浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1… 畠山 鶴吉(はたけやま つるきち、1895年(明治28年)1月18日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北都留郡梁川村(現大月市梁川町)で生まれる。尋常小学校卒業後、1906年(明治39年)に上京し、1912年(明治45年)神田工科学校を卒業した。 1914年(大正3年)神田今川橋で酒店を開業。1923年(大正12年)の関東大震災で財産の全てを失ったが、同年、土木建築請負業「畠山組」を設立して復興事業で事業を拡大した。1931年(昭和6年)「大森かに料理つるや」を開業。1934年(昭和9年)帝国無尽 (株) 社長に就任。同年11月、熱海温泉につるや旅館を開業し、のち(株) つるやホテルに改組して社長に就任した。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日… 長井 満(ながい みつる、1895年(明治28年)1月16日 - 1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。 最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。 東京府立第四中学校を経て、1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。卒業席次は89名中5位(首席は皇族の名誉席次であり、実質上の4位)で、優等生として恩賜品を下賜されている。1918年(大正7年)8月1日、海軍少尉に任官。
高橋 潔(たかはし きよし、1895年1月16日 - 196… 高橋 潔(たかはし きよし、1895年1月16日 - 1961年12月29日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。青森県出身。 1921年(大正10年)3月に東京帝国大学法学部を卒業。同年5月にいったん司法官試補となるが、1922年(大正11年)9月に依願退官し、すぐ弁護士登録をした。1952年4月から2年間、司法研修所の教官を務めた。 弁護士としては湯浅倉平内大臣暗殺計画事件や人民戦線事件などを扱い、極東国際軍事裁判で旧制一高・東京帝大時代の友人である岸信介の弁護人をした。 子供が無く、夫人と二人暮らしであった。楽しみは若い相撲取りや弁護士たちの面倒を見ることで、特に相撲が好きで若い力士を子供のようにかわいがっており、学生時代は仕度部屋に通いづめだったほどである。
高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月1… 高田 利種(たかだ としたね、1895年(明治28年)1月15日 - 1987年(昭和62年)10月25日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵46期、海大28期。最終階級は海軍少将。戦後は生化学工業株式会社社長。 1895年(明治28年)1月15日、鹿児島県で税務署長・高田利英の二男として生まれる。現在の西之表市出身。京北中学校を経て、海軍兵学校に45期生として入校したが、病気のため留年し1918年(大正7年)11月、46期生として卒業。公的な席次は次席であったが、首席は皇族(伏見宮博義王)の名誉席次であり、実質的には首席である。翌年8月、海軍少尉任官。海軍大学校航海学生として学び、優等で卒業。「第5号駆逐艦(春風 [II])」「野風」の各航海長、横須賀鎮守府付、練習艦隊参謀、「長鯨」航海長などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を次席で卒業した。
重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1… 重政 庸徳(しげまさ ようとく、1895年1月15日 - 1977年9月28日)は日本の政治家。元参議院副議長。衆議院議員の重政誠之は弟。正三位勲一等。 広島県深安郡神辺町出身。広島県立福山中学(現広島県立福山誠之館高等学校)から第五高等学校を経て東京帝国大学農学部卒業後、1923年農林省入省。岡山農地事務局長などを歴任した後1953年第3回参議院議員通常選挙で初当選。1962年に参議院副議長に就任。1967年、副議長在任時に重政の秘書が参議院副議長室を舞台に、暴力団幹部に対し拳銃を不法売買したという「国会内短銃密売事件」で逮捕されたため、2月2日に参議院本会議で議員辞職勧告決議が上程される。決議は否決されたが、重政は本会議場で自民党籍の離を脱し登院を控え謹慎することを表明し、謹慎は77日間になった。
浜川 友十朗(濱川、はまがわ ともじゅうろう、1895年 <… 浜川 友十朗(濱川、はまがわ ともじゅうろう、1895年 <明治28年> 1月15日 - 1981年 <昭和56年> 9月5日)は、日本の経営者。三菱倉庫社長を務めた。位階は従四位。 高知県出身。1917年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。取締役、常務を経て、1949年9月に副社長に就任し、1959年8月には社長に昇格。1968年5月に相談役に退いた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年9月5日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13… 伊藤 松雄(いとう まつお、1895年〈明治28年〉1月13日 - 1947年〈昭和22年〉8月5日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家である。 1895年(明治28年)1月13日、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれる。 東京に移り、旧制・早稲田大学を卒業、満18歳になる1913年(大正2年)、有楽座に加わり、劇作者兼演出家となる。新文芸協会、のちに森英次郎、山田隆弥らの舞台協会で新劇を演出した。 1920年(大正9年)、戯曲集『危急』を上梓、翌1921年(大正10年)、ショーレム・アッシュの戯曲『夜』を翻訳して上梓している。 舞台協会に属していた1923年(大正12年)、日活向島撮影所と同協会が提携、3作を製作することとなり、うち『忘れな草』、『三つの魂』にオリジナル脚本を書き下ろし、いずれも田中栄三が監督した。
今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11… 今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1987年〈昭和62年〉5月20日)は、日本の建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業。母校の教授を長く務め、建築作品とともに教育者として研究室から優れた建築家、研究者を多数輩出した。昭和初期にガウディを日本に紹介した人物である。 東京市赤坂区青山権田原町(現:東京都港区元赤坂2丁目)に生まれる。青山尋常小学校、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学理工学部建築学科へ入学。1919年、大学卒業と同時に助手に任命され、翌年、助教授に就任。1926年から1927年にかけて東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線浅草駅 - 新橋駅間)の各駅の構内・出入口の設計、車両の内装や職員の制服デザインを担当し、ヨーロッパの地下鉄駅の研究及び早稲田大学からの近代建築視察を行うため外遊。
きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月1… きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月11日 - 1975年(昭和50年)7月25日) は、鹿児島県奄美大島出身の小説家、翻訳者。代表作『気違い部落』シリーズは映画化もされた。
加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1… 加藤 厚太郎(かとう こうたろう、1895年(明治28年)1月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、日本の実業家。伯爵。 加藤高明・春路夫妻の次男として東京府東京市(現・東京都)に生まれた。当時、加藤家に居候して厚太郎に勉強を教えていた家庭教師は、後に東急の創業者となる五島慶太であった。1919年(大正8年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、三菱財閥の持株会社・三菱合資会社に入社。イギリスに留学しオックスフォード大学で学び、帰国後三菱系の都市銀行・三菱銀行に入行。その間1926年(大正15年)4月2日に伯爵位を襲爵している。後に三菱系の損害保険会社・東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた。
早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月1… 早見 一十一(はやみ いそい、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1990年〈平成2年〉6月23日)は、日本の美容師。大正時代から昭和時代にかけ、洋髪(女性の西洋風の髪形)の普及に努めると共に、戦後の生活に困窮する女性たちのために早見美容学校(後の早見芸術学園)の創設など、生涯を美容師の地位向上に尽くした。夫(後夫)は早見美容学校初代校長の遠藤千之。栃木県出身。 東京市芝区(後の東京都港区)で、二男二女の兄弟姉妹の次女、三子として誕生した。誕生日の1月11日にちなんで「一十一」と命名された。 小学校卒業までを栃木県小山町(後の小山市)で過ごした後、東京高等女学校、日本女子大学教育学部一部へ進学した。
西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1… 西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1981年10月11日)は、熊本県出身の俳人、校正者。本名・西島九州男(にしじま くすお)。 熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区植木町)生まれ。済々黌卒業。1915年、雑誌「雲母」の前身「キラヽ」に参加。1916年、上京し、出版社の警眼社に入社。1918年、武者小路実篤の「新しき村」に参加し、3年ほど農耕に従事。1922年12月、上京し、大鐙閣などを経て、1924年、岩波書店に入社する。戦後は校正課の初代課長を務め、55歳の停年後も特別嘱託として勤務し、1970年に75歳で退職するまで校正実務を担当し、「校正の神様」とたたえられた。 俳句は飯田蛇笏に師事。
増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日… 増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日 - 1987年(昭和62年)8月12日)は、日本の金属物理学者。東北大学名誉教授。広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区矢賀町)出身。
三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日… 三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日 - 1965年(昭和40年)2月8日)は、日本の政治家。参議院議員、宮城県知事を歴任した。 宮城県の大崎地方(旧古川市域)生まれ。宮城県立古川中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省に入省した。 1943年(昭和18年)、運輸省(現在の国土交通省)施設局長に就任。1953年(昭和28年)、参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し初当選、参議院議員となった。翌1954年(昭和29年)、日本民主党に入党、国会対策委員長などを務めた。1950年から1951年までは、土木学会の会長職にもあった。
北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 198… 北村 寿夫(きたむら ひさお、1895年1月8日 - 1982年1月3日)は、日本の脚本家、児童文学作家。 東京麹町区下六番町出身。本名・寿雄。早稲田大学中退。小山内薫に師事し、『劇と評論』同人となる。 1936年(昭和11年)NHK文芸部主事。 1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北条誠とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。 1952年(昭和27年)から「白鳥の騎士」に始まる「新諸国物語」を五年連続してラジオ放送し、「笛吹童子」「紅孔雀」などがヒットして映画化もされた。墓所は雑司ヶ谷霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日… 鳥原 ツル(とりはら ツル、1895年(明治28年)1月8日 - 1981年(昭和56年)11月24日)は、日本の教員。日本で最初の女性校長とも言及されるが、鳥原より先に校長となった女性が複数確認されている(後述)。 宮崎市出身。宮崎県最初の訓導の一人である鳥原定静を父として生まれる。 1915年(大正4年)、宮崎県立宮崎県師範学校女子部(のちの県立宮崎女子師範学校→官立宮崎師範学校、現在の宮崎大学教育文化学部の前身)を卒業し、教員となる。25歳であった1920年(大正9年)7月3日に、宮崎県師範学校附属小学校(現・宮崎大学教育文化学部附属小学校)訓導から大淀町立古城尋常小学校(現・宮崎市立古城小学校)の校長に着任した。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7… 小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7日 - 1979年〈昭和54年〉5月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県佐用郡三日月村(三日月町を経て現佐用町)で、小笹力之助の長男として生まれた。1919年(大正8年)京都帝国大学法科大学仏法科卒。三日月町議、兵庫県会議員、同副議長、同議長となり、佐用合同銀行頭取、兵和銀行(現:神戸銀行)取締役、兵庫県食糧営団理事、同森林組合連合会副会長、同林材協会長、兵庫県地方木材(株)社長となる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選、1期務める。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。 気象学者の堀口由己は兄。 佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
下田 喜久三(しもだ きくぞう、1895年〈明治28年〉1月… 下田 喜久三(しもだ きくぞう、1895年〈明治28年〉1月6日 - 1970年〈昭和45年〉2月17日)は、日本の農学博士。日本および東洋におけるアスパラガス栽培の先駆者であり、日本全国に先駆けて北海道岩内町でアスパラガス栽培の研究を手がけ、大正期に冷害に強い品種改良に成功、日本で初めてアスパラガスの本格的な生産に取り組んだ。「日本のアスパラガスの父」と呼ばれる。昭和期以降も肝油ビタミンや生活科学など、多方面で活躍した。女子教育の先駆者でもあり、女学校の設立により女子教育に尽力した。兄は日本ボーイスカウト創始者の下田豊松、長男は医学者にして元旭川医科大学学長の下田晶久。 岩内の農家で、三男として誕生した。
板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 196… 板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 1962年7月15日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授・法政大学教授を歴任。専門は、日本近世史・日蘭貿易史。 1895年(明治28年)1月5日に岩手県南閉伊郡釜石町(現・釜石市)の天台寺門宗の名刹観音寺住持・板沢真小雄と喜智の五男として生まれた。旧制遠野中学校に入学し、中学時代に『台湾文化志』の著者・伊能嘉矩の家に寄寓してその感化を受け、これがのちに歴史学を志す契機となった。中学卒業後に第二高等学校に進学し、1916年7月に同校大学予科第一部英文科卒業。同年9月に東京帝国大学文科大学国史学科に進んだ。1919年7月に卒業。 その後、宮内省図書寮勤務を経て、1921年に学習院講師となり、翌年教授に就任した。
中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉… 中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉1月5日 - 1958年〈昭和33年〉2月22日)は、日本の工学者。工学博士。大阪大学名誉教授。三菱重工業、芝浦共同工業各顧問。 大阪府大阪市で、中原庄兵衛の二男として生まれる。中原繁之助の弟である。分家した。1916年、東京帝国大学工科大学機械工学科に入学する。 1921年、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。1923年、横浜高等工業学校教授となり、1927年、東京帝国大学工学部講師、1929年、大阪工業大学助教授を歴任。同大学が大阪帝国大学工学部に昇格後、引き続き助教授の任にあり1935年、教授に進む。 1934年、工学博士の学位を受く。
山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)… 山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。第三高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。朝鮮総督府試補、事務官、京畿道地方課長、同審査課長、咸鏡南道財務部長、全羅南道財務部長、専売局庶務課長、同製造課長、殖産局商工課長、農林局農産課長、総督官房審議室勤務を歴任。1938年(昭和13年)、慶尚南道知事に就任し、さらに農林局長に転じた。 1942年(昭和17年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社理事、朝鮮電業株式会社監事を務めた。
明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明… 明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 ‐ 1954年(昭和29年)12月16日) は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県喜多郡満穂村論田(現内子町)で明礼善助の長男として生まれた。1921年、日本大学法律科を卒業した。弁護士となり、1936年に東京弁護士会副会長に就任した。その他、日本弁護士協会理事、日満法曹協会理事、大東亜法曹協会理事などを務めた。 戦後、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に自由党公認で愛媛県第3区から出馬して当選。第24回総選挙では落選したが、1952年10月の第25回総選挙で再選された。1953年4月の第26回総選挙で落選し、衆議院議員に2期在任した。
浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4… 浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4日 - 1967年〈昭和42年〉10月10日/12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に群馬県太田市鳥山で浅海三津三郎の次男として生まれた。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、陸軍士官学校第29期、陸軍大学校第41期卒業。1938年(昭和13年)12月に北支那方面軍司令部附となり、1939年(昭和14年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1940年(昭和15年)8月に支那派遣軍御用掛となった。1941年(昭和16年)6月に歩兵第76連隊長に転じ、1942年(昭和17年)12月に第39師団参謀長(第11軍)に就任し、中国戦線に出征した。
二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)… 二見 秋三郎(ふたみ あきさぶろう、1895年(明治28年)1月3日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。
北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明… 北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明治28年> 1月3日 - 1964年 <昭和39年> 5月8日)は、日本の造園技師・都市研究者・都市計画家。東京大学農学部教授も歴任。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 山形県米沢市で生まれる。父は元米沢藩士で、米沢藩の藩医だった祖父茂助(貞徳)の代に既に東京に出ていたが、母親は米沢の風習により里帰りしたようである。弟は作家の北村謙次郎。獨逸学協会学校、第一高等学校を経て東京帝国大学医科に進学したが、まもなく農科に転籍。 大学卒業後は内務省に入省し、以後、中央官庁で黎明期の都市計画行政の指導監督、戦災復興事業の実践等の任にあたった。主として公園緑地に関わり、全国の都市計画、地方計画、国土計画に参画した。
伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - … 伊吹山 末吉(いぶきやま すえきち、1895年1月3日 - 1930年1月16日)は、現在の滋賀県近江八幡市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は坂本 末吉。8代藤島。189cm、116kg。最高位は西前頭11枚目。 長身で骨格も発達した巨人型の体躯で、上背を利しての突っ張りは強烈であった。1918年5月幕下付出で初土俵、1921年1月十両昇進。1922年1月新入幕したが、病気の為に十両と幕内を往復。1923年1月場所前に起きた三河島事件では横綱・大関を除く全力士が協会と対立したが、ひとり師匠に反旗を翻すのを拒んだという意志強固な性格の持ち主であった。1926年5月に引退し藤島を襲名したが、1929年1月に廃業した。
齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月… 齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月2日 - 1960年〈昭和35年〉10月26日)は、日本の体育学者であり、かつ、陸上競技、水泳、野球で超人的活躍をした運動選手である。 新潟県佐渡郡高千村(現在の新潟県佐渡市)にて生まれる。佐渡の相川町立相川尋常高等小学校(現 佐渡市立相川小学校) から旧制佐渡中学校(現 新潟県立佐渡高等学校)へ進み、佐渡中学校時代から1m75cmの長身でありスポーツ万能の異名を取った。佐渡中学校時代には相撲、柔道、剣道、陸上競技、水泳、野球、端艇とほとんどの競技に選手として参加して活躍したという。 英語を得意としていたことから外交官になりたかったが、実家が貧しかったために教師になることを考え、新潟県高田市の新潟縣高田師範学校(昭和戦後に新潟大学教育学部高田分校となり現在は廃校)に進学し、更に東京高等師範学校に入学する。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1… 八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1973年3月21日) は日本の化学工学者。石川県出身。
岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈… 岡本 文弥(おかもと ぶんや、本名:井上 猛一、1895年〈明治28年〉1月1日 - 1996年〈平成8年〉10月6日)は、日本の新内節の太夫、新内節岡本派五代目家元、新内節研究家、随筆家、俳人。 東京・谷中上三崎南町に生まれる。父・田崎源次郎は煉瓦職人、母・とらは新内語りの鶴賀若吉(のちに三世・岡本宮染)。幼少時より母親から浄瑠璃を習い、1913年(大正2年)、富士松加賀路太夫を名乗る。早稲田大学中退後、文芸誌の編集者をしながら、夜は新内を流す日々を過ごす。1923年(大正12年)母と共に独立して岡本派を再興、岡本宮太夫を名乗り、後に岡本文弥と改名。母の幼女で妹でもある三味線の名手、四世・岡本宮染とコンビを組み、母から多くの貴重な古曲を継承すると共に、生来の文才を生かして次々と新作を発表。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。
宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953… 宮坂 勝(みやさか まさる、1895年1月1日 - 1953年4月10日)は、明治から昭和にかけての洋画家。
川口 栄作(かわぐち えいさく、1895年1月1日 - 19… 川口 栄作(かわぐち えいさく、1895年1月1日 - 1953年3月1日) は、日本の養蚕学者。北海道大学農学部教授を経て、初代宇都宮大学学長を務めた。 静岡県出身。1919年北海道帝国大学農学部卒業。1923年九州帝国大学助教授。1926年からカイザー・ヴィルヘルム学術振興協会の生物研究所に留学。1929年九州帝国大学初となる農学博士の学位を取得。1933年北海道帝国大学養蚕学第3講座教授。1942年北海道帝国大学農学実科主任。1945年北海道帝国大学付属農場長。1948年宇都宮農林専門学校校長。1949年宇都宮大学学長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1… 松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月9日)は、日本のプロレタリア詩人、無政府主義者、政治家。衆議院議員。本名・淳造。 島根県美濃郡高城村神田(現益田市)で、山口唯美、松本カノ夫妻の長男として生まれ、祖父養軒に養育された。1914年、島根県立浜田中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科に進んだが1916年に中退し、その後、西日本各地や東京などを放浪した。 1918年、久原鉱業佐賀関製錬所に作業員として就職。1920年、堺利彦の推薦で雑誌『中外』の記者となり、日本社会主義同盟に加盟。1921年、自由人連盟の演説会で右翼に刺された。同年9月、再刊された『種蒔く人』の同人となる。
緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月… 緒方 龍(おがた りゅう、1895年1月 - 1955年3月)は、日本、満洲国、朝鮮の医師。 緒方道平の四男として福岡市に生まれる。祖父は緒方郁蔵。医学者緒方大象、政治家緒方竹虎は兄。1914年福岡県立中学修猷館、1917年7月第五高等学校医科を経て、1921年7月京都帝国大学医学部を卒業。 満洲国の斉斉哈爾鉄道病院院長、朝鮮の清津赤十字病院院長を歴任。戦後、福岡市の在外同胞援護会救療部聖福病院の初代院長となり、引揚者の医療救護にあたった。在職中の1955年3月死去。
下飯坂 元(しもいいざか はじめ、1895年〈明治28年〉1… 下飯坂 元(しもいいざか はじめ、1895年〈明治28年〉1月 - 1959年〈昭和34年〉11月23日)は、朝鮮総督府官僚。岩手県水沢町長。父は衆議院議員を務めた下飯坂権三郎。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。1919年(大正8年)、中央大学専門部法科を卒業。1922年(大正11年)、朝鮮総督府専売局雇となる。1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、警視、理事官・京畿道地方課長、事務官・忠清南道財務部長、江原道警察部長、咸鏡北道警察部長、全羅南道内務部長、農林局米穀課長、同糧政課長を歴任。1942年(昭和17年)、平安南道知事に就任した。1944年(昭和19年)に退官した。
正木 孝之(まさき たかゆき、1895年 - 1985年)は… 正木 孝之(まさき たかゆき、1895年 - 1985年)は、日本の実業家・美術コレクター・庄屋当主・素封家。正木美術館創設者。 正木孝之は、明治28年、和泉市池上町に南玄亥三郎の六男として生まれ、私立関西商工学校(現・関西大倉高等学校)土木科に入り、卒業と同時に南定翁の尽力により大阪電気軌道株式会社(近鉄の前身)に入り、大阪・奈良間の軌道敷設工事の設計監督を司り、開通後3・4年後に退社、25歳で工務所を自営、昭和8年から堺市にある映画館経営に転向、その間、23歳のときに遠縁にあたる正木家の養子となり、その翌年頃から蒐集活動を開始した。後に、茶道の大成者・千利休を生んだ堺に隣接する大阪府泉北郡忠岡町にある正木美術館(1968年開館)を創設することになる。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- … 権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- 1970年(昭和45年))は、日本の建築家。朝香宮邸(東京都庭園美術館)の設計者として知られる。 福岡県筑紫郡三宅村(現・福岡市南区)で権藤伊兵衛の長男として生まれる。福岡県立福岡工業学校(現・福岡県立福岡工業高等学校)建築科から名古屋高等工業学校に進学。1916年(大正5年)同校建築科を銀時計授与され優等で卒業した。 卒業同年、住友総本店営繕課建築係に入り、竹腰健造に師事。 1921年(大正10年)から学校側の推薦により住友を辞し、内匠寮技手として宮内省に勤務。高橋貞太郎の下で東伏見宮邸(大正13年)を手がける。これはのちの宮邸平面計画の原型となる。
橋本 八重三(はしもと やえぞう、1895年 - ?)は、大… 橋本 八重三(はしもと やえぞう、1895年 - ?)は、大正期に活躍した日本の園芸家、造園家で、日本最初の民間の洋風庭園デザイナー。大阪府出身。近代的な造園業をめざし、従来の造園業と差別化を図った。 京阪神地域を中心に活動。営業にあたり広告戦略を展開、その初期には趣味の乗馬の腕を生かして高級住宅街に出没しチラシを配布、「馬乗り植木屋」と呼ばれる。また友人と植物病院事業という今日の樹木医的な事業、さらにコニファーなどの今日でいうガーデニング用品、橋本式自然木(いわゆる擬木)を開発し販売するなどを実施した。 植木の生産地摂津細河村(現・池田市)の生まれ。大阪府立農学校(現大阪府立大学農学部)園芸科に進学し、大正3年(1914年)卒業と同時に、当時3大公園を建設中の大阪府に奉職。
渡辺 幾春(わたなべ いくはる、明治28年(1895年)- … 渡辺 幾春(わたなべ いくはる、明治28年(1895年)- 昭和50年(1975年))は、昭和時代に活躍した名古屋の日本画家、版画家。 明治28年、名古屋市西区江川端町に生まれる。9歳の時、名古屋の日本画家、水谷芳年に師事、日本画を学んだ後、大正6年(1917年)、上京している。翌大正7年(1918年)に23歳で、第12回文展に出品した「百日紅」が初入選を果たす。その後、大正11年(1922年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科に入学、同年、第4回帝展に「若き女」で入選する。また、同年から大正14年(1925年)まで、同校を卒業後には京都において山元春挙に師事している。 29歳で名古屋へ戻った幾春は大正13年(1924年)、朝見香城、喜多村麦子、織田杏逸ら地元在住の画家たちと中京美術院を創立、日本画の革新を目指した。
石神 義雄(いしがみ よしお、1895年(明治28年)- 没… 石神 義雄(いしがみ よしお、1895年(明治28年)- 没年不詳)は、日本の造園家。宮内省に奉職した造園の技師。 神奈川県生まれ。1917年(大正6年)に千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)を卒業。同年より(大正9年)まで株式会社馬来護謨公司技手をつとめる。 1922年(大正11年)から、宮内省に入省し宮内技手補として内匠寮勤務。1929年(昭和4年)宮内技手になる。1946年(昭和21年)宮内技師。のち退官。
青山 勝一(あおやま かついち、1895年 - 1977年)… 青山 勝一(あおやま かついち、1895年 - 1977年)は、日本の内務官僚、政治家。 島田大井川農業水利事業所事務官、静岡県小笠郡菊川町長などを歴任した。 1895年、静岡県城東郡(のちの小笠郡)六郷村にて生まれた。上京して東京帝国大学に入学して農学を学び、1920年に卒業した。当時の東京帝国大学は分科大学制から学部制に移行する端境期であり、卒業する一年前の1919年には東京帝国大学の農科大学が農学部に改組されている。 大学卒業後は、内務省に入省する。内務省では地方小作官を経て、のちに農地開発営団主事を務めるなど、主として農政分野に携わった。太平洋戦争終結後は農林省にて農林技官を務め、島田大井川農業水利事業所事務官などを歴任した。
王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、… 王 謨(おう ぼ/おう も、1895年 - 1958年)は、中華民国の教育者・地理学者・政治家。字は献芻。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。 民国初期に日本へ留学し、1919年(民国8年/大正8年)3月に東京高等師範学校理科第三部乙班を卒業している。次いで東京帝国大学理学部地理学科に入学し、1922年(民国11年/大正11年)3月に卒業、理学士の称号を取得した。 帰国後は、国立武昌大学、国立北京師範大学、国立清華大学、国立北京大学女子文理学院などの地理学系教授や講師を歴任し、北京政府時代には参議院議員もつとめた。1942年(民国31年)まで北京師範学院院長をつとめ、その後に北京師範大学教授をつとめる。