高橋 貞二(たかはし ていじ、1926年10月20日 - 1… 高橋 貞二(たかはし ていじ、1926年10月20日 - 1959年11月3日)は、日本の俳優。本名は高橋貞次。愛称は貞ちゃん。 東京府南葛飾郡奥戸村大字曲金(現・東京都葛飾区高砂)出身。 日本映画学校卒業後、1945年に松竹に入社。翌1946年、映画『物交交響楽』でデビュー。佐田啓二(中井貴一の父)、鶴田浩二と共に「松竹大船の三羽烏」と言われ、松竹映画の主力男優の1人として多くの作品に出演した。 1959年2月に結婚。同年11月3日22時40分頃、神奈川県横浜市西区の横浜駅前において、自ら飲酒運転するメルセデス・ベンツ300Sクーペのハンドル操作を誤り、横浜市電(第7系統中央市場発浦舟町止まり終車。
東 千代之介(あずま ちよのすけ、1926年8月19日 - … 東 千代之介(あずま ちよのすけ、1926年8月19日 - 2000年11月9日)は、日本の俳優・日本舞踊若菜流の家元。 本名、若和田 孝之(わかわだ たかゆき)。東京府出身。 長唄の六代目杵屋弥三郎の子。七代目坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学ぶ。暁星学園を経て、1949年(昭和24年)東京音楽学校(現・東京藝術大学)邦楽科卒業。1954年(昭和29年)東映に入社し、『雪之丞変化』でデビュー。端整な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えた。1960年代半ば、時代劇の衰退に伴い当時の東映京都撮影所長・岡田茂が時代劇を切り捨て、任侠路線に急転換したため、これに反撥して、中村錦之助(萬屋錦之介)、里見浩太朗らと1965年に東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成し副代表になった。
安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24… 安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - 2015年(平成27年)12月16日)は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡(のちに東京市淀橋区)東大久保天神下(現・東京都新宿区新宿6丁目)出身。 サラリーマンの三男一女の長男として大久保天神下で生まれる。小学3年時に6年の番長を刺し学校を制圧。神奈川県川崎市立川崎中学校に進学するも喧嘩に明け暮れ、濡れ衣を着せられ、15歳で調布市の感化院に入れられる。旧制中学校時代は転校を繰り返し、父の満州転勤に伴い16歳のとき満州に渡り、奉天第一中学校に進学。同校退学後内地へ戻り、京王商業転入。不良学生を束ねて加納貢と意気投合し兄弟分になる。
市村 美津子(いちむら みつこ、1926年5月5日 - 没年… 市村 美津子(いちむら みつこ、1926年5月5日 - 没年不詳)は、日本の元子役、女優である。本名は松田 光子(まつだ みつこ)。 1926年(大正15年)5月5日、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)出身。1930年(昭和5年)3月、3歳で松竹蒲田撮影所に入社、小津安二郎監督の『その夜の妻』でデビューする。1931年(昭和6年)の『マダムと女房』に渡辺篤と田中絹代の娘役で出演し注目を集める。1932年(昭和7年)の『残されたお菊ちゃん』では主演を務めるなど、数々の作品で活躍。蒲田名子役の一人となる。 1938年以降は出演記録が無く、1940年(昭和15年)に退社。1943年(昭和18年)の『愛機南へ飛ぶ』に端役で出演しているが、その後の消息は不明である。
中条 静夫(ちゅうじょう しずお、1926年〈大正15年〉3… 中条 静夫(ちゅうじょう しずお、1926年〈大正15年〉3月30日 ‐ 1994年〈平成6年〉10月5日)は、日本の俳優。本名、中條 靜雄(読み同じ)。 東京府八王子市出身。東京府立第二商業学校(後の東京都立第二商業高等学校)卒業。田上事務所に所属していた。 新聞記者の父がもうけた二男二女の長男として静岡で生まれる。名の静雄は生誕の地名・静岡の一字からとられたものだという。小学生の時、父の仕事の都合で上京(新宿から八王子へと移る)。1943年12月、東京府立第二商業学校を繰り上げ卒業して兵役につき、1945年9月に復員。従軍当時の上官から「学生のくせに名前がチュウジョウ(中将)とは何事か、お前がチュウジョウなわけがない、お前はナカジョウだ」と理不尽な説教をされてたびたび殴られたと後年テレビインタビューで述懐している[要出典]。
堺 左千夫(、1925年〈大正14年〉9月8日 - 1998… 堺 左千夫(、1925年〈大正14年〉9月8日 - 1998年〈平成10年〉3月11日)は、日本の俳優。東京都出身。本名は阿部 幸男。新星プログループに所属していた。 1925年9月8日、東京市の電気商の息子として生まれる。東京市立浅草工業専修学校卒業。 第1期東宝ニューフェイスの試験に合格し、東宝に入社。三船敏郎、伊豆肇とは同期である。 1947年、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』でデビュー。以降、黒澤、岡本喜八、稲垣浩ら、東宝の監督の作品に常連として多数出演。若大将シリーズの敵役「赤まむし」役などの脇役俳優として知られる。飄々とした演技を得意とした。 撮影所仲間からは「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。
大泉 滉(おおいずみ あきら、1925年1月1日 - 199… 大泉 滉(おおいずみ あきら、1925年1月1日 - 1998年4月23日)は、日本の俳優・声優。身長165cm。血液型はO型。左利き。
三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 19… 三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、日本の俳優・演出家・コメディアン。日本喜劇人協会第5代会長。本名は田沼 則子()。長男は、コメディアンの小林のり一。 東京市日本橋区浜町(現:東京都中央区日本橋浜町)生まれ。母は待合「芳柳」を営んでいた。 1942年、旧制日本大学第一中学校を卒業。日本大学法文学部芸術学科に入学し、同期生には映画科に小沢茂弘・沼田曜一がいた。大学には当初画家を目指して入学したが、その後舞台美術に興味を持ったことで演劇学科に転籍し、1947年に同学科を卒業。 その後慰問公演の俳優に欠員が出てその穴埋めとして出演を頼まれたのを機に、新劇の世界に入ることになった。
久米 明(くめ あきら、本名:同じ、1924年2月8日 - … 久米 明(くめ あきら、本名:同じ、1924年2月8日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。元日本大学芸術学部教授。1992年紫綬褒章。
鮎川 浩 (あゆかわ ひろし、1924年1月9日 - )は、… 鮎川 浩 (あゆかわ ひろし、1924年1月9日 - )は、日本の俳優。本名・熊木 中庸(くまき ちゅうよう)。
太宰 久雄(だざい ひさお、1923年〈大正12年〉12月2… 太宰 久雄(だざい ひさお、1923年〈大正12年〉12月26日 - 1998年〈平成10年〉11月20日)は、日本の俳優。大宰 久雄と表記されることもある。 映画『男はつらいよ』シリーズのタコ社長(桂梅太郎)役で有名な俳優である。同映画において渥美清演じる車寅次郎との掛け合いは見所のひとつであった。 東京市浅草区千束町(現在の東京都台東区浅草千束)出身。浅草の荒物雑穀商、海苔問屋・佐野屋の息子として生まれる。タコ社長役で見られた髪型は、父・久吉をモデルにしたもので、当時の浅草の海苔問屋の商人たちの間で流行っていた髪形であるといわれている。この独特のウェーブは魚の鯔の背中の姿を模しているため、イナセと呼ばれる江戸時代に流行ったスタイルでもあった。
鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月… 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2017年〈平成29年〉2月13日)は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。
小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日… 小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日 - 2001年〈平成13年〉12月13日)は、日本の俳優。本名は中村 俊男(なかむら としお)。 東京市荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。正則英語学校(現・正則学園高等学校)中退。たむらプロ、岩崎事務所に所属していた。 1946年に文芸劇場に入団。1955年に劇団葦の結成に参加。その後はフリーとなり、味のある名脇役として数多くの映画、テレビドラマに出演した。 2001年12月13日、肺炎のため死去、78歳没。
金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27… 金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1995年〈平成7年〉1月20日)は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。母方の祖父は元彰義隊で、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという。歯科医の家庭に生まれたが、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育ち、京華学園を卒業。 役者に興味はなく、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする。
桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、… 桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、1922年8月16日 - 1983年9月4日)は、昭和期の俳優・演出家。元劇団民衆舞台所属。2男1女あり、長男は桑山正道(舞台監督・舞台プロデューサー)、次男は桑山和之(映画プロデューサー)。 東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。1943年に日本映画学校演技科を卒業し、戦争中は砲兵隊に所属して終戦時には仏領インドシナ(現ベトナム)で武装解除になり捕虜となる。戦後、帰国後しばらく自由労働者をした後、木下順二が主宰する劇団「ぶどうの会」に参加。劇団の創立メンバーとして、看板女優・山本安英の主演による『夕鶴』の与ひょう役をはじめ数々の舞台に出演した。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 20… 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。
大村 千吉(、1922年〈大正11年〉4月27日 - 199… 大村 千吉(、1922年〈大正11年〉4月27日 - 1991年〈平成3年〉11月24日)は、日本の俳優。本名は大村撰吉(読み同じ)。旧芸名は大村仙吉。 東京市(東京都)出身。エヌ・エー・シーに所属していた。 1922年4月27日、東京市深川で、寄席の芸人であり俳優の東家梅之助の息子として生まれる。深川明治尋常高等小学校卒業。 1933年公開の映画『少年忠臣蔵』に子役で出演。これが映画デビュー作である。 1934年にP.C.L.(現在の東宝)に入社。同年公開の映画『あるぷす大将』にて主演。本名と同じ音の芸名「千吉」はこの『あるぷす大将』の出演時に監督山本嘉次郎につけられたもので、『少年忠臣蔵』時には本名のままであった。
東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1… 東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1997年11月16日)は、東京都世田谷区出身[要出典]の俳優。劇団3◯◯(さんじゅうまる)に所属していた。本名は、新妻東一。 若い頃は陸軍戦闘隊に入隊、戦前に3回墜落し、一命をとりとめたことがある。戦後は航空自衛隊のテストパイロットになり、定年で退官、その後も民間アクロバットチームを編成して飛行を続ける。妻の経営するおでん屋でアルバイトをしていた渡辺えり子と知り合ったのがきっかけで芝居に関心を持ち、1982年(昭和57年)渡辺主宰の劇団3◯◯公演で舞台に初出演した。 大森一樹監督作品に多く起用された。また、日本人の父とフランス人の母とのハーフのため外国人風の容姿であり、『ゴジラvsキングギドラ』、NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』などの諸作品で外国人の役を演じる機会も多かった。
長島 隆一(ながしま りゅういち、1922年1月29日 - … 長島 隆一(ながしま りゅういち、1922年1月29日 - 没年不明)は、日本の俳優。東京府北豊島郡南千住町(現:東京都荒川区)出身。 旧芸名・別名は長島 隆二、長嶋 隆一。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920… 市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920年12月20日 - 1983年8月9日)は、昭和期の俳優。旧東京市(東京都)出身。「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。クレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇の名付け親としても知られる。 東京府立第五中学校卒。日本医師会勤務を経て1938年、日劇ダンシングチームに入団。戦後の1946年、南里文雄らの「南里文雄とホットペッパーズ」でピアニストを務める。 1951年9月21日に上映された映画『花嫁蚤と戯むる』(製作:ラジオ映画、配給:東映)で俳優デビュー、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。映画ではフランキー堺主演の作品に多数出演した。
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - … 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。 3人兄弟で、長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。 1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう … 伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう よしろう)、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本の俳優。「ゆうのすけ」は雄之助・雄之弼・侑之助でクレジットされている映画もある。 兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。 1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 … 池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 - 2010年〈平成22年〉10月8日)は、日本の俳優、随筆家。 東京市大森区(現・東京都大田区)出身。身長174センチメートル。立教大学文学部英文科卒業。昭和中期の代表的な映画スターの一人。甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとった。 大学では富田彬などから学ぶとともに、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。監督希望だったが、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。
生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不… 生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。本名同じ。 1917年(大正6年)2月12日、東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 1923年(大正12年)12月、渋谷幡代尋常小学校(現在の渋谷区立幡代小学校)1年生の時、築地小劇場で小山内薫演出『そら豆が煮えるまで』で初舞台を踏む。1934年(昭和9年)、青山学院中等部を卒業するまでに、父親である生方賢一郎(1882年 - 1961年)が関係する新劇協会や築地座の公演に子役として出演した。 映画では中学校1年から教育映画や1932年(昭和7年)に公開された、鈴木重吉監督映画『熊の出る開墾地』などに出演していたが、1934年(昭和9年)、父・賢一郎が在籍するP.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『只野凡児 人生勉強』に出演したのがきっかけで中学卒業直後の同年4月に入社。
若原 雅夫(わかはら まさお、1917年1月1日 - )は、… 若原 雅夫(わかはら まさお、1917年1月1日 - )は、日本の俳優。 1940年代から1950年代前半にかけて、数多くの映画作品に出演し、そのルックスから「和製シャルル・ボワイエ」と称された。 出身地は東京市牛込区。1917年(大正6年)1月1日生まれ。児玉家の姉の次に長男として生まれ、父の「生命長く、男として立派なものになるように」との願いから「稔」と命名される。家業は映画館経営。東京、北海道小樽市、福島県郡山市などで経営。そのため、幼児の時から映画に興味を覚え、父が経営する映画館で、映画を観ることに親しんだ。小樽には4歳まで生活し、そのあと福島県郡山市を経て、7歳の時、学校へ入るため再び上京し、以後、学生時代を東京の学校で過ごした。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(… 初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(大正4年)- 2003年(平成15年))は、日本舞踊家、振付師、俳優、脚本家。江戸時代以来途絶えていた舞踊である猿若流を復興した。本名、堀越実。 大正4年、東京・亀戸生まれ。新内の太夫だった父の影響で4歳から坂東三寿次に師事し日本舞踊を習う。11歳より初代花柳輔三郎の内弟子となり、花柳輔五郎を名乗った。1941年(昭和16年)に当時の花柳流家元である二代目花柳壽輔の許しを得て花柳流を辞し、猿若舞雀(さるわか ぶじゃく、舞雀は初代傳九郎の俳名)を名乗り、江戸時代以来途絶えていた猿若流を復興させ七世家元となった。1947年(昭和22年)に清方と改名。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1… 河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1998年8月12日)は、日本の俳優、声優である。本名は河村 弘仁(読み同じ)。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)出身。府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業。創作座、P.C.L映画製作所、文学座、東宝、森の会、プレーヤーズセンター、東京俳優生活協同組合に所属していた。 3人兄弟の次男で、兄は医者の金田義人、妹は女優の河村久子。 中学校卒業後、劇団プレイボーイズを経て、創作座に入団し『デット・エンド』『大地』などに出演する。 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10… 堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。本名は栗原 正至。 実兄は浪曲師の港家小柳丸(初代)、次男はマルチタレントの堺正章。甥にボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名:栗原重夫)がいる。 東京府東京市本所区太平町1丁目(現:東京都墨田区太平1丁目)の桶製造業の家に8人兄弟の末子の3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退し11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月1… 宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月15日 - 1985年〈昭和60年〉4月12日)は、日本の俳優。本名は宮口 精次。身長159 cm。 築地座を経て文学座に参加し幹部座員として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属し商業演劇に出演した。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。亡くなるまで約15年間、編集兼発行人として季刊『俳優館』を出し続けた。 1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現:墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる。
夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 -… 夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 - 1987年7月16日)は、日本の俳優。 1913年(大正2年)8月31日、斎藤大二郎として東京市芝区桜田本郷町(現在の東京都港区西新橋)に生まれる。 1919年(大正8年)に映画芸術協会製作の『生の輝き』に姉の夏川静枝と共に夏川大吾の芸名で子役で出演した。 1933年(昭和8年)日活太秦撮影所に監督見習いとして入社、その後、俳優に転向し1934年(昭和9年)に日活映画でデビューした。 1940年(昭和15年)五所平之助監督『木石』などに主演。 戦後は脇役として、1946年(昭和21年)『瀧の白糸』、1949年(昭和24年)『透明人間現わる』などに出演した。
志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日… 志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日 - 1991年〈平成3年〉3月16日)は、日本の俳優。本名は嶋 正朶(しま まさえだ)。旧名は島 泰彦。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区本所)出身。 1941年に鉄嶺実業学校を卒業。1942年7月に青少年劇場に入団。1943年4月に関西移動演劇隊に移籍。その後1944年10月にNHK大阪放送劇団を経て、1951年2月に獅子座を結成。1964年に大阪音楽大学演劇科講師。1977年に大阪芸術大学演劇科講師を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年… 加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は、日本の俳優。本名は亀山 邦雄(かめやま くにお)。 次男の亀山達也、三男の志賀勝も俳優として活動した。 東京府東京市日本橋区人形町(東京都中央区日本橋人形町)出身。慶應義塾普通部中退後、浅草の劇場・昭和座での役者修業を経て、1930年にスカウトで映画界入り。「舟波 邦之介」の芸名で新興キネマ京都撮影所『仇討太夫桜』でデビュー。時代劇の二枚目として活動した。「舟波 邦之佑」への改名を経て、1939年に「加賀 邦男」に改名。1940年に新興の東京撮影所に転籍し、現代劇を演じるようになる。後身の大映に所属したのち、終戦直前に退社。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわ… 市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわしま たけお)1912年2月17日 - 1992年5月6日)は、日本の俳優である。テレビ「暴れん坊将軍」などに出演。社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 -… 阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる。 1912年(明治45年)1月15日、東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる。 数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派の河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ。
市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年… 市川 竜男(いちかわ たつお、1911年11月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。市川 龍男と表記されることもある。本名は有田 信一(ありた しんいち)。旧芸名は市川 市松(いちかわ いちまつ)、市川 新藏(いちかわ しんぞう)、有田 晃之助(ありた こうのすけ)。父・市川幡谷と共に、マキノ・プロダクションなどのサイレント映画で活躍した二枚目俳優である。 1911年(明治44年)11月5日、東京府東京市浅草区花川戸(現在の東京都台東区花川戸)に、映画俳優市川幡谷(本名有田松太郎、1888年 - 没年不詳)の子として生まれる。生年月日については、1910年(明治43年)11月1日の説もある。
徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明… 徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明治44年〉10月5日 - 1995年〈平成7年〉7月19日)は、日本の俳優、実業家。慶應義塾大学中退。 赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんの店に、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎がよく訪れていたのがきっかけで、実弟である後の七世尾上梅幸が養子となる。 慶應義塾大学中退後、1932年に松竹に入社。当初は文芸係兼舞台監事として勤務していたが、松竹社長の大谷竹次郎の推薦で俳優に転向。松竹蒲田撮影所に転籍する。翌年、『大学の若旦那』でデビュー。当初の芸名は大綱豪であったが、名前が強すぎるとのことで、徳大寺伸に変更する。芸名の由来は、徳大寺の大は当時の松竹社長であった大谷社長の大の字をとり、伸は長谷川伸の伸の字をとったとのことである。
巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1… 巖 金四郎(いわお きんしろう、1911年9月24日 - 1994年12月30日)は、日本の男性俳優、声優、朗読家。東京府東京市(現・東京都文京区)出身。明治大学商学部中退。本名同じ。 プロダクション・タンクに所属していた。日本における声優の草分け的な存在とされる。全国芸能団運営会会長、元東京放送劇団代表、プロダクションTHG代表。 中学在学中から映画と演劇を好んでおり、学校を休んで浅草の劇場に通っていたとされる。 大学在学中は演劇部に所属。1936年、上二証券に入社。1941年、30歳の時にNHK東京放送劇団発足と同時に第1期研究生として入団。同期生には富田仲次郎、加藤道子らがいた。 以来俳優、声優として活躍。
北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお… 北沢 彪(きたざわ ひょう、本名:菅野 義雄(すげの よしお)、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1980年〈昭和55年〉8月4日)は、日本の俳優。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。妻は俳優の堤真佐子。文化学院文学部卒。 文化学院在学中から演劇活動を行い、1931年、同窓生の長岡輝子らとテアトル・コメディを結成。 昭和12年、劇団解散とともにPCL(東宝の前身)に入社。 復員後はフリーランスで活動し、1950年に自宅で朗読(後に演劇)集団やまびこ会を主宰。多くの演劇青年がこれに参加し、本格的な活動を志向することとなり、テアトル・エコーと命名された。1956年に劇団現代座を創立。現代座と並行して綜芸プロに所属し、二月プロなどにも所属していた。
佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017… 佐田 豊(、1911年〈明治44年〉3月30日 - 2017年〈平成29年〉7月[要出典])は、日本の元俳優。東京府東京市本郷区千駄木生まれ。本名同じ。旧芸名・別名は佐田 豊二、佐田 豊彦。 1928年、旧制京北中学校を卒業後、高松プロに入社。その後J.O.スタヂオの演技部に所属。当初は監督志望であったが、すぐに俳優へ転身し河合・大都映画の作品に多数出演する。 第二次世界大戦中は移動劇団にて活動し、映画では松竹作品に出演記録がある。 戦後は東宝と専属契約を結び成瀬巳喜男監督作品や特撮映画など数多くの作品に出演。中でも黒澤明監督『天国と地獄』での子供を誘拐される運転手・青木役が有名であり、佐田自身も最も好きな役だと語っている。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1… 今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1978年6月28日)は、東京市浅草区雷門(現:東京都台東区雷門)出身の俳優。本名は小野寺 幸男。旧芸名は今村 原兵、今村 原平、今村 源平。 専修商科学校卒業。1929年に新東京歌劇団文芸部に入る。俳優に転向し、天勝一座を経て、1934年から俳優の草間実に師事。帝国キネマ、新興演芸を経て、1939年に吉本興業に入社。1944年に「今村原兵楽劇団」を創立。1946年にムーランルージュ新宿座に入り、1951年の解散まで在籍。その後は衣笠プロ、東京俳優生活協同組合などに所属していた。 1978年6月28日、脳出血の為、東京都世田谷区駒沢の国立第二病院で死去。
恩田 清二郎(、1910年5月1日 - 1974年11月28… 恩田 清二郎(、1910年5月1日 - 1974年11月28日)は、日本の俳優、男性声優、元活動弁士である。本名同じ。恩田 清次郎と表記に揺れがある。 1910年(明治43年)5月1日、東京府東京市浅草区に生まれる、とされている。『山形県大百科事典』(山形放送)など一部の資料には、出生地は冒頭の通りだが、生年は「明治四十年」(1907年)である旨が記されている。父は埼玉県の地主であった。旧制東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)卒業。 1925年(大正14年)、映画俳優を志し、当時東亜キネマに在籍していた近藤伊与吉(1894年 - 1944年)に師事。ところが芽が出ず、間もなく俳優業を辞退して浅草電気館の活動弁士に転向し、長く活動した。
河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14… 河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14日 - 1990年10月11日)は、前進座の女形で俳優。本名:松山 太郎(まつやま たろう)。屋号は山崎屋。 両親とも広島県の出身。祖父・渡辺又三郎は広島藩主浅野家に仕え、維新後、代言人から政治家になり広島市会議長、第8代広島市長、衆議院議員などを務めた。父・松山省三はその三男で松山家に養子入り。リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。母・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれたのが太郎(国太郎)である。このため東京神田の生まれだが、国太郎自身「私の故郷は広島」と話している。 1928年、旧制立教中学校卒業後、二代目市川猿之助に入門。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉… 河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉8月30日 - 1983年〈昭和58年〉2月20日)は、日本の俳優である。本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)。 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった。その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子。 1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。
小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不… 小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新字体表記小川 国松(おがわ くにまつ)、旧芸名澤村 國丸(さわむら くにまる、新字体表記沢村 国丸)、菊池 一郎(きくち いちろう)ほか変遷がある。映画・新派での子役出身で、松竹蒲田撮影所の少年スターから「純情型二枚目俳優」となる。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。父は同地で絹糸商を営んでいた。 旧制小学校在籍時、満8歳であった1916年(大正5年)11月12日に公開された天然色活動写真(天活)製作・配給、吉野二郎監督による『水戸三郎丸』に、「澤村 國丸」の名で五代目澤村四郎五郎らとともに出演、主演した記録がある。