原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日… 原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日 - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中。 大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる。第三高等学校を経て1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社。 第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月… 大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月15日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る。 鹿児島県に生まれる。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる。 官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった。
奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 19… 奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 1955年10月27日)は、日本の陶磁器研究家。三重県津市西新町出身。三重県尋常中学、東京帝国大学文科大学心理学科卒。号は次郎坊、無背庵、無背道人、無背廬。東大心理学科副手、東大美術史研究室助手を経て、特許局勤務、農商務省技師を兼任した。古陶磁を研究し、1914年、東京帝国大学文科大学心理学教室内に大河内正敏らと陶磁器研究会を開設。のち、同会に属する大河内正敏、佐藤功一ら会員有志により結成された彩壺会に参加。1924年、東洋陶磁研究所を創設。国宝保存会委員、文化財専門審議会専門委員、重要美術品等調査会委員、東大講師、工大講師、帝室博物館学芸課学芸委員。
二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月… 二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月14日 - 1927年〈昭和2年〉9月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院公爵議員。 公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。当選後は無所属だったが、1922年(大正11年)9月27日、研究会に所属した。 1917年(大正6年)以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年(昭和2年)9月11日、議員在職中のまま死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 19… 宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 1972年10月22日)は、日本の哲学者。 1883年(明治16年)、山形県東田川郡下名川村(後の朝日村、現・鶴岡市)生まれ。荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)では阿部次郎と友人となった。父の転勤で阿部が転校すると、意気消沈したという。松嶺小学校の代用教員を1年間勤め、上京して第一高等学校一部に入学。同級生には、鶴見祐輔がおり、寮では斎藤茂吉と同室であったという。1909年(明治42年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院に進んだ。在学中より研究の一方で、岩波書店の『哲学叢書』編集に携わったりして生計を立てていた。1912年には、東京農業大学で英語講師を務めた。
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 19… 田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。 書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巖谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月… 芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。 千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任。
諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4… 諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日)は、日本の漢学者・漢字学者。号は止軒。学位は、文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学学長・都留文科大学初代学長を歴任。大著『大漢和辞典』、『広漢和辞典』(各・大修館書店刊)の編者代表として知られる。直江兼続の子孫を称した。 新潟県南蒲原郡庭月村(後に四ツ沢村→森町村→下田村、現在の三条市庭月)の大庄屋の二男に生まれた。1908年に東京高等師範学校を卒業後、漢学の教員として同校に勤める。青年時代には中国に留学したが、このときに満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和辞典』の製作に繋がっていった。
小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2… 小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉7月23日)は、日本の医学者(医学博士)、産婦人科医(浜田産科婦人科病院院長)。東京都特別区公安委員、実践女子学園理事長、日本産科婦人科学会会長、東京都医師会会長、日本医師会会長を歴任。 熊本県宇土郡宇土町にて漢方医小畑宗憲の次男として生まれる(長男は夭逝)。宇土尋常小学校卒業後、鶴城学館予科(高等小学科)及び本科(中学科)、さらに熊本市の私立済々黌へ編入。1901年(明治34年)に県立熊本中学校(第二済々黌より改称)、1904年(明治37年)に第五高等学校、1908年(明治41年)12月に東京帝国大学医科大学を卒業。
名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1… 名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(広島県第一区選出、当選6回)。鉄道政務次官。司法参与官。第一東京弁護士会会長。松竹監査役。 東京弁護士会会長、国家公安委員を務めた名川保男の兄。 広島県高田郡坂村(のち向原町、現安芸高田市)に生まれた。名川次郎平の長男。1903年(明治36年)、明治法律学校(現明治大学)卒業。1906年(明治39年)、法政大学卒業。 判事検事登用試験合格。1909年(明治42年)、東京地方裁判所判事に任官。1917年(大正6年)に退官し弁護士となる。一般訴訟事務を取り扱う。
中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 191… 中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 1914年8月2日)は、日本の文筆家。 長野県諏訪郡米沢村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校に試験の成績一番で入学。同期に鶴見祐輔がいた。東京帝国大学法科大学卒業。中島菫畝の筆名で執筆をしている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - … 小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - 1968年11月3日)は、日本の医学者、内科医。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。小野寺式圧診法の考案者。 旧制盛岡中学校、第一高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)卒業。30歳の若さで九州帝国大学教授に就任。消化器研究に尽力し、特に胃運動曲線照射法で恩賜金記念賞を授与される。「胃運動曲線に関する研究」「圧診法に関する研究」は医学会不滅の業績とされる。 1943年(昭和18年)に退官後は、満州国にわたり新京特別市立第一病院長に就任。1945年(昭和20年)8月19日、第二次世界大戦終結後の混乱の中、新たに発足した新京日本人会の会長に就任。
渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29… 渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29日 - 1955年〈昭和30年〉1月28日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。朝鮮農地開発営団理事長。 新潟県岩船郡関谷村(現在の関川村)出身。渡辺善俊の長男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同日高郡長、福井県理事官、神奈川県事務官を務めた。 1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道内務部長、黄海道内務部長、平安南道内務部長、全羅北道知事、京畿道知事を歴任。1931年(昭和6年)、殖産局長兼山林部長となり、翌年に農林局長に転じた。 1935年(昭和10年)に退官し、東洋拓殖理事、日魯漁業(現在のマルハニチロ)取締役、南洋興発監査役、海外興業監査役、朝鮮農地営団理事長、朝鮮食糧営団理事長などを務めた。
有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)… 有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)5月25日 - 1970年(昭和45年)4月6日)は、日本の明治時代・大正時代・昭和時代の医学者・政治家。位階は正三位。勲等は勲二等。北海道帝国大学名誉教授。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。旧姓・栗山。BCGの研究者としても知られる。 現在の福井県坂井市(旧坂井郡三国町)で旧福井藩藩医栗山英哉の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。旧制福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)、第四高等学校を経て、1908年東京帝国大学医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。
白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月2… 白根 竹介(しらね たけすけ、1883年(明治16年)5月25日 - 1957年(昭和32年)3月5日)は、日本の内務官僚。
柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年… 柿原 政一郎(かきはら せいいちろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1962年(昭和37年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。宮崎市長。高鍋町長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現在の高鍋町)出身。1904年(明治37年)に第六高等学校を卒業した後、東京帝国大学文科大学哲学科で学んだ。1907年(明治40年)に倉敷紡績に入社し、大原孫三郎の秘書となる。高鍋製糸株式会社社長、中国民報社理事、大原社会問題研究所評議員・出版部主任などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は中国民報社社長や広島臨港土地株式会社取締役などを務めたが、1935年(昭和10年)には宮崎市長に選出された。
佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5… 佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に東京府で生まれた。野州名鑑によると、栃木県足利市通二丁目に金物商の佐竹金之助の次男として生まれたとある。成城中学校から陸軍士官学校第18期、東京帝国大学建築学科卒業。1930年(昭和5年)8月1日、陸軍工兵大佐進級と同時に工兵第7大隊長に就任し、1932年(昭和7年)6月に陸地測量部三角科長、1933年(昭和8年)8月に陸軍築城部部員を歴任した。 1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し、澎湖島要塞司令官に着任。
鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月… 鈴木為次郎(すずき ためじろう、1883年(明治16年)5月24日 - 1960年(昭和35年)11月20日)は、囲碁の棋士。愛知県生まれ、巌崎健造門下、方円社、裨聖会、棋正社、日本棋院に所属、名誉九段。読みが深く粘り強い棋風で、長考派としても知られる。「旭将軍」の異名をとった。妻は鈴木秀子四段。
田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5… 田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5月20日 - 1952年〈昭和27年〉5月11日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。衆議院議員。 愛知県渥美郡高豊村(現在の豊橋市)出身。1905年(明治38年)、陸軍士官学校を卒業。その後、陸軍大学校を卒業し、第六高等学校勤務、歩兵第41連隊長、麻布連隊区司令官、第5師団司令部附、歩兵第33旅団長を歴任した。1938年(昭和13年)、陸軍中将に昇進し、下関要塞司令官を務めた。1939年(昭和14年)、予備役に編入。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選を果たした。そのため、1946年(昭和21年)に公職追放となった。
三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19… 三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の政治家、厚生政務次官。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→東方会)、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡恒富村(現在の延岡市)出身の軍医監・衆議院議員三浦得一郎の長男として生まれる。1901年(明治34年)福岡県立中学修猷館を経て、1909年(明治42年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外務省嘱託を経て、1910年(明治43年)に海軍主計中尉に任官した。1925年(大正14年)、主計中佐で予備役となる。その間、日独戦争、シベリア出兵に従軍した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治… 斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治16年)5月18日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、福井県知事、福井市長。 宮城県出身。斎藤忠治郎の三男として生まれる。山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り警視庁見習となる。以後、徳島県理事官、福井県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、奈良県書記官・内務部長、富山県書記官・内務部長などを歴任。 1930年8月、福井県知事に就任。1931年12月18日まで在任して休職し、同月24日に依願免本官となり退官した。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5… 別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5月17日 - 1931年(昭和6年)5月16日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 山口県豊浦郡滝部村(豊北町を経て現下関市豊北町大字滝部)出身。別府玄三の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り福岡県試補となる。 以後、福岡県理事官、群馬県理事官兼視学官、内閣書記官兼国勢院書記官、法制局参事官、拓殖事務局長などを歴任。 1924年6月、島根県知事に就任。1926年9月、奈良県知事に転じた。1927年5月、栃木県知事に就任。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12… 松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12日 - 1958年(昭和33年)7月17日)は、明治末から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)、奈良県宇陀郡松山町長(3期)、同郡大宇陀町長(1期)。 奈良県宇陀郡松山上中町(松山町大字上中、大宇陀町を経て現宇陀市大宇陀上中)で、林業・松尾徳三郎の二男として生まれた。1903年(明治36年)大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を卒業し、大和銀行(現南都銀行)に入行した。1909年(明治42年)奈良水力電気の創立に参画した。1911年(明治44年)9月、家督を相続した。奈良県農会議員、宇陀郡農会長、同教育会長に就任。実業界では、大和銀行監査役、大和電気専務取締役、大正水力電気取締役、宇治川電気取締役、三芳索道取締役、信貴生駒電気鉄道(のち信貴生駒電鉄)取締役、奈良県農工銀行取締役、南都銀行取締役、大和貯蓄銀行取締役、吉野銀行監査役、奈良信託監査役、新日本工業取締役、松尾合名会社代表社員などを務めた。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16… 谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1979年〈昭和54年〉11月21日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選2回)。鳥取銀行取締・相談役。 鳥取県岩美郡大路村(のち岩美郡米里村東大路、現・鳥取市東大路)の豪農の家に生まれた。谷口竫晃の長男。1902年、鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。農業を営む。 鳥取税務署管内所得調査委員、広島税務署監督局管内所得審査委員、鳥取県議、米里村議、岩美郡農会長、鳥取県農会議員となる。因伯産業社長、大正鳥取銀行取締役、鳥取新報社監査役、鳥取県米穀会副会長、鳥取銀行頭取、鳥取大丸取締役となる。
清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6… 清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6日 - 1971年(昭和46年)8月31日)は、日本の小児科医師。1910年(明治43年)東京帝国大学医科大学を卒業し、1920年(大正9年)、医学博士となった。1952年(昭和27年)には東京医科大学学長となる。1966年(昭和41年)に勲三等旭日中綬章を受章した。 石川県金沢市出身。旧加賀前田藩家老村井家典医家に生まれる。明治44年、母校の小児科学教室に入る。小児の栄養に関する研究が学会で注目された。大正4年、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となる。後の東京医科大学ならびに東京医学専門学校の前身である東京医学講習所開設以来、小児科学を講義、東京医学専門学校の創立に貢献した。
中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉… 中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉5月6日 - 没年不明)は、日本の政治家(神戸市会議員、西灘村会議員)、内外科医師、実業家。摩耶山社長。 岡山県勝田郡勝田村(のち勝田町、現美作市)出身。大町助太郎の四男。1905年、大阪慈恵病院医学校卒業。任陸軍三等軍医。1907年、中井淳の養子となり、1922年、家督を相続した。 東京帝国大学医学部選科を修業あるいは卒業、開業した。医師であり、中井病院を経営した。兵庫県衛生防疫官、摩耶山社長などを務めた。 大政翼賛会市支部協力会議員である。宗教は真宗。趣味は謡曲。兵庫県在籍で、住所は神戸市灘区稗田町、同区灘北。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
黒田 泰造(くろだ たいぞう、1883年5月5日 - 196… 黒田 泰造(くろだ たいぞう、1883年5月5日 - 1961年10月7日)は、日本の化学者、発明家。 大阪府出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学工科応用化学科を卒業した。その後、製鉄所に入所した。1909年(明治42年)に技師となった。1923年(大正12年)に副産部長となった。1928年(昭和3年)に九州帝国大学の教授を兼任した。1934年(昭和9年)に日本製鐵の取締役に就任した。 1933年に帝国発明協会の全国発明表彰により、大賞が授与されている。 1940年には工業化学会の会長を務めた。大日本窯業協会の会長も務めた。
東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年… 東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年5月5日 - 1935年3月13日)は、明治から昭和期にかけての華族。正四位、男爵。 太政大臣などを務めた三条実美の養嗣子三条公恭の長男として生まれた。1886年、浪費癖などにより公恭が廃嫡処分となったため、実美の実子で分家の東三条家を興していた公美が三条家の嗣子となった。このため、実敏は公美の養嗣子になって東三条家を継ぎ、幼いながらも襲爵した。実父公恭は東三条家の厄介となったが、後に平民籍に編入されている。1908年、明治大学法律科卒業。
阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965… 阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965年2月20日)は、日本の建築家および土木技術者。旧姓は菅原。大正から昭和時代にかけて活躍した。日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道の設計者。通称コンクリート博士。日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。また、阪急阪神東宝グループの建物、RC造の多くの構造物、建築物をつくり続けた。アメリカで鉄筋コンクリート構造学を修めた後も研究を続け、鉄道省での仕事、旧日比谷映画などの娯楽施設、工場建築などの設計に活かす。戦後は戦災復興院総裁として、住宅供給の甚本施策を提示した。勲二等瑞宝章受章。 岩手県一関市生まれ。岩手県一関尋常中学校(一回生)時代には、一関尋常高小学校から岩手県一関尋常中学校二年に編入を許され、三段跳びで三年生に進んだ浅利三朗と首席を争う。
川村 多実二(かわむら たみじ、1883年5月4日 - 19… 川村 多実二(かわむら たみじ、1883年5月4日 - 1964年12月16日)は、日本の動物学者。岡山県津山市出身。河川・湖沼を含む淡水域の生物学を創始。動物生態学や動物心理学などが研究の中心で、多くの研究者を育成したが、一般には鳥類の研究でより知られている。日本野鳥の会京都支部初代支部長でもあり、京都大学総合博物館や大阪市立自然史博物館には、川村が収集した日本周辺産と北米産の鳥類コレクションなどが所蔵されている。実兄は植物学者(キノコが中心)の川村清一。実弟は生理学者の福田邦三。 日本陸水学会の第2代会長も務め、名誉会員にもなっている。なお「陸水」という言葉は、海水を除く湖水や河水、地下水などの総称として川村が提唱した造語である。
佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 … 佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 - 1964年(昭和39年)9月22日) は日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
須藤 素(すどう もと、1883年(明治16年)5月1日- … 須藤 素(すどう もと、1883年(明治16年)5月1日- 1962年(昭和37年)12月16日)は、朝鮮総督府官僚。福島県若松(現在の会津若松市)市長。 福島県出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。統監府属・大蔵属、統監府書記官、朝鮮総督府事務官、総督官房土木課長、参事官、営林庁長などを歴任した。1926年(大正15年)、慶尚北道知事に任命され、1929年(昭和4年)に慶尚南道知事に転じた。 退官後の1933年(昭和8年)に若松市長に就任。 市長退任後は朝鮮無煙炭株式会社監査役を務めた。
岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日… 岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の商人(綿布商)、実業家。泉州瓦斯社長。岸和田呉服、岸和田タオル商会、寺田銀行、和泉織物、東洋製鋼各取締役。マンジ堂製菓監査役。岸和田本町郵便局長。旧姓は北野。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野弥之助の弟。岡田伊平の養子となる。1905年、家督を相続し、旧名泰一を改める。父業を継ぎ綿布商を営む。傍ら会社の重役である。 住所は岸和田市本町。 岡田家は古くより泉州岸和田に定住し、代々八百屋を渡世としていたが、先代伊平に至り綿布商に転じた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966… 井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。1902年(明治35年)東京府立尋常中学校卒業。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに「浅間」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。1909年(明治42年)10月、「磐手」分隊長となり、「千代田」水雷長、「千歳」・舞鶴海兵団の各分隊長などを歴任。海軍大学校乙種学生となり、さらに海軍砲術学校高等科で学び、1911年(明治44年)12月、第15艇隊艇長に就任。
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 19… 植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校教官を経て、第2特務艦隊司令部付、「樫」駆逐艦長として第一次世界大戦に従軍。地中海で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰国後横須賀鎮守府付、水雷学校特修科学生、「矢風」「駒橋」の各艦長、「浅間」副長、海兵教官などを歴任し、1925年12月、海軍大佐に進級した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30… 三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30日 - 1957年〈昭和32年〉11月8日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 広島県西地方町(現・広島市中区)出身。三浦新平の二男として生まれる。山口高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、大学院に進んだ。1907年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務に入省し保険事務官補となる。 以後、山林事務官兼農商務書記官、林務官、山林局書記官兼農商務書記官、秋田大林区署長、農商務書記官兼同参事官、製鐵所理事、特許局次長、農商務省山林局長などを歴任。 1924年(大正13年)12月17日、山形県知事に就任。
清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉… 清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1963年〈昭和38年〉4月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、外務政務次官。 現在の群馬県前橋市大手町に生まれる。群馬県立前橋中学校を経て、1902年(明治35年)に早稲田大学法科を卒業した。その後渡米し、ワシントン大学とミネソタ大学で学び、法学修士の称号を得た。帰国後は関東産業新聞社長、上野新聞社専務、上毛機械合資会社代表社員、合資会社桜組支配人などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に憲政会から出馬し、当選。第16回より立憲民政党に所属し、第21回に至るまで7回当選を果たす。
大賀 一郎(おおが いちろう、1883年〈明治16年〉4月2… 大賀 一郎(おおが いちろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1965年〈昭和40年〉6月15日)は、日本の植物学者。勲等は勲三等瑞宝章。学位は理学博士。位階は正五位。 1883年(明治16年)岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)に生まれる。 1901年(明治34年)岡山中学校を卒業するが、チフスにより進学を断念。1902年(明治35年)9月に第一高等学校二部に入学。第一高等学校卒業後は東京帝国大学理学部に入学。1909年(明治42年)に大学を卒業し大学院へ入学。大学院では植物細胞学を専攻し、そこでハスについての研究も始めた。学生時代に内村鑑三の影響により無教会主義のキリスト教に入信する。 1910年(明治43年)第八高等学校の講師となり、翌年に同校の生物学教授となる。
吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 19… 鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 1923年6月6日)は、日本の工学者。明治から大正期の通信工学の権威である。無線電話機の発明に成功し、逓信省電気試験所長をつとめた。工学博士。 秋田県北秋田郡花岡村(現大館市)で酒造業を営む鳥潟平治の長男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所に入所し、通信工学(特に無線通信)の研究に従事。当時、無線通信で主流であったコヒーラ検波器は通信距離が短いうえに安定しない問題があったが、1908年にタンタラム検波器を、1909年に鉱石検波器を発明し、飛躍的に無線通信機の性能を向上させた。
伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月2… 伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月23日 - 1966年(昭和41年)2月12日)は、明治から昭和時代前期の官僚、政治家、実業家。仙台鉄道局長、宇部市長、山陽急行バス社長、山口県公安委員長。 山口県大島郡久賀町(現・周防大島町久賀)出身。伊藤祥助の弟として生まれ、1921年(大正10年)分家する。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、鉄道院に出仕。1911年(明治44年)同院副参事、ついで参事書記官を経て、1927年(昭和2年)仙台鉄道局長に就任。 1931年(昭和6年)7月に官界を去り、民間に転じ、精養軒社長、宮城電燈顧問などを歴任する。1938年(昭和13年)7月30日、推挙され、第7代山口県宇部市長に就任し、続いて第8代市長を1946年(昭和21年)1月21日まで務めた。
安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4… 安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22… 河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。 山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。 卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。