白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
柏田 武治(1898年(明治31年) - 没年不明)は、日本… 柏田 武治(1898年(明治31年) - 没年不明)は、日本の発明家。 奈良県五條町出身。奈良県立五條中学校(現在の奈良県立五條高等学校)卒業後に汽車製造株式会社に入社した。 汽車製造に勤務する傍ら大阪工業専修学校高等部機械科を卒業し、逓信省電気主任技術者資格検定試験第二種に合格した。汽缶や火爐に関する研究を行い、特許10件、実用新案9件を取得した。1938年(昭和13年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - … 橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - 1978年3月25日)は、法相宗の僧侶で仏教学者。奈良・薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。 奈良県生駒郡平群村(現在の平群町)に生まれる。本名は東丈太郎。法隆寺の佐伯定胤に唯識を学び、その意向で後継者のいなかった薬師寺に入る。生涯肉食妻帯せず、厳格な仏教僧として活躍する。有名な尼僧が訪ねてきても絶対に寺に入れさせず、その手土産にも口をつけなかった。 あるとき弟子の高田好胤がよその家に呼ばれて、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。
由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年… 由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年3月28日)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 1897年、奈良県添上郡柳生村(現・奈良市)にて、丹生神社の神官の家系に生まれた。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に進学。教員となり、大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学した。 東京高等師範学校では、三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修めた。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。
瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、18… 瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、1895年(明治28年)12月1日 - 1950年(昭和25年)2月7日)は、大正から昭和期の警察官、政治家。衆議院議員、奈良県奈良市長。旧姓・上窪(かみくぼ)。 奈良県山辺郡針ヶ別所村大字馬場(都祁村を経て現奈良市)で、上窪甚三郎の三男として生まれ、同郡福住村(現天理市福住町)の瀧清こふしの養子となる。1915年(大正4年)小倉農業補修学校を修了した。 1916年(大正5年)奈良県巡査となる。以後、1920年(大正9年)巡査部長・高田警察署勤務、1922年(大正11年)奈良県警部補、1924年(大正13年)奈良県警部、1926年(大正15年)郡山警察署竜田分署長、1927年(昭和2年)御所警察署長、桜井警察署長、1928年(昭和3年)高田警察署長、1929年(昭和4年)郡山警察署長、1932年(昭和7年)奈良県警察部高等警察課長、1936年(昭和11年)地方警視・奈良警察署長などを歴任。
前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月1… 前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月15日 - 1986年(昭和61年)7月19日)は、日本の実業家。前川製作所創業者。和敬塾創立者。 1895年、奈良県南葛城郡秋津村(現・御所市室)に林業を営む素封家の家に生まれた。前川福松の三男である。旧制奈良県立畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)卒業。1920年、早稲田大学大学部理工科(機械工学科)卒業。 独立し、1924年、前川商店(現・前川製作所)創業。冷蔵庫製造業を創めた。1955年、東京都文京区目白台に地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮(和敬塾)を創設。 1986年7月19日朝、病により死去。 趣味は読書。
西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月… 西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 - 1970年(昭和45年)3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆。 全国水平社設立の中心人物で差別され苦しんでいた、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。 奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。
伊瀬 幸太郎(伊瀨幸太郎、いせ こうたろう、1894年〈明治… 伊瀬 幸太郎(伊瀨幸太郎、いせ こうたろう、1894年〈明治27年〉12月11日 - 1991年〈平成3年〉1月23日)は、大正から昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員(3期)。 奈良県葛下郡、のちの北葛城郡當麻町(現葛城市)出身。農業を営む。磐城村会議員に選出された。 農民運動に加わり、日本農民組合奈良県連会長、同中央委員、労働農民党奈良県支部連合会書記長、日本労農党奈良県連会長などを務めた。戦後、奈良県労働委員、同農地委員、奈良県指導農業協同組合連合会長、全国農民組合中央常任委員、奈良県農業会議々長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で奈良県全県区から日本社会党公認で立候補して落選。
藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月… 藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月19日 - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 奈良県宇智郡北宇智村近内(現在の五條市)出身。北宇智村長・藤岡長二郎の三男として生まれる。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。 1920年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警視、広島県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、東京府総務部長、警視庁警務部長などを歴任。 1938年2月、香川県知事に就任。
中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - … 中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - 1968年8月1日)は、日本の経済学者、元京都帝国大学教授。文学博士。ナチス研究により戦後公職追放された。川田順の「老いらくの恋」騒動の当事者の一人。 富山県上新川郡熊野村江本(現:富山市江本)の農家、中川滋次郎・チイ夫妻の次男に生まれる。苦学して特待生で東京高等師範学校に入学、卒業後、奈良県郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)で教師をしたあと、1924年に京都帝国大学経済学部卒業、大学院に進み、30歳の時に下宿先の娘鈴鹿俊子(17歳)と結婚、一男二女を儲ける。 1928年に大学院を中退して京大講師となり、1930年助教授、1931年から1933年まで文部省の辞令によりドイツ留学、1943年教授。
北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2… 北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2日 ‐ 1989年(平成元年)6月7日)は、日本の労働官僚・経済学者。國學院大學名誉教授。北岡伸一の大叔父。 奈良県吉野町出身。旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学政治科卒業。農商務省に入省し、内務省の外局として社会局が設置されると同事務官に就任した。1929年(昭和4年)社会局労働部監督課長、1936年(昭和11年)国際労働機関(ILO)事務所長などを歴任。1939年(昭和14年)に退官すると同時に、東京帝国大学経済学部教授に着任する。1941年(昭和16年)には住宅営団研究部長・理事に就任する。 戦後は1946年(昭和21年)経済安定本部第4部長を皮切りに、1948年(昭和23年)東宝取締役に就任。
米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月… 米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 神奈川県愛甲郡林村(現・厚木市林)に生まれる。 1914年(大正3年)3月、奈良県丹波市町(現・天理市)の私立天理中学校を卒業し、1919年(大正8年)9月に台湾総督府に奉職する。高雄州属、府属を経て、1939年(昭和14年)3月、地方理事官に進み、高雄州旗山郡守に就任した。
鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日… 鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日 - 1939年1月16日)は、奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)出身で荒磯部屋(当初は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は西本 増太郎。身長178cm、体重105kg。最高位は西小結。得意手は右四つ、吊り、泉川、突っ張り。 1911年(明治44年)2月場所に「大鶴」の四股名で初土俵を踏んだが病に罹り帰郷、間もなくして「若ノ川」の四股名で大坂相撲に出ていた。1912年(明治45年)5月場所で東京相撲に復帰し三段目から再出発、一旦序二段に陥落した場所もあったが、三段目に復帰し、幕下へと番付を上げていき、1918年(大正7年)1月場所で新十両。
阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年… 阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月19日)は、日本の部落解放運動家、社会運動家、政治家。全国水平社創設者の1人。「水平社」「糺弾」の名称の考案者。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現在の御所市)出身。清三郎の次男。生家は被差別部落のなかでも裕福な地主で、膠製造業を営む。 御所高等小学校をへて1907年に奈良市立商業学校に入学、廃校のため大阪市の成器商業学校に転じて卒業する。1909年、柏原に青年共和団を組織して部落の生活改善につとめる。 家業の膠製造技術の向上を図るために必要な化学を学ぶため、上京して東京工科学校(現・日本工業大学)に遊学する。
不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年… 不染 鉄(ふせん てつ、1891年6月16日 - 1976年2月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本画家。 1891年(明治24年)6月16日、東京・小石川の光円寺住職であった不染信翁の子として生まれる。本名は哲治。のち哲爾に改める。別号に鉄二。「不染」の名字は、平民苗字必称義務令にあたり父・信翁自らが名乗ったものだという。当時一般には僧侶の妻帯を認められておらず、母との関係はふせられたまま不染は光円寺で育てられた。 こうした複雑な境遇から、不良少年とみなされていたという。小学4年の春に千葉県富浦の西方寺で修行させられた後、芝中学校、攻玉社中学校、大正大学などで学ぶ。画を志し、山田敬中に師事。
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月… 寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 和歌山県伊都郡平野村(隅田村大字平野を経て現橋本市)で、八幡社神官・寺本政吉の三男として生まれる。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任。
藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月… 藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月13日 - 1966年3月6日)は、奈良県宇智郡北宇智村近内(現五條市)出身の内務官僚、俳人(俳号:玉骨)。奈良県宇智郡北宇智村初代村長の藤岡長二郎の長男。 自宅「藤岡家住宅」(奈良県五條市)は2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録された。
関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 -… 関 俊吉(せき しゅんきち、1888年(明治21年)1月 - 1961年(昭和36年)5月8日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(奈良県第一区選出、当選1回)。岡合名会社、大和毎日新聞社各社長。関藤商店取締役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。呉服商、実業家関藤次郎の二男。実業家関信太郎の弟。専修大学経済科卒業。東洋拓殖、豊国火災保険各会社員となる。1915年、分家して一家を創立する。 1924年、第15回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。立憲民政党に所属。関は新思想の所有者として普通選挙の即行を高唱していた。奈良県在籍で、住所は奈良市紀寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
今村 荒男(いまむら あらお、1887年(明治20年)10月… 今村 荒男(いまむら あらお、1887年(明治20年)10月13日 - 1967年(昭和42年)6月13日)は、日本の内科医学者。学位は、医学博士。大阪大学名誉教授。大阪大学総長。日本学士院会員。文化功労者。 奈良県生駒郡安堵町出身。衆議院議員今村勤三の四男。今村幸男、今村奇男の弟。1912年、東京帝国大学医科大学卒業。東京帝国大学伝染病研究所に入る。1922年、医学博士の学位を取得。1925年、大阪府立医科大学教授に就任。1931年、大阪帝大教授。微生物病研究所長、奈良県立医学専門学校(奈良県立医科大学の前身)初代校長、大阪大学学長を歴任する。1951年、日本学士院会員。1960年、文化功労者。
嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 19… 嶋中 雄作(しまなか ゆうさく、1887年2月2日 - 1949年1月17日)は、昭和期の出版人・編集者。中央公論社社長。奈良県生まれ。兄は社会運動家の島中雄三。 奈良県磯城郡三輪町(現在の桜井市)出身。島中雄碩の四男。社会主義運動家で文筆家だった兄雄三と混同されることが多かったため、姓を先祖の「嶋家」に因み「嶋中」に変えた。 奈良県畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)を経て1912年10月に早稲田大学文学部哲学科を卒業後、恩師の島村抱月、金子筑水両教授の推薦で中央公論社に入社した。1913年、『中央公論』の婦人問題特集号を企画、これが成功したことを追い風にして1916年、『婦人公論』の創刊にこぎつけ編集長となる。
富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月… 富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。尾竹紅吉は妻。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男。 大阪府平群郡安堵村(現・奈良県生駒郡安堵町)の大地主の家に生まれ、幼少より絵を学ぶ。東京美術学校図案科に入学して建築、室内装飾を専攻。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響され1908年(明治41年)、卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品にふれる。ロンドンで建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡る。実家から帰国命令が届いたため1910年(明治43年)帰国。
森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1… 森岡 二朗(もりおか じろう、1886年〈明治19年〉5月1日 - 1950年〈昭和25年〉12月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、台湾総督府総務長官。 森岡万平の二男として奈良県山辺郡丹波(現:天理市)で生まれる。郡山中学、四高を経て、1911年(明治44年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し内務省に入省。兵庫県警部に任官し警察部保安課に配属された。 1912年(大正元年)10月、兵庫県出石郡長に就任。以後、兵庫県理事官、同県警視、青森県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁刑事部長、警視庁官房主事、京都府書記官・内務部長などを歴任。1923年(大正12年)の関東大震災当時は神奈川県警察部長で、大阪府知事、兵庫県知事、千葉県知事、茨城県知事、横須賀鎮守府、横須賀軍港停泊中の艦船および大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社に至急官報で救援を要請した。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月… 青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月24日 - 1944年〈昭和19年〉2月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県、現在の奈良市出身。布帛製品製造輸出業に従事し、メリヤス同業組合代議員、大阪輸出協会理事、大阪貿易同盟会理事を務めた。1919年(大正8年)9月25日に大阪府会議員に当選して、1931年(昭和6年)9月24日に退任するまで務めた。そのほか同参事会員、所得税調査委員、借地借家、小作、商事各調停委員となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において大阪府第3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
駒井 藤平(こまい とうへい、1885年(明治18年)3月2… 駒井 藤平(こまい とうへい、1885年(明治18年)3月21日 - 1967年(昭和42年)1月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、奈良県生駒郡南生駒村長。 奈良県平群郡小瀬村(生駒郡南生駒村大字小瀬、生駒町を経て現生駒市)で、酒造業・駒井藤太郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)大阪府立農学校(のち大阪獣医畜産専門学校)を卒業した。 帰郷して農事試験場技手兼生駒郡立郡山農学校(現奈良県立郡山高等学校)教諭に就任。その後、家業の酒造業に従事した。南生駒村会議員となり、1925年(大正4年)奈良県会議員に当選。1926年(大正5年)南生駒村長に就任し4期在任した。
川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月2… 川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。郡山信用金庫専務理事。華道衡山流家元。号は見真斉一舟(けんしんさいいっしゅう)。 奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺町(現・大和郡山市洞泉寺町)に生まれる。川本増蔵の長男。郡山中学校を卒業する。貸座敷業を営む。遊廓改善等に奮闘努力する。 郡山町会議員に7回当選する。郡山信用金庫専務理事、奈良地裁調停委員、司法保護委員、郡山町農業会長をつとめる。 青年時代、非常な運動家で、特に野球の選手として活躍した。趣味は書画、骨董、読書。住所は奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)。
望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月… 望月 政友(もちづき まさとも、1884年(明治17年)2月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡兄井村(見好村兄井を経て現かつらぎ町)で、実業家、政治家・望月右内の長男として生まれる。居村小学校、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 その後、農商務省に入省し、特許局に配属され1909年(明治42年)6月まで在任した。退官後に帰郷し、1917年(大正6年)1月、家督を相続し家業に従事。同年、玉川水道取締役となり、その他、東京電燈などの経営に参画した。
松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1… 松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1月20日 - 1952年(昭和27年)9月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。奈良県奈良市長。貴族院多額納税者議員。 奈良市出身。松井元淳の長男として生まれる。奈良県立五條中学校(現・奈良県立五條高等学校)、第四高等学校(現・金沢大学)大学予科第一部を経て、京都帝国大学法科に入学するが中途退学する。 製墨業を営み、1921年(大正10年)10月に奈良製墨同業組合長に就任。ついで産業銀行監査役などを経て、1927年(昭和2年)2月に奈良市町総代協会長に当選。さらに同年4月に奈良市学務委員、6月に奈良実業協会総務委員長に推された。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日… 喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日 - 1952年(昭和27年)5月21日)は、日本の工業化学者である。京都帝国大学名誉教授。 奈良県生まれ。郡山中学を経て、京都市の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)卒業後、上京し東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。1906年(明治39年)に同大学を卒業後は、翌1907年(明治40年)に同大学の講師を経て1908年(明治41年)には同大学の助教授に昇格した。1916年(大正5年)に京都帝国大学(現在の京都大学)に転勤し、同大学の工科大学(現在の京都大学大学院工学研究科・工学部)の助教授として活動し後に研究のため欧米に留学する。
越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)… 越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)11月26日 - 1961年(昭和36年)10月20日)は、明治末から昭和前期の産業組合運動家、政治家。衆議院議員。 奈良県添上郡発志院村(治道村、生駒郡郡山町を経て現大和郡山市発志院町)で、越智太郎の長男として生まれた。1902年(明治35年)奈良県立郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。農業に従事。 1911年(明治44年)2月、発志院信用組合を設立し組合長に就任。以後、同組合の規模を拡大し、産業組合の普及と実践に尽力した。1917年(大正6年)奈良県信用組合連合会が設立され監事に就任し、理事、常務理事を歴任。1930年(昭和5年)奈良県購買販売組合連合会が設立されると理事に就任し、1931年(昭和6年)県信用組合連合会、県購買販売組合連合会の各会長となり、1935年(昭和10年)両組合が合併して奈良県信用購買連合会が設立すると同会長に就任。
中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10… 中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10月3日 – 1964年(昭和39年)1月19日)は、日本の鉄道官僚。実業家。教育者。 奈良県吉野郡十津川村出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。逓信省鉄道局に入り、逓信書記官、鉄道院参事、同理事、中部鉄道管理局運輸課長、逓信大臣秘書官、鉄道院総裁秘書、鉄道省運輸局長、鉄道次官を歴任した。 退官後は、東京地下鉄道副社長、日満亜麻紡織株式会社取締役、玉川電鉄取締役、池上電気鉄道取締役、目黒蒲田電鉄取締役、東京横浜電鉄取締役、東武鉄道取締役、理研重工業取締役、鉄道同志会理事・副会長・会長、ジャパンツーリストビューロー常務理事、帝国自動車協会副会長、日本交通協会常務理事・会長、日満実業協会監事・常務理事、東亜経済懇談会常務理事、東京商工会議所交通部長、鉄道軌道統制会会長、東京帝国大学経済学部講師、拓殖大学講師、昭和高等鉄道学校校長、豊島商業学校校長、東京交通短期大学学長など多くの公職に就いた。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2… 江藤 源九郎(えとう げんくろう、1879年(明治12年)2月25日 - 1957年(昭和32年)5月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 東京府神田区で江藤源作(江藤新平の弟)、はま夫妻の二男として生まれる。その後、父の転勤で奈良に移転。奈良県尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、1899年11月21日、陸軍士官学校(11期)を卒業。1900年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第38連隊付となる。1904年3月から1905年1月まで日露戦争に出征した。 以後、参謀本部副官、関東都督副官、台湾歩兵第1連隊大隊長、八代連隊区司令官、新発田連隊区司令官、歩兵第53連隊長、歩兵第38連隊長などを歴任。
上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月… 上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月8日 - 1936年〈昭和11年〉12月1日)は、日本の政治家・衆議院議員(奈良市選出、憲政会)、会社重役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。奈良県生駒郡伏見村(現・奈良市)、平民・上村光亨の長男。郡山中学校、第三高等学校を経て、1905年、京都帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得た。1907年、家督を相続した。 大韓帝国財務官兼農工銀行監理官、東洋拓殖参事、奈良銀行(のち国立六十八銀行、現南都銀行)監査役、豊国火災保険東京支店長、同社支配人、千日土地建物取締役等を務めた。 1917年(大正6年)4月20日に実施された第13回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27… 乾 政彦(いぬい まさひこ、1876年(明治9年)11月27日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、奈良県出身の法学者、弁護士、貴族院議員。弟の東季彦と共に佐佐木信綱門下の歌人としても知られた。 十津川村出身。旧姓中垣。1889年、養子として乾家に入る。郷校文武館(現在の奈良県立十津川高等学校)を経て、1888年に上京。旧制日本中学校から第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学を卒業後、同年、東京高等商業学校(現一橋大学)の講師に着任した。 1901年、文部省留学生としてドイツに渡り、ボン大学で民法を研究。1904年に帰国後、1905年から東京高商教授を務め、1914年に法学博士号を受けたが、1915年に弁護士へ転じ、1920年に東京高商が大学に昇格するまで非常勤講師として教鞭を執った。
平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11… 平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11月17日 - 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の実業家、政治家。沖縄の寄留商人で貴族院多額納税者議員を務めた。勲等は勲四等。 奈良県添上郡手貝町(現奈良市手貝町)で、平尾喜八の長男として生まれる。1883年(明治16年)、一家で沖縄に渡った。 反物行商などに従事し、雑貨商となり平尾商店を設立した。その後、奄美大島に支店を設け琉球反物を取扱い、さらにアサヒビール、味の素の沖縄代理店となる。1915年(大正4年)三共組帽子商会を設立しアダン葉帽子の製造・販売を行う。その他、南陽酒造社長、沖縄県酒造組合長、同顧問、同連合会長などを務め、1935年(昭和10年)10月、那覇商工会議所が設立され初代会頭に就任した。
山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)1… 山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)11月16日 - 1930年(昭和5年)12月13日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 名東県山田郡、後の香川県山田郡前田村(木田郡前田村を経て現高松市前田)で山田光次郎の長男として生まれる。1904年(明治37年)1月に家督を相続した。奈良県立郡山尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、第三高等学校を卒業した。 その後帰郷し、1917年(大正6年)、香川県下の養蚕業振興のため木田郡に製糸工場を開設し、木田郡農会長、大日本山林会特別議員、香川県製糸組合長、同県農会副会長、同県蚕糸業同業組合連合会組長などを務めた。
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2… 米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2月1日 - 1945年〈昭和20年〉12月18日)は、日本の社会学者。京都帝国大学教授。文学博士。日本聖公会の信徒。 奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)で農業を営む八十平の長男として生まれた。生地は被差別部落であった。1878年、村立辰市小学校に入学。 1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)に入学。1887年、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)に転校。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受けた。1891年に同校を卒業。 1891年、恩師アイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師を嘱託されるにあたり、助手として上京。
木本 源吉(きもと げんきち、1872年6月15日(明治5年… 木本 源吉(きもと げんきち、1872年6月15日(明治5年5月10日)- 1944年(昭和19年)1月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、奈良県奈良市長。 奈良県添上郡紀寺村(奈良町を経て現奈良市)で、豪農・木本孫治郎の長男として生まれる。同志社政法学校で経済を学んだ。 帰郷して家業に従事し、1910年(明治43年)8月、家督を相続した。奈良銀行頭取、産業銀行頭取、奈良県農工銀行取締役、日本勧業銀行地方顧問、奈良実業協会会長、奈良県実業連合会会長、奈良教育会会長、兵事会会長、日本赤十字社奈良委員長、大日本武徳会地方委員、恩賜財団済生会評議員、大和山岳会長などを務めた。
津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明… 鶴ヶ濱 熊吉(つるがはま くまきち、1870年7月16日(明治3年6月18日) - 1939年(昭和14年)2月6日)は、奈良県添上郡(現在の奈良市)出身で小野川部屋、八角部屋、中立部屋、再度八角部屋に所属した力士。4代伊勢ヶ濱。世話人。本名は清水 熊吉。170cm、101kg。最高位は前頭3枚目。 大坂相撲に所属していたが、同郷の司天龍政吉(北葛城郡出身)を慕い、1891年1月に八角部屋に加入。序ノ口からの初土俵となる。四股名は司天龍の前の四股名の鶴ヶ濱を名乗る 。恵まれた体格を持ちながらも昇進は遅かった。しかし、1897年1月にようやく十両に昇進すると、1898年5月には新入幕。以後18場所幕内を務め、1907年1月に引退、4代伊勢ヶ濱を襲名。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4… 片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4月11日)- 1940年(昭和15年)10月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県磯城郡川西村長。 大和国式下郡結崎村(奈良県式下郡川西村、磯城郡川西村を経て現川西町結崎)で、郡山藩大庄屋、同藩の金子御用達を務めた片山家当主・片山太平(太兵衛)の長男として生まれた。1883年(明治16年)家督を相続し農業を営む。1886年(明治19年)郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。 川西村会議員を務め、1905年(明治38年)川西村長に就任。その他、磯城郡会議員にも在任した。中山梅治郎の死去に伴い、1919年(大正8年)11月に実施された第13回衆議院議員総選挙奈良県郡部補欠選挙で当選し、衆議院議員に1期在任。
森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)… 森 正(もり ただし、1867年5月9日(慶應3年4月6日)- 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和前期の実業家、銀行家、政治家。衆議院議員。 大和国式上郡、のちの奈良県式上郡三輪村(式上郡三輪町、磯城郡三輪町、大三輪町を経て現桜井市)で、森五郎の長男として生れた。1886年(明治19年)上京して政治経済学を学んだ。1892年(明治25年)4月、アメリカ合衆国に留学し商業学を学び、さらにイギリスに留学して1899年(明治32年)に帰国した。 帰国後、実業界に入り、中央商業銀行頭取、工商貯蓄銀行取締役、日本製糸取締役、大和電気取締役、三輪素麺同業組合長などを務めた。また、郷土の将来有望な青年の育成に尽力し援助を行った。
乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2… 乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2年11月4日) - 1936年(昭和11年)8月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 大和国平群郡、のちの奈良県生駒郡平端村(昭和村、郡山町を経て現大和郡山市)出身。漢学を学ぶ。金糸巻機械を発明し、その製造に当たる。平端村長、生駒郡会議員、奈良県会議員、同参事会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において奈良県郡部から無名倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1936年に死去した。
坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年… 坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年7月1日〉 - 1949年〈昭和24年〉12月29日)は、日本の篤農家、政治家(奈良県南葛城郡会議員)、社会運動家。部落解放運動家阪本清一郎の従兄弟。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現・御所市)の被差別部落出身。掖上村柏原北方区長を務める。 自由党に入って自由民権運動をおし進める。融和事業に取り組み、1912年、松井庄五郎の大和同志会結成に参加し、副会長となる。 柏原や奈良県内の自主的部落改善運動の中心を担った。 寺田蘇人著『部落の人豪』には、奈良県南葛城郡の部落の人豪として清俊の名前が挙げられている。 阪本清一郎は坂本清俊の影響を大きく受けている。