木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明… 木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明)は、和歌山県出身のプロ野球選手(外野手)。 粉河中学ではエースを務め、1学年下の伊勢川真澄とバッテリーを組んでいた。 1939年に南海軍に投手として入団するが、この年は僅か3試合の出場に留まる。なお、この年は鶴岡一人や岡村俊昭といった、後にコーチや監督として南海黄金期を支える人物も入団している。2年目から外野手に転向すると出場が増加し始め、3年目の1941年には捕手に転向。そこでレギュラーとなるが、その年末に応召。 戦後の1946年に南海改め近畿グレートリングに復帰するも、1年で解雇。翌1947年に国民リーグの唐崎クラウンに数少ないプロ野球経験者として入団。
那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 … 那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、1920年8月15日 - 1994年12月22日)は、和歌山県日高郡日高川町(現役時代は、同郡矢田村)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は柏木 佐平(かしわぎ さひら)。最高位は西前頭19枚目(1950年9月場所・1951年1月場所)。現役時代の体格は182cm、99kg。得意手は右四つ、三所攻め、大股、小股掬い。 1937年5月、横綱・武蔵山の一行が巡業で和歌山市内を訪れた際に出羽海親方(元小結・両國)の熱心なスカウトを受け、それに応じて出羽海部屋へと入門。同年5月場所で初土俵を踏み、翌年5月、本名でもある「柏木」の四股名で序ノ口に付いた(その後、「那智ノ海」を経て「那智ノ山」へ改名している)。
西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 20… 西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)、コーチ・監督、解説者・評論家。 選手としては、社会人野球の星野組時代に選手兼任監督として都市対抗野球大会で優勝し、その戦力を見込まれて他のメンバーとともに入団した毎日オリオンズでは最初の日本選手権シリーズにも出場して優勝を経験した。 現役引退後、40歳でオリオンズ(当時は「大毎オリオンズ」)監督に就任して初年度にリーグ優勝を達成する。以後61歳で退任するまで、3球団で合計8回のリーグ優勝を成し遂げた。阪急ブレーブスと近鉄バファローズでは弱小チームを鍛えて強豪に育てあげ、その手腕が高く評価されて野球殿堂の表彰者となった。
添田 清美(そえだ きよみ 1920年4月1日 - 2021… 添田 清美(そえだ きよみ 1920年4月1日 - 2021年12月11日)は、日本の寺庭婦人、高野山の宿坊ビジネスの元祖。センテナリアン。旧姓・土生川。 和歌山県出身、和歌山県立橋本高等女学校卒業、東京女子大学卒業。 教師の家に生まれ育つ。女学校で英語が好きになり、教育熱心な親のおかげで大学進学し英語を専攻する。卒業後は横浜正金銀行に就職したものの、東京が空襲を受けるようになったことから帰郷。帰郷後は周囲から女学校での家庭科教師になるように望まれていたのに対し、本人は英語教師を希望していたが敵性語のために叶わなかった。1946年に高野山の宿坊・蓮華定院に嫁ぐ。戦後の宿坊には進駐軍が訪れるようになり英語力が役立った。
赤井 彰(あかい あきら、1919年6月8日 - 1998年… 赤井 彰(あかい あきら、1919年6月8日 - 1998年1月21日)は、西洋史学者、獨協大学名誉教授。フランス史が専門。 和歌山県橋本市出身。1941年東京帝国大学文学部西洋史卒。北海道大学助教授、獨協大学教授、1989年定年退任、名誉教授。1998年、呼吸不全のため死去。
和田 教美(わだ たかよし、1919年3月21日 - 200… 和田 教美(わだ たかよし、1919年3月21日 - 2001年1月12日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、朝日新聞論説委員。 和歌山県和歌山市出身。1939年官立和歌山高等商業学校(現和歌山大学経済学部)卒業、朝日新聞社入社、東京本社政治部次長、大阪本社経済部長を歴任。 1964年東京12チャンネル(現テレビ東京)、21時朝日新聞ワイドニュース司会。1969年朝日ジャーナル編集長就任。その後、東京本社出版局次長、朝日新聞論説委員となる。 1983年第13回参議院議員通常選挙に公明党から比例代表で初当選。なお非創価学会員であった[要出典]。1989年第15回参議院議員通常選挙にて再選。1994年新進党結成に加わる。
和歌ノ海 忠次郎(わかのうみ ちゅうじろう、1919年2月1… 和歌ノ海 忠次郎(わかのうみ ちゅうじろう、1919年2月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。和歌山県田辺市出身。本名は峰 忠次郎(みね ただじろう)。身長180cm、体重92kg。最高位は東十両6枚目。得意技は左四つ、押し。 1937年1月場所に初土俵を踏む。1943年5月場所に十両に昇進。この場所は5勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に陥落した。1945年6月場所に十両に復帰したが、3勝4敗と負け越した。翌11月場所は初日から全休、この場所限りで26歳で廃業した。左四つの相撲が得意だったが、押し相撲でも良く、組んでも離れても巧さが光る取り口であった。
森本 修(もりもと おさむ、1919年1月1日- 1998年… 森本 修(もりもと おさむ、1919年1月1日- 1998年9月28日 )は、日本の農林官僚。農林中央金庫理事長を務めた。 和歌山県海南市出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年に農林省に入省した。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。第103軍需部に配属。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し、海軍省軍務局第4課員として終戦を迎えた。 戦後、農林省に復帰。1965年6月に農林経済局長に就任し、1966年9月に農政局長、1968年6月に水産庁長官、1969年11月に食糧庁長官、1970年8月に農林事務次官、1973年7月に農業信用保険協会理事長を経て、1977年5月には農林中央金庫理事長に就任。
藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11… 藤堂 恭俊(とうどう きょうしゅん/やすとし、1918年11月19日 - 2000年12月14日)は、浄土宗僧侶・仏教学者。 和歌山県田辺市出身。父は藤堂祐範。大正大学仏教学科卒、1944年同研究科修了。1979年「日中浄土教思想史の研究」で佛教大学文学博士。佛教大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。浄土宗大本山知恩院浄土宗学研究所研究員、増上寺法主。
吉村 茂夫(よしむら しげお、1918年5月10日 - 20… 吉村 茂夫(よしむら しげお、1918年5月10日 - 2009年12月9日)は、日本の実業家。南海電気鉄道(南海電鉄)元社長・会長。 和歌山県岩出市出身。大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業後の1942年に南海鉄道へ入社。常務取締役、専務取締役を経て、1985年に南海電鉄代表取締役社長に就任し、1992年に代表取締役会長を歴任。 社長時代の1988年4月、南海ホークスのオーナーだった川勝傳の死去に伴い、後任としてオーナーを務めた。前任者の川勝時代から大阪スタヂアムを含めた「難波再開発」(後の「なんばパークス」)案が浮上した時から川勝は「ワシの目が黒いうちは球団は売らん!!」と表面上は強い姿勢を見せていたが(ただし青木一三は、川勝が秘密裏に売却先の候補として来島どっくやダイエーと接触していたことを自著で証言している)、南海ホークスは年間10億円の赤字だった。
中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1… 中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1970年2月27日)は、和歌山県出身のプロ野球選手(三塁手)。
湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年… 湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5 期)。 1918年、和歌山県海南市生まれ。和歌山県立和歌山中学校を経て第三高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学法学部在学中、高等文官試験行政科試験に合格。大学卒業後、厚生省に入省した。短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年4月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年8月、経理学校を卒業。飛龍に配属。第15警備隊勤務を経て、1942年8月、旭東丸主計長に就任。同年11月、主計大尉に進み、以後、第二軍需部部員、第四南遣艦隊スラバヤ連絡所長を歴任し同副官として敗戦を迎えた。1945年9月、海軍主計少佐に進む。
大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 197… 大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 1975年10月4日)は、日本の政治家。2人目の和歌山県公選知事(1967年4月23日 - 1975年10月4日)として3期を務めた。長男は前和歌山市長の故 大橋建一。 和歌山市出身。父の仕事の関係で京畿道京城府(現・ソウル特別市)に生まれた。第五高等学校を卒業。1941年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部卒業後、内務省に入省し千葉県属となる。千葉県警察部勤務を経て、短期現役海軍主計科士官(8期)を志願。1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎え解員(復員)した。
岡 彦一(おか ひこいち、1916年12月22日 - 199… 岡 彦一(おか ひこいち、1916年12月22日 - 1996年1月4日)は、日本の育種学者。国立遺伝学研究所名誉所員。日本農学賞受賞。 和歌山県和歌山市生まれ。1940年北海道帝国大学農学部卒業、大原農業研究所助手。台北帝国大学教授、台中農林専科学校(現国立中興大学)教授を経て、1954年国立遺伝学研究所に着任。1963年日本農学賞受賞。1980年定年退職、国立遺伝学研究所名誉所員。1996年勲三等瑞宝章受章。イネの遺伝育種学研究の第一人者として知られた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 19… 小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 1992年)は、日本の水泳選手。 和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身。紀の川で泳いだ。近代水泳黎明期を代表する名選手として知られた。ロサンゼルスオリンピック、ベルリンオリンピックの競泳日本代表として活躍した。ベルリンでは400メートル自由形で6位入賞。この順位は、自由形女子としては千葉すずが後に並ぶまで日本選手団の最高位だった(のちにアテネオリンピックにて柴田亜衣が800メートル自由形で優勝したことで最高位を更新)。 日本選手権では女学校時代に200メートル自由形で7-9回大会まで3連覇、100メートル自由形でも7回大会に勝っている。同郷の前畑秀子と親交が厚かった。
平松 小いとゞ(ひらまつ こいとど、1916年(大正5年)9… 平松 小いとゞ(ひらまつ こいとど、1916年(大正5年)9月26日 - 1944年(昭和19年)6月7日)は、日本の俳人。 和歌山県新宮市出身。父・竈馬の影響下、高濱虛子に師事、時にユーモアを交えた繊細で家庭的な温もりを持つ作風であったが、学徒動員で出兵、中国河南省での作戦に従軍、戦闘中に敵軍の銃弾に斃れた。《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》は、出兵に際しての遺書とも取れ、命日は「白紙忌」と名付けられた。 1916年(大正5年)9月26日、父・平松竈馬(「ホトトギス」俳人、本名義彦、俳号はいとどとも、いとゞとも記される)、母・おとえの長男として、和歌山県東牟婁郡新宮町磐盾に生まれる。本名は一郎。
二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1… 二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1915年9月21日 - 1986年11月26日)本名:高川格(たかがわ かく)は、日本の囲碁棋士。本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格(たかがわ しゅうかく)と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。和歌山県出身、光原伊太郎名誉八段門下。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数の、昭和を代表する名棋士の一人。「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風。 和歌山県田辺町(現在の田辺市)生まれ。6歳頃に父の影響で碁を覚え、1925年に9歳で棋士を目指して上京し日本棋院に通うが、事情により2か月で帰郷する。
鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明… 鈴木 鶴雄(すずき つるお、1915年4月1日 - 没年不明)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。
浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月… 浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月17日 - 2001年〈平成13年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第15代舞鶴地方総監。海機45期。最終階級は海軍少佐、海将。 1914年(大正3年)12月17日、浜口徳兵衛・くにの長男として和歌山県新宮市で誕生。浜口家は代々三重県二木島町で廻船問屋を営んでいたが、海事代理士となった父・徳兵衛の代に勝浦港へ移住。浜口は中学卒業まで本籍地である和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で過ごした。 1932年(昭和7年)、新宮中学を卒業し海軍兵学校を受験するも失敗。 叔母・美代子が熊野速玉大社宮司・上野殖に嫁いでいたことから、浪人中に新宮市の神倉神社(熊野三山の元宮)の社務所に間借りする。
神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1… 神前 善一(こうざき よしかず、1914年8月19日 - 1984年2月6日)は、日本の経営者。和歌山県出身。 1932年に和歌山商業学校を卒業し、同年に松下電工に入社。1947年7月に取締役に就任し、1955年1月に常務、1964年9月に専務を経て、1977年2月には社長に就任。1982年2月から副会長を務めた。 1984年2月6日急性心筋梗塞のために死去。69歳没。
前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年〈大正3年〉5月20… 前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年〈大正3年〉5月20日 - 1995年〈平成7年〉2月24日)は、日本の水泳選手、日本初のオリンピック女子金メダリスト(1936年 ベルリンオリンピック)。位階は従四位勲三等、栄典は瑞宝章、紫綬褒章、文化功労者。和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身、結婚後は兵藤 秀子(ひょうどう ひでこ)として活動。戸籍名は「兵藤 ヒデ子」。橋本市名誉市民。 1914年(大正3年)和歌山県伊都郡橋本町で豆腐屋を営む家に生まれ、紀ノ川で泳ぎを覚える。尋常小学校5年生のとき女子50メートル (m) 平泳ぎで学童新記録を出し、高等小学校2年生のとき汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝した。
那須 宗一(なす そういち、1914年3月9日 - 1990… 那須 宗一(なす そういち、1914年3月9日 - 1990年9月10日)は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。元淑徳大学学長。専門は、老人社会学、社会病理学、犯罪社会学。 和歌山県田辺市生まれ。1934年大阪府立浪速高等学校卒業。1937年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1951年東洋大学文学部助教授、1953年中央大学文学部教授に就く。1958年中央大学文学部教授、1966年経済企画庁国民生活審議会委員、1972年東京都老人総合研究所副所長、日本老年学会理事、日本老年社会科学会会長。1984年中央大学を定年退職、名誉教授。淑徳大学学長。同学長在職中に死去。
畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日… 畑中 武夫(はたなか たけお、1914年(大正3年)1月1日 - 1963年(昭和38年)11月10日)は、日本の天文学者。日本の電波天文学の開拓者として知られている。 和歌山県田辺市に生まれたが、少年時代に新宮市に引っ越したので、同市を出身地とした。旧制新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)時代から科学雑誌を読み、天文学を志す。旧制第一高等学校を経て、1937年東京帝国大学理学部天文学科卒業。はじめは理論天体物理学を専攻し、東京大学助手を経て、1945年講師となる。萩原雄祐の下で惑星状星雲の放射機構を研究し、同年9月、学位論文「惑星状星雲に於ける電離ヘリウム、二重電離酸素及び二重電離窒素原子間の光学的交互作用理論(英文)」により、理学博士の学位を取得。
大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985… 大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985年5月12日)は、日本の商工官僚。電源開発総裁、共同石油社長。大堀孝の長男。 和歌山市出身。高輪尋常小学校、旧制武蔵高校を経て、1936年に東京帝国大学法学部卒業、同年、商工省入省。貿易局属。同期に小室恒夫(通商局長、新日鉄化学社長)、村田恒、皆川良三(札幌通産局長)、永野量、佐藤清一(共に東京通産局長)など。 戦後の1948年兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。のち商工省から新制通産省と改称の後もしばらくは、吉田茂や白洲次郎、初代通産省官房長の永山時雄らの「外交派」・「通商派」らが実権を握っていたが、その後の朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらの自由経済から方向転換、主流の「産業派」もしくは「統制派」の復権後は、永山が東京通産局に、大堀も中小企業庁長官ののち経済企画庁に出された。
菊池 謙一(きくち けんいち、1912年11月10日 - 1… 菊池 謙一(きくち けんいち、1912年11月10日 - 1970年2月12日)は、日本の農村運動家、日本共産党員。 和歌山市出身。1938年東京帝国大学文学部西洋史科卒業。都新聞記者から世界経済調査会米国経済研究所に転じた。戦争で長野県に疎開。戦後、長野県で日本共産党に入党し、農村運動に従事する。ソ連のヤロビ農法を広め、日本ミチューリン会創設に尽力。その影響は全国に及び26年、ミチューリン会誕生時には約3000人の会員がいた。
竹中 正一郎(たけなか しょういちろう、1912年9月30日… 竹中 正一郎(たけなか しょういちろう、1912年9月30日 - 1997年4月7日)は、日本の長距離走選手、体育学者。東京歯科大学名誉教授。 和歌山県出身とされるが、出生地はインドのボンベイ(ムンバイ)。1930年(昭和5年)、旧制和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高等学校)卒業。慶應義塾大学文学部に進む。 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には第12回大会(1931年)から第17回大会(1936年)まで6回連続で出場、区間賞3回。第13回大会(1932年)では大会1週間前に風呂場で転倒した影響で右膝を負傷し、痛み止めを打って走りながらも8区区間2位で、今井哲夫・北本正路らとともに慶應義塾大学の箱根駅伝初優勝に貢献した。
谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 19… 谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 1971年11月8日)は、日本の実業家、競走馬生産者、馬主。 関西でゴルフ場を運営するタニミズ企画株式会社の創業者。サラブレッド競走馬のオーナーブリーダー(生産馬主)としても著名であり、北海道にカントリー牧場を創業してタニノムーティエなど数々の活躍馬を輩出した。 1912年、和歌山県に生まれる。後に大阪府へ移って町工場規模の鉄工所を営んだが、太平洋戦争中に大阪大空襲で工場を焼かれ、一時廃業を余儀なくされた。終戦後は京都府に移り、駄馬による運送業を営んで資力の立て直しを図った。後に新たな鉄工所「マルナカ製作所」を興し、当時人気のあったポン菓子の製造機を量産、関西で8割のシェアを獲得した。
津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月2… 津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月26日 - 1997年(平成9年)1月7日)は、和歌山県御坊市出身の書家。本名、津村 俊次郎(つむら しゅんじろう)。小林増石に書の手ほどきを受け、炭山南木に師事する。 1953年(昭和28年)、日展に初入選を果たし、以後連続入選する。1962年、自身の一門として『石門会(せきもんかい)』を創設。1963年に、日展で特選を得た後は、1966年に日展委嘱、1974年に日展審査員となる。1970年に和歌山県立日高高等学校を退職し、続いて大阪教育大学講師となる。御坊市文化賞、国際アカデミー賞、和歌山県文化功労賞、田辺市特別表彰などを得る。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 -… 正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 - 1994年4月17日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、経済企画庁長官。
山本 藤枝(やまもと ふじえ、1910年〈明治43年〉12月… 山本 藤枝(やまもと ふじえ、1910年〈明治43年〉12月7日 - 2003年〈平成15年〉7月7日)は、日本の児童文学作家、翻訳家、女性史研究家。 本名・フジヱ(旧姓・岡村)。筆名に露木 陽子(著書節、再話・翻訳節参照)。夫は児童文学作家、詩人の山本和夫。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 和歌山県伊都郡笠田村(現・かつらぎ町)生まれ。高等女学校を経て東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業。卒業後は神奈川高等女学校(現・神奈川学園中学校・高等学校)の教諭を務め、のちに結婚退職した。 1977年『細川ガラシャ夫人』で産経児童出版文化賞受賞。 子ども向けの伝記、海外作品の再話・翻訳した著作を多く物するとともに、とりわけ日本史上の女性の生涯の執筆に意を注いだ。
前田 佳都男(まえだ かづお、1910年11月24日 - 1… 前田 佳都男(まえだ かづお、1910年11月24日 - 1978年1月4日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。参議院副議長(第13代)。科学技術庁長官(第26代)。息子は法務大臣を務めた前田勲男。 和歌山県出身。東京法学院卒で伊那合同銀行取締役を務めた前田友次郎の長男。旧制和歌山県立伊都中学より旧制浪速高等学校文科甲類を経て1934年東京帝国大学法学部政治学科卒業。 逓信省に入省後、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどに留学を経験し1937年小倉郵便局長、1943年貯金局企画課長、郵務局逓送課長、郵務局次長などを歴任し、1955年大阪郵政局長を最後に退官。政界入りを目指し翌年の参議院選挙に和歌山県地方区から自由民主党公認で立候補し初当選。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 19… 島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 1978年2月20日)は、日本の実業家。チッソ代表取締役社長として、水俣病患者との交渉にあたった。 和歌山県田辺市出身。1934年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)入社。1949年、日本窒素肥料水俣工場総務部長。同年、日本窒素肥料営業部長。1950年、新日本窒素肥料営業部長。1952年、第二営業部長。1955年、繊維部長。1956年、ミナロン営業部長。1959年、取締役。1963年、常務取締役。1967年11月、副社長。 1971年5月26日に開かれた株主総会は一株運動との対決で大きな騒動となり、チッソは世論の厳しい批判を浴びた。
河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 20… 河本 春男(かわもと はるお、1910年3月28日 - 2004年1月27日)は、愛知県出身の実業家、サッカー選手・指導者。 愛知県の出身。1923年に入学した愛知県立刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)時代よりサッカーを始める。1928年に入学した東京高等師範学校(現・筑波大学)でも蹴球部(現在の筑波大学蹴球部)に所属した。1932年に同校を卒業後は兵庫県立第一神戸中学校の体育教諭となり、同校サッカー部の部長も務め、同年に開催された全国中等学校蹴球選手権大会で優勝に導いた。 1941年に第二次世界大戦に伴って従軍するが、1943年に除隊した。1947年より実業界に進んで、1958年に「アルプスバター神戸直売所」を創業。
法眼 晋作(ほうげん しんさく、1910年2月11日 - 1… 法眼 晋作(ほうげん しんさく、1910年2月11日 - 1999年7月24日)は、日本の外交官。インド大使、外務審議官、外務事務次官、国際協力事業団総裁などを歴任した。
根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)… 根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 2001年(平成13年)7月17日)は、昭和から平成時代の陸水学者、藻類学者。特に珪藻学の分野における貢献で知られる。 和歌山県那賀郡池田村(現・紀の川市打田)の豪農の長男として生まれる。和歌山県立和歌山中学(現・ 和歌山県立桐蔭高等学校)、東京高等師範学校理科三部を経て、東京文理科大学生物学科植物学専攻に入学する。1934年(昭和9年)同大学を卒業と同時に母校の助手となり、1944年(昭和19年)東京高等師範学校教授、1946年(昭和21年)東京文理科大学助教授となる。その後、1948年(昭和23年)11月に大津臨湖実験所(現・京都大学生態学研究センター)に異動する。
阪田 泰二(さかた たいじ、1910年1月27日 - 196… 阪田 泰二(さかた たいじ、1910年1月27日 - 1968年10月7日)は、日本の大蔵官僚。
笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月1… 笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月19日)は、日本の精神科医。東京大学名誉教授。 和歌山県生まれ。海南中学校卒、第三高等学校卒、1936年東京帝国大学医学部卒、1952年「N2ガス吸入による意識喪失の研究」で医学博士。1956年東京大学医学部助教授、同附属病院精神神経科科長、教授。1971年定年退官、名誉教授、国立精神衛生研究所長、財団法人神経研究所長。
西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - … 西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月30日)は和歌山県の政治家・郷土史家。和歌山県東牟婁郡四村の村長、本宮町町議会議員をつとめた。政治家の職を退いた後、熊野九十九王子の調査に従事した。 西は1909年(明治42年)8月20日、和歌山県東牟婁郡四村(和歌山県田辺市本宮町)に生まれた。新宮中学校を中退した後、家業の林業に一時従事したが、陸軍に入隊し、郷里を出た。第二次大戦中は満州で軍役に就いたが、敗戦とともにソ連に抑留され、1949年(昭和24年)に帰国した。帰国後、1949年から四村の村長に就任し、水害にあった村の復旧など、政治家としての手腕を振るったが、1951年(昭和31年)に四村ほかいくつかの町村が合併して本宮町が成立する際の町長選で落選した。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994… 新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994年7月18日)は、日本の経営者。 和歌山県和歌山市出身。1927年に海草中学校を卒業し、同年に南海鉄道(南海電気鉄道の前身)に入社し、1959年6月に総務部長に就任した。その一方で、1964年10月から1974年10月までに南海ホークス球団社長を務め、1972年にはパ・リーグ理事長に就任した。 1994年7月18日、急性肺炎のために堺市の病院で死去。85歳没。
壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2… 壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2月27日 - 1979年(昭和54年)9月13日)は、和歌山県田辺市出身の童謡詩人。本名は春之助。別号を芳花、青華。 金子みすゞや島田忠夫の童謡集を出版したことでも知られる。 第16回久留島武彦賞を受賞。 1924年(大正13年)頃より童謡を書き始め、『赤い鳥』『童話』『金の船』(のち金の星と改題)などの雑誌に作品を発表する。 同志社高等商業学校を卒業後、1974年(昭和49年)まで外務省に勤務する。 その間、1970年(昭和45年)に季節の窓詩舎から『金子みすず童謡集 繭と墓』を発行した。同書のあとがきには「下関の商品館から投稿していた」という記述があり、これが後に金子みすゞが再発見される大きな手がかりとなった。
藤本 一郎(ふじもと いちろう、1909年1月21日 - 1… 藤本 一郎(ふじもと いちろう、1909年1月21日 - 1998年8月27日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。 和歌山県新宮市出身。1928年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に川崎造船所に入社。1950年8月に川崎製鉄に転じ、1953年10月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1964年6月に副社長に就任した。1966年7月に社長に昇格し、1977年6月には会長に就任し、1981年6月から相談役を務めた。社長在任時には、千葉製鉄所や水島製鉄所などの臨海大型製鉄所の建設と溶鉱炉の大型化を推進し、1974年にはブラジルにツバロン製鉄を設立し、川崎製鉄の基盤を築いた。 日本鉄鋼協会会長も務めた。
五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973… 五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973年)は、日本の技術者、都市計画家。土地評価の基準となっている区画整理の根幹である土地評価の定型化を図るため、路線評価方式を考案した。 1909年、和歌山県和歌山市に生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校、旧制大阪高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年東京府に入った後、1934年に内務省に移り都市計画課に勤務。1941年に内務省国土局計画課に勤務する。荒川上流改修事務所戸田工場主任として戸田ボートコース新設に従事。その後北支建設給署で都市局技術と計画の各課長をつとめる。 1946年、戦災復興院に移籍し土地局工務課勤務。
石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年… 石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月4日 - 1988年2月18日)は、昭和期の教育者。文化学院の創立者である西村伊作の長女。英文学を専攻し、1931年に母校文化学院の教授となり、1963年から父の後を継ぎ、校長になる。 1908年(明治41年)、父・西村伊作、母・光恵の長女として和歌山県新宮市に生まれる。9歳の頃に父が英訳本から訳し聞かせた『ピノキオ』を文章化、絵を描いて1920年(大正9年)に『ピノチヨ』として出版される。1921年(大正10年)に父がアヤのために設立し校長を務める文化学院に入学。やがて文化学院を卒業すると、追加創設された本科(大学部)に進学する。1928年(昭和3年)文学科を終えると卒業式をまたず渡米し、アメリカのマウントホリヨーク大学に入学する。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
和歌嶌 三郎(わかしま さぶろう、1906年9月22日 - … 和歌嶌 三郎(わかしま さぶろう、1906年9月22日 - 1961年3月4日)は、和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)出身の元大相撲力士。本名は松井 三郎(まつい さぶろう)。 「和歌嶋」と表記する文献が多いが、番付上では「和歌嶌」の表記である。 1906年9月22日に和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)で生まれる。和歌山県立田辺中学校に通っていたが、相撲の強さを同郷の高ノ山三郎に見出されたため、3年生で中途退学して入間川部屋へ入門、間もなく出羽海部屋へ転属した。四股名は郷里・和歌山県に因んで「和歌嶌」とした。 1923年1月場所で初土俵を踏むと、スピード出世で1928年5月場所で新十両昇進、その十両も僅か2場所で通過し、1929年1月場所で新入幕を果たした。
柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月… 柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月17日 - 1985年(昭和60年)2月18日)は、日本の行政法学者。学位は、法学博士(1952年)。日本学士院会員。東北大学名誉教授。行政法学から憲法の諸問題を研究する。その理詰めの論述は、ハンス・ケルゼンに通ずる。和歌山県生まれ。美濃部達吉門下。 参考文献:藤田宙靖『行政法学の思考形式〔増補版〕』(木鐸社・2002年)
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
坂田 秀雄(1905年(明治38年)) - 没年不明)は、日… 坂田 秀雄(1905年(明治38年)) - 没年不明)は、日本の発明家。 和歌山県和歌山市出身。和歌山中学校を経て慶應義塾大学法学部を卒業する。写真を趣味とし、モルタ合資会社に入社し、同社の支配人兼工場長を務めた。