二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月… 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981… 小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981年3月18日)は、日本の植物学者。専門分野は植物形態学・植物解剖学。 1895年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉長太郎(茗園)。東京帝国大学植物学科を卒業。卒業後は母校の同大学講師・助教授を経て、1938年に教授昇進。わが国における植物形態学・植物解剖学の確立・発展に尽くした。1946年から55年まで、日本植物学会会長を務めた。1956年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は横浜市立大学教授として教鞭をとった。
関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 197… 関 未代策(せき みよさく、1895年6月26日 - 1974年3月8日)は、日本の経済学者。日本経済団体連合会の設立など、戦後の経済再建に重要な役割を果した。 1917年、明治大学政治経済学部卒業。在学中は雄弁会幹事長を務めていた。朝日新聞社に入る。1920年のワシントン会議では、緒方竹虎等と共に特派員に選出されたが、直前の急病により断念することとなった。 1925年に、母校からの要請により、朝日新聞社から明治大学に転じた。同商学部助教授に就任すると同時にパリ大学に留学。1927年に帰国し、政治経済学部助教授、1930年に同教授、1942年に「東洋思想と仏蘭西経済学」で、経済学博士の学位を取得。
鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月2… 鈴木 東民(すずき とうみん、1895年〈明治28年〉6月25日 - 1979年〈昭和54年〉12月14日)は、日本のジャーナリスト、労働運動家、政治家。岩手県出身。第2次世界大戦前にベルリン特派員であった時はナチスを批判して国外退去させられ、帰国後は戦争を批判して軍部から執筆禁止処分を受け、敗戦後は読売新聞労働組合の委員長として読売争議を闘ったがGHQの命令により解雇された。釜石市長となってからは釜石製鉄所の公害を規制して闘った。 1895年6月25日、釜石市唐丹町川目で生まれる。旧制遠野中学校を経て、1920年に第二高等学校を卒業後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業する。1920年初冬、東大赤門前にあった文信社という謄写版印刷屋で、宗教上の対立で実家から家出同然に上京していた宮沢賢治と知り合う 。
芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1… 芦間 圭(蘆間圭、あしま けい、1895年6月24日 - 1956年以降)は、日本の文筆家、翻訳家。本名・安島 健(あじま けん)。別筆名に曲木 磯六。 秋田県湯沢市出身。東京帝国大学文学部倫理学科中退。報知新聞、日本評論社の記者をへて文筆に転じる。萩原朔太郎らの『感情』に寄稿したこともあり、菊池寛の代作をした。
早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月… 早川 三代治(はやかわ みよじ、1895年(明治28年)6月22日 - 1962年(昭和37年)8月28日)は、日本の経済学者、小説家。位階は正五位。 北海道小樽市生まれ。北海道帝国大学卒業後、経済学を学ぶためにドイツに留学し、ウィーンでヨーゼフ・シュンペーターに面会し、指導を受ける。帰国後、レオン・ワルラスやヴィルフレド・パレートを日本に紹介し、北海道を中心に所得調査を行い、日本の所得分布でパレートの法則を検証した論文を発表した。また、北海道帝国大学、小樽経済専門学校・小樽商科大学、早稲田大学で教鞭を取り、早稲田大学で経済学博士の学位を取得している。 一方で、東北帝国大学農科大学予科在学時に有島武郎の教えを受け、文学に傾倒し、その後島崎藤村に師事し、多くの小説・戯曲・随筆を創作した。
白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月2… 白松 篤樹(しらまつ あつき、1894年(明治27年)7月21日 - 1941年(昭和16年)7月9日)は、日本の内務官僚。官選大分県知事。旧名・喜久代、1932年6月に「篤樹」と改名。 静岡県出身。白松六治郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属となる。 1920年11月、大分県理事官・内務部地方課長に就任。以後、大阪府理事官、臨時震災救護事務局事務官、大阪府地方事務官、復興局事務官・整地部施業課勤務、同局書記官・経理部会計課長、内務事務官兼同書記官、警保局図書課長、衛生局医務課長、大臣官房都市計画課長を歴任。
小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7… 小笠原 光雄(おがさわら みつお、1894年(明治27年)7月20日 - 1988年(昭和63年)1月6日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会連合会会長、成蹊学園理事長などを務めた。 小笠原鑅次郎・ハルの長男として東京に生まれる。 1918年東京帝国大学法学部独法科を卒業。三菱合資入社。1921年三菱銀行に転じる。 1945年5月取締役本店営業部長、1946年4月常務取締役、1947年1月専務取締役、1948年10月取締役副頭取、1954年11月取締役頭取、1959年相談役。 このほか、日本郵船取締役、三菱商事監査役、帝都高速度交通営団管理委員、東京銀行取締役、東京ヒルトンホテル監査役、日本カーバイド工業監査役を歴任。
猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1… 猪俣 浩三(いのまた こうぞう、1894年7月20日 - 1993年8月21日)は、日本の弁護士、政治家。アムネスティ・インターナショナル日本支部初代支部長。 新潟県出身。日本大学法学部卒。1927年弁護士を開業。戦後、日本社会党の結成に参加。1947年に第23回衆議院議員総選挙に新潟4区から出馬して初当選、その後は連続7回当選。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選したが、1967年の第31回衆議院議員総選挙にて返り咲きを果たして1期を務めた。通算当選8回。 日本社会党の衆議院議員として人権侵害、汚職問題で政府を追及した。鈴木茂三郎(左派日本社会党委員長)が起こした警察予備隊違憲訴訟では原告代理人を務めている。
八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月… 八重樫 利康(やえがし りこう / としやす、1894年7月19日 - 1982年10月5日)は、日本の衆議院議員(1期)、花巻市長。 岩手県花巻市出身。高小卒。和賀郡笹間村(現・花巻市)会議員、同村長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に岩手県から立候補して当選。翌年、公職追放となる。衆議院議員を1期務めた後、追放解除後の1958年に花巻市長に選出され、1974年まで4期16年務めた。市長在任中、花巻空港の開港(1964年)、奥州大学(現富士大学)の開学(1965年)の他、市の小中学校の新設や校舎の新築、市内の水道整備、老人福祉センターの開所(1968年)、市体育館の開館(1969年)、市役所新庁舎の完成(1970年)、市立図書館の新築(1973年)などの業績を挙げた。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
片岡 伊三郎(かたおか いさぶろう、1894年(明治27年)… 片岡 伊三郎(かたおか いさぶろう、1894年(明治27年)7月12日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 千葉県山辺郡東金町上宿(山武郡東金町を経て現東金市)で、片岡善助の三男として生まれる。1911年(明治44年)千葉県立成東中学校(現千葉県立成東高等学校)を卒業した。 合名会社片岡商店ゲタモに入社し呉服商も営んだ。その後、大洋土地建物社長、千葉県繊維製品統制社長、千葉紡績社長などを務めた。戦後、千葉県商工経済会評議員、千葉県衣料品小売組合連合会長、千葉商工会議所会頭などに就任。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で千葉県選挙区から日本自由党公認で出馬して当選。
鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8… 鶴岡トシ(つるおか トシ、1894年7月11日~1978年8月3日)は、昭和期の北海道の教育者。北海道文教大学短期大学部初代学長。 新潟県出身。越後国藩士の家に生まれる。1908年、新潟県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)卒業。1908年より1917年まで新潟県内の小学校教諭。1912年、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)卒業。北海道へ渡り、1917年、成美女学校(現・せいとく介護こども福祉専門学校)専任教諭。1942年6月、北海道女子栄養学校を設立し、校長に。1960年4月、北海道栄養学校校長に就任。1963年4月、北海道栄養短期大学を設立し、初代学長に。1963年12月、学校法人鶴岡学園初代理事長で夫の鶴岡新太郎が急逝し、2代理事長に就任。
武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10… 武知 勇記(たけち ゆうき、1894年(明治27年)7月10日 - 1963年(昭和38年)10月11日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等・勲章は勲一等瑞宝章。伊予市名誉市民受章。 愛媛県伊予郡南伊予村下三谷(現・伊予市下三谷)出身。1913年(大正2年)北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)卒業。学生時代から政治家を志し明治大学法律科卒業後帰郷。1918年(大正7年)憲政会公認で松山市会議員に立候補し当選、翌1919年(大正8年)には愛媛県会議員にも立候補して当選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に愛媛1区から立憲民政党公認で立候補し初当選。戦前は廣田内閣の文部参与官、小磯内閣の内務政務次官、翼賛政治会衆院部総務等を歴任。
川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、18… 川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 - 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。 1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 194… 尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家・教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘。埼玉県出身。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀江書院を創業、社長を務める。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して前者の代表、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6… 朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は日本海軍の軍人、最終階級は海軍少将。 富山県下新川郡前沢村(現:黒部市前沢)出身。「朝倉豊次著作集」によると、魚津中学に5年間通い、海軍兵学校、陸軍士官学校(28期)ほか二校を受験し、全て合格する。陸士については官報にて確認できた。1916年(大正5年)11月、海軍兵学校(44期)を48番/95名で卒業し、翌年12月に少尉任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。駆逐艦「羽風」、潜水母艦「迅鯨」の各砲術長、海兵教官兼監事などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。同年12月、第2水雷戦隊参謀となり、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第2課兼第1課)、軍令部部員(第1部第2課兼第2部第3課)を歴任。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 … 東 栄二(ひがし えいじ、1894年(明治27年)7月5日 - 1947年(昭和22年)1月9日)は、日本の商工官僚。実業家。 鹿児島県出身。旧制郁文館中学、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学経済学部を卒業、同年に高等試験に合格。農商務属、農商務省統計官、農商務事務官、商工省統計官、商工事務官、特許局事務官・登録課長、商工書記官・通報課長、臨時産業合理局事務官・大臣大臣官房会計課長、東京鉱山監督局長、商工省商務局長、同鉱山局長を歴任。1937年(昭和12年)、企画院産業部長となり、さらに商工省工務局長・臨時物資調整局事務官、同総務局長・機械試験所長事務取扱、燃料局長官を歴任した。
福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4… 福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の経済学者。科学技術史家・思想史家・文化史家でもあり、福本イズムを打ち立てた。長男は福本邦雄。 戦前期の日本共産党(第二次共産党)の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。また、フランクフルト留学中、文化史という研究方法を学び、日本における文化史研究の先駆者の一人とされる。 福本は生前、自分の名前である「和夫」について、両親が「明治日本の出世頭」鳩山和夫にあやかったものと語っている。当時の筆名は、出身地にちなんで「北条一雄」としていた。 鳥取県久米郡下北条村(現・東伯郡北栄町)に福本信蔵の三男として生まれる。
井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日… 井上 硬(いのうえ かたし、1894年(明治27年)7月4日 - 1969年(昭和44年)10月4日 )は、岡山県出身の医学者。京都大学名誉教授。京都帝国大学医学部教授、新制京大医学部教授を経て、同大学ウィルス研究所長、第16代京都大学医学部附属病院長兼評議員。 1894年(明治27年)に岡山県児島郡宇野町(現:玉野市)で生まれる。その後、旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)を1912年(明治45年)に卒業し、第六高等学校第三部(医科)へ入学する。1915年(大正4年)に同高校を卒業し、京都帝国大学医学部へ入学する。医学部では第二内科に所属し、1924年(大正13年)「胆汁排泄に関する臨床的研究」で博士号を取得した。
北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2… 北岡寿逸(きたおか じゅいつ、1894年(明治27年)7月2日 ‐ 1989年(平成元年)6月7日)は、日本の労働官僚・経済学者。國學院大學名誉教授。北岡伸一の大叔父。 奈良県吉野町出身。旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学政治科卒業。農商務省に入省し、内務省の外局として社会局が設置されると同事務官に就任した。1929年(昭和4年)社会局労働部監督課長、1936年(昭和11年)国際労働機関(ILO)事務所長などを歴任。1939年(昭和14年)に退官すると同時に、東京帝国大学経済学部教授に着任する。1941年(昭和16年)には住宅営団研究部長・理事に就任する。 戦後は1946年(昭和21年)経済安定本部第4部長を皮切りに、1948年(昭和23年)東宝取締役に就任。
金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1… 金子 義晁(かねこ よしとも、1894年〈明治27年〉7月1日 - 1966年〈昭和41年〉11月27日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年(昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。
藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975… 藤井 崇治(ふじい そうじ、1894年7月1日 - 1975年3月18日)は、大正、昭和期の逓信官僚。電源開発総裁。位階は従三位。広島県深安郡山野村(現福山市山野町)出身。 広島県立福山中学(現福山誠之館高校)、旧制第三高等学校を経て1921年、京都帝国大学法学部法律科卒業。逓信省入省。1927年札幌逓信局規画課長、1932年郵務局規画課長。この時期を通して郵便配達方法の改善に着目、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立し、これらは後に新住居制度や郵便番号制度の普及に役立ったとされる。満州事変から1か月半後の1933年4月、満洲電信電話設立の要務を帯びて関東庁逓信局長に任命され大連に赴任。旧満州国の電力サイクルの統一等に尽力。
下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月3… 下地 玄信(しもじ げんしん、明治27年(1894年)6月30日 - 昭和59年(1984年)5月23日)は、日本の公認会計士。沖縄県宮古島市出身。日本公認会計士協会初代副会長を務めた。 東亜同文書院卒業。関西公認会計士協会支部長、財団法人下地玄信育英会 の設立者でもある。 宮古島平良市の下地玄忠の長男として生まれる。小さい時から大柄でその風貌から「今西郷」と言われていた。旧制首里中学(沖縄県立首里高等学校)校卒。その後、東亜同文書院を卒業後、森恪を慕って三井物産に入社後、三井三池炭鉱で働く。連隊で一年志願兵として従軍し、退社後、鉱山業失敗で100万円の負債を抱えるも保険会社の外交員として関西経済界で頭角を現す。
小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 19… 小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 1951年9月16日)は、日本の経営学者。関西学院高等商業学部教授。大丸百貨店監査役、神戸ゴルフ倶楽部理事。族籍は兵庫県士族。兵庫県多額納税者。氏の本宅については本記事の「邸宅」の節及び「日本一の富豪村・住吉村」を、別荘は「六甲山荘」の記事を参照。 第10代学校法人関西学院院長の小寺武四郎、元ユニチカ社長の小寺新六郎は甥。 大日本紡績監査役の小寺成蔵の長男として生まれる。 1912年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、関西学院高等学部に進学し、同学部商科第1期卒業生(16年)12名の一人となった。その後、アメリカ・インディアナ大学、コロンビア大学に留学する。
中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28… 中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日本の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評される一方で、終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことでも知られる。 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。
武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 198… 武井 武雄(たけい たけお、1894年6月25日 - 1983年2月7日)は、童画家、版画家、童話作家、造本作家である。 童話の添え物として軽視されていた子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。武井武雄の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていない。『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、図案(デザイン)、おもちゃの研究・創作「イルフ・トイス」、本自体を芸術作品と捉えた「刊本作品」、童画批評など多岐多彩な分野で作品を残した。 収集癖があり、日本全国の郷土玩具や郷土菓子を集め、郷土菓子169点について『日本郷土菓子図譜』(3巻)をまとめている。
沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月2… 沼田 政矩(ぬまた まさのり、1894年(明治27年)6月24日 - 1979年(昭和54年)5月9日)は、大正から昭和時代の土木工学者、鉄道官僚。 鳥取県に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道院総裁官房研究所に入る。同研究所および鉄道省教習所の講師を務めたのち、1926年(大正15年)同省神戸改良事務所に転じ、1928年(昭和3年)から2年間、在外研究員として欧米へ留学した。1933年(昭和8年)鉄道大臣官房研究所に戻り、第四科長、1942年(昭和17年)鉄道技術研究所第二部長兼東京帝国大学第二工学部教授、1945年(昭和20年)鉄道技術研究所長を歴任し、同年退官した。
郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月… 郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月23日 - 1987年(昭和62年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、海軍司政長官。旧姓・山本。 石川県金沢市出身。山本久房の二男として生まれ、郡山富次郎の養子となる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し長野県属となる。 以後、長野県警部、同警視、佐賀県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、岡山県書記官・経済部長、福岡県経済部長、岐阜県総務部長、大阪府書記官・学務部長、内務書記官などを歴任。1941年6月から1943年1月まで海軍司政長官・海南島海軍特務部経済局長を務めた。
松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日… 松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日 - 1947年6月12日)は、日本の社会学者。理論社会学を専門とした。 千葉県銚子市出身。裕福な地主の旧家に生まれる。旧制銚子中学校に入学するが、肋膜炎にかかり旧制佐原中学校に転校。第一高等学校、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻卒。建部遯吾に師事。大学院を中退後、大阪毎日新聞の外国通信部記者として、英文和訳や海外事情調査などに従事。1年ほどで退社し、外遊を経て日本大学講師、法政大学教授、東京女子大学講師、東京帝国大学講師を歴任。1938年、東京高等師範学校教授。1942年、日本文学報国会理事。戦災により蔵書1万冊を焼失してからは諦観の人となり、戦後間もなく糖尿病で死去した。
小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 194… 小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 1947年8月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 高知県幡多郡中村(現:四万十市)で生まれる。県立第三中学卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1916年(大正5年)、陸軍砲工学校卒業、翌年、同高等科卒業。その後、陸軍派遣学生として京都帝国大学工科大学機械工学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業する。 1923年(大正12年)、陸軍工兵学校の教官になる。1929年(昭和4年)、英国駐在武官、1932年(昭和7年)、陸軍技術本部付などを歴任。1936年(昭和11年)8月、砲工学校教官に就任し、1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進。
鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日… 鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日 - 1939年1月16日)は、奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)出身で荒磯部屋(当初は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は西本 増太郎。身長178cm、体重105kg。最高位は西小結。得意手は右四つ、吊り、泉川、突っ張り。 1911年(明治44年)2月場所に「大鶴」の四股名で初土俵を踏んだが病に罹り帰郷、間もなくして「若ノ川」の四股名で大坂相撲に出ていた。1912年(明治45年)5月場所で東京相撲に復帰し三段目から再出発、一旦序二段に陥落した場所もあったが、三段目に復帰し、幕下へと番付を上げていき、1918年(大正7年)1月場所で新十両。
山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 19… 山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 1974年2月15日)は、日本の西洋史学者。専門はドイツ中世史。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学西洋史学科卒業。日本大学予科講師、東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校・附属中学校)講師、第一高等学校講師を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部講師、助教授。1938年(昭和13年)同大学教授。退官後、東京大学名誉教授。日本大学文理学部講師。 1950年(昭和25年)6月から7月にかけて、昭和天皇は歴史関係の科学委員による合同進講を催し、山中は委員の1人となった。
小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17… 小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17日 - 没年不明)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、文部省普通学務局長を歴任した。 現在の福島県喜多方市出身。会津中学、四高を経て、東京帝国大学在学中に文官高等試験に合格し、1919年(大正8年)卒業。 官歴前半は警視庁警部、同保安部保安課長、愛知県警察部特高課長などの警察関係。その後福岡県内務部社会課長、高知県学務部長、 岩手県経済部長などを歴任。岩手県在任中には、国民健康保険課長の石原幹市郎を説得し、国民健康保険制度では全国でも他に例を見ない、農林水産省所管の産業組合代行による、国保事業の運営を奨励する。[要出典]1937年 、第32代佐賀県知事に就任。
佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月1… 佐久間 道夫(さくま みちお、1893年(明治26年)7月17日 - 1970年(昭和45年)12月6日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 横浜市に生まれる。1911年(明治44年)神奈川県立横浜第一中学校卒業。 横浜市会議員、同参事会員、横浜地方裁判所調停委員、横浜土地協会理事を歴任した。ほか、実業家として佐久間家代表社員、花咲水産缶詰取締役、瑞興貿易会長を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では神奈川県第1区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は内閣、大東亜省、外務省の各委員を務めた。 戦後、公職追放となった。
木田 金次郎(きだ きんじろう、1893年〈明治26年〉7月… 木田 金次郎(きだ きんじろう、1893年〈明治26年〉7月16日 - 1962年〈昭和37年〉12月15日)は、北海道岩内町出身の画家。 有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルとなった画家で、自由奔放な作風によって同町の自然を数多く描いた。 岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京し開成中学、京北中学に通う。京北中学時代から絵を描き始め、また上野の展覧会に通うようになる。1910年、学校を中退し札幌市郊外で絵を描き続ける日々を送る。札幌で開催されていた黒百合会(東北帝国大学農科大学美術部)の展覧会で有島武郎の絵と出会い感銘を受け、スケッチを携えて訪問。以後有島との交友が生まれるが、その後岩内に帰郷し漁業に従事する。
小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月1… 小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月16日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 新潟県豊栄市(現・新潟市北区)出身。小柳杢次の長男として生れる。新発田中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。「槇」乗組、「第7号駆逐艦」(松風)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。
三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)… 三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)7月12日 - 1990年(平成2年)6月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。中学校教員・三国芳次郎の息子として生まれる。京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第22連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科(22期)を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業した。 1922年(大正11年)8月、野砲兵第22連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、第18師団参謀、陸軍兵器本廠付(陸軍省新聞班)、第6師団司令部付を務め、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進し第3師団司令部付となる。
岡崎 えん(おかざき えん、明治26年(1893年)7月10… 岡崎 えん(おかざき えん、明治26年(1893年)7月10日 - 昭和38年(1963年)11月26日)は、昭和時代の俳人で、銀座の酒場「おかざき」の元女将。大木喬任の娘。没後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が書かれ、広く知られるようになった。本名・ゑ以(えい、栄)。別名に艶栄、つやえ、艶(えん)など。 明治26年(1893年)に東京で生まれる。父親は明治政府の元勲・伯爵大木喬任、母親は三十間堀の河岸にあった船宿「寿々本」の芸妓・岡崎かめ。大木は女性関係も盛んだったと言われ、えんが生まれたときもすでに60を過ぎていた。雙葉女学校(現雙葉学園)に通う傍ら、母の船宿を手伝った。大正半ばころより、同人誌『文明』に寄稿を始める。
能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1… 東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1968年6月26日)は、日本の経営者。西日本相互銀行社長を務めた。愛媛県出身。 1920年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業。野村銀行での勤務を経て、1944年12月に西日本無尽(のちの西日本相互銀行)社長に就任。1962年10月から1965年5月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章。 1968年6月26日肺癌のために死去。74歳没。
青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年… 青柳 良太郎(あおやぎ りょうたろう、1893年〈明治26年〉7月7日 - 1991年〈平成3年〉)は、新潟県出身の地方自治功労者。月潟村長(1928年~1932年、1946年~1961年)。 1893年(明治26年)7月7日、新潟県西蒲原郡秋津村月潟(現・新潟市南区月潟)に生まれた。青年期には新発田の歩兵第16連隊に入隊して満州警備に派遣された。 1928年(昭和3年)には35歳で月潟村長に就任し、近藤月平らとともに1933年(昭和8年)の新潟電鉄線(後の新潟交通電車線)開業などに尽力した。新潟電鉄の設立者である奥山亀蔵は角兵衛獅子が消失したのを悲しみ、しきりに青柳に角兵衛獅子の復活を促した。
斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971… 斎藤 潔(さいとう きよし、1893年7月6日 - 1971年2月21日)は、日本の公衆衛生学者、小児科学者。 山梨県出身。1920年東京帝国大学医学部卒業、1927年ハーバード大学公衆衛生学部卒業、1930年医学博士。聖路加国際病院勤務を経て、1937年東京特別地区保健館館長。国立公衆衛生院の創設に参加し、1938年同教授、1956年院長となり、日本の公衆衛生事業を推進した。大気汚染研究協会賞(斎藤潔賞)が設定された。1966年に第18回保健文化賞受賞、勲二等旭日重光章受章。
交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3… 交野 政邁(かたの まさゆき、1893年(明治26年)7月3日 - 1966年(昭和41年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・内藤。青年期には陸上競技やスケートでスポーツ界に足跡を残し、のちにスケート団体の会長を務めている。 旧日向延岡藩主・内藤政挙の息子として生まれる。堂上(公家)華族の交野家の養子に迎えられ、先代・交野時正の隠居に伴い家督を継承し、1918年(大正7年)3月11日、子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。松坂屋取締役、朝日興業取締役、名陶チャイナ・コーポレーション社長、大同メタル工業監査役などを務めた。
吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974… 吉田一枝(よしだ かずえ、男性、1893年7月3日-1974年4月1日)は、日本の法学者。 秋田県出身。札幌第一中学校卒、1918年京都帝国大学法学部卒、大阪鉄工所(日立造船〈現:カナデビア〉の前身)に入り1920年より社命で米国に学ぶ。22年帰国、康徳学園で教え、1928年関西大学法学部教授、1949年大阪商業大学・大阪学芸大学教授(兼任)、1957年退職し弁護士を開業、京都産業大学・梅花女子大学教授を兼ねる。
高松 榮子(たかまつ えいこ、1893年7月2日 - 195… 高松 榮子(たかまつ えいこ、1893年7月2日 - 1957年10月4日)は、日本の女優である。新字体表記高松 栄子、本名は須田 シヅ(すだ しづ)。サイレント映画の時代は『愛の乱舞』で新井淳、『東海道膝栗毛』で粂譲を相手に主演し、戦後も『カルメン故郷に帰る』等多くの話題作に出演した、戦前戦後を通じての松竹のバイプレイヤーである。 1893年(明治26年)7月2日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)や『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)、あるいは『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)には「須田 シヅ」とあるが、『著作権台帳 昭和26年度版』(日本著作権協議会)および『婦人年鑑 12』(学風書院)には「加藤 しづ」あるいは「加藤 シヅ」(かとう しづ)と記されている。