中嶋 豊蔵(なかじま とよぞう、1926年 - 1945年6… 中嶋 豊蔵(なかじま とよぞう、1926年 - 1945年6月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。1945年6月3日に第48振武隊隊員として、沖縄方面にて特攻戦死、享年19歳。 愛知県豊橋市の農家に生まれる。家が貧しかったことから、15歳の時に両親の承諾を経て、陸軍少年飛行兵を受験し、これに合格。少年飛行兵第12期生として大刀洗飛行学校に入校。入校間の給与は、その殆どを故郷の両親に宛てて送金している。昭和19年10月、内地から台湾に渡る途中、同僚で親友だった松本真太治(またじ)軍曹と共に、のちに陸軍最大の特攻隊出撃地となる知覧飛行場に立ち寄り、10日間そこに滞在している。この時、中嶋軍曹たちが食事をしていた所が富屋食堂で、そこの主人が鳥浜トメだった。
崔 慶禄(チェ・ギョンノク、최경록、1920年9月21日 -… 崔 慶禄(チェ・ギョンノク、최경록、1920年9月21日 - 2002年9月2日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。本貫は慶州崔氏。創氏改名時の日本名は新田慶吉。 5・16軍事クーデター当時は朴正煕の直属の上官であり、第四共和国期に22代交通部長官、第五共和国期には国会議員を経て7代駐日大使を務めた。 1920年9月、日本統治時代の忠清北道陰城郡に生まれる。陰城三成普通学校を卒業した後、内地に留学し豊橋中学校で学んだ。 1938年、日本陸軍に志願(志願兵1期)。1939年12月、陸軍兵志願者訓練所を修了して歩兵第79連隊に配属。同世代の中で最も優秀な成績であり、下士官候補生に選ばれた。そこで中隊長の松田靖彦大尉に目をかけられ、彼の推薦で陸軍士官学校の試験にも合格したほか、1942年秋、汝威島での演習中に引き合わされた小野武雄中佐に薫陶を受ける。
伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 -… 伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇「甲標的」艇長としてシドニー湾攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 伴は愛知県で材木店を営む家の三男として生まれた。父は日露戦争で個人感状、功六級を授けられた陸軍軍曹である。海辺に近く、家業のため馬が身近にいる環境で成長した伴は、活発な幼少期を過ごし、水泳、乗馬を得意としていた。進学した刈谷中学では、サッカー選手であった。中学5年での海兵受験には失敗したが、1年の浪人生活のすえ、海兵と陸士に合格し、海兵進学を選択した。伴は16年ぶりの300人クラスであった海兵68期生であったが、最上級生の海兵65期は鉄拳で68期を鍛え上げ、豊田穣によれば68期は「土方クラス」と呼ばれるようになった。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 … 大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身。 大場と大場隊の活躍は、元アメリカ合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日(原題『OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945』)』(1982年刊行。中村定訳、祥伝社)としてノンフィクション小説となった。 2011年(平成23年)にはそれを原作とする映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(監督・平山秀幸)が公開され、竹野内豊が大場役を演じた。
高木 作之(たかぎ さくゆき、1912年(明治45年)7月2… 高木 作之(たかぎ さくゆき、1912年(明治45年)7月29日 - 2003年(平成15年)2月14日)は日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は陸軍で中佐、航空自衛隊では空将。陸軍中将久納誠一(18期)は義父、陸軍少将小藤恵(20期)は義理の伯父にあたる。 1912年(明治45年)7月29日、愛知県で農家高木作芳の次男として生まれた。翌日には明治天皇が崩御している。 愛知県明倫中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科(市ヶ谷本村町)、1931年(昭和6年)に陸軍士官学校本科に入校、1933年(昭和8年)7月に卒業する(陸士45期騎兵科)。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて10番/335名。
杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月1… 杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵56期、海大甲種37期。第5代海上幕僚長、第2代統合幕僚会議議長。 愛知県出身。旧制愛知県熱田中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は海軍大臣秘書官、南西方面艦隊参謀などを経て、終戦時は特殊潜航艇「海龍」36隻、人間魚雷「回天」6隻、「震洋」100隻を擁する横須賀鎮守府第1特攻戦隊第11突撃隊副長。 戦後は公職追放となり、北海道で酪農に従事するが、1953年(昭和28年)10月に海上自衛隊の前身である警備隊に入隊。1963年(昭和38年)7月、第2次防衛力整備計画実施期間中に海上幕僚長となり、第3次防衛力整備計画策定作業に参画した。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 … 牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 - 1996年(平成8年)8月30日)は、日本の海軍軍人、造船技師。東京帝国大学卒業。最終階級は海軍技術大佐。愛知県名古屋市出身。 1902年(明治35年)8月9日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京府立第一中学校、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)、東京帝国大学工学部船舶工学科に入学。大正11年7月、海軍造船学生。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学を卒業(工学士)。 大正14年5月、海軍造船中尉に任官、横須賀鎮守府付。1927年(昭和2年)12月に海軍造船大尉に進級し、1931年(昭和6年)12月から1934年(昭和9年)12月までフランスに駐在し(フランス国立造船大学〈シェルブール〉)、その間の1932年(昭和7年)12月に海軍造船少佐に進級。
金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1… 金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1976年10月29日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官。第三代陸上幕僚監部衛生監。陸将。医学博士。 愛知県名古屋市出身。1919年(大正8年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。第八高等学校を経て、陸軍に入り、1926年(大正15年)東京帝国大学医学部(陸軍依託学生)卒業。同年6月、陸軍二等軍医。同年8月、陸軍軍医学校(~昭和2年6月)。1928年(昭和3年)5月、済南事変のため出征(~昭和4年4月)、1929年(昭和4年)4月、東京帝大大学院耳鼻咽喉科・増田胤次教授に師事(~昭和6年3月)。1929年(昭和4年)8月(一等軍医)。
池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月2… 池田 末男(いけだ すえお、1900年〈明治33年〉12月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人。陸士34期。 太平洋戦争終戦3日後の1945年(昭和20年)8月18日 午前1時30分頃、千島列島(日本領)と南樺太(日本領)の占領を図る赤軍が、占守島(千島列島の北端)に侵攻してきた(占守島の戦い)。 池田は戦車第11連隊を陣頭指揮して赤軍を迎え撃ち、8月18日午前に戦死した(満44歳没)。戦死時の階級は陸軍大佐、戦死により同日付で陸軍少将に進級。 愛知県豊橋市向山町(現)で出生。陸軍憲兵少佐・池田筆吉の五男。兄の池田廉二(陸士23期)は陸軍中将。 愛知県豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)、陸軍中央幼年学校予科(東京陸軍幼年学校に相当)、陸軍中央幼年学校本科(後の陸軍士官学校予科、陸軍予科士官学校)を経て、陸軍士官学校に入校。
堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日… 堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日 - 1953年(昭和28年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。 愛知県東春日井郡篠木村(現・春日井市)出身。父は警察官の堀場司馬次郎。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。娘は詩人・女性史研究家の堀場清子。 (堀場の遺稿をもとに、死後刊行)
那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日… 那須 義雄(なす よしお、1897年(明治30年)9月26日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。陸軍中佐・那須仙太郎の長男として生まれる。名古屋明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し歩兵第33連隊中隊長に就任。 1930年(昭和5年)8月、陸軍戸山学校教官に就任。1931年(昭和6年)3月、陸軍省軍務局課員(兵務課)となり、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級。
横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 19… 横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 1969年12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月… 大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月8日 - 1983年〈昭和58年〉4月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県宝飯郡佐脇村(のち御津村→御津町、現在の豊川市)上佐脇出身。 旧制愛知県第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第94位、卒業時成績順位は96名中第22位。
森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2… 森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2日 - 1960年(昭和35年)6月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。正しくは、「衛」ではなく旧字体の「衞」である[信頼性要検証]。 愛知県出身。旧制明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)を経て、 1917年(大正6年) 海軍兵学校45期で卒業。戦艦榛名、大和などの艦長を務め、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)では第2艦隊参謀長を務めた。この坊の岬沖海戦時の大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(軽巡洋艦矢矧乗組)とは海兵同期である。数少ない戦艦大和沈没時の生存者であった。 海上幕僚監部装備部長、防衛装備庁長官官房装備官を歴任し、2017年(平成29年)12月に退官した舩木洋海将は孫。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。
三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 195… 三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月2… 鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月27日 - 1945年(昭和20年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。愛知県出身。陸士24期、陸大31期。 太平洋戦争開戦時、第25軍参謀長としてマレー作戦・シンガポールの戦いに参画、占領後に起きたシンガポール華僑粛清事件に関与した。第35軍司令官であった1945年(昭和20年)4月19日、フィリピン戦線で戦死。没後陸軍大将に進級。1946年(昭和21年)2月15日、祭資並びに幣帛が下賜された。
加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月2… 加藤 鑰平(かとう やくへい、1891年(明治24年)1月25日 - 1974年(昭和49年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。竹材商・加藤直八の三男として生まれる。明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第18連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)2月から1931年(昭和6年)2月までアメリカに駐在し、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6… 桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6月27日 - 1985年(昭和60年)7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 判事や弁護士を務めた桜井祥造の二男として名古屋で生れる。本籍は山口県萩市。 愛知第四中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年5月、陸軍士官学校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し奈良の歩兵第53連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年11月、陸軍大学校(第31期)を優等で卒業。 その後、参謀本部員(船舶班)、フランス駐在、参謀本部員、歩兵第41連隊大隊長、参謀本部員(船舶班)、兼陸大教官、歩兵第77連隊長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、第14碇泊場司令官、企画院調査官、第1船舶輸送司令部付などを歴任し、1938年3月1日、陸軍少将に進級。
永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月… 永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月1日 - 1979年(昭和54年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県西春日井郡師勝村[要出典](現在は北名古屋市)出身。 愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 歩兵第18連隊中隊長、参謀本部付勤務、支那駐屯軍司令部付、同軍参謀、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)2月から1927年(昭和2年)12月まで、アメリカに駐在。帰国後、陸大教官、参謀本部員、歩兵第68連隊大隊長、支那公使館付武官補佐官、歩兵第49連隊付、関東軍参謀などを歴任。
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月2… 飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる。 1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3… 岩松 義雄(いわまつ よしお、1886年(明治19年)5月3日 - 1958年(昭和33年)4月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧尾張藩士・岩松義行の長男として生れる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業、翌月、陸軍少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 歩兵第61連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部付(支那駐在)、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員、欧州出張、台湾歩兵第1連隊付、台湾歩兵第2連隊長、第5師団参謀長、参謀本部支那課長、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1934年3月、陸軍少将に進級する。
酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年)11月4… 酒井 鎬次(さかい こうじ、明治18年(1885年)11月4日 - 昭和48年(1973年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。鎬次を「たかつぐ」と読む文献もあり、注意を要する。 愛知県出身。農業・酒井鐘之助の二男として生れる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治38年(1905年)11月、陸軍士官学校(第18期、2番/920名)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。大正元年(1912年)11月、陸軍大学校(第24期)を優等で卒業した。 陸軍省軍務局付勤務(軍事課)、フランス駐在、参謀本部員、参謀本部付(平和条約実施委員・欧州駐在)、陸大教官、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員、参謀本部付(国際連盟陸軍代表随員)、歩兵第22連隊長、陸大教官などを歴任し、昭和9年(1934年)3月、陸軍少将に進級。
日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1… 鷲津 鈆平(わしづ しょうへい、1885年1月20日 - 1970年2月20日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月2… 荻洲 立兵(おぎす りっぺい、1884年〈明治17年〉1月24日 - 1949年〈昭和24年〉12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓:伊藤。 愛知県出身。伊藤松左衛門の四男として生まれ、陸軍二等薬剤官・荻洲郁次郎の養子となる。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊補充隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 歩兵第6連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官、スイス駐在、ドイツ駐在、陸大教官、近衛歩兵第4連隊付、歩兵第44連隊長、第11師団司令部付(支那政府応聘、北京陸大教官)、第1師団司令部付、留守第9師団参謀長、第1師団参謀長などを歴任し、1933年10月、陸軍少将に進級。
山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月… 山田 忠治(やまだ ちゅうじ、1883年〈明治16年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月7日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦においては日本初の航空作戦に携わった。最終階級は海軍少将。 愛知県に生まれる。海南中学校を経て明治38年(1905年)11月海軍兵学校(33期)を卒業、明治39年(1906年)12月20日海軍少尉任官。海軍大学校乙種学生を経て大尉任官後の1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員に任ぜられた。7月に渡米して飛行免状を取得し、帰国後は同委員会練習将校の指導に当たった。 1913年(大正2年)6月24日に水上機による世界高度記録(2,500m)を達成したとされる。
田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5… 田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5月20日 - 1952年〈昭和27年〉5月11日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。衆議院議員。 愛知県渥美郡高豊村(現在の豊橋市)出身。1905年(明治38年)、陸軍士官学校を卒業。その後、陸軍大学校を卒業し、第六高等学校勤務、歩兵第41連隊長、麻布連隊区司令官、第5師団司令部附、歩兵第33旅団長を歴任した。1938年(昭和13年)、陸軍中将に昇進し、下関要塞司令官を務めた。1939年(昭和14年)、予備役に編入。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選を果たした。そのため、1946年(昭和21年)に公職追放となった。
馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日… 大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。 愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった。 1876年(明治9年)、愛知県中島郡三宅村(現:稲沢市平和町上三宅上屋敷)で、農業・大角藤平の長男として生まれた。幼名は親一。 1891年(明治24年)3月に中島郡高等小学校を卒業後、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 1897年(明治30年)、24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。
青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日… 青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日 - 1946年(昭和21年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛知県愛知郡長湫村(現長久手市)で、青山甚兵衛の長男として生まれる。1896年(明治29年)陸軍士官学校第8期卒業。日露戦争に出征。 1917年(大正6年)8月に大阪連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1920年(大正9年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1924年(大正13年)2月に陸軍少将・第10師団司令部附となる。その後、1925年(大正14年)4月に歩兵第22旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉… 渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉4月16日 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士8期・陸大17期首席。最終階級は陸軍大将。位階勲等は 従二位勲一等功五級。 1874年(明治7年)、愛知県小牧町(現:小牧市)に生まれる。煙草商である和田武右衛門の長男であったが、19歳の時に、同県岩倉町(現:岩倉市)の母親の実家である農業・渡辺庄兵衛の養子となった。貧窮のために小学校を中退せざるを得なかった。満20歳となった1894年(明治27年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格し、同年8月、陸軍士官学校の召募試験に合格し、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった。
斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、… 斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、1871年〈明治4年〉11月14日 - 1921年〈大正10年〉10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲二等功三級。 愛知県碧海郡土井村辻(現・岡崎市土井町)出身。斎藤兵三郎の四男。赤渋小学校卒業後、同校助教を務め、宮地小学校への合併後も同職。1891年(明治24年)に小学校教員免許を正式に取得。成城中学校を経て翌年桑子小学校訓導となるも、同年士官候補生として近衛歩兵第2連隊に入営。1895年(明治28年)陸軍士官学校第6期卒業。日清戦争では台湾に派遣され、三角湧や龍潭城、新竹を転戦するもマラリアに罹患し新竹兵站病院に入院。
平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治… 原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治元年10月10日)- 1938年(昭和13年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。名前は十吉とも表記される。 三河国加茂郡日明村(のち愛知県東加茂郡豊栄村、松平村、松平町を経て現・豊田市)に原田幸吉の次男に生まれる。家業の農業に従事し、1888年、徴兵検査に合格し、豊橋歩兵第18連隊に入隊する。3年後に除隊、除隊後は帰郷し、農業に従事した。 1894年、日清戦争が勃発し、召集された重吉は平壌の戦いに参加した。9月15日に平壌総攻撃の命令が下り、部隊は玄武門に近づいた。
森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3… 森 越太郎(もり えつたろう、1867年10月11日(慶応3年9月14日) - 1957年(昭和32年)11月3日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 尾張国前飛保村(現・愛知県江南市)出身。1889年(明治22年)に海軍兵学校を卒業し、翌年に海軍少尉に任官した。軍令部参謀、大本営参謀、陸軍大学校教官、海軍大学校教官、高雄艦長、沖島艦長、三笠艦長、海軍水雷学校校長、海軍技術本部第二部長を歴任した。1918年(大正7年)、海軍中将に昇進し、翌年に予備役に編入された。 その後、愛知時計電機株式会社顧問を務めた。 1944年には地元の前飛保にすずり箱を寄贈。それは現在でも同市内の白山社の蔵に保管されている。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1… 八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。
北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 19… 北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は、従四位・勲三等・功四級。陸軍電信部隊の創設者。