今野 栄(こんの さかえ、1944年5月9日 - )は、日本… 今野 栄(こんの さかえ、1944年5月9日 - )は、日本の女子陸上競技短距離選手。後に自転車に転向し、自転車競技選手となる。旧姓:石川。 宮城県桃生郡桃生町新田(現、宮城県石巻市桃生町新田)出身。身長155cm。 中津山中学校(現 石巻市立桃生中学校)では、陸上部に所属。 この年行われた日独対抗陸上競技小田原大会のリレー第1走者として走る。 東京オリンピック強化指定選手となる。当時、100m走日本記録保持者だった吉岡隆徳コーチの指導を受ける。この頃から国体に出場。(高校1年生で、秋田国体に出場して以来、100m競技の宮城県代表として11回出場、うち入賞4回。) など、出場する大会を総なめにする。
坂 佳代子(さか かよこ、1944年 - )は、元女子体操選… 坂 佳代子(さか かよこ、1944年 - )は、元女子体操選手で元日本体育大学教授。2005年10月から2007年2月まで宮崎県副知事。宮崎県出身。
向井 忠義(むかい ただよし、1944年 - )は、日本の体… 向井 忠義(むかい ただよし、1944年 - )は、日本の体操指導者。日本の社会体育指導者の草分け的存在となった人物でもある。 初代:砂川啓介(1961年4月3日 - 1969年10月1日)2代目:佐久間俊直(1963年10月2日 - 1967年4月1日)3代目:岡田祥造(1967年4月6日 - 1969年10月4日)4代目:向井忠義(1969年10月6日 - 1973年3月30日)5代目:小西幸男(1969年10月7日 - 1971年4月3日)6代目:輪島直幸(1971年4月5日 - 1978年3月23日)7代目:川原洋一郎(1973年4月2日 - 1974年3月29日)8代目:瀬戸口清文(1974年4月2日 - 1987年4月4日)9代目:天野勝弘(1987年4月6日 - 1993年4月5日)10代目:佐藤弘道(1993年4月5日 - 2005年4月2日)11代目:小林よしひさ(2005年4月4日 - 2019年3月30日)12代目:福尾誠(2019年4月1日 - 2023年4月1日)13代目:佐久本和夢(2023年4月3日 - ) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 久照(いのうえ ひさてる、1944年 - 2009年2… 井上 久照(いのうえ ひさてる、1944年 - 2009年2月2日)は東京都町田市在住の彫刻家。現在日展会員・日本彫刻会会員。 日彫展・日展などで数々の賞を獲得し、自身の出身地神奈川県秦野市には数多くの彫刻が公園や学校などに建立されている。学校関係では代表的なものに日本体育大学横浜健志台キャンパスにエッサッサ像が1995年(平成7年)に建立された。
香取 光子(かんどり みつこ、1943年(昭和18年)5月5… 香取 光子(かんどり みつこ、1943年(昭和18年)5月5日 - )は、日本の体操選手である。現姓は中山。 日本体育大学在学中に、1968年メキシコシティーオリンピックに出場した。同大体育学部を卒業し、中京大学体育学部体育科学科教授となった。また、同大体操競技部女子監督を務めた。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
山岸 紀郎(やまぎし のりお、1943年2月11日 - 20… 山岸 紀郎(やまぎし のりお、1943年2月11日 - 2011年7月15日)は、日本の元バレーボール審判員、日本バレーボール協会専務理事、初代Vリーグ機構代表理事(会長)。 日本体育大学出身。日本人として初めて国際バレーボール連盟のFIVB公認レフリーとなり、1986年の世界選手権の男子決勝の主審を務めたほか、1988年と1992年のオリンピックでも国際審判団の一員として参加した。 一方日本国内では、1995年4月より日本バレーボール協会の理事、専務理事や日本バレーボールリーグ機構の代表理事(会長)などを歴任した。また日本におけるビーチバレー生みの親とも言われ、1996年のアトランタオリンピックではビーチバレー日本男子代表監督を務めた。
清水 義明(しみず よしあき、1943年 - 2021年10… 清水 義明(しみず よしあき、1943年 - 2021年10月20日)は、日本のバスケットボール指導者である。日本体育大学名誉教授。北海道出身。 北見北斗高校在学中にインターハイ出場。日本体育大学では1年時からレギュラーを務め全日本にも選出される。卒業後も日体大に残り1967年より助手。アメリカのミシガン州立大学にバスケットボール留学し、帰国後コーチに就任。在任中日本体育大学を関東大学選手権優勝20回、同リーグ戦優勝24回、日本学生選手権優勝14回を記録した。また、全日本男子監督も3度務め、1982年アジア大会では銅メダルに導いた。2012年3月を以て退官。2021年、日本バスケットボール殿堂に尾崎正敏、加藤廣志とともに掲額者として、選出された。
得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2… 得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2月1日)は、日本の高校野球指導者。佐世保工業高校・波佐見高校野球部を率いて春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした。 長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現:西海市)松島出身。長崎市立桜馬場中学校、長崎県立長崎東高等学校から日本体育大学に進み、1965年に同大学を卒業後、保健体育教諭として長崎県立佐世保工業高等学校に赴任した。併せて同校野球部監督に就任したが、当時は海星高校をはじめとした長崎市内の高校が県代表を独占していた。そこで得永は「打倒海星」をスローガンに掲げ、合理的な練習を取り入れたほか多数の県外試合を組んで強化に努めた。1966年西九州大会決勝、1968年長崎大会決勝と甲子園出場をかけた試合でいずれも海星に敗れたが、1974年の西九州大会決勝で海星を破り優勝、県北勢として初めて甲子園出場を決めた。
上杉 尹宏(うえすぎ たかひろ、1942年11月3日 - )… 上杉 尹宏(うえすぎ たかひろ、1942年11月3日 - )は、元全日本スキーノルディック複合ヘッドコーチ、監督。北海道札幌市生まれ。北海道東海大学(2008年に東海大学に統合され同校の札幌キャンパスとなっている)国際文化学部教授、同大学国際文化学部長を経て、東海大学特任教授。北海道スキー連盟専務理事。北海道体育協会理事。全日本スキー連盟評議員。北海道体育協会競技力向上委員。息子の上杉宏樹は元スキージャンプ選手。 北海道札幌東高等学校を経て、日本体育大学卒業。全日本ノルディック複合チームで、1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックにヘッドコーチ、1998年長野オリンピックでは監督として計4度の五輪に参加。
細川 佳代子(ほそかわ かよこ、旧姓:上田 佳代子、1942… 細川 佳代子(ほそかわ かよこ、旧姓:上田 佳代子、1942年9月14日 - )は、元内閣総理大臣細川護煕夫人である。公益財団法人スペシャルオリンピックス日本名誉会長、特定非営利活動法人日本フロアホッケー連盟名誉会長、女性のための政治スクール名誉校長、学校法人日本体育大学元理事である。神奈川県藤沢市出身。阿部元壽は祖母の兄である。 1942年に満洲国で生まれる。1943年に日本に帰国し、神奈川県藤沢市鵠沼に住む。湘南白百合学園小学校、湘南白百合学園中学・高等学校卒業。1966年に上智大学文学部英文学科を卒業後、民間企業から派遣されヨーロッパ各国に駐在した。1971年にイタリアで出会った細川護煕と結婚し、1男2女を儲けた。
横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、… 横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・山梨県甲州市)出身の元サッカー選手および現サッカー指導者・解説者。 山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、1968年に(昭和43年)山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部の監督に就任し、関東大会に出場した。その傍ら甲府サッカークラブで1973年 (昭和48年)6月までプレーして主将も務めた。 現役を引退した1973年(昭和48年)より山梨県立韮崎高等学校に赴任となり、サッカー部の監督に就任。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。
金子 恵以子(かねこ えいこ、1942年 -)は、日本の元フ… 金子 恵以子(かねこ えいこ、1942年 -)は、日本の元フィギュアスケート選手(アイスダンス)。パートナーは竹内己喜男。 1957年から1964年まで全日本選手権8連覇。1962年世界フィギュアスケート選手権日本代表。東京生まれ。日本体育大学卒。 スケートを始める前は、5歳からタップダンスを荻野幸久から学び、東宝のショーに出演していた。小学2年からスケートを始め、10歳から稲田悦子に師事する。 1957年、全日本ジュニア選手権女子シングルで優勝。同年、竹内己喜男とカップルを組み全日本選手権に出場し優勝。アイスダンスの初代全日本チャンピオンとなる。その後、1964年まで全日本選手権で8連覇を達成する。
清原 伸彦(きよはら のぶひこ、1941年1月30日 - )… 清原 伸彦(きよはら のぶひこ、1941年1月30日 - )は、日本の体育学者、水球指導者、集団行動学。日本体育大学体育学名誉教授。 大分県出身。上宮高等学校を経て日本体育大学体育学部へ進学。 高校まではガリ勉少年タイプの人間であったが、高校時代の体育主任教師に『日本体育大学で勉強して、教師になりなさい』と言われて日本体育大学へ進学。大学では経験すらなかったバスケットボール部に入り、トレーニングに明け暮れた。 1963年に日本体育大学卒業後、城北中学校・高等学校に教師として採用され、赴任。清原自身はバスケットボール部顧問のつもりでいたが、学内の事情により指導者が不在であり、自身にとっても門外漢だった水球部の顧問に就任。
花原 勉(はなはら つとむ、1940年〈昭和15年〉1月3日… 花原 勉(はなはら つとむ、1940年〈昭和15年〉1月3日 - 2024年〈令和6年〉2月5日)は、アマチュアレスリング選手。日本体育大学名誉教授。1964年東京オリンピックレスリンググレコローマンスタイル・フライ級金メダリスト。 山口県下関市出身。山口県立豊浦高等学校に在籍中は柔道部で活躍した。 日本体育大学進学後にレスリングに転向し、1960年から1965年まで日本選手権6連覇。東京オリンピックでも、決勝でブルガリアのケレゾフ選手を撃破し金メダルを獲得。日本レスリング陣の士気を上げる価値ある金メダルであった。後年大学界のレスリング王国と呼ばれる日体大の礎を築いた。 2019年、瑞宝中綬章受章。
相原 俊子(あいはら としこ、1939年〈昭和14年〉6月3… 相原 俊子(あいはら としこ、1939年〈昭和14年〉6月3日 - )は、日本の元体操選手。旧姓、白須(しらす)。現在は群馬県高崎市に在住し、群馬県スポーツ指導者協議会理事を務めていた。 後に同じ日本代表としてオリンピックでメダルを獲得する池田敬子が学んだ三原高等学校で学ぶ。3年連続でインターハイに出場し、3年時には個人総合4位に入賞。日本体育大学に進学。 1960年のローマオリンピックでは団体総合で4位入賞。1962年プラハで開催された世界選手権では団体総合で3位、個人でも床6位、個人総合10位の記録を残した。1964年の東京オリンピックでは、池田らとともに出場した女子団体総合で銅メダルを獲得。
千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny C… 千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny Chiba [注釈 2], 1939年1月22日 - )は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。
山下 治広(やました はるひろ、1938年11月11日 - … 山下 治広(やました はるひろ、1938年11月11日 - )は、愛媛県宇和島市出身の元体操競技選手で、日本体育大学名誉教授。跳馬のスペシャリストとしてその名を世界に知らしめた人物でもある。結婚後に叔母の松田家に養子縁組したために、松田治広と姓名を改めた。なお名前は、旧字体の「治廣」表記も用いられる。 愛媛県立宇和島東高等学校、日本体育大学出身。 1961年に日本体育大学を卒業し、同大学助手となり選手としても活動する。日本体育大学の体操体育館に寝泊まりしながら猛練習に明け暮れる中、ある学生が高く飛んで屈伸させながら跳馬を飛ぶ姿にヒントを得て前転と屈伸での着地を組み込んだ「山下跳び」を編み出す。山下はこの新技を引っさげて1962年世界体操競技選手権(チェコスロバキア・プラハ)の種目別跳馬で銀メダルを獲得した。
千葉 吟子(ちば ぎんこ、1938年2月25日 - )は、元… 千葉 吟子(ちば ぎんこ、1938年2月25日 - )は、元体操選手。1962年プラハ世界選手権銅メダリスト、1964年東京オリンピック銅メダリスト。日本体育大学名誉教授。旧姓:虻川。 生家は秋田県大館市の自転車専門店「(有)サイクルショップあぶとく」。6人姉弟の三女。秋田県立大館桂高等学校卒業。日本体育大学卒業。勝負度胸があり、団体では1番手を務めることが多かった。引退後は数々の世界大会で国際審判員や審判長を務めた。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日… マティ鈴木(マティすずき、1938年1月25日 - )は、日本の元プロレスラー。実業家。本名:鈴木 勝義(すずき かつとし)。 現在はペンドルトン・ウーレン・ミルズ社極東販売部門ディレクター。 1938年1月25日生まれ。日本プロレス時代のプロフィールでは1939年生とされていた。神奈川県の出身で東京都世田谷区育ち。日本体育大学荏原高等学校出身で、家業の都合で入学が二年ほど遅れた。高校時代は野球部で捕手を務めていた。高校の1年先輩で野球部のエースだったのがヒロ・マツダ(小島泰弘)であった。 高校時代から東京都中央区日本橋浜町にあった力道山道場でボディビルをやった後、日本プロレスに入門。1959年5月1日、ミツ・ヒライ(平井光明)戦(後楽園ジム)でデビュー。
斎藤 勝(さいとう まさる、1937年4月25日 - )は、… 斎藤 勝(さいとう まさる、1937年4月25日 - )は、日本のバレーボール指導者、アスレティックトレーナー、元バレーボール全日本男子監督。東海大学名誉教授。 東京都出身。東京都立目黒高等学校、日本体育大学体育学部体育学科を卒業後、教師となる。並行して、数々の中学、高校、大学でバレーボール部の監督として采配を振った。 1970年、第7回世界選手権で、全日本男子チームのトレーナーを務めた(当時は、東海大一高の監督で、日本協会科学技術研究員だった)。 1972年のミュンヘン五輪でも、同じく全日本男子チームのトレーナーを務め、松平康隆監督とともに、倒立歩行など、独自のトレーニング方法を考案した。 1984年、ロス五輪後に、全日本男子チームの監督に就任(当時は、東海大学体育学部教授で、同大学のバレーボール部監督)。
飯塚 十朗(いいづか じゅうろう、1937年4月4日 - )… 飯塚 十朗(いいづか じゅうろう、1937年4月4日 - )は、日本のアーチェリー選手、アーチェリー指導者。 アジアアーチェリー連盟副会長。群馬県出身。長野原高校、日本体育大学卒。 現役時代は選手として世界大会に3度出場を果たした。 現役を引退してからは、様々なアーチェリー大会の役員を務めた。 現在は、勤務先を定年退職し、アーチェリーの役員・指導者を務めている。 1980年モスクワオリンピックの日本選手団アーチェリー監督に就任するも、日本が不参加を決定したため、采配を取れずに終わった。 その後、日本アーチェリー連盟の重鎮として活躍し、アジアアーチェリー連盟副会長、全日本アーチェリー連盟副会長、全関西アーチェリー連盟会長、大阪府アーチェリー連盟会長、日本オリンピック委員会理事などの要職を歴任し、日本のアーチェリー界の発展に尽力した。
加藤 廣志(かとう ひろし、1937年 - )は、秋田県山本… 加藤 廣志(かとう ひろし、1937年 - )は、秋田県山本郡藤里町出身の元高校教諭、バスケットボール指導者である。能代工業高校バスケットボール部の礎を築いた名将として知られる。
松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )… 松澤 友久(まつざわ ともひさ、1936年9月15日 - )は、日本のラグビー指導者。山梨県出身。 日川高校卒業後、日本体育大学に入る。 日本体育大学卒業後、川崎の高校教師を経て1971年、相模台工業高校のラグビー部監督に就任。監督として在籍期間中花園1度の優勝、2度の準優勝に貢献。なお総監督を務めた1994年も花園連覇した。 監督退任後は山梨学院大学の監督就任。関東大学ラグビーリーグ戦グループ1部初昇格に貢献。相模原市ラグビーフットボール協会の会長を務めた。
青山 敏彦(あおやま としひこ、1936年8月5日 - )は… 青山 敏彦(あおやま としひこ、1936年8月5日 - )は、三重県出身のラジオ体操指導者、元日本体育大学教授。NHKテレビ・ラジオ体操指導者を28年間務め、全国ラジオ体操連盟理事長を経て、現在は同連盟の名誉会長を務める。 三重県四日市市生まれ。 1959年に日本体育大学体育学部を卒業し、同大学の助手に就任。1960年から2年間、デンマークのオレロップ国民高等体操学校(デンマーク語版)(現:オレロップ体育アカデミー)へ留学。1981年より日本体育大学の教授職となり、1991年に退職するまで32年間教職を務めた。 1971年、NHKテレビ・ラジオ体操指導者に就任。1999年まで28年間務め、同年開始のNHK『みんなの体操』検討委員会の一員として考案、発表に携わる。
本田 大三郎(ほんだ だいさぶろう、 1935年2月17日 … 本田 大三郎(ほんだ だいさぶろう、 1935年2月17日 - 2025年8月10日)は、日本のハンドボール・カヌーの選手。熊本県八代郡坂本村出身。日本初のオリンピックカヌー選手で、1964年東京オリンピックで正式種目として採用されたカヌー競技へ出場した。 熊本県立八代高等学校・日本体育大学体育学部体育学科・自衛隊体育学校卒業。横浜市消防訓練センター体育訓練担当教官(課長)定年退職。その後は各大学のカヌー部コーチを経て、神奈川県の三浦市にあるマホロバ・ホンダカヌースクールの代表役を務めている。 息子はレスリング選手・プロレスラーの本田多聞、サッカー選手の本田圭佑は兄の孫。 八代高校時代にはハンドボールをして、キャプテンを務めた。
相原 信行(あいはら のぶゆき、1934年12月16日 - … 相原 信行(あいはら のぶゆき、1934年12月16日 - 2013年7月16日)は、昭和時代の日本の体操選手。群馬県群馬郡滝川村(現:高崎市)出身。群馬県体操協会名誉副会長、相原体操クラブ代表。群馬県立高崎工業高等学校、日本体育大学体育学部体育学科を卒業。 世界タイトルは4個、オリンピックでは金メダル2個・銀メダル2個を獲得。日本体操界の黄金時代を支えた稀代の名選手である。その後は足利工業大学、上武大学教授を務めた。妻の相原俊子は東京オリンピックの女子体操団体の銅メダリストで、2人の息子である相原誠(長男)と相原豊(次男)も優れた体操競技選手として活躍した。
池田 敬子(いけだ けいこ、旧姓 : 田中、1933年11月… 池田 敬子(いけだ けいこ、旧姓 : 田中、1933年11月11日 - 2023年5月13日)は、元女子体操競技選手で、指導者、教育者。広島県豊田郡鷺浦村(現:三原市鷺浦町)出身。息子は教師。 メルボルン五輪・ローマ五輪・東京五輪体操女子代表。1954年世界体操競技選手権で日本女子体操界初の金メダリストとなり、「ローマの恋人」と呼ばれた。東京五輪団体銅メダリスト。体操ニッポンの先駆者と言える。いわゆる「ママさん選手」の先駆けとなった人物。指導者としても名を残し、五輪代表選手を育てている。日本女子体操界初の国際体操殿堂入り。2012年、瑞宝中綬章受章。 三原市名誉市民、日本体操協会功労賞、横浜文化賞。
豊田 博(とよだ ひろし、1933年10月14日 - )は日… 豊田 博(とよだ ひろし、1933年10月14日 - )は日本の体育学者。 山口県出身。山口県立光高等学校から1957年に日本体育大学を卒業。東京大学教養学部助手、講師を経て同学部助教授。のちに千葉大学教養学部に転じ同学部教授。退官後は名誉教授。 学生時代はバレーボール選手で、教員となったのちもバレーボール選手の体力面における科学的な研究や指導方法の研究を行い、1964年の東京オリンピックでは強化コーチを務めた。発表した書籍、論文多数。 バレーボール球界では、日本バレーボール協会常任理事、専務理事を歴任。国際バレーボール連盟の副会長、技術コーチ委員長、公認コーチ指導委員なども歴任した。その著書「ジュニアバレー・コーチングマニュアル」の推薦のことばとして、日本小学生バレーボール連盟会長は「日本の小学生・中学生バレーの育ての親」と最大級の賛辞を送っている。
浅見 俊雄(あさみ としお、1933年10月3日 - )は、… 浅見 俊雄(あさみ としお、1933年10月3日 - )は、日本の元サッカー審判員、元サッカー選手、元サッカー指導者。東京大学・日本体育大学名誉教授。元国立スポーツ科学センター長、日本サッカー協会顧問、アジアサッカー連盟規律委員会副委員長。 埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。東京大学教育学部体育学科卒業。選手時代のポジションはハーフバック。埼玉県立浦和高等学校2年次の1950年に国民体育大会準優勝、3年次の1951年に高校選手権、国体、関東大会の三冠に貢献した。また同年には公式戦28試合、練習試合24試合の合計52試合無敗の記録を残した。その後、東京大学に進学し運動会ア式蹴球部に所属。1952年度(1953年1月)第1回大学選手権にて優勝。
宗内 徳行(むねうち のりゆき、1931年7月 - )は、日… 宗内 徳行(むねうち のりゆき、1931年7月 - )は、日本の元全日本バレーボール女子代表監督、日本体育大学名誉教授である。山口県徳山市出身。 この項目は、バレーボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Pバレーボール/PJバレーボール)。
稲石 三二(いないし みつじ、1930年2月10日 - 20… 稲石 三二(いないし みつじ、1930年2月10日 - 2008年4月8日)は、日本の体育科教員、ハンドボール指導者。 愛知県豊橋市に生まれ、日本体育専門学校(現日本体育大学)を卒業。1950年から名古屋市立桜台高等学校教諭および同校ハンドボール部監督を務め、全国高等学校総合体育大会ハンドボール競技大会(インターハイ)に5連覇を含む9回優勝、国民体育大会で3連覇2度を含む9回優勝など、数多くの実績を残し選手を育てた。 高校教諭退職後、名古屋文理短期大学、名古屋文理大学の教員として体育学の研究およびハンドボール部指導を行った。 現在にいたるまで、愛知県がハンドボール王国と言われるほどハンドボールが盛んな理由は、稲石による普及活動に加え、稲石の教え子たちが後に高校教諭等になってハンドボール指導にあたったためである。
宍戸 大全(ししど だいぜん、1929年11月24日 - )… 宍戸 大全(ししど だいぜん、1929年11月24日 - )は、日本のスタントマン・俳優。福島県出身。本名は宍戸 邦博(ししど くにひろ)。映画・テレビドラマの吹き替え(水戸黄門でお馴染みの風車の弥七など)で活躍した。『週刊朝日』1964年7月3日号のインタビューでは、宍戸大全にししどひろやすとルビが振ってある。 1948年、(旧制)福島県立保原中学校 (福島県立保原高等学校) 卒業。 オリンピック選手を目指し日本体育大学に進学するが、練習中に左アキレス腱を痛めてしまい、メルボルンオリンピックへの夢を断念。卒業後は秋田県の女子校である旧大館桂高校の体育教師として生活していた。 大阪の高校で体育教師をやっていた1956年、大映京都撮影所で製作中の長谷川一夫主演『鼠小僧忍び込み控』でケガ人が出たことから、体操の先生なら身軽でスタンド・イン(吹きかえ)によかろうと同作に臨時出演したことを機に大映に入社。
河野 昭(こうの あきら、1929年9月11日 - 1995… 河野 昭(こうの あきら、1929年9月11日 - 1995年12月25日)は、愛媛県出身の体操選手、体操指導者。1956年メルボルンオリンピック体操男子団体銀メダリスト。得意種目はあん馬。 宇和島市生まれ。旧制宇和島中(現・宇和島東高)、日本体育専門学校(現・日本体育大学)卒業。竹本正男に師事する。 1952年、1953年、1957年の全日本体操競技選手権大会個人種目別あん馬で優勝。1956年、メルボルン五輪体操男子団体2位、同個人総合16位。1958年、世界体操競技選手権個人種目別あん馬4位。 愛媛大学教授・愛媛大学教育学部附属中学校校長、日本体操協会理事、愛媛県体操協会会長などを歴任した。
小島 禎二(こじま ていじ、1927年4月21日 - 199… 小島 禎二(こじま ていじ、1927年4月21日 - 1997年2月11日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手。 名古屋第三商業学校(現名古屋市立桜台高等学校)から日本体育専門学校(現日本体育大学)を経て1948年に中日ドラゴンズへ入団。 1952年に引退。1963年から1964年まで中日でコーチを務めた。
明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は… 明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。1947年から1950年までの登録名は明石 武(あかし たけし)。
上迫 忠夫(うえさこ ただお、1921年(大正10年)10月… 上迫 忠夫(うえさこ ただお、1921年(大正10年)10月14日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の体操競技選手・指導者。 島根県浜田市浅井町出身。1935年、旧制浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)に入学し、体操競技と出会う。昼休みに上級生(体操部の上級生には竹本正男もいた)が鉄棒で行っていた大車輪や宙返りに度肝を抜かされ、自分が進むべきスポーツだと直感して体操部に入部したという。体操に打ち込んだ上迫は、中学生の全国大会で優勝する戦績を残している。 1940年に中学を卒業し、日本体育専門学校(現・日本体育大学)に進学。1942年には東亜競技大会で個人2位の成績を残した。1942年7月、日本体育専門学校を繰り上げ卒業。
石崎 亀喜(いしざき きよし、1920年1月1日 - )は、… 石崎 亀喜(いしざき きよし、1920年1月1日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。
竹本 正男(たけもと まさお、1919年〈大正8年〉9月29… 竹本 正男(たけもと まさお、1919年〈大正8年〉9月29日 - 2007年〈平成19年〉2月2日)は、日本の体操選手。日本体育大学副学長、日本体育大学名誉教授。1952年ヘルシンキオリンピック・1956年メルボルンオリンピック銀メダリスト、1960年ローマオリンピック金メダリスト。島根県浜田市出身。旧制浜田中(島根県立浜田高等学校)、日本体育会体操学校高等師範科(現・日本体育大学)卒業。「体操の神様」とも言われていた。浜田市名誉市民でもあった。 ローマ五輪を最後に引退。日本体育大学教授として後進の指導、研究に従事した。 ほかに、日本体操協会副会長、日本体操協会顧問、日本体育大学理事、日本体育大学女子短期大学副学長などの要職を歴任した。
吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20… 吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20日 - 1967年〈昭和42年〉1月)は、教育者、重量挙げ選手。身長184cm、体重85kgの筋骨隆々体で知られ、平和祈念像のモデルとされている。何事も1番でなければ気が済まないという性格から「先頭」を意味する「せんとうはん」の愛称がある。 徳島県立穴吹高等学校出身のオリンピック代表選手。
土屋 敦博(つちや あつひろ、1916年11月23日 - 2… 土屋 敦博(つちや あつひろ、1916年11月23日 - 2002年10月6日)は、日本の保健学者。専門は障害児病理、スポーツ医学。博士(医学)。 長野県上田市出身。日本体育大学(旧制日本体育専門学校)卒業。信州大学教授を経て、長野大学教授。1972年から学長代行を務め、1977年正式に学長を歴任。 その他、1964年から1968年まで長野県サッカー協会会長を歴任。1960年上田市体育協会功労賞受賞。1964年長野県スポーツ協会スポーツ振興功績者有功賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7… 朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7日 - 2008年12月22日)は、日本の陸上競技選手及び陸上競技指導者。 1914年(大正3年)1月7日、広島県府中市出身。 1933年(昭和8年)に日本体育会体操学校高等師範科(現日本体育大学)を卒業した後、明治大学政治経済学部に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。学生時代より陸上競技の道に入り、走高跳の選手として活躍した。 1934年(昭和9年)、兵庫県西宮市の南甲子園運動場(阪神甲子園球場より南方に、阪神電鉄が建設した陸上競技場)で開催された日米対抗陸上競技大会に於いて、日本人として初めて走高跳の2メートルジャンパーとなった。
三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日… 三宅 芳夫(みやけ よしお、1913年(大正2年)12月7日 - 1983年(昭和58年)4月26日)は、元体操選手。 日本体育大学出身。1936年ベルリンオリンピックに出場した。引退後は、中京大学の教員となった。 この項目は、体操に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:スポーツ/Portal:スポーツ)。
稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 19… 稲山 壬子(いなやま じんし、1912年3月29日 - 1996年4月18日)は、日本のバレーボール指導者。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。日本体育会体操学校(後の日本体育大学)を経て、1933年に東京千代田学園バレーボール部監督。1943年に久喜高等女学校(現久喜高校)バレーボール部監督に就任し、全国大会優勝4回を達成。同校をバレーボール名門校に導いた。 1962年に1964年東京オリンピック強化コーチに就任。同大会での金メダル獲得に陰ながら貢献した。 1969年に東京三洋電機バレー部監督に就任し、チームを日本リーグ昇格まで導いた。全く無名の新人だった前田悦智子を「三年以内に全日本のエースにする」と宣言し育成した。
佐々野 利彦(ささの としひこ、1911年(明治44年)11… 佐々野 利彦(ささの としひこ、1911年(明治44年)11月2日 - 1975年(昭和50年)7月12日)は、日本の体操競技選手で、指導者も務めた。日本オリンピック委員会常任委員、日本体操協会副会長。 長崎県南松浦郡福江町(現・五島市)出身。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1964年東京オリンピックでは日本体操チームの総監督を務め、技の難度を示す「ウルトラC」という言葉を普及させたとする説がある。 1975年7月12日、肝臓癌のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。63歳没。同年7月28日、岸記念体育会館の地下講堂で日本体操協会・日本オリンピック委員会・日本体育大学など7団体による合同告別式が行われた。
加藤 康郎(かとう やすろう、1911年(明治44年) - … 加藤 康郎(かとう やすろう、1911年(明治44年) - 1998年(平成10年)3月13日)は、日本の政治家。藤島町長、栄典・称号は、従五位・勲四等・旭日小綬章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月2… 大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月27日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の舞踏家。モダンダンサー。マイム師、教育者。北海道函館市出身。 「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」 1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。家は北洋を漁場にする網元で、モダンな家庭であった。父はロシア語を話し、冬はカムチャッカ半島まで漁に出た。母はグラタンなどの西洋料理を得意とし、琴は六段の名手で、オルガンも弾いた。 ロシア正教会の幼稚園に通う。 1919年4月、旧制北海道庁立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)に入学後、母方の秋田県の親戚白石家にあずけられる。
下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月… 下川原 孝(しもかわら たかし、1906年〈明治39年〉7月25日 - 2011年〈平成23年〉3月11日)は、日本の陸上競技選手。 観光ジャーナリストの千葉千枝子は外孫。 現在の岩手県陸前高田市で農家を営む家の次男として生まれる。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業後、岩手県内の複数の学校で体育教師を勤めた。第二次世界大戦の開戦直前、新設校への赴任に伴い釜石市に移住。岩手県立釜石高等学校では教頭職に就いた。 本格的に陸上競技を始めたのは50代の頃で、98歳からはマスターズ陸上を始める。100歳を超えて記録した砲丸投5m11cm、やり投12m42cm、円盤投10m72cmはいずれも世界記録。
三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年… 三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。 1904年(明治37年)8月25日、東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都の日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した。 三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明、根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。
平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 19… 平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 1971年3月1日)は、日本の児童文学作家。代表作に「風と花びら」「太陽よりも月よりも」「玉むしのずしの物語」などがある。 1904年(明治37年)7月24日、父・平塚福太郎、母・ハナの二男として、神奈川県横浜市中区末吉町に生まれる。1911年(明治44年)4月、横浜市立南吉田尋常高等小学校に入学。翌年、中区本牧三の谷に転居し、横浜市立本牧尋常高等小学校に転校する。1915年(大正4年)、平塚定吉、タケに養子縁組みする。1917年(大正6年)4月、神奈川県立第二中学校(現:翠嵐高校)に入学。1919年(大正8年)4月、東京の市立荏原中学校(現:日本体育大学荏原高等学校)に転入する。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。