太宰 義人(だざい よしひと、1945年6月29日 - 20… 太宰 義人(だざい よしひと、1945年6月29日 - 2007年3月19日)は、宮城県出身の元騎手・元調教師。 騎手の太宰啓介は次男。 麻布獣医大学卒業後の1972年、栗東・中村好夫厩舎からデビュー。中央競馬史上数人の大卒騎手の一人であり、太宰は史上初で話題となる。他に大卒で騎手経験を持つ者には、大久保正陽(立命館大学卒)、山内研二(大阪工業大学卒)、橋口弘次郎(九州産業大学卒)、川合達彦(立命館大卒)がいる。 3月4日の阪神第10競走5歳以上300万下・トクミドリ(9頭中7着)で初騎乗を果たし、6月10日の函館第1競走3歳新馬・タカヨシタイホウで初勝利を挙げる。同馬では2連勝で函館3歳ステークスも制し、デビュー4ヶ月での重賞制覇を達成。
笹倉 武久(ささくら たけひさ、1945年3月28日 - 2… 笹倉 武久(ささくら たけひさ、1945年3月28日 - 2021年9月22日)は、千葉県船橋市出身(東京都府中市生まれ)の元騎手・元調教助手・元調教師。 父は厩舎の厩務員で、小学校時代からの1つ後輩に西塚十勝の実子である安夫がいた。中学校も一緒で同じ柔道部であり、笹倉は最初は騎手になる気などなかった。大きくなりたい一心で柔道を始めたが、結局柔道をやっても背が伸びなかったため、騎手を志す。それまでは乗馬苑の馬を引っ張り出して隠れて乗ったりはしていたが、あくまでも自己流であったため、教わりながら馬に乗ったことはなかった。そこから「お金を稼げる」という意識もあり、馬事公苑騎手養成長期課程に入った。同期には高橋隆、清水出美、簗田善則、久保敏文、領家政蔵、鹿戸明、久保田秀次郎、大崎昭一、安田伊佐夫などがいた。
安田 伊佐夫(やすだ いさお、1944年11月22日 - 2… 安田 伊佐夫(やすだ いさお、1944年11月22日 - 2009年3月20日)は、宮崎県延岡市出身の元騎手・元調教師。 息子である安田康彦も元騎手で現在は競馬評論家。 馬事公苑時代の同期には清水出美・久保敏文・鹿戸明・久保田秀次郎・大崎昭一・笹倉武久などがおり、大崎とは同郷の延岡出身で上京する際の列車も同じであった。 1961年に京都・武田文吾厩舎の見習騎手となり、1963年3月にデビュー。初騎乗は同23日の阪神第1競走アラブ4歳以上20万下・ハイ・ヒライワ(9頭中5着)で、初勝利はデビューから6ヶ月が経った9月28日の京都第7競走4歳以上70万下・オンワードスピードであった。1年目はこの1勝に終わるが、2年目の1964年は8勝、3年目の1965年は初の2桁勝利となる16勝をマーク。
大久保 洋吉(おおくぼ ようきち、1944年10月15日 -… 大久保 洋吉(おおくぼ ようきち、1944年10月15日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・美浦トレーニングセンターに所属していた元調教師。大久保末吉の長男として生まれ、早稲田大学理工学部卒業後、建築士を経て競馬界に入る。1976年に調教師免許を取得し、1990年代後半にGI競走5勝を挙げたメジロドーベルなど数々の活躍馬を管理した。2015年、定年により引退。東京都府中市出身。
畠山 重則(はたけやま しげのり、1944年8月2日 - )… 畠山 重則(はたけやま しげのり、1944年8月2日 - )は、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身の元騎手・元調教師。実家は有限会社畠山牧場で、長兄・重博は同牧場社長。 1964年に東京・田中和夫厩舎に騎手見習いとして入門し、1965年に騎手免許を取得。開業したばかりの田中にとって、笹倉武久と並ぶ第一号の弟子であった。年齢は畠山の方が上であったが、一度高校に入学してから入ったため、競馬界に入ったのは笹倉の方が早かった。畠山も入門当時は体が大きく、朝食の時に田中に「朝はパンで結構です」と言ってしまった。体重を気にしてのことであったが、それに合わせなければならない笹倉は「ただでさえ、腹が減っているのに、余計なことを言ってくれたんだ(笑)。
梅内 忍(うめうち しのぶ、1944年4月1日 - 2019… 梅内 忍(うめうち しのぶ、1944年4月1日 - 2019年9月10日)は日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属していた元調教師。鹿児島県鹿屋市出身。 旧姓は榎屋。1959年に鹿児島より上京して馬事公苑で長期騎手課程講習を受講。同期には中島啓之のほか、同級生で同じ列車で上京し、出身地も同じ鹿屋市であった郷原洋行、梅内と同じ鹿児島県出身であった中神輝一郎らがいる。 1962年3月、京都競馬場所属の松元正雄厩舎所属でデビューしたが、初年度には1勝も出来ず、初勝利は翌年まで持ち越された。その後、坪重兵衛厩舎に移動ののち、1966年には、坪厩舎の先輩騎手で、新たに開業する伊藤雄二厩舎所属となる。
郷原 洋行(ごうはら ひろゆき、1944年1月21日 - 2… 郷原 洋行(ごうはら ひろゆき、1944年1月21日 - 2020年1月31日)は、鹿児島県鹿屋市出身の元騎手・元調教師。 元騎手の郷原洋司は次男。吉野勇は岳父。 実家は農家。五人兄弟の次男として生まれ、父親に育てられた。幼少期より農耕馬などに乗り馬に親しみ、周囲には普通に馬車が走っていた。馬車のタイヤはまだゴムも巻かれていない時代で、パワーのある馬が引っ張っていた。弁当は日の丸弁当が当たり前で、パンや牛乳を持ってくる子がいれば羨ましがられた。中学時代はマラソンを好きになったこともあったが、日本中央競馬会の騎手講習生募集の広告を見て、東京へ出たい一心で騎手を志す。中学卒業後の1959年に馬事公苑騎手養成長期課程へ入所し、修了後の1961年より騎手候補生として中山・大久保房松厩舎に入門。
領家 政蔵(りょうけ まさぞう、1943年12月29日 - … 領家 政蔵(りょうけ まさぞう、1943年12月29日 - )は、鹿児島県曽於郡大崎町出身の元調教師・元騎手。 次女はタレント・評論家の領家華子。 農家の次男として生まれ、少年時代から農耕馬に親しんだ。 当初は将来に獣医師を志していたが、阪神・田中良平厩舎を退職し帰郷した元厩務員と知り合ったことで目標を騎手に改め、中学卒業後に良平の父である阪神・田中好雄厩舎に騎手見習として入門。領家は騎手としては大柄で、周囲からは「帰った方がいい」、「厩務員になれ」などと勧められたという。 見習時代は靴磨き、洗濯は当たり前であり、道具は先輩からのお下がりで、乗馬ズボンの穴の開いた場所からいつも血が滲ませた。 1963年に免許を取得してデビューし、3月16日の阪神第4競走アラブ5歳以上オープン・タマカセン(11頭中10着)で初騎乗を果たす。
野村 彰彦(のむら あきひこ 1943年9月13日 - 20… 野村 彰彦(のむら あきひこ 1943年9月13日 - 2021年9月13日)は、愛知県一宮市出身の元騎手・元調教師。 父は馬車による運送業を営み、競馬関連の資材も取り扱っており、野村も幼い頃から馬に親しみ将来の目標に騎手を志していた。当初は公営・笠松で騎手になることを考え、研修にも入っていたが、「カツラ」の冠名で知られた馬主の牧市太郎に中央で騎手になることを勧められ、1960年に紹介を受けた京都・橋本正晴厩舎に騎手見習として入門 。 1962年に橋本厩舎からデビューし、3月17日の阪神第9競走5歳以上50万下・カツラオーザ(5頭中4着)で初騎乗を果たし、同24日の阪神第2競走4歳以上オープンで見習時代に厩務員も兼ねていたアングロアラブのカツラバラッケーに騎乗して初勝利を挙げる。
松山 康久(まつやま やすひさ、1943年9月4日 - )は… 松山 康久(まつやま やすひさ、1943年9月4日 - )は日本中央競馬会 (JRA) ・美浦トレーニングセンターに所属した調教師である。
武 宏平(たけ こうへい、1943年4月13日 - )は、日… 武 宏平(たけ こうへい、1943年4月13日 - )は、日本中央競馬会の栗東トレーニングセンターに所属していた元調教師である。京都府出身。同志社香里中学校・高等学校、麻布大学卒業。 父は騎手・調教師であった武平三。元騎手の武永祥、武牧場の武勇はそれぞれ実弟、元騎手の武英智は甥、元調教師の作田誠二は義弟である。 京都競馬場所属調教師・武平三の長男として生まれる。4歳上の従兄に、平三に弟子入りしていた武邦彦がおり、生活を共にしていた。「競馬の世界は苦労する」という母の助言もあって幼少期から獣医師を志し、高校卒業後、麻布大学獣医学部に進学。同級生に松山康久がおり、共に馬術部に所属した。在学中、シンザンが史上2頭目のクラシック三冠を達成して世間の競馬に対する注目度が高まり、修士卒業後の1968年、平三の元に戻り、厩務員、次いで調教助手となった。
大和田 稔(おおわだ みのる、1942年3月30日 - )は… 大和田 稔(おおわだ みのる、1942年3月30日 - )は、福島県田村郡滝根町(現・田村市)出身(神奈川県生まれ)の元調教師・元騎手。 息子はJRA調教師の大和田成。 1958年に中山・二本柳俊夫厩舎の騎手候補生となり、1959年に騎手免許を取得し、同厩舎より騎手デビューする。1年目の同年は9月13日の東京第7競走4歳以上・ハルワード(11頭中4着)で初騎乗を果たし、11月1日の東京第4競走障害4歳以上・クイントツプで初勝利を挙げる。同年は4勝をマークするが、全て障害戦のクイントツプで挙げたものであった。 2年目の1960年には10月1日の中山第7競走4歳以上60万下・フエニツクスで平地初勝利を挙げ、3年目の1961年には初の2桁となる18勝をマーク。
吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2… 吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は、鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市)出身の元騎手・元調教助手・元調教師。 騎手時代は「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込みや逃げなど極端な作戦を取る個性派の騎手として知られ、中央競馬史上3頭目の三冠馬・ミスターシービーや、1982年の春の天皇賞馬・モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。 死別した最初の妻との間には一男二女を授け、長男の吉永護は元騎手・現調教助手。作家の吉永みち子は2番目の妻で、一男を授けた。 実弟の吉永良人は馬事公苑花の15期生の一人で元騎手、調教助手。 馬生産を営む吉永牧場の次男として生まれる。同場は吉永の曾祖父で、薩摩藩の馬術指南役を務めていた吉永新九郎が1890年代後半に興した一帯で最古の馬生産牧場である。
高橋 隆(たかはし たかし、1941年4月5日 - )は、秋… 高橋 隆(たかはし たかし、1941年4月5日 - )は、秋田県大仙市出身の元騎手・元調教師。 義父に元調教師の大久保石松、義弟に元調教師の沖芳夫。 長男の高橋亮も元騎手で現調教師。 稲作と養鶏を営む兼業農家を生業とする家に6人兄姉の次男として出生したが、長女・四女がそれぞれ婿養子を貰い家業を相続。その背景から長男である謙治は家業を継がず、中学卒業後に家を離れ大阪・春木で騎手となる。 運動を得意としていた隆はバスケットボール・野球などでその機敏さを発揮し、謙治の影響を受けて騎手を志すようになっていたが、運動神経の良さを見込まれ角館高校バスケット部より誘われた経緯から同校を受験し合格。「もし背が伸びてしまい騎手を断念するようなことがあればバスケットのコーチ・監督をやれたらいい」と当時考えていたが、角館高校への入学を間近に控えた矢先に両親に何も告げず実家を出て京都へと向かう。
池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日… 池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の元調教師、元騎手で現在は競馬評論家、馬主である。 騎手時代には「逃げの池江」の異名を取り、通算3275戦368勝、うち重賞で17勝を挙げた。代表的騎乗馬にはヤマピットがいる。1979年に調教師へ転身、メジロデュレンによる菊花賞を始めとして数々のGI級競走を制し、1994年にJRA顕彰馬に選出されたメジロマックイーン、日本生産馬として初めて国外の国際GI競走を制したステイゴールド、2005年に中央競馬史上6頭目のクラシック三冠を達成したディープインパクト(JRA顕彰馬)など、数々の活躍馬を手掛けた。2011年に調教師引退。
中野 隆良(なかの たかお、1940年11月17日 - )は… 中野 隆良(なかの たかお、1940年11月17日 - )は、千葉県市川市出身(兵庫県武庫郡鳴尾村 (現・西宮市)生まれ)の元調教助手・元調教師。父は元調教師の中野吉太郎。 父・吉太郎は青森県上北郡大深内村(現・十和田市)出身の騎手で、中野は最初の子供であった。後に妹、弟、妹と続き、四人兄弟の長男となる。バリアー式スタートの競馬場で天神乗りによってレースに出ていた吉太郎を、中野は記憶している。とはいえ、それは鳴尾競馬場で見た記憶ではなかった。中野が2歳であった1942年に、吉太郎は家族をあげて市川の中山競馬場のすぐ近くに引っ越した。中野の記憶の中に生まれた鳴尾の出来事は一切残らず、市川市立中山小学校で5年まで学んだ。
高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )… 高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )は、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身の元騎手・元調教師。 JRA調教師の高橋義忠は実子。 父は枚方市議会議員も務めた人物で、その三男であった。少年時代は父と連れられて京都競馬場へよく足を運び、父が「なんとかホウシュウという馬が強かった」といったことに印象を残したという。 中学時代には考古学者を将来に思い描いていたが、高校進学が決まった後、駅の構内に貼られていた騎手候補生募集のポスターを見て「なんとなく馬にひかれた」ほか、募集条件がことごとく自分に合致していたことから受験に至り、馬事公苑騎手養成長期課程に第7期生として入所。主な同期生には池江泰郎、丸目敏栄、野元昭、徳吉一己、福永甲、吉岡八郎がいる。
丸目 敏栄(まるめ としひで、1940年3月12日 - 19… 丸目 敏栄(まるめ としひで、1940年3月12日 - 1980年8月4日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。鹿児島県大口市生まれ。 橋本輝雄厩舎に所属し、1959年3月8日に騎手としてのデビューを迎え、3着。3か月後の6月14日に初勝利を挙げた。デビュー初年度からエドヒメで目黒記念に優勝して重賞勝利を挙げると、2年目には36勝を挙げて全国リーディングで10位に付けるなど、早くから関東若手有力騎手の一人として高く評価されていた。1964年には内臓疾患により長期離脱を余儀なくされたが、復帰後も順調に勝ち星を積み重ねる。1969年には「上がり馬」として知られるアカネテンリュウに騎乗して菊花賞に優勝し、八大競走を初制覇。
松元 省一(まつもと しょういち、1939年10月3日 - … 松元 省一(まつもと しょういち、1939年10月3日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンターに所属していた元調教師。京都府出身。同志社香里中学校・高等学校、同志社大学卒業。父は松元正雄元調教師で、弟に松元茂樹元調教師(ビリーヴ、ギルデッドエージなどを管理)が、甥に茂樹の実子で元競艇選手の松元弥佑紀がいる。 同志社大学卒業後、自動車販売の会社に勤めていた。 1965年に父の松元正雄厩舎にて厩務員となり、その年のうちに調教助手となる。1975年に調教師免許を取得し、翌1976年に栗東で厩舎を開業。初出走は同年7月3日中京競馬第2競走のイチモンジで7着。初勝利は同年11月6日京都競馬第3競走のシゲパワーでのべ18頭目であった。
中尾 正(なかお ただし、1938年7月26日 - )は、日… 中尾 正(なかお ただし、1938年7月26日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属した調教師。主な管理馬に、それぞれGI級競走に優勝したイブキマイカグラ、ビッグテースト、ビッグウルフなどがいる。 中尾秀正(調教師)は実子、中尾謙太郎(調教師)、中尾銑治(騎手・調教師)は実兄、宮本悳(騎手・調教師)は義兄である。京都府出身、平安高等学校卒。 1938年、京都競馬場で厩務員を務める中尾嘉蔵の三男として生まれる。 長兄・謙太郎、次兄・銑治がそれぞれ厩務員、騎手見習いとして競馬界に入ったのに対し、正は父より一般企業に入ることを望まれ、私立平安高等学校に進学した。一方で、この頃から謙太郎が所属していた武田文吾厩舎でアルバイトの厩務員として勤務を始めた。
浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は… 浜田 光正(はまだ みつまさ、1938年7月23日 - )は、日本の騎手(国営競馬、日本中央競馬会)、調教助手(日本中央競馬会)、調教師(日本中央競馬会)。 2009年に定年のため引退し、2012年現在は競馬評論家。栗東トレーニングセンター所属であった。 JRAにおける表記では浜田となっているが、濱田が正しい。 東京都荒川区の千住大橋付近で生まれる。競馬との出会いは1951年の東京優駿(日本ダービー)を父の友人である馬主に招待され観戦したことによるという。トキノミノルが優勝したこのレースを見たことをきっかけに騎手を目指すようになり、その馬主の紹介で18歳のときに騎手見習いとなった。 1957年3月1日に騎手免許を取得し、東京競馬場の内藤潔厩舎所属でデビューした。
増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )… 増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手、調教師。騎手として全国リーディングジョッキー2回、八大競走7勝。通算2016勝は当時の中央競馬史上最多勝。44歳で初のリーディングジョッキー獲得、50代で年間100勝達成など中年期以降に顕著な活躍を示し「鉄人」の異名を取った。「ローカル男」とも呼ばれた。愛称は「まっさん」。 妻は師匠・鈴木勝太郎の長女。義弟に鈴木康弘がいる。 北海道亀田郡大野村(後の大野町、現・北斗市)出身。戸籍上の表記は増澤末夫である。 北海道大野村に6人兄妹の末っ子として生まれる。幼少期より農耕・ばんえい競走用のペルシュロンの世話をして過ごした。
伊藤 雄二(いとう ゆうじ、1937年1月14日 - )はJ… 伊藤 雄二(いとう ゆうじ、1937年1月14日 - )はJRAの元調教師、元騎手。大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身。
瀬戸口 勉(せとぐち つとむ、1936年11月3日 - 20… 瀬戸口 勉(せとぐち つとむ、1936年11月3日 - 2017年11月9日)は日本中央競馬会の元騎手、元調教師。名古屋競馬・弥富トレーニングセンターに所属する調教師瀬戸口悟は実弟。中央競馬の調教師の増本豊は妻の弟。 鹿児島県鹿屋市で8人きょうだいの3人目(次男)として生まれる。1955年、鹿児島県立鹿屋農業高等学校畜産科を卒業後、京都の上田武司厩舎に騎手見習いとして入り、1959年、騎手としてデビューする。1963年にはミスマサコで桜花賞を優勝した。1973年に引退、騎手時代の成績は通算2534戦329勝である。 とくに障害競走での成績は優れたものがあり、145戦55勝。勝率.379、連対率.641という数字を残している。
加藤 修甫(かとう しゅうほ、1935年11月9日 - 20… 加藤 修甫(かとう しゅうほ、1935年11月9日 - 2012年4月16日)は、日本中央競馬会(JRA)に所属した調教師。1990年東京優駿(日本ダービー)優勝馬アイネスフウジン、1998年天皇賞(秋)優勝馬オフサイドトラップ等を管理した。1990年度JRA賞最高勝率調教師。千葉県市川市出身。日本大学農獣医学部獣医学科卒業。 1935年、日本競馬会中山競馬場に所属する調教師・加藤朝治郎の長男として生まれる。幼少期から父と同じく調教師を志し、日本大学在学中に調教助手免許を取得。卒業後、学友であった成宮明光と共にアメリカの生産現場を視察した後、父の元で助手となった。 1971年に調教師免許を取得。
成宮 明光(なるみや あきみつ、1935年11月2日 - 2… 成宮 明光(なるみや あきみつ、1935年11月2日 - 2007年11月10日)は、日本中央競馬会・中山競馬場→美浦トレーニングセンター北に所属していた元調教師、有限会社明成牧場の元代表者である。神奈川県出身。 牧場経営を志し、高校卒業後すぐに青森県へ移住。現地の牧場主から獣医師の資格を取得するよう勧められ、日本獣医畜産大学へ入学。獣医師免許を取得した後の1959年、日本中央競馬会の獣医師を兼務する形で中山・杉浦照厩舎所属の厩務員となり、後に調教助手となった。 1964年、調教師免許を取得する。28歳4か月での調教師免許取得は最年少記録であり、獣医師・大学卒業者としても初の調教師となった。1965年、中山競馬場で厩舎を開業。
大久保 正陽(おおくぼ まさあき、1935年8月23日 - … 大久保 正陽(おおくぼ まさあき、1935年8月23日 - 2023年1月21日)は、日本の元騎手(日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。 父の大久保亀治は、尾形藤吉門下の元騎手・元調教師。祖父の大久保福松は函館大経の弟子。弟の大久保光康も元騎手・元調教師(日本中央競馬会)。子の大久保龍志は現在も開業中の調教師(日本中央競馬会)。美浦所属の元調教師大久保洋吉は父方の従弟。孫の大久保友雅は栗東所属の騎手。 兵庫県鳴尾で7人きょうだいの3人目(次男)として生まれる。1952年に騎手見習い、騎手候補生を経て1957年に父・大久保亀治の厩舎所属の騎手となる。なお1954年4月に立命館大学法学部に入学し、夜に通学しながら厩舎での仕事を続ける生活を両立させ、学士号を取得している。
吉永 忍(よしなが しのぶ、1934年10月22日 - 20… 吉永 忍(よしなが しのぶ、1934年10月22日 - 2000年8月16日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。 1953年に国営競馬(翌年より日本中央競馬会)で騎手デビューし、1974年まで騎乗。1978年より調教師として開業し、1989年には管理馬サンドピアリスでエリザベス女王杯を制した。2000年に在職のまま死去。 宮崎県北諸県郡高城町出身。農業を営んだ実家では農耕馬を飼養していたが吉永はこれに触れたことさえなく、中学校卒業後には船員として就職が決まっていた。しかし当時身長132cmと非常に小柄で、従兄に騎手をしていた吉永猛がいたこともあり、競馬会の職員を兄にもつ担任教師から騎手になることを勧められる。
渡辺 栄(わたなべ さかえ、1933年11月16日 - 20… 渡辺 栄(わたなべ さかえ、1933年11月16日 - 2016年もしくは2017年)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手、調教師。調教師時代に2001年度JRA年度代表馬ジャングルポケット、桜花賞優勝馬シャダイソフィア、朝日杯3歳ステークス優勝馬フジキセキなどを管理した。1989年度JRA賞最高勝率調教師、1991年度同最多勝利調教師および優秀技術調教師。新潟県出身。 戸籍上の表記は旧字体が含まれた渡邊 榮だが、JRAでは旧字体等での登録が認められていない為、新字体に修正して登録している。 1933年、新潟県北蒲原郡本田村(現・新発田市)に農家の五男として生まれる。幼少期から農耕馬に親しんで育ち、神事の競馬などにも出場していた。
栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980… 栗田 勝(くりた まさる、1932年3月11日 - 1980年1月16日)は、愛知県岡崎市出身の元騎手・元調教師。息子の栗田伸一は元騎手・調教助手であったが、父同様に若くしてこの世を去っている。 子沢山な地方公務員の11人兄弟の下から二番目として誕生し、公務員である父の担当が地元にあった岡崎競馬場の管理であった事や、幼くして母と死別してから母代わりとなった姉が調教師の妻だった事から、幼少期から競馬と接した栗田は騎手を目指す事となった。1946年に京都・武田文吾調教師に弟子入りし、一旦松田由太郎厩舎に移籍したが、再び武田厩舎に戻って1951年にデビュー。初騎乗は6月16日のミスヨシ(7着)で、初勝利はデビュー3ヶ月後の9月15日・ノーベルと手間取った。
田所 稔(たどころ みのる、1932年1月28日 - 199… 田所 稔(たどころ みのる、1932年1月28日 - 1991年5月27日)は、日本中央競馬会(JRA)に所属した騎手、調教師。騎手時代の1966年にニホンピローエースで皐月賞に優勝した。 いずれも騎手・調教師の田所秀雄は実兄、田所秀孝は甥、師匠でもある小川佐助は叔父、田所清広(旧姓・佐野)は娘婿である。 1932年、北海道浦河町の農家に生まれる。実家は兄弟が多く貧しかったことから、幼少の頃に伯母の家に身を寄せた。1950年、すでに騎手となっていた兄・秀雄を頼り、その師匠で叔父の小川佐助厩舎(京都競馬場)に入門した。1953年に騎手免許を取得。初騎乗は4月26日の第1回阪神競馬8日目第2競走で、マサミドリに騎乗したが最下位に敗れた。
内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2… 内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2013年8月12日)は、愛知県碧海郡高浜町(現・高浜市)出身の元騎手・元調教師・元馬主。管理馬通算出走11201回という中央競馬の史上最多記録を打ち立て、調教師として定年引退間際の2000年に騎手復帰を試みたことで話題を集めた。 実兄・博司は東海地方で飲食店をチェーン展開する株式会社だるまの創業者、同社会長で馬主の内藤耕造は甥である[要出典]。 実家は名古屋コーチンを生産する養鶏場を営んでおり、太平洋戦争を経て、戦後は定時制高校に通いながら鉄工所や瓦の製造会社に就職したが、工場内で排出される煤煙で肺を病み休職を余儀なくされて高校も中退。
二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は… 二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は、宮崎県都城市出身の元調教師(栗東所属)・元騎手。 妻は師匠である布施文蔵元調教師の次女であり、布施正とは義兄弟の間柄に当たる。 1953年に布施文蔵厩舎から騎手としてデビューし、1219戦60勝(中央以降)をマークし、1965年引退。 引退後の1965年に調教師免許を取得して厩舎を開業し、1968年にクモムラサキでアラブ大賞典(秋)を制して重賞初制覇。1978年にアグネスホープが東京優駿(日本ダービー)2着に入り、1980年にはアラナス産駒のノースガストで菊花賞を制し、クラシック初制覇を達成。1981年にはフォルティノ産駒のテキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇し、1988年から1990年にかけてはウエスタンウインド産駒のシンウインドが短距離戦線で活躍。
宮本 悳(みやもと いさお、1930年11月29日 - 19… 宮本 悳(みやもと いさお、1930年11月29日 - 1996年7月28日)は、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。 1951年に国営競馬(後の日本中央競馬会)で騎手デビューし、1963年にリュウフォーレルで天皇賞(秋)と有馬記念、1968年にタニノハローモアで東京優駿(日本ダービー)を制した。1971年より調教師となり、1996年に在職のまま死去。 1930年、千葉県館山町(後の館山市)に生まれる。父親が競馬好きであったことから騎手になることを勧められ、1948年に国営競馬の武輔彦厩舎(阪神競馬場)に騎手見習いとして入門。1951年に騎手となった。長らく騎乗機会に恵まれず不遇を託っていたが、1956年より所属した橋本正晴厩舎(京都競馬場)を懇意にしていた三好諦三に真面目な仕事ぶりを認められ、その所有馬の騎手に抜擢された。
古山 良司(ふるやま りょうじ、1929年6月28日 - 2… 古山 良司(ふるやま りょうじ、1929年6月28日 - 2011年8月22日)は、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。神奈川県横浜市出身。父は騎手の古山喜三郎。 1950年に騎手デビュー。早くより頭角を現し、1950年代から1960年代にかけて第一線の騎手として活動、「戦後派ナンバーワン」との評を取り、コマツヒカリで東京優駿(日本ダービー)に優勝したほか、「走る精密器械」と呼ばれたタカオー、「怪物」タケシバオーといった名馬の主戦騎手を務めた。騎手通算は4409戦619勝、うち八大競走5勝を含む重賞24勝。 1970年より調教師に転身し、美浦トレーニングセンターに所属。2000年の引退までに数々の重賞勝利馬を手掛けた。
石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )… 石栗 龍雄(いしくり たつお、1928年12月15日 - )は、日本の騎手、調教師。 1951年に国営競馬(のち日本中央競馬会)で騎手デビュー。1959年に引退し、1965年より調教師。主な管理馬には1980年天皇賞(秋)に優勝した牝馬プリテイキャストなどがいる。また横山典弘は門下生である。2000年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石栗龍彦は長男。 1928年、北海道札幌市の商家に生まれる。取り立てて競馬に興味をもってはいなかったものの、騎手見習いとなった友人に誘われて競馬場に出入りをはじめ、馬に惹かれていった。太平洋戦争中には援農作業で農耕馬を扱っていた。 1945年に旧制北海中学を卒業し、1947年秋に稗田虎伊のもとへ騎手見習いとして入門。
野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 200… 野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 2001年8月6日)は、日本の騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉 )、調教師(日本中央競馬会)。千葉県船橋市古作出身。騎手としても調教師としても成功し「ミスター競馬」と呼ばれた。父の野平省三は元騎手(日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会)。孫の二本柳壮は騎手(JRA)。2004年、騎手顕彰者に選出。 父の省三が騎手を引退したあと、下総御料牧場で働いていたときに生まれる。幼少のころから馬が身近にいる環境で育ち、小学校時代には馬に鞍をつけて乗るようになっていた。 尋常小学校を卒業後、旧制関東中学校(現・千葉敬愛高等学校)に進学するが、騎手を志して退学。
須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大… 須田 茂(すだ しげる、1928年2月22日 - )は、元大井競馬場所属の元騎手・調教師である。黎明期の南関東公営競馬で6年連続リーディングジョッキーに輝き、川崎の佐々木竹見騎手に抜かれるまで日本における最多通算勝利数記録を保持していた。 群馬県勢多郡新里村(現・桐生市)出身。高等小学校を卒業すると、13歳で埼玉県朝霞町に存在した陸軍予科士官学校に徴用され、馬係を任される。その後は終戦まで同学校で将校用の馬を世話しつつ、合間を縫って騎乗技術の手ほどきを受けたという。 終戦後は北関東の草競馬でセミプロとして農耕馬などに騎乗していたところ、軍時代の先輩から当時高崎に厩舎を構えていた田中利衛調教師を紹介される。
上田 三千夫(うえだ みちお、1926年10月25日-200… 上田 三千夫(うえだ みちお、1926年10月25日-2002年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、競走馬調教師。騎手時代に二冠馬ダイナナホウシユウの主戦騎手を務めたことで知られる。 福岡県小倉市(現・北九州市)出身(出生地は宮崎県)。旧姓は和田。1939年に小倉競馬場所属の調教師、上田武司に弟子入りし、のち養子となる。 1943年に騎手免許を取得し、春季宮崎競馬より騎乗、3日目で初勝利を飾ったが、上田が応召したために渋川久作厩舎に移籍。1944年3月に一旦騎手を廃業した。 戦後、1946年9月に再び騎手免許を取得。高橋直三厩舎の所属となったが、1948年には京都競馬場に厩舎を構えた上田厩舎に復帰し、主戦騎手を務めるようになった。
小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 200… 小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 2009年1月27日)は、日本の騎手、競走馬調教師。兵庫県出身(東京府出生)。 第二次大戦中の1944年に騎手デビュー。戦後、トラックオーで1951年の菊花賞と1952年秋の天皇賞に優勝した。1964年に騎手を引退し、調教師に転身。1970年代より関西の有力調教師として定着し、1996年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬フサイチコンコルドを代表として数々の活躍馬を輩出した。中央競馬通算5525戦899勝、うち重賞51勝。最多勝利調教師4回、最高勝率調教師、最多賞金獲得調教師、優秀技術調教師各1回。 父は騎手・調教師の小林三雄三(みおみ)、実弟・小林功も騎手であった。
吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日… 吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日 - )は、日本の競馬騎手、調教師。 1943年に日本競馬会(のち国営競馬、日本中央競馬会)で騎手デビュー。兵役を経て1947年より復帰し、1965年までに重賞3勝を含む通算276勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身し、1992年の阪神3歳牝馬ステークスを制したスエヒロジョウオーらを手がけた。1999年に定年引退。調教師通算成績は7493戦670勝、うちGI競走1勝を含む重賞13勝。 同じく中央競馬騎手・調教師であった吉永忍は従弟。自身の門下生であった川村禎彦は娘婿。 宮崎県北諸県郡高城町出身。近郊の三股町には競馬場があり、農家であった父と叔父は飼養する馬をそこで走らせていた。
鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年… 鈴木 清(すずき きよし、1924年9月5日 - 1998年8月12日)は、日本の調教助手(国営競馬)・調教師(国営競馬・中央競馬(中山競馬場→美浦トレーニングセンター))。調教師の鈴木信太郎は父。騎手・調教師の高橋英夫は義理の兄。千葉県立千葉中学校卒業、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都出身。中央競馬初の大学卒業資格を持つ調教師として知られる。 1924年、目黒競馬場内にあった父・信太郎の厩舎で生まれた。1933年に目黒競馬場が閉鎖されたのに伴い父の厩舎が中山競馬場へ移転。一家は千葉県へ移住した。清が千葉県立千葉中学校を卒業した当時は太平洋戦争中に中止していた競馬が再開したばかりで、日本競馬界の前途は不明確であった。
石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 20… 石毛 善衛(いしげ ぜんえい、1923年5月26日 - 2014年10月24日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1942年に日本競馬会(日本中央競馬会の前身)で騎手デビュー。1947年にトヨウメ、1958年にセルローズで、それぞれ天皇賞(秋)に優勝した。1948年に結婚するまでは「小林善衛」の名で騎乗。1964年より調教師に転じ、1998年に定年引退。日本中央競馬会調教師の石毛善彦は次男。 1923年、群馬県邑楽郡大川村(後の大泉町)に、東武鉄道の職員であった小林定五郎、きぬ夫妻の長男として生まれる。近郊には地方競馬の館林競馬場があった。旧制館林中学1年生のころに騎手の姿に憧れ、1937年、父の知人の紹介で名騎手の評が高かった石毛彦次郎(中山競馬場)の門下に入る。
保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 20… 保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、調教師(日本中央競馬会)。 1936年に騎手デビュー。10代の頃から名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手として頭角を現し、数々の大競走を制する。1958年、アメリカ遠征を機に、従来の日本では見られなかったアメリカ式のモンキー乗りを習得し、日本における騎手の騎乗フォームに大きな変革をもたらしたことから、モンキー乗りの先駆者とされている。1959~1961年、中央競馬全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1963年、中央競馬史上初の通算1000勝を達成。
中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1… 中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1990年1月9日)は、ばんえい競馬の元騎手・調教師。 北海道新十津川村の農家・中西岩吉の第6子として生まれる。中西家では第一子の長男が早世しその後女子の誕生が連続していたことから事実上の長男となる。子供時代から馬に親しみ近隣のばん馬大会に出場しており、13歳から荷馬車の馬追いや家畜商を行い、太平洋戦争中は中国大陸に出征、腹部に銃弾を受けるも腸を傷つけなかったことにより事なきを得て、また腸チフスにも罹患するも一命を取り留める。 1944年に復員し故郷で稲作や林業に従事したのち、終戦後は滝川町に移り林業や運搬作業に従事する傍ら草ばん馬大会に積極的に参加する。
高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 201… 高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 2013年8月9日)は、日本の元騎手(中山競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。義父の鈴木信太郎は元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)次男の高橋祥泰は元調教師(日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道上川郡屈足村(現・新得町)出身。 実家は農家で農耕馬の繁殖も手掛けていたため、幼少期から馬に親しんで育った。 1935年に上京して中山競馬場の函館孫作に入門。翌1937年春に騎手免許を取得し、同年秋に騎手デビュー。太平洋戦争中は徴兵されて室蘭に配属され、終戦後競馬界に復帰。当時函館が調教師を引退していたため、はじめは東京競馬場の藤本冨良厩舎に所属したが、結婚したのを機に中山競馬場の鈴木信太郎厩舎に移籍した。
佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999… 佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念。
矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 200… 矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 2004年5月17日)は日本の競馬の騎手、調教師、および整体師。 北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。実家は軍馬を生産する牧場だった。 1930年、中山競馬場・東原玉造厩舎所属の見習騎手となり、1933年に騎手免許を取得。日本競馬会時代の1941年には優秀騎手として表彰され、国営競馬時代の1951年には最高技能賞を受賞している。 1952年に調教師免許を取得し、その後中山競馬場で厩舎を開業。1978年、美浦トレーニングセンター開設に伴い移転。1994年2月をもって定年引退するまでの間に通算1060勝を挙げた。同年2月27日に中山競馬場で引退式が行われ、代表してファンに挨拶を行った。
出川 己代造(でがわ みよぞう、1917年9月27日 - 2… 出川 己代造(でがわ みよぞう、1917年9月27日 - 2000年5月28日)は、日本レース・倶楽部所属の元騎手、船橋競馬場所属の調教師・元騎手である。戦前は現在の中央競馬の前身のひとつである日本レース・倶楽部で騎手となり、戦後は地方競馬の船橋競馬場で調教師として長年に渡って活躍した。長男の出川龍一・次男出川博史・三男出川克己も船橋競馬場で調教師を開業している。 埼玉県本庄市出身。父が地方競馬のスターターをしていた関係で、1932年に林義和一門・川崎敬次郎の元へ騎手見習いとして入門する。同厩舎には兄弟子にのちにカブラヤオーを管理した茂木為二郎、弟弟子では森末ノ助、谷八郎らがいた。 第二次世界大戦中は召集を受け、戦後は5年間にわたるシベリア抑留を経験している。
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 -… 松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。 妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。 鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。 1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。