鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年〈明治28年〉8月16日 - 1989年〈平成元年〉5月13日)は、洋画家。 東京府八王子生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。 1934年(昭和9年)出品した第二十一回二科展で推奨に選出されたことなどを契機に、1936年(昭和11年)、二科会に新会員として迎えられる。1955年(昭和30年)、二科会を退会して一陽会を結成し中心的存在として活躍する。1960年(昭和35年)、日本芸術院賞受賞、1969年(昭和44年)、日本芸術院会員、1988年(昭和63年)、文化功労者。
長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月… 長谷川 春子(はせがわ はるこ、1895年(明治28年)2月28日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家。文筆家としても活動し『戯画漫文』などの著作がある。またモダンガールと呼ばれた女性の一人とも、毒舌家としても知られ、エッセイに政治家から落語家、歌舞伎役者、柔道家の人物評、藤田嗣治とパブロ・ピカソの対照などをしたためた。 東京日本橋通油町(現・中央区)出身。父の長谷川深造は天保13年旧暦5月25日生まれ(1842年)で東京市参事会員、長谷川時雨は16歳離れた姉に当たる。25歳の時に姉の勧めにより画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学ぶが、梅原龍三郎から洋画も学んだ。
阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11… 阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年(明治27年)11月16日 - 1971年(昭和46年)2月15日)は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 。 東京府生まれ。私立郁文館卒。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年(大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事。1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った。 帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた。
曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen … 曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家、随筆家、歌人。 東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれた。本名は下田 喜七(しもだ きしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。東京美術学校卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展で褒状、1925年、二科展で樗牛賞を受賞、二科会、独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、同地で過ごした。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、両眼失明のため画家を廃業。
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月… 木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月21日 - 1958年〈昭和33年〉11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。 牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年に同校を卒業した。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年… 岸田 蓁(きしだ しげる、1892年2月1日 - 1964年10月12日)は、日本の茶人、画家。岸田劉生の妻として知られる。 旧姓は小林。1892年に学習院の漢学教授であった小林良四郎、シンの三女として生まれる。東京府立第二高等女学校(現・東京都立竹早高等学校)に在学中から鏑木清方について日本画を学んでいる。1913年に第2回フュウザン会展を見に行ったことが縁で同年7月に洋画家岸田劉生と結婚をする。しばらくは府下の西大久保にあった蓁の実家の2階に住んだ。翌1914年4月10日に長女の麗子が誕生する。1926年、長男鶴之助を産む。蓁自身は夫の劉生の絵のモデルを務めており、胸に手をおいた恰好で「画家の妻」や「南瓜を持てる像」に描かれている。
清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日… 清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日 - 1954年(昭和29年)1月29日)は、洋画家、童画家。 東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業、同級生で友人に日本美術研究家の丸尾彰三郎がいた。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会(現在の日展)に入選。 大正の初め頃から挿絵を描く。鈴木三重吉が1918年(大正7年)7月に創刊した童話雑誌『赤い鳥』の挿絵を創刊号から描いた。特に表紙の絵は全196冊のうち163冊を描き、同誌のイメージを視覚的に広めるという大きな役割を果たした。 この他、児童雑誌『コドモノクニ』でも多くの作品を見ることができる。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 … 岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921… 川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921年5月5日)は明治・大正期の日本の画家。本名は川上乙次郎。 東京府東京市本郷区本郷(現・東京都文京区本郷)に生まれる。1906年に太平洋画会研究所に入る。1907年に岸田劉生や川村信雄とともに紫紅会を結成し、美術回覧雑誌『紫紅』の編輯にたずさわる。1910年に川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽らと雑草会を結成し、本郷教会で展覧会を催す。1911年、二六新報の美術記者となる。1912年、フュウザン会に出品。1914年から中野で大森商二(熊本県山鹿町出身、東大中退の洋画家)と自炊生活をはじめ、この年から木炭による風景画を描く。1915年、東中野にアトリエを構え、越後・佐渡に旅行する。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1… 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月… 池田 蕉園(いけだ しょうえん、1886年(明治19年)5月13日 - 1917年(大正6年)12月1日)は、明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方。 1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に1人の弟、3人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12… 金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12月18日 - 1964年〈昭和39年〉7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。 1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組問題より画壇から遠ざかったことに起因して「幻の画家」と評されたほか、雪を描いた名画を多く残したことで「雪の画家」とも呼ばれた。 1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。神戸尋常小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 -… 呉 建(くれ けん、1883年(明治16年)10月27日 - 1940年(昭和15年)6月27日)は、日本の医師、内科学者、洋画家。医学博士(東京帝国大学)、アテネ大学名誉教授。帝国学士院恩賜賞受賞。九州帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京帝国大学医学部附属医院医長を歴任。 1930年代に6度ノーベル生理学・医学賞候補となるが、結局、受賞には至らなかった。6度の候補は同賞で日本人最多である。 チャールズ・シェリントン、ジークムント・フロイト、イワン・パブロフに次ぐ中枢神経生理学の権威とされる。 呉文聰・やす夫妻の長男として東京府麹町区元園町に生まれる。曾祖父は蘭学者の箕作阮甫、祖父は阮甫の弟子で娘婿の呉黄石、父は黄石の次男で統計学者の呉文聰、叔父は精神科医の呉秀三、義叔父は書家の日高秩父、弟は経済学者の呉文炳、二男は日本銀行調査局長の呉文二。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5… 磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5月5日 - 1947年(昭和22年)10月25日、本名は磯田 孫三郎)は日本画家。歴史画に長じ、後半生は現在の船橋市に住んで多くの作品を残した。 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町に生まれ、当時の姓は「内田」。1889年(明治22年)に磯田家へ養子に入った。 若くして日本画(大和絵)を学び、当初は狩野派の芝永章につき、のちに土佐派の流れを汲む小堀鞆音に師事。1898年(明治31年)、鞆音同門の安田靫彦や小山栄達らと紫紅会を結成し、1900年(明治33年)に同会へ松本楓湖門下の今村紫紅が加わったことで紅児会に改称した後も同会に所属し、主に歴史画について研鑽を積んだ。
片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) … 片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) - 没年不詳)は、明治時代から大正時代の挿絵画家。 1880年、東京の築地に生まれる。俗称は片山春雄。武内桂舟、大出東皐、河合玉堂に師事した。明治期に『中外商業新報』において挿絵を描いていたといわれ、1897年(明治30年)には春陽堂から出版された村井弦斎の『日出島 曙の巻(上)』の口絵も描いている。また、博文館の社中にその名が見られ、『中学世界』、『文芸倶楽部』、『女学世界』などで専属の挿絵画家として活動した。1910年(明治43年)頃には東京市牛込区新小川町に在住しており、1926年(大正15年)発行の『大正震災画集』第5輯(日本版画社刊)には、春帆の関東大震災のスケッチを基とした木版画2作品も収められている。
鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月… 鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家・随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。 近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。 清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれた。本名は健一。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。
北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1… 北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1955年8月25日)は明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、日本画家である。本名は保次(やすじ)。楽天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍した。 楽天は日本初の職業漫画家とみなされる事もあり、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた(最初に、西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を使用したのは今泉一瓢である。楽天は、「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用した)。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた作品の一つとして特筆される。
吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日… 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。
岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(187… 岩井 昇山(いわい しょうざん、明治3年12月26日(1871年2月15日) - 昭和28年(1953年)1月11日)は、明治から昭和期の日本画家。 旧暦明治3年12月26日(1871年2月15日)、太政官府の役人・岩井秀一の次男として、東京麹町に生まれる。本名は小五郎。成童のころ北派(文晁系)の画家・吉澤雪庵に学び、次いで容斎派の松本楓湖の安雅堂画塾の門人となる(楓湖の浅草栄久町時代、明治10〜25年の弟子)。晩年の文献には、渡辺省亭に師事したと記載されているものもある。日本画会、明治画会、帝国絵画協会、巽画会などに所属するものの、画家としての活動記録はほとんど見られず、展覧会出品の記録も明治35年(1902年)の第12回「日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会」、大正2年(1913年)の「表装競技会」など極めてわずかで、人嫌い、変人、果ては楓湖門破門説などに結びつけられ、“幻の画家”と称される由縁となっている。
大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(187… 大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は、明治時代の日本の水彩画家。中丸精十郎、原田直次郎に師事した この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7… 梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の作家北田薄氷。 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英について絵を学ぶ。
井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈186… 井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈1864年〉 - 明治22年〈1889年〉9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。 小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。 井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安… 淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった)。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。 広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。 収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6… 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 安政6年9月15日(1859年10月10日)、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾の地主で、祖父長兵衛は大名家や江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、明治9年(1876年)数え17歳で父を病で失うと、利権も他家に移り家は没落、京橋弓町に移り住む。
荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 -… 荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 - 没年不明)は、明治時代の浮世絵師、日本画家。 河鍋暁斎の門人。通称は三吉。白雲、荒三と号す。麹町区山下町一丁目の荒木喜作の子として生まれた。明治5年(1872年)、満13歳の時、暁斎に入門、修行9年目の明治14年(1881年)には白雲の号を使用している。白雲は仏画、花鳥画を得意としていた。また、同年の第2回内国勧業博覧会に起立工商会社の出品作品として「萩に鶉図」、「花籠図」(ともに絹張りの作品)を出品している。さらに、明治17年(1884年)4月11日から5月30日まで開催された第2回内国絵画共進会に「羅漢」と「枯木に烏」の2点を出品したことが知られている。
川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年… 川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日〈1852年6月13日〉 - 昭和9年〈1934年〉5月16日)は、明治期の洋画家。幼名は庄五郎、諱は修寛(ながひろ)、通称清兵衛、号に時童。本格的な油彩画技法を学んだ最初期の日本人画家で、明治洋画の先駆者のひとり。近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。 江戸麹町表二番町法眼坂上において、御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男・庄五郎として生まれる。川村家は、初期の御庭番の17名の1人・川村新六を祖とし、曽祖父・修富の代から別れた分家であるが、曽祖父・祖父と奉行職を務め御庭番家筋の中でも名門の一つであった。
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(18… 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。
西念 武志(さいねん たけし)は、日本のデザイナー、画家、ク… 西念 武志(さいねん たけし)は、日本のデザイナー、画家、クリエイティブディレクターでビジュアルアーティストである。 東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。ニューヨークに芸術留学。当時描いていたキャンバス画がフランスのファッションブランドの目に止まり、女性像を多く描くようになる。その後は、抽象的な作品が目立ち、反面、社会性の強いコンテンポラリー作品なども発表している。 画家、デザイナーとして活動する一方、クリエイティブディレクターとしての側面もある。電子書籍「音楽絵本」の製作者でもあり、本人が描いた『銀河鉄道の夜』では、デジタルアワードを受賞している。 美に最上の価値を認めるような具象とも抽象ともいえない独特な美しいスタイルが目立つ。
綾崎 りっか(あやさき りっか、2月20日 - )は、日本の… 綾崎 りっか(あやさき りっか、2月20日 - )は、日本の画家、ラジオ・パーソナリティー。 東京都墨田区出身。デザイン学校を卒業。身長156cm(1984年当時)、血液型A型。 TBSラジオ『歌うヘッドライト』のパーソナリティーとして活躍後、趣味の絵画を生業とするようになり、1999年からフランス・パリに在住し、創作活動を行っている。 滝良子 - 綾崎りっか - 小久保尚美 - 滝里美 - 長保有紀 - 島津亜矢 - 岩本公水 若山かずさ - 真木ことみ 岡雅子 - 原田ゆかり - 長山洋子 - 山本智子 岩崎直子 - 石原詢子 - 服部浩子 - 水森かおり 糸川蛍子 - マルシア - 麻生詩織 - 夏木ゆたか - 永井みゆき いすゞ自動車 - TBSラジオ この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
苗村 さとみ(なえむら さとみ)は、日本のイラストレーター・… 苗村 さとみ(なえむら さとみ)は、日本のイラストレーター・画家。東京都出身、女子美術大学卒業。 東京都出身。女子美術大学付属高等学校を経て女子美術大学デザイン科卒業。卒業後に、グラフィックデザイナー、DTPオペレーターとして一般企業に勤務したが、2007年に退社・独立してフリーのイラストレーターとして活動する。 2015年1月、2016年9月、2017年10月に東京吉祥寺のパルコブックセンターで「苗村さとみイラストレーション展」を開催した。 女子美術大学非常勤講師。主に和風ファンタジー、時代小説の表紙や挿絵を手がけている。 アクリル絵の具を使い色を重ねて水彩画風に描く手法で、細密なタッチのイラストを制作している。
大藤 雅幸(おおふじ まさゆき、Masayuki OOFUJ… 大藤 雅幸(おおふじ まさゆき、Masayuki OOFUJI)は、日本の画家、デザイナー、プロデューサー。 画家・デザイナーとして活動する一方、プロジェクトの企画や福祉施設と連携したデザイン活動にも取り組んでいる。 1975年、東京都新宿区生まれ。1990年代後半より画家およびグラフィックデザイナーとして活動を開始し、絵画制作とデザイン制作の双方を軸に活動している。画家としては、油絵科在学中より制作および作品発表を開始し、アクリル板の裏側から着色する技法を用いた作品などを国内外で発表している。 2002年、アラブ首長国連邦シャルジャ美術館で開催された「Japan Visual Art Exhibition」(シャルジャ政府文化情報局主催)に、社団法人国際芸術文化振興会(JACA)主催の公募展「日本ビジュアル・アート展」入賞者から選抜作家の一人として参加した。
奥田 みき(おくだ みき)は日本のイラストレーター、画家。東… 奥田 みき(おくだ みき)は日本のイラストレーター、画家。東京都出身。神楽坂で生まれ育ち、江戸川区小岩在住。 東洋美術学校グラフィックデザイン科卒業。文具メーカーのデザイナーを経て1990年からイラストレーターとして活動をはじめる。 幻想的な作風で「西洋幻想画」と「和テイスト」の2つの画風を描く。スピリチュアルや仏画を題材にした作品が多く、ファンタジー小説の装丁やオラクルカードイラスト、企業カレンダー等を手掛けている。 2017年、「第7回創作表現者展・北見隆賞」受賞。 International Tarot Foundation(国際タロット財団)主催2022 CARTA Awards、「日本の密教カード」海外版審査員部門・準優勝 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。