金馬 昭郎(きんば あきお、1927年8月18日 - 201… 金馬 昭郎(きんば あきお、1927年8月18日 - 2019年4月15日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 大分県大分市出身。大分県立大分上野丘高等学校、東京大学第二工学部土木工学科卒業。1951年4月、京阪電気鉄道に入社。主に技術畑を歩み、1977年から取締役、常務、専務を経て1992年から副社長。1995年から社長に就任。京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して発足。企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)から京阪電鉄が再分離した後に入社した、初の社長となった。社長時代は子会社の整理など事業の構造改革に取り組んだ。2001年に社長を退任。尚、後任の社長の佐藤茂雄も同郷・大分県出身である。
濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 199… 濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 1996年6月6日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。大分県中津市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学冶金学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、取締役、常務、専務を経て、1986年に副社長に就任し、1990年6月には社長に昇格した。1995年から会長に就任した。 1979年と1981年に大河内賞を受賞した。 1996年6月6日心不全のために死去。71歳没。
上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 201… 上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 2015年5月4日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。大分県大分市出身。 1958年に九州帝国大学法文学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1972年11月に取締役に就任し、1975年5月には専務に就任した。 1978年5月にクラレに転じ、同年6月に専務に就任し、1981年6月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格した。1990年6月から相談役に就任した。 2015年5月4日前立腺がんのために死去。90歳没。
合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年… 合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年)5月22日 – 1986年(昭和61年)12月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県北海部郡一尺屋村(佐賀関町を経て現大分市)の農家に生まれる。臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を経て、1943年(昭和18年)大分高等商業学校を卒業。海軍飛行予備学生となり、海軍中尉で解員(復員)し帰郷した。 1946年(昭和21年)一尺屋農業会に務めた。その後、佐賀関農業協同組合長、大分県果実農協連常務理事、同県経済農業協同組合連合会会長、全国購買農業協同組合連合会理事、全国農協観光協会理事、大分協和飼料取締役、東九州協同食品取締役、大分協同建設事業団代表取締役、大分陸運社長などを務めた。
黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31… 黒土 始(くろつち はじめ、1922年〈大正11年〉1月31日 - 2023年 〈令和5年〉4月17日)は、日本の実業家。位階は正五位。第一交通産業創業者。 現在の大分県中津市出身。1941年12月に徴兵のため、大分高等商業学校(現:大分大学経済学部)を中退。 終戦後の1960年6月に前身となる、第一タクシー有限会社を創業し、代表取締役社長を務める。 1964年9月に第一通産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。一地方のタクシー会社であった同社をM&Aなどにより拠点を全国に広げ、8000台を超える全国一のタクシー保有台数を誇る企業グループに成長させた。 1993年4月に現行の第一交通産業株式会社に社名を変更し、2001年6月には娘婿の田中亮一郎が社長に就任したのに伴い、同社の代表取締役会長に就任。
熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 … 熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 - 2011年4月4日)は、日本の経営者。三和酒類社長を務めた。大分県宇佐市出身。 1944年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、1947年に特別調達庁福岡支局に入庁。1949年に家業の酒造業を引き継ぎ、1958年に三和酒類を創立し、社長に就任。1978年に会長に就任し、1989年に名誉会長を経て、1999年には相談役に就任。 2011年4月4日心筋梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - … 木下 哲(きのした てつ、1911年(明治44年)6月 - 1961年(昭和36年)7月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県宇佐郡安心院村(安心院町を経て現宇佐市)で、木下淳太郎、ウメの息子として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1935年(昭和10年)日本大学法律学科を卒業した。 家業の弁当屋・梅乃屋を継承した。兄木下郁から影響を受け、1946年(昭和21年)日本社会党に入党し、1947年(昭和22年)大分県議会議員に当選し2期在任。この間、社会党大分県連書記長、同会長を務めた。1955年(昭和30年)兄の郁が大分県知事選挙に転じたことに伴い、同年2月の第27回衆議院議員総選挙で大分県第1区から右派社会党公認で出馬して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では社会党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 198… 平田 九州男(ひらた くすお、1909年9月7日 - 1989年10月26日)は、日本の経営者。富士写真フイルム(現在の富士フイルム)社長を務めた。 大分県中津市出身。1933年に関西学院高等商学部を卒業し、1934年に富士写真フイルムに入社。1954年に取締役に就任し、1964年に常務、1969年6月に専務を経て、1971年6月に社長に就任。1980年5月に会長に就任。 1974年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年10月26日、呼吸不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月… 金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月 - 1978年(昭和53年)1月5日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1… 杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1972年6月21日)は、日本の経営者、工学博士。東陶機器(現在のTOTO)社長を務めた。 大分県大分市出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。 三菱重工業での勤務を経て、1948年5月に東洋陶器に転じ、専務、副社長を経て、1967年7月に社長に就任。 1972年6月21日、脳卒中のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年… 村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年)4月30日 - 1995年(平成7年)4月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県南海部郡大入島村(現佐伯市)で、村上袈裟松の息子として生まれる。父の土建業経営の関係で朝鮮に移住。京城簡易商業学校を卒業し、家業の土木請負業に従事。国内、朝鮮、満洲などで発電所、トンネルなどの工事を請け負い、1933年(昭和8年)村上組が設立され常務に就任した。 終戦後に朝鮮から引揚げ、別府の白雲山荘を買収して取締役社長に就任。戦後の復興に政治の力が不可欠と考え、兄村上勇と共に鳩山一郎に相談し、1946年(昭和21年)2月に日本自由党大分県支部を立ち上げ、同年、村上建設社長に就任。
都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 197… 都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 1976年2月15日)は、日本の経営者。大分県宇佐市出身。 1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。関東タール製品社長、東京コークス社長を経て、1954年2月に取締役に就任し、1967年11月に副社長を経て、1972年8月に社長に就任。日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1962年10月に藍綬褒章を受章。 1976年2月15日脳血栓のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。
安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月1… 安部 志雄(あべ ゆきお、1901年 <明治34年> 4月13日 - 1974年 <昭和49年> 6月24日)は、日本の経営者。大分県別府市出身。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 1926年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。藤本ビルブローカー銀行での勤務を経て、1943年に大和証券に転じ、1948年に取締役に就任した。常務、専務、名古屋支店長を経て、1958年11月に副社長に就任し、1963年4月に社長に昇格し、1970年11月までに務めた。経済団体連合会常任理事も務めた。 1974年6月24日脳出血のために死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙され、勲二等旭日重光章を追贈された。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月… 春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月1日 - 1974年 <昭和49年> 7月10日)は、日本の経営者。大分県大分市出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、帝国生命保険に入社。 1947年3月に取締役、同年7月に朝日生命保険常務を経て、1961年5月には社長に就任。1965年5月から1971年5月までに会長を務めた。 1965年6月から1967年6月までに生命保険協会会長を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章し、1940年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年7月10日急性心不全により死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1… 星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1月1日 - 1988年(昭和63年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県出身。星野太三郎の長男として生まれる。大分県立大分中学校を経て、1925年(大正14年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 同年4月、三井鉱山に入社し、1927年(昭和2年)3月、三井合名会社に転じた三井総元方情報主任となり、司法省刑事局嘱託、内務省警保局嘱託も務めた。1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け旧北海道4区から出馬して当選、衆議院議員を1期務めた。この間、翼賛政治会総裁秘書、小磯内閣で小林躋造国務大臣秘書官、行政査察使随員、幣原内閣で海軍参与官、同第二復員参与官などを歴任。
笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 197… 笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 1974年9月26日)は、日本の実業家。アラスカパルプ社長。 大分県大分市出身。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学卒。卒業後は日本銀行に入り、その後安田銀行を経て、日本興業銀行に勤める。戦後の1946年、財閥解体による持株会社整理委員長に就任した。持株会社整理委員長時代の1948年、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1953年、戦後初の海外事業会社アラスカパルプを設立した。1956年、同社の社長に就任、1968年に会長に就任した。1974年死去。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった。
伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 19… 伊与田 光男(いよだ みつお、1895年6月19日 - 1959年3月18日)は、日本の経営者。資生堂社長を務めた。 大分県中津市出身。1920年に東京帝国大学理学部化学科を卒業し、大学院で研究活動をする傍らに福原資生堂に入社した。1930年に資生堂取締役に就任し、専務を経て、1954年6月に社長に就任した。 1957年に藍綬褒章を受章した。 1959年3月18日、脳溢血のためにで死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3… 柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3月1月 - 1981年(昭和56年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、大分県北海部郡佐賀関町長。 大分県北海部郡佐賀関町(現大分市)で、海産物問屋「かしわや」に生まれる。1909年(明治42年)臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を卒業。1913年(大正2年)第七高等学校造士館に進学し、1916年(大正5年)中学校以上の在学生の親睦と町発展のための「摘星郷友会」を立上げ会長に就任した。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 卒業後、朝日信託 (株) に入社し、昭和恐慌を迎えて帰郷した。1930年(昭和5年)に佐賀関町助役に就任し、1930年(昭和6年)同町長となり4期在任した。
八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)… 八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)1月23日 - 1980年(昭和55年)8月29日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、初代大分県旧杵築市長。 大分県速見郡八坂村大字日野(現杵築市)で、大分県会議長を務めた八坂三治の長男として生まれる。早稲田大学政治経済科で学んだが、中国大陸に心惹かれ中退して満州に渡った。1927年(昭和2年)政治家を目ざして帰郷。 1933年(昭和8年)八坂村会議員に選出された。別府自動車社長に就任し、1939年(昭和14年)大分県会議員となる。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大分県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、その後、民主党に所属し衆議院議員に1期在任した。
衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月… 衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月27日 - 1964年(昭和39年)12月21日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 大分県宇佐郡竜王村野山(深見村、安心院町を経て現宇佐市)で生まれる。小学校を卒業。若年で中国に渡り、その後、沖縄、京阪神を遍歴した。福岡県田川郡川崎村(現川崎町)で炭鉱夫として働く。昭和の初めに川崎町で東豊炭鉱を経営。以後、田川商工会議所副会頭、大進鉱業代表取締役、耶彦新聞名誉社長、衛藤商事社長、衛藤鉱業社長、文珠岳炭礦社長(佐世保市)、東豊商事社長などを務めた。戦後の復興と朝鮮特需で1951年(昭和26年)には長者番付1位となった。 政界では川崎町会議員を務めた。
原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日… 原尻 束(はらじり つかね、1894年(明治27年)1月8日 - 1978年(昭和53年)7月13日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡緒方村長。 大分県大野郡牧口村雨堤(清川村雨堤を経て現豊後大野市)で生まれる。成人後、同郡緒方村大字井上(緒方町を経て現:豊後大野市)の原尻家の養子となる。大分師範学校専攻科を卒業し郡内で代用教員となる。その後、上京して東京物理学校(現東京理科大学)高等師範科で学んだが、1925年(大正14年)中退して近衛騎兵連隊に入隊。除隊後に帰郷し、農業を営む。 1931年(昭和6年)緒方村収入役に就任。1929年(昭和14年)緒方村長となる。
一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月… 一松 政二(ひとつまつ まさじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1974年(昭和49年)3月15日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県下毛郡小楠村一ツ松(中津町を経て現中津市)で、一松嘉蔵の二男として生まれ、1936年(昭和11年)に分家した。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、特待生として東京高等商業学校に入学し、1916年(大正5年)に卒業した。 同郷の先輩磯村豊太郎の知遇を得て1916年に久原鉱業(現JX金属)に入社し、その後、久原商事(久原財閥)に転じた。英語に堪能で貿易業務を担当しニューヨーク支店長を務めた。帰国後、日本鉱業(現ジャパンエナジー)運輸部長に就任し、以後、久原財閥からの派遣で、日本汽船、樺太汽船、中山製鋼所などの取締役を兼務した。
山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月… 山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月6月 - 1987年(昭和62年)6月17日)は、大正から昭和期の山林地主、実業家、政治家。衆議院議員、大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民。 大分県宇佐郡麻生村大字山口(四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した。
宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)… 宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)5月1日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡八坂村(現杵築市)で、酒造業の家に生まれる。大分県農学校(のち大分県立三重農業高等学校となり閉校)を卒業。 速見郡朝日村(現別府市)の兄が経営していた酒店を引き継ぐ。油屋熊八、梅田凡平らと別府宣伝協会を結成して全国に別府を宣伝した。豊洋水産取締役会長、鬼山地獄社長なども務めた。 1924年(大正13年)別府市会議員に選出され同議長にも就任。1943年(昭和18年)全国市会議長会(現全国市議会議長会)会長に就任。1935年(昭和10年)大分県会議員となり1期在任した。
平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 … 麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 - 1949年(昭和24年)8月1日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 醸造業・麻生観八の長男として、大分県玖珠郡、のちの東飯田村(現九重町)で生まれる。県立大分中学校に学んだが病のため中退した。1921年(大正10年)玖珠実業銀行相談役となり、のち同行頭取に就任した。1935年(昭和10年)大分県選挙粛正委員となり、ついで同農地委員、同酒造組合連合評議員、九州水力電気、大分人造羊毛各監査役、森水力電気相談役などを歴任した。 1939年(昭和14年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月2… 朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月21日 - 1971年〈昭和46年〉8月10日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、竹田市名誉市民。 大分県直入郡、のちの豊岡村(竹田町、豊岡村(第二次)を経て現:竹田市)で、公吏朝倉親為の五男として生まれる。1900年(明治33年)大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)を卒業。第五高等学校法科を経て、1907年(明治40年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 富士瓦斯紡績(現:富士紡ホールディングス)に入社。同社常務取締役、静岡県方面委員、朝鮮産業経済調査委員、満州紡績取締役、第二富士電力取締役、大井川鉄道取締役、富士電力取締役、日産自動車専務取締役、明和紡績社長、明治紡績社長、日本自動車配給社長、日本機械輸出振興取締役などを務めた。
小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日… 小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、本社課長を務めた。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた。
村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)… 村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)8月14日 - 1963年(昭和38年)10月21日)は、日本の実業家、政治家。西日本鉄道社長、貴族院勅選議員。 大分県下毛郡中津諸町(現中津市諸町)で、旧中津藩藩医・教育者、村上田長の四男として生まれた。大分中学中津分校(のち中津中学、現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年、早稲田大学政治経済科を卒業した。 大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し記者となる。1908年、三越呉服店に転じ、広告部、通信販売部で勤務した。1912年、和田豊治の勧誘で九州水力電気に入社し、同社取締役、常務を歴任。1930年、九州水力の九州電気軌道(九軌)買収に伴い、九軌専務に就任。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3… 池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年)3月24日 - 昭和29年(1954年)3月6日)は、日本の映画プロデューサー、実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲、澤田 三治。 1877年(明治10年)3月24日、大分県下毛郡大幡村の村長池永為策の三男として生まれる。兄は隆二で、父の跡を継ぐ。 当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男(山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。 1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助の横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した。
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月1… 金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月13日 - 1955年〈昭和30年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣(第16代)、厚生大臣(第7代)。衆議院議員(9期)。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。 経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。 大分県宇佐郡高家村(現:宇佐市)生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1910年(明治43年)に太陽生命保険に転じて支配人となり、1913年(大正2年)に独立して大正生命保険(現:プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)の社長となる。
森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1… 森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1950年(昭和25年)12月21日)は、明治から昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県議会議員、大分県大野郡上井田村長を務めた。 大分県大野郡下野村(上井田村大字下野、朝地村、朝地町を経て、現在の豊後大野市朝地町下野)で、大地主、酒造業・森鵜吉の長男として生まれた。1898年(明治31年)大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業した。1905年(明治38年)3月、家督を相続し、農業、酒造業を営む。 有限責任信用販売購買組合を設立し組合長に就任し、上井田村農会長も務めて18年間在任した。1914年(大正3年)大野郡畜産組合長となり30年間在任し、豊後牛の改良などに尽力した。
上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年… 上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年3月16日)は、日本の経営者。阪神電気鉄道の開業時に技術者として鉄道の敷設を行い、のちに阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)社長を務めた。 大分県下毛郡中津町(現・中津市)出身。大分中学校卒業後、山陽鉄道に就職し、豊州鉄道に転職。同社は九州鉄道と合併し、そのまま建設部主任として留まる。1903年(明治36年)、阪神電気鉄道に移り三崎省三の部下として阪神間に電気鉄道を敷設。翌1904年(明治37年)に阪神電鉄が開通すると阪鶴鉄道に技師長として招かれ、福知山事務所で路線延長に従事する。同線の国有化によって国有鉄道たる鉄道作業局の技師となり、引き続き福知山建設事務所で線路の測量や設計に携わった。
中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5… 中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5年6月16日)- 1938年(昭和13年)1月18日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県日田郡、のちの三芳村(現日田市下井手町)で、中野伍兵衛の二男として生まれる。漢学を修めた。 1899年(明治32年)福岡県久留米市京町で久留米製材所を設立し材木商を営む。のちに東京で合資会社中野材木店(京橋木挽町)を開店した。その他、久留米材木同業組合長、九州材木連合協会長、日田実業銀行取締役、九州材木専務取締役、久留米商業会議所特別議員、同顧問なども務めた。 政界では、久留米市会議員、同参事会員に在任。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(大分県第5区、無所属)で当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年… 久恒 貞雄(ひさつね さだお、1870年5月24日(明治3年4月24日) - 1950年(昭和25年)5月10日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 豊前中津藩領下毛郡上宮永村(豊田村、中津町を経て現中津市)に生まれる。生家は平凡な農家で、青年期は種物売りや荷馬などで稼いだ。近衛歩兵連隊に入隊し、日清戦争に従軍。帰朝後の1897年(明治30年)1月、福岡県田川郡弓削田村(後藤寺町を経て現田川市)に赴き、田川採炭に入社するが程なくして退職する。他にも採炭会社を転々としたが長く続かず、自ら石炭商を開業。ついで日露戦争に従軍し、帰朝後に採炭業を始めた。
衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4… 衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4月9日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家。大分県農工銀行頭取等を歴任した。 1870年(明治3年)、大分県速見郡北由布村(現・由布市)に溝口家の四男として誕生。1891年(明治24年)に衞藤家に養子に入る。1913年(大正2年)、大分県農工銀行に入り、1922年(大正11年)に常務取締役、1926年(大正15年)には頭取を歴任した。また、佐伯土地、大分証券、豊後土地、大分電気工業の取締役も兼任している。さらに、公職としては、大分県農事講習所長、大分市会議員、大分県会議員を務めた。 この間、1925年(大正14年)に大湯線(現在の久大本線)の湯平駅 - 北由布駅(現在の由布院駅)間が開通したが、その際に由布院盆地内を大きくカーブして北由布駅を通る現ルートの実現に力を尽くし、後の由布院発展の礎となった。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) … 佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年))は、明治期の鉄道実業家。 豊前国(現・大分県)中津生まれ。藩校進脩館、中津市学校を経たのち慶應義塾を経て郷里中津に帰る。山陽鉄道、豊州鉄道を経たのち日本紡績会社社長となる。その後南海鉄道(現・南海電気鉄道)に転じ副支配人となる。のちに欧米を視察し南海鉄道に改良を加える。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年… 高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉10月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 豊後国大分郡西庄内村(現由布市庄内町)生まれ。1890年(明治22年)に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)で高級旅館泉孫を経営する高橋孫三郎の養子となる。浜脇町会議員を務めた。 1906年(明治39年)から7年間、別府町助役を務めた。同年、別府町会議員に当選した。その後、1909年(明治42年)、1912年(明治45年)、1916年(大正5年)、1920年(大正9年)に再選した。1919年(大正8年)9月25日には速見郡選出の大分県会議員に当選。1924年(大正13年)の別府市会議員選挙でも当選している。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- … 平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- 1937年(昭和12年)2月25日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村(駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ。1891年(明治24年)下毛郡城井村(耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり、1899年(明治32年)家督を相続した。 家業の農業を営む。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年1… 和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。 従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。 豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。 はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に寄食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。