鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10… 水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10月15日 - 1989年〈平成元年〉6月16日)は、日本の実業家。 山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎・千鶴夫妻の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。国文学者の清水泰は実兄。 旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。 1928年三井物産入社。高崎派出所駐在員を命ぜられ、以後6年間を同地で過ごす。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月… 名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月26日 - 1977年(昭和52年)2月20日)は、日本の経営者。戦後の山梨中央銀行頭取。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)に広瀬久政の三男として生まれ、繁と命名される。山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て大正11年(1922年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行し神戸支店に勤務したが、胸を患い退職。その後、療養しながら東京帝国大学の大学院に在籍し工場経営学を専攻し、東京高等商船学校(現在の東京海洋大学)の講師を務めた。 その間、甲府市長、貴族院議員を務めた甲府市山田町(ようだまち)の商家名取忠愛の二女淑子と大正13年(1924年)11月に結婚し、名取繁と名乗ることとなった。
佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 195… 佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。 山梨県甲府市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業。 南満洲鉄道、富国徴兵保険での勤務、日産生命保険社長を経て、1951年4月から1953年9月までに富国生命保険社長を務め、1953年10月には昭和電工社長に就任。 1959年10月21日自殺により、死去。63歳没。
畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1… 畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1月18日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北都留郡梁川村(現大月市梁川町)で生まれる。尋常小学校卒業後、1906年(明治39年)に上京し、1912年(明治45年)神田工科学校を卒業した。 1914年(大正3年)神田今川橋で酒店を開業。1923年(大正12年)の関東大震災で財産の全てを失ったが、同年、土木建築請負業「畠山組」を設立して復興事業で事業を拡大した。1931年(昭和6年)「大森かに料理つるや」を開業。1934年(昭和9年)帝国無尽 (株) 社長に就任。同年11月、熱海温泉につるや旅館を開業し、のち(株) つるやホテルに改組して社長に就任した。
今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4… 今井 新造(いまい しんぞう、1894年〈明治27年〉1月4日 - 1962年〈昭和37年〉8月23日)は、大正から昭和期の実業家、剣道家、政治家。衆議院議員、剣道七段・教士、範士。 山梨県甲府市魚町(現中央三丁目)で生まれる。1924年(大正13)に分家した。 魚問屋業を営み、山梨モータース商会専務取締役、山梨開発協会取締役、甲府魚市場 (株) 顧問などを務めた。 政界では、山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、第20回総選挙でも再選。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 19… 堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。位階は従三位、勲等は勲一等瑞宝章。 衆議院議員(5期)。最終階級は歩兵少佐、満洲国陸軍少将。父は堀内良平、息子は堀内光雄。孫は堀内光一郎。 山梨県出身。軍人好きであった父・良平の影響を受け、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1925年11月、陸軍大学校(37期)卒。参謀本部ではイギリスを担当する英班に配属されるが、赴任を待てず良平に資金を出してもらい世界一周に出かけた結果、軍人に嫌気がさし帰国と同時に退官を申し出た。石原莞爾などの説得により思いとどまり、陸軍少佐まで進み第9師団参謀を務めた。
天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年… 天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年2月15日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(3期)。山梨県知事(公選第2-5代)。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(のち東山梨郡塩山町→塩山市、現在の甲州市塩山下於曽)の出身。生家は江戸時代には村役人を務める。高等小学校卒業後に上京し、官費の逓信講習所(現在の電気通信大学)入学を望むが果たせずに帰郷し、1911年(明治44年)に下於曽で、政友会代議士でもある田邊七六の経営する田辺酒造店に奉公する。後に北都留郡笹子村(現大月市笹子町)で笹一酒造を創業し、山梨県酒類販売連合会会長などを務める。また、笹子郵便局長を兼ねていた。
荻野 豊平(おぎの とよへい、1891年(明治24年)8月2… 荻野 豊平(おぎの とよへい、1891年(明治24年)8月23日 - 1961年(昭和36年)1月31日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 山梨県中巨摩郡藤田村大字藤田(若草村、若草町を経て現南アルプス市)で、土木請負業・荻野九十郎の長男として生まれる。甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を中退し、家業を継いで荻野組を組織した。1922年(大正11年)甲府市百石町(現丸の内二丁目)に転籍した。 1936年(昭和11年)6月、山梨県会議員に当選し9年間在任し、副議長、議長を務めた。この間、甲府地方裁判所人事調停委員、大政翼賛会山梨県中央協力会議長、県農地委員、甲府市戦災復興参与、県食糧営団理事、県交通協会顧問などを務めた。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月1… 永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月16日 - 1962年(昭和37年)7月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県 甲府市下一条町(現城東)で、雑穀商・永井忠兵衛の長男として生まれる。市立甲府商業学校(現甲府市立甲府商業高等学校)を卒業後、満州、朝鮮に渡ったが帰国した。 1923年(大正12年)3月、横浜の日清製菓 (株) を買収し合資会社に改組して代表社員に就任。その他、日清煉乳取締役社長、ABC製菓取締役社長、日清化学食産社長、早川鉄工監査役、横浜商工会議所議員などを務めた。 1930年(昭和5年)横浜市会議員に選出され同参事会員も務め、1938年(昭和13年)まで2期在任した。
福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年… 福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年2月15日)は山梨県出身の経営者。精養軒社長を務めた。 明治21年(1888年)、父・須田五郎(耕)と母とら(登良)の二男として山梨県東八代郡一宮村で生まれた。須田家は当時でも600年以上続く旧家であり、代々郡中惣代や里正を務めたという。母とらは根津財閥創始者であった根津嘉一郎の姉で、茂富は根津にとって甥であった。 山梨で遊興にふけったのち、24歳で故郷を離れ大磯にあった根津の別荘に住み込んだ。これは茂富の放蕩をいさめるためとも言われ、根津による監禁という表現すら見られる。ここで庭の手入れなど家の下働きに1年ほど従事したのち、1913年(大正2年)に根津が経営するカブトビール(のちの日本麦酒鉱泉)に入社した。
今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)… 今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)8月13日 - 昭和44年(1969年)2月18日)は、山梨県出身の実業家。官選第19代・民選初代甲府市長。 山梨県甲府市魚町(現在の甲府市中央三丁目)に、父「茂右衛門」、母「ゆき」の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、家業の魚問屋に従事した。 大正13年(1924年)2月11日に市政刷新を目指して甲府革新党の結党が企図され、今井は高野孫左衛門(高野毅)、牛山儀助ら同志とともに参加する。大正15年(1926年)5月28日の選挙で甲府市議会議員(在任期間:大正15年(1926年)5月28日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に当選し、昭和5年(1930年)6月には甲府市議会議長(議長在任期間:昭和5年(1930年)6月7日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に就任している。
小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)1… 小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)10月18日 - 1974年(昭和49年)4月24日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県西山梨郡甲府若松町(現甲府市若松町)で小宮山栄兵衛の長男として生まれる。甲府市立小学校高等科を卒業。甲府市内の河内屋古着店に勤める。1902年(明治35年)に上京し家具販売業を創業し、のち鉄鋼原料商を営んだ。1928年(昭和3年)[要出典]に長男英蔵が屑鉄・スクラップ業の小宮山商店を創業し、英蔵は常務取締役として、のちの平和相互銀行を中心とする「小宮山コンツェルン」の基礎を築いた[要出典]。 機械製造販売業も営み、足立鋼管社長、足立産業社長、昭和鋼管社長、協同証券重役、小島特殊機械製作所重役、大洋観光重役、京浜ホテル重役、日本金銀糸工業重役などを務めた。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30… 川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30日 - 1947年(昭和22年)1月9日 )は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員(立憲政友会)、山梨県 北巨摩郡若神子村長。 山梨県北巨摩郡多麻村(須玉町を経て現在の北杜市)で篠原俾孝の二男として生まれ、1900年(明治33年)に若神子村(現:北杜市)の川手四郎兵衛の婿養子として迎えられた。農業を営んだ。 北巨摩郡会議員、若神子村会議員、若神子村長を務めた後、1919年(大正8年)に山梨県会議員に当選し4期在任し、県参事会員、県会議長に在任した。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選し、衆議院議員を1期務め、政友会山梨支部幹事長兼相談役となった。
穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 19… 穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 1958年2月18日)は、日本の明治・大正・昭和期に活躍した実業家・財閥家。甲州財閥の主要人物の一人で、大日本電力(現・北海道電力の前身の一つ)の社長をつとめた他、京王電気軌道(現・京王電鉄)など、経営した企業は約20社に及ぶ。 蛇の目ミシン工業監査役をつとめた穴水勝彦は長男、東京急行電鉄取締役・相模鉄道社長・会長をつとめた穴水清彦は次男である。 山梨県生まれ。輿水家に生まれる。旧制・甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業し、1906年(明治39年)穴水ゆき の入夫となり家督を相続した。 北海道電灯(大日本電力の前身)専務に就任。
堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月… 堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月10日 - 1943年(昭和18年)6月13日)は、日本の海軍軍人(大佐)、実業家である。官位は従六位。 1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。 日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦。仁川沖海戦に参加した。 1904年(明治37年)、連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付としての武勲により功五級金鵄勲章受賞。 1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚。
徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月2… 徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月26日 - 1951年(昭和26年)10月5日)は、日本の実業家、相場師。徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長、日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。 山梨県出身。旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社。入社後頭角を現し、3年後に支配人就任。徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学。その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学ぶ。 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任。
大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月2… 大崎 清作(おおさき せいさく、1876年(明治9年)8月22日 - 1957年(昭和32年)11月23日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・村松。 山梨県巨摩郡南湖村(中巨摩郡南湖村、甲西町東南湖を経て現南アルプス市東南湖)で、村松泰造の二男として生まれる。上京して1899年(明治32年)陸軍砲兵工科学校(のち陸軍兵器学校)を卒業。日露戦争に従軍し、陸軍砲兵上等工長に進んで除隊した。 小石川白山で貸家業などを営む大崎家に奉公してその才幹を認められ、1907年(明治40年)4月、先代・大崎としの入夫となり家督を相続した。小石川貯蓄銀行取締役、春日銀行取締役、江戸川青果社長、共済商工社長、大正製材社長、東洋製氷社長などを務めた。
広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9… 広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9年)2月29日 - 1941年(昭和16年)3月1日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県山梨郡七里村(東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市)で、広瀬久光の六男として生まれる。1911年(明治44年)に分家した。 実兄雨宮亘の養父雨宮敬次郎が経営する岩手県の鉱山業に参画した。仙人製鉄所の専務取締役となり、のち同社長に就任。桂川電力取締役、東京電燈取締役、渡良瀬水力電気取締役、関東水力電気取締役、東信電気取締役、中央電力取締役、京浜電力常務取締役、東京発電監査役、笛吹水力電気監査役、吾妻川電力監査役、和賀軽便軌道社長、仙人山郵便局長、岩手地方森林会議員、鉄道会議議員などを務めた。
三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月1… 三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1952年〈昭和27年〉4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北巨摩郡清春村で三井泉林の長男として生まれる。漢学を修める。1893年(明治26年)、帯広に移り銅鉄金物店を開業。その後、野付牛町の開拓に関わり、農業、鉱山業も手掛ける。北海林産取締役、北海農産工業取締役、北海道造営取締役、北海道拓殖監査役などを務めた。 政界では、帯広町会議員、相続税審査員、所得調査委員を歴任。また、河西支庁選出の北海道会議員を1904年(明治37年)から1916年(大正5年)まで連続4期務めた。その間1910年(明治43年)11月から1913年(大正2年)11月まで第7代同副議長を務めた。
堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23… 堀内 啓治(ほりうち けいじ、1875年(明治8年)5月23日 - 1945年(昭和20年)10月24日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、山梨県南都留郡福地村長。 山梨県都留郡福地村新屋(南都留郡福地村、富士上吉田町を経て現富士吉田市新屋)で、堀内克明の三男として生まれる。東京英語学校、慶應義塾で学んだ。1891年(明治24年)6月、兄昌治から家督を相続し、農業、醤油醸造業を営む。 1906年(明治39年)福地村会議員に選出され、同村長、所得税調査委員、地方森林会議員、福地村耕地整理組合長、日本赤十字社特別社員などを務めた。1907年(明治40年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員となり、1911年(明治44年)10月、県会議員に再選され2期在任した。
手塚 正次(てづか しょうじ、1875年(明治8年)1月22… 手塚 正次(てづか しょうじ、1875年(明治8年)1月22日 - 1924年(大正13年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県中巨摩郡西野村(現南アルプス市)で、代々油屋と称する素封家、手塚八兵衛の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校を卒業後、西野村長を務めていた父の補佐を行った。 1900年、結成された立憲政友会に入党。1903年10月、山梨県会議員に当選。同副議長、同議長を歴任。1907年、明治40年の大水害の救済と復興事業に尽力。同年12月、在家塚村外二ヶ村組合長に当選し、1908年1月まで在任。 1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から出馬し当選。
穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月1… 穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月19日 - 1929年(昭和4年)1月3日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓は小野。 山梨県巨摩郡、のちの北巨摩郡旭村(現韮崎市)で、小野八左衛門の二男として生まれる。甲府市金手町の穴水嘉三郎の店に奉公し、1898年(明治31年)7月、嘉三郎の養子となる。米相場で失敗して破産した。 1901年(明治34年)横浜に移り米穀、肥料、食塩商を営む。1908年(明治41年)上京して富士製紙に入社し、実績を積み1918年(大正7年)専務取締役に就任した。製紙業に重要な電力に関心を向け、1921年(大正10年)北海道電燈(のち大日本電力)を設立して社長となる。
河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月… 河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月18日 - 1959年(昭和34年)6月27日)は、日本の政治家・実業家。号は嘯月、三江。子に河西俊夫。息子の岳母の兄は貴族院議員 小林八右衛門。弟の岳父は貴族院議員 市川文蔵。 山梨県巨摩郡十日市場村(現・南アルプス市十日市場)に生まれる。十日市場村は近世から毎年2月には市立が行われ各地から商人が集った地で、河西家も十日市場村の「山久」の屋号を称する有力商家で、長百姓として村政にも携わっている。父は河西家当主の兵一郎。豊太郎は次男であるが長男は豊太郎出生の前年に死去しており、豊太郎は長男として育てられた。 幼少期に父の兵一郎は死去し、豊太郎は三恵小学校、東八代郡南八代村(現・笛吹市八代町南)の加賀美平八郎の私塾成器社に学ぶ。
三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)1… 三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)10月22日 - 1929年(昭和4年)4月17日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 山梨県都留郡鹿留村(南都留郡桂村、東桂村鹿留を経て現都留市鹿留)で、三枝彦兵衛の長男として生まれる。東京錦城学校(現錦城学園高等学校)で学んだ。1898年(明治31年)家督を相続。 1902年(明治35年)合名会社電灯広告社を創立し代表社員に就任。その他、日本化工取締役、日本乳酸取締役、桂電燈取締役などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治… 網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治3年11月2日)- 1947年(昭和22年)2月18日)は、明治時代後期から昭和時代の日本の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・静。妹の夫は貴族院議員 秋山源兵衛。 網蔵輝祖の孫、輝明の長男として生まれ、1889年(明治22年)2月に家督を相続する。本籍は山梨県北巨摩郡塩崎村(後の同郡双葉町、現在の甲斐市)で農業を生業にした。明治法律学校を修了した。 山梨証券監査役として山梨県多額納税者に列し、1915年(大正4年)貴族院議員に互選され、同年4月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。 ほか、北巨摩郡会議員、同郡塩崎村長を務めた。
雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9… 雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9月2日) - 大正7年(1918年)9月4日)は、日本の実業家。旧姓:広瀬。義父・雨宮敬次郎の死後その全事業をうけつぎ、北海道炭礦汽船、日本製鋼所、桂川電力、日本電燈、大日本軌道などの各取締役、監査役を務めた。栄典は従六位。 明治2年(1869年)7月26日山梨県七里村広瀬久光の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)を首席で卒業。明治27年(1894年)3月に雨宮敬次郎の婿養子となる。敬次郎は工学士である亘に岩手県の仙人鉄山(仙人製鉄所)の経営をまかせた。明治34年(1901年)横川目村の国有林の払下げを受け製鉄所までのトロッコを建設。
浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明… 浅川 浩(あさかわ こう / ひろし、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1949年(昭和24年)2月10日)は、日本の実業家、政治家。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 甲斐国巨摩郡、後の北巨摩郡大泉村(現山梨県北杜市大泉町)で浅川荘衛の長男として生まれる。1883年4月に上京し明治学館で学ぶ。1886年に卒業して帰郷し、農蚕、酒造業を営むが成功せず、1890年、御料局雇となる。 1893年、北海道に移り上川郡旭川村戸長役場筆生に就任。以後、高鷲村戸長、旭川町会議員、同区会議員、旭川市会議員、北海道会議員、北海道教育会地方委員、旭川教育会理事、旭川精米社長、旭川酒造社長、北海畜産社長などを務めた。
生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅう… 生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅううえもん、1868年3月15日(慶応4年2月22日)- 1932年(昭和7年)12月20日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。 甲斐国山梨郡小松村(山梨県東山梨郡春日居村、春日居町を経て現笛吹市春日居町小松)で、豪農・生原広賢、かく の長男として生まれる。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1889年(明治22年)町村制施行以来、春日居村会議員を務め、1894年(明治27年)東山梨郡会議員に当選。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、所得税調査委員、春日居村助役なども務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(… 森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(慶応3年11月15日) - 1938年(昭和13年)3月29日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(山梨県郡部選出、当選1回)。山梨県会議員。族籍は山梨県平民。 甲斐国山梨郡(後の山梨県東山梨郡平等村、現・山梨市)生まれ。森武兵衛の三男。上京し、神田の共立学校に学ぶ。 農業を営む。1885年、家督を相続した。村長就職のほか毎期村会議員に挙げられる。 1894年、郡会議員に当選。1896年、県会議員に当選。1908年、山梨県郡部より衆議院議員に選出される。立憲政友会に所属。 銀行、会社の重役であり、甲府電力、甲東電力各社長、日本勧業銀行顧問、山梨県農工銀行、峡東銀行、甲府電力、甲州電力各取締役、山梨印刷監査役などをつとめる。
藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867… 藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう / むねたろう、1867年4月4日(慶應3年2月30日)- 1927年(昭和2年)2月21日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員、山梨県会議長、山梨県北都留郡上野原町長。 甲斐国都留郡松留村(山梨県北都留郡巌村、上野原町を経て現上野原市松留)で、藤田重兵衛の四男として生まれる。 1903年(明治36年)山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務め、1911年(明治44年)県会議長に就任した。その後、上野原町を務めた。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選。中央線電化促進などに尽力したが、議員在任中の1927年2月、甲府の旅館で急逝し、衆議院議員に1期在任した。
小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年… 小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年4月10日)- 1925年(大正14年)3月1日)は、日本の実業家、投資家である。旧姓、浅川。幼名は国五郎。 甲斐の甲府生まれ。小学校卒業後の1878年(明治11年)に12歳で若尾逸平の門に入り、株式取引を師事する。1890年(明治23年)に若尾が貴族院議員に就任したと同時に秘書を務めた。1895年(明治28年)には、若尾と共に生まれ故郷の甲府で綿や絹の商人として活動した。 1896年(明治29年)、小池銀行創立(組織としては株式会社だが、株式のほとんど全てを小池一族が所有しており、実質的には小池の個人銀行。国三没後の1930年に小池証券に改組し、1943年に山一證券と合併)。
宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865… 宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865年12月18日(慶応元年11月1日)- 1953年(昭和28年)12月5日)は、明治期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山梨県東八代郡境川村長。 甲斐国八代郡小黒坂村(山梨県東八代郡五成村、境川村を経て現笛吹市境川町小黒坂)で、宇佐美太兵衛の長男として生まれる。漢学、英学を学んだ。1879年(明治12年)家督を相続し農業を営む。 1891年(明治24年)郡制施行後の初代東八代郡会議員に選出された。1899年(明治32年)山梨県会議員に当選し2期在任。その他、境川村長(5期)、境川村会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、山梨県農会代表員、山梨山林会副会長、大日本山林会評議員、日本赤十字社特別社員などを務めた。
市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治… 市川 文蔵(いちかわ ぶんぞう、1864年12月19日(元治元年11月21日)- 1935年(昭和10年)5月4日)は、明治時代の山梨県の政治家、実業家である。現在の山梨中央銀行の前身の一つである富士銀行の頭取で、多額納税者として貴族院議員にもなった。また衆議院議員にも選出された。 甲斐国巨摩郡荊沢村(山梨県中巨摩郡五明村、甲西町を経て現在の南アルプス市)に市川太右衛門の長男として生まれる。市川家は山梨県屈指の大地主であり、明治16年(1883年)10月に家督を相続。明治24年(1891年)8月に中巨摩の郡会議員、郡参事会員、山梨県会議員等の職に就く。明治27年(1894年)に所得税調査員となり、数年勤務する。
牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年… 牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年3月14日)- 1918年(大正7年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。 甲斐国都留郡玉川村(山梨県都留郡三吉村、南都留郡三吉村、谷村町を経て現都留市玉川)で牛田八郎の長男として生まれる。1878年(明治11年)上京して同人社で学んだ。1879年(明治12年)8月、家督を相続した。 帰郷後、戸長、組合村長、南都留郡会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、同参事会員、同議長も務めた。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に山梨県郡部で立憲政友会所属で出馬して初当選。
河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文… 河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文久3年1月7日)- 1933年(昭和8年)11月13日)は、明治期から昭和初期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県南都留郡谷村長、同谷村町長。 甲斐国都留郡、のちの谷村(山梨県南都留郡谷村、谷村町を経て現都留市)で、豪農・河口善兵衛の長男として生まれる。和漢学、数学を修めた。1877年(明治10年)1月、家督を相続し農業を営む。 1882年(明治15年)7月、巌村(現上野原市)の古家広泰らの鶴北自由党(のち峡中立憲党)に入党し自由民権運動に加わった。谷村長、谷村町長、南都留郡会議員、同参事会員、所得税調査員を務めた。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出された。
植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日… 植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日(文久2年10月11日) - 1941年(昭和16年)1月17日)は、日本の実業家。族籍は東京府士族。経団連会長植村甲午郎は息子、農学博士の渋沢寿一はひ孫にあたる。甲斐出身。 甲斐国甲府(現山梨県)生まれ。幕臣・植村厚十郎の長男。明治維新の際横須賀に移住する。家は素より貧窮を極めたため、幼い頃から小田信樹の塾僕となり、傍ら漢籍を修めた。 1879年、上京し、開拓使の東京出張所吏員となる。後に大蔵省、農商務省等に勤務し、1887年、逓信省に転じ、累進して管理局次長となる。1889年、官を辞し実業界に入る。 1889年、北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となり、渋沢栄一の勧めで1894年、札幌麦酒専務取締役、1906年、大日本麦酒常務取締役に就任、原料麦の改良、麦芽・ホップの国産化などにつとめた。
戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月… 戸井 嘉作(とい かさく、1862年2月23日〈文久2年1月25日〉 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲民政党)。横浜市会議員。横浜市参事会員。族籍は神奈川県平民。 甲斐国山梨郡下鍛冶屋村(のち山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋、現・山梨県甲府市)生まれ。戸井彦五郎の長男。3歳の時に母りんが亡くなり、専ら祖母ツネに養育される。 7歳より寺子屋に通い、9歳の時に初めて小学校が設けられて入学する。13歳の時に小学校を卒業して甲府の神道局(のち皇典講習所)に19歳まで修業する。20歳の時に神奈川県四等巡査を拝命する。 22歳の時に三浦郡役所準判任御用掛となる。
11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日… 11代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1933年(昭和8年)4月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・平八郎。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で、豪農・10代加賀美嘉兵衛の長男として生まれる。英学、漢学を修めた。 父とは政治姿勢を異にし自由民権運動に加わる。民権派機関紙『峡中新報』の株主総理として経営を行う。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、地方衛生会員、東八代郡会議員なども務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(山梨県第3区、無所属)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5… 飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5年6月8日)- 1933年(昭和8年)12月21日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、山梨県東山梨郡八幡村長。 甲斐国山梨郡、のちの八幡村(山梨県東山梨郡八幡村を経て現山梨市南)で、飯島兵右衛門の長男として生まれた。漢学を修め、1869年(明治2年3月)家督を相続した。 1890年(明治23年)6月に製糸業を創業し、飯島製糸工場主に就任。その他、甲州金鳳社長、峡製糸取締役、七里銀行取締役、丸十繭糸商会重役、甲信石炭商会社長なども務め、蚕糸業など経済界の発展に尽力した。 政界では、1889年(明治22年)八幡村会議員に当選し1910年(明治43年)7月まで在任。
2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安… 2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安政4年12月8日)- 1928年(昭和3年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幼名は隣之助、旧名・林平。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡、現南アルプス市在家塚)で、初代若尾幾造の長男として生まれる。 家業の生糸貿易業に従事し、1896年(明治29年)に家督を相続し幾造(2代)と改名した。神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)と埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)に生繭乾燥所を、また、高座郡鵠沼村(現:藤沢市)に製糸機械場、同郡明治村(現:藤沢市)に第二製糸場を設置して良質の生糸を製造し、海外に本邦蚕糸の優秀性を示して輸出の拡大に貢献した。
菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4… 菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4年10月2日)- 1923年(大正12年)1月15日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・朝次郎、号・東山。 甲斐国山梨郡下萩原村(山梨県山梨郡七里村、東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山下萩原)で、農業・菊島定右衛門、イセの長男として生まれる。下瀬久寿、藤田習斎から漢学を学んだ。 1877年(明治10年)東山梨郡於曽学校事務掛に就任。以後、東山梨郡役所傭、同郡書記を務め、1883年(明治16年)8月に退官。1884年(明治17年)山梨県会議員に当選し2期7年在任した。その他、山梨県学事会員、同蚕糸業取締所議員、東山梨郡蚕糸業組合委員長、所得税調査委員などを務めた。
萩原 眞(はぎわら まこと、1857年 - 1925年9月1… 萩原 眞(はぎわら まこと、1857年 - 1925年9月15日)は、日本人の実業家。庭師。フォーチュンクッキーを作ったという説がある。 山梨県東山梨郡平等村に生まれる。家は農業の傍ら製糸業を営んでいた。15歳の時父親が他界したため業を継ぐが、その後1879年(明治12年)にサンフランシスコに渡る。 1888年(明治21年)にサンフランシスコの中華街の一角に「大和屋」という料理屋を開業し、対岸のオークランドにも料理屋を開くが失敗する。 ゴールデン・ゲート・パーク内でミッド・ウィンタース博覧会(英語版)が開かれた際、喫茶店の出店を申請し許可され、評判が良かったため博覧会が終了した後も公園課の希望によって存続されることになった。