吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
早稲田大学:355人
吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966… 三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966年9月1日)は、日本の実業家、経済評論家。 兵庫県出身。1919年早稲田大学商科卒。三菱商事をへて1924年東洋経済新報社の記者となり、電力部門を担当、松永安左エ門、小林一三らの知遇を得た。1940年常務理事ののち退社。戦時中、九州の旅館で朝香宮の行状を女中に話したことが刑事に知れ、不敬罪で懲役1年半(執行猶予2年)の判決を受けた。戦後はNHK理事ののち1948年東宝取締役、東宝争議で退社。産経新聞論説委員、NHK放送審議会委員。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員。子に英語学者の三宅鴻。
板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年… 板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。 モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。
泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980… 泉 甲二(いずみ こうじ、1894年8月31日 - 1980年11月10日)は、日本の歌人、美術評論家。本名は山田 邦祐。 福岡県福岡市田島に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1920年早稲田大学文学部英文科を卒業し、研究社に入社。在学中の1917年から北原白秋に師事している。 戦後、「婦人画報」編集局に移り、1935年白秋の歌誌「多磨」創刊に参加、のち編集に従事。1953年に同誌が終刊後、中村正爾の歌誌「中央線」創刊に参加。 本名名義で美術書も出版した。
木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9… 木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、日本の文学評論家、明治文化史の研究家、小説家。小説家の阿部知二とはいとこ同士にあたる。 岡山県勝南郡勝間田村(現:勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。高等小学校卒業後の3年間独学、その後早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉らがいた。1917年卒業。 隆文館、次いで早稲田で同級だった直木三十五らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も宮崎安右衛門『乞食桃水』、西田天香『懺悔の生活』などのベストセラーを企画した。
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月… 山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月20日 - 1967年(昭和42年)9月26日)は新聞記者、政治評論家。 長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞、読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。 その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪、鳩山一郎らと親交があった。
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 … 平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 … 宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 - 1934年2月27日)は、日本の文芸評論家、英文学者。 埼玉県出身。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。島村抱月に師事し、各国文学の翻訳を行うほか現代日本文学の評論も行い、1927年早大教授。 1934年2月27日、死去。42歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24… 広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10… 太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10月8日 - 1986年〈昭和61年〉9月2日)は、大正から昭和にかけての新聞記者、評論家。 女性初のNHK解説委員である縫田曄子の父。 1891年(明治24年)10月8日に、兵庫県揖保郡網干町で生まれた。早稲田大学在学中の学生時代には国木田収二邸に同居していた。 王統との知遇を得て、1916年(大正5年)4月に王統からの要請で第三革命に孫文一派として参加した。後年、太田は当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。この際に上海に渡った太田は、王統の秘書として活動し、同年5月に帰国して1917年(大正6年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月2… 柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月20日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の音楽評論家。 東京出身。本名・柿沼市太郎。早稲田大学文学部英文科卒、中央音楽院に学び、天谷秀に師事。1924年、雑誌『音楽新潮』主幹になり、1942年まで勤めた。その後音楽評論家としてクラシック音楽についての著作や翻訳を多くなした。
高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、189… 高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、1891年(明治24年)1月27日(戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。 山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。1906年5月、家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出る。1907年、朝鮮へ渡航し二田商会に入り、日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。 やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。
青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 19… 青野 季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 1961年6月23日)は、日本の文芸評論家。 新潟県佐渡島出身。早稲田大学英文科卒業後、読売新聞記者となるが争議を指導したことにより解雇され、その後は新聞社を転々とした。 1919年、日本で最初にロープシンの『蒼ざめた馬』の翻訳を発表したのを機に、プロレタリア文学評論家として文筆活動を始め、1922年に「階級闘争と芸術運動」を発表。『種蒔く人』の同人として活動。「『調べた』芸術」(『文芸戦線』1925年7月)、「自然生長と目的意識」(『文芸戦線』1926年9月)、「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立った。
田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966… 田中 純(たなか じゅん、1890年1月19日 - 1966年4月20日)は、日本の作家、文芸評論家、翻訳家。 広島県広島市に生まれる。関西学院神学部を出て伝道師となるが、早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。1915年に大学を卒業。春陽堂に入り、『新小説』の編集に携わる。ピョートル・クロポトキン、トゥルゲーネフなどの翻訳などをしつつ、久米正雄、里見弴らと知り合い、文芸評論、小説、戯曲などを書くようになり、1920年に発表した「妻」で認められた。1919年、吉井勇とともに外務省の小村欣一の肝煎りで国民文芸会を結成し、演劇復興運動を起こす。
小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3… 小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれる。父は同郡川跡村役場に勤めるも、呑む打つ買うの道楽が過ぎて退職、一方母は素封家の娘で近在でも評判の働き者であったという。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼ぎつつ、国民英学会に一時籍を置いたりしながら正則英語学校、研数学館など複数校に通ったが、これらの学校では当時中学校卒業資格を得られなかったため、やがて早稲田大学の独特の資格試験に臨み、同大学予科入学。
一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1… 一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1952年2月21日)は、日本の美術評論家。 島根県八束郡東出雲町(現・松江市)揖屋に生まれる。1913年早稲田大学英文科を卒業。1921年ヨーロッパに遊学、1926年再留学。イギリスの大英博物館図書室で読んだ本に感銘を受ける。帰国後は、海外の美術や現在の動向、とくに古代エジプト美術の紹介に努めた。1928年帝国美術学校、1941年北京芸術大学教授。 雑誌『中央美術』を創刊して編集に携わり、また、平凡社の百科事典や世界美術全集の編集にも関わった。中国に赴いて研究を深め、『支那美術史』を著した。教授の末田利一や石塚太喜治の下で中華民国国立北京芸術専科学校(現中国中央美術学院)の講師をしていた。
坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月1… 坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月16日 - 1986年〈昭和61年〉3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。 現在の愛知県名古屋市に生まれる。坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。旧制早稲田中学校を経て、1909年(明治42年)早稲田大学文学部英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年(大正4年)に帰国。翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性マッグラルド・ホームズが後を追って日本に来た。しかし逍遥は士行に娶合わせるつもりで鹿嶋清兵衛の娘のくにを養女にしており、この関係を許さなかった。
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12… 飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12月1日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家、編集者、新聞記者。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれる。 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市)出身。父親は、大場村初代村長でもある豪農であった。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父親の反対を押し切って早稲田大学専門部法学科に進学、野球部に入部する。この時、保証人になったのが小説家の押川春浪であり、下宿で同室であったのが針重敬喜であった。
加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日… 加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日 - 1938年5月17日)は、日本の翻訳家・評論家である。 1886年(明治19年)9月19日、鳥取県東伯郡社村不入岡(現: 倉吉市)にて、父梅吉・母まつの3男として誕生する。本名は信正(信三とも)。県立米子中学校(現: 鳥取県立米子東高等学校)を経て、1905年(明治38年)に早稲田大学英文科に入学する。1909年に卒業。在学中より詩歌を発表する。1912年(大正4年)に「片岡伸氏を論ず」を発表し、文芸評論家となる。1920年(大正9年)から1年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に渡り、『瓜哇日報』の主筆を務めた。帰国後、1925年(大正14年)より立正大学で教鞭をとり、そのかたわらで評論・翻訳を手掛けた。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 192… 安成 貞雄(やすなり さだお、1885年4月2日 - 1924年7月23日)は、日本の評論家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)生まれで、中学までは能代市で育つ。父正治は元長府藩士で、阿仁鉱山の高級機械工を経て、東雲の精錬所に勤務した。弟には歌人の安成二郎、福原信三の秘書を務めた安成三郎がいる。 大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)時代は正岡子規選の新聞「日本」に投稿した。また校長排斥ストライキの首謀者として無期停学の処分を受けるが、県知事にかけ合って最終的に校長に辞表を書かせた。 高等工業学校への進学を望んでいた父の願いに背き、作家を志して早稲田大学文学部英文科へ進学。日露戦争の真っ只中であり、文学者の中に反戦気運が広がっていた。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20… 片上 伸(かたがみ のぶる、1884年(明治17年)2月20日 - 1928年(昭和3年)3月5日)は、日本の文芸評論家、ロシア文学者。初期は「天弦」の号で執筆活動をしていたので、片上天絃(片上天弦)の名でも知られる。 1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 19… 西村 濤蔭(にしむら とういん、1883年4月7日 - 1945年5月25日)は、日本の小説家、文芸評論家、時事・政治評論家。 浅草の商人西村誠造の長男として生まれ、菊島家の養子となるが、1904年(明治37年)、養母と協議離縁し西村家に復籍した。その間の事情は小説「佛様」(『ホトトギス』明治40年4月)に描かれている。実家の家督は異母弟が相続していたが、濤蔭とは絶縁状態にあったようで、濤蔭は妹の梅とともに早稲田で借家暮らしをしていた。 1908年(明治41年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。在学中の1907年(明治40年)4月から、『ホトトギス』誌上に「佛様」「京の月」等の小説を発表する。夏目漱石の高浜虚子宛書簡(明治40年8月4日)に、濤蔭が漱石のもとを訪れ、自作の批評と『ホトトギス』への掲載を乞うたことが記されている。
生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月… 生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月6日)は、日本の随筆家、評論家。政治・社会への風刺を得意とし、太平洋戦争中も軍部に対する皮肉の手を緩めることがなかった。 群馬県利根郡沼田町上之町(現・沼田市上之町)に生まれる。旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)、明治学院中学を経て早稲田大学英文科を卒業。在学中からトルストイに傾倒し、アナトール・フランスやドーミエの影響も受けた。 大学卒業の翌1907年(明治40年)に渋川玄耳の紹介で東京朝日新聞記者となる。さらにやまと新聞、大正日日に転じ、早稲田文学記者でもあった。当時のほとんどの雑誌・新聞に随筆、翻訳、評論、小説、雑文を書き、その風刺の効いた文章は読者の支持を集めた。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2… 丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1955年〈昭和30年〉8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 長野県埴科郡清野村(現長野市)の農家に生まれる。1901年東京専門学校(現・早稲田大学)邦語科行政科卒業、日本新聞に入社、翌年青森新聞主筆となり、日露戦争中に日本新聞に復帰し従軍記者となる。1906年京城日報編集長を務め、1909年大阪朝日新聞社入社。「天声人語」を執筆。のちニューヨーク特派員、通信部長を歴任。1918年には白虹事件のため、長谷川如是閑らとともに退社。 1928年大阪毎日新聞社に入社し、コラム「硯滴」を担当。まもなく東京日日新聞に移り、1953年まで短評論「余録」を担当。
高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 19… 高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 1948年2月2日)は、明治期から昭和期の日本の文芸評論家、評論家。 大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。為替貯金管理所勤務から1898年に上京して、早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また佐藤義亮が創刊した『新声』の編集に加わり、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄など。その後、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。1901年、『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士。
松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月… 松岡 荒村(まつおか こうそん、1879年(明治12年)5月8日 - 1904年(明治37年)7月23日)は、詩人、評論家。本名・悟、別名・暗濤蒼浪庵。最初の 「君が代」批判論者として知られる。西川文子の前夫。 1879年(明治12年)、熊本県八代郡高田村(現・八代市平山新町)にて松岡喜三(蔵)の五男(9人兄弟の末子)として生まれる。本名は悟(さとる)。同志社尋常中学校ついで同志社高等学部を卒業し、早稲田大学に入学。北村透谷、田中正造、安部磯雄らの影響を受け、詩や評論を雑誌「社会主義」に発表した。貧困問題、足尾銅山鉱毒事件などに強い関心を持ち、社会主義運動の先駆けとして活動する。1904年(明治37年)、25歳で結核により没した。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。