原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6… 原田 敬治(はらだ けいじ、1891年(明治24年)10月6日 - 1962年(昭和37年))は、昭和時代前期の政治家。神奈川県平塚市長。神奈川県多額納税者。 原田勝右衛門の長男として平塚に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、家業を継ぐ。1938年(昭和13年)10月21日、平塚市長に就任した。ほか、相模瓦斯常務取締役、平塚江陽銀行取締役、大政翼賛会県支部協力会議員、同市支部長などを歴任した。戦後、公職追放となった。
大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1… 大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本の法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 19… 中野 義照(なかの ぎしょう、1891年10月5日 - 1977年1月31日)は、真言宗の僧、インド哲学研究者。 1891年、愛媛県今治市生まれ。旧姓は白石。11歳で得度する。東京帝国大学文学部印度哲学科で学び、1921年に卒業。高楠順次郎に師事した。卒業後は九州帝国大学講師となり、1929年には高野山大学教授、1933年より中国天津日本図書館長、北京大学文学院教授。 戦後日本へ帰国し、1946年より高野山大学教授に復帰。同文学部長、1951年学長を務めた。1952年「ヤーヂユニヤワルキヤ法典の研究」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1958年、密教文化研究所長となる。1964年には再度学長を務める。
三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1… 三宅 亮一(みやけ りょういち、1891年9月29日 - 1979年7月14日)は、日本の経営者、銀行家。常陽銀行頭取を務めた。東京都出身。 1914年に東京高等商業学校を卒業。 川崎銀行での勤務を経て、後に常盤銀行(のちの常陽銀行)に転じ、1929年に取締役に就任し、1935年に常務、1948年に専務を経て、1948年10月に副頭取に就任し、1958年6月には頭取に昇格。1967年11月には会長に就任。 その他、茨城県商工会議所連合会会長、茨城県商工経済会会長、茨城文化団体連合会会長なども務めた。 1979年7月14日冠硬化症のために死去。87歳没。
松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 196… 松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 1969年7月22日)は、日本の小説家。旧名は松岡 善譲(ぜんじょう)。 新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派松岡山本覚寺の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。 本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。久米正雄、山本有三、菊池寛、佐野文夫ら学友と1914年に第3次『新思潮』、1916年に第4次『新思潮』を創刊した。寺院を継ぐことを拒否し、かねてから筆名として用いた譲を戸籍名とした。
鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月2… 鈴木 宗作(すずき そうさく、1891年(明治24年)9月27日 - 1945年(昭和20年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。愛知県出身。陸士24期、陸大31期。 太平洋戦争開戦時、第25軍参謀長としてマレー作戦・シンガポールの戦いに参画、占領後に起きたシンガポール華僑粛清事件に関与した。第35軍司令官であった1945年(昭和20年)4月19日、フィリピン戦線で戦死。没後陸軍大将に進級。1946年(昭和21年)2月15日、祭資並びに幣帛が下賜された。
吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月2… 吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月26日 - 1985年(昭和60年)11月15日)は日本の弓道家。正法流を創始した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県高梁市の旧備中松山藩士の家に生まれる。先祖代々備中松山藩主板倉家に仕えたが、早くに両親に死別し、祖父文治郎に育てられる。藩士であった祖父に幼少から剣術を習い、旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1909年(明治42年)に早稲田大学予科へ進学する。早稲田大学では、初め剣道部に所属した。その後、早稲田大学商科へ進み、翌年の7月に弓術に出会った。 同年、大学2年で中退し、京都帝国大学政治学科の聴講生となる。
津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日… 津田 健治(つだ けんじ、1891年(明治24年)9月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 山口県吉敷郡宮野村(現山口市)に生まれる。1909年(明治42年)3月、山口県立農業学校農科を卒業し、1910年(明治43年)3月、山口県農事試験場研究科を修了する。同年4月、宮野村農会技手兼書記を拝命し、11月、現役志願兵として入隊する。1915年(大正4年)2月、台湾総督府巡査となり、1918年(大正7年)府施行の普通文官試験に合格。嘉義庁警務課勤務、嘉義庁庶務課勤務、台南州斗六郡勤務、新化郡、曽文郡、嘉義郡各庶務課長、台南州地方課地方係長、同州文書課長を経て、1940年(昭和15年)3月、台南市助役に就任し、1941年(昭和16年)6月、台北州文山郡守に就任した。
竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1… 竹友 藻風(たけとも そうふう、1891年9月24日 - 1954年10月7日)は、日本の英文学者、詩人、翻訳家。 『ルバイヤット』『神曲』などの翻訳がある。 (出典)大阪市生まれ。本名・乕雄(とらお)。父・安治郎は実業家で、のち東海生命保険専務取締役。 関西学院中学校、同志社中学校を経て1910年3月桃山学院中学校卒業。同年同志社神学校進学。1911年京都帝国大学英文科選科に移り、上田敏、新村出(言語学)、藤井乙男(国文学)、吉沢義徳(国語学史)、鈴木虎雄(中国文学)、藤代禎輔(独文学)らに学び、1914年卒業。京都大学在学中の1913年、処女詩集『祈祷』を上梓。 1915年夏、渡米。同年10月イェール大学神学部に入学するが翌1916年に退学し、ニューヨークに出てブルックリン博物館で東洋美術の管理助手として勤務。
須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - … 須藤 栄之助(すどう えいのすけ、1891年9月24日 - 1969年1月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 198… 玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 1989年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。新潟県糸魚川市出身。法学者の玉田弘毅は息子。 歩兵大隊長のときに短期の戦車補備教育をうけ、戦車第4大隊付として一年余勤務して歩兵にもどり、また昭和11年、陸軍戦車学校で師団軽装甲車要員の教官となって、以後戦車拡張期における部隊長たるべき人の標準的コースを歩んだ。 ノモンハン事件において独立混成第1旅団麾下の戦車第4連隊連隊長として戦史上初の装甲部隊による大規模な戦車夜襲を決行した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 … 宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1891年(明治24年)9月、高知県幡多郡中村町(中村市を経て現四万十市)に生まれた。県立第三中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。 1920年(大正9年)から1922年(大正11年)の間、シベリア出兵に従軍。1932年(昭和7年)、満州事変に出兵。1937年(昭和12年)には日中戦争(支那事変)に従軍し中南支各地を転戦。功により1940年(昭和15年)、旭三、功四級金鵄勲章を受ける。同年、山砲兵第55連隊長になる。
杉本 伝(すぎもと つたえまたは つとう、正字体:杉本 傳、… 杉本 伝(すぎもと つたえまたは つとう、正字体:杉本 傳、1890年10月22日 - 1979年4月7日)は、日本の競泳指導者。 大阪市大阪市に生まれる。 大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)を経て日本体育会体操学校(現・日本体育大学)に進み、1911年に卒業する。卒業後は体育教員嘱託として母校の茨木中学校に着任した。 同校では、大正天皇の即位大典を記念して水泳場が建設され、1916年3月15日に竣工する。水泳場完成後、杉本は競泳の研究に取り組み、1919年に「水泳5ヵ年計画」を立案して「競泳研究特別班」を校内に編成する。茨木中学は、同年8月に静岡県田方郡戸田村(現・沼津市)で開かれた東京帝国大学主催の第3回全国競泳大会に初参加する(戸田には東京帝大の水泳場があった)。
北小路 三郎(きたこうじ さぶろう、1890年(明治23年)… 北小路 三郎(きたこうじ さぶろう、1890年(明治23年)10月22日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・北小路俊親の三男として生まれ、兄・北小路明の死去に伴い、1910年(明治43年)11月、家督を継承し、同年12月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学文学部史学科(西洋史学)を卒業し、さらに同大学院を修了した。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、侍従兼式部官、図書寮編修官兼御歌所主事、御歌所参候、大礼使典儀官、歌会始奉行などを務めた。 1940年(昭和15年)9月21日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
金 若水(キム・ヤクス、김약수、1890年10月21日 - … 金 若水(キム・ヤクス、김약수、1890年10月21日 - 1964年1月10日)は、朝鮮の労働運動家、社会主義者、独立運動家、革命家。初代韓国国会議員。本名は金枓全(キム・ドゥジョン、김두전)または金枓熙(キム・ドゥヒ、김두희)。 独立運動家、ハングル学者の金枓奉は再従兄。 慶尚道機張郡(東莱郡を経て現・釜山広域市機張郡)出身。東莱郡機張私立保明学校、徽文義塾、京城工業学校、日本大学社会科卒業。 1918年に金元鳳、李如星らと共に中華民国の金陵大学(現・南京大学)に留学したが、翌年3・1運動が発生すると李如星と共に朝鮮に戻り、1920年に朴重華・朴珥圭などと共に朝鮮労働共済会を設立し幹部として活動したが、すぐに逮捕された。
九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1… 九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、日本の社会運動家、社会主義者。日本最初の社会主義女性団体「赤瀾会」の創設者の一人。女性として初めて治安維持法により服役し、ゾルゲ事件にも連座して再度入獄した。 岡山市弓之町に生まれる。九津見家は備前勝山藩・三浦家の血筋につながる藩家老の家柄で、父・又雄は婿養子(旧姓: 内藤)。房子3歳の時に父が離縁されて、祖母のはる・母のうたとの3人の生活になる。生計は岡山医学専門学校産婆看護婦養成所を出ていたうたが産婆として稼ぎ、仏教徒で二刀流剣術や柔術など武芸に長じた武士階級出身だったはるとともに房子を育てた。やがてカトリック教会の付属幼稚園に入るが、房子が赤痢で重篤になった際に「天国に行けるよう」受洗を薦めるフランス人修道女(房子は「ははさま」と慕っていた)を、はるが「自分は極楽に行くつもりだからそうはさせぬ」と拒絶して、幼稚園も移ることになった。
原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)1… 原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)10月16日 - 1973年(昭和48年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。原田宇之助の長男として生れる。膳所中学校卒業後、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1919年(大正8年)11月から翌年10月まで、シベリア出兵に出征。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員を経て、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第61連隊付となる。
中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1… 中根 正親(なかね まさちか、1890年10月16日 - 1984年8月16日)は、中根式速記法の創案者。京都両洋高等学校の創立者。
木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10… 木佐 徳之助(きさ とくのすけ、1890年〈明治23年〉10月16日 - 1969年〈昭和44年〉6月7日)は日本の実業家、政治家。島根県平田市名誉市民。木佐家第9代当主。号は旅峰。島根県多額納税者。農業。位階は正六位。 徳三郎の男。慶大に学ぶ。農業を営む。 雲洋石油株式会社を創設し、1928年(昭和3年)社長となり、1945年(昭和20年)帰郷。 1948年(昭和23年)に平田町長に就任した。1954年(昭和29年)、町長を辞任した。1955年(昭和30年)2月5日から1967年(昭和42年)5月16日まで、平田市長を務めた。 宗教は大社教。住所は島根県平田市平田町。美術茶道など多方面で造詣深い風流人として知られた。
星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月… 星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月14日 - 1965年(昭和40年)1月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10… 原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。特殊潜航艇の育ての親。 1890年(明治23年)10月12日、福島県耶麻郡長瀬村に生まれた。会津中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)9月12日、海軍兵学校41期に入学。同期生に草刈英治(会津中学の同級生)、大田実、保科善四郎らがいる。1913年(大正2年)12月19日、118名中47番の席次で卒業。少尉候補生として練習航海に従事。1914年(大正3年)8月11日、巡洋戦艦「比叡」に乗組。
村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1… 村瀬 直養(むらせ なおかい、1890年10月12日 - 1968年8月8日)は、日本の商工官僚、政治家、実業家。商工次官、貴族院議員、法制局長官、綜合計画局長官。 栃木県宇都宮市出身。本籍・愛知県。村瀬七三郎の長男として生まれる。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、兵庫県立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)、第五高等学校を経て、1914年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。1913年11月、文官高等試験に合格し、1914年7月、農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。 鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長などを歴任し、その間1925年に農商務省が農林省と商工省に分割され、商工省に属した。
武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月… 武井 守成(たけい もりしげ、1890年(明治23年)10月11日 - 1949年(昭和24年)12月14日)は、日本の作曲家、指揮者。男爵。宮内官僚。
磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治2… 磯崎 貞序(磯﨑貞序、いそざき ていじょ、1890年(明治23年)10月11日 - 1984年(昭和59年)9月10日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、茅ヶ崎市名誉市民。 神奈川県高座郡鶴嶺村中島(茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市中島)で、磯崎半十郎の長男として生まれる。神奈川県中郡立農業学校を経て、1912年(明治45年)東京農業大学を卒業した。 神奈川県農会に勤め、江陽銀行取締役、寒川農園取締役などに在任。1921年(大正10年)高座郡会議員(1期)となり、1927年(昭和2年)茅ヶ崎町会議員に当選して2期在任。1928年(昭和3年)4月、町会議員の互選で町長に当選したが辞退した。
葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月… 葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月10日 - 1944年(昭和19年)7月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級。 高知県長岡郡岡豊村笠ノ川(現・南国市岡豊町笠ノ川)出身。農業・葛目倉次・ふさの二男として生まれる。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる。 1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に昇進し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。東京警備副官を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる。
服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10… 服部 有恒(はっとり ありつね、1890年(明治23年)10月9日 - 1957年(昭和32年)11月24日)は、大正・昭和期の日本画家。愛知県名古屋市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授。主に歴史人物画を得意とした。日展審査員。本名は謙一。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉1… 東條 かつ子(とうじょう かつこ、1890年〈明治23年〉10月8日 - 1982年〈昭和57年〉5月29日)は、第40代内閣総理大臣・東條英機の妻。夫の英機との間に7人の子供を儲けた。 生涯に渡って本人が用いた署名は「かつ子」。戸籍名はカツ。通称は勝子。 国防婦人会副会長を務めた。 かつ子は福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)の出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘として生まれる。幼少時から向学心が強かった。小倉高等女学校(現:福岡県立小倉西高等学校)在学中は、小倉の萬徳寺(英機の母・千歳の実家。伊藤家の遠縁でもあった。)に下宿していた。小倉高女を卒業すると、明治時代の女性にとっての最高レベルの教育を受けるべく、1906年(明治39年)に、日本女子大学校(現:日本女子大学)国文科に入学のため上京。
多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日… 多田 武雄(ただ たけお、1890年(明治23年)10月7日 - 1953年(昭和28年)3月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年10月7日、岩手県で盛岡中学校長・多田綱宏の二男として生まれる。盛岡中学から東京府立第一中学へ転校。府立一中を卒業後、海軍兵学校へ入校し、1912年(明治45年)7月、同校卒業(第40期)。海兵同期に、大西瀧治郎、宇垣纏、山口多聞、福留繁、岡新、千田貞敏、吉良俊一など。1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。 1918年(大正7年)12月、呉防備隊分隊長に就任するが、1919年(大正8年)4月、病気のため待命となる。1920年(大正9年)6月、軍令部出仕(第3班第5課)として復帰。
栗橋 保正(くりはし やすまさ、1890年(明治23年)10… 栗橋 保正(くりはし やすまさ、1890年(明治23年)10月7日 - 1967年(昭和42年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 茨城県出身。栗橋保孝の二男として生まれる。1911年(明治44年)5月、陸軍経理学校(5期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第50連隊付となる。1913年(大正2年)12月、陸軍被服本廠員に就任し、1915年(大正4年)6月、二等主計に昇進。1916年(大正5年)6月、経理学校学生となり、1917年(大正6年)5月から1918年(大正7年)5月まで、同校の員外学生となる。1920年(大正9年)8月、一等主計に進み、近衛師団経理部員、陸軍省経理局課員を歴任。
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月… 額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家、額田やえ子の父。 岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。 明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。 明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。
細川 利寿(利壽、ほそかわ としほぎ / としほき、1890… 細川 利寿(利壽、ほそかわ としほぎ / としほき、1890年(明治23年)10月1日 - 1946年(昭和21年)6月18日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵細川利文(細川利永の婿養子)の長男として生まれる。父の死去に伴い、1944年(昭和19年)5月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)農商務省に入省し山林局属に任官した。 以後、山林事務官、特許局事務官、農商務事務官、農林事務官兼農林大臣秘書官、農林書記官、外務書記官、農林省畜産局長、同蚕糸局長などを歴任し、1928年(昭和3年)に退官した。
中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10… 中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10月1日 - 1971年(昭和46年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党)、司法参与官。弁護士。 佐賀県藤津郡古枝村(現在の鹿島市)出身。日本大学で学んだ後、1914年(大正3年)から翌年にかけて臨時陸軍輜重輸卒として日独戦争に従軍し、金鵄勲章を得た。1916年(大正5年)、三菱鉱業唐津鉱業所に入り、やがて台湾製糖に移った。そのかたわら1919年(大正8年)に明治大学法学部を卒業。1923年(大正12年)に弁理士試験に合格し、さらに翌年には弁護士試験に合格して開業した。その後、東京市会議員、同参事会員に選出された。
東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年… 東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 - 1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名:河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾)。 築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者である。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』などがある。 妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良がいる。 千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目である。
平山 泰(ひらやま やすし、1890年(明治23年)9月29… 平山 泰(ひらやま やすし、1890年(明治23年)9月29日 - 1946年(昭和21年)3月27日)は日本の政治家、官僚。松本市長。 長野県士族平山季雄の五男として生まれる。1916年東京帝国大学法科政治学科を卒業し、高知県官吏となる。その後、鳥取県警視、青森県理事官、愛知県理事官、台湾総督府秘書官兼参事官、復興局書記官、同局東京第三出張所長、復興事務局監理課長、山形県内務部長、台湾総督府高雄州知事、台北州知事。東京市監査局長、財務局長、電気局長を歴任して1939年退官。帰郷して松本市長に就任。在任中に終戦し、米軍約200名の進駐を迎えた。
羅 景錫(ナ・ギョンソク、나경석、 1890年9月27日(旧… 羅 景錫(ナ・ギョンソク、나경석、 1890年9月27日(旧暦8月14日) - 1959年12月31日)は、朝鮮の独立運動家、実業家。 本貫は羅州羅氏。洋画家で作家の羅蕙錫は実妹。 父・羅基貞と母・崔是議の間に京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。 1910年に日本に留学し、1914年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業。同年、大阪に移り、鄭泰信が組織した朝鮮人労働者の相互扶助団体である朝鮮人親睦会を主導するなど、労働運動に従事した。 1918年に朝鮮に戻り、金性洙が経営する中央学校の物理学の教師となった。そしてウィルソンの民族自決主義発表に触発され、三・一独立運動の際には、独立宣言書を満州に届けた。
金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月2… 金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月26日 - 1957年(昭和32年)11月27日)は、日本の大正・昭和期における歯科医・医学博士。東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)教授・東京大学教授・札幌医科大学教授。福井県出身。 1890年(明治23年)、福井県大野郡大野町(現大野市)に伊藤作四郎の四男として生まれ、1909年(明治42年)医師金森辰二郎の養子となった。1902年(明治45年)7月第四高等学校を卒業し、1916年(大正5年)12月東京帝国大学医科大学を卒業した。 養父辰二郎が東京帝国大学医科大学歯科学教室教授である石原久と大学同窓であったため石原に親しみ、虎男は歯科を志望し1916年(大正5年)12月大学卒業後同教室に入局した。
金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 194… 金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 1943年4月11日)は、朝鮮の独立運動家で、後に親日派へ転向した人物として知られている。号は松山(ソンサン、송산)。 済州島の名家に生まれる。日本へ留学して早稲田大学を卒業し、留学中にアジア地域の被圧迫国家の青年達によって構成された秘密結社である新亜同盟団で活動した。新亜同盟団は以後社会革命党に改編され、帰国した金明植は社会革命党と上海派高麗共産党(朝鮮語版)において活動し、労働運動団体である朝鮮労働共済会の創立に参加した。 上海派は民族主義勢力との広範囲な連帯をはかる統一戦線路線を歩んだが、1922年に金允植が死去した際、金允植の社会葬を推進した張徳秀の右派とこれに反対した金明植や兪鎮煕の左派が対立し、分離することとなった。
柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9… 柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、元住友金属工業社長。 1890年宮城県大崎市の小松家に生まれ、のちに東京都の柳沢家の養子となる。宮城県古川高等学校、東北大学卒業。 1916年 住友製鋼所入社。1921年住友金属工業設立により住友金属工業に移籍。 1945年11月30日に専務取締役に就任し、1946年1月21日に取締役社長に就任、公職追放により1947年4月21日に取締役社長を辞任した。 1967年勲三等瑞宝章を受章。1978年に死去した。
早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月2… 早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。弁護士。税理士。 長崎県上県郡佐須奈村(現在の対馬市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業。大邱地方法院司法官補、同判事、平壌地方法院検事、平壌地方法院新義州支庁検事、京城地方法院水原支庁検事、同春川支庁検事、清津地方法院検事、大邱覆審法院検事、全州地方法院検事、京城地方法院検事、公州地方法院検事正、大田地方法院検事正、釜山地方法院検事正、大邱地方法院検事正を歴任。1943年(昭和18年)、朝鮮総督府法務局長に就任した。 戦後は弁護士および税理士を開業し、静岡地方裁判所、同家庭裁判所各判事、裁判所調停委員、保護司、静岡県保護司連盟会長を歴任した。
河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9… 河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。 1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡東野尻村大字苗加(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。 その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。
松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23… 角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 1890年(明治23年)9月23日、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月、旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中45番の成績で卒業。
河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - … 新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 古流柔術を経て講道館に学び鹿児島県や島根県を中心に後進の柔道指導を行ったほか、自身も戦前の全日本選士権等で活躍。アムステルダム五輪にはレスリングの日本代表として出場した。 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して1907年5月付で講道館に入門。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し、1910年4月に2段位を取得した。
関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - … 関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - 1959年6月28日)は、大正・昭和期の日本の建築家。 初期においてはユーゲント・シュティール風の作品、後には京王閣、聖蹟記念館などドイツ表現主義の要素も取り入れたモダンな作品を設計している。不動貯金銀行との縁が深く、全国の支店を建設した(今も数件が残る)。函館支店(1918年)の建設を機にして函館とのゆかりが出来、2度の函館大火(1921年、1934年)では被害調査にあたり、復興建築も手掛けた。第2次世界大戦後は主に埼玉県内の学校建築を設計した。 埼玉県秩父市に生まれ、秩父の街道沿いで旅籠を営む母の実家で育つ。1904年、秩父大宮尋常高等小学校を卒業し、秩父郡立農学校(現埼玉県立秩父農工高等学校)に入学。
森 達三(もり たつぞう、1889年(明治22年)10月22… 森 達三(もり たつぞう、1889年(明治22年)10月22日 – 1966年(昭和41年)11月20日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 愛媛県新居郡氷見村(現在の西条市)出身。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙で再選を果たした。 その他、中外壁紙株式会社取締役、東京調味株式会社社長を務めた。
根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19… 根岸 博(ねぎし ひろし、1889年(明治22年)10月19日 - 1980年(昭和55年)3月24日)は、日本の泌尿器科学者である。 東京府(現在の東京都)に医師だった根岸三郎の長男として生まれる。その後埼玉県北埼玉郡埼玉村(現在行田市)に住し、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に入学する。卒業後も大学に残り、同大学内の伝染病研究所の所員として活動した。その後は同大学教授であった土肥慶蔵の元、同大学の助教授となる。その後は大学を離れ、1931年(昭和6年)からは岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は岡山大学病院の院長を3期務め、以後6年間評議員と兼任して活動する。
麻生 正蔵(あそう しょうぞう、1889年10月19日 - … 麻生 正蔵(あそう しょうぞう、1889年10月19日 - 1979年4月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 富山県射水郡浅井村(現・射水市)出身。1911年東京帝国大学農科大学実科卒。浅井村長、同村議、富山県町村会副会長、射水郡農会長、富山県農会評議員、帝国農会議員、内閣調査局専門委員、富山県農業会長、越中織布工業(有)取締役となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で富山県から諸派(農本党)で立候補して当選する。当選後は協同民主倶楽部に入り、協同民主党、国民協同党となる。この間、協同民主党、国民協同党各代議士会副会長となり、衆議院議員は1期務め、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。