朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11… 朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉7月11日)は、日本の海軍軍人(造兵科士官→技術科士官)。最終階級は海軍技術中将。魚雷設計の天才といわれ、酸素魚雷、特殊潜航艇の開発に貢献した。海軍技術有功章を受章。 兵庫県出身。東京帝大工学部造兵科を卒業。在学中に海軍造兵学生となり、卒業後、海軍造兵中技師(中尉相当)任官。海軍造兵科士官は兵器の設計開発にあたる将校相当官で、後に海軍造船科士官(造船にあたる)・海軍造機科士官(機関の造修にあたる)と合わせて海軍技術科士官と改称された。朝熊は造兵大尉時代まで呉海軍工廠に属し、魚雷部員、砲熕部員を務めている。
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉… 亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉11月10日 ‐ 昭和62年〈1987年〉4月7日 )は、日本の外務官僚、政治家。社会民衆党・大政翼賛会所属の衆議院議員。財団法人聖戦技術協会理事長。 旧津和野藩主亀井伯爵家分家・亀井茲迪の長男として東京に生まれる。弟は亀井凱夫(海軍少将、戦死)。茲迪の父(貫一郎の祖父)は谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井家分家の養子となり、亀井家分家を継いだ。 東京高等師範学校附属小学校、東京高等師範学校附属中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学進学。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年10月、外交官及領事官試験合格、外務省入省。
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 19… 前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 前田正隆・陸軍大尉の長男として岐阜で生まれる[要検証 – ノート]。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となる。1916年(大正5年)5月、陸軍砲工学校高等科(25期)を優等で卒業。陸地測量部員などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1922年12月、工兵第15大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)5月から1928年(昭和3年)12月までフィリピンに潜入。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 197… 山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 1972年6月27日)は、日本の小説家、染織家。 「草木染め」の命名者として知られる。 長野県東筑摩郡麻績村で善光寺街道麻績宿本陣臼井家の三男として生まれ、父の生家・山崎家の養子となる。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、国民英学舎を卒業後、京城日報の記者となったが、1922年作品を島崎藤村に賞賛され作家として歩み始めた矢先、昭和の大恐慌で郷里の養蚕業が打撃を受けたため帰郷。植物染を復活させ「草木染め」と名付け、「草木屋」を創設して編著書を刊行、のち月明会を興す。 息子に染色工芸家で群馬県指定重要無形文化財保持者の山崎青樹、孫に同じく染色工芸家の山崎和樹がいる。
小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1… 小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1972年11月7日)は、日本の政治家、実業家。厚生大臣(第27代)。参議院議員(3期)。 広島県尾道市久保町生まれ。1917年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、埼玉県川口町(現川口市)に移り住む。1920年に(株)国際重工業を創立し社長となる。発明家としても知られ、農家で使う「籾殻かまど」や「俵締機」などの新製品を開発し業績を伸ばした。取得した特許や実用新案は200以上にのぼるという。その他、川口コークス(株)、(株)寿屋を設立し会長となる。 社業のかたわら、川口鋳物工業協同組合理事長、川口工業健康保険組合理事長を務め、地元経済界の重鎮として活動するとともに、日本鋳物工業会会長、埼玉県経営者協会会長等も歴任した。
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 19… 田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士27期・陸大38期。最終階級は陸軍中将。 輜重兵科出身の陸軍中将14名の一人(輜重兵科から陸軍大将は出ていない)。戦後に67歳で中央大学法学部を卒業している。 愛媛県出身。農業・田坂儀平の長男。西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官、輜重兵第2大隊付。1926年(大正15年)11月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 陸大卒業後は、輜重兵第2大隊中隊長、教育総監部付勤務、陸士教官、留守第9師団参謀、第9師団参謀、陸大教官を経て、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令されて日中戦争に出征、さらに第2軍参謀となった。
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 … 平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。
寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月… 寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月8日 ‐ 1975年〈昭和50年〉1月12日)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 鏑木清方の門人。名は徳重、兵庫県明石郡明石町字樽屋町にて生れる。父は綿布問屋柿屋の当主寺島徳松、母は「とし」。上に二人の姉がいる三人兄弟の末っ子であった。幼少時は病弱で尋常小学校に通う頃から健康になったが、当時の男の子に似合わぬおとなしい気性で、姉たちとままごとなどしたりするのを母としは案じた。やがて徳重は九つになると読書に熱中するとともに、目に付くものをスケッチするようになり、十一になると『源氏物語』を原文で読破する。しかしこの徳重の様子に、親や姉また親類の者は将来を心配するばかりであったという。
神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年… 神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年7月13日)は、日本の政治家。愛知県小牧市長(3期)、衆議院議員(2期)、愛知県会議員(4期)、篠岡村長などを歴任した。 愛知県東春日井郡陶村(現小牧市)生まれ。1906年(明治39年)3月、小牧町小牧尋常高等小学校(現小牧市立小牧南小学校)卒業。 1929年(昭和4年)3月、篠岡村会議員に就任。その後、愛知県会議員、篠岡村長などを務め、1942年(昭和17年)10月8日から1945年(昭和20年)12月3日まで県会議長を務めた。 戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)… 湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)11月6日 - 1974年)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県伊具郡角田町(現在の角田市)に宮城商業銀行頭取湯村保治の二男として生まれる。1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。1918年(大正7年)に朝鮮総督府試補となり、道事務官、総督官房会計課長、土地改良課長事務取扱、土地改良部開墾課長を歴任し、1927年(昭和2年)に欧米各国に出張した。帰国後、忠清北道内務部長、殖産局農務課長、農林局農務課長、同農産課長を経て、1935年(昭和10年)に咸鏡南道知事となった。さらに京畿道知事を経て、1937年(昭和12年)に農林局長に就任した。
保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 196… 保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 1968年6月4日)は、日本の作家、翻訳家。『アサヒグラフ』編集長。竜緒という表記もある。本名は星野辰男。 モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン(リュパン)」シリーズの翻訳で知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。旧制東京外国語学校仏語科卒業。卒業後は文部省勤務。1918年、東京市神田区の書店で、ルブラン作「怪盗紳士ルパン」フランス語原書を見かけ、ユニークな題名にひかれて購入、読んでみたら保篠自身が内容の面白さに引き込まれ翻訳をしたと伝えられる。 文部省役人としての立場上、本名で翻訳活動にあたることを憚り、本名の漢字を入れ替えて筆名とした。
香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月… 香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月5日 - 1967年(昭和42年)6月17日)は、日本の獣医師、政治家。衆議院議員。 北海道出身。1913年、日本獣医学校を卒業。帰郷して獣医師を開業。 北海道会議員、同参事会員、空知馬商組合長、北海道獣医師会副会長、北海道馬商連合会副会長、新十津川村産業組合長、同農業会副会長、北海道自動車運輸取締役、北海道北方製薬会社取締役などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で北海道第一区から日本協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、協同民主党政調会運輸部長となった。
寺嶋 宗一郎(てらしま そういちろう、1892年(明治25年… 寺嶋 宗一郎(てらしま そういちろう、1892年(明治25年)11月5日 - 1969年(昭和44年)1月5日)は、日本の社会運動家、政治家。初代大阪府枚方市長、同市名誉市民。 大阪府交野郡山田村中宮(のち北河内郡山田村、現枚方市)で生まれる。小学校高等科1年を修了した。 1919年、大阪砲兵工廠の職工に採用され、農業も営んだ。農民運動に加わり、1922年、日本農民組合(日農)山田支部の結成、農民学校の開設を行う。1925年、日農大阪府連が設立し常務書記兼主筆に就任。日本労農党に入党し、山田村会議員、枚方町会議員、大阪府会議員などを務めた。 戦後、日本社会党に入党。1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区(当時)から諸派として立候補したが落選。
澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年… 澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年〉11月3日 - 1970年〈昭和45年〉3月8日)は、日本の会社役員、銀行家。三菱銀行取締役。三菱電機監査役。 群馬県新田郡太田町(現太田市)出身。1915年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第百銀行に入り大阪支店次長、横浜・丸ノ内各支店長を歴任し三菱銀行に転じ郵船ビル支店長、本店審査部副長、日本橋支店長を経て1947年、取締役に就任。 質商・初代澁澤金蔵の孫。二代目澁澤金蔵の二男。三代目澁澤金蔵の弟。趣味はスポーツ。宗教は浄土宗、仏教。住所は東京世田谷区玉川奥沢町 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)… 8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、東京の落語家。本名∶並河 益義。位階は従五位勲四等、勲章は瑞宝章および旭日小綬章(死没時追贈)。 自宅住所から、「黒門町」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。演じた演目の種類は多くはなかったが徹底的に練りこまれているとの定評がある。 落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。 母は並河いく。並河家は武家で、常陸宍戸藩主松平家の家来筋。
神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年… 神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年)11月3日 - 1952年(昭和27年)6月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県古志郡長岡町(現長岡市表町二丁目)で、神山敬太郎の長男として生まれた。1907年(明治42年)新潟商業学校(現新潟県立新潟商業高等学校)を卒業した。 1912年(大正元年)12月、一年志願兵として入隊し、1916年(大正5年)3月、陸軍歩兵少尉に任じられた。以後、新潟市在郷軍人会副会長、同市在郷軍人会連合分会阪之上区分会長、同市軍友会幹事を務めた。 肥料・砂糖・麦粉等の卸問屋を営み、1926年(大正15年)12月、親族で合資会社神山商店に改組し代表社員に就任。
松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月… 松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月2日 - 1976年(昭和51年)5月2日)は、日本の逓信・拓務官僚、政治家。南洋庁長官、貴族院男爵議員。旧名・定之助。 東京府出身。有馬頼萬の三男として生まれ、松田正久の養子となる。養父の死去により、1915年9月1日、男爵を襲爵。学習院を経て、1916年7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年3月、帝室博物館属となり、1920年6月まで在任。 1920年10月、高等試験行政科試験に合格し、同年11月、逓信局書記兼逓信属となる。以後、同事務官、地方海員審判所審判官兼逓信局事務官、兼逓信省事務官などを歴任。1923年4月、拓務事務局書記官兼内閣書記官に転じた。
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)1… 宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。 熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)で宮崎滔天・槌子夫妻の長男として生まれた。父の滔天は革命運動に打ち込んで家庭を顧みないため、お嬢様育ちであった母・槌子が慣れない石灰販売などで必死で働いて子供達を育てた。槌子は、自由民権運動の闘士であった前田案山子の子として育ったことから、夫の滔天の思想や活動にも理解があり協力的だった。
藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)1… 藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)11月1日 - 1969年(昭和44年)10月29日)は、日本の弁護士、裁判官。公安調査庁初代長官。 山口県下関市出身。藤井啓一の長男。豊浦中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所判事となり、裁判長として河上肇の治安維持法違反事件では実刑を、血盟団事件では温情判決を、帝人事件では全員無罪を言い渡した。その後大審院判事。戦後は弁護士を経て、1952年、公安調査庁の初代長官となる(~1962年)。1969年10月29日死去、76歳。
青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月… 青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の内務官僚、政治家。長崎市長、宮崎県宮崎市長、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡延岡町(現在の延岡市)出身。師範学校を卒業した後、1917年(大正6年)に中央大学専門部法科を卒業し、翌年に高等試験に合格した。鉄道院書記を経て、内務属、茨城県警視、岡山県理事官、熊本県事務官・地方課長、大阪府事務官・地方課長、同商務課長、山形県書記官・学務部長、同警察部長、熊本県書記官・警察部長を歴任した。 1935年(昭和10年)11月2日、長崎市助役に就任。1938年(昭和13年)8月29日、助役を退任し、長崎市長となった。
足立 収(あだち おさむ、1892年(明治25年)11月 -… 足立 収(あだち おさむ、1892年(明治25年)11月 - 1962年(昭和37年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。旧姓・秋田。 高知県出身。秋田広吉の二男として生まれ、足立喜代と結婚して足立に改姓。第三高等学校を首席で卒業。1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、福井県理事官、兵庫県理事官、内務書記官、内務事務官、宮城県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、北海道庁部長・学務部長、兵庫県書記官・警察部長、静岡県書記官・総務部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。 1937年10月、栃木県知事に就任。
小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)… 小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)10月30日 - 1967年(昭和42年)1月17日)は、日本の元造幣局研究所所長、工学博士。
赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 … 赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 - 1953年4月6日)は大正時代から昭和時代初期に活動した日本の社会学者、経済学者、教育者。良譲は僧名で旧名は外蔵、別名崇弘。戦後は教蔵院住職も務めた。 新潟県三島郡寺泊町(現 長岡市)に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文学部社会学科、1923年(昭和12年)に法学部政治学科を卒業。同大助手を経て1922年(大正11年)5月に明治大学教授となった。 1934年(昭和9年)、北陸日日新聞(現北日本新聞)に主筆として迎えられ、新聞統制で他の3紙と統合となる1940年(昭和15年)まで在職した。 ソビエト連邦の政治やマルクス経済学の研究を進めていたが、第二次世界大戦以前は国家主義者としても活動。
江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月… 江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月28日 - 1979年(昭和54年)5月18日)は、日本の微生物学者である。 東京府東京市本所区(現在の墨田区)に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学し植物学科に所属する。1917年(大正6年)に卒業後は17年の空白を経て1934年(昭和9年)に学習院大学の教授を務め同年理学博士を取得し、1953年(昭和28年)より学習院女子短期大学(2001年(平成13年)廃止)にて教鞭を執った。 退職後の1958年(昭和33年)には東京国立文化財研究所の調査研究員となり、1974年(昭和49年)に退所するまで16年間奈良県に出張し法隆寺金堂壁画の焼損した部分や高松塚古墳壁画の微生物調査や防除処理等の研究に携わる。
倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 19… 倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 1969年2月2日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専にて柔道修行に励んだのち、広島高等師範学校や旧制広島文理科大学にて後進の指導に当たって広島における柔道の普及・振興に尽力。また選手としては昭和天覧試合へ名誉ある出場を果たした。 広島県の仁保に生まれた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高校)を卒業後、既に柔道3段の倉田は京都の武道専門学校本科に1期生として進学し、同期の尾形源治らと共に磯貝一・永岡秀一・田畑昇太郎の元で稽古に励んだ。極度の近視であった倉田は、稽古の際に眼鏡を外すと常に眉間に皺を寄せて睨み付けるような形相であった事から、同級生らから“鬼瓦”と呼ばれたという。
杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 -… 杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 - 1972年4月14日)は、日本の有機化学者。元北海道大学学長。アルカロイド研究の第一人者として知られた。1967年4月、勲一等瑞宝章。 宮城県大崎市出身。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)。</ref>11期(三浦義男は1期後輩)。旧制二高を経て、東北帝国大学卒業。真島利行に師事。1926年、ロックフェラー財団の国際奨学生としてグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国に留学。その後スイスに移った。1929年秋に北海道帝国大学への転勤含みで北海道札幌市に転居。理学部が新設された1930年に北海道帝国大学教授となり、「花の色の科学」と題して開学記念学術講演を行った。
綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉1… 綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉10月27日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。 東京において、子爵・野宮定穀の五男として生まれ、綾小路家18代当主・綾小路家政の養子となる。養父の死去に伴い、1921年(大正10年)4月30日、子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)京都帝国大学経済学部卒業。十五銀行に入行。その後、横山工業監査、帝国鉱業開発監事などを務めた。また、歌会始講頌として披講の講頌役を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し大蔵省委員、税制調査会委員などを務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25… 秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25年〉10月22日 - 1972年〈昭和47年〉12月3日)は、大正から昭和期の水産技術者、実業家、政治家。参議院議員。 高知県長岡郡東豊永村(大豊村を経て現大豊町怒田)で、秋山紋弥、春女の長男として生まれる。1912年(明治45年)高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1915年(大正4年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業。 台湾宜蘭庁技手に任官し、1916年(大正5年)台湾総督府に転任。1920年(大正9年)長崎県に転じた。1928年(昭和3年)高知県水産課長に就任。その後、佐賀県水産課長を経て、長崎県水産試験場長となった。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉1… 森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉10月20日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)生まれ。1918年(大正7年)、明治大学法律科卒。経済学研究のため、欧米諸国に留学する。帰国後十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)に入るが、東明銀行清算人となる。朝日土地(株)取締役、千代田商事(株)社長、日本肥料工業(株)専務取締役、帝国商事(株)取締役社長となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。1期務めた。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙でも立候補したが途中で立候補を取り下げた。
山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月1… 山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月18日 - 1944年(昭和19年)2月22日)は大正時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。山川浩男爵家当主。 東京府出身。父は山川健次郎でその四男である。長兄の山川洵は東京帝国大学教授。1913年(大正2年)、従兄弟にあたる山川廉の跡を継いで伯父の山川浩家を承継した。七高を経て、1918年(大正7年)、東京帝大を卒業し高等文官試験に合格。千葉県警視、同理事官、静岡県地方事務官を経たのちは文部官僚として終始する。普通学務局庶務課、専門学務局学務課、大臣官房体育課、同文書課、同会計課の各課長を歴任。この間欧米視察に派遣された。社会教育局長を経て専門学務局長在任中に京都帝国大学で横領事件や清野事件が発生し濱田耕作総長が辞意を表明したが、山川は荒木貞夫文相の意を受けて、辞意撤回の説得を行った。
飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 19… 飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 1970年1月24日)は、日本の日本画家、俳人、俳諧関係資料の収集家。 神奈川県橘樹郡大綱村(現在の横浜市港北区の一部)の江戸時代以来の素封家に、三男として生まれた。父・快三は、大綱村長や神奈川県議会議員を務めた人物で、飯田家の家長の名である助太夫を第11代として襲名し、海山と号した有力者であった。 東京美術学校を卒業し、さらに川合玉堂の下で日本画を修行し、帝国美術院展覧会(帝展)などで作品を発表した。 後には俳画に取り組み、自ら主宰する「香蘭会」で指導にあたった。 1952年には第1回横浜文化賞の受賞者のひとりとなった。 飯田は、松尾芭蕉、宝井其角、与謝蕪村らの真筆など、多数の短冊・色紙などからなる俳諧関係の資料を収集したが、このコレクションは神奈川県の県史編集室に寄託され、その後、神奈川県立文化資料館、神奈川県立図書館が管理して現在に至っている。
南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)10月12日 - 1936年(昭和11年)6月22日)は、日本の小説家。
小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年… 小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年)10月11日 - 1977年(昭和52年)5月15日)は、日本の政治家。栃木県(旧)佐野市長を務めた。 安蘇郡佐野町に生まれる。実家は織物業を営んでおり十代で家業を継ぐ。1929年(昭和4年)、佐野町議会議員に就任し以後14年間務める。また、1935年(昭和10年)9月から1939年(昭和14年)9月まで安蘇郡選出の県会議員を務めている。この他に、佐野織物工業組合理事長や日本綿織物工業組合連合会監事なども歴任している。 1942年(昭和17年)、佐野町長に就任。当時の佐野町は周辺の自治体との合併による市制施行を検討しており、小泉はその実現に向けて主導的役割を果たした。
水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし… 水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年〈明治25年〉10月9日 - 1981年〈昭和56年〉7月17日)は、日本の俳人・医師。学位は医学博士。 本名は水原 豊()。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。
松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治2… 松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治25年)10月9日 - 1973年(昭和48年)8月19日)は、大正から昭和期の土木技術者、内務技官、政治家。山口県下関市長。旧姓・市川。 山口県で市川直彦の七男として生まれ、松尾琢三(衆議院議員松尾寅三の長男、馬関電灯取締役)の養子となる。1913年(大正2年)旧制第三高等学校を卒業[要出典]。1917年(大正6年)九州帝国大学工科大学土木工学科を卒業。一年志願兵として入隊した。 1919年(大正8年)内務省に入省し、下関土木出張所、神戸土木出張所で勤務。1924年(大正13年)欧米に出張し港湾施設を視察。帰国後、下関土木出張所に配属され、下関港、門司港の修築工事を担当した。
黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)1… 黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)10月9日 - 1935年(昭和10年)1月)は、日本の数学者、旧制第一高等学校教授。 東京で杉村彦右衛門の二男として生まれ、外祖父・黒川春村を嗣ぎ、黒河を名乗る。旧制第一高等学校を卒業、1916年(大正5年)東京帝国大学理学部数学科卒業後すぐ第一高等学校の数学講師に就任する。1918年(大正7年)第一高等学校教授を拝命、東京高等師範学校、 東京文理科大学の講師も務める。 「竹のひご」と「えんどう豆」を使った空間幾何学の講義や、三角関数は指数関数で表され、逆三角関数は解析関数であるから、初等関数は結局代数関数、指数関数、対数関数の有限個の組み合わせであるという説明など、教科書を使わずに講義案を周到に準備し、論理学上厳格かつ極めて明快な講義を進めていった。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月… 土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月6日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。旧姓・八木。 岡山県西西条郡西苫田村上河原(現津山市上河原)出身。八木喜次郎の五男として生まれ、津山市一宮、叔父・土居弥之助の養子となる。津山中学校 、第六高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山口県属となる。 以後、山口県警視、1923年(大正12年)4月奈良県理事官、愛知県理事官、1927年(昭和2年)2月に欧米出張を命ぜられ1929年(昭和4年)1月に帰朝し、山口県学務部長、内務省社会局事務官、同書記官、岐阜県書記官・警察部長、青森県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、福岡県書記官・経済部長、大阪府経済部長兼大阪府工業奨励館長などを歴任。
村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 198… 村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 1982年3月11日)は日本の女性政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1911年新潟県立長岡女子師範学校(現・新潟大学)卒。津田女子英学塾に学ぶ。その後新潟に戻り、新潟県立高等女学校家庭寮寮監などを務める。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して2位で当選した。在職中は進歩党婦人部長を務めた。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で新潟1区から立候補したが落選した。落選後は新潟家庭裁判所調停委員などを務めた。1982年新潟市で死去。
渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 19… 渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 1984年2月15日)は、東京市出身の実業家・文化人。 渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。 大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男(アコーディオン演奏者)・華子(小説家)ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職。欧米で住宅事情を学び、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5… 井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5日 - 1985年(昭和60年)1月5日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県北蒲原郡板山村(現新発田市)で、弁護士の井伊小平太の長男として生まれた。新発田中学校(現新潟県立新発田高等学校)、第二高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。神戸海上保険勤務を経て、1922年、弁護士を開業し、農民事件の弁護を数多く担当した。 1926年、労働農民党新潟県連合会執行委員に就任。1927年、労働農民党と日本労農党の共同推薦を受けて新潟県会議員に当選。さらに、新潟県参事会員、新発田町会議員、金銭債務調停委員、県地方事務所参与、借地借家調停委員、新発田中学校講師などを務めた。
中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5… 中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5日 - 1968年(昭和43年)4月9日)は、日本の政治家、内務官僚。大阪市長(第10・12代)。 静岡県出身。大阪府立市岡中学校6期、1917年に東京帝国大学卒業。内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。1936年4月1日から9月2日まで島根県知事(官選第32代)、同年9月3月から1945年9月7日まで大阪市助役を務める。 1945年9月8日から1946年12月13日まで第10代大阪市長を務める。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選(大阪府選出)、民主党、国民民主党に所属。1951年3月31日まで務めた。 その後第12代(公選2代目)大阪市長に当選(1951年4月25日 - 1963年3月23日)。
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)… 大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)10月3日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長、第7艦隊司令長官を務めた。熊本県熊本市出身。 1892年10月3日、熊本で大森太郎吉の息子として生まれる。熊本中学校卒業。1913年12月、海軍兵学校41期を16番の成績で卒業。在学中に品行善良章を授与された。1914年12月、海軍少尉任官。1919年12月、大尉に昇進。海軍水雷学校高等科を卒業。その後、第15艇隊艇長、葦駆逐艦長、陸奥分隊長、野風水雷長、響駆逐艦長、榛名分隊長を歴任、1925年12月、少佐に昇進、水雷学校教官に着任する。
清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 196… 清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 1964年6月24日)は、教育学者、教育者、教育評論家・女性問題評論家。崇貞学園経営者、桜美林学園創立者、桜美林学園初代学園長。旧姓小泉。 1892年10月、島根県松江市に生まれる。1895年、弟の誕生後、菅浦の漁民の家の里子となり、幼少期を過ごすが、学齢期を迎えて実家にもどり、尋常小学校に入学した。 小学生時に教会へ通いキリスト教と出会った。地元の中学校卒業後は上京し東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進学、1915年の卒業間近にキリスト教の洗礼を受ける。 東京女子高等師範学校在学中に平塚らいてう他の「青鞜社」の運動に啓発され、女性問題、男子との社会的平等思想に関心を持つようになる。