谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1… 谷口 茂寿(たにぐち しげとし、1895年9月25日 - 1973年6月25日)は、日本の牧師。 1895年、大阪で生まれる。組合派の大阪天満教会にて受洗を務めながら、1916年に京都帝国大学入学。在学中に内村鑑三主筆の「聖書の研究」に触れ、内村鑑三の教えを受けることを願って東京帝國大学へ転入して上京。1918年1月より内村鑑三の集会である今井館に出席を許される。1920年、転入した東京帝國大学を卒業。三菱造船株式会社(現三菱重工業株式会社)に入社、神戸造船所に赴任。その後三菱合資会社に転任するが、再び上京し本郷駒込追分町に住む。1923年、三菱合資会社退社。文書伝道者としての活動を開始する。本郷神の教会牧師に就任し、教会内に日本聖書学校を設立、校長に就任。
細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21… 細川 鉅(ほそかわ つよし、1895年(明治28年)6月21日 - 没年不明)は日本の実業家である。野村證券に務めた後、野村財閥直系・航空用ガソリンメーカーであった帝国潤滑油社長を務めた。広島県庄原市出身。 1895年(明治28年)広島県比婆郡東城町(現:庄原市)の細川平左衛門の次男として出生する。1908年(明治44年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1914年(大正3年)に同校を卒業する。その後、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。1918年(大正6年)に同校を卒業する。同年、京都帝国大学法科大学政治経済学科へ進学。1921年(大正9年)京大を卒業する。
松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1… 松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家である。衆議院議員(6期)。 大阪府南河内郡黒山村出身。1922年(大正11年)、京都帝国大学経済学部卒業。桃山学院中学校の英語教諭、大阪府立黒山実業学校の教頭などを経て、経済界に転身した。神国海上火災KK(日本興亜損害保険の前身会社)、大阪タクシーKK、大阪メーターKK等を経て、1946年(昭和21年)、日本社会党に入党、日本社会党大阪府連合常任執行役員となる。 1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で大阪第3区より衆議院議員に初当選、日本社会党中央委員に就任。大阪メーターKKを退職。1950年(昭和25年)東京相互タクシーKKを設立し、代表取締役に就任。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月… 緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月)は、日本、満洲国、朝鮮の医師。 緒方道平の四男として福岡市に生まれる。祖父は緒方郁蔵。医学者緒方大象、政治家緒方竹虎は兄。1914年福岡県立中学修猷館、1917年7月第五高等学校医科を経て、1921年7月京都帝国大学医学部を卒業。 満洲国の斉斉哈爾鉄道病院院長、朝鮮の清津赤十字病院院長を歴任。戦後、福岡市の在外同胞援護会救療部聖福病院の初代院長となり、引揚者の医療救護にあたった。在職中の1955年3月死去。
稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月… 藤岡 長敏(ふじおか ながとし、1894年(明治27年)8月19日 - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 奈良県宇智郡北宇智村近内(現在の五條市)出身。北宇智村長・藤岡長二郎の三男として生まれる。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、第三高等学校を卒業。 1920年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、警視庁警視、広島県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、東京府総務部長、警視庁警務部長などを歴任。 1938年2月、香川県知事に就任。
中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - … 中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - 1968年8月1日)は、日本の経済学者、元京都帝国大学教授。文学博士。ナチス研究により戦後公職追放された。川田順の「老いらくの恋」騒動の当事者の一人。 富山県上新川郡熊野村江本(現:富山市江本)の農家、中川滋次郎・チイ夫妻の次男に生まれる。苦学して特待生で東京高等師範学校に入学、卒業後、奈良県郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)で教師をしたあと、1924年に京都帝国大学経済学部卒業、大学院に進み、30歳の時に下宿先の娘鈴鹿俊子(17歳)と結婚、一男二女を儲ける。 1928年に大学院を中退して京大講師となり、1930年助教授、1931年から1933年まで文部省の辞令によりドイツ留学、1943年教授。
田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1… 田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1985年7月21日)は、日本の弁護士・法学者。専門は私法学。大阪経済大学元理事長、同名誉教授。 1894年(明治27年)香川県三野郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)に生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1915年(大正4年)京都帝国大学法律科入学、1918年(大正7年)に卒業し司法官試補となる。1920年(大正9年)大阪地方裁判所判事に任官。1922年(大正11年)学界に転じ大分高等商業学校教授に就任、法律学を担当。翌1923年(大正12年)よりイギリス・ドイツに留学する。1929年(昭和4年)彦根高等商業学校に転任し民法、商法などを講じた。
藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975… 藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975年3月18日)は、大正、昭和期の逓信官僚。電源開発総裁。位階は従三位。広島県深安郡山野村(現福山市山野町)出身。 広島県立福山中学(現福山誠之館高校)、旧制第三高等学校を経て1921年、京都帝国大学法学部法律科卒業。逓信省入省。1927年札幌逓信局規画課長、1932年郵務局規画課長。この時期を通して郵便配達方法の改善に着目、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立し、これらは後に新住居制度や郵便番号制度の普及に役立ったとされる。満州事変から1か月半後の1933年4月、満洲電信電話設立の要務を帯びて関東庁逓信局長に任命され大連に赴任。旧満州国の電力サイクルの統一等に尽力。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1… 太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。贈正四位・勲二等。京阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)社長や関西電力の社長・会長を歴任。関西電力時代には黒部ダム建設を指揮した。 兵庫県城崎郡城崎町湯島(現・豊岡市)で地元の開業医、太田垣隆準(りゅうせつ)の長男として生まれる。 第五高等学校、京都帝国大学経済学部卒業。1920年に日本信託銀行へ入行したが、1925年には阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移った。阪急では小林一三のもとで出札係や阪急百貨店の店員などの業務を広くこなした。1946年12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併して改称)社長に就任。
柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26… 柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉1月16日)は、日本の哲学者。西田哲学から戦後唯物論に転じ、平和運動や労働者教育にも尽くした。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)生まれ。家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家で、謙十郎は、村会議員を経て収入役・助役になった柳田勘作の長男であった。1908年神奈川師範学校に入学。1913年、愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。のち、神奈川師範学校附属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山師範学校教諭、岩手師範学校教諭などを務める。 1922年4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。
伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明… 伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明治26年)10月15日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 沖縄県中頭郡北谷村(現北谷町)字北谷で、農家・伊礼昆正の三男として生まれる。沖縄県立第一中学校から第七高等学校造士館に進学し、1916年に同校理科を卒業。京都帝国大学法学部法律学科(独法)に進学し、1919年7月に卒業した。 同年に帰郷して沖縄県属となり地方課に配属。要請を受け1920年8月に北谷村長に就任。村政改革を進めたが保守勢力との対立を引き起こした。1923年11月に村長を辞して那覇に法律事務所を開設。1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に憲政会の公認を受けて沖縄県から出馬したが落選。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 198… 矢野 峰人(やの ほうじん、1893年3月11日 - 1988年5月21日)は、日本の詩人、英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。 1893年、岡山県津山市で生まれた。久米北条郡大倭村(現・津山市西部)出身。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵、中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏、厨川白村の教えを受けた。 卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月… 松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月2日 - 1976年(昭和51年)5月2日)は、日本の逓信・拓務官僚、政治家。南洋庁長官、貴族院男爵議員。旧名・定之助。 東京府出身。有馬頼萬の三男として生まれ、松田正久の養子となる。養父の死去により、1915年9月1日、男爵を襲爵。学習院を経て、1916年7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年3月、帝室博物館属となり、1920年6月まで在任。 1920年10月、高等試験行政科試験に合格し、同年11月、逓信局書記兼逓信属となる。以後、同事務官、地方海員審判所審判官兼逓信局事務官、兼逓信省事務官などを歴任。1923年4月、拓務事務局書記官兼内閣書記官に転じた。
石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 195… 石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究・実戦、人体実験を中国で行った。
高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月1… 高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月15日 - 1974年(昭和49年)12月6日)は、日本の弁護士、政治家。京都市長(第19代)。国立京都国際会館初代館長。京都自由人権協会理事長。初代京都市会議長で第1回衆議院議員を務めた中村栄助の三男。 中村栄助の三男として京都市に生まれる。京都府立二中では野球部で小西作太郎とバッテリーを組んでいた。第五高等学校を経て1918年に京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。学生時代は河上肇を顧問とする労学会に所属、キリスト教社会主義運動に参加。1917年、友愛会の初代京都支部長に選ばれた。賀川豊彦の影響により普選運動に携わった。 京大助手、同志社大学講師を経て、神戸で弁護士を開業した。
小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - … 小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - 1985年2月5日)は、日本の実業家。朝日新聞社元常務。全国高校野球の生みの親でもある。京都府京都市出身。 京都第二中学、旧制三高を経て、1918年に京都帝国大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社。印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり、他社よりも先駆けて扁平活字を考案し採用した。 京都二中時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった。
吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日… 吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日 - 1958年(昭和33年)12月21日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)、愛知県会議員(3期)、一宮市長(2期)、一宮市会議員(4期)。 愛知県中島郡一宮町(現一宮市)に生まれる。1911年(明治44年)3月、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。1917年(大正6年)、愛知県立医学専門学校卒業。1918年(大正7年)、吉田医院を開業。 1921年(大正10年)、一宮市の市制施行に際し、一宮市会議員に初当選。1927年(昭和2年)、京都帝国大学で医学博士を修了。 1931年(昭和6年)9月、愛知県会議員選挙に立憲民政党公認で初当選。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1… 中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1968年(昭和43年)8月22日)は、大正時代から昭和時代にかけて活動した郷土史家、民俗学者である。 宮城県登米郡登米町に生まれる。旧姓は砂金(いさご)。後に青森県八戸市に移り青森県立八戸中学校に進学するも1年で中退する。二松學舍を経て、1918年(大正7年)に京都帝国大学教授の内藤湖南のもとで、東洋文献の考証学を学ぶ。同年に八戸の中道トシの養子となり姓を改める。その後、八戸に戻り『実業時論』という雑誌を手がける。推薦を受け、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務める。また、南部叢書の編纂にも従事した。1928年、小井川潤次郎が中心となって組織した八戸郷土研究会の顧問となる。
山県 三郎(やまがた さぶろう、旧字体: 山縣 三郞、189… 山県 三郎(やまがた さぶろう、旧字体: 山縣 三郞、1891年(明治24年)11月13日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、日本の内務・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。官選栃木県知事。 東京府出身。公爵山県伊三郎の三男として生まれる。学習院を経て、1917年7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入省し東京府属となり内務部工務課勤務となる。 1920年3月、東京府理事官・内務部工務課長に就任。以後、同府内務部社会課長、福岡県理事官・内務部庶務課長、地方事務官・福岡県勤務、大阪府勤務、茨城県書記官・学務部長、朝鮮総督秘書官兼朝鮮総督府事務官、専任朝鮮総督府事務官、全羅南道内務部長、神奈川県書記官・学務部長、山形県書記官・内務部長、栃木県書記官・総務部長を歴任。
竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月1… 竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月16日 - 1973年(昭和48年)2月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、出版業者、政治家。衆議院議員。号・夏積。鳥居素川の愛弟子として知られた。「克己」と表記される場合がある。 福井県福井市出身。京都で成長した。京都帝国大学文科大学文学科で学んだ。 大阪朝日新聞社に入社し、記者として務め、その後、海外特派員となった。鳥居に抜擢され1919年(大正8年)大正日日新聞社販売部長となるが、販売不振のため退職。その後、満州日報社取締役主筆を務めた。戦時下、外務省の外郭団体(文化団体)「聞人会」を主宰し理事長となり銀座のビルに事務所を置いていた。
守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10… 守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。 元庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった。 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。
松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年… 松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年)3月15日 - 1945年(昭和20年)12月22日)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚、満州国行政官。 鳥取県西伯郡法勝寺村落合(のち西伯町、現南部町)出身。松下澤次郎の長男。赤貧洗うがごとき家庭で、米子中学校への進学は、松下の英才を見抜いた精山校長などの強いすすめと励ましによって実現した。 1910年(明治43年)3月、鳥取県立米子中学校(現在の鳥取県立米子東高等学校)を卒業して東京高等師範学校に進んだが、高師を中退して京都帝国大学法科大学政治科に入る。1915年(大正4年)、大学卒業とともに高等文官試験に合格。 1916年(大正5年)、台湾総督府警部となり、警察官及司獄官練習所教官、澎湖庁警視・警務課長、専売局事務官、同参事・塩脳課長を歴任した。
黒田 正利(くろだ まさとし、1890年 - 1973年)は… 黒田 正利(くろだ まさとし、1890年 - 1973年)は、イタリア文学者。 京都帝国大学英文科卒。1949年「Dante(ダンテ)の詩に関するManifesto(マニフエスト)」で京都大学文学博士。戦後、京都学芸大学教授、龍谷大学教授を務めた。
大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治2… 大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1981年〈昭和56年〉6月1日)は、日本の武道家、弁護士。 熊本市生まれ。大野家は熊本藩藩主細川氏の家臣であった。熊雄は幼時より熊本藩伝の新陰流剣術、伯耆流居合術を修行し免許皆伝を授かる。熊本県中学済々黌、京都帝国大学経済学部、法学部を卒業。 東亜同文書院教授、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学学生主事を歴任。大日本武徳会で武道の修練、大映京都撮影所で剣戟映画指導も行った。著書に『剣士内藤高治』、『剣士一代』、『日本名刀伝』がある。 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬したが落選した。
島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4… 島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4日 - 1970年〈昭和45年〉2月22日)は、日本の国文学者。第三高等学校の最後の校長。 新潟県新潟市一番堀通町(現 新潟市中央区一番堀通町)の弁護士・島田脩三の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第三高等学校を卒業、1913年(大正2年)7月に京都帝国大学文科大学文学科(国文学専攻)を卒業。 1914年(大正3年)4月に島根県立浜田中学校教諭に就任、1917年(大正6年)7月に公立中学校教諭に任官(高等官)、引き続き島根県立浜田中学校に勤務、1920年(大正9年)10月に第三高等学校教授に任官。
山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月… 山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 196… 内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 1969年9月28日)は、日本の地理学者。日本における歴史地理学の開拓者と知られ、他に政治地理学・郷土教育などに功績がある。 佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)の士族の家に生まれた。唐津中学在学中、日露の日本海海戦の砲声を聞いた。同校を19歳で卒業し、23歳(1910年)の時東京高等師範学校本科地理歴史科を卒業し、当時唯一の地理学の専門課程があった京都帝国大学文科大学史学科に入学。 1913年(大正2年)、大学を卒業し、大学院に進学。1914-1916年までは同助手を勤める。この間、小川琢治・石橋五郎・中目覚らに学ぶ。また、日本近世史が専門の内田銀蔵や、東洋史の権威である内藤湖南にも学んだ。
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月… 大西 斎(おおにし いつき(ひとし、さい)、1887年12月16日 - 1947年12月20日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞副主筆。 福岡市鳥飼の大西百之の子として、福岡県柳川に生まれる。母方の叔父には、京都帝国大学総長を務めた松井元興、鐘紡社長、日本合成化学工業社長、民生産業(現・UDトラックス(旧:日産ディーゼル))社長を務めた城戸季吉がいる。1908年、福岡県立中学修猷館を卒業。修猷館在学中には、玄洋社の柔道道場「明道館」で柔道を学んでいる。1911年、東亜同文書院を卒業し(第8期生)、同年大阪朝日新聞に入社する。同期入社には、修猷館の2年上級である緒方竹虎がいる。 1917年、上海特派員、1919年、北京特派員となり、1924年に帰国後、東京朝日新聞に転じる。
秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3… 秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した。
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 … 中野 友禮(なかの とものり/ゆうれい、1887年2月1日 - 1965年12月10日)は、日本の実業家。中野 友礼または中野 有礼としている場合もあり、読みも「とものり」ではなく「ゆうれい」としている場合もある。中野式食塩電解法の開発を契機に日曹コンツェルンを築く。 福島県大沼郡川西村(現:三島町)西方の旧会津藩士の家に生まれる。神尾彦之進の二男で、幼児に中野家の養子になった。旧制会津中学校(現:福島県立会津高等学校)を卒業後、一高の臨時中学校養成所に進んだ。その後、1908年(明治41年)、京都帝国大学理学部化学教室助手となり、中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を得た。 中野はこの技術を基にして、1920年(大正9年)に日本曹達を設立し、苛性ソーダ、さらし粉の生産を開始した。
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉1… 西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1964年〈昭和39年〉12月26日)は、日本の国史学者。本名・直二。京都大学名誉教授。 1886年、大阪府西成郡清堀村(現・大阪市天王寺区)で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、史学科国史学専攻1期生として内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らの下で学んだ。1910年に卒業。同年、同大学大学院に進み、日本文化史を専攻。 1915年、京都帝国大学講師に就いた。1919年に助教授、1924年に教授昇格。1924年に学位論文『王朝ノ庶民階級』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。 政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。