浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日… 浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日 - 1945年10月30日)は、新潟県三島郡(現在の小千谷市)出身で浦風部屋に所属した大相撲力士。本名は滑川 丑五郎(なめりかわ うしごろう)、旧姓は丸山。身長171cm、体重101kg。得意手は左四つ、吊り。最高位は関脇。 新潟県出身。板前修業に上京するも県人の財閥より体格より勧められ、相撲界へ浦風部屋へ入門。1906年5月序ノ口。1911年2月十両に昇進、1913年1月新入幕。6勝2敗1分1預で優勝旗手となる。均整の取れた体格で、吊りをはじめとする派手な取り口は「浦さま」と呼ばれた美貌とあわせ、女性に人気が有った。大物食いとしても鳴らして花形力士。
永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 19… 永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。 1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝、寺崎広業、結城素明に師事。1913年に東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。1924年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 19… 林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 1935年12月20日)は日本の実業家・新聞記者。本名:林 茂(はやし しげる、旧姓:板井)。十勝毎日新聞の創業者として知られる。 大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として生まれる。海外への憧れを抱いて海軍・陸軍士官学校を受験するも慢性結膜炎の既往症があり不合格、軍人以外での海外渡航の道を模索して東京の英語学校へ入学し英語学習に打ち込む。 1908年に板井家と同じく臼杵の名家である林家の長女・林波津女と養子縁組をし、林家の援助で中央大学法科へ進学。当初北海道帯広へ移住した林家の家業を継ぐことに戸惑いを感じるも「十勝の開発に身を投じる事が海外移住に勝る使命」と考えを変え、1910年に大学を中退し波津女と義父が住む帯広へ移住。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。
天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 -… 天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 - 1977年3月6日)は、内務官僚。第6・7代茨城県土浦市長。 茨城県出身。茨城県立土浦中学校、第二高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、愛媛県属、同警視、同周桑郡長、同理事官、宮崎県理事官、福岡県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、秋田県内務部長、群馬県内務部長、福井県内務部長を歴任し、勅任官待遇となった。1932年(昭和7年)、退官。 その後、高松宮家嘱託、大正大学講師を務めた。 戦後は茨城県監査委員を務め、1951年(昭和26年)、土浦市長に初当選し1959年(昭和34年)まで2期務めた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 19… 多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 1976年) は、日本のオートバイレーサー。神奈川県秦野市出身。アジア人として初めてマン島TTレースに参加した。 オートバイを始める前は自転車レースに参戦していた。1907年(明治40年)に横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の「自転車長距離競走」で、250マイル(実際の走行距離は約390kmだったとされる)を16時間53分で走破、優勝している。 東京市日本橋でオートバイの輸入販売を行う多田健蔵商店を営む。1921年からオートバイレースを始める。当時日本のオートバイレーサーは20名しかいなかった。彼は日本におけるモータースポーツイベント主催の中心的な役割を果たすようになった。
中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年… 中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年〉2月16日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)に群馬県群馬郡六郷村(現・高崎市)で生まれた。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)1月20日に歩兵第28連隊長に就任し、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)に陸軍歩兵学校教導連隊長に転じた。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級し、第37歩兵団長(第1軍・第37師団)に就任し、日中戦争に出動。運城に駐屯し、警備・討伐戦に当たった。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年… 千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年12月23日)は、日本の国文学者(上代文学)。元京都女子大学教授。 芳賀矢一の学統をつぎ、とくに万葉集の校訂などに成果をあげた。歌人として短歌・俳句も嗜んだ。 1889年、徳島県に生まれる。第五高等学校を経て、1912年に東京帝国大学文科大学国文学科を卒業、大学院に進学し、芳賀矢一の指導のもと万葉集を研究、本文校訂事業に没頭する。1914年、大学院修了。同年に芳賀矢一の推薦で東京府立第三中学校教諭、1917年には芳賀および上田万年の推挙で神宮皇學館教授に就任。1942年、勲三等・瑞宝章。 戦後は本務校が廃校となり、1942年から講師をしていた京都女子専門学校(のち新制の京都女子大学に移行)において五高時代の同級である松信定雄校長の勧めにより専任の教授となる。
山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2… 山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2月13日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。青年時代から村政に関わり、1920年(大正9年)第1回国勢調査員となる。1925年(大正14年)富谷村会議員に当選する。1937年(昭和12年)富谷村長に就任した。この間、学務委員、農会議員兼評議員、家屋税調査員、耕地整理組合副理事長、在郷軍人分会顧問、小作調査委員、警防団副団長などを歴任した。 一度目の村長は1941年(昭和16年)まで務め、戦後は公職追放となったが、公民館副館長、富谷商工会会長などに就任した。
野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 19… 野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 1964年8月14日)は、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行した。 1889年2月12日に埼玉県浦和宿(のち浦和市)の銀行家の家系に生まれる。慶應義塾大学卒業。戦前の1929年(昭和4年)に、国画会に「裸婦作品」などを出品した。岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、岸田劉生、梅原龍三郎らの美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。
藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月1… 藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。馬山府尹。 静岡県磐田郡見付町(磐田町を経て現磐田市)出身。1916年(大正5年)法政大学法科を卒業し税務所属となる。ついで大蔵省属、大阪府属を経て、朝鮮総督府属となり、1929年(昭和4年)12月、平安南道大同郡守に就任する。1934年(昭和9年)6月、京城府学務課長に転じ、1936年(昭和11年)7月30日、馬山府尹となった。1942年(昭和17年)10月、退官し、大日本婦人会朝鮮本部総務部長兼厚生部長に就任した。
上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月… 上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月10日 - 1947年(昭和22年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。中学済々黌中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第48連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第13連隊大隊長、第9師団参謀、臨時上海派遣軍参謀、台湾軍参謀などを歴任し、1934年(昭和9年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵第24連隊長となった。 1936年(昭和11年)8月、参謀本部庶務課長となり、日中戦争に上海派遣軍参謀副長として出征。
今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 197… 今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 1972年4月11日)は、日本の社会学者。東京帝国大学教授。 1913年東京帝大哲学科社会学専修卒。1917年ロシアのペトログラードに留学し、米国を経て1920年帰国。同年9月東京帝大助教授として社会学を講じる。1941年より東京市の教育局長などの要職に就くも、終戦後1948年から3年半余りの間、公職追放となる。東京学芸大学、大正大学、淑徳大学にて教鞭を執る。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1… 蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1974年12月8日)は、日本の実業家。石川県動橋村(現・加賀市)出身。東日本フェリーをはじめとした蔦井グループの創始者として、海運・陸運・倉庫・不動産業等多方面で活躍した。家族は息子に蔦井政信(東日本フェリー2代目社長)、孫に蔦井孝典(ハートランドフェリー、アイビー・システム社長)。 1889年(明治22年)、石川県動橋で宿屋を営む蔦井庄五郎の、12人兄弟の5男として生まれる。6歳で北海道へ移り、函館で生花店を営むおじ・勝次郎の家へ養子に出され、行商や新聞配達で家計を支えるも、函館の養父母の死去に伴い1900年(明治33年)に歌志内村赤平の弟夫婦の養子となり、先に団体移住していた親や兄弟とともに開拓作業を手伝う。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 … 谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、日本の外交官、外務大臣。妻・澄子は島津長丸の娘。 熊本県上益城郡島田村櫛島(飯野村を経て現・益城町)出身。熊本中学、第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科政治学科卒業。同年 外務省に入る。1930年(昭和5年)アジア局長。1933年(昭和8年)満州国大使館参事官。1936年(昭和11年)オーストリア兼ハンガリー公使。 1939年(昭和14年) 外務次官。 1942年(昭和17年) 東条内閣の外務大臣兼情報局総裁。 1943年(昭和18年) 駐中華民国大使(終戦時まで)。 1945年(昭和20年)12月2日 連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)。
井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972… 井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972年7月20日)は、大正から昭和期の英米文学者。東京外事専門学校第10代校長、東京外国語大学学長事務取扱、立教大学文学部教授。井出義行の誤字もみられる。 熊本県阿蘇郡宮地町出身。井手義久の長男として生まれる。 1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文科(英吉利文学科)卒業後、同年東京外国語学校の講師に就任し、1917年(大正6年)、同校の教授となる。大正から昭和初期に、立教大学文学部教授を兼務し、英文学、英文学史、英訳を教えた。 1921年(大正10年)に、他大学に先駆けて立教大学にバスケットボール部が創部されると、初代部長に就任。
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 195… 中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 下伊那郡竜江村(現飯田市)の地方名望家中原治部衛門の次男として生まれ、旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を卒業後に早稲田大学文科予科に進学した。1912年に坪内逍遙が主催した文芸協会演劇研究所の第1期生として入所し、俳優を目指した。同期には、河竹繁俊、松井須磨子らがいる。俳優を目指していた中原であったが、長男である兄が死去したことを受けて、俳優の夢を断念して1913年、大学予科修了後に帰郷した。
三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 194… 三谷 隆正(みたに たかまさ、1889年2月6日 - 1944年2月17日)は、日本の法学者。 京都府与謝郡弓木村(現・与謝郡与謝野町)出身で、横浜で生糸商をしていた三谷宗兵衛の長男として生まれる。 明治学院在学中、異母姉三谷民子(のち女子学院院長)の影響でクリスチャンとなった。父の事業破産によって、第一高等学校在学中から住み込みの家庭教師として自活。 東京帝国大学在学中より、内村鑑三に師事。1915年に大学を卒業すると、法制とドイツ語の教授として第六高等学校に赴任。1924年に病で長女と妻を相次いで失う。1926年に六高を辞して上京、千駄ヶ谷教会に長老として参加。1927年から第一高等学校教授となり、法制とドイツ語を担当。
大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 … 大戸平 吉太郎(おおとひら きちたろう、1889年2月5日 - 1963年8月7日)は、現在の宮城県石巻市出身で尾車部屋、峰崎部屋に所属した力士。本名は阿部 吉太郎(あべ きちたろう)。4代尾車。176cm、98kg。最高位は東関脇。 石巻中学校1年で同郷の尾車から勧誘され、「将来は師名を継がせる」という証文を貰って入門した。1906年5月序ノ口、1911年6月十両昇進。1912年5月新入幕、1916年5月新横綱西ノ海を破り8勝1敗1預で、翌1917年1月関脇昇進。地味な風貌であったが大錦を破ったり横綱栃木山の預かりの相撲を取るなど大物食いとして上位で活躍。1922年5月に引退し、尾車を襲名。勝負検査役や木戸部長を務め、1961年1月71歳で定年退職。
上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 198… 上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日)は、日本の造園研究家。学位は、林学博士。東京農業大学名誉教授。 東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。 上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。 東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。
円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治2… 円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治22年)2月5日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福島県西白河郡、のちの大信村(現白河市)出身。1909年、福島県師範学校を卒業。小学校訓導、同校長、郡視学、福島県視学、国民学校長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に福島県選挙区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、第24回総選挙まで連続3回当選した。この間、経済安定本部嘱託、衆議院文部委員長、日本自由党政調会文教委員長などを歴任した。 その他、西白河郡連合青年団長、日本教育会福島県支部長、福島県教育会理事長を務めた。
前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 -… 前田 郁(まえだ いく、1889年(明治22年)2月4日 - 1965年(昭和40年)3月30日)は日本の政治家であり実業家。 鹿児島県肝属郡大根占町(後の錦江町)出身。明治大学政治経済学部卒業。第二次大戦後の1947年、衆議院議員に初当選し、以来当選3回。衆議院運輸委員長、第2次岸内閣運輸政務次官、日本自由党代議士会副会長等を歴任。また、実業家として東京時計製造株式会社専務取締役、東京遊覧乗合自動車株式会社取締役社長、東京ミシン株式会社取締役社長、東京観光バス社長、東京観光自動車社長などを務めた他、国際観光文化協会会長、日本有線放送連合会会長などの公職も務めた。 福島ヨネらと共にモーターボート競走法の制定に力を注ぎ、1951年(昭和26年)6月に成立。
池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月… 池松 林一(いけまつ りんいち、1889年〈明治22年〉2月4日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、日本の政治家、実業家、銀行家。長崎県諫早市長(第3代)。長崎県会議員(1期)。HKT48の元メンバー田島芽瑠の高祖父である。 長崎県北高来郡諫早町(現・諫早市)出身。池松佐八の次男。池松ノエの養子となる。1906年(明治39年)、家督を相続する。 東京大成中学校を経て1918年(大正7年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。貸金業・貸地業を営む。 1921年(大正10年)、諫早町長に就任する。1939年(昭和14年)9月、北高来郡選出の県会議員となった。1940年(昭和15年)に諫早市制が施かれると10月1日に初代市会議長に選ばれた。
朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 -… 朝緑 冨五郎(あさみどり とみごろう、1889年2月4日 - 1947年12月3日)は、現在の山形県鶴岡市出身で立田川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は石田 富五郎(旧姓伊藤)。173cm、86kg。最高位は東前頭13枚目。大起男右エ門の岳父。 1907年5月初土俵、1912年5月十両昇進。1916年1月新入幕したが、連続負け越しで十両陥落。1919年1月廃業した。その後は相撲茶屋の伊勢福の養子になった。 番付上の表記揺れを無視すれば改名歴なし。 ただし、番付上の表記揺れとして、1908年1月場所は「浅ミとり 冨五郎」、1908年5月場所 - 1911年5月場所は「浅緑 冨五郎」と記されている。
木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950… 木村 荘太(きむら そうた 1889年2月3日 - 1950年4月15日)は、東京府出身の作家、翻訳家。本名の読みは「しょうた」。別名に久木今作、木村艸太(そうた)。木村荘平の子。女性関係と奇人ぶりで知られた。 東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)に、木村荘平の妾腹の子として生まれる。 父は牛鍋屋チェーン店"いろは"を20数箇所に展開して"いろは大王"と呼ばれると共に、葬儀会社"博善社"の社長も兼ねた実業家で、正妻の他に多数の愛人を持ち、諸方に儲けた子の数が男13人に女17人。荘太の異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいる。
越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日… 越智 孝平(おち こうへい、1889年(明治22年)2月3日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。松山市長。 愛媛県和気郡堀江村(現:松山市堀江町)で越智倉吉、ヨシ夫妻の息子として生れる。1907年、私立北予中学校を卒業し、海軍兵学校(38期)に入学。1910年7月、同校を卒業し、1911年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで海軍水雷学校高等科学生、同特修科学生として学んだ。第三水雷戦隊司令部付、米国駐在、第一水雷戦隊司令部付兼参謀、「陸奥」通信長心得などを経て、1924年11月、海大甲種22期を卒業した。 以後、軍令部参謀、第二遣外艦隊参謀、海軍大学校教官、在メキシコ国公使館付武官などを歴任。
柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2… 柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2月3日 - 1975年(昭和50年)11月10日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、有機合成化学協会会長、安全工学協会会長等を歴任した。 兵庫県朝来市山東町大月生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を経て、1915年東北帝国大学理科大学化学科卒業。同年日本製鋼所に入社するが、室蘭町の寒さで神経痛にかかり、8カ月で退社した。1916年9月の新学期より母校東京高等工業学校電気化学科助教授を務め、アンモニア合成の研究に従事し、1918年に農商務省臨時窒素研究所が設立されると、同研究所のアンモニア合成研究の主任研究員に就任。
大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 197… 大西 利夫(おおにし としお、1889年2月2日 - 1977年4月9日)は、日本の新聞記者、演劇評論家。劇作家。 1914年に京都帝国大学文科大学国文科を卒業後、大阪朝日新聞社に入社。1918年8月26日夕刊の「寺内正毅内閣弾劾関西記者大会」の記事を執筆する中で「白虹日を貫く」との中国古語を使ったが、これは兵乱の前兆を示唆する不穏当な表現であり、白虹事件と呼ばれる日本の新聞の歴史でも類をみない筆禍事件を招いた。大阪朝日新聞および大西は新聞紙法違反で告訴され、大阪朝日新聞は新聞の発売禁止こそ免れたものの、大西は禁錮2月の有罪判決を受けた。 新聞社を退社後は、関西演劇界へ身を投じ、文楽による『ハムレット』、『蝶々夫人』、『椿姫』など外国劇の脚本を多数作り上げた。
深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2… 深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の生産技術者、造船技術者、及び航空技術者であり、とりわけ第二次世界大戦期の航空機開発における最重要人物の一人である。九七式艦上攻撃機や九六式陸上攻撃機をはじめとする日本の主力軍用機に搭載されたエンジン「金星」の開発主導者として有名。 1909年(明治42年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科卒業後、同年、三菱合資会社神戸造船所入社。1926年、三菱造船株式会社長崎造船所を経て、1933年に三菱航空機株式会社名古屋製作所(翌年、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に改名)に転勤。
石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年… 石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1976年〈昭和51年〉9月11日)は、日本の実業家。ブリヂストン創業者。 ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもあり、プリンス・ロイヤル、プリンス・スカイラインの名付け親である。また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。 企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年(平成14年)には日本自動車殿堂入り、2006年(平成18年)には米国自動車殿堂入りを果たしている。
清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2… 清水 金太郎(しみず きんたろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1932年〈昭和7年〉4月30日)は、明治時代末期から昭和時代初期の声楽家、バリトン歌手。 日本オペラの黎明期から第一線で活躍した、日本オペラ界の開祖の一人とも言える存在で、大正期の浅草オペラを代表するスターとして、田谷力三と双璧と謳われた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京音楽学校声楽科卒業。1912年(明治45年)2月、帝国劇場における創作歌劇「熊野」(ゆや)にてデビュー。1911年に創設された帝国劇場の歌劇部に教師格として迎えられ、柴田環(後の三浦環)と部員の指導にもあたった。妻である静子は、歌劇部の第2期生で以後多くの舞台に共に立つ。
木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 … 木阪 ユク(きさか ゆく、1889年(明治22年)2月1日 - 1985年(昭和60年)11月22日)は、日本の女医。 広島女医界の草分けとして知られる。キリスト教徒であった木阪ユクは、信仰に基づく倫理観と奉仕の精神を持って医療活動を行い、生涯を医療の発展に捧げた。 広島県賀茂郡西高屋村(現・東広島市高屋町)出身。豪農・富岡家の四女として生まれる。1908年、東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1910年、静岡市の多々良病院で産婦人科医として働く。1912年に西高屋村に帰り、産婦人科医院を開業。彼女の開いた木阪産婦人科医院は、木阪病院として現在も受け継がれている。 1912年、木阪次郎と結婚。
本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年… 本庄 栄治郎(ほんじょう えいじろう、1888年(明治21年)2月28日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の経済学者。専門は日本経済史、経済思想史。学位は、経済学博士(京都帝国大学)。大阪商科大学第2代学長。京都大学・大阪府立大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 昭和期に多数の学者を送り出し日本経済史研究の権威として知られた。 1888年、京都西陣に生まれる。第三高等学校を経て、1913年京都帝国大学法科大学政治学科卒業、同大学院に進学、生家の生業である西陣機業の研究を行い戸田海市、内田銀蔵に師事した。1914年に『西陣研究』、1916年に『江戸幕府ノ米価調節』が京都法学会より公刊されている。
中埜 半左衛門(なかの はんざえもん、1888年(明治21年… 中埜 半左衛門(なかの はんざえもん、1888年(明治21年)2月28日 - 1957年(昭和32年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代半田市長。「中埜半左衛門」は代々の当主が襲名しており、本記事の対象となる半左衛門は10代で出生名は俊三である。 愛知県出身。生家は半田地方で代々庄屋を営む家系であった。ミツカンの創業家である中埜又左衛門家は半左衛門家の分家筋に当たる。 1912年早稲田大学政治経済学科卒。半田町議、同町長を経て、1937年半田市の市制施行により、初代市長に就任する。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日… 寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日 - 1948年4月5日)は、富山県礪波郡(現小矢部市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は土谷 爲治郎(つちや ためじろう)。最高位は西前頭9枚目(1916年5月場所)。現役時代の体格は166cm、90kg。得意手は突っ張り、押し。 四股名の由来は師匠の友綱が「体は小さいが、寒の玉子のようにじっと辛抱すれば必ず出世する」という願いを込めて名付けたものだという。その願い通り、初土俵からちょうど9年後に当たる1912年1月場所に見事入幕を果たした。幕内での活躍は少なく、幕内で勝ち越した場所はなく、十両との往復が続いたが、愛嬌のある人気力士だった。
西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 19… 西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 1973年12月8日)は、日本の洋画家。 高知県安芸郡安田村(現・安田町)出身。高知県立第三中学校(現・高知県立安芸中学校・高等学校)、一年間の小学校代用教員を経て、1912年東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科卒業。鹿児島県内の中学校教諭を経て、1913年長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭。教え子に彫刻家清水多嘉示、洋画家高橋貞一郎がいる。長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)教諭。1919年長野県立野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)教諭。1920年旅順高等女学校教諭。1925年フランスへ留学。
岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月2… 岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月23日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、富山県生まれの東洋史学者。字は煥卿、号は桜洲。東北大学文学部教授。 江戸時代から続く鵜坂村(現・富山市西本郷)の豪農で、代々富山藩の十村役を務めた名家・岡崎家の十六代として1888年に生まれた。1905年、旧制富山中学校(現:富山県立富山高等学校)を卒業し、第四高等学校に進んだ。京都帝国大学文科大学史学科に入学し、内藤湖南に師事。1912年に卒業した。同大学大学院に進学し、在学中の1919年から1921年まで上野育英会の資金補助を受けて中国に留学した。 帰国後、東北帝国大学における東洋史学専攻講座の開設にあたった。
山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月2… 山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月22日 - 1969年(昭和44年)3月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・浜田(濱田)。1925年(大正14年)2月25日、山本に改姓した。 熊本県下益城郡豊野村(現・宇城市)出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1920年(大正9年)4月、歩兵大尉に昇進し歩兵第23連隊付となる。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し第2師団兵器部長に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵第84連隊長に発令され日中戦争に出征。1939年(昭和14年)6月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長に就任。
小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月2… 小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月20日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。 1888年(明治21年)2月20日、兵庫県加東郡河合村三和(現・小野市三和町)の農家の次男として生まれた。河合小学校を卒業し、関西大学法学部卒業。代用教員をしつつ正教員を目指したが一念発起してアメリカに渡り、1916年(大正5年)にカリフォルニア大学・同大学院法科を修了する。 帰国後は立憲政友会系の中央新聞主筆、同編集局長を経て、1921年(大正10年)には南満洲鉄道に入社。秘書、参与、ニューヨーク支店長、東京支店庶務課長を歴任した。1929年(昭和4年)に退社して立憲政友会に身を置く。
永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 19… 永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月1… 福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月19日 - 1972年〈昭和47年〉4月14日)は、日本の将棋棋士。青森県弘前市出身。関根金次郎十三世名人門下。 北海道将棋連盟を結成するなど、北海道での将棋の普及活動や後進育成に尽力し、福井と師弟関係にあった棋士はいないが、のちに福井の弟弟子となる五十嵐豊一や、同じく福井の兄弟弟子である渡辺東一門下となる勝浦修の発掘に貢献している。 昭和40年代の将棋名鑑では「地方棋士」として掲載されている。死没後の2006年に九段位を追贈された。 1888年(明治21年)、津軽藩御用菓子司の弘前市の老舗「大阪屋」に生まれる。 幼少の頃、青森の杉野六段に将棋道の手解きを受け、その後旭川市に移り家業を手伝いながら将棋に打ち込んだ。
天谷 丑之助(あまがい うしのすけ、1888年〈明治21年〉… 天谷 丑之助(あまがい うしのすけ、1888年〈明治21年〉2月18日 - 1974年〈昭和49年〉7月15日)は、日本の政治家。茨城県土浦市長(3期)。位階は正五位。勲四等旭日小綬章。 茨城県出身。旧制土浦中学校(現・茨城県立土浦第一高等学校・附属中学校)を経て、1909年に早稲田大学商学部を卒業する。1919年に茨城県会議員となり、この間、1927年から真鍋町長も務めた。1931年10月に第36代茨城県会議長となる。1935年10月に議長を退任する。1936年の第19回衆議院議員総選挙では原脩次郎の後継者として茨城3区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。 戦後の1947年、土浦市長選挙に立候補して当選した。
石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月… 石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月18日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 高知県土佐郡神田村(鴨田村大字神田を経て現高知市)で、石本正直、菊枝の長男として生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、9月に歩兵第1連隊留守隊長に就任した。1938年(昭和13年)に台湾歩兵第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級し、留守第11師団司令部附となった。 同年10月に第40歩兵団長に転じ、日中戦争に出動。宜昌作戦に参加した。1940年(昭和15年)に第4歩兵団長に転じ、1941年(昭和16年)に第62独立歩兵団長を経て、1943年(昭和18年)に釜山要塞司令官兼釜山陸軍軍需輸送統制部長に就任した。
蒲 孚(かば まこと、1888年〈明治21年〉2月17日 -… 蒲 孚(かば まこと、1888年〈明治21年〉2月17日 - 1983年〈昭和58年〉3月12日)は、日本の内務技師。 東京帝国大学で林学士と工学士を取得、その後内務技師として、自らの実績をもとに我が国における近代工法によるコンクリート砂防堰堤(砂防ダム)の基礎を築くとともに治水砂防計画の体系化に貢献した人物である。 1888年(明治21年)2月17日、東京都に生まれる。1911年(明治44年)に東京帝国大学農科大学林学科を、1914年(大正3年)に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、同年農商務省 (日本)に入省、1917年(大正6年)に同省を退職し、同年6月内務省東京土木出張所に移り、山梨県や栃木県の砂防工事に従事、1930年(昭和5年)に横浜土木出張所に転じ、1938年(昭和13年)には新潟土木出張所長(現在の国土交通省北陸地方整備局長)として転出、1942年(昭和17年)に内務省を退官した。