原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26… 原田 常治(はらだ つねじ、1903年〈明治36年〉4月26日 - 1977年〈昭和52年〉8月23日)は、昭和期の出版事業家。株式会社同志社(のちの婦人生活社、2003年に倒産)を創立する。同志社を創立させる前は、講談社『講談倶楽部』編集長をつとめた。1976年に書かれた『古代日本正史』の著作者として有名。千葉県生まれ。日本大学卒業。1973年4月、勲四等瑞宝章を受章。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月2… 越後 正一(えちご まさかず、1901年(明治34年)4月26日 - 1991年(平成3年)4月2日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長・会長。戦後再発足した伊藤忠商事・初代社長・小菅宇一郎の後任者。「伊藤忠中興の祖」、「繊維相場の神様」とよばれた。滋賀県出身。
平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1… 平田 内蔵吉(ひらた くらきち、1901年4月26日 - 1945年)は、日本の医学者(民間療法家)、詩人。兵庫県赤穂市出身。弟の平田晋策は『新戦艦高千穂』などの作品がある戦争小説家。長男の平田穂生はシナリオライター。孫の平田オリザは劇作家である。 その他、民間療法の他に、坐の哲学と日本精神の真髄を追究したり、吉凶判断も研究したりしていた。平田は、自らが創始した療法体系を「皇方医学」(皇法医学)と名付けた。平田に学んだ奥山龍峰 (初代)が開いた八光流柔術に「皇方医学」(皇法医学)や吉凶判断は受け継がれたが、八光流の皇方医学は、指圧を中心に、整骨法、体操(護身体操、脊椎運動法)などのみで、平田の皇方医学の全てを伝えていない。
生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月… 生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月26日 - 1993年(平成5年)12月13日 )は、日本の官僚、政治家。 1900年4月26日、三重県久居市に生まれる。1919年、三重一中から第八高等学校文科甲類入学。同級に憲法学者穂積八束の息子の穂積秀二郎がいた。1921年、東京帝国大学英法科入学。穂積八束宅に二年間下宿する。 1924年、高等文官試験に通る。大学の成績は英法科首席。卒業後、第一希望の内務省入省。辞令は「内務省属、六級俸月七十五円を給す」。警保局属。直属の上官は新聞検閲主任事務官であった唐沢俊樹。初めて検閲した本は荒畑寒村『赤露行』。九月十七日発売頒布禁止処分。 1925年、高等官任官。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970… 内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本の映画監督。本名:内田 常次郎。 内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。 妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月2… 池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月26日 - 1982年(昭和57年)3月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 1895年(明治28年)に鳥取県で生まれた。陸軍経理学校第7期主計候補生として1917年(大正6年)5月18日に優等卒業し、1926年(大正15年)に陸軍経理学校高等科を優等卒業した。同年4月から1929年(昭和4年)5月まで派遣員外学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍主計大佐に進級し、8月1日に陸軍省経理局建築課長に就任した。1941年(昭和16年)11月に第23軍経理部長に転じて日中戦争に出動した。
中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月… 中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月2日)は、日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。 石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。
石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - … 石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - 1990年9月25日)は、日本の医学者である。千葉市出身。 1918年、東京帝国大学に留学。1920年東京女子医科大学教授に就任。1925年公益財団法人日本国際医学協会を組織し。1936年から日独医学協会長を務めた。1973年獨協医科大学初代学長に就任。
白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 19… 白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 1948年10月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1910年愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒。農業の傍ら、郵便局長、奥町(現・一宮市)会議員、中島郡会議員、同副議長、奥町教育会長、同農業会長、中島郡農会長、愛知県農会幹事長、蘇東耕地整理組合長、愛知県農業保険組合連合会副会長、中部種苗(株)取締役社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知1区(大選挙区)から日本進歩党公認で立候補して当選。党内では会計監督となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。後、公職追放となった。
成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 19… 成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 1936年4月13日)は、日本のフランス文学者。ロマン・ロランの翻訳・紹介を行った。大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門とした。43歳で病死したが、この時代の良き知識人として、後世の文学や美術研究に大いに寄与した。パリ留学中の1921年、松方幸次郎のアドバイザーとして松方コレクション(国立西洋美術館)の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 成瀬正恭(十五銀行頭取)の長男として、神奈川県横浜市に生まれる。 麻布中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科卒業。大学在学中に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、松岡譲と第4次『新思潮』を創刊する。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969… 荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969年1月8日)は、日本の俳優である。本名は荒木 武雄(あらき たけお)。サイレント映画初期の時代である日活向島撮影所から、戦後の大映京都撮影所まで、長期にわたる芸歴をもつベテラン俳優として知られる。 1891年(明治24年)4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の同県柏崎市田尻地区)に生まれる。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の荒木の項を執筆した奥田久司によれば、父は明治維新までは、長岡藩士であったという。 中頸城郡立高田農学校(現在の新潟県立高田農業高等学校)に進学するが、1906年(明治39年)ころに中途退学して東京に移る。
堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月2… 新村 忠雄(にいむら ただお、1887年(明治20年)4月26日 - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会主義者、アナキスト。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人で、計画の首謀者とも言われる。号は秋峰。 長野県埴科郡屋代町(現:長野県千曲市)の出身で生家は豪農だった。1897年(明治30年)に屋代小学校尋常科を卒業し、高等科に4年、補習科に1年ほど在学した。 郷里で信仰に疑問を持って無神論者となり、1903年(明治36年)に上京して幸徳秋水・堺利彦らが製作した平民新聞を愛読し、同年には日本メソジスト教会で受洗する。 1906年(明治39年)、新村はピョートル・クロポトキンの「無政府主義の哲学」を読んでアナキズムを知る。
小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月… 小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日)は、昭和期日本の実業家、政治家。南満洲鉄道総裁を務め、第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣に入閣。ポツダム宣言受諾の意思を示した。 福島県出身。生家は士族出身であったが、生活は貧しく小さな水車小屋で生まれ育つ。会津中学、第二高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学英法科を卒業すると共に文官高等試験に合格して南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社する。塔連炭鉱事件(満鉄疑獄事件)に連座して一時偽証罪で起訴されるが控訴審で無罪となり、満鉄に復帰。理事を経て、1943年(昭和18年)7月、満鉄生え抜きの人材として初めて満鉄総裁となる。
中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4… 中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4月26日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の教諭、日本語(国語)の教育者、研究者。日本語方言の開合研究の黎明期に、日本統治下の台湾に勤務した時の経験から、初めて越後方言の開合音(アウ・オウの別)について報告した。 明治19年(1886年)に新潟県刈羽郡高田村堀(現柏崎市堀)に生まれた。明治40年(1907年)に高田師範学校を卒業し、同年に小学校教員免許を取得し、同校の訓導を務めた。後に新潟県の大貫尋常小学校、富山県立魚津中学校で教職を歴任した。 大正6年(1917年)には台湾総督府国語学校に助教授として赴任し、国語(日本語)教育に従事した後、台北女子高等学校普通学校に教諭を担任した。
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26… 飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 19… 成瀬 無極(なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。京都帝国大学名誉教授。本名は清。 東京根岸生まれ。東京帝国大学独文科卒。1908年京都帝国大学講師、1919年助教授、1930年教授、1931年日本ゲーテ協会を創立。1945年4月定年退官、名誉教授。 ドイツ文学の研究、翻訳のほか、劇作、評論、随筆などで活躍した。18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人物とも言われる。 息子はドイツ史学者の成瀬治。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 193… 岡田 素臣(おかだ そしん、1885年4月26日 - 1934年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。1910年、東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)卒。東京慈恵病院、東京病院、佐世保海軍共済会病院に勤務する。のち陸軍三等軍医となる。大垣市議、同副議長、岐阜県議、同副議長、同参事会員を歴任し、また大垣市医師会幹事、西濃鉄道、大垣土地各(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1934年死去。
次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月… 堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月26日 - 1968年(昭和43年)9月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県大口村(後に北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)に生まれる。1899年(明治32年)陸軍士官学校第11期卒業。 1923年(大正12年)8月に敦賀連隊区司令部部員、1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・敦賀連隊区司令官、1927年(昭和2年)3月に歩兵第32連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月に陸軍少将・歩兵第13旅団長に任官。1932年(昭和7年)8月8日に待命、同年8月30日に予備役に編入する。
喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月2… 喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月26日 - 1950年(昭和25年)9月23日)は、日本の医師、医学者。医学博士。 南満洲鉄道大連医院元眼科医長兼南満医学堂元教授。喜田村眼科病院元院長。義父は日本電気(NEC)創業者の岩垂邦彦。孫は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。族籍は福岡県士族。 福岡県築上郡千束村田淵、世々庄屋の西村敬治(福岡県士族)の次男として生まれる。第五高等学校在学中に、当時豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった喜田村寛治の養子となった。喜田村家は、小倉藩士の家柄で福岡県京都郡豊津村豊津に住み、養父寛治は工部大学校採鉱冶金科を卒業したが、病気のため郷里の豊津中学校の教師となった。
松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月… 松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月26日 - 1942年(昭和17年)2月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 静岡県田方郡戸田村(現沼津市)出身。先代松城兵作の長男として生まれ、1892年(明治25年)1月、家督を相続する。 農業を営む傍ら、静岡県会議員、地方森林会議員、静岡県山林会常議員、同水産会、同漁業連合会各顧問を歴任した。財界では、松崎水力電気取締役、沼津回漕店取締役社長を務めた。1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 … 小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1947年〈昭和22年〉11月30日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→中正会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 名東県寒川郡長尾名村(現在の香川県さぬき市長尾名)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂、1906年)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂、1911年)を著した。 実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月2… 松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1937年〈昭和12年〉1月30日)は、京都を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。ネオ・ルネサンス様式の名建築として知られる京都府庁舎旧本館や、京都ハリストス正教会聖堂などの設計などで知られる。 京都府技師として新築設計を手がける一方で、京都の社寺建築の修復・保存にも実績を残したが、部下の汚職に連座したとして官職を辞す。その後は九州鉄道技師を経て、恩師・辰野金吾の推薦により関東州(旅順・大連地域)の行政機関である関東都督府民政部に着任した。1908年3月の着任から近藤伊三郎が部下となる1916年8月までの8年間は、民政部土木課の唯一人の建築技師だった。
佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治… 佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治5年3月19日) - 1942年8月13日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 山形県山形市五日町出身。1889年、第二高等学校医学部、1893年、東京帝国大学卒。陸軍に入り、三等軍医から一等軍医に進み、日清戦争、日露戦争に参加。山形市会員、山形県会議員、同参事会員、山形市医師会長、山形県産婆試験委員、帝国在郷軍人会山形市連合分会長、専売局顧問医、鉄道嘱託医となる。 1898年、山形市八日町に佐々木病院を開業、院長となる。山形市内のはり師・きゅう師・あんま師らによって1913年に設立された私立山形盲学校の初代校長を勤め、1921年まで任に当たった(のち県立に移管され、山形県立山形盲学校となる)。
生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎… 生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎、1868年4月26日〈明治元年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の地主、家主、資産家、名望家、兵庫県多額納税者。族籍は兵庫県平民。 兵庫県有馬郡大沢村(現・神戸市北区大沢町)生まれ。上西文右衛門の二男。先代五郎兵衛の養子となる。1894年、家督を相続し、百太郎を改め襲名する。貸金業、土地家屋貸付業を営む。 兵庫県の大地主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は真宗。趣味は書画、骨董、読書。兵庫県在籍で、住所は神戸栄町通2丁目、別宅は中山手通4丁目。 家系について『人事興信録』によると「生島家は古くより神戸に住し、醸造を業とし、同地草分けの旧家で資産家として名がある」という。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年… 倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年3月28日)- 1935年(昭和10年)7月13日)は、明治から大正期の漁業家、政治家。衆議院議員。幼名・棟太郎。 壱岐国壱岐郡箱崎村(長崎県壱岐郡芦辺町を経て現壱岐市)で、水産業、先代倉光藤太、モトの長男として生まれる。和漢学を修めた。1890年(明治23年)4月、藤太を襲名した。 家業の水産業を継ぎ、その改良発展に尽力した。壱岐実業会副会長に就任。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で長崎県郡部区から無所属で出馬して初当選。実業界に専念するため第11回総選挙に立候補しなかったが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙に立憲同志会から出馬して再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月… 牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。 肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。 1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。 1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(… 久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(嘉永3年3月15日)- 1928年(昭和3年)1月18日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。号・雲堂。 越後国三島郡小島谷村(新潟県三島郡小島谷村、島田村、和島村を経て現:長岡市)で、素封家の旗本知行所代官・久須美毅堂(左衛門)の長男として生まれる。 長岡藩需士、大瀬虎治・田中春回に漢籍を、1870年(明治3年)に上京して島田重礼に学んだ。 1875年(明治8年)柏崎県第二大区副大区長に就任。1876年、久須美家当主、叔父・三郎が死去したため家督を相続。1884年(明治17年)吉田村他14ヵ村戸長となる。三島郡参事会員、新潟県会議員、同副議長も務めた。
滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日… 滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日〈弘化3年2月13日〉 - 1916年〈大正5年〉7月16日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。地主、肥料商。 滝沢武平の長男として、下野宇都宮藩領塩谷郡桜野村(栃木県塩谷郡氏家町を経て現さくら市氏家)に生まれる。父は穀物問屋を営んだ。1868年(明治元年)庄屋となり、以後戸長を経て、1879年(明治12年)栃木県会議員に当選する。ついで塩谷郡会議員、氏家町長を務めた。氏家きっての大地主で、明治新政府の殖産興業に呼応し、荒地の開墾や多くの会社、銀行に出資し経営に参画した。1872年(明治5年)氏家、上野原を開発・植林し、約600ヘクタールの山林を造成。
井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘… 井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘化2年3月20日)- 1905年(明治38年)8月22日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 讃岐国鵜足郡上法軍寺村(香川県鵜足郡法勲寺村、綾歌郡法勲寺村、飯山町を経て現丸亀市飯山町上法軍寺)で生まれる。阿野郡西庄村(坂出町を経て現坂出市西庄町)で成長した。漢学を修めた。その後、高松城下に移り、幕末には高松藩御用掛として砂糖生産販売に従事した。 明治維新後、自由民権運動に加わる。純民社、高松立志社を創立。1875年(明治8年)以降、塩業界の結束と改善に尽力した。農商工高等会議議員、十州塩業組合東讃支部長、高松商法会議所副会長などを歴任した。
大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘… 大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘化元年3月9日) - 1915年(大正4年)12月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(3期)。 伊豆国君沢郡大場村(静岡県君沢郡中郷村、田方郡中郷村を経て現三島市)に生まれる。生家は代々清酒醸造を営んだ。名主役、区長、戸長、君沢・田方郡会議員、同参事会員を経て、静岡県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、静岡農工銀行取締役、海産株式会社監査役などを歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から出馬し当選。第6回総選挙、第12回総選挙でも当選したが、3期目の在任中に死去した。
西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11… 西村 茂樹(にしむら しげき、1828年4月26日(文政11年3月13日) - 1902年(明治35年)8月18日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。号は泊翁。
葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812… 葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812年4月26日)- 明治15年(1882年)9月8日)は、日本の地歌箏曲家、作曲家。盲人ながら江戸後期から明治期に生き、自作の木活字を用いて『葛原勾当日記』を長年つけたことで知られる。孫は童謡作家葛原しげる。 出身は備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、のち福山市)。庄屋矢田重知の長子として生まれた。本姓矢田、幼名柳三、諱は重美。名は琴の一、のち美濃一。雅号一泉、俳号似月。3歳で痘を病み、両眼とも失明。9歳で琴を始め、11歳で京都の松野勾当(のち検校)に師事し、生田流箏曲を修めた。14歳で座頭になり、その翌年帰郷し、備後・備中両国を中心に広く琴を教授するかたわら、たびたび上洛してはその技を磨いた。
鳳 真由(おおとり まゆ、4月26日生)は、元宝塚歌劇団花組… 鳳 真由(おおとり まゆ、4月26日生)は、元宝塚歌劇団花組の男役。
みちり(みちり-4月26日 - )は、日本のタレント、アイド… みちり(みちり-4月26日 - )は、日本のタレント、アイドル、女優。自称「暴走系勘違いアイドル」で「みちり星」出身を公言している。青山学院大学卒業。愛称は「ちりちりみちり」または「ちりちり」。 牡牛座。身長153cm。スリーサイズはB85 W57 H88。 「暴走系勘違いアイドル」を名乗り、その型破りなキャラを生かしバラエティ番組にも出演。将来の夢は「助演女優アカデミー賞」を受賞する事。某番組で、なぜ主演女優賞でないのかと訊ねられた際「キャラ的に無理」と認めている。 座右の銘は「ちりも積もればちりちりみちり」。 2009年11月12日にTBS系で放送された『テイクミーアウト〜TAKE ME OUT』にレギュラー出演。
CHIHARU(ちはる、4月26日 - )は、日本のヘアメイ… CHIHARU(ちはる、4月26日 - )は、日本のヘアメイクアーティスト。元宝塚歌劇団花組の男役。在団中の芸名は、矢吹 翔(やぶき しょう)。 愛知県西春日井郡西春町(現在の北名古屋市西春町)出身。身長169cm、血液型B型。 小学校の時に「ベルサイユのばら」を見て、タカラジェンヌを志す。 1986年、72期生として宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は45人中21番。『レビュー交響楽』で初舞台。同年雪組に配属される。同期生には香寿たつき(元星組トップスター)、紫吹淳(元月組トップスター)、真織由季、五峰亜季がいる。 1997年11月、花組へ組替え。 2004年11月21日、『La Esperanza/TAKARAZUKA舞夢!』の千秋楽をもって宝塚歌劇団を退団。