原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 19… 原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 1960年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。獣医師。 熊本県出身。1913年日本獣医学校本科卒。熊本県衛生技手、御領村(のち五和町、現・天草市)議、同村長、熊本県議となる。 御領村農業会技師、熊本県獣医師会副会長、日本獣医師会理事、天草郡家畜商組合理事長、同畜産農業協同組合理事長、熊本畜産販売農業協同組合会長、全国畜産販売農業協同組合連合会理事など務めた。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では熊本2区から民主自由党公認で立候補し、当選した。日本民主党の与党残留派を吸収合併して結党した自由党への参加を経て同党公認で再選を目指した1952年の第25回衆議院議員総選挙では落選してしまった。
月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - … 月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - 1969年8月25日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者。秋田県仙北郡美郷町の浄土真宗本願寺派圓徳寺の住職、西本願寺(京都市下京区)の勧学。 明治21年(1888年)5月25日、秋田県仙北郡金沢村米ノ口生まれ。旧制横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を卒業後、京都の佛教大学攻究院に進んでここを修了した。その後、金沢町米ノ口の正流山圓徳寺(浄土真宗本願寺派)の15世住職となった。 大正15年(1926年)9月、高野山大学教授となり、のち龍谷大学教授、西山専門学校教授などを務め、昭和10年(1935年)西本願寺司教となった。大学ではサンスクリット語・チベット語による文献研究にもとづいて原始仏教を教授した。
洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888… 洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888年5月23日 - 1968年3月5日)は、朝鮮の独立運動家、作家。本貫は豊山洪氏。忠清北道槐山出身。号は碧初。 1905年日本の東京に留学するが、1910年の日韓併合時、錦山郡守であった父・洪範植の自決により、中国に亡命し、申采浩らと交友し、独立運動に参加する。1919年の三・一独立運動では故郷の槐山でデモ活動を指導する。『東亜日報』の主筆を務める。後に東亜日報の主筆、時代日報社の社長、五山学校校長などを務める。小説『林巨正』を執筆する。1927年からは、民族統一戦線組織新幹会運動の中心となったが、1929年に検挙され、投獄された。 1945年の光復後は、南朝鮮で政治運動を展開する。
湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月2… 湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20… 飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、栄典は従三位勲一等。茨城県出身。陸士21期次席。 総力戦研究所所長として研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。 この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。 自著「続兵術随想」によると、当時陸軍大臣であった東条英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、主戦派の塚田攻参謀次長は一度も見学せず、主戦派が大勢を占める参謀本部からは数人の部員だけ見学に来たとのことである。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)… 石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)5月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 茨城県河内郡、のちの稲敷郡生板村(河内村を経て現河内町)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福島県理事官、内務事務官・地方局勤務、社会局事務官・書記官、青森県書記官・内務部長、北海道庁警察部長、三重県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任。1932年(昭和7年)、新潟県書記官・内務部長となり、1935年(昭和10年)に退官した。 退官後は1939年(昭和14年)まで京都市助役を務めた。
野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 19… 野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 1978年5月20日)は、日本の発明家、実業家。巴コーポレーションの創業者。紫綬褒章や藍綬褒章を受章。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町本郷地区)東汗出身。本郷小学校(現本郷中学校)を経て、1906年真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)卒業。1910年東京高等工業学校(現東京科学大学)機械科卒業、千代田瓦斯入社。1917年巴組鐵工所を創立。立体構造建築の研究開発に従事し、1932年ダイヤモンドトラスを発明。1933年建築組成材骨組法を発明。1938年全国発明表彰大賞受賞。1944年藍綬褒章受章。1948年日本鉄塔協会設立、会長。1956年紫綬褒章受章。
村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 19… 村田 三郎(むらた さぶろう、1888年5月16日 - 1968年以降没)は福岡県出身の実業家。田中鉱山の社員を経て流山鉄道の社長及び会長を務めた。義兄に中大路氏道。 福岡県、後の小倉市で1888年(明治21年)5月16日に村田政之助の三男として生まれる。1914年(大正3年)に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業すると、東京市京橋区北紺屋町(中央区八重洲)の田中本店に入社した。三郎は千澤専助の四女・経子を妻とし、義父の千澤が1896年(明治29年)に創設した下谷銀行及び東洋貯蓄銀行の取締役にも1920年(大正9年)就任している。社長・田中長兵衛のもと最盛期には国内鉄需要の過半数を生産した釜石製鉄所にも不景気の波が押し寄せ、1920年3月には戦後恐慌が発生。
逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5… 逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月25日)は、昭和時代の日本の政治家、衆議院議員(9期)。 岡山県の農家に生まれる。 1899年臥竜高等小学校中退。1912年逢沢組を設立、1939年逢沢組を改組し中国土木(アイサワ工業の前身)を設立、同社社長に就任。その間、1937年の第20回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から立憲民政党公認で立候補するが落選。1942年の翼賛選挙で非推薦候補として立候補し初当選。以後当選9回。通算25年代議士を務め、御津郡芳田村(現・岡山市)村長、運輸政務次官や岡山商工会議所会頭、岡山県遺族会会長、日本遺族会副会長などを歴任。
野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月1… 野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月14日 – 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員、参議院議員、福岡県知事。 福岡県出身。衆議院議員・野田卯太郎の長男として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。南満洲鉄道に入社した。 1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で千葉県第九区から政友会公認で出馬して初当選。1927年(昭和2年)に父が死去すると、翌年2月の第16回総選挙では父の地盤だった福岡県第三区から出馬し当選。以後1937年(昭和15年)4月の第20回総選挙まで連続6回の当選を果した。この間犬養内閣の鉄道参与官、鉄道会議議員、廣田内閣の司法政務次官、政友会総務などを歴任する。
藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月… 藤岡 長和(ふじおか ながかず、1888年(明治21年)5月13日 - 1966年3月6日)は、奈良県宇智郡北宇智村近内(現五條市)出身の内務官僚、俳人(俳号:玉骨)。奈良県宇智郡北宇智村初代村長の藤岡長二郎の長男。 自宅「藤岡家住宅」(奈良県五條市)は2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録された。
丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月… 丸山 直友(まるやま なおとも、1888年(明治21年)5月13日 - 1975年(昭和50年)12月2日)は、明治末から昭和期の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県古志郡長岡(現・長岡市)出身。1909年(明治42年)金沢医学専門学校医科(現・金沢大学医学部)卒、同校嘱託を経て、上京し東京帝国大学医科大学入沢内科の助手となり、その後、東京南胃腸病院副院長となる。1917年(大正6年)長岡市東坂之上町で開業した。1945年(昭和20年)長岡空襲で被災し玉蔵院町(現:城内町)に医院を新築開業した。長岡市医師会長、新潟県医師会副会長、日本医師会代議員、同常任理事、同副会長などを務める。 1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙では旧新潟3区から民主自由党公認で立候補して当選した。
橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)… 橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)5月12日 - 1942年(昭和17年)10月13日)は、日本の教育者、文部官僚。 福井県足羽郡東郷村(現在の福井市)出身。1911年(明治44年)に盛岡高等農林学校農学科を卒業。宮城県立農学校教諭、同農事試験場技手、福井県今立郡立農学校教諭、盛岡高等農林学校助教授などを歴任。その後高等文官試験に合格し、福岡県鞍手郡長、同糸島郡長、同事務官を務めた。1928年(昭和3年)に文部事務官に移り、大臣官房会計課勤務、専門学務局勤務などを経て、1934年(昭和9年)に文部書記官・宗教局宗務課長に就任した。1937年(昭和12年)からは東京聾唖学校校長を務めた。
柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年… 柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年5月12日 - 1956年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は晋州柳氏(朝鮮語版)、号は怡雲(イウン、이운)。ユ・レワン(漢字同、유래완)という表記も見られる。 京畿道楊平郡出身。神戸市立湊川商工実業学校商業科卒、早稲田大学修了。大韓独立普成団組織団長を務めたが、三・一運動の普成団事件で1年間投獄された。その後は私立養成女学校教員、楊平郡楊西学堂教員、楊平公立普通学校学務委員、楊平郡食糧事務嘱託、楊平面内務主任、楊平面協議会員を歴任した。解放後は初代楊平面長、韓国民主党楊平郡支部支部長、南朝鮮過度立法議院代議員、制憲国会議員、社団法人楊平郡畜産協会会長を歴任した。
荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月1… 荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月10日 – 1950年(昭和25年)1月11日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 埼玉県北埼玉郡佐間村(忍町を経て現行田市)で、荒井久之助の二男として生まれる。1907年(明治40年)関直彦の私塾を卒業。東京で足袋見習修行を行い、1917年(大正6年)独立して忍町で足袋製造業を始め、その後、業界屈指の規模に成長した。行田足袋被服工業組合理事長、全日本足袋工業組合連合会理事、日本足袋共同販売取締役、日本足袋製造統制取締役、日本足袋統制 (株) 理事、忍町被服製造取締役会長、行田足袋元売販売社長、行田足袋工業会理事長、日本足袋配給 (株) 理事、全国足袋卸商業協同組合理事長、忍商工会議所会頭、忍町農業会長などを務めた。
梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 19… 梶塚 隆二(かじつか りゅうじ、1888年5月9日 - 1976年5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍軍医中将。医学博士。 宮城県大崎市出身。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1914年、東京帝国大学医学部卒業。その後陸軍軍医学校を卒業し、東京帝国大学伝染病研究所で細菌学・血清学を学ぶ。1924年3月29日、論文「スパスカヤに於けるパラチフスB型菌性食中毒検索例 : 竝原因食(オムレツ)の菌毒汚染動機に関する実験的研究」で医学博士号取得。1939年、満州関東軍軍医部長。1940年、陸軍軍医総監。 731部隊を統括・監督する立場にあったことから戦後ソビエト連邦軍の捕虜となる。
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月… 小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者。慶應義塾長、帝国学士院会員を歴任。 イギリス古典学派のリカード研究のほか、日本における社会思想研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義への容赦ない批判者として、自由主義の立場から『資本論』の内容をめぐって河上肇や、櫛田民蔵との活発な論戦を展開した。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育責任者にもなり、皇室の近代化に努めた。学士院会員、コロンビア大学名誉文学博士、文化勲章受賞、名誉都民、野球殿堂入り。
崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月… 崎山 嗣朝(さきやま しちょう、1888年(明治21年)5月4日 - 1960年(昭和35年)6月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、那覇市長。 沖縄県首里(現在の那覇市)に崎山嗣記の長男として生まれ、幼時を石垣島で過ごした。沖縄県立中学校を卒業後、第七高等学校に進み、1913年(大正2年)に卒業した。さらに京都帝国大学法科大学独法科に学び、1917年(大正6年)に卒業した。翌年に帰郷し、弁護士を開業した。 那覇市会議員、沖縄県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。計4期務めた。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1937年(昭和12年) 第20回衆議院議員総選挙 所属 立憲政友会 1943年(昭和18年)3月には那覇市長に選出された。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日… 加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日 - 1956年〈昭和31年〉9月1日)は、大正・昭和期の小説家。号は冬海。建築家の丹下健三は三女の婿。門人に佐藤愛子がいる。 神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)生まれ。高等小学校卒。川尻尋常小学校(現・相模原市立川尻小学校)で訓導(準教員)を務める。親戚に八木重吉がおり、川尻尋常小学校では教え子でもあった。 『文章世界』・『中学世界』誌等への投書家として次第に名を知られ、明治時代末から佐藤義亮に接近。1911年、新潮社に入社し、編集者として『文章倶楽部』などを担当した。 1916年に加藤武雄名義の処女作「土を離れて」を『新潮』誌に発表。
横山 正(よこやま ただし、1888年(明治21年)5月 -… 横山 正(よこやま ただし、1888年(明治21年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 島根県出身。藤谷宝城の三男として生まれ、横山賢造の養子となった。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、1917年(大正6年)に高等文官試験に合格した。岐阜県属、神奈川県警視、三重県理事官、岡山県理事官、山口県警察部長、静岡県警察部長、神奈川県警察部長を歴任。1930年(昭和5年)、千葉県書記官・内務部長に就任した。 退官後、新潟市助役を務めた。
中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 -… 中村 清太郎(なかむら せいたろう、1888年4月30日 - 1967年12月20日)は、日本の登山家、山岳画家。 川端玉章、岡田三郎助、藤島武二に師事した。 東京府浅草区出身。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。実業家の加賀正太郎は中学・高商の同級生で友人。 近代登山の黎明期に北アルプスなどに登り、小島烏水らと赤石山脈の初縦走を行うなどした。針ノ木岳の命名者、クモマツマキチョウの発見者でもある。 また、本郷絵画研究所で絵画を学び、1936年には足立源一郎らと日本山岳画協会を設立した。1950年日本山岳会名誉会員。 晩年は日本登山史の執筆を行っていたが、1965年、図書館への行き帰りの際、タクシーに撥ねられ断筆となり、1967年に阿佐ヶ谷の自宅で死去した。
宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月2… 宮崎 武吉(みやざき ぶきち、1888年〈明治21年〉4月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士(大阪弁護士会所属)、税理士、弁理士、歌人。旧姓・井上。お笑いタレント椿鬼奴の祖父。 大阪府大阪市西区出身。3代目、井上嘉助の息子。宮崎良平の養子となる。 1897年、9歳の時に父が亡くなると親戚のいる京都の乾物店に丁稚奉公に出される。丁稚奉公をしながら高等小学校を卒業する。夜学の学習塾にも通う。31歳にして京都帝国大学に入学する。 1922年、京都帝国大学経済学部を卒業。高等試験行政科に合格し、直ちに京都府庁に入り、内務部社会課兼庶務課に勤務する。 山口県庁電気局庶務課長となり、1930年3月に職を辞し、同年5月に弁理士登録、同年9月に計理士登録。
冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 197… 冨山 保(とみやま たもつ、1888年4月28日 - 1972年12月12日)は、日本の工学者。電気化学専攻。横浜高等工業学校校長を経て、初代横浜国立大学学長や、第9代電気化学協会会長を務めた。正三位勲二等瑞宝章。 茨城県水戸市出身。水戸市橦木町士族。1909年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科電気化学分科研究修了卒業。1913年東北帝国大学理科大学特待学生選定。1914年東北帝国大学理科大学化学科卒業。明治専門学校(のちの九州工業大学)教授、横浜舎密研究所主任等を経て、1926年東洋窒素工業取締役。1928年東北帝国大学理学博士。1929年松尾鉱業顧問。1935年横浜高等工業学校校長に就任。
達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 … 達ノ矢 源之助(だてのや げんのすけ、1888年4月27日 - 1945年11月10日)は、現在の山形県長井市出身で千賀ノ浦部屋・芝田山部屋・出羽海部屋に所属した力士。本名は梅津 源之助。5代君ヶ濱。176cm、94kg。最高位は東前頭2枚目。 1904年5月、元大関大達の千賀ノ浦部屋から梅川の四股名で初土俵。間もなく師匠が亡くなって芝田山部屋(当時の師匠は3代芝田山(最高位幕下の松ヶ枝))に移籍。入幕を目前にしてこれまた師匠が亡くなったため出羽海部屋に移籍。1915年1月新入幕。立ち合いからの突っ張り一本の相撲で幕内を通算13場所務めたが、この間、1917年5月に達ノ矢と改名している。1921年5月引退し、その後は自身との稽古中の負傷が元で死亡した元小結大ノ川の年寄名跡である君ヶ濱を5代目として襲名し、その遺族の扶養を引き受けた。
矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日… 矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日 - 1948年〈昭和23年〉3月2日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(立憲政友会)。 鳥取県西伯郡米子町道笑町(現在の米子市)出身。矢野市郎兵衛の三男あるいは六男。矢野藤十郎の弟。鳥取県立米子中学校を卒業後、1906年(明治39年)より『東京日日新聞』記者となった。そのかたわら早稲田大学政治経済科で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後『中央新聞』を経て、1911年(明治44年)に二六新報社に入社し、社会部長を務めた。1917年(大正6年)に政治部長に転じ、1924年(大正13年)に社長の秋田清が辞任すると、後任の社長に就任した。
上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明… 上原 政兵衛(うえはら まさべえ、旧姓・松島、1888年〈明治21年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の商人(原皮毛皮貿易商)、実業家。 福島県西白河郡白河町(現白河市)生まれ。製革業・肥料毛皮貿易商などを営む松島瀧右衛門の四男。1910年、先代上原ゆきの入夫となる。家督を相続する。原皮毛皮貿易商を営む。 1938年、紺綬褒章を賜る。上原商事会長、日本毛皮革、富士製革工業、天津大興物産各社長、日本原皮常務を歴任し、1946年に大興物産社長に就任する。 趣味は骨董。宗教は真宗。墓所は同宗の浅草今戸の本龍寺。住所は東京市本郷区向ヶ丘弥生町、文京区駒込林町、浅草区今戸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1… 小幡 重一(おばた じゅういち、1888年4月24日 - 1947年9月15日)は、物理学者。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月2… 風戸 元愛(かざと もとちか、1888年(明治21年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月22日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(2期)。 千葉県出身。東京商科大学卒業。茨城県農工銀行頭取を経て、水戸市会議員になり、議長に就任する。議長在職中の1946年、市会から水戸市長に推され、就任する。翌1947年の市長選挙に立候補し、当選する。しかし、同年公職追放となり、半年で市長の座を追われることになった。
土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19… 土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19日 - 1946年(昭和21年)1月10日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。石川県警部、同警視、和歌山県日高郡長を務めた。1920年(大正9年)、朝鮮総督府事務官に転じ、全羅南道警察部長、京畿道警察部長、逓信局海事課長、海員審判所長、殖産局商工課長・商工奨励館長を歴任した。1931年(昭和6年)、専売局長となり、翌年に平安北道知事に転じた。1935年(昭和10年)からは慶尚南道知事を務め、1937年(昭和12年)に退官した。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。
飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月1… 飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月13日 - 1946年(昭和21年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、弁護士。 茨城県筑波郡真瀬村(現在のつくば市)出身。飯野茂吉の二男として生まれ、1910年(明治43年)に茨城県会議長飯村忠七の婿養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学を卒業後、一年志願兵制度によって陸軍三等主計に任じられた。退役後は弁護士を開業した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。その間、米内内閣で厚生参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会を結党にも参加している。
渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 -… 渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 - 1956年1月6日)は、日本の経営者。日本製鐵・八幡製鐵(現・日本製鉄)社長。 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人・渡辺忠の二男として生まれ、新潟県立柏崎中学校、第四高等学校を経て、1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒。同年文官高等試験行政科試験に合格、農商務省に入る。官営八幡製鉄所に勤務を経て、商工省に戻り、鉱山局鉱政課長を歴任する。 1934年に日本製鐵が発足すると八幡製鉄所に戻り、所長となった。その後、1942年には北支那製鉄社長に就任、鉄鋼統制会理事長も務めた。1945年、日本製鐵社長となり、鉄鋼統制会会長に就任した。
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日… 堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日 - 1955年(昭和30年)3月1日)は、日本の医師。政治家。宮城県石巻市長。旧姓白坂。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)の白坂家に生まれる。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入り、在学中に堺家の養子となる。卒業後は牡鹿病院の内科長に就任し、その後石巻市で医院を開業した。戦時中は警防団副団長、防空委員を務めた。 終戦後の1946年(昭和21年)3月石巻市長の岩崎孫八が公職追放の対象となるため市長を辞職。後継の市長をこれまで通り市会で推薦することも検討されたが、新しい時代を迎えて一部の市民が首長の公選制を検討していたことから「公選によって市長を選ぼう」という機運が高まり、市内で市民大会が開催された。
藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日… 藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日 - 1966年2月22日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は飯田 繁治。14代春日山。174cm、94kg。最高位は西関脇。 1908年1月初土俵、1913年5月十両昇進。1917年5月入幕し、前頭2枚目で迎えた1919年春場所において横綱栃木山に勝利、生涯唯一の金星を獲得した。この場所は5勝5敗の成績だったが、同年5月に関脇昇進。しかし10戦全敗に終わってこの関脇が現役唯一の三役経験となり、以降は三役に戻る事無く前頭の上位と下位を往来している。 1925年1月に引退し14代春日山を襲名。しかしこの頃辺りから伊勢ノ海一門の勢いに翳りが見られ、1946年に伊勢ノ海一門が消滅すると14代春日山は同年11月に部屋を閉じて弟子を全て立浪部屋に譲渡移籍。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 19… 道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 1981年3月8日)は、日本の実業家。元味の素社長。広島県広島市仁保島本浦(現南区本浦)出身。 広島商業卒業後渡米。オハイオ北部大学、コロンビア両大学で学ぶ。サンミット神崎商店支配人を経て、1918年、味の素の前身・鈴木商店に入社。1935年、同店の外国課長で帰国するまで米国に在勤し、製品の米国市場売り込み、及び原料買い付けなどに手腕を発揮した。1940年取締役、その後1945年、終戦直後の常務時代には、GHQの要請でDDTの製造に協力、これが同社戦後再建の原動力となった。1947年専務を経て1950年、戦後初めて同族以外から同社4代目社長に就任。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> 4月8日 - 1973年 <昭和48年> 4月19日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、警視総監。位階は正四位。 神奈川県出身。地主・早川耕造の三男として生まれる。東京府立三中、第六高等学校を経て、1915年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年8月、内務省に入り宮崎県属となる。 1916年9月、宮崎県警視を兼務。以後、宮崎県東諸県郡長、同県理事官、埼玉県理事官、同県地方課長、同県視学官、香川県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長などを歴任。
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月… 高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日 - 1951年(昭和26年)9月24日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。 秋田県出身。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した。 1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる。
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8… 若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県薩摩郡、のちの下東郷村(川内市を経て現薩摩川内市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、福知山連隊区司令官に就任し、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ、日中戦争に出動、汾陽に駐屯し、治安警備に当たった。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された。
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月… 市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月6日 - 1948年(昭和23年)9月4日)は、日本の獣医学者で獣医病理学専攻。北海道帝国大学教授。茨城県桜川市東飯田出身。山極勝三郎と共に世界初の人工癌発生に成功する。 雨引村立雨引尋常小学校、東京府立一中を経て、1913年、東北帝国大学農科大学(のちの北海道帝国大学)卒業。卒業後、東北帝国大学の大学院に進み、東京帝国大学医学部教授・山極勝三郎の研究室の特別研究生となり、山極と共に世界初の人工癌発生に挑戦。1915年、人工癌(皮膚癌)発生に成功(兎の耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)した実験)。当時の癌発生原因の「刺激説」「素因説」の二説のうち、前者の「刺激説」の有力な根拠となった。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。