掛井 五郎(かけい ごろう、1930年(昭和5年)6月5日 … 掛井 五郎(かけい ごろう、1930年(昭和5年)6月5日 - 2021年(令和3年)11月22日)は、日本の彫刻家である。 静岡県に生まれる。19歳のときに木内克に師事し、彫刻家を志す。1953年東京藝術大学彫刻科卒業。1957年、第21回新制作協会展にて新作家賞を受賞し、以後団体を退会する2001年まで新制作協会を中心に活動。1962年には青山学院女子短期大学芸術学科の教授、1968年にはベラクルス大学(メキシコ)の客員教授に就任。 彼の作品はユーモアのある作風であり、以降も多くの賞で受賞する。掛井は立体作品を軸に、油彩、ドローイング、エッチングやリトグラフなど幅広いメディウムと技法で自由な制作を続けた作家で日本の戦後の彫刻家としてもその名が知られています。
保田 春彦(やすだ はるひこ、1930年2月21日 - 20… 保田 春彦(やすだ はるひこ、1930年2月21日 - 2018年1月20日)は、日本の彫刻家・画家。武蔵野美術大学名誉教授。 1930年和歌山県生まれ。父は、南方熊楠の肖像彫刻で有名な彫刻家の保田龍門。娘婿は彫刻家の西村浩幸。 東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。1958年2月より10年近くヨーロッパ各地で滞在、制作を行う。オシップ・ザッキン等に師事。1968年、日本に帰国。1975年に武蔵野美術大学教授に就任し、1999年まで在職した。2018年1月20日、老衰のため死去。
志水 晴児(しみず せいじ、1928年(昭和3年)10月7日… 志水 晴児(しみず せいじ、1928年(昭和3年)10月7日 - 2005年(平成17年)1月21日)は、日本の彫刻家。石造彫刻を中心に、建築や広場などで環境彫刻も手がけた。東京都出身。東京芸術大学卒。
木村 賢太郎(きむら けんたろう、1928年4月10日 - … 木村 賢太郎(きむら けんたろう、1928年4月10日 - )は、日本の彫刻家。石彫による作品を多く手がけている。東京都出身。1952年、東京美術学校卒業。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桑原 巨守(くわはら ひろもり、1927年〈昭和2年〉7月1… 桑原 巨守(くわはら ひろもり、1927年〈昭和2年〉7月15日 - 1993年〈平成5年〉8月26日)は、日本の彫刻家。女子美術大学名誉教授。旧名・昭夫(あきお)。 具象彫刻の第一人者と評され、群馬県渋川市に桑原巨守彫刻美術館がある。 群馬県沼田市出身。弟は小説家の桑原幹夫。1944年に旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)第4学年を修了し、1949年東京美術学校彫刻科卒業。在学中、関野聖雲に師事したため、桑原は高村光雲の孫弟子にあたる。 1949年東京都大田区立大森第十中学校教諭となる。1956年より女子美術大学選任講師。1961年「昭夫」から「巨守」に改名。 1963年、女子美術大学助教授に就任、同年二紀展に初入選、同人に推薦される。
吾妻 兼治郎(あづま けんじろう、1926年3月12日 - … 吾妻 兼治郎(あづま けんじろう、1926年3月12日 - 2016年10月14日もしくは10月15日)は、イタリア在住の日本人の彫刻家。ミラノに在住し、抽象作家として国際的にも高い評価を受ける。作品に『MU(無)』『YU(有)』『慈悲心の美徳』など。彫刻表面に腐食で出来たようなくぼみをあしらう作品に特徴がある。山形市生まれ。 鋳物屋の7人兄弟の二男。夜間中学中退後に予科練志願入隊、神風特攻隊になるが、終戦になり山形に復員、中学復学卒業後、東京芸術大学入学、東京芸大卒。芸大副手を休職し、1956年に山形で初の個展を開催し、イタリアに留学、ブレラ美術学校でマリノ・マリーニに師事(その後休職期間経過後もイタリアに残るために芸大退職)。
飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。 栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。その後は、池田龍雄らと制作者懇談会を結成し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。 1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木や石を素材に各地の展覧会に出展した。
安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2… 安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2019年〈平成31年〉1月13日)は、日本の彫刻家である。現代工房代表取締役社長。父は彫刻家の安藤照である。 東京・渋谷に現存する「忠犬ハチ公像」(2代目)の製作者として知られる。
金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日… 金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日本の彫刻家。 1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。 1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。 1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。(「ART MIND 2006秋季号」P.1」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、19… 高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、1921年(大正10年)8月31日 - 1991年(平成3年)9月5日)は日本の彫刻家。山形県酒田市出身。 バレリーナをモチーフとした彫刻で知られ、昭和30年代(1955年 - 1964年)中頃まで木彫を中心に制作したが後に塑像へ転向した。 1921年(大正10年)8月31日、神社仏閣の木彫を生業とする生家に生まれる。祖父は宮彫師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事し木彫を始める。 1940年(昭和15年)上京、翌1941年(昭和16年)東京美術学校入学、関野聖雲に師事。1946年(昭和21年)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。 1947年(昭和22年)、第3回日展に初入選。
坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 … 坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 - 1998年(平成10年))は、日本の彫刻家。本名は青嵐(せいらん)。 北海道女子短期大学名誉教授。 1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、坦道も当初は画家を目指した。しかし、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父の死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1938年(昭和13年)北海中学校(現在の北海高等学校)卒業。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)新文展(のちの日展)に初入選した。
建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2… 建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2006年2月16日)は日本の彫刻家。第二次世界大戦後の日本で抽象彫刻制作を推し進めた第一人者であった。 1919年東京生まれ。彫刻家・建畠大夢の長男で、1941年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。同年、第4回新文展には「黙」を出品して特選を受賞するなど若い時期から期待された。将来の留学に備えてアテネフランスでフランス語を習っていたことから、昭和19年(1944年)に、仏領インドシナのサイゴン日本文化会館の派遣職員に任命され、新妻とともに赴任、敗戦後現地で4か月の抑留生活ののち、1946年に帰国した。 彼は彫刻を構成する実体とそれをとりかこむ何もない空間との関係に関心を持ち、アカデミックな具象彫刻から前衛的な抽象彫刻へ移行していった。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986… 井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986年1月3日)は、日本の彫刻家、美術評論家、詩人。別名は矢野 則雄。 朝鮮京城府生まれ、長崎県北松浦郡佐々村出身。1939年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業、1941年研究科修了。 在学中から二科展などに出品、1943年銀座で個展を開く。戦後、前衛美術会を結成。1972年12月宮城教育大学教授。1981年退官。『純粋詩』『造型文学』『新日本詩人』『列島』などに詩や評論を発表。 1986年1月3日、福島県双葉郡富岡町の小浜海岸を散歩中に転倒して、怪我によって起きられなくなったまま凍死した。墓所は多磨霊園。 元妻は、女性史研究家の井手文子。
坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28… 坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28日 - 2006年(平成18年)5月2日)は、日本の彫刻家。元徳島大学教授。徳島県鳴門市出身。東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。 東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。徳島大学教授を歴任。徳島県の彫刻に大きな発展を貢献したとされ、1985年(昭和60年)に徳島県文化賞を受賞。 2006年(平成18年)5月2日に急性心不全のため徳島市の病院で死去。享年90。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18… 山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18日 - 2000年(平成12年)3月5日)は、昭和から平成期前半の彫刻家。京都市立美術大学名誉教授。 滋賀県生まれ。旧制中学2年の時にギリシャ彫刻の写真を見て、彫刻家になることを志したと言われる。1933年、東京美術学校彫刻科彫塑部に入学した。 1940年、第5回新制作派展に初入選するが、戦争に徴用される。戦後実家に戻り1947年から1949年まで京都市立美術専門学校(京都市立芸術大学の前身)、1950年から1980年まで京都市立美術大学・京都市立芸術大学、その後は大手前大学・神戸山手女子短期大学芸術科で彫刻の指導を行った。なお、この間1958年から1960年までパリに留学(パリ・エコール・デ・ボザール)しマルセル・ジモンとユーベル・ヤンセンに就いて学んだ。
北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 20… 北村 治禧(きたむら はるよし、1915年1月1日 - 2001年8月21日)は、日本の彫刻家、日本芸術院会員。長崎県出身。父は北村西望、妻路子(大正12年生まれ)は柿原万蔵(秩父鉄道社長)の二女。 父西望は曠原社を率いると、1922年(大正11年)、西ケ原に彫刻研究所を開いた。1953年(昭和28年)に父が当時の滝野川区から東京都武蔵野市にアトリエと住まいを移すと、北村治禧がひとりで創作を続け、1983年(昭和58年)に建て替えた。東京都北区は治禧の没後、2002年にアトリエを受贈し、寄託された作品とともに「(仮称)彫刻アトリエ館」として定期的に公開している。 主な執筆者、編者の順。
大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 19… 大村 政夫(おおむら まさお、1914年6月23日 - 1998年2月11日)は、日本の彫刻家。高等学校美術科教諭、高校野球指導者。日展特選2回。日展参与を務めた。 東京都京橋区東湊町に生まれる。伊豆豆陽中学卒業。1940年3月、東京美術学校彫刻科卒業。同年12月、応召従軍。1949年、静岡県立静岡城内高等学校奉職。1951年、静岡県立静岡商業高等学校非常勤講師奉職。1963年、静岡商業高校非常勤講師退任。1968年第11回日展・1969年改組第1回日展において特選(2年連続)。1975年、静岡高校退職。 1949年から1975年の間、静岡高校で多くの後進を育てた。薮崎昭は画家を目指し大村に相談したところ「『よし、明日からやろう』と言われ、石膏デッサンが始まった。
富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(… 富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 - 2006年(平成18年)4月11日)は、日本の彫刻家、三洋電機の工業デザイナー。長崎県長崎市生まれ。叙従三位。 東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑像部首席卒業。同校では北村西望、朝倉文夫、建畠大夢が教鞭をとっており、特に北村西望に師事した。〈在学中の1936年(昭和11年)に日展の前身、文展に「F子の首」(長崎県美術館蔵)にて初入選して以来、日展を主な舞台に活躍した。1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけ、3年連続で日展の特選を受賞〉。同研究科卒業。 1972年(昭和47年)日本芸術院賞受賞。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2… 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - … 中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - 1941年10月20日)は、日本の彫刻家。本名は、中村永男。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。宮大工の家系に生まれ、幼少のころから、宮大工・彫刻家の父七十郎(董斎)の下で木彫を学んだ。高等科卒業後、彫刻の道を志して上京し、木彫家の清水三重三に師事。のちに構造社を主宰した斎藤素巌に師事。1929年東京美術学校彫刻科塑像部選科(現・東京藝術大学美術学部彫刻科)入学。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、1933年在学中に「女の首」が帝展(現・日展)に初入選。当時は在学中の帝展出品はタブー視されており、父「七十郎」の名前の二文字を借りて出品した。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 200… 淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 2005年2月14日)は、日本の彫刻家。文化勲章受章者。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。 兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - … 柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家。 兵庫県神戸市生まれ。1936年、東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年、国画会同人。1939年、新制作派協会彫刻部創立に参加する。 戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1958年、高村光太郎賞、1974年、中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年、日本大学芸術学部主任教授。1996年、文化功労者。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1… 明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1958年8月13日)は、日本の彫刻家・音楽研究家。 新制作協会彫刻部創立会員。東京美術学校在学中より気鳴楽器オカリーナを研究・制作し、「12穴式オカリーナ」の開発に成功。日本にこの楽器を広め根づかせた「アケタオカリーナ」の創始者であり、「日本のオカリーナの父」と呼ばれている。長男はジャズ・ピアニストの明田川荘之。
三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年… 三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年> 5月26日 - 1995年 <平成7年> 8月3日)は、彫刻家、日本芸術院会員。本名は政治。位階は従四位。 福島県郡山市出身。1937年東京美術学校彫塑科卒業、新文展初入選。1939年研究科を修了し、その後清水多嘉示に師事。1947年日展特選。1961年日展審査員。1970年日展桂花賞受賞。1971年日展評議員。1972年日展文部大臣賞受賞。1979年日本芸術院賞受賞。1983年勲四等旭日小綬章受章。1986年日本芸術院会員。1987年郡山市名誉市民。1992年勲三等瑞宝章受章。1995年死去。死没日付をもって従四位に叙された。墓所は多磨霊園 熊本市にある宮本武蔵のブロンズ像、立教大学内の立教大学創始者ウイリアムズ主教像などの他、東京都練馬区や故郷の福島県郡山市に多くの作品がパブリックアートとして残る。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 和歌山県出身。1928年建畠大夢に師事。帝展に出品、1933年東京美術学校彫刻科卒、1935年同研究科修了、文展に出品、1938年特選、1939年自由学園講師、1947年日展特選、1953年日展審査員、1962年日展評議員、1969年日展文部大臣賞受賞、1970年日本彫塑会理事、1972年武蔵野美術大学教授。1973年和歌山県文化賞受賞、1974年日本芸術院賞受賞、1975年日展理事、1977年日本芸術院会員、1978年日展常務理事、1979年勲三等瑞宝章受章。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 -… 笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 - 1975年9月26日)は、日本の彫刻家。碌山美術館の創建に尽力した。東京市芝区神明町(現・港区浜松町)出身。本名は良紀。歌人・絵師笹村銕熊(号は良水)の長男として生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を1932年に卒業。同校助教授(1944年(昭和19年) - 1961年(昭和36年))。1959年までは院展に出品。 杉浦重剛の日本中学に学んでその高風に浴した。高村光太郎著「ロダン」(アルス叢書、1927年)に接して彫刻を志望し、東京美術学校彫刻科本科塑像部に進んだが、在学中は、教授の朝倉文夫・北村西望らの作風にはげしく反発した。
野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - … 野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - 2008年2月11日)は、日本の彫刻家。愛知県立芸術大学名誉教授。日本芸術院会員。 愛知県名古屋市に生まれる。東京美術学校卒業。同校在学中の1929年、第10回帝展に「座女」にて初入選。1955年、中日文化賞受賞。1981年、「物との、はざま」にて日本芸術院賞受賞。1988年、日本芸術院会員。1989年、勲三等瑞宝章受章。2008年2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅にて死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 20… 大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 2009年7月24日)は、日本の彫刻家。1979年、勲四等瑞宝章受章。1994年、千葉県市川市名誉市民。多くの彫刻作品が市川市内施設、千葉県内各地に設置されている 。 1906年、東京都千代田区生まれ。 1923年、東京高等工芸学校彫刻部に入学。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。学科は異なるものの、同期には加藤栄三、東山魁夷らがいる。1928年、千葉県市川市に移住。 1930年、東京美術学校に在学中の第11回帝展に初入選し、その後毎回出品する。1931年東京美術学校卒業。建畠大夢に師事。1932年の『首飾りの女』が第13回帝展の特選を受賞。
泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日… 泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日)は、昭和初期に活動した日本の彫刻家。 後に大審院院長となる泉二新熊の子として東京市に生まれる。東京美術学校を卒業後、1931年(昭和6年)にフランスにわたり、ジャン・デュナンに師事。1939年(昭和14年)に帰国後、二科展に彫塑を10点出品した。 続く1940年(昭和15年)の二科展に「朔雲童児」出品、さらに翌1941年(昭和16年)に「東郷大将バルチック艦隊を睨む」を出品して二科会員に推された。その後、多摩帝国美術学校にて講師を務め、1944年10月3日に死去。多磨霊園に墓所が存在する。
矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25… 矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25日 - 1988年(昭和63年)9月24日)は、日本の彫刻家である。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)生まれ。平櫛田中に師事。 1929年(昭和4年)院展に初入選、以降院展白寿賞を3回受賞する。1964年(昭和39年)に渡欧し、オーストリアのウィーン大学で仏教芸術を講義した後、フランス・パリでオシップ・ザッキンに師事。 1959年(昭和34年)結成された茅野市美術協会で顧問を勤めた(会長小川由加里)。 1966年(昭和41年)日本画府展で文部大臣賞を、1973年(昭和46年)には長野市野外彫刻賞を受賞。 晩年は仏教を主題に木彫像を制作していた。
藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月2… 藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月27日 - 1974年〈昭和49年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。号は当初舜正(しゅんせい)、後に天光に改めた。 群馬県館林町裏宿(現館林市城町付近)出身。千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめた。 戦後は文化運動者としても活動した。また師北村西望作の長崎平和祈念像の制作筆頭助手をつとめた。晩年は千葉県立美術館の建設促進に献身した。 1903年(明治36年)9月27日、藤野隆秋として群馬県館林市に生まれる。藤野家は旧館林藩士の家柄だった。 館林町立北尋常高等小学校(現・館林市立第一小学校)に学ぶ。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1… 土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日)は、日本の彫刻家・民俗学者。パラオなど広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した。 1900年(明治33年)7月13日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵・土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵・柴山矢八、築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる。 旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学する。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した。
浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日… 浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日 - 1984年(昭和59年)4月16日)は、日本の彫刻家。東京都渋谷区生まれ。昭和時代初期、前衛美術運動に参加し、活躍したことで知られる。本名は猛夫。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造科で北村西望に学ぶが中退。1973年(昭和48年)、大阪芸術賞受賞。作品に「レーニン像」「原爆母子像」「テラコッタの馬」「方形婦女」など。連作に「大阪の女」など。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日… 小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の彫刻家。 1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・柴田町)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。 1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。 第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976… 林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976年6月9日)は、日本の音楽研究者、彫刻家。 雅楽の古い楽譜の解読や、正倉院の楽器や伎楽面、東アジアの伝統音楽の研究で知られる。 林謙三は大阪市に生まれた。本名は長屋謙三。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業した。彫刻家として活躍する一方、独学で東洋の伝統音楽を研究した。 設立間もない東洋文庫にて、日本に亡命していた郭沫若と交友関係を結び、最初の著書『隋唐燕楽調研究』は郭沫若によって中国語に翻訳されて上海で出版された。林は郭沫若の胸像を作成した。 戦後、正倉院の古楽器の研究、復元を行い、1949年に朝日賞を受賞した。1951年から奈良学芸大学の教授をつとめた。
大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1… 大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1981年2月21日)は、日本の仏師、彫刻家、日本芸術院会員。本名は正。兄は洋画家の大内青坡。 仏教学者大内青巒の子として東京府麻布区に生まれる。 1922年、東京美術学校彫刻科卒業。在学中は、高村光雲に木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んだ。1927年、日本美術院同人。1936年以降は、帝展や文展に出品し、戦後は日展や院展を中心に出品した。ただし、日展が社団法人になった後は出品していない。 1933年、世田谷区で薬の製造販売をしていた久保川貞節氏が、渋谷で有名だった秋田犬ハチ公に感銘を受け、故上野英三郎教授の内縁の妻八重子氏と、吉川忠一渋谷駅長の許可を得、ハチ公の木像制作を大内に依頼。
松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4… 松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉3月29日)は、彫刻家、日本芸術院会員。京都学芸大学教授、金沢美術工芸大学教授を歴任。 富山県出身。1922年東京美術学校彫刻科卒、帝展に出品、1926、1927年特選。1930年京都帝国大学講師。1932年帝展審査員。1935年京都市立美術工芸専門学校教諭。文展に出品、1943年同審査委員。1946年日展審査員。1951年金沢美術工芸大学教授。1952年京都学芸大学教授。1958年日本芸術院賞受賞、日展評議員。1968年日本芸術院会員、日展理事、1969年同常務理事、1970年勲三等瑞宝章受章、1975年日展顧問。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23… 堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1935年〈昭和10年〉6月5日)は、日本の彫刻家。 岩手県盛岡市で鉄道員の堀江磐男の長男として生まれる。1922年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒。朝倉文夫に学び、第2回帝展、第3回帝展に出展し特選。 1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。堀江は朝倉を批判し、袂を分つこととなった。1931年(昭和6年)、同じく朝倉塾を脱退した安藤照と塊人社を創立。1934年(昭和9年)、帝展の審査員に選ばれる。1935年(昭和10年)6月5日、結核のため死去。38歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô… 黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô͘ Chúi, 1895年7月3日 - 1930年12月21日)は、日本統治時代の台湾出身の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また台湾人として初めて日本の官展に入選するなど、台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で早世した。 1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲埕の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月… 加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉11月11日)は、岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。 長年に亘り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした。 1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市で代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学、在学中は高村光雲、白井雨山に師事。 1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二、長原孝太郎に師事し油絵を学んだ。