一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月… 一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1974年(昭和49年)3月15日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県下毛郡小楠村一ツ松(中津町を経て現中津市)で、一松嘉蔵の二男として生まれ、1936年(昭和11年)に分家した。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、特待生として東京高等商業学校に入学し、1916年(大正5年)に卒業した。 同郷の先輩磯村豊太郎の知遇を得て1916年に久原鉱業(現JX金属)に入社し、その後、久原商事(久原財閥)に転じた。英語に堪能で貿易業務を担当しニューヨーク支店長を務めた。帰国後、日本鉱業(現ジャパンエナジー)運輸部長に就任し、以後、久原財閥からの派遣で、日本汽船、樺太汽船、中山製鋼所などの取締役を兼務した。
津上 退助(つがみ たいすけ、1893年9月10日 - 19… 津上 退助(つがみ たいすけ、1893年9月10日 - 1974年7月4日)は、日本の技術者で実業家。津上製作所(現・ツガミ)創業者。
原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 … 原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1979年〈昭和54年〉2月15日)は、日本の声楽家、大正時代から昭和時代にかけて活躍した国際的オペラ・ソプラノ歌手。五十嵐喜芳、大谷冽子、増田晃久、久富吉晴、松浦知恵子、松島詩子、伊藤京子、宗孝夫等多くの歌手を育てた。 青森県八戸市大工町出身、幼少期に一家で上京する。1903年(明治36年)から三浦環に師事。東京音楽学校器楽科に入学。のちに声楽科に移るも中退し、その後ハンカ・ペツォールトやアドルフォ・サルコリに師事して声楽を修める。20歳の時、上海のヴィクトリア劇場で「蝶々夫人」に出演、歌手としてデビュー。 外遊のため退団した三浦環の後任として、帝国劇場歌劇部に入る。
曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen … 曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家、随筆家、歌人。 東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれた。本名は下田 喜七(しもだ きしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。東京美術学校卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展で褒状、1925年、二科展で樗牛賞を受賞、二科会、独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、同地で過ごした。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、両眼失明のため画家を廃業。
坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1… 坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1986年9月22日)は、日本の地球科学者。専門は、地質学・鉱物学・岩石学。
陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年… 陳 建功(チン・ケンコウ、1893年9月8日 - 1971年4月11日)は、中国の数学者。杭州大学副学長、中国数学会副理事長などを務めた。日本への外国人留学生初の理学博士号取得者。 浙江省紹興市出身。杭州の両級師範学校を経て、1913年から日本に留学し、1918年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)色染科卒業。並行して夜学に通い、1919年東京物理学校(のちの東京理科大学)数学科卒業。1923年東北帝国大学理学部数学科卒業。 1924年国立武昌大学教授。1926年東北帝国大学大学院に進学。外務省の対支文化事業の特選留学生に選定され、1929年には外国人留学生として初めて理学博士(東北帝国大学)の学位を取得した。
石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 19… 石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 1955年9月25日)は、日本の都市計画家。 都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。戦前期から戦後にかけて、都市計画分野最大のイデオローグであり、日本の都市計画発展に貢献した。 早くから地方計画・地域計画の重要性を認識し、「生活圏」の考え方を提唱、これを国土計画へ拡大する地方計画の考え方の基礎としていた。 長男の石川允も都市計画家として活動した。 1893年9月、山形県東村山郡尾花沢村(現尾花沢市)に根岸文夫の次男として生まれる。兄は根岸川柳名人根岸栄隆。6歳で母親の実家である石川家の養子になる。養父の石川銀次郎は実父の弟で(妻同士も姉妹)、日本鉄道の職員。
加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6… 加藤 成之(かとう よしゆき、1893年(明治26年)9月6日 - 1969年(昭和44年)6月30日)は、大正から昭和期の音楽教育者、音楽学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。日本での音楽史研究、音楽美学の開拓者の一人。 医師・加藤照麿の二男として東京で生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)11月2日、男爵を襲爵した。 1920年(大正9年)東京帝国大学文学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までフランス、ドイツに留学する。帰国して、東京美術学校講師、東京高等音楽院講師、女子美術専門学校講師、東北帝国大学法文学部講師などを務めた。
伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 196… 伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 1967年10月30日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 兵庫県神戸市生まれ。1920年早稲田大学英文科卒。1924年新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、のち文芸春秋系の作家となる。その後児童文学界の重鎮となり、『西遊記』の再話などで知られた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - … 下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - 1955年1月31日)は、日本の作家。 茨城県信太郡朝日村(稲敷郡朝日村を経て、現在の阿見町)生まれ。1908年、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)へ進む。1919年、早稲田大学英文科卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者となるが同年12月に退社し、文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。1923年、結婚を機に東京市役所労務課翻訳係に就職するが、8ヵ月で退職して再び作家生活に入る。主に『赤い鳥』などに童話を発表した。 昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」(『中央公論』1930年7月)で有名となり、「ルンペン小説」の作家として有名となる。
柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉… 柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉9月2日 - 1993年〈平成5年〉11月18日)は、日本の実業家。日本航空初代社長を務めた。 栃木県足利町(現足利市)に生糸商・柳田武一郎、さとの次男として生まれる。 高等科2年を終えた、数え年で13歳のとき、上京して諸井時三郎の養子となった。諸井時三郎の妻くらは母さとの妹である。 京華中学校、第一高等学校を経て1917年(大正6年)4月に東京帝国大学を卒業するとともに、日本銀行へ入行する。 1942年(昭和17年)5月に日銀理事となり、1945年(昭和20年)10月に日銀副総裁に就任。しかし、国の外資事業の責任者であったことから、1946年(昭和21年)6月に公職追放を受け、日銀を去る。
西岡 広吉(廣吉、にしおか こうきち、1893年 <明治26… 西岡 広吉(廣吉、にしおか こうきち、1893年 <明治26年> 9月2日- 1961年 <昭和36年> 3月22日)は、日本の内務官僚、政治家。公選による初代の岡山県知事を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 1893年、山口県柳井市で生まれる。1924年に東京帝國大学(現・東京大学)を卒業し、官選の岡山、福岡県知事を務めた。1947年の第一回岡山県知事選挙に当選。同年12月に岡山県内で行われた昭和天皇の戦後巡幸では、随行役を務めた。その後は、県知事を1期4年務めた。1961年3月22日、胃癌のため67歳で逝去。死没日付をもって正五位から従四位に進階し、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 197… 佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 1975年2月17日)は、大正時代から昭和時代の鉱山学者。専門は採鉱学。工学博士。位階は正三位。 北見工業大学初代学長。北海道大学および北見工業大学の名誉教授。栃木県下都賀郡部屋村(のち藤岡町、現在の栃木市)出身。門下生に石濱渉・木下重教・磯部俊郎など。 第一高等学校卒業。1919年東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。1919年三菱鉱業に入社。1923年新設される北海道帝国大学工学部の教員就任を見込んで、三菱鉱業を退社。文部省留学生として、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスで留学。1925年北海道帝國大學工学部教授。1957年北海道大学停年退官。
黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 … 黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 - 没年不詳)は、日本の警察官、政治活動家(右翼団体「七生義団」団員)、テロリスト、日雇い労働者。柿原尋常小学校卒。徳島県阿波郡柿島村(現在の阿波市の一部)出身。 黒田種三郎の二男。柿島村に生まれた。種三郎は村会議員であった。小学校での成績は優秀で、旧制中学への進学を勧められたが、家業が傾き進学は叶わなかった。そこで中川菊太郎校長の斡旋で村役場の給仕になったが、1909年(明治42年)、後任の校長になった大塚忠衛に勧められ、二人で朝鮮に渡った。大塚の紹介で雑貨店員となったが、まもなく退職し、各地を転々として人夫などをしていた。門司で運送業者「木村組」(暴力団の木村組とは無関係)の世話になったことで、後年木村組の組織する右翼団体「七生義団」に関わることになる。
20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26… 20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26年〉9月 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の実業家、政治家。長野県諏訪市長(初代)。旧名は宮坂登。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に、酒造業「大布屋」第19代宮坂伊兵衛有紹の長男として生まれる。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、早稲田実業学校卒業。家業・宮坂伊兵衛商店、高島銀行で勤務。1921年(大正10年)第20代伊兵衛を襲名し、高島銀行頭取に就任。翌年以降、合併先の第六十三国立銀行、八十二銀行の監査役を務めた。1933年(昭和8年)法人化した宮坂醸造の初代社長となる。その他、諏訪倉庫監査役、昭和倉庫監査役なども務めた。
秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980… 秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980年6月7日)は、日本の哲学者。専門は道元の禅の研究。元滋賀大学学長事務取扱。滋賀大学名誉教授。 1893年(明治26年)香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)に秋山清七(柞田村第6代村長・1906-1918年在任)の長男として生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学哲学科卒業。1920年(大正9年)旧制滋賀県立八幡商業学校教諭。1923年(大正12年)彦根高等商業学校開校に合わせ着任、1924年(大正13年)教授就任。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)までドイツに留学する。
平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 -… 平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 - 1969年(昭和44年)11月25日)は、大正後期から昭和前期の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県出身。平義光の三男として生まれた。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し管船局属となる。その後、内務省に転じた。 1919年(大正8年)警視庁警視となる。以後、警視庁保安部保安課長、谷中警察署長、外神田警察署長、群馬県内務部地方課長、同学務課長、帝都復興院及び復興局経理部倉庫課長兼購買課長、岡山県学務部長、千葉県学務部長などを歴任。
岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月30日 - 194… 岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月30日 - 1944年10月16日)は、宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。 宝塚歌劇団で日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。父親はジャーナリストの岸田吟香、兄は洋画家の岸田劉生。妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ。 1892年(明治25年)、明治の先覚者、岸田吟香の五男として東京市銀座に生まれる。すぐ上の兄が「麗子像」で有名な洋画家の岸田劉生。7男5女の兄弟の中で、2人は特に仲が良かったため、交流が深く、劉生作の肖像画が残っている(岸田辰弥之像:1929年(昭和4年)作、劉生が日本で描いた最後の肖像画)。 岸田は、1919年(大正8年)小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー・男子専科生第2期生として宝塚入り(同期には後輩演出家の白井鐵造もいた)。
川村 善八郎(かわむら ぜんはちろう、1892年〈明治25年… 川村 善八郎(かわむら ぜんはちろう、1892年〈明治25年〉9月30日 - 1971年〈昭和46年〉8月11日)は、大正・昭和期の漁業経営者、政治家。衆議院議員(4期)。 北海道茅部郡、後の森村(現森町)で漁師の家に生まれる。高等小学校を卒業し、漁業を経営した。26歳で森村会議員に当選し森町会議員を含めて4期在任。1936年(昭和11年)北海道会議員となった。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第3区から自由党所属で出馬して初当選。その後、第27回総選挙まで連続5回当選。第28回総選挙では落選したが、1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙では当選。1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙では次点で落選し、衆議院議員を通算6期務めた。
阪谷 俊作(さかたに しゅんさく、1892年9月27日 - … 阪谷 俊作(さかたに しゅんさく、1892年9月27日 - 1977年2月15日)は、日本の司書、名古屋図書館館長。子爵・阪谷芳郎の次男。兄に子爵阪谷希一。母は渋沢栄一(子爵、実業家)の次女・阪谷琴子。母方の従兄弟に渋沢敬三、穂積重遠がいる。義父に八十島親徳。 1892年(明治25年)9月27日、阪谷芳郎と妻琴子の次男として生まれる。幼少の頃より祖父・栄一の影響を受け、読書を好むようになる(栄一も論語を愛読書とする読書家であった)。 京都帝国大学を卒業(なお、従弟である渋沢信雄も京都帝国大学を卒業している)、卒業後は幼少の頃からの読書好きを活かし東京帝国大学図書館事務嘱託として勤務する。同図書館館長である和田万吉の推薦により名古屋市に招かれ、市立名古屋図書館(現・名古屋市鶴舞中央図書館)の初代館長となった。
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉… 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 1892年(明治25年)9月25日、住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である。 石川県師範学校附属小学校を経て、大阪天王寺中学校を卒業。 草鹿龍之介著「一海軍士官の半生記」によると石川師範学校附属小学校時代には、陸軍中将青木重誠(陸士25期首席)と同級であり成績は草鹿が1番で青木が2番だったと回想している。
森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日… 森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日 ‐ 1955年(昭和30年)8月6日) は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林町長。由巳雄と表記される場合がある。 宮崎県西諸県郡小林村(小林町を経て現小林市)で、森長興の長男として生まれた。旧制宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 司法官試補に任官し東京地方裁判所で勤務。1921年(大正10年)弁護士を開業した。宮崎市会議員、宮崎県会議員、小林町長に在任。その他、小林町農会長、同農業会長なども務めた。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月… 中嶋 勝一(なかしま かついち、1892年(明治25年)9月23日 - 1965年(昭和40年)9月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。中島と表記する事例がある。 山口県玖珂郡川越村(周東町を経て現岩国市周東町)で、中嶋佐吉の長男として生まれる。小学校を卒業した。 下関唐戸乾物商業組合理事、日満大豆製粉工業取締役社長、中嶋重石鉱業取締役社長、日満食品工業取締役社長、仁田鉱山取締役などを務めた。 政界では、下関市会議員に選出され、同副議長も務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で山口県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、民主党山口県支部長などを務めた。
川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月… 川村 直岡(かわむら なおおか、1892年(明治25年)9月20日 - 1963年(昭和38年)1月4日)は、台湾総督府官僚、陸軍司政長官。 鹿児島県出身。1918年(大正7年)に高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。拓殖局属を経て、1921年(大正10年)に台湾総督府事務官となり、専売局煙草課長、樟脳課長、庶務課長、殖産局特産課長、総督官房文書課長・調査課長、殖産局山林課長・鉱務課長、台南州内務部長、総督官房審議室勤務・調査課長などを経て、1936年(昭和11年)に台南州知事に就任した。その後、台北州知事、拓務省拓南局長を歴任し、1941年(昭和16年)に退官した。 1942年(昭和17年)、陸軍司政長官となり、ベンクレン州長官、ペラ州長官を務めた。
久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9… 久芳 庄二郎(くば しょうじろう、1892年(明治25年)9月20日 - 1965年(昭和40年)7月31日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・山本。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)で山本家に生まれ、久芳安之進の養子となる。1912年(明治45年)山口県師範学校を卒業した。 その後、山口県視学、公立国民学校訓導、同校長、萩市青年団長、萩市女子青年団長、山口県青年学校教育会理事長、日本体育会山口県支部評議員、日本教育会山口県支部国民学校教育部会長、光市島田農業協同組合長などを務めた。山口市内の小学校で教員として勤務していた大正時代後期には、山口県阿武郡を拠点とする教育実践グループ「更新会」に所属し、機関紙「更新」においてエッセイを寄稿するなど活動に参画していた。
松月 秀雄(まつづき ひでお、1892年9月18日 - 19… 松月 秀雄(まつづき ひでお、1892年9月18日 - 1993年)は、日本の教育学者。文学博士。東京理科大学学長。
山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1… 山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1963年7月31日)は、日系ブラジル人社会で活躍した農業家。戦後混乱期のブラジル日系人社会/日系コロニアをまとめた人物。コロニア天皇とまで云われた実力者でブラジル日系人社会で知らない人はいない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で、母校東京大学から農学博士を授与をうけている。 芥川龍之介の妻文の母方の叔父で、芥川とは旧制東京府立第三中学校時代の親友であった。 東京生まれ。1905年、東京府立第三中学校に入学。1910年、旧制第一高等学校に不合格となり慶應義塾大学部理財科予科に進学したが、翌年再受験して二部乙類に合格する。その後東京帝国大学農学部に進学し、原煕に師事。
久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治… 久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治25年〉9月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士、久能木法律事務所主、会社役員。関東興業監査役。 東京府人・久能木宇兵衛の二男。久能木宇兵衛の弟。鈴木信太郎、團伊能、山田珠樹らと共に構想し、1917年、『攻魂珠』が創刊される。東京高師附属中学、第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。事務所を設立し、開業する。一般の法律事務に従事する。 趣味は乗馬、釣り。宗教は浄土宗。住所は東京日本橋室町2丁目。
朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14… 朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山口県玖珂郡新庄村(柳井市)出身。宮本鶴松の二男として生まれ山口県朝倉林助の養子となった。石川県立七尾中学校を経て、1914年(大正3年)に上田蚕糸専門学校養蚕科を卒業。長野県吏員、山口県養蚕取締吏員、富山県立農学校教諭、岐阜県安八農学校教諭を務めた。1924年(大正13年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学経済学部を卒業した。朝鮮総督府に入り、慶尚北道保安課長、京畿道保安課長、警務局事務官、慶尚南道産業課長、平安北道財務部長を経て、1934年(昭和9年)に鎮南浦尹に就任した。 その後、平壌専売支局長、平壌地方専売局長を務めた。
栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 194… 栗栖 猛夫(くりす たけお、1892年9月14日 - 1945年7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。山口中学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。 1927年(昭和2年)3月、新潟中学校配属将校となり、歩兵第16連隊中隊長、歩兵第15旅団副官などを経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍少佐に昇進し陸軍歩兵学校副官となる。同校教官、第3師団参謀、第5独立守備隊参謀などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍大佐に進み豊橋陸軍予備士官学校歩兵生徒隊長に就任。1941年(昭和16年)3月、歩兵第220連隊長となり日中戦争、太平洋戦争に出征。
小笠原 省三(おがさわら しょうぞう、1892年9月14日 … 小笠原 省三(おがさわら しょうぞう、1892年9月14日 - 1970年11月12日)は、神道学者。 青森県南津軽郡藤崎村(現・藤崎町)生まれ。1902年國學院大學教習科卒業。1922年神道評論社創立。『神道評論』創刊。1937年海外神社問題研究会設立。1938年夏北京神社奉斎会設立。1947年海外神社史編纂会発足。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
春藤 真三(しゅんどう しんぞう、1892年9月13日 - … 春藤 真三(しゅんどう しんぞう、1892年9月13日 - 1964年10月29日)は、日本の都市計画家、土木技術者。大分県生まれ。 旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。同級に青木楠男、石川栄耀らがいた。卒業後、民間会社勤務の後に工務所を自営。1923年(大正12年)の関東大地震を機に帝都復興院技師となる。土木部道路課勤務。 1925年(大正14年)には東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1927(昭和2)年 欧米視察。1928年(昭和3年)、内務省復興局長官官房計画課に勤務する。1929年(昭和4年)から1938年(昭和13年)まで、神奈川県土木部道路課長を振出し、富山県、栃木県、岐阜県の上水課長を歴任。
諏訪 務(すわ つとむ、1892年〈明治25年〉9月12日 … 諏訪 務(すわ つとむ、1892年〈明治25年〉9月12日 - 1979年〈昭和54年〉6月5日[要出典])は、日本の外交官、朝鮮総督府官僚。 山形県出身。1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験にも合格した。富山税務署長を経て、1920年(大正9年)に外務事務官に転じ、条約局第一課・臨時平和条約事務局勤務、三等書記官、二等書記官、メダン領事館勤務、トルコ公使館一等書記官、オーストリア公使館一等書記官、ハンガリー公使館一等書記官を歴任した。 その後、朝鮮総督府に移り、外事部長、専売局長を務め、1942年(昭和17年)に退官した。
田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月1… 田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月11日 - 1983年(昭和58年)11月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡村松町(現五泉市)で素封家・田代兼次の三男として生まれる。新潟県立新潟中学校を経て、1915年、農林省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業した。 その後、佐渡島で漁業に従事。1916年、青森県技手に就任。1919年、日魯漁業の平塚常次郎に見いだされ同社に入社。函館製網船具 (株) に転じて新川工場長に就任し漁網の改良に従事。1931年に独立して漁網漁具製造販売業を営んだ。また、函館産業社長、函館青果卸売市場社長、北海道方面委員、函館地方裁判所調停委員、函館調停協会理事などを務めた。
千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 195… 千賀 康治(せんが こうじ、1892年9月11日 - 1956年2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県会議員(3期)、岡崎市会議員(4期)などを歴任した。横に大きく伸びた口ひげから「おひげさん」の愛称で親しまれた。 愛知県額田郡岡崎町連尺(現・岡崎市)で木綿問屋を営む千賀伝三郎の五男として生まれる。愛知県第二師範学校附属小学校、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。木綿織物業に従事する。 1928年(昭和3年)10月5日に行われた岡崎市会議員選挙に立候補し初当選。千賀は立憲民政党の岡崎支部である岡崎民政倶楽部に属していたが、当選の翌月、他の若手の民政党員と共に分派し岡崎民政青年団を結成した。
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - … 鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。正五位勲二等瑞宝章。 熊本県下益城郡小川町(現・熊本県宇城市小川町)生まれ。小川小学校、八代中学校卒業。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)海軍兵学校に入学する。 1914年(大正3年)海軍兵学校を卒業(42期)し、海軍少尉候補生となり阿蘇乗組。1918年(大正7年)水雷学校普通科を卒業し、同年12月に砲術学校学生教程を卒業する。1920年(大正9年)海軍大尉に任ぜられ、翌年の1921年(大正10年)には水雷学校高等科を卒業する。
村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)… 村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)9月10日 - 1978年(昭和53年)12月31日)は、日本の実業家である。三井物産の社長を務めた。 愛知県に生まれ、東京高等商業学校(後の東京商科大学、現在の一橋大学)に入学する。1917年(大正6年)に卒業後は三井物産に入社し、シドニー支店の会計課長や神戸支店営業部の会計課長、福岡支店長、本店整理部長等を歴任した。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に取締役経理部長となり、後に常務を務める。 同年には同社が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から解散命令を受け、清算人にあたった。その後は日東倉庫の社長に就任し、1953年(昭和28年)には大合同直前の三井物産の社長を務める。
飯田 憲二(いいだ けんじ、1892年9月10日 - 198… 飯田 憲二(いいだ けんじ、1892年9月10日 - 1983年5月15日)は、日本の柔道家(講道館8段・大日本武徳会教士)。 通信教育と独学で柔道を学んだ後に海軍で本格的に柔道を稽古し、全日本選士権大会や講道館の月次試合、春秋紅白試合等に出場・活躍した。また、少年柔道の普及と振興に腐心して全日本柔道少年団の発足に尽力し、今日の青少年柔道の発展に大きく貢献した事でも知られる。 1892年、北海道浦河郡浦河町の専業農家の家に生まれる。高等小学校を卒業後は笈を負っての上京を望んだが両親の反対で実現せず、代わりに、板垣退助を会長に据え野口清が主宰する帝國尚武會に入会。自宅の馬小屋を改造して小さな柔道場を作り、同会の通信講座を基に独学で柔道修行に励んだ。
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月… 須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年〈明治25年〉9月9日 - 1970年〈昭和45年〉4月30日)は、日本の外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。 外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。 この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。
尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978… 尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978年8月6日)は日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専や講道館で修業したのち選手として昭和天覧試合や全日本選士権大会等で活躍する一方、指導者としては大日本武徳会や三重県警察部を経て生まれ故郷の山形に道場を構え多くの門人をの育成に当たり、山形柔道界の大家と知られた。 山形県山形市は宮町3丁目の生まれ。山形第三小学校高等科2年の頃、叔父が柔術の先生をしているという小柄な友人西村辨蔵が休み時間に体操場で五六人を前に見様見真似で大柄な友人三沢栄助に後ろから両手で抱き着かせたのを外し投技を仕掛けたところ、大きい体が風車の様に飛んで地響きをうって転倒し目を廻しながら気絶してしまい友人一同びっくり仰天。
渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9… 渥美 清太郎(あつみ せいたろう、1892年(明治25年)9月9日- 1959年(昭和34年)8月20日)は、日本の演劇研究者、評論家である。筆名は鈍太郎、今谷久平。 東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)七軒町に生まれる。幼年期より、演劇や歌舞伎等の芝居に興味を持ち、独学で脚本や資料を研究した。郁文館中学校卒業後、青山学院高等部に在学する傍らに、上野図書館(現在の国際子ども図書館)に勤務する。 1911年(明治44年)に演芸画報社に入社し、雑誌『演芸画報』の編纂に携わった。1943年(昭和18年)に廃刊するが、同年その後継である『演劇界』の編纂にも携わった。その後は、歌舞伎や日本舞踊、琴や尺八等の邦楽を研究し、多くの著書や辞典を刊行した。
9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1… 9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名∶高安 留吉。生前は落語協会所属。定紋∶結三柏。出囃子∶『野崎』。通称「留さん(文治)」。 東京日本橋小伝馬町の生まれ、実家は魚屋。十思小学校を卒業。1904年、錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。 1915年に橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵を名乗る。1918年12月、7代目翁家さん馬門下に移って翁家さん好と改名する。後に初代立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなり、1921年大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。
川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月… 川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月6日 - 1950年(昭和25年)10月2日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長。 旧高田藩士の家に生まれる。旧制高田中学校から第四高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学政治科卒。さらに1921年(大正10年)東京帝国大学法律科を卒業した。卒業後は帰郷し、高田市で弁護士事務所を開業した。1924年(大正13年)高田市学務委員に任じられ、同年暮れに高田市会議員に当選した。1931年(昭和6年)には新潟県会議員に当選し、1939年(昭和14年)には市会議長に就任した。 1945年(昭和20年)高田市長中川潤治が召集され、市長が空席となったため、市会は市会議長の川上を推薦し、5月30日に正式に就任した。
関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年… 関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年2月13日 )は、日本の電気工学者、社会事業家、工学博士、専門は照明工学。「照明の父」といわれる。 広島県出身(本籍は神奈川県小田原市)。海軍少将関重忠(1863-1945)の子。母は男爵渡辺清の娘文子(1872年生)。祖父は小田原藩士で、幕末の佐幕運動家関重麿。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。母が早くに亡くなり、父の後妻として佐賀藩士から官僚になった西岡逾明(1835-1912)の娘・喜美子が入った。 東京芝浦電気(現・東芝)に入社し、日本で初めて蛍光灯照明を開発し、その実用化を成功させる。戦後、関東学院大学教授をつとめる傍ら、妻真理子の伯父石井亮一が創立し、実の伯母石井筆子が学園長をつとめた日本初の知的障害者教育・福祉施設滝乃川学園の理事長(第6代)に就任、13年間つとめた。
丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年… 丸尾 彰三郎(まるお しょうざぶろう、1892年(明治25年)9月4日 - 1980年(昭和55年)7月24日)は、昭和期の日本の美術史家 、美術評論家 。専門は日本彫刻史。 1892年(明治25年)9月4日、岡山県に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文科大学美学美術史科を卒業。1921年(大正10) 文部省図書館員教習所講師、翌年1922年(大正11)文部省古社寺保存計画調査嘱託、1930年(昭和5年)帝国美術院附属美術研究所事務嘱託、その間に東京女子高等師範学校、東京女子大学、慶応義塾大学の講師をつとめ、1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)まで文部省国宝鑑査官を務めた。
延原 謙(のぶはら けん、本名読み:ゆずる、1892年9月1… 延原 謙(のぶはら けん、本名読み:ゆずる、1892年9月1日 - 1977年6月21日)は、日本の編集者、翻訳家。シャーロック・ホームズなど探偵小説の翻訳で知られる。別名に小日向 逸蝶。 妻は劇作家・フランス文学者岸田國士の妹の勝伸枝。 1892年9月1日、京都で生まれた。父は竹内(旧姓馬場)種太郎、母は竹内文で、謙は二男である。父の種太郎は謙出生の翌年に死去し、母と兄とともに暮らすことになった。この際、戸籍上では母方の祖母の妹の養子となり、姓は延原となった。母の文は学校教師をしながら下宿屋を営み生計を立てた。1894年、母と兄とともに、母の実家である岡山県津山に引っ越した。1899年、文は津山に女学校を建て英語などを教えつつ2人の息子を育てた。
三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1… 三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1979年7月14日)は、日本の経営者、銀行家。常陽銀行頭取を務めた。東京都出身。 1914年に東京高等商業学校を卒業。 川崎銀行での勤務を経て、後に常盤銀行(のちの常陽銀行)に転じ、1929年に取締役に就任し、1935年に常務、1948年に専務を経て、1948年10月に副頭取に就任し、1958年6月には頭取に昇格。1967年11月には会長に就任。 その他、茨城県商工会議所連合会会長、茨城県商工経済会会長、茨城文化団体連合会会長なども務めた。 1979年7月14日冠硬化症のために死去。87歳没。
松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 196… 松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 1969年7月22日)は、日本の小説家。旧名は松岡 善譲(ぜんじょう)。 新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派松岡山本覚寺の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。 本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。久米正雄、山本有三、菊池寛、佐野文夫ら学友と1914年に第3次『新思潮』、1916年に第4次『新思潮』を創刊した。寺院を継ぐことを拒否し、かねてから筆名として用いた譲を戸籍名とした。
鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月2… 鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月27日 - 1945年(昭和20年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。愛知県出身。陸士24期、陸大31期。 太平洋戦争開戦時、第25軍参謀長としてマレー作戦・シンガポールの戦いに参画、占領後に起きたシンガポール華僑粛清事件に関与した。第35軍司令官であった1945年(昭和20年)4月19日、フィリピン戦線で戦死。没後陸軍大将に進級。1946年(昭和21年)2月15日、祭資並びに幣帛が下賜された。