有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年… 由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年3月28日)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 1897年、奈良県添上郡柳生村(現・奈良市)にて、丹生神社の神官の家系に生まれた。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に進学。教員となり、大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学した。 東京高等師範学校では、三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修めた。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。
大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 19… 大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 1976年1月23日)は、日本の心理学者。 1897年、京都府生まれ。1920年京都帝国大学文学部心理学科を卒業。1940年に「表象体験ノ研究」を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得。京都帝大助手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1941年に教授となった。 戦後は東北大学教授となる。1960年に定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授、関西大学教授を務めた。心理学の研究者として、日本心理学会理事を務めた。
向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 19… 向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 1985年1月22日)は、日本のマルクス経済学者・社会主義思想家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。 福岡県大牟田市に会社員の息子として生まれる。弟に向坂正男、山崎八郎がいる。福岡県立八女中学校(1年夏から3年夏までは北海道庁立小樽中学校に転校。)、同県立小倉中学校、第五高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業すると、同学部の助手となった。五高在学中、ドイツ語の勉強のために、カール・マルクスの著作を読んだことからマルクス主義に傾倒するようになったという。 1922年11月より1925年5月までドイツ・ベルリンに留学。
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日… 鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979… 平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979年7月8日)は、日本の鉄道官僚。東京急行電鉄社長。 東京府出身。1920年高等文官試験に合格。翌年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。卒業後は鉄道省に入り、欧米に出張、帰国後は仙台鉄道局経理、庶務の各課長、鉄道書記官、監督局業務課長、鉄道大臣書記官、文書課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道局経理局長を経て、1945年東京急行電鉄社長に就任する。同年、運輸次官となる。運輸次官は1947年まで務め、その後は「東京急行社長」のため公職追放となった。 追放解除後は交通道徳協会会長に就任した。戦後は観光事業に注力して、1951年(昭和26年)6月に株式会社国際観光会館を設立、1954年(昭和29年)に東京駅八重洲口に「国際観光会館」を建設した。
高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)… 高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)2月4日 - 1973年(昭和48年)10月5日)は、日本の歯学者、歯科医師、矯正歯科医。埼玉県出身。 東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)矯正歯科学教室教授、東京医科歯科大学教授、東京医科歯科大学歯学部長、東京医科歯科大学附属病院院長、東京医科歯科大学附属歯科技工士学校長を歴任。日本矯正歯科学会会長、国際歯科研究学会日本部会会長も務めた。 息子は植物学者の高橋信孝、孫は内分泌学者の高橋伸一郎。
金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月… 金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月4日 - 2001年〈平成13年〉11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代魚津市長(1期)。弁護士。 富山県下新川郡魚津町(現魚津市)で生まれた。1918年立命館大学法律科卒。弁護士となり、神戸市議、兵庫県議を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で兵庫1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。 戦後の1946年(昭和21年)1月19日に魚津町長に就任するが、推薦議員のため、公職追放となったため、同年10月2日に町長職を退いた。その後は富山県下新川郡下野方村(現:魚津市)で弁護士を営んでいた。
坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2… 坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2月2日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、大正末から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で伯爵・坊城俊章の五男として生まれ、はとこの男爵・坊城俊延の養子となる。養父の死去に伴い1910年(明治43年)6月4日、男爵を襲爵。学習院高等科を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学農学部を卒業。1924年(大正13年)以降、東京市技手、埼玉県技手、農林技手、富山県農林技師などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月2… 神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月29日 - 昭和40年(1965年)11月7日)は、日本の電気工学者。 明治29年(1896年)、石川県金沢市にて、実業家・神保八十吉の長男として生まれる。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、大正8年(1919年)、京都帝国大学電気工学科を卒業。 逓信省に入省し、同省電気試験所技師兼逓信局技師となる。昭和3年(1928年)、ドイツ、アメリカ、カナダへ留学。昭和4年(1929年)、電気試験所第1部長となり、陸軍技術本部嘱託を兼任。昭和7年(1932年)、誘導型積算電力計の研究で工学博士の学位を得る。昭和8年(1933年)10月、パリで開催された第8回万国度量衡総会に帝国委員(日本代表)として出席。
鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月2… 鈴木 義伸(すずき よしのぶ、1896年(明治29年)2月29日 - 1947年(昭和22年)3月3日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。 香川県高松市古馬場町で「伏石屋」鈴木幾次郎の長男として生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第三高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。東京の高田商会に勤務した。 1925年(大正14年)に帰郷し、高松市会議員に当選。その後、市会議長(1934年(昭和9年)3月から1938年(昭和13年)3月まで)、四国水力電気高松出張所長を務めた。 1942年(昭和17年)第21回衆議院議員総選挙において、翼賛政治体制協議会推薦で香川1区から立候補したが落選。
岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉… 岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉2月29日 - 1972年〈昭和47年〉5月3日)は、日本の編集者。 群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に生まれる。県立伊勢崎工業学校を卒業後、天田製薬所に入る。 1917年(大正6年)講談社に入社。雑誌『講談倶楽部』に配属され、1928年(昭和3年)からは編集主任(編集長)となる。岡田は岡本綺堂、長田幹彦、中村武羅夫(ペンネームは藤沢草人)らの作家を訪問して原稿の依頼をとりつけ、部数向上に貢献した。1929年(昭和4年)の『講談倶楽部』新年号は岡田の発案による付録「全国金満家番付」をつけ部数35万部を達成する。江戸川乱歩を起用し、同年8月号から連載開始された『蜘蛛男』は人気となり、その後『魔術師』『恐怖王』『人間豹』と明智小五郎が活躍する連載が続き雑誌の人気を支えた。
松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月2… 松田 弘俊(まつだ ひろとし、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1972年〈昭和47年〉11月17日)は、昭和日本の実業家・政治家である。新潟県長岡市にあった電力会社北越水力電気や同社から派生した北越電化工業(現・北越メタル)の常務取締役を務めたのち、1947年(昭和22年)に初代の公選長岡市長に当選し2期8年在職した。 松田弘俊は、1896年(明治29年)2月28日、水落要松の次男として新潟県中魚沼郡下条村(現・十日町市)に生まれた。実家・水落家は江戸時代に代々庄屋を務めた家で、父・要松は下条村長や新潟県会議員にもなった。1914年(大正3年)に新潟県立加茂農林学校を卒業し、初め三菱合資会社新潟事務所に勤務した。
木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28… 木内 高音(きうち たかね、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1951年〈昭和26年〉6月7日)は、大正から昭和時代にかけて活動した日本の編集者、児童文学者。赤い鳥社、中央公論社で編集者として優れた作品を世に送り出す一方、雑誌『赤い鳥』などで多くの童話を発表した。 1896年(明治29年)2月28日、広島県尾道市で生まれた。鉄道技師だった父の仕事の都合で、神戸、小樽と移り住み、10歳から父の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市志賀)で過ごす。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)卒業後、早稲田大学文学部英文科に進学する。大学在学中に、鈴木三重吉の作品と出会い、傾倒。三重吉の門を叩き、三重吉宅へ出入りするようになる。
今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 … 今井 耕(いまい こう、1896年〈明治29年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。 滋賀県蒲生郡岡山村(現近江八幡市)で、農業・今井吉太郎の長男として生まれた。長浜農学校卒。卒業後は同校教諭や栗太農学校教諭を務める。1946年の第22回衆議院議員総選挙で滋賀県から無所属で立候補して当選し、それから国民協同党に入った(その後、国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党に所属)。以来当選6回。第2次鳩山一郎内閣建設政務次官、衆議院決算委員長などを歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選、政界から引退した。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月… 花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。 1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。 第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。 1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。
金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 19… 金丸 冨夫(かなまる とみお、1896年2月24日 - 1994年4月16日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長及び会長。 大分県出身。1924年京都帝国大学法学部を卒業。同年鉄道省に入り、札幌鉄道管理局総務部長などを務め、1940年退官。同年、日本通運に入り、事業部長、門司支社長などを歴任し。1955年、社長に就任する。1959年の第5回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で出馬して初当選。後に自由民主党に入る。翌1960年には日通会長に就任した。国会内では逓信、運輸、商工の各委員長を務め、第一次佐藤内閣で通商産業政務次官を務めた。 長年、運輸業界での産業安全普及推進に努め実績を積み振興に寄与した功労により1963年、藍綬褒章受章。
粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月2… 粥川 伸二(かゆかわ しんじ、1896年〈明治29年〉2月24日 - 1949年〈昭和24年〉1月1日)は、大正期から昭和戦前期にかけて活動した日本画家。雅号は新児、心児。 1896年(明治29年)2月24日、粥川八郎、ミチ夫妻の長男として大阪府大鳥郡向井村中筋(現在の堺市)に生まれる。 1902年(明治35年)、堺市英彰尋常小学校(現在の堺市立英彰小学校)に入学する。途中、体が弱く一年間休学する。 1909年(明治42年)、大阪大倉商業学校(現在の関西大倉中学校・高等学校)に入学するが、1910年(明治43年)、結核性骨髄炎となり右足を切断する。 後の進路を親族会議で相談した結果、本人が幼少より絵が好きであったため、画家にさせることに決定。
亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969… 亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969年12月14日)は、日本の能楽師。大鼓方葛野流。人間国宝。 1896年(明治29年)、東京で生まれる。1909年(明治42年)に池内信嘉が主宰する能楽会に入る。当初は謡を勉強していたものの、囃子方に人がいないということで囃子方に回される。川崎九淵に師事した後に東京音楽学校に入学、卒業。 第二次世界大戦後は能楽協会の復興を支え、日本能楽会を設立に寄与。晩年まで同会理事を務めた。また囃子方による囃子科協議会を設立して地位の向上に努めた。1968年(昭和43年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた後、吉見嘉樹引退のあとをうけて宗家預かりとなる。
宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 198… 宮川 實(みやかわ みのる、1896年2月19日 - 1985年10月21日)は、日本のマルクス経済学者。「宮川 実」とも。 山口県出身、東京帝国大学卒業。河上肇に師事。和歌山高等商業学校教授を経て、1939年立教大学教授。1942年治安維持法違反により入獄。戦後立教大学に復職、労働者教育協会会長を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年… 塩原 時三郎(しおばら ときさぶろう、1896年(明治29年)2月18日 - 1964年(昭和39年)10月27日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員、通信院総裁・逓信院総裁、官選清水市長。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市)出身。和田開蔵の長男として生まれ、山林技師・塩原谷五郎の養子となる。旧制長野中学、第八高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。在学中の1919年(大正8年)4月、国家主義的学生団体興国同志会(国本社の前身)の結成に参画した。 大学卒業後、官界に入り逓信局書記兼逓信属・東京逓信局兼電気局勤務となる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。
鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 -… 鈴木 平一郎(すずき へいいちろう、1896年2月18日 - 1971年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。清水市長。 静岡県清水市(現静岡市)出身。1914年早稲田大学商科卒。清水市議、同参事会員、静岡県議、同副議長などを経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に静岡県(当時は大選挙区制)から立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた後、清水市農地委員、同委員長を歴任し、1955年の清水市長選挙に立候補して当選した。 市長在職中は市内に住宅が増設され、日本平にテレビ塔とロープウェイが開設。1957年には静岡で国体が開かれ、天皇、皇后の視察を受けた。このほか、石岩ふ頭(富士見ふ頭)の完成や大型漁船の建造も進められた。
徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 198… 徳根 吉郎(とくね よしお、1896年2月17日 - 1980年10月12日)は、日本の経営者。日本セメント社長を務めた。 北海道函館市出身。1914年に九州帝国大学応用化学科を卒業し、同年に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1942年に取締役に就任し、常務を経て、1946年から1947年までと1948年から1949年9月までに社長を務めた。1949年9月には会長に就任した。 1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年10月12日、心筋梗塞のために死去。84歳没。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - … 日高 第四郎(ひだか だいしろう、1896年2月16日 - 1977年12月14日)は、日本の教育学・文教官僚。 日高秩父・リキ夫妻の四男として東京府(現:東京都)に生まれる。1922年京都帝国大学文学部哲学科卒。広島高等学校教授、第三高等学校教授、第一高等学校教授、1946年文部省学校教育局長となり、戦後の学制改革に参加。のち国立教育研究所長、1951年文部事務次官。文部事務次官時代の1952年2月、女子及び年少者の人身売買に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。同年国際基督教大学教授。1966年定年退職、学習院女子短期大学学長兼学習院副学長を務め1970年退職。日本ユネスコ国内委員、民主教育協会副会長、教育課程審議会会長などを務めた。
松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2… 松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2月16日 - 1961年(昭和36年)9月4日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡春日居村桑戸(春日居町を経て現笛吹市)で生まれる。農業を営む。早くから農民運動に加わった。 1930年(昭和5年)日本農民組合山梨県連合会結成時に青年部理事に就任。以後、会長の平野力三と行動を共にした。しかし社会情勢の変化に伴い、日本国家社会党、さらに皇道会に所属した。 また、春日居村会議員に就任し、さらに1939年(昭和14年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員、小作戦時特別調停委員、金銭債務戦時特別調停委員、人事戦時特別調停委員、県農地委員、山梨地方森林会議員などを務めた。
安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月… 安岡 正光(やすおか まさみつ、1896年(明治29年)2月15日 - 1962年(昭和37年)4月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選山梨県知事。 福島県伊達郡梁川町(現伊達市梁川町)元陣内で、眼科医・安岡正熈(せいき)の二男として生まれる。梁川小学校、福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1918年10月、高等試験に合格。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月に 内務省に入省し内務属・会計課勤務となるが休職となり、同年12月に一年志願兵として善通寺歩兵第43連隊に入隊し現役満期後に再び内務属となった。 以後、1921年(大正10年)4月に長崎県警視、同年12月神奈川県警視、1923年(大正12年)4月に愛媛県理事官となり、1925年(大正14年)5月に兵庫県に転じ、1929年(昭和4年)7月岡山県書記官・学務部長、1931年(昭和6年)1月長崎県書記官・学務部長、同年12月千葉県書記官・警察部長、1932年(昭和7年)8月京都府書記官・警察部長、1935年(昭和10年)1月広島県書記官・総務部長、1937年(昭和12年)7月兵庫県書記官・総務部長、1939年(昭和14年)4月神奈川県書記官・総務部長などを歴任。
森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15… 森田 梧郎(もりた ごろう、1896年〈明治29年〉2月15日 - 1950年〈昭和25年〉4月13日)は、朝鮮総督府の学務官僚。編修官として国語(日本語)教科書の編纂や、朝鮮における日本語普及政策に携わった。国際経済学者の森田桐郎(元東京大学経済学部教授)は長男。 1896年(明治29年)、新潟県北蒲原郡乙村(現・胎内市)にて生まれた。1915年、新潟県立新発田中学校を卒業。朝鮮半島に渡り、1918年3月に京城中学校附属臨時小学校教員養成所を卒業。 卒業後は朝鮮公立小学校訓導に任じられ、釜山第二尋常小学校に赴任した。1920年、金海公立尋常高等小学校訓導に転任後、同年中に京城櫻井公立尋常小学校訓導に異動。
徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月… 徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1972年〈昭和47年〉6月9日)は、京都市生まれの日本画家。本名、時次郎。 京都写生派の流れに立った写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章受章。 1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。 1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2… 相沢 春洋(あいざわ しゅんよう、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1963年〈昭和38年〉11月23日)は、神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市)生まれの書家。 1916年に早稲田実業学校を卒業し、早稲田大学商科に入学したが、中途で退学している。1913年より中村春堂に師事し、また小野鵞堂にも益を受け、さらに田中親美について上代様古筆および大和絵について教えを受けた。東洋家政女学校、慶応義塾商業学校、府立滝野川商工学校、女子高等学園に勤務した。大日本書道奨励協会審査員、美術協会協議員、日本書道会協議員、泰東書道院理事審査員をつとめ、戦後は日本書道美術院の創立に参画し、理事審査員として同院の発展に寄与した。
椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1… 椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1957年12月29日)は、大正から昭和にかけて活動した洋画家。 1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。椿家の先祖は御館の乱にて上杉景虎方として戦った椿喜介。米沢藩では御扶持方(下士階級)の家柄であり、また分家は芸者組(下士階級)に組する芸能・芸術に明るい家系であった。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになった。1914年(大正3年)に山形県立米沢中学校を中退して上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意した。自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まる。
田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月1… 田中 塊堂(たなか かいどう、1896年〈明治29年〉2月10日 - 1976年〈昭和51年〉2月1日)は、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)出身の日本の書家。本名は英市。 それまで細字に限られていた仮名(かな)の表現範囲を広め現代仮名書壇の基礎を築いた。 1896年(明治29年)2月10日、岡山県小田郡山田村(現・矢掛町)に生まれる。1922年(大正11年)、大阪貿易語学校を卒業。1924年(大正13年)、28歳で川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で古筆を習得した。この時期、相沢春洋、田中親美らと親交を持った。 1931年(昭和6年)、第2回泰東書道院書道展にて特選を受賞、この後3回連続の特選となる。
瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 198… 瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 1983年)は、日本の建築家・建築学者である。 1896年(明治29年)2月9日に誕生した。長野県東筑摩郡会田村の出身であり、旧姓を矢羽といったが、同郡五常村の滝澤家に嗣養子に入った。郷校を卒業したのち上京し、東京府立第三中学校、第一高等学校を経て帝国大学工学部建築科に進んだ。1920年(大正9年)に同校を卒業し、石本喜久治・堀口捨己・森田慶一・山田守・矢田茂とともに分離派建築会を結成した。建築家としてのはじめての作品は卒業制作である「山岳倶楽部」であり、この年の分離派第一回展覧会にて発表された。分離派は芸術作品としての建築を重視した団体であり、松原紀之・足立裕司・中江研によれば「抽象性」を重んじたことが形態理論における特徴であった。
永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年… 永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年2月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京出身。書家・作詞家の永井素岳の子として生まれる。東京外国語学校卒、東京外国語大学教授。1960年に定年で退官し、名誉教授を務めた。
平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9… 平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9日 - 1948年〈昭和23年〉12月15日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 平出利根次郎の長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれ、5歳の時に伯父の平出栄太郎、京の養子となる。祖父は旧斗南藩士の平出久矢。1902年(明治35年)養父の赴任先である舞鶴に移住し、のち長崎に移り佐世保大村中学校を卒業する。 1917年(大正6年)海軍兵学校第45期を卒業 、1924年(大正13年)海軍大学校選科、東京外国語大学を経て、1926年(大正15年)フランスに駐在。 1929年(昭和4年)練習艦隊副官、1936年駐伊武官を経て、在職中の1938年大佐に進級。
岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977… 岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977年3月23日)は、日本の財政学者。元横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)教授、元神奈川大学教授、元和光大学教授。 福岡県出身。1922年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1926年横浜高等商業学校教授、その後満洲建国大学教授となる。財政学が専門であり、満州国財政学や、第一次世界大戦賠償及戦債問題を研究、『日本賠償論』で国家賠償を研究、財政本質学説を研究。ミッドウェー海戦以降、日本軍の戦況が悪化し軍国主義が強まっていく中、リベラルな校風で運営していた田尻常雄校長に代わり1943年から関東軍から転任して横浜高等商業学校校長となり、スパルタ式教育を強化させた。
堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 … 堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 - 1971年(昭和47年)10月17日)は、日本の工業化学者。 北海道大学工学部元教授、藤原工業大学元教授。 父は三光合資会社代表社員の堀卯三郎。長女は社会学者の杉山明子。孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。従弟は政治学者の潮田江次。妻の甥は政治学者の秋野豊。 日本のエネルギー源を石炭から石油と原子力に転換させた陰の功労者である。 堀卯三郎の長男として東京府に生まれる。 1920年、東京帝国大学工学部応用化学科卒業。大学卒業後は東大講師、農商務省技師、文部省在外研究員を経て、1924年に北海道大学工学部講師となり、翌年教授に就任。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 … 八田 三郎(はった さぶろう、1896年(明治29年)2月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選鳥取県知事、陸軍司政長官。旧姓・和田。 三重県出身。和田綱紀の三男として生まれ、八田一精の養子となる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。 以後、地方警視・大阪府警察部勤務、地方事務官・長崎県勤務、香川県書記官・学務部長、秋田県書記官・警察部長、奈良県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、拓務書記官・警務課長、茨城県書記官・警察部長、長野県書記官・経済部長、奈良県総務部長、岡山県総務部長などを歴任。
斎 武雄(さい たけお、1896年(明治29年)2月 - 1… 斎 武雄(さい たけお、1896年(明治29年)2月 - 1953年(昭和28年)12月14日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員(日本社会党)。 1896年(明治29年)2月、宮城県に生まれる。1920年(大正9年)7月に法政大学専門部法律科を卒業し、同年弁護士試験に合格。 1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に宮城選挙区から出馬し、当選する(上位当選で任期6年)。また、仙台弁護士会常議員会議長、東北弁護士会連合会幹事などを歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月… 長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月28日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家。文筆家としても活動し『戯画漫文』などの著作がある。またモダンガールと呼ばれた女性の一人とも、毒舌家としても知られ、エッセイに政治家から落語家、歌舞伎役者、柔道家の人物評、藤田嗣治とパブロ・ピカソの対照などをしたためた。 東京日本橋通油町(現・中央区)出身。父の長谷川深造は天保13年旧暦5月25日生まれ(1842年)で東京市参事会員、長谷川時雨は16歳離れた姉に当たる。25歳の時に姉の勧めにより画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学ぶが、梅原龍三郎から洋画も学んだ。
志熊 三郎(しくま さぶろう、1895年〈明治28年〉2月2… 志熊 三郎(しくま さぶろう、1895年〈明治28年〉2月28日 - 1978年〈昭和53年〉)は、日本の検察官、弁護士、公証人。 広島県広島市出身。志熊直人の息子。広島市段原町(現・比治山町)の比治山神社社掌・志熊三郎が1915年に亡くなり、当主の三郎がその後を継承する。 高等師範学校附属中学校を経て、1916年に第三高等学校大学予科を卒業、1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。三菱造船に入る。 1922年、司法官試補に任ぜられる。1924年、検事に任ぜられる。1925年、釧路地方裁判所検事に補せられる。1929年、台湾総督府検察官に任ぜられ、台北地方法院検察官に補せられる。台中地方法院検察官、台南地方法院嘉義支部上席検察官、高雄地方法院検察官長を経て1943年、新竹地方院検察官。
石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月2… 石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月28日 - 1984年(昭和59年)7月11日)は、日本の都市計画学者、都市計画家、建築家。工学博士。 日本都市計画学会第五代会長を務めた都市計画学者である一方、民家建築研究家、農民建築研究のパイオニアでもあったが、同時に日本で1920年代に開始された都市美運動の立役者でもあった。さらに旧・東京都立大学工学部建築工学科教授で、1952年に東京都立大学建設工学科ではじめて都市計画の講義をした人物でもある。建築家としては旧東京市建築技師で退職後は石原建築設計事務所を主宰。新興建築家連盟主力メンバー名を連ねる。キリスト教徒で基督教世界平和同盟、愛隣会に属した。
宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ、1895年2月27日 -… 宮城山 福松(みやぎやま ふくまつ、1895年2月27日 - 1943年11月19日)は、岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市)山目町出身で出羽ノ海部屋、高田川部屋(大坂)に所属した大相撲力士。第29代横綱。本名は佐藤 福松(さとう ふくまつ)。大阪相撲最後の横綱でもある。 1895年2月27日に岩手県西磐井郡(現:岩手県一関市)山目町五代で生まれる。幼少期から大きな体格で、馬車が溝に落ちて動かなくなると、やすやすと持ち上げて父を助けたという。家業だった乗合馬車と農業を手伝いながら村相撲で活躍していたところ、1909年に常陸山谷右エ門の一行が岩手へ巡業に来た際に力士に憧れ、志願して入門した。 同年6月場所において、故郷・岩手県に因んだ「岩手川」の四股名で初土俵を踏んだ。
蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 19… 蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 1966年3月7日)は日本の建築家。分離派建築会に参加し、表現主義からモダニズムの作品を手掛けた。海外の建築作品を精力的に紹介し、建築史関係の著作も多い。また、東京高等工芸学校、武蔵工業大学で後進を指導した。 1895年(明治28年)、山口県萩に濱岡某の子として生まれる。1913年(大正2年)、工手学校(新制工学院大学の前身)を卒業。同年、三橋四郎の設計事務所に入所。三橋の逝去後、曽禰達蔵・中條精一郎らの曽禰中條建築事務所に移る。ここで海上ビルの建設に関わり、所員の高松政雄から美学の話を聞いたという。1920年、早稲田大学に選科生として入学。
内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月… 内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月25日 - 1969年〈昭和44年〉9月27日)は、広島県広島市本川町(後の中区本川町)出身のレスリング選手。柔道家で最終位は七段。1924年パリオリンピックで、日本唯一のメダルを獲得(銅メダル)し、日本レスリングの始祖となる。これが、日本がその後レスリングが「お家芸」と称されるようになる歴史の第一歩となった。 生後半年で陸軍将校の父を亡くす。陸軍関係の子女が通う広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)入学後に母も急逝、台湾に嫁いだ長姉を頼って海を渡る。寂しがり屋の内藤に、姉は柔道を習わせた。台北一中(のちの建国中学)に進み、柔道に精を出し在台湾中に初段を獲る。