廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月… 廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月1日 - 1988年(昭和63年)7月8日、本名 : 廣岡 九一)は、昭和期の音楽教育者であり、全日本吹奏楽連盟会長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名字が 広岡 と表記されることもある。 明治31年(1898年)、三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。大正14年(1925年)東京音楽学校(現東京芸術大学)第四臨時教員養成所オルガン科卒業。和歌山県立新宮高等女学校(現和歌山県立新宮高等学校)教諭、昭和3年(1928年)東京府立第一商業高等学校(現東京都立第一商業高等学校)講師、東京府立大泉師範学校(現東京学芸大学教育学部)、お茶の水女子大学講師、川村学園講師を歴任。
新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9… 新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)は、大日本帝国陸軍(以下陸軍という)の軍人。階級は陸軍主計大佐。陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任。情報将校としてアメリカ合衆国の国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。 1897年(明治30年)9月30日に農家を営む新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現:京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業する。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 196… 福西 清(ふくにし きよし、1897年9月26日 - 1967年12月25日)は、阪神電気鉄道社長。奈良県出身。 広島高等師範学校卒業後は、一時教職を務めるが、九州帝国大学法文学部に入学し、1929年に卒業し、阪神電気鉄道に入社した。 主に電灯、電力部門の営業を担当していたが、1942年4月に同部門が関西配電に譲渡されたのを機に同社に移籍し、1944年に阪神に復帰した。その後は、庶務部、取締役、常務取締役を歴任し、1957年に阪神百貨店の専務取締役に就任した。 1965年に藍綬褒章を受章。 1960年5月に阪神に戻り、副社長を経て、1967年11月18日に社長に就任したが、同年12月25日に脳出血のために在職中のままに死去。
豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 19… 豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 1972年4月22日)は日本の工芸家、陶芸家、教育者。鋳造、金工の分野で足跡を残した。 1897年(明治30年)9月、福岡県久留米市に生まれる。1915年(大正4年)、福岡県立明善中学校を卒業し、東京美術学校鋳造科入学。1920年(大正9年)に卒業後、研究科に進む。研究科を修了後は、東京高等工芸学校金属工芸科の嘱託となり、1924年(大正13年)、同校助教授となる。 1927年(昭和2年)、帝展に出品して入選。1933年(昭和8年)、帝展に出品した「鋳銅広間用四方花さし」が特選となる。1938年(昭和13年)、東京高等工芸学校教授に就任。1942年(昭和17年)、活動拠点を故郷である久留米市に移す。
我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 19… 我妻 東策(あずま とうさく、1897年9月22日 - 1983年1月19日)は、農業経済学者。 栃木県上都賀郡今市町(現・日光市)出身。1923年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1924年同経済学部卒。1924年東京農業大学講師、1925年教授。1937年「士族授産ニ関スル研究」で農学博士。1960-1966年農学部長、1967年定年退職、名誉教授。1952年日本農業経済学会理事。農村の家族制度、農業政策などを研究。
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉… 倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉9月21日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1897年、新潟県高田町(現・上越市)に、十三人兄弟の四男として生まれる。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ。卒業論文では中国天文学(英語版)を扱う。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 19… 片桐 英郎(かたぎり ひでお、1897年9月21日 - 1987年9月18日)は日本の農芸化学者。農学博士(東京帝国大学、1938年)。専門は発酵化学。 長野県下伊那郡根羽村生まれ。1919年旧制第二高等学校卒業、1922年東京帝国大学農学部農芸化学科卒業。東京帝大の助手から、1924年京都帝国大学農学部助教授、欧米留学から1927年に帰国後、1929年同教授、1960年退官、名誉教授。1963年から1965年まで日本農芸化学会会長を務める。1982年日本学士院会員選出。著作に「酵素化学工業」などがある。 乳酸菌の生化学、ラセミアーゼの発見、醱酵菌類によるビタミンB2関連物質の生産、有機発酵酸及び微生物の代謝に関する研究、繊維原料の発酵精錬に関する研究などで業績を上げた。
柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1… 柏原 語六(かしわばら ごろく、1897年9月20日 - 1981年6月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。岡山県出身。 1920年(大正9年)中央大学法学部を卒業。1921年(大正10年)に弁護士登録。 1961年(昭和36年)4月に柏原が所属する会派から順送りで推されて、無競争のまま東京弁護士会会長に選出されて就任。会長に選ばれた時に「抱負は別にないが、弁護士の職域を広げること。正義の実現を旨とする弁護士のあり方は、もっと世間に受け入れられていいと思う」と述べる。 1963年(昭和38年)12月に最高裁判所判事に就任。1958年(昭和33年)と1962年(昭和37年)にも日弁連から最高裁入りを推され固辞したこともあり、三度目に了承したことになる。
後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982… 後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982年1月19日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。 茨城県出身。1922年に東京帝国大学機械科を卒業し、同年に鉄道省に入省。 1949年5月に関東特殊製鋼常務に就任し、同年6月に近畿車輛専務を経て、1959年11月には社長に就任。1970年6月には相談役に就任した。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年1月19日、心不全のために死去。84歳没。
小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月1… 小野寺 信(おのでら まこと、1897年〈明治30年〉9月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月17日)は、日本の陸軍軍人、翻訳家。最終階級は陸軍少将。第二次大戦末期に、在スウェーデン日本大使館の駐在武官として、ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦するとの最高機密情報)を早い時期に密かに入手して日本に打電・通報したことや、その後、スウェーデン王室の仲介による連合国との和平工作を行ったことで知られる。 1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。
崎山 好春(さきやま よしはる、1897年(明治30年)9月… 崎山 好春(さきやま よしはる、1897年(明治30年)9月19日 - 1974年(昭和49年)6月10日)は日本の実業家。大同海運社長、大日海運会長を務めた。 作家で東京都知事をつとめた石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父石原潔の前妻勝子は崎山の妻の姪にあたる。 愛媛県温泉郡河野村(現在の松山市)に生まれた。父・崎山常五郎の二男。1917年(大正6年)、松山商業学校(現在の松山商業高校)を卒業。山下汽船に入社。1923年(大正12年)、家督を相続する。 1930年(昭和5年)、大同海運に転じ、近海配船課長営業部副長を歴任。1939年(昭和14年)、取締役のち常務専務を経て1949年(昭和24年)、社長に就任した。
桜井 英記(さくらい ひでき、1897年(明治30年)9月1… 桜井 英記(さくらい ひでき、1897年(明治30年)9月19日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の都市計画家。内務省技師から、太平洋戦争後は日本の都市計画コンサルタントの草分けとなる桜井・森都市計画事務所を創始した。日本都市計画学会会長も務めた。 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)生まれ。東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、第二高等学校を経て、1922年3月東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年5月より内務省都市計画局に第1技術課に配属される。 1924年2月、帝都復興院技師。1925年8月からは内務省大臣官房都市計画課(内務技師)。主に山田博愛課長を補佐し復興計画とその事業予算をまとめる資料づくりにあったという。
金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年… 金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年9月19日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人、劇作家。本貫は安東金氏。号は焦星(チョソン、초성)、水山(スサン、수산)。 1897年9月19日、李氏朝鮮で全羅南道の長城にて、務安郡の監理であった金星圭(父)と順天朴氏(母)のもと、長男として生まれた。 木浦公立普通学校(現: 木浦北橋初等学校)を卒業後渡日し、日本の熊本農業学校(現: 熊本県立熊本農業高等学校)を経て、1924年に早稲田大学英文科を卒業した。 1920年代には『劇芸術協会』と『同友会巡回演劇団』を主導した。また、西洋の表現主義の文芸理論を翻訳し、紹介した。
中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 19… 中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 1971年3月12日)は、日本の経営者。北海道新聞社社長を務めた。 佐賀県出身。1917年に早稲田大学文学部国文学科を中退し、1918年に小樽新聞社に入社。1945年に北海道新聞社取締役に就任し、1947年11月に専務を経て、1957年12月に社長に就任した。1968年12月に相談役に退いた。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1971年3月12日、圧迫性脊髄炎のために死去。73歳没。
三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1… 三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1973年11月8日)は、昭和期の実業家。東京急行電鉄専務取締役、京王帝都電鉄(現:京王電鉄)取締役社長(初代)、財団法人五島美術館常務理事を歴任した。東京急行電鉄(いわゆる「大東急」)から独立した京王帝都電鉄の初代社長として、終戦直後から1950年代にかけて、京王帝都電鉄および京王グループの基礎を築き上げた人物である。 大分県生まれ。慶應義塾大学卒業後、目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄)に入社。五島慶太社長の知遇を得て、1942年に東京急行電鉄取締役に就任。1946年同社専務取締役に昇任した。その後いったん同社監査役に転任する。 京王電気軌道は戦時統合により東京急行電鉄(大東急)に合併され、同社の京王営業局とされていたが、終戦後の1947年(昭和22年)12月26日に大東急からの分離独立を決議。
須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 198… 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は、日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。 三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。1935年にドイツに渡りゲオルク・シューマンに師事。
細谷 雄二(ほそや ゆうじ、1897年9月14日 - 196… 細谷 雄二(ほそや ゆうじ、1897年9月14日 - 1967年3月30日)は、日本の生理学者。大阪市立大学名誉教授。医学博士。アララギ派の歌人でもある。 1897年、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。1923年、東北帝國大学医学部を卒業した。 1925年、東北帝國大学医学部助教授に着任。1928年に学位論文『眼の光生理学的補遺(独文)』を東北帝国大学に提出して医学博士号を取得。1932年、文部省在外研究員としてドイツへ留学。帰国後、1936年より台北帝國大学教授に任命され、医学部生理学第二講座を担当した。太平洋戦争終結後も中華民国国立台湾大学医学部教授として留用され、教務と診療にあたった。
小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13… 小原 栄次(おはら えいじ、1897年〈明治30年〉9月13日 - 1957年〈昭和32年〉1月20日)は、日本の弁護士、弁理士。 人権擁護委員東京連合会副会長、日本弁護士連合会人権擁護第一部長、東京地方裁判所調停委員、東京弁護士会常議員を歴任した。鹿児島県出身。族籍は鹿児島県士族。次女は声優、女優、ナレーター、朗読家の小原乃梨子。 鹿児島県士族・小原萬次郎の息子として同県日置郡上伊集院村上谷口に生まれる。母は奥休太郎の長女・イネ。1937年(昭和12年)に家督を相続した。1914年(大正3年)博約義塾(現・樟南高等学校)を卒業後、上京し、1917年(大正6年)、中央大学法科を卒業。卒業後、農商務省に奉職。
山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年… 山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年)9月13日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 山岸徳松の三男として福岡県福岡市に生まれる。第七高等学校を経て、1924年(大正13年)3月に東京帝国大学法学部政治科を卒業。安田保善社に勤務する。 翌年の11月、高等試験行政科に合格と同時に台湾総督府交通局に奉職し書記となる。ついで同局参事、鉄道部改良課庶務係長、同部経理課長、財務局金融課長、警察幹部講習会講師、刑事講習会講師を経て、会計課長を発令される。1940年(昭和15年)1月、台中州内務部長に転じ、同年同州総務部長、米穀局総務課長を経て、1942年(昭和17年)8月に台東庁長に就任。
小野村 胤敏(おのむら たねとし、1897年(明治30年)9… 小野村 胤敏(おのむら たねとし、1897年(明治30年)9月12日 - 1947年(昭和22年)2月26日)は、日本の弁護士。大阪理工科大学創設者。福井県遠敷郡遠敷村(現・小浜市遠敷)出身。 若狭彦神社神官・小野村胤信の三男として生まれた。旧制小浜中学校を経て[要出典]、1917年(大正6年)、関西大学専門部法律学科を卒業。 のち上京して日本大学山岡萬之助研究室に入り、翌年には弁護士試験に合格。大阪市東区博労町で弁護士事務所を開いた。 1925年(大正14年)3月、日本大学専門学校(近畿大学の前身)の創立に参画。1927年(昭和2年)、司法省嘱託としてドイツに留学し、ベルリン大学とミュンヘン大学で学ぶ。
石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10… 石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10日 - 1950年(昭和25年)10月10日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北市尹、台南州知事。旧姓は加藤。 加藤十四郎の四男として佐賀県佐賀郡高木瀬村(現・佐賀市)に生まれ、石井力三郎の養子となる。県立中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。翌年、高等文官試験行政科試験に合格し、台湾総督府に出仕する。 1922年(大正11年)5月に高雄州勧業課長、1924年(大正13年)12月に台中州教育課長、1927年(昭和2年)7月に台南州警務部長、1929年(昭和4年)12月に同府警務局衛生課長、1931年(昭和6年)5月に台南州内務部長、1932年(昭和7年)4月に同府内務局地方課長兼地理課長を経て、1936年(昭和11年)10月、台北市尹に就任した。
伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 196… 伊藤 康善(いとう こうぜん、1897年9月9日 - 1969年1月9日)は、奈良県北葛城郡新庄町生まれの宗教家。浄土真宗華光会の創始者、真宗興正派学頭。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
稲富 栄次郎(いなとみ えいじろう、1897年(明治30年)… 稲富 栄次郎(いなとみ えいじろう、1897年(明治30年)9月7日 - 1975年(昭和50年)12月30日)は、日本の哲学者、教育哲学者。上智大学名誉教授。学位は文学博士(広島文理科大学)。広島高等師範学校、東北帝国大学卒業。福岡県出身。 1897年(明治30年)9月7日 福岡県浮羽郡に生まれる 1924年(大正13年)3月7日 広島高等師範学校文科第二部卒業 3月31日 山口県女子師範学校教諭(1926年(大正15年)4月27日まで) 1929年(昭和4年)3月26日 東北帝国大学法文学部哲学科卒業 3月31日 兵庫県立第一神戸中学校教諭(1931年(昭和6年)3月31日まで) 1931年(昭和6年)3月31日 広島文理科大学・広島高等師範学校講師 9月28日 広島高等師範学校教授 1933年(昭和8年)3月31日 広島文理科大学助教授兼、広島高等師範学校教授 1941年(昭和16年)12月27日 広島文理科大学教授 1944年(昭和19年)9月30日 同大学教育学科長 1946年(昭和21年)9月27日 文学博士の学位を受く 1947年(昭和22年)10月25日 広島文理科大学教授退任、広島図書株式会社顧問(1951年(昭和26年)3月31日まで) 1951年(昭和26年)10月23日 上智大学文学部教授 1952年(昭和27年)4月1日 同大学文学部教育学科長(1966年(昭和41年)3月31日まで) 1953年(昭和28年)5月10日 学事視察のため西ヨーロッパ各国へ出張(同年10月27日まで) 1954年(昭和29年)9月25日 神戸大学教育学部教授(1957年(昭和32年)3月31日まで) 1956年(昭和31年) 2月10日 文部省・教育課程審議会委員(1957年(昭和32年)2月9日まで)5月1日 教育史学会理事(1974年(昭和49年)9月30日まで)12月1日 文部省・国語審議会委員(1958年(昭和33年)1月30日まで)
渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 … 渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 - 1953年(昭和28年)2月7日)は、日本の内務官僚。上海共同租界警視総監。
河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に… 河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日)は、日本の俳優。本名は河村石五郎(かわむら いしごろう)。 松竹で活躍した脇役俳優の一人であり、300本近い作品に出演した。島津保次郎監督作品に常連出演し、江戸っ子役や三枚目役で知られた。戦後に社長シリーズの前身である『三等重役』に社長役で出演したことでも有名。 1897年(明治30年)9月1日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の錦城商業学校予科を卒業後、13歳で中洲の真砂座で初舞台を踏む。新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月… 内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年(明治30年)9月 - 没年不詳)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選茨城県知事、陸軍司政長官、昭南市長(シンガポール)。 愛媛県出身。内藤豊治の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる。 以後、奈良県警部、三重県理事官・工場監督官、長野県書記官・学務部長、和歌山県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局図書課長、同大臣官房会計課長、厚生省書記官・衛生局指導課長、同大臣官房会計課長、同職業部長、同職業局長などを歴任。 1941年3月26日、茨城県知事に就任。
正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月… 正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月29日 - 1975年〈昭和50年〉12月6日)は、日本の弁護士。 第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に発生した八海事件の弁護を担当。同事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。 敬虔なキリスト教徒としても知られていた。 本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。 1896年(明治29年)、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)林町に生まれる。
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月2… 松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。 1896年(明治29年)9月29日、熊本県菊池郡加茂川村大字菰入(現・七城町菰入)に生まれる。旧制熊本県立鹿本中学校を経て、1913年(大正2年)9月3日、海軍兵学校44期に100名中89番の成績で入学。同期に柳本柳作、西田正雄、朝倉豊次、黒島亀人らがいる。1916年(大正5年)12月11日、95名中14番の成績で卒業。少尉候補生となり装甲巡洋艦「常磐」に乗り組み、練習艦隊近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰着。
伊藤 久松(いとう ひさまつ、1896年(明治29年)9月2… 伊藤 久松(いとう ひさまつ、1896年(明治29年)9月28日 - 1983年(昭和58年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選大分県知事。 山口県出身。伊藤政吉の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し熊本県属となる。 以後、熊本県飽託郡長、1935年9月、秋田県学務部長、1938年1月、埼玉県学務部長、1939年5月、奈良県総務部長、1941年6月、大阪府学務部長などを歴任。 1942年6月、大分県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1943年7月、知事を退任。同年に退官。戦後に公職追放となる。
宮野 省三(みやの しょうぞう、1896年(明治29年)9月… 宮野 省三(みやの しょうぞう、1896年(明治29年)9月28日 - 1972年(昭和47年)12月6日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、陸軍司政長官。旧姓・須知。 三重県出身。須知左馬太郎の三男として生まれ、宮野富次郎の養子となる。第三高等学校を卒業。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警保局属となる。 以後、富山県警視、同警察部警務課長、大分県理事官、地方事務官・長崎県勤務、内務事務官、同省警保局警務課長、東京府書記官・総務部長、内務書記官・警保局保安課長などを歴任。 1937年2月、岐阜県知事に就任。河川改修、用水改良事業、林道開設、戦時体制の整備などに尽力。
木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)… 木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)9月25日(または10月8日) - 1971年(昭和46年)9月18日)は、日本の建築学者。 京都市生まれ。早稲田大学などにおいて、環境工学の基本的研究と教育にあたった。また、積雪荷重など雪害対策の基礎的研究方向を確立したほか、日本空気清浄協会、日本建築積算事務所協会の設立と運営にも尽力した。 日本建築設計事務所協会初代会長(l971年まで)。
福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - … 福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - 1980年1月15日)は、日本の商学者・経済学者。学位は、商学博士。神戸大学名誉教授。第3代神戸大学学長(在任:1959年12月16日 - 1963年12月15日)。名古屋学院大学初代学長。独自の観点で商学を体系化した「福田商学」で知られる。弟子は荒川祐吉。 1896年、大阪府大阪市東区で生まれた。大阪府立茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)、神戸高等商業学校(のちの神戸大学、1918年卒)、東京高等商業学校(のちの旧制東京商科大学、現一橋大学)専攻部に進学し、1920年に卒業。同期に平井泰太郎神戸大学名誉教授がいる。 神戸高等商業学校では田崎慎治ゼミナールに所属し、卒業論文のテーマは「海上保険における再保険の研究」であった。
森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日… 森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日 - 1992年(平成4年)11月21日)は、日本の哲学者・教育者。通称、しんぞう。 愛知県知多郡武豊町で父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で半田町(現・半田市岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる。 1907年(明治40年)、半田町立岩滑尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)卒業。1916年(大正5年)、愛知県第一師範学校(現・愛知教育大学)卒業。1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受ける。
広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-196… 広島 定吉(ひろしま さだきち、1896年9月22日-1964年9月17日)は、日本の経済学者。宮崎県出身。早稲田大学卒。マルクス主義の文献を翻訳した。戦後は日ソ親善協会常任理事、日ソ翻訳出版協会懇話会役員など。
武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954… 武田 キヨ(たけだ キヨ、1896年9月21日 - 1954年3月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 滋賀県滋賀郡膳所町(現大津市)生まれ。のち父の転勤で山口県に移り、山口女学校に通う。その後1919年に東京女子高等師範学校文科を卒業する。卒業後は広島県立呉高等女学校、旧制呉港中学校、呉商業学校各教諭や大正学園理事、東京八雲女学校長などを歴任、婦選獲得同盟中国支部長も務めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙に広島県から日本自由党公認で立候補して当選する。翌年の第23回衆議院議員総選挙でも再選。その直後に民主党に移籍した。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。1954年に脳溢血で死去した。
李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896… 李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896年9月17日 - 1968年8月18日)は、日本統治時代の朝鮮の医学者、医学教育者、大韓民国の政治家。第3代セブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)校長、制憲・第4・5・6代韓国国会議員、第5代民議院副議長を歴任した。 本貫は公州李氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウル市南大門出身。大邱仁南学校、啓聖高等普通学校、京城養正高等普通学校を経て、1926年にセブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)卒。京畿道小学校教員試験合格。1931年、東京帝国大学(現・東京大学)にて医学博士取得。以後セブランス連合医学専門学校教授、東京帝国大学医学部にて皮膚泌尿器科学について研究した。
谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 -… 谷 鼎(たに かなえ、1896年〈明治29年〉9月16日 - 1960年〈昭和35年〉7月15日)は、日本の歌人・国文学者。元大東文化大学教授。 父・谷鼎次郎、母・タツの長男として、小田原市にて出生。4歳まで小田原市で過ごし、中郡西秦野村千村(現在秦野市)の実家に戻り、幼少年期を過ごす。実家は大地主であり、鼎次郎は中郡の代議士を務め、白山神社の宮司も引き受けるなど地元の名士でもあった。 中郡西秦野村立尋常高等渋沢小学校に在学中、県下の作文コンクールにて「父母の恩」という題で入選。 少年時代より、文筆に優れ、神奈川師範学校(鎌倉師範)に進学した頃より、作歌を試む。鎌倉師範の同学年に詩人の八木重吉がいる。
村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月1… 村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。 槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した。
土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15… 土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1988年〈昭和63年〉8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13… 矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選富山県知事、陸軍司政長官。号は蓬矢。 大阪市出身。矢野治三郎の三男として生まれる。1919年、私立関西大学法律学科を卒業し桜セメントに入社。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年、内務省に入省し社会局嘱託となる。 以後、京都府愛宕郡長、警視庁事務官、青森県書記官・学務部長、千葉県書記官・警察部長、警視庁官房主事、岡山県総務部長などを歴任。 1938年4月、富山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1941年1月に休職となる。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令。
大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1… 大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1969年4月27日)は日本の電気技術者、実業家。日立製作所副社長を務めたほか、電気学会第47代会長、日本オペレーションズ・リサーチ学会第2代会長などを歴任した。 1896年(明治29年)9月13日、当時東京専門学校の教員であった哲学者大西祝の長男として東京府で生まれた。岡山で小中学校に通い、同期に岸信介がいた。1918年(大正7年)第六高等学校二部甲を卒業し、東京帝国大学工科大学電気工学科へ進学した。1921年(大正10年)に同大学を卒業し、日立製作所に入社。 日立製作所副社長を務めた高尾直三郎の海外渡航に随行するなど、経営を学んだ。日立での工場勤務のかたわら、1931年(昭和6年)7月には東北帝国大学工学部講師に任じられた。
河野 与一(こうの よいち、1896年(明治29年)9月12… 河野 与一(こうの よいち、1896年(明治29年)9月12日 - 1984年(昭和59年)7月6日)は、日本の哲学者・翻訳家。元東北帝国大学教授。 1896年、神奈川県で生まれた。神戸で育ち、神戸一中から東京帝国大学哲学科に進み、卒業。 卒業後は、暁星中学校に教諭として勤務。その後、第三高等学校教授、法政大学教授を経て、1927年に東北帝国大学助教授に就いた。1946年に教授昇格。戦後の1950年、東北帝国大学を退官して岩波書店の顧問として迎えられた。 多数の言語に通じ、フランス文学、哲学、西洋古典語を講じた。1957年、『プルターク 英雄伝』の原典訳で読売文学賞に選ばれたが、受賞を辞退した。
久野 豊彦(くの とよひこ、1896年〈明治29年〉9月12… 久野 豊彦(くの とよひこ、1896年〈明治29年〉9月12日-1971年〈昭和46年〉1月26日)は、日本の小説家、経済学者。 愛知県出身。慶應義塾大学卒。大正時代末から小説を書き、新興芸術派の一人。第二次世界大戦後、名古屋商科大学教授(経済学)。1967年(昭和42年)に定年退職。クリフォード・ダグラス(en:C. H. Douglas)に依拠して反マルクス主義の立場をとった。
大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)… 大石 光之助(おおいし こうのすけ、1896年(明治29年)9月9日 - 1971年(昭和46年)2月8日)は、日本の実業家。静岡新聞社初代社長。静岡放送創設者。 静岡県静岡市出身。浅吉の三男、あるいは磯吉の男。上京して徳富蘇峰の書生になる。徳富の国民新聞社に入社。欧米業界を視察する。 経営不振に陥っていた静岡民友新聞社の再建にあたる。1928年に総支配人となる。1941年に戦時新聞統合により県下6紙を統合して「静岡新聞」が創立されると初代社長に就任。 放送界にも進出し、1952年に静岡放送を設立、社長となる。1971年、駿府博物館設立。趣味は庭球、家庭菜園。住所は静岡市紺屋町、東京都目黒区平町。
数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8… 数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・村上。 本籍島根県。旧松江藩士・地方行政官、村上寿夫の二男として岡山県に生まれる。松江市北堀尋常小学校、松江中学校を卒業。海軍兵学校を志願したが、試験前の水泳で外耳炎となり身体検査で不合格となる。1915年2月、第一高等学校数学教授・数藤斧三郎の養子となる。第一高等学校第一部甲類を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月、内務省に入省し内務属となり警保局図書課に配属された。
佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日… 佐竹 晴記(さたけ はるき、1896年〈明治29年〉9月6日 - 1962年〈昭和37年〉4月24日)は、日本の政治家、弁護士。社会民衆党、社会革新党、民主社会党に属し、片山内閣では司法政務次官を務めた。 高知県高岡郡窪川町(現在の四万十町)に生まれる。窪川高等小学校を卒業後、窪川郵便局員、大連航路汽船の三等油差しなどに従事する。その後上京し、中央大学法科に学び弁護士試験に合格。24歳で弁護士として東京で開業したが、1923年(大正12年)、関東大震災のため高知市に帰り北奉公人町(現在の高知市上町)で再度開業した。 1929年(昭和4年)社会民衆党高知支部を結成および支部長となる。同年と1933年(昭和8年)に高知市会議員に当選した。