丸竹夷(まるたけ えびす、1994年2月11日 - )は、日… 丸竹夷(まるたけ えびす、1994年2月11日 - )は、日本の教育者、YouTuber。福岡県久留米市出身。愛称は、丸竹さん、夷先生など。YouTubeにおいて、高校生に向け授業動画を配信している。 1994年2月11日、福岡県久留米市にて出生。 八女学院高等学校に入学し、進路を選ぶ際に「福岡県で小学校の先生になりたい。」と考えるようになり、福岡教育大学初等教育教員養成課程数学選修に入学。数学科を選んだのは「就職に有利そうだから。」という単純な理由だったが河合塾で一年間浪人する。 その浪人期間中に会った講師の影響で日本史に興味を持ち、予備校に通学する時間を使って「Youtubeで日本史の勉強をしたい。
梅崎 伸幸(うめざき のぶゆき 1983年7月1日 - )は… 梅崎 伸幸(うめざき のぶゆき 1983年7月1日 - )は、日本の実業家、教育者。福岡県福岡市出身。沖学園高等学校卒、東海大学政治経済学部卒。株式会社Sun-Gence代表取締役。日本のプロeスポーツチームDetonatioN Gaming CEO、日本eスポーツ連合所属。 東海大学卒業後に新卒で重電メーカー企業に就職し、それから7年間は営業職として勤務していた。入社の5年目位に当時のゲームのオリンピックであるWorld Cyber Gamesに出場することを目的としたチーム「DetonatioN」を結成。2012年12月にはWorld Cyber Gamesに出場するも惨敗に終わる。当初は趣味の延長で作ったチームであったが、再びWorld Cyber Gamesへの出場を目指すことで、本格的なチームを目指すようになる。
下野 六太(しもの ろくた、1964年5月1日 - )は、日… 下野 六太(しもの ろくた、1964年5月1日 - )は、日本の政治家、教育者。公明党所属の参議院議員(2期)、同党参議院国会対策委員会副委員長、同党福岡県本部副代表、参議院災害対策及び東日本大震災復興特別委員長、日本野鳥の会会員。 30年間にわたって中学校の保健体育教諭を務め、2019年の参議院議員選挙で福岡県選挙区から立候補し当選。当選後、農林水産大臣政務官(第2次岸田内閣)、公明党文部科学部会長代理などを歴任。 北九州市八幡西区出身。太宰府市立学業院中学校・福岡県立筑紫高等学校を経て、1987年3月に、島根大学教育学部を卒業。2018年に、福岡教育大学大学院の修士課程を修了。 1989年4月、福岡県の公立中学校の保健体育科教諭(地方公務員)として採用。
大江 佳子(おおえ けいこ、1962年10月4日 - )は、… 大江 佳子(おおえ けいこ、1962年10月4日 - )は、日本の教育者。社会福祉法人清香会理事長。 1962年福岡県生まれ。福岡県立京都高等学校卒業。武庫川女子大学文学部教育学科初等教育専攻卒業。 主体的に行動し、自立した人間形成を促すモンテッソーリ教育で、日本各地に幼児教育施設を展開。幼児教育の場における信念を元に実践し、子どもたちの教育・育成に尽力。社会福祉法人清香会りとるぱんぷきんずグループ統括園長。自身の園長経験と学びをもとに、リーダー層のための園研修、講演活動など行う。元國學院大學幼児教育専門学校、鶴川女子短期大学非常勤講師。
片峯 誠(かたみね まこと、1956年〈昭和31年〉3月30… 片峯 誠(かたみね まこと、1956年〈昭和31年〉3月30日 - 2023年〈令和5年〉9月25日)は、日本の政治家、教育者。福岡県飯塚市長を2期務めた。 飯塚市出身。第一薬科大学薬剤学科卒業。 1982年(昭和57年)4月に飯塚市立飯塚第一中学校の教諭となり、1991年(平成3年)4月に飯塚市立鎮西中学校の教諭となる。2004年(平成16年)4月、穂波町立穂波西中学校(現・飯塚市立穂波西中学校)の校長に就任。2010年(平成22年)5月、飯塚市教育委員会教育長に就任。 2017年(平成29年)1月11日、平日の開庁時に賭けマージャンをしていたことが発覚した飯塚市の齊藤守史市長と田中秀哲副市長は記者会見を開き、1月31日付で辞職すると発表した。
下地 敏雄(しもじ としお、1955年 - )は、日本の教育… 下地 敏雄(しもじ としお、1955年 - )は、日本の教育者。福岡県大牟田市出身。大牟田北高等学校卒、明治大学文学部卒。血液型A型。 久留米市立荒木中学校の国語教師だったが、2012年(平成24年)3月で依願退職した。 TBS『さんまのSUPERからくりTV』内の「GTO下地先生のウキウキ出張個人面談教室」で「オネェキャラ」で一躍人気者になる。初登場は、同番組の「からくりみんなの!かえうた」コーナー。『ウキウキwatching』の替え歌『ウキウキ teacher』を歌った。他にも美空ひばりの『お祭りマンボ』の替え歌を歌ったこともある。2009年(平成21年)5月24日の放送をもってテレビ出演をやめたが、2009年(平成21年)11月1日「さんまのスーパーからくりTV」に復帰した。
國武 豊喜(くにたけ とよき、1936年(昭和11年)2月2… 國武 豊喜(くにたけ とよき、1936年(昭和11年)2月26日 - )は、日本の化学者・教育者・会社役員。理研ベンチャーである株式会社ナノメンブレン取締役および北九州産業学術推進機構の理事長。北九州市立大学元副学長。 福岡県久留米市に生まれ、久留米大学附設高等学校卒業後、九州大学工学部応用化学科に入学。大学4年時に秋吉三郎教授、麻生忠二助教授の高分子化学講座へと配属される。修士課程修了後、秋吉教授の「アメリカの大学院を範とする基礎研究重視の大学院教育システムの確立」のため、ペンシルベニア大学の博士課程へと進学する (Ph.D. Adviser, Charles. C. Price)。約2年半で博士学位を取得し、カリフォルニア工科大学のCarl G. Niemann Groupで博士研究員として研究を行う。
中野 三敏(なかの みつとし、1935年《昭和10年》11月… 中野 三敏(なかの みつとし、1935年《昭和10年》11月24日 - 2019年《令和元年》11月27日)は、日本の教育者・文学者(日本近世文学)。位階は従三位。学位は、文学博士(早稲田大学・1982年)。九州大学名誉教授。文化功労者。文化勲章受章。 正則高等学校教諭、愛知淑徳短期大学国文学科助教授、九州大学文学部教授、九州大学文学部長、福岡大学人文学部教授などを歴任。 福岡県生まれ佐賀県武雄市育ちの日本文学研究者である。江戸から明治期の近世文学を中心に研究する。九州大学文学部学部長などを務め、のちに名誉教授となった。 福岡県に生まれ佐賀県武雄市で育つ。父 中野敏雄は戦前、高額納税者で貴族院議員、戦時中は、海軍参与官で、戦後GHQにより公職追放にあったが、後1954年に合併によって誕生した佐賀県武雄市の初代市長に就任。
芝 竹夫 (しば たけお、1935年 - 2013年10月2… 芝 竹夫 (しば たけお、1935年 - 2013年10月2日)は、日本の教育者。福岡県田川郡内の小学校、中学校教諭。社会運動家。 愛知県名古屋市に生まれる。1943年に福井県小浜市に疎開。同時期に俳優の山城新伍、俳人の島田玲子も同市に疎開していた。1947年福岡県筑豊にて育つ。 1958年北九州市立大学外国語学部米英科卒業。のちに福岡県田川郡内の小学校、中学校教諭を務め、1995年定年退職。 2013年10月2日死去。
三隅 佳子(みすみ よしこ、1934年〈昭和9年〉9月7日 … 三隅 佳子(みすみ よしこ、1934年〈昭和9年〉9月7日 - 2018年〈平成30年〉9月7日)は、日本の地方公務員、教育者である。専門は家政学、ジェンダー問題。 福岡県北九州市出身。福岡県立小倉高校、共立女子大学を卒業後、5年間小学校の教員を務めた。退職後は子育てに専念する中でPTAや母の会の活動を始め、1978年(昭和53年)、北九州市社会教育指導員となる。 その後短大講師を経て1982年(昭和57年)、北九州市役所で初めて民間出身の女性管理職となり、翌1983年(昭和58年)には初代の婦人対策室室長に就任。1990年(平成2年)には市民局女性行政推進部長、併せて財団法人アジア女性交流・研究フォーラムの専務理事にも就任した。
木下 謙治(きのした けんじ、1933年 - )は、日本の社… 木下 謙治(きのした けんじ、1933年 - )は、日本の社会学者、教育者。山口大学名誉教授である。 1933年、静岡県で生まれる。1943年、戦火を避けるため、福岡県に移住。福岡県立京都高等学校を卒業。1958年3月、九州大学文学部卒業し、同大学院文学研究科社会学専攻博士課程に進むが、1963年に中退。その後、1986年に山口大学人文学部教授、1996年-1997年に九州大学文学部教授に就任する。続いて、1997年-1998年筑紫女学園大学文学部教授、1998年-1999年に福岡県立大学人間社会学部教授、2001年に筑紫女学園大教授、2004年-2006年まで宇部フロンティア大学人間社会学部教授に歴任。
品川 洋子(しながわ ひろこ、1931年 - )は、日本の教… 品川 洋子(しながわ ひろこ、1931年 - )は、日本の教育者。東京都出身。福岡県にて育つ。「女性校長の草分け的存在」と紹介されることがある。 1931年、東京府に生まれる。12歳のとき、戦時疎開で、現在の福岡県みやこ町へ移住。京都高等女学校(現・福岡県立京都高等学校)を経て、1953年に福岡学芸大学(現・福岡教育大学)中学校教育課程社会科を卒業する。 教職に就き、1992年に北九州市の公立中学校校長をもって定年退職する。同年より福岡教育大学教育学部講師となる。 2001年、九州産業大学大学院国際文化研究科国際文化専攻で修士号を取得した。 2002年、九州女子大学文学部教授を定年退職する。 2007年、北九州森鷗外記念会会長に就任。
岩橋 徹(いわはし とおる、1927年9月4日 - )は、日… 岩橋 徹(いわはし とおる、1927年9月4日 - )は、日本の地質学者、教育者。静岡大学名誉教授。 1993年4月1日-1994年8月常葉学園大学教育学部教授。 2010年4月瑞宝中綬章受章。 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに生まれる。1945年福岡県立中学修猷館、1948年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1952年九州大学理学部地質学科を卒業。同年同大学大学院前期課程(旧制)に入学し、1954年4月中退して同大学理学部助手となる。 1962年3月九州大学より論文「”佐世保炭田”炭の石炭化度の地質学的研究」で理学博士の学位を取得。1964年4月九州大学教養部講師となる。 1965年4月静岡大学教育学部助教授に転じ、1970年6月同教授に就任。
乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月… 乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月22日 - 2011年(平成23年)6月27日)は、日本の地震学の研究者・教育者。元日本地震学会・物理探査学会会長、九州大学・秋田大学・東北大学・東京大学地震研究所・工業技術院地質調査所(現・産業技術総合研究所)教授等を歴任。 1923年(大正12年)11月22日、福岡県に生まれ。福岡縣中學傳習館(現・福岡県立伝習館高等学校)を経て、興亜工業大学(現・千葉工業大学)に進学し、その後、東北大学で地球物理学について学ぶ。1949年(昭和24年)には同大助手となり、1956年(昭和31年)には秋田大学鉱山学部助教授に任官。1968年(昭和43年)の十勝沖地震や1983年(昭和58年)の日本海中部地震の時には地震調査を主導した。
栗本 尊子(くりもと たかこ、1920年(大正9年)5月9日… 栗本 尊子(くりもと たかこ、1920年(大正9年)5月9日 - 2019年(平成31年)1月22日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。二期会名誉会員(2017年時点)本名、栗本 尊(くりもと たか)。旧姓は、小鳥居。 福岡県筑紫郡大宰府町(現:太宰府市)にて、安楽寺五別当の小鳥居家の五女として生まれる。福岡女学校(現:福岡女学院中学校・高等学校)卒業。1941年(昭和16年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業。リア・フォン・ヘッサートに師事。1946年(昭和21年)長門美保歌劇団プッチーニ『蝶々夫人』のスズキ役でデビュー以来、長門美保歌劇団で活躍。1952年(昭和27年)に旗揚げされた二期会に参加。
三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田… 三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田、1918年〈大正7年〉3月13日 - 2005年〈平成17年〉12月9日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・オペラ歌手・音楽教育者。二期会の創設者の一人。夫はピアニストでフェリス女学院短期大学教授兼学長の三宅洋一郎。 福岡市生まれ。父は英文学者・九州帝国大学教授の豊田実。1939年(昭和14年)東京音楽学校を卒業する。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 実質的なデビューは1939年(昭和14年)12月の新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会のベートーヴェン『フィデリオ』マルツェリーネである。 戦時中の1945年(昭和20年)1月においても新交響楽団の演奏会に出演しているのが確認できる。
長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2… 長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2013年?)は、日本の教育者、教育学者。 福岡県八女市出身。書道の雅号 長岡 光邨(こうそん)。1937年福岡県小倉師範学校本科第一部卒。小倉師範附小に勤務時、24歳で文部省 師範学校中学校高等女学校教員検定試験「習字」に当時の最年少で合格した。書道家として東京の学校への就職を薦められたが、同時期に奈良女子高等師範学校附小からの招聘を受け、迷った末、教育者としての道を歩むことを決心する。1943年奈良女子高等師範学校附属小学校教諭となり、木下竹次の「学習法」を引き継ぎ、戦後は重松鷹泰と共に「奈良プラン」を樹立した。 長岡は、「教育は、ひとりひとりの子どもが、人間としての可能性をぎりぎりまで発現していくように手伝うことであり、個性的思考の深化を支援して、人間としての生き方を創造させることである。
森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 19… 森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 1979年4月13日)は、日本の政治家、教育者。自由民主党衆議院議員(1期)。 福岡県甘木市(現・朝倉市)出身。福岡県立朝倉中学校を経て福岡県福岡師範学校卒。甘木市立石小教諭、福岡県視学委員を務めた後、1947年(昭和22年)に福岡県議会議員となる。以来6期当選を重ね、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで県議会議長に就いた。1972年(昭和47年)に県議を辞任し、第33回衆議院議員総選挙で福岡1区から自由民主党公認で立候補したが落選。次の1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙で初当選する。衆議院では農林水産委員を務め農林行政に対する高い見識と実行力で注目された。
鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年1… 鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年12月21日)は、日本の教育者。学校法人鶴学園創設者。鶴学園名誉総長。 広島県広島市にて鶴家の四男として出生。父は旧制広陵中学校(現・広陵高等学校)、広島電機高等学校(現・広島国際学院高等学校)の設立に尽力した鶴虎太郎。その後、福岡県に移り、1932年福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。同期に麻生典太がいた。広島県に戻り、芸備日日新聞(後に中国新聞社に吸収)に勤務。南満州鉄道にも勤めた。退職後は広島電機高等学校勤務を経て、広島高等電波学校(現・広島工業大学高等学校)、次いで学校法人鶴学園を創設した。1963年に広島工業大学、旧広島高等学校及び附属中学校(現広島なぎさ中学校・高等学校)デネブ高等学校、広島工業大学専門学校、なぎさ公園小学校等、数多くの学校教育機関の設立に携わった。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 196… 古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 1967年6月29日)は、日本の医学者、教育者。 1901年(明治34年)、福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれる。福岡県立朝倉中学校には、実家(乳業家)の手伝いとして牛乳配達を続けながら通い、熊本市にあった第五高等学校、さらに九州帝国大学に進学した。1927年(昭和2年)に同大医学部を卒業。内科教室に入局後に医療分野における放射線研究を始め、博士号を取得。東北大学に異動した。 東北大学でも放射線研究を続け、1936年(昭和11年)には同大電気工学科教授の抜山平一と共同で、心臓の鼓動に合わせてX線撮影(単純X線撮影)を行う技術を開発。さらに1943年(昭和18年)には胸部X線間接撮影法を開発(同年ブラジルのde Abreuも独立して開発)、第1回技術院賞を受賞した。
安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日… 安部 清美(あべ きよみ、1900年(明治33年)9月18日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。参議院議員。位階は正五位。 福岡県宗像郡東郷村(東郷町、宗像町を経て現宗像市)で、安部茂実、フサの長男として生まれる。父は日露戦争で戦死し「清美は教員」との遺言を残していたため教師を目指し、1920年(大正9年)福岡師範学校を卒業した。 1920年、宗像郡神興(じんごう)小学校(現福津市立神興小学校)訓導に就任。翌年から神興小では全校挙げて郷土を愛し、土に親しむ教育に取り組み、特につづり方指導に力点が置かれ、児童は日常の体験や作業学習を作文した。その作文が『高等小学校読本:農村用』巻三(文部省編、1929年発行)で掲載されて全国に知られ、神興小には全国からの視察がしばらく絶えなかった。
麻生 繁樹(あそう しげき、1900年(明治33年)1月15… 麻生 繁樹(あそう しげき、1900年(明治33年)1月15日 - 1996年(平成8年)6月21日)は、日本の教育者。学校法人麻生学園創立者、山口短期大学学長、修紅短期大学学長。 1900年(明治33年)1月15日、福岡県福岡市に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部国語漢文科を卒業する。 1935年(昭和10年)に戸畑市立戸畑高等女学校校長に就任し、以降福岡県視学官・教学官、福岡県立福丸高等学校校長、福岡県立糸島女子高等学校校長を歴任する。 1959年(昭和34年)に宮竹幼稚園を開設し、1964年(昭和39年)に学校法人麻生学園を設立し、理事長に就任する。1965年(昭和40年)に福岡教員養成所を開設し、学長に、1977年(昭和52年)に学校法人山口学園を継承し理事長、山口工業短期大学学長に就任する。
矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日… 矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山。 福岡県三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内)で矢野巽の息子として生まれる。福岡県立八女中学校を経て、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
千蔵 尚(ちくら たかし、1882年8月26日 - 1958… 千蔵 尚(ちくら たかし、1882年8月26日 - 1958年4月7日 )は、日本の教育者、岡崎市立(町立)高等女学校二代校長、岡崎市立(町立)図書館初代館長。明治・大正期における岡崎市の教育・文化向上に貢献した。旧字体表記では千藏 尙。 福岡県山門郡大和村(現:柳川市)で農家の三男として生まれた。地元の名門伝習館中学(現福岡県立伝習館高校)を1901年(明治34年) 3月に卒業。その後上京し東京高等師範学校(現:筑波大学)に進み、1906年(明治39年)3月に本科博物学部理科博物学科を卒業。卒業後は進学し母校研究科に在籍していたが、1907年(明治40年)4月に千蔵に新設の岡崎町立高等女学校( 現:愛知県立岡崎北高等学校)への誘いがあった。
貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - … 貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - 1918年10月22日)は、日本の教育者、物理学者。 福岡藩士族貝原信の長男として、福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校理科を経て、1904年東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。 1906年学習院教授に就任し、物理、数学を講じた。 1918年10月22日、腎臓病により死去、従五位勲六等。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1… 三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1920年〈大正9年〉)は、日本の教育者である。 福岡県浮羽郡吉井町若宮(現うきは市)出身。 福岡師範を卒業後、東京高等師範に進学し、その英語科を卒業。鹿児島師範を経て、姫路師範に転出。鹿児島師範当時の教え子に、玉川学園を創立した小原国芳がいる。同付属小学校主事となる。姫路師範在職2年で結核に罹り、1915年(大正4年)退職。療養生活の中でも執筆などの活動は継続、上京して成蹊学園の機関誌『新時代』の編集主任を務める。45歳で死去。クリスチャンであった。 『学校教師論』が名著の誉れが高い。戦前の東京府青山師範学校では、教育学の教科書に使われていたという。
水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月… 水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月)は、日本の宗教家、教育者。筑紫高等女学校(現・筑紫女学園)創立、初代校長。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延… 長澤 龜之助(ながさわ かめのすけ、1861年1月2日(万延元年11月22日) - 1927年(昭和2年)10月16日)は、日本の数学者、教育者。数多くの書籍を出版したことで知られる。 筑後国の久留米に生まれた。長崎師範学校を卒業し、1882年、川北朝鄰に師事した。1917年、林鶴一とともに関流八伝免許状を認められた。東洋英和学校で教職を務め、明治39年、雑誌「XY」を創立した。1888年、チャーレス・スミス(英語版)の代数学の邦訳書を出版した。この作品は日本で横書きの最初期の書籍であった。1927年没した。生涯で120以上の書籍を書いたと言われ、後に著書一覧ができるほどであった。墓所は多磨霊園。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月2… 香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月21日(天保13年6月14日)- 1894年(明治27年)5月18日)は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。玄洋社社員。幼名・恕吉郎、字・子貫。号・晦処、晦洞。 筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した。 明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された。
中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)-… 中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)- 1911年(明治44年)11月18日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員、官選島根県知事。名・庸、字・和叔、号・桐蔭、旧姓・鶴田。 筑後国上妻郡前津村(現筑後市前津)で、庄屋・鶴田良右衛門の二男として生まれ、後に中村氏を称した。地元の私塾・継志堂で学ぶ。安政4年(1857年)に師・牛島栗斎に随行し8カ月間にわたり山陽から奥羽まで遊歴し見聞を広めた。その後、咸宜園で学んだ。 王政復古後、国事に奔走するなかで、久留米藩に逃れてきた大楽源太郎に同調したため、久留米藩難事件に連座し明治4年(1871年)に禁獄一年の刑を受け名古屋の監獄に収監された。
大内 覚之助(おおうち かくのすけ、(1898年1月 - 1… 大内 覚之助(おおうち かくのすけ、(1898年1月 - 1965年3月16日)は、日本の教育者、英語学者。 大内義生の長男として、福岡県朝倉郡朝倉町大字古毛(現・朝倉市古毛)に生まれる。福岡県立朝倉中学校(現・福岡県立朝倉高等学校)、1920年広島高等師範学校(広島大学教育学部の前身)文科第二部英語科を経て、1924年京都帝国大学文学部文学科英文学専攻を卒業。 旧制福岡高等学校教授を経て、1941年福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)教授兼福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)校長に就任。 戦後、福岡商科大学(現・福岡大学)教授、熊本女子大学(現・熊本県立大学)教授を歴任した後、1961年久留米大学附設高等学校校長に就任。
溝口 梅太郎(みぞぐち うめたろう)は、日本の教育者。福岡高… 溝口 梅太郎(みぞぐち うめたろう)は、日本の教育者。福岡高等商業学校(現・福岡大学)の創立者であり、同大学の理事長を務めた。福岡市の教育・地域史において重要な役割を果たした人物とされる。 福岡高等商業学校(現福岡大学)創立者、福岡大学理事長。 市立福岡商業学校を卒業後、保険会社勤務を経て日本硝子株式会社を創業するも、当時の不況の影響を受けて26歳で事業に失敗。その後、心機一転して学問の道を志し、1921年(大正10年)に西南学院高等学部商科(後の西南学院大学)に入学。 学生時代は硬式野球部の捕手として活躍し、卒業後は母校に招聘され、会計学・保険論・商業学などを講じた。その傍ら、九州帝国大学法文学部で聴講生として研鑽を積んでいる。