学部国文学科卒。立命館中学校教諭、立命館大学予科教授、1949年(昭和24年)立命館大学助教授、1956年(昭和31年)同大学教授。1976年「近代文学創成期の研究 リアリズムの生成」で立命館大文学博士。1979年退任、名誉教授、大谷女子大学教授。1983年退職。1985年、勲三等瑞宝章受章。1999年、肝臓癌のため死去。 歌誌『ポトナム』同人。筆名・周三。小泉苳三に師事。門下に上田博など。
浅蔵 五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 - … 浅蔵 五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 - 1998年4月9日)は、日本の陶芸家である。浅蔵五十吉の二代目、本名は与作(よさく)。 石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれ。初代徳田八十吉、北出塔次郎等に師事。 1981年(昭和56年)、日本芸術院賞受賞。1984年(昭和59年)に日本芸術院会員、1992年(平成4年)に文化功労者、1996年(平成8年)に九谷焼作家として初めてとなる文化勲章を受章した。 1993年(平成5年)、故郷の寺井町に「浅蔵五十吉美術館」が開館した。設計は池原義郎。 1998年(平成10年)4月9日、呼吸不全のため金沢大学医学部付属病院で死去。享年85。1999年(平成11年)には後継者が三代目を襲名した。
本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990… 本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990年8月26日)は、世界を代表する日本のアマチュア天文家。独学による天文観測で、生涯に彗星12個、新星11個を発見した。 鳥取県八頭郡八頭村(現・八頭町)出身。八東町名誉町民第1号。八東尋常高等小学校(現・八頭町立八東小学校)卒業。1976年日本天文学会神田茂記念賞受賞。1985年第19回吉川英治文化賞受賞。1987年フランス天文学会100周年記念賞受賞。 本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmのラムスデン式接眼鏡を買った。32倍の屈折望遠鏡を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月2… 岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家・作家。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごし、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。血液型はO型。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは家族ぐるみの付き合いがあった。 父・一平は朝日新聞で「漫画漫文」という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」といわれるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月2… 山本 幸雄(やまもと さちお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 2007年〈平成19年〉2月6日)は、日本の政治家、内務・建設官僚。位階は従三位。 衆議院議員(7期)。自治大臣(第32代)、国家公安委員会委員長(第41代)を歴任した。 現在の三重県桑名市に生まれる。旧制富田中学、松本高等学校文科甲類を経て1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部政治科に入学。在学中に高等文官試験行政科に合格し、1936年、大学卒業。 1936年、内務省に入省する(同期に山田正雄陸上幕僚長)。入省後、愛媛県で別子銅山の公害調査、富山県で内務省高等官として都市計画等の地方行政に携わる。終戦後の1946年、当時内務政務次官であった世耕弘一の下、経済警察の立場で隠退蔵物資摘発に携わった後、神奈川県国家地方警察隊長、国家地方警察本部人事課長、防衛庁人事局長、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、建設省官房長を務め、建設事務次官を最後に退官。
藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月2… 藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1984年〈昭和59年〉10月25日)は、日本の政治家。元大分県東国東郡姫島村長。 旧制国東中学、明治大学を卒業。1934年(昭和9年)に満州に渡り満州国官吏となった。終戦後、故郷姫島に引き揚げ、1951年(昭和26年)に村議会議員に初当選し、議長に就任した。 村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したため、2年後の1957年(昭和32年)に村長辞任に伴って行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで村長選挙での無投票が続いた。藤本は、村議会議長を務めていた1960年(昭和35年)に行われた村長選挙に立候補し、無投票当選して以来、1984年(昭和59年)に急死するまで、すべて無投票で7期にわたって姫島村長を務めた。
上野 季夫(うえの すえお、1911年(明治44年)2月26… 上野 季夫(うえの すえお、1911年(明治44年)2月26日 - 2011年(平成23年)10月19日)は、日本の物理学者(理学博士)。専門は天体物理学で、輻射輸達方程式の厳密解法における、世界的権威を成し遂げた。京都大学名誉教授、金沢工業大学名誉教授。東京府東京市(現在の東京都区部)出身。 1911年(明治44年)、東京市生まれ。京都帝国大学理学部宇宙物理学科へ進学、1937年(昭和12年)に卒業。在学中は同じ物理学者の荒木俊馬に師事。その後、7年間技術将校として陸軍に従事(1945年(昭和20年)陸軍少佐)し、1946年(昭和21年)京都大学理学部宇宙物理学教室に復帰。 教室復帰後、理学部講師、助教授を経て、1959年(昭和34年)から京都大学理学部教授(天体物理学担当)。
三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2… 三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月31日)は、日本の物理学者。専門は結晶物理学。東京大学物性研究所第3代所長。東京大学名誉教授。岡山県岡山市生まれ。位階は正四位。 静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1933年(昭和8年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。同年3月、理学部助手、1934年(昭和9年)、理化学研究所研究生、1940年(昭和15年)、小林理学研究所研究員、1942年(昭和17年)、理学博士(東京帝国大学)。1949年(昭和24年)東京工業大学教授、1957年(昭和32年)東京大学物性研究所教授、1965年(昭和40年)、同所長、1971年(昭和46年)定年退職、東京大学名誉教授。
新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月2… 新谷 要二(しんたに ようじ、1911年(明治44年)2月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。山口県議会副議長。千鳥水産代表取締役。旭洋造船取締役。山口県輸出スダレ協同組合理事長。山口県漁業生産組合長。下関漁港管理委員。下関水産振興協会・山口県遠洋底曳網漁業協会下関支部各理事。 山口県萩市出身。中央大学中退。1951年、山口県議会議員に当選。住所は山口県萩市唐樋町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月… 入江 仁士(いりえ ひとし、1910年 <明治43年> 2月26日 - 1973年 <昭和48年> 9月28日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 広島県広島市出身。1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に大阪商船に入社。 1963年5月に取締役、1964年4月に大阪商船三井船舶常務、1965年5月に大阪建物常務を経て、1972年9月に社長に就任。 1973年9月28日、肝癌のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高山 義雄(たかやま よしお、1910年2月26日 - 19… 高山 義雄(たかやま よしお、1910年2月26日 - 1997年1月12日)は、日本の実業家。三和銀行(現:三菱UFJ銀行)元副頭取。兵庫県神戸市出身。 大阪市南区心斎橋筋1丁目にあった糸商・伏見屋の3男として生まれる。 大阪市立御津尋常小学校、市岡商業学校を経て1932年に神戸高等商業学校を卒業し、山口銀行に入行。翌年の合併により、三和銀行(現:三菱UFJ銀行)行員となる。 一貫して調査畑を歩み、取締役、専務を経て、1970年から1972年まで副頭取を務めた。 その一方で、1969年から1970年までに関西経済同友会代表幹事を務め、1970年の大阪万博の際には、「みどり館」の責任者を務めた。
馬場 勇(ばば いさむ、1910年〈明治43年〉2月26日 … 馬場 勇(ばば いさむ、1910年〈明治43年〉2月26日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は実業家。近畿日本ツーリスト(初代・旧会社)の副社長を務め、同社の前身企業の一つである日本ツーリスト株式会社の創設者でもある。業界発展に貢献した人物の一人で旅行業界の野武士と称される。近鉄航空サービス、箱根高原ホテル、近鉄エクスプレスの社長も務めた。 資産家の父親が親戚に騙されたあと朝鮮に渡ったため、朝鮮で生まれる。朝鮮の中学校から数学の教師とともに指宿に渡る。東京帝国大学経済学部卒業後の1934年(昭和9年)に朝鮮銀行に入行し、中国に設立された中国連合準備銀行にも出向。その後朝鮮銀行の東京や京城に勤務し、京城在勤時、銀行総裁秘書をしていた女性と結婚する。
木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 19… 木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 1973年12月7日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
鳥居 敏文(とりい としふみ、1908年2月26日 - 20… 鳥居 敏文(とりい としふみ、1908年2月26日 - 2006年8月15日)は、日本の画家。独立美術協会会員。 第9回独立展で独立美術協会賞、第13回独立展で岡田賞、第31回独立展で独立G賞を受賞。 社団法人日本美術家連盟委員、同連盟監事を歴任。「炭坑の家」(1956年)、「炭坑の町」(1959年)などがいわき市立美術館に所蔵されている。1992年2月〜3月の第45回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品された「迷路にて」は、日本共産党本部に所蔵されている。 2004年6月、窪島誠一郎、佐藤忠良、野見山暁治らとともに、『九条の会』アピールを広げる美術の会」(略称・九条美術の会)発起人となる。
手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 198… 手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 1982年11月6日)は、日本のサッカー選手およびサッカー指導者。 東京帝国大学で若槻礼次郎と同窓だった父が台湾総督府の高官在任時に台北で生まれ、まもなく帰国し広島で育った。長沼健は親戚にあたる。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。 1926年、東京帝大主催による官立旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)でセンターフォワード(CF)として準優勝。1、2年生チームでの健闘は大きな話題となった。1928年の第5回大会では、幅広い動きで当代随一と評を得たHB・野沢正雄主将らと、身長152cmのCF・手島もコマネズミのように動きまわり得点を重ねチームを優勝に導いた。
宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年… 宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学者。専門は産婦人科。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校を経て熊本医科大学を卒業した。1933年に熊本医科大学産婦人科教室に入局し、講師や医学専門部の教授を歴任した。この間、1945年10月には論文「副腎の組織呼吸に関する研究」で熊本医科大学から医学博士号を取得した。 戦後の1950年から国立熊本病院の副院長兼産婦人科部長となった。1957年、熊本市内で産婦人科医院を開業した。
若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - … 若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - 1999年10月11日)は、日本の政治家、僧侶。島根県飯梨村長、島根県議会議員(2期)、全国社会福祉協議会会長などを歴任。安来市萬松院十四世。号は活禅。 明治40年、能義郡飯梨村(現: 安来市)生まれ。1934年、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)仏教学科卒業。曹洞宗研究生修了。 宗議会議員、飯梨村長(1947年4月から時期不明)、島根県議会議員(1951年5月から1959年4月まで)、県共同募金会会長、県社会福祉協議会会長、全国社会福祉協議会会長、仏教年鑑編集長などを務める。著書に「大乗経典の概説」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 198… 板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 1987年11月19日)は、日本の外交官。 宮城県仙台市出身。1931年高等試験外交科、行政科試験に合格。翌32年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省に入省。英国、中国などに勤務し、南京の中華民国大使館勤務中に終戦を迎える。1946年以降、外務省管理局経済部総務課長、総務局資料課長、同局総務課長、中国連絡調整事務局長、貿易局長、経済審議庁審議官を務める。 その後、香港総領事、通産省通商局長、外務審議官、アジア局長を経て1959年7月ノルウェー大使に就任。1962年5月フィリピン大使、65年2月インド大使、66年8月カナダ大使、69年5月中華民国(台湾)大使を歴任した後、72年3月に退官。
永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2… 永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2月26日 - 1985年(昭和60年)11月5日)は、日本の児童劇作家。日本児童演劇協会常任理事を務めた。 福井県あわら市(旧金津町八日)出身。本名は善太郎。 1927年、福井師範学校を卒業。福井県あわら市伊井小学校で小学校教師を始めるが、1933年に上京。 東京で小学校教師として働くかたわら、1936年に正善達三らと児童劇団「子供町」を結成(1944年解散)。戦後文筆生活にはいる。児童劇脚本研究会「こまの会」を主宰。 1953年『お月さまをたべたやっこだこ』で小学館児童文化賞受賞。1980年、日本児童演劇協会功労賞受賞。1984年には芸術文化功労者として勲五等瑞宝章を受けた。
師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年… 師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年〉2月26日 - 1991年〈平成3年〉2月28日)は、日本の実業家、無産運動家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡飯能町(現飯能市)で生まれる。1926年(大正15年)、明治大学専門部法律科を卒業。武州産業代表取締役に就任し、木工業大栄商会を設立した。 大学卒業後、無産運動に加わり、日本労農党中央委員、全国農労大衆党中央執行委員、社会大衆党西多摩支部長を務めた。 戦後の1945年(昭和20年)に日本社会党に入り、1948年(昭和23年)、同埼玉連合会長に就任。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第2区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉… 新井 耕吉郎(あらい こうきちろう、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月19日)は、日本の農業技師。群馬県利根郡東村園原(現在の沼田市利根町園原)出身(昭和42年に勲五等瑞宝章叙勲)。 日本統治下の台湾において紅茶の栽培に尽力したことで知られる。その紅茶各種の研究・普及活動で台湾紅茶産業の発展に大きく寄与したことから「台湾紅茶の父」または「台湾紅茶の祖」と呼ばれている。 1921年、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)を卒業後、1925年、北海道帝国大学農学部農学実科を卒業。一年志願兵(幹部候補生)として歩兵第59連隊(宇都宮)で軍隊生活を送る。満期除隊後の1926年に台湾に渡り台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に助手として赴任。
小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治3… 小渕 光平(小淵 光平、おぶち みつへい、1904年〈明治37年〉2月26日 - 1958年〈昭和33年〉8月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。長男は群馬県中之条町長の二代目小渕光平、次男は第84代内閣総理大臣の小渕恵三。 1904年(明治37年)、群馬県吾妻郡伊参村(現・中之条町)に農業兼糸繭商を営む小渕新平・きち夫婦の長男として生まれる。父が病弱であったことから少年時代から家計を助けた。1921年(大正10年)中之条実業補習学校卒。 1923年(大正12年)に父が死去。1925年(大正14年)に東村に所在した碓氷社の工場を手に入れ、製糸工場の経営を始める。1928年(昭和3年)に中之条町伊勢町に工場を移転、光山社小渕製糸所を設立した。
高橋 衛(たかはし まもる、1903年〈明治36年〉2月26… 高橋 衛(たかはし まもる、1903年〈明治36年〉2月26日 - 1986年〈昭和61年〉4月26日)は、日本の台湾総督府官僚、大蔵官僚、政治家。参議院議員(3期)、経済企画庁長官(第14-15代)。 福井県武生市(現越前市)出身。高橋茂平の長男として生まれる。武生中学、第四高等学校を経て、1927年3月、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。1926年11月、高等試験行政科試験に合格。1927年4月、台湾総督府属となり財務局に配属。新竹州内務部教育課長、総督官房審議室、兼台湾総督府秘書官などを歴任。1937年3月から1939年2月まで欧米各国に出張した。 1939年7月、台湾総督府財務局主計課長に就任。
丸山 義二(まるやま よしじ、1903年2月26日 - 19… 丸山 義二(まるやま よしじ、1903年2月26日 - 1979年8月10日)は、農民作家。 兵庫県揖保郡誉田村(現・たつの市)生まれ。龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)中退。農家を営み、醤油会社勤務を経て上京、「萬朝報」の記者となる。編集長を経て昭和初年退社、日本プロレタリア作家同盟に参加し、貴司山治、伊藤永之介、鶴田知也と交わる。1938年「田植酒」で芥川賞候補。農民文学懇話会の結成に参加。また上京直後の水上勉を日本農林新聞に世話した。戦後は日本農民文学会に参加。 三男(事実上の長男)に丸山工作、その下に丸山匠がいる。
羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月2… 羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月26日 - 1988年(昭和63年)4月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・前田。 大分県大野郡緒方村(緒方町を経て現豊後大野市)で、篤農家・前田弥三郎の二男として生まれる。大分県立竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1928年(昭和3年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業した。 同郷の羽田野ワキと結婚して羽田野に改姓し、東京市役所に勤務。その後帰郷し、教員、産業組合理事を務めたが、病のため療養した。 1946年(昭和21年)緒方村農地委員会長に就任し、大分県農地委員、緒方村助役を歴任。緒方村農業協同組合長、大分県農業協同組合連絡協議会長を務め、1948年(昭和23年)農協五連(信用、購買、販売、指導、厚生)結成発起人会総代表となり各連合会の結成に尽力し、大分県信用農業協同組合連合会長に就任した。
石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 197… 石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 1972年6月6日)は、日本の宗教哲学者。 山口県美祢郡大田村(現美祢市)出身。旧姓は秋里。1926年東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科卒。東大副手、1931年日本大学講師を経て、1938年東北帝国大学法文学部助教授、1943年教授、東北大学文学部教授、1960年文学部長、1963年東北大学学長。1965年、宮城教育大学学長併任。同年東北大学学生、農学部移転問題にからんで大学自治を要求し無期限全学ストライキ(9月20日まで)、9月28日、石津学長を辞任。1966年定年退官、名誉教授、慶応義塾大学教授、駒澤大学教授を務めた。1956年から四期日本宗教学会会長。
青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2… 青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2月26日 - 1989年(平成元年)1月23日 )は、日本の会計学者。学位は、商学博士(1955年)。関西学院大学名誉教授。関西学院大学商学部学部長・等松青木監査法人代表社員・大蔵省公認会計士3次試験委員・日本会計学会常務理事・税理士試験委員を歴任。日本会計学界の大御所的存在であった。 近代会計の動向,管理会計の研究、推進、発展に寄与し、多くの業績を残した。また会計実務の指導的意見で実務界の発展に寄与した。 滋賀県栗東町(現:栗東市)生まれ。
稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月… 稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月26日 - 1973年(昭和48年)2月5日)は、日本の内務・宮内官僚。侍従長、官選滋賀県知事。位階は従二位。 現・東京都出身。政治学者・稲田周之助の長男として生まれる。開成中学校、第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し佐賀県属となり内務部産業課兼地方課に配属された。 1927年4月、地方事務官・群馬県工場監督官兼社会課長に就任。拓務事務官を経て、1931年12月、内閣官房に転じ内閣書記官・内閣官房総務課勤務となる。以後、内閣官房会計課長、同総務課長、兼同会計課長などを歴任。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1964年10月22日[要出典])は、日本の歴史学者。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。明善中等学校、佐賀高等学校卒、1929年京城帝国大学法文学部史学科卒。平壌高等女学校教諭。1931年京城中学校教諭。1933年李正職編修官兼務。1945年日本へ帰国。1947年滋賀県大津高等女学校教諭。1949年大津市教育委員会教育長。1956年滋賀県立甲賀高等学校長。1958年滋賀県立虎姫高等学校長。1960年彦根市教育委員会教育長。1964年退職。 教職のかたわら、日本キリシタン史などの著作をものした。