金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月… 金重 陶陽(かねしげ とうよう、1896年(明治29年)1月3日 - 1967年(昭和42年)11月6日)は、岡山県出身の陶芸家。備前焼の名門である金重家に生まれ、備前の陶工として初めて人間国宝となった。本名は金重 勇(かねしげ いさむ)。 江戸時代中期以降伊万里焼や九谷焼などに押されて人気を失っていた備前焼を再興させることに成功し「備前焼中興の祖」と称される。自らが優れた陶工であっただけでなく、多くの弟子を育て、その中から次々と人間国宝を輩出するなど備前焼の歴史上果たした功績は計り知れない。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明、三男の金重晃介もそれぞれ陶芸家である。また、漂泊の日本画家の杉本白象は、自らを「金重陶陽の従兄にあたる」と、昭和42年にパトロンに送った作品に付けた手紙に記している。
磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日… 磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日 - 1993年(平成5年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 三重県出身。売薬業・磯矢馬佐右衛門の五男として生まれる。三重第三中学校(現三重県立上野高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊附となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第48連隊中隊長に就任。参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、関東軍参謀、参謀本部員を務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第2軍参謀に発令され日中戦争に出征。
及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月… 及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和45年(1970年)12月27日)は、第二次世界大戦前に小惑星を複数発見した日本の天文学者。 岩手県盛岡市出身。大日本帝国海軍海軍大将の及川古志郎は兄。 岩手縣立盛岡中學校を卒業。1920年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業後、1922年より当時麻布区板倉から北多摩郡三鷹村大澤へ移転を進めていた東京天文台に技手として勤務し、ブラッシャー社製20センチ天体写真儀を使って天体の位置観測に従事した。東京天文台の移転に当たってはその経度差を測定している。ブラッシャー写真儀による観測で、1927年から1929年にかけて共同発見1つを含む計8つの小惑星を発見。
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1… 仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。山中貞雄を助監督として起用し、その脚本を数多く監督した。川谷拓三は義理の息子、仁科貴と仁科扶紀は孫にあたる。 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち、中学3年のとき会津に戻る。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。
佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1… 佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月6日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇(甲標的)部隊指揮官として真珠湾攻撃、シドニー湾攻撃に参加。のち第六艦隊参謀長として回天作戦に関わる。最終階級は海軍少将。 広島県出身。三次中学を経て海軍兵学校45期卒。席次は89名中31番。同期に有賀幸作、富岡定俊、古村啓蔵らがいる。佐々木は水雷学校及び潜水学校高等科を修了した潜水艦専攻士官で、大尉、少佐時代に4艦で潜水艦長を務めている。中佐時代は潜水学校と水雷学校で教官を務めた後、「神威」、「八雲」、木更津海軍航空隊で副長を務め、第21潜水隊司令に就任。
小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、… 小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、日本の発明家。 岡山県上道郡西大寺町(現・岡山市東区)出身。1914年(大正3年)に岡山県立工業学校機械科を優等で卒業した。その後、三菱造船株式会社神戸造船所に入り、1920年(大正9年)に技師となった。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞している。
衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - … 衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。
剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 -… 剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg。 富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した。その風格について「古武士」と評されたこともある。 右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった。 1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。
河原 万吉(かわはら まんきち、1896年 - 1981年)… 河原 万吉(かわはら まんきち、1896年 - 1981年)は、日本の翻訳家、書誌学者、評論家。 福島県耶麻郡喜多方町(現喜多方市)に五十嵐六七八の次男として生まれる。会津中学校中退。1918年より二年間軍役に服したのち、栃木県の河原仁三郎の養子となる。 1923年上京し、新光社を経て万有文庫刊行会に勤め、翻訳を手がける。その一方、江戸時代の書誌研究・出版を行う。1930年東洋思想学者宇多尚に師事し、日華文化交渉史、日本精神史の研究を行う。 1938年4月陸軍省嘱託として北京師範大学助教授、7月教授となるが病気のため10月辞職、帰国後は著述に専念し、戦後はオリオン社の通信添削国語科担当。
小野 渉(おの わたる、1896年 - 1989年)は、愛知… 小野 渉(おの わたる、1896年 - 1989年)は、愛知県出身の郷土史家。 愛知県額田郡坂崎村(現在の額田郡幸田町久保田)出身。愛知県立第二中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)卒業後、1915年(大正4年)から1946年(昭和21年)まで地元で小学校の教師を務め、教務の傍らで郷土史の研究にいそしむ。退職後には幸田町文化財保護委員などを務め、また古文書クラブなどでも活動し、青年期から75年にもわたって社会教育活動や文化財保護活動に取り組む。1989年(平成元年)死去。孫の小野伸之は2017年(平成29年)から幸田町の教育長を務める。
東後 琢三郎(とうご たくさぶろう、1896年 - 1971… 東後 琢三郎(とうご たくさぶろう、1896年 - 1971年9月)は、日本の都市計画家。福岡県や近畿地方(関西)における都市計画及び土地区画整理事業で活動した。旧制中学校卒業で事務官として役所に入り、後に特別昇進を遂げた。 兵庫県立小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)卒業後、1916年に加西郡役所に入庁する。 1920年10月より、都市計画地方委員会書記兼兵庫県属として都市計画神戸地方委員会(1921年に都市計画兵庫地方委員会に改称)に勤務する。この年に都市計画法が施行された。 1928年7月から内務省都市計画地方委員会事務官となり都市計画福岡地方委員会に転動した。福岡在勤のまま1931年10月、地方事務官との兼務で福岡県内務部都市計画課長に就任する。
進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、189… 進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、1896年 - 1981年)は、日本の実業家。日本発送電副総裁、中国電力初代会長、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁などを務めた。 山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)出身。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)、長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学(現・九州大学)工学部電気科卒業。1923年東邦電力入社。東京電力を経て、東京電灯取締役、関東配電副社長、戦災復興院業務局長、資源庁長官、日本発送電副総裁、通商産業省(現・経済産業省)資源局長、行政審議会委員、中国電力会長、電源開発副総裁、大聖通商株式会社会長、愛知用水公団副総裁、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁、電源開発調整審議会会長代理などを歴任。
小野 十生(おの じゅっせい[要出典]、1896年(明治29… 小野 十生(おの じゅっせい[要出典]、1896年(明治29年) - 1974年(昭和49年))は、日本の剣道家。段位は範士九段。流派は小野派一刀流。 佐賀県生まれ。佐々木正宜、納富教雄らに剣道を学び、佐賀県立鹿島中学校を卒業。京都の大日本武徳会本部講習生を経て、大日本武徳会滋賀支部、滋賀県警察部、朝鮮慶尚北道大邱警察、国士舘専門学校、警視庁の剣道師範を歴任。笹森順造から小野派一刀流剣術を学ぶ。
桜井 長雄(さくらい ながお、Sakurai Nagao、1… 桜井 長雄(さくらい ながお、Sakurai Nagao、1896年 - 1973年7月)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の造園家、作庭家。戦前期は旧宮内省技師などとして、戦後はアメリカ合衆国に渡り、主に西海岸で活躍した。 1896年(明治29年)山梨県生まれ。1920年(大正9年)、東京帝国大学農学部実科林学科を卒業。同学科造林学第二講座に発足した造園学教室で田村剛に最初からランドスケープアーキテクトとしての教育を受けた最初の人物となる。 学校卒業後は宮内省に入省。宮内技手として1年間、諸陵寮勤務。桃山御陵造園植栽などを手がけている。翌年から内匠寮勤務。東京の皇居を中心に庭師のチーフとして携わり、以降、名の知られた造園家となる。
松岡 修太郎(まつおか しゅうたろう、1896年 - 198… 松岡 修太郎(まつおか しゅうたろう、1896年 - 1985年)は、日本の法学者。憲法学者・行政法学者。北海道大学名誉教授・北海学園大学名誉教授。美濃部達吉の弟子。北海道の法学教育におけるパイオニア。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)… 寺西 暢(てらにし ちょう、1896年 - 1938年8月)は日本の昆虫研究家である。テラニシセスジゲンゴロウやテラニシハリアリは同氏に献名されたものである。 1896年(明治29年)生まれ、大阪出身。東京農業大学を卒業後もアミメアリの働きアリが産卵することを発見、報告するなど主にアリの研究を続けていた。1930年(昭和5年)に竹内吉蔵と共に関西昆虫学会を創立し、東成区生江町の自宅に事務所を置いていた。 晩年は病床に伏しており、1938年(昭和13年)の8月上旬に死去した。死後に遺稿集が発行されている。
奥田 富子(おくだ とみこ、1896年〈明治29年〉 - 1… 奥田 富子(おくだ とみこ、1896年〈明治29年〉 - 1985年〈昭和60年〉)は、日本の科学者。母校である日本女子大学の教授として、女子教育と学問的発展に尽くした。また、戦後の混乱期の日本で省エネルギーを訴えると共に、家庭婦人への理学の啓蒙に尽力した。 1896年、島根県で誕生した。帝国女子専門学校附属高等女学校を経て、日本女子大学校教育学部家政科一部を1917年(大正6年)に卒業。2年後の1919年(大正8年)に、同校の物理学教室の助手となった。 終戦直後の1946年(昭和21年)、GHQの教員適格検査により教授として認められ、1948年(昭和23年)に新制の日本女子大学が発足後、1965年で退職するまで、物理学や燃料学の実験を担当した。
儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、… 儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、日本の空手家。儀間派松濤館流最高師範。鹿島建設参与、沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、全日本空手道志誠会連合名誉会長等を歴任した。 沖縄県首里区(現那覇市)出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1912年糸洲安恒、屋部憲通に師事。1922年船越義珍の手伝いとなり、1923年船越より初段を授与される。日本空手協会技術顧問、甲府市立甲府商業高等学校校長を経て、鹿島建設参与に就任し、同社空手道部師範となる。沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、儀間派松濤館流会長、全日本空手道志誠会連合名誉会長を歴任した。1956年十段。
崔 昌益(チェ・チャンイク、1896年 - 1957年 / … 崔 昌益(チェ・チャンイク、1896年 - 1957年 / 1960年)は、日本統治時代における朝鮮の独立運動家・社会主義者。中国で金元鳳と共に抗日運動を行った。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国にも参加したが、のちに金日成によって粛清された。妻の許貞淑(許憲の娘)も北朝鮮の政治家。別名は崔昌錫、崔昌淳、崔東宇、李建宇。 咸鏡北道穏城郡の出身で、日本の早稲田大学政治経済学部を卒業した。京城(現:ソウル特別市)で結成された共産主義者の組織・ソウル青年会(いわゆる「ソウル派」。朝鮮共産党参照)に参加してその幹部として活動。1925年モスクワ国際共産党大会に、ソウル青年会代表として参加した。 1928年、第三次朝鮮共産党事件で逮捕される。
石井 梅蔵(いしい うめぞう、1896年 - 1976年)は… 石井 梅蔵(いしい うめぞう、1896年 - 1976年)は、日本の篤農家・発明家・実業家・工芸家。株式会社石井製作所創業者。酒田市局惣田に石井梅蔵記念館がある。 1896年(明治29年)石井梅蔵は石井家5代目として酒田市に生れる。農機具の発明家・事業家で、立ったまま除草ができる人力用水田中耕除草機を作り、農民の重労働と危険を解消。人・動力兼用のフライホイル式カッターとして1928年(昭和3年)に特許を取得。世界最初のバインダー(稲麦刈取収束機)を1958年(昭和33年)に特許申請(1960年(昭和35年)に登録)。酒田発明協会長などを務める。1949年(昭和24年)、籾が目にささり負傷。角膜移植を受けるが、1958年(昭和33年)全盲を宣告される。
栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 197… 栗林 元二郎(くりばやし もとじろう、1896年 - 1977年)は、北海道の農業教育者。農業専門学校『八紘学園(はっこうがくえん)』の創設者。 1896年、秋田県雄勝郡川連村の農家に生まれる。1919年、22歳のとき、80人ほどの北海道移住団の団長を引き受ける。移住先は、十勝支庁芽室町上美生である。200haほどの土地の開墾に成功する。北海道庁により功労賞が授与される。 1924年、北海道庁の移民招致係の嘱託となる。北海道移住の宣伝映画を、制作費1800円で製作する中心人物となる。 農業教育の必要性を感じ、独学で教員資格を入手し、札幌の日本殖民学校農学科の主任講師となる。講師として経験を積むうち、農業専門学校の創立を考えはじめる。
塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 19… 塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 1973年〈昭和43年〉12月7日)は、昭和期の日本の外交官。 熊本県玉名郡に生まれる。熊本県立玉名中学校(1916年卒業)を経て、1921年(大正10年)に東京高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業した。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格し、1921年に外務省に入省した。若手の頃から白鳥敏夫らとともに革新派官僚と呼ばれる。 外務省アメリカ局第二課長、スイス公使館書記官、外務省南洋局長心得、拓務省拓南局参与、ハルビン総領事や、スイス公使、外務省通商局勅任事務官、サイゴン公使、仏印総督府総務長官などを経て、1945年(昭和20年)から翌年にかけて最後の仏印大使を務めた。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年1… 青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年11月30日、正字では靑山)は、日本の美術評論家、美学者、工芸研究者、装丁家、書店経営者。麻布中学校、第四高等学校 (旧制)一部法科独法、京都帝国大学文学部美学科卒。東西の美術に精通し、画集の出版等による紹介を行う。柳宗悦らによる民藝運動の同伴者となり、工藝美術の定義に関して啓発活動を行った[3]。また、有島生馬らによる一水會運動にも協力した。装丁家・美術評論家の青山二郎は弟。
黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中… 黎 世蘅(れい せいこう、1896年 – 1977年)は、中華民国・中華人民共和国の経済学者・教育者・官僚。字は子鶴。経済学者として活動した一方、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)において官僚をつとめたことがある。 日本に留学し、1919年(民国7年/大正7年)、京都大学経済学部に入学した。1922年(民国11年/大正11年)、同学部を卒業、経済学士を取得したと見られる。帰国後、1922年(民国11年)、国立北京大学経済系講師兼私立民国大学校長となる。1925年(民国14年)2月17日、教育部編審処編審員に任命された。1928年(民国17年)、国立北平大学法学院教授となる。1930年(民国19年)から1937年(民国26年)まで北平成達初級中学校長兼中法大学院教務主任をつとめた。
佐渡 卓(さど たかし、1896年 - 1984年2月9日)… 佐渡 卓(さど たかし、1896年 - 1984年2月9日)は、日本の実業家。元日本国土開発代表取締役社長。 島根県中ノ島菱浦の旅館佐渡家に生まれる。1919年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1930年三井信託銀行入行。1947年三井信託銀行代表取締役。1955年日本国土開発代表取締役社長。1971年日本国土開発取締役会長。屋敷跡は佐渡公園として整備された。鳥居坂教会で洗礼を受けたクリスチャン。墓所は多磨霊園(12-1-1)。 妻の壽々は福井菊三郎三女。 『隠岐四島 : 定本句集』玉藻社 1966年
鵜飼 貞二(うかい ていじ、1896年 - 1980年11月… 鵜飼 貞二(うかい ていじ、1896年 - 1980年11月17日)は、日本の薬学者(薬化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1931年)。北陸大学名誉学長、金沢大学名誉教授、静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京衛生試験所技手、兵庫県庁衛生技師、兵庫県庁警察部検疫委員、熊本薬学専門学校教授、金沢医科大学附属薬学専門部教授、金沢医科大学附属薬学専門部主事(第3代)、金沢医科大学附属薬学専門部部長(初代)、金沢大学薬学部教授、金沢大学薬学部学部長(初代)、静岡薬科大学学長(第2代)、学校法人松雲学園理事などを歴任した。 愛知県生まれの薬学者である。チアミンがベンゾイン縮合の触媒になることを世界で初めて発見したことで知られている。
田中 九一(たなか きゅういち、1896年 - 1995年1… 田中 九一(たなか きゅういち、1896年 - 1995年1月29日)は、日本のマルクス経済学者。 1920年東京帝国大学法経学部経済学科卒。満鉄東亜調査局員となり、1936年「支那経済及北方調査」の主査を務める。部下に西沢富夫(1913年7月7日- 1985年11月7日)がいたという。 1922年東大新人会OBを中心に作られた社会思想社 (1922年)の幹事となり論文を寄稿。1924年ボルハルト著「マルクス経済学大綱」翻訳。 1943年満鉄調査部事件で石堂清倫らと逮捕される。1944年釈放。終戦後1945年から1949年までソ連鉄道管理局にて、満州経済を調査するも、ヨシフ・スターリンによる粛清のためスパイの罪で13年の重労働の刑に服す。
土屋 四郎(つちや しろう、1896年 - 1981年7月2… 土屋 四郎(つちや しろう、1896年 - 1981年7月25日)は、日本の法学者。専門は民法学・著作権法。特に権利濫用論を研究。北海道帝国大学農学部教授・帯広畜産大学教授を経て、帯広畜産大学名誉教授。元札幌短期大学学長。北海道における法学教育草創期を支えた一人。 この他、札幌文科専門学院(後の札幌短期大学)や北海学院などの民法・商法の非常勤講師も務める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
長谷川 輝雄(はせがわ てるお、1896年 - 1926年5… 長谷川 輝雄(はせがわ てるお、1896年 - 1926年5月15日)は日本の建築史家。「四天王寺建築論」等を著したが早世した。 滋賀県生まれ。旧制第三高等学校を経て、1922年に東京帝国大学建築学科を卒業。卒業論文は「近代建築思潮と表現」。大学院で建築史の研究を進め、翌年、同大工学部助教授に就任。1926年、30歳で病没。 大阪の四天王寺の建築は江戸時代の再建によるものだが、伽藍配置に創建当時の様相を残しており、高麗尺(大化の改新以前に用いられていた)で計画されていたと論じた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉原 政智(よしはら まさとも、1896年(明治29年) -… 吉原 政智(よしはら まさとも、1896年(明治29年) - 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本の実業家。東洋汽船代表取締役社長や、東京會舘代表取締役社長、初代パレスホテル代表取締役社長、日本ホテル協会会長等を歴任した。 1896年、佐賀県生まれ。1922年東京帝国大学法学部卒業、安田保善社(現安田不動産)入社。1941年安田保善社参事。1943年東洋汽船社長。1948年協立汽船会長、東京會舘社長。1960年に商工省貿易庁直轄バイヤーズホテルの東京會舘への払い下げが行われたことを受け設立されたパレスホテルの初代社長に就任。吉原政雄と親子2代にわたり、岳父小林一三の思想であったオフィス併設型にすることにより得る賃料収入による経営安定化というホテル経営を推し進めた。
橋本 吉郎(はしもと よしお、俗称きちろう、1896年 - … 橋本 吉郎(はしもと よしお、俗称きちろう、1896年 - 1985年8月29日)は、日本の化学者(無機化学)。生涯にわたって15冊の化学辞典を執筆した。 広島県豊田郡本郷村(現・三原市)に生まれる。国民中学(台湾総督府中学校第一部)から1914年に札幌の東北帝国大学予科(現・北海道大学)に進学する。その後、東北帝国大学理学部に進む。 1922年から松山高等学校 (旧制)教授。1933年から「タングステンの容量分析」を8年間行うが第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。学制変更で愛媛大学教授(化学)となり、1949年、行政から委託され道後温泉など松山市内の温泉の化学分析を行った。1955年からは文理学部長。
李 時穆(イ・シモク、朝鮮語: 이시목、1896年または18… 李 時穆(イ・シモク、朝鮮語: 이시목、1896年または1897年 - 1980年5月23日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 慶南宜寧出身。東洋大学哲学科卒。漢城日報論説委員、大韓硬質陶器社長、国民会支部長、無所属の第2代国会議員(のち自由党に入党)、国会財経農林委員、郷里宜寧の共匪襲擊事件の調査報告者を務めた。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
金 凡父または金 凡夫(キム・ボンブ、朝鮮語: 김범부、18… 金 凡父または金 凡夫(キム・ボンブ、朝鮮語: 김범부、1896年または1897年 - 1966年12月10日)は、大韓民国の漢学者、哲学者(仏教哲学・東洋哲学)、政治家、陸軍軍人。第2代韓国国会議員。 本貫は善山金氏。本名は金 鼎卨(キム・ジョンソル、김정설)。小説家・金東里は16歳年下の弟である。著書は『花郎外史』『風流精神』などがある。 慶尚北道慶州出身。金桂史から漢学を学んだ後、東洋大学哲学科卒(中退という情報もある)、東京外国語大学・東京帝国大学・京都帝国大学政治科聴講。帰国後は仏教中央学林で講義をしたが、病気により釜山に移住した。1934年、崔凡述の手配で多率寺(朝鮮語版)で日本の天台宗の僧侶と教授40余人に清談派の玄理思想を講義した。
樫葉勇(かしば いさむ、1896年-1978年12月11日)… 樫葉勇(かしば いさむ、1896年-1978年12月11日)は、童話作者、幼児教育者。和歌山県生まれ。和歌山師範学校卒、日本大学卒、1921年から30年にかけて、東京下町で貧児の教育に携わる。1937年童話教育会を創立。機関誌『童話教育』を発行。口演童話の研究と普及に尽力。樫の実幼稚園園長、白梅学園短期大学教授。
加藤 一雄(かとう かずお、1896年〈明治29年〉 - 1… 加藤 一雄(かとう かずお、1896年〈明治29年〉 - 1992年〈平成4年〉8月2日)は、日本の経済学者。日本大学元学長・名誉教授(経済学)。福岡県嘉穂郡飯塚町出身。 1917年(大正6年)に福岡県師範学校(現在の福岡教育大学)第二部を卒業し、楽市小学校の訓導となる。第一次世界大戦後の1919年(大正8年)4月に辞職し上京、日本大学法文学部の予科に入学する。1924年(大正13年)に卒業して実業家志望で、民間会社の東京支店長に内定し、結婚式も挙げたばかりのとき、常務理事の塩野季彦から大学に残れとの誘いを受け、同学法文学部の講師となる。 1928年(昭和3年)に海外留学に派遣され1930年(昭和5年)5月、経済学研究のため2年間の英国留学を終え当時学長であった山岡萬之助の請いを受け予科教授兼学監に就任する。
菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6… 菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6月18日)は、日本の実業家、経営学者。 千葉県香取郡出身。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒、1923年東京商科大学(現一橋大学)卒。住友金属工業に入り、査業部長、製鋼品部長、調査部長、企画部長、経理部長。1947年取締役支配人。1948年経済安定本部生産局長。1949年住友に復帰。1951年常任監査役。1952年関東特殊製鋼会長、関西経済同友会代表幹事。1960年「日本鉄鋼業論」で早稲田大学経済学博士。1964年同相談役。近畿大学教授、同名誉教授、東海大学教授。宇部化学工業取締役、大阪第一信用金庫理事。1969年勲四等瑞宝章受勲。
鈴木 信治(すずき しんじ、1896年 - 1981年)は、… 鈴木 信治(すずき しんじ、1896年 - 1981年)は、福島県出身の会社経営者。 福島県安達郡玉井村で1896年(明治29年)7月21日に鈴木直蔵の二男として生まれる。1920年に東京高等商業学校を卒業し、同年に横浜正金銀行に入行。漢口、ニューヨーク、上海、カルカッタの各支店勤務などを経て、大阪と神戸支店で副支配人、営口とハルピン支店で支配人を務めた。1960年2月、日本IBMの社長に、1962年10月には同社会長に就任。 1981年(昭和56年)6月20日心筋梗塞のために死去。84歳没。妻の満壽子は東京ポートサービス協会初代理事長を務めた荒川敬の長女。長男の謙一(1931年生)は日本興業銀行に勤め、その妻・秀子はIMF理事を務めた湯本武雄(湯本武比古の長男)の二女。
香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月… 香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月12日)は、日本の編集者、哲学者。 福岡県北九州市出身。1918年早稲田大学文学部哲学科卒。神田豊穂の興した春秋社に入り編集者として活躍、雑誌『帝国教育』『日本歴史』などを編集。香原志勢は長男。墓所は多磨霊園。
宋継白(송계백、1896年 - 1922年)は韓国の独立運動… 宋継白(송계백、1896年 - 1922年)は韓国の独立運動家。 平安南道平原郡出身。普成中学校を1915年に卒業して、日本に留学して早稲田大学で修学した。学生時代の1919年に三・一運動の口火になった東京での二・八独立宣言に11人代表の一人として参加した。 同年1月に開催されたパリ講和会議で国際情勢の変動が予見された中、1918年末から日本留学生の間では独立運動実行に対する雰囲気が高まった。彼らは宋継白を含めて崔八鎔と金度演など11人の実行委員を先任して独立宣言計画を推進した。 1919年1月初にこれら留学生の代表として国内に密派されて重要な役目を果たした。目的は李光洙が作成した独立宣言書を印刷可能な活字と運動資金を求めるのであった。
内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 193… 内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 1939年5月13日)は、美術史家。 大阪出身。早稲田大学卒。飛鳥時代の彫刻を主とした仏教美術を研究し、ギリシャ彫刻との比較研究をおこなった。
森一郎(もり いちろう、1896年(明治29年) - 197… 森一郎(もり いちろう、1896年(明治29年) - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の政治家。稲城村長、初代稲城町長を務めた。 元稲城村長の森円蔵の息子として生まれる。稲城村議員を経験した後、1945年(昭和20年)の終戦直前に村長になるが、1946年(昭和21年)に公職追放令により、村長を辞職した。 その後、1951年(昭和26年)に再び村長を務め、1957年(昭和32年)の稲城町制施行に伴い、初代稲城町長となる。1963年(昭和38年)町長を退職。1975年(昭和50年)2月6日死去。78歳。常楽寺に眠る。息子は森直兄。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹田 益州(たけだ えきじゅう、1896年(明治29年)- … 竹田 益州(たけだ えきじゅう、1896年(明治29年)- 1989年(平成元年)6月20日)は、昭和を代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は土田で、のち竹田と改姓。法諱は宗進、道号は益川。室号は金剛窟。大分県西国東郡上真玉村(現・豊後高田市)出身。1954年から1989年まで臨済宗建仁寺派管長を務めた。 1896年(明治29年)7月10日、大分県西国東郡上真玉村(現・豊後高田市)で、土田忠米と妻ウメの三男として出生。進と名付けられる。父は漢籍を好み、村の寺小屋で教えていた。1902年(明治35年)、矢野要平家の養子となる。翌年、上伊美尋常小学校に入学したが、1904年(明治37年)には養子先の主人が日露戦争出征のため、矢野家を出た。
岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12… 岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県伊丹町(現在の伊丹市)町長。 兵庫県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。群馬県属、同佐波郡長、同商工課長、香川県商工課長、同水産課長、同学務課長、広島県学務課長、同農務課長、新潟県学務部長、樺太庁警察部長、北海道庁学務部長を歴任した。 その後、共盛無尽取締役、尼崎市助役を経て、伊丹町長に就任した。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月… 田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月26日 - 1945年(昭和20年)9月)は、台湾総督府官僚。名古屋市長。 山口県出身。1904年(明治37年)、早稲田大学邦語法律科(現・法学部)を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計となる。台湾総督府事務官、殖産局商工課長・庶務課長、勅任参事官、台北州内務部長を歴任した。 退官後、名古屋市助役を経て、1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めた。 その後、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となった。 戦時中は新潟県内に疎開し、1945年(昭和20年)9月に亡くなった。
宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12… 宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の警察官。東京市赤坂区長、芝区長。 宮沢今朝吉の長男として長野県に生まれる。中央大学を卒業後、警視庁に奉職し、丸の内、築地、神田錦町、両国、象潟各警察署勤務、上野、芝、愛宕各警察署長を歴任した。 1936年(昭和11年)9月、赤坂区長に就任し、1938年(昭和13年)10月、芝区長に転じた。1943年(昭和18年)1月、退官し、日本医療団参事となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月… 太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月24日 - 1969年(昭和44年)5月1日)は、愛知県出身の洋画家・挿絵画家。挿絵画家としては君島柳三の名を用いた。日本画の号は本名をもじった沙夢楼である。光風会所属。 1884年(明治17年)12月24日、愛知県西春日井郡下小田井村(現・清須市西枇杷島町)に生まれた。父の太田仙草は青物問屋を営む傍らで、日本画の土佐派を学んだ文人でもあった。 17歳の時に上京し、まずは日本画を、その後洋画を学んでいる。日本画は寺崎広業に師事した。洋画は黒田清輝に学び、さらに白馬会洋画研究所にも通っている。 1913年(大正2年)の第7回文展で「カッフェの女」が受賞した。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。