岡本 信治郎(おかもと しんじろう、1933年 - 2020… 岡本 信治郎(おかもと しんじろう、1933年 - 2020年4月8日)は、日本の画家。 漫画やアニメーションを取り入れた「日本のポップアートの先駆的作家」として知られる。 ユーモラスな形態のなかにもニヒルさを込めたシリーズの制作を手がけ、主題としては下町の大衆文化から美術、宗教、歴史など幅広く選んでいる。 水彩画から始めているが、リトグラフやシルクスクリーン、立体絵画、オブジェといった様々なジャンルの作品も残している。 21世紀には、自身の戦争体験と2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件をテーマにした連作を発表する、岡本自身が「見る絵画・読む絵画・笑う絵画として機能する」と語るように、その作品は常に社会とともにあり、ユーモアのなかに社会への評言を客観的な視点をもっている。
芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日… 芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月5日)は、日本の登山家・RCC IIの創立同人・画家。東京都荒川区日暮里生まれ。アルムクラブ所属。ボート選手の芳野法一は弟。 第一日暮里小学校卒業、旧制の早稲田中学校入学。 1948年(昭和23年)、早稲田中学2年の17歳のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して両足指をすべて欠くが、不屈の精神で登山を続けた。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳IV峰正面壁積雪期初登攀など多くの初登攀を記録。 1963年(昭和38年)、大倉大八とともにアイガー北壁に日本人として初挑戦。 1965年(昭和40年)、渡部恒明とともにマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成し、アルプスの岩峰への先鞭をつけた。
中出 那智子(なかで なちこ 1931年 - 2017年12… 中出 那智子(なかで なちこ 1931年 - 2017年12月8日)は、日本の画家。主に油絵。東京都伊豆七島最北の島、大島村本村(現・東京都大島町元町)の出身。 中出那智子は、師事した宮本三郎との出会いについて、以下のように語っている。 「私が23歳になった時、再び宮本三郎先生は奥様とご来島され、『あれ、貴女があのときの赤ちゃん?』と思わぬ再会に家中喜びに湧きたちました。その時は、牛のスケッチが目的だったので、私が牛のたむろする砂浜にご案内いたしました。大島旅行が終わっていよいよお帰りになる日の乗船前のひととき、私は思い切って少女時代に描いた例の赤い表紙の絵日記と画帖を先生に見ていただくことにしました。
中谷 千代子(なかたに ちよこ、1930年1月16日 - 1… 中谷 千代子(なかたに ちよこ、1930年1月16日 - 1981年12月26日)は、日本の画家、絵本作家。 1930年1月16日、東京府生まれ。東京府立第十一高等女学校(現東京都立桜町高等学校)卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科に進学。美術学校在学中は梅原龍三郎に師事した。後に詩人として活躍する岸田衿子は同級生で、親友となった。美術学校卒業後、先輩だった中谷貞彦と結婚。 在学中から子どもに絵を教える中で、子どもの絵の表現から学んでいたが、1957年ごろから絵本の仕事に興味を持つ。岸田に誘われて、福音館書店の編集長松居直を訪ね、絵本を作ることになる。 最初の作品は『ジオジオのかんむり』(「こどものとも」52号(1960年7月号))で、主人公のライオンのジオジオを描くために動物園でイメージに合うライオンを探し、原画は7回描きなおした。
西原 清之(にしはら きよゆき、1930年-2019年)は日… 西原 清之(にしはら きよゆき、1930年-2019年)は日本の建築家、都市計画家(一級建築士、技術士)。東京大学の丹下健三研究室で大学院を修了、しばらくしてカナダに渡りトロント大学の講師を務めてから、ヨーロッパ中近東を経て帰国した。帰国後は西原研究所(Nishihara Planning Systems inc.)を設立し、建築設計監理を主な業務として活躍したが、先進事例の少なかった国営公園(400ha)、レクリエーション都市(1,200ha)などの余暇施設整備にも積極的に取り組んだ。また各省庁の大規模開発のF/S(フィジビリティスタディ)を作成するという未踏領域の開拓にもかかわるなど、ミニ・シンクタンク的役割も果たしてきた。
川﨑 春彦(かわさき はるひこ、1929年3月17日 - 2… 川﨑 春彦(かわさき はるひこ、1929年3月17日 - 2018年10月2日)は、日本画家。位階は従四位。日本藝術院会員。 東京都杉並区出身。父は川﨑小虎。父方の曽祖父は川崎千虎。兄は川崎鈴彦という日本画家の一家に生まれ、長女の川崎麻児も日本画家となった。親戚に元京成電鉄社長の川﨑千春。 父と義兄の東山魁夷に師事。東京美術学校(現東京藝術大学)卒。日展を中心に日本画院展、日本美術協会展などで活躍。 戦時中に父・小虎などと一家で山梨県中巨摩郡落合村(現・南アルプス市)へ疎開し、復員してきた兄・鈴彦や義兄・東山魁夷などと共に自然の写生を励んだことから画才が開いた。代表作の「朝明けの湖」など、力強い色彩による自然の生命力あふれる風景画で知られ、特に富士山を描いた多くの作品を残した。
今井 俊満(いまい としみつ、1928年5月6日 - 200… 今井 俊満(いまい としみつ、1928年5月6日 - 2002年3月3日)は、日本の画家。アンフォルメルの画家として、日本とパリを拠点に活動した。息子の今井アレクサンドル、今井龍満(りゅうま)も画家。 父俊雄と母綾野の次男。京都市に生まれ、幼い時に大阪市の船場安土町に転居。大阪市立船場尋常小学校を卒業すると、1941年に上京して旧制武蔵高等学校尋常科に入学した。武蔵高校在学中から絵を描き始め、荻太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎などに師事。1948年に武蔵高校を卒業した。 高校卒業後の1948年10月には第12回新制作派協会展で入賞。1950年には東京藝術大学美術学部油絵科で1年間派遣学生として学び、1952年にはフランスに私費留学し、ソルボンヌ大学文学部に学ぶ。
牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27… 牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27日 - 1986年〈昭和61年〉10月1日)は、東京都渋谷区幡ヶ谷生まれの画家。 牧野邦夫は、大正14年に渋谷区幡ヶ谷で生まれ、幼少期を小田原で過ごす。父母を早く亡くし、母代わりの姉たちに育てられる。従兄の幻想小説家牧野信一から、「芸術家にだけはなるな、君は一高、東大へ行け」と諭されていたが、画家への想いは止まらずゴッホやレンブラントに魅かれ17歳で画家を志す。川端画学校をへて東京美術学校油画科に学ぶ。伊原宇三郎、安井曾太郎に師事し画家の道を進む。1945年学徒出陣し九州・都城で終戦。戦後の1948年、東京美術学校を卒業。美術団体等に所属せずにひたすら自己の信ずる絵画世界を追求する創作活動を貫き、写実的高密度の作品で知られるようになる。
十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - … 十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家、南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長(第4代)。落語江戸(東京)桂派宗家。血液型はO型、本名∶関口 達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸。出囃子は『武蔵名物』。 早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年に召集令状を受ける。終戦後日本に帰国後の1946年6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。1958年9月、春風亭柳昇、2代目桂小南、三笑亭夢楽、三遊亭小圓馬、4代目春風亭柳好とともに真打昇進。
小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月… 小野木 学(おのぎ まなぶ / おのき がく、1924年1月13日 - 1976年8月24日)は、昭和期の日本の洋画家。東京府出身。甥の上矢津(かみやしん)は画家、現代美術家、版画家。 本名の読みは「おのぎ まなぶ」であるが、絵本作家としての筆名は本名と同じ表記で「おのき がく」の読みを用いている。 1924年、北豊島郡巣鴨町(現・豊島区)に小野木秀雄・シヅ夫妻の四男として生まれる。軍事教練中に肺を患い、療養中に独学で油絵を学ぶ。のち農林省関連の施設に勤務するかたわら、絵画の勉強を続ける。1952年の第17回自由美術展で入選。翌1958年に自由美術協会会員となるが、1961年から翌1962年にかけてパリへ留学した後の1963年に退会。
下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2… 下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本の都市計画家、建設官僚。国土事務次官を歴任。工学博士。日本上流文化圏研究所理事長。 日本の国土計画立案に多く関与し、また各種団体の要職を務め、その影響力を指して「御大」と呼ばれた。 1923年9月30日に下河辺収の長男として東京府東京市(現在の東京都)で生まれた。旧制水戸中学校、旧制水戸高校を経て、1947年、東京大学第一工学部建築学科卒業。在学中に終戦を迎えたため高山英華の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院技術研究所勤務。その後建設省入省。1952年に経済審議庁計画部勤務。1957年、建設省に復帰、計画局勤務。
戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月1… 戸井 昌造(とい しょうぞう、1923年(大正12年)4月16日 - 2000年(平成12年)4月17日)は、日本の画家、民俗研究家、作家。兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。息子は作家の戸井十月。 早稲田高等学院在学中に学徒出陣で中国に赴任。敗戦により捕虜となった後に復員し、早稲田大学に復学するが中退。1946年に共産党に入党し、1950年に脱党。 人形劇団プークでの民主主義的文化活動などを経て画家となる。それと並行して日本の民俗史や民衆史などを研究。特に秩父事件の研究では第一人者とされている。 人形劇団プークのリーダーだった、川尻東次・川尻泰司兄弟の妹・錦子と結婚。 2000年4月17日、胃がんにより死去。
石川 允(いしかわ まこと、1923年1月22日 - 202… 石川 允(いしかわ まこと、1923年1月22日 - 2020年2月21日)は、日本の都市計画家。指導者。長岡技術科学大学名誉教授。同大学で教授・副学長、東京電機大学建築学科教授、国土庁審議官などを歴任。都市計画コンサルタント協会認定都市プランナーマスター都市プランナー。 石川栄耀の長男として東京にて生まれる。旧制武蔵高等学校から東京帝国大学工学部建築科を経て軍に招集され、特攻部隊の司令官時に終戦となる。その後東大と戦災復興院で戦災復興都市計画に関与し、建設省・国土庁(現・国土交通省)、総理府首都圏整備委員会で、都市計画・建築行政などに携わった。 1977年、筑波研究学園都市の計画・建設で、今野博とともに日本都市計画学会設計賞を受賞した。
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014… 朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。the companyのアソシエイツメンバー。 東京府東京市下谷区谷中(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。 父・朝倉文夫により幼い頃から英才教育を受けるが、徐々に父や権力に対する反感の念が彼女の中に擡げてきたところがあり、それにより日本画家として生きていかんとする意思を抱いたとNHKは報じている。 画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 19… 久米 宏一(くめ こういち、1917年11月18日 - 1991年5月1日)は、日本の画家。 東京・小石川区(現在の東京都文京区)に生まれる。豊島師範学校卒業。小学校教員を務めながら、太平洋美術研究所で絵画を学ぶ。 1964年に、いわさきちひろ、滝平二郎、箕田源二郎らと「童画ぐるーぷ車」を結成した。このため、絵本雑誌のちひろ追悼の座談会にも出席している。子ども向けの本の挿絵の他に、月刊『宝石』のミステリー小説などにも挿絵を描いた。 日本児童出版美術家連盟に所属し、理事を務めた。1950年代から亡くなるまでに挿画を描いた児童文学作品や絵本は200冊以上にのぼる。主に親交のある古田足日の作品が多い。
井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1917年7月30日 - 2001年2月21日)は、日本の都市計画家。技術者。都市工学者、都市研究者。建設官僚。東京大学名誉教授。東京大学工学部、横浜国立大学工学部教授を歴任し、全国各地の都市計画に関する審議会や委員会委員をつとめて全国各地や海外の計画に関与、また長きにわたり都市計画の研究と人材の育成につとめる。戦後結成された国際住宅都市計画連合IFHPでは初代理事で後に会長。米国生まれ。 1917年、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェストフィールド生まれ。生まれたころ父親は三井物産ニューヨーク支店に勤務していた。 東京府立第一中学校 (旧制:後の東京都立日比谷高等学校)をへて、第一高等学校に入学。
島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 -… 島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 - 1953年7月29日)は、日本の画家。 戦後、クレパス画で作品を描いた。長い間忘却されていたが、現代画廊の洲之内徹に見いだされた。 東京市牛込区中町(現・東京都新宿区)に島村忠次郎、小千代の二男として生まれる。祖父は貴族院勅選議員や錦鶏間祗候などを務めた仁尾惟茂。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に進学し、在学中は同人誌『路』を友人たちと作成した。中学2年生の時には箏楽家の宮城道雄が隣家に転居した。 1935年に浦和高等学校に入学するも、同年秋には、画家を目指して退学した。1936年頃より里見勝蔵に師事する。日本の古い文化に学ぶことを教示され、京都、奈良へ赴く。
大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 19… 大塚 全一(おおつか ぜんいち、1915年3月6日 - 1996年4月21日)は、日本の土木系都市計画家。都市計画研究者。早稲田大学理工学部教授。 東京出身。旧制武蔵高等学校から東京帝国大学工学部土木科に進学し1939年に卒業後、内務省都市計画地方委員会に入省し山口県に赴任。山口地方委員会に勤め都市計画を担当。その後1943年に海軍に勤務した。戦後は短期間武蔵工業専門学校講師を経て戦災復興で再び都市計画を担当することになり, 京都府や大阪府の都市計画課, 奈良県の道路課に足掛け11年奉職し, 1957年に建設省 (現国土交通省)に移る。途中2年ほど首都高速道路公団に出向したが, 技術審議官や都市局技術参事官を歴任し、1966年に中国地方建設局長(現中国地方整備局長)で退官するまで、都市計画と道路の分野で活躍した。
小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月1… 小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月14日(戸籍上2月21日[要出典]) - 2001年〈平成13年〉12月7日)は、東京府(現:東京都)出身の画家・イラストレーター。 空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)など、挿絵画家の第一人者として幅広く活躍した。 東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住)で生まれ、青年期には日本画家を志望し花鳥画の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に学ぶ。しかし、転じて秀叢の弟弟子の画家・小林秀恒の下で挿絵画家の道を歩むことになる。 1938年(昭和13年)に「小樽新聞」に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビューし(筆名は「恒方」)、翌々年には科学雑誌『機械化』の挿絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。
岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - … 岡田 又三郎(おかだ またさぶろう、1914年8月2日 - 1984年3月2日)は、昭和期の洋画家、日展理事。東京都出身。荒削りの大胆な技法で背景の省略された処理の巧みさと、伝統的な写実性を兼ね備えた風格ある画風が特徴。岡田三郎助、浦和画家の寺内萬治郎に師事。1965年にフランスのサロン・ドートンヌで日本人初の金賞を受賞、フランス政府から芸術勲章を授与された。 親しい友人に、三木武夫がいる。
平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 201… 平松 譲(ひらまつ ゆずる、1914年4月13日 - 2013年7月21日)は、日本の洋画家。 東京都の三宅島出身。白日会会員として白日会展において中沢賞、内閣総理大臣賞を受賞。日展文部大臣賞を受賞。 1992年に『TOKYO』で日本芸術院賞を受賞し、1995年に日本芸術院会員となる。元日展顧問。 三宅島出身ということもあり、風景画を得意としていた。 2013年7月21日、急性肺炎により死去。99歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005… 蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005年2月24日)は、画家、塗り絵作家。東京都出身。 1914年(大正3年)、京橋の紙問屋「蔦谷音次郎商店」の9人兄弟の7番目(五男)として生まれる。 1931年(昭和6年)、東京市立京橋商業学校を中退し、画家を志し川端画学校で学ぶ。 1939年(昭和14年)、画家としてはなかなか芽が出ず、見兼ねた兄の口利きで25歳にして商売をすることになり、菓子店の経営者となるが、商才は全くなく、赤字により1年ほどで店を閉める。 1940年(昭和15年)、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をフジヲの名で始める。フジヲは、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾からとった。
桂 ゆき(かつら ゆき、1913年10月10日 – 1991… 桂 ゆき(かつら ゆき、1913年10月10日 – 1991年2月5日)は、日本の洋画家。 東京府東京市本郷区出身。本名は桂 雪子(かつら ゆきこ)。初めは「ユキ子」、1970年代頃から「ゆき」と称する。日本における前衛女性画家の先駆者であり、第一人者として前衛美術の基礎を築いた。戦前から逸早く先端的なコラージュの手法を、シュルレアリスムから距離をおきながら独自に展開し、生活用具や動物など実在と抽象的な形を混在させた独自の表現を探求した。フランス、アメリカ、アフリカなど世界各地へ滞在し、1962年には『女ひとり原始部落に入る アフリカ・アメリカ体験記』を上梓したほか、絵本の挿絵なども手掛け、動物をモチーフとした特徴的な作品を数多く制作した。
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年… 篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年〈大正2年〉3月28日 - 2021年〈令和3年〉3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟、建築家の若山滋は甥にあたる。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23… 麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23日 - 2000年(平成12年)4月5日 )は、東京都生まれの洋画家である。 武蔵野美術大学名誉教授。戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。彫刻家の麻生マユは実娘。 1913年(大正2年)3月23日、東京市京橋区本湊町(現在の東京都中央区湊)に麻生惣兵衛、喜代の三男(3男3女の4番目)として生まれる。麻生家は100年以上の歴史をもつ炭問屋、屋号は「山惣」。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、洋館が立ち並ぶその場所に麻生は毎日通い、お小遣いでラスクやレーズンなどを買っていた。
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - … 松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。 1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。
赤羽 末吉(あかば すえきち 、1910年5月3日 - 19… 赤羽 末吉(あかば すえきち 、1910年5月3日 - 1990年6月8日 )は、日本の舞台美術作家、絵本画家、絵本作家。
高山 英華(たかやま えいか、 1910年4月20日 - 1… 高山 英華(たかやま えいか、 1910年4月20日 - 1999年7月23日)は、日本の都市計画家、建築家。東京大学名誉教授。工学博士。近代都市計画学の創始者。 建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通しまちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。 1910年4月生まれ。東京市芝区高輪育ち。幼少の頃住みかは高輪から代々木、代々木から大久保、その後に兄が結核にかかり、一家で阿佐ヶ谷に引越す。以来東京都杉並区に在住した。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制成蹊高等学校を経て、1934年東京帝国大学工学部建築学科卒。
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。
茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 195… 茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 1956年11月2日)は、昭和時代に活躍した日本の童画家。 その素朴でいながら独特の雰囲気に絵本愛好家の間では知られる作家である[要出典]。素朴で大胆なデフォルメが特徴で谷内六郎、山本夏彦も絶賛している[要出典]。江國香織の『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』の表紙絵にもなっている。 東京日本橋の旅館「越喜」に生まれる。1923年、関東大震災で生家が全焼、翌1924年には母を病で亡くす。1926年旧制赤坂中学校卒業。その後、太平洋画会研究所、川端画学校、本郷絵画研究所に学ぶ。アテネ・フランセで中原中也と出会う。 1930年にハルピンからシベリア鉄道でパリへ渡り、働きながら独学で絵を書き続ける。
脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7… 脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7日 - 2005年(平成17年)11月27日)は昭和期に活躍した日本の洋画家。新制作協会創立会員。童話的で温かな印象を受ける作風が特徴。実子は洋画家の脇田愛二郎。
上條 静光(かみじょう せいこう、1908年(明治41年)5… 上條 静光(かみじょう せいこう、1908年(明治41年)5月20日 - 2007年(平成19年)4月24日)は、日本画家。東京に生まれる。本名:上條健吉(かみじょう けんきち)。 現在の東京都荒川区日暮里の商家に生まれる。父方の本家は江戸、現在の中央区日本橋の油問屋・桝屋の屋号で商いをする油問屋であった。母は石川県輪島市の出身で輪島塗頭領、木下家の長女。健吉が三歳の時に父が亡くなる。1915年(大正4年)第二日暮里尋常小学校入学、1921年(大正10年)卒業し、東京府私立順天中学校入学、在学中より画家を志す。1923年(大正12年)関東大震災、1925年(大正14年)日暮里の大火で生家を焼失する。
岩倉 具方(いわくら ともかた、1908年1月17日 - 1… 岩倉 具方(いわくら ともかた、1908年1月17日 - 1937年10月14日)は洋画家。公爵岩倉具張の三男。母方の祖父は西郷従道。 東京府出身。学習院初等科卒業後、東京府立第一中学校を卒業。母桜子からは海軍大将になることを望まれていたが太平洋画会に入り、有島生馬に師事。1930年12月からパリに留学。このときシベリア鉄道車内で東京音楽学校教授アウグスト・ユンケルの長女ベラ綾子と知り合い、のち結婚し、三子を儲ける。 1937年9月9日から海軍従軍画家として上海に赴任。同年10月14日、呉遜路上で敵軍の迫撃砲による直撃弾に当たって戦死。1938年、岩倉綾子編『故岩倉具方従軍画集』が故岩倉具方従軍遺作画集刊行会により出版された。
渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 19… 渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 1980年5月17日)は日本画家。南画の大家。本名は渡瀬幸成。 長野県下伊那郡根羽村に生まれる。幼いころから大平小洲、山本梅荘に師事。尋常小学校高等科を卒業後は上京して福田浩湖塾に入門。一方で、旧制錦城中学校、正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学んだ。1925年(大正14年)には京都へ移り、福田静処に和漢文学・詩書を学ぶ。以後、京都に定住する。 1933年(昭和8年)第14回帝展に「河口」が初入選、以後は帝展、文展、日展、日本南画院を中心に出品する。1937年(昭和12年)京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞。 戦後は同志と南画院を結成して活動を続け、水墨を基調に山水花鳥に新生面を開いた。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日… 木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日 - 2001年(平成13年)11月9日)は、大正から平成時代の日本画家。 16歳で松本楓湖に師事する。松本の没後は、荒木十畝の読画会に所属する。昭和4年に帝国美術院展覧会で入選し、昭和8年には「秋林」が特選を受賞する。荒木は昭和19年に没する。その後、伊東深水から鎌倉にあった自宅に招かれ、自身が顧問を務める日月社への入会を勧められるが、所属していた読画会を離れなかった。 東京都世田谷区に居住していた。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月… 中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1948年〈昭和23年〉10月6日)は、日本の洋画家。透明水彩絵具に不透明水彩絵具を併用する新たな水彩技法を編み出した。 東京府京橋区(現・東京都中央区)に生まれる。日本中学校、1927年東京美術学校西洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年(昭和3年)にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品して入選した。1931年(昭和6年)11月に日本へ帰国。帰国後の1934年(昭和9年)、第15回帝展に「優駿出場」を出品して特選。1935年(昭和10年)には第二部会展で「婦人帽子店」特選。
山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4… 山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4月15日 - 1986年(昭和61年)2月10日)は、日本画家。文化勲章受章者。本名は山本 正義(やまもと まさよし)。 東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。 1936年(昭和11年)、文展に出品した『海の微風』が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞 1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。 「到春」 1942年、彩色・絹本・軸(1面)58.0cm×72.5cm「冬岳」 1953年、絹本・彩色・額(1面)55.4cm×71.5cm
内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日… 内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉7月17日)は、洋画家。内田魯庵の子。 東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。 1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4… 伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名伊東一。娘に女優の朝丘雪路がいる。 歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。 1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月… 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日本美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらるその頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される。
朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日… 林 武(はやし たけし、1896年(明治29年)12月10日 - 1975年(昭和50年)6月23日)は、東京都出身の日本の洋画家。本名は武臣(たけおみ)といった。大正末期から洋画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。なお、孫に元衆議院議員の林潤がいる。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1… 阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1973年8月8日)は、日本の漫画家、水墨画家。本名・坂本雅城(さかもと まさき)。水墨画家としては阪本雅城を用いる。 東京府西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)に生まれる。五日市小学校五年生のとき、同校の校章をデザインしたことにより、これは現在でも使われている。東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)卒業後日本画家を志すが、生活できず岡本一平のすすめで漫画を描き始める。勤務していた中外商業新報(現日本経済新聞)や夕刊大阪新聞(現産経新聞)の家庭面に4コマ漫画を連載したが、思い切り奇想天外な作品を試したいと思い立ち、鉄の玉の中に人が入っている作品を「幼年倶楽部」編集部へ持ち込んだ。
高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 … 高畠 達四郎(たかばたけ たつしろう、1895年10月1日 - 1976年6月26日)は、日本の画家。独立美術協会会員。1952年2月に「暮色」で毎日芸術賞を受賞。