大隅 潔(おおすみ いさぎ、1942年6月22日 - )は、… 大隅 潔(おおすみ いさぎ、1942年6月22日 - )は、スポーツニッポン東京本社の元記者で、1964年東京オリンピック男子200m背泳ぎの日本代表選手。現在は、セントラルスポーツの顧問を務める。 スポーツニッポンでは後年、東京本社の常務取締役や、西部本社の代表を歴任。関連会社のスポニチクリエイツでも、代表取締役を務めた。退職後は、明治大学の客員教授に就任している。 静岡県の出身で、少年時代に自宅付近の天竜川で水泳へ親しむと、静岡県立浜松商業高等学校時代から競泳の選手として活躍。1964年東京オリンピックの開催を控えた1961年に、日本代表候補生の1人として、明治大学法学部への推薦入学を果たした。
山内 豊彦(やまのうち とよひこ、1940年10月22日 -… 山内 豊彦(やまのうち とよひこ、1940年10月22日 - 2022年6月17日)は、日本の実業家、元記者。一般社団法人共同通信社元社長、元顧問、公益社団法人日本広告審査機構(JARO)元理事長。 1940年、静岡県生まれ。1963年3月、立教大学経済学部卒業。同年4月、共同通信社入社。編集局経済部長、編集局長、業務局長などを経て2000年から専務理事、2002年10月から社長代行・専務理事。2002年12月、社長就任。2005年、社長を退任した後、顧問に就任。 2012年6月、公益社団法人日本広告審査機構(JARO)理事長に就任。2018年6月、JARO理事長を退任。 2021年6月まで公益財団法人同盟育成会の理事長も務めた。
平塚 千尋(ひらつか ちひろ、1940年 - 男性)は、日本… 平塚 千尋(ひらつか ちひろ、1940年 - 男性)は、日本の放送研究者、元・放送報道記者。専門領域は、災害情報、地域社会、市民とメディアの関係に焦点を当てたメディア社会論で、パブリック・アクセスについても、津田正夫との共編著を発表している。 旧満洲国に生まれ、1964年に東京大学文学部を卒業して日本放送協会 (NHK) に入局した。大学では社会学を学び「文化の個別性と普遍性〜日本の歴史は明治維新を堺に西洋文明に接木されるのか」という卒業論文を書いたが、NHKでは、現実の社会の現場への関心から、長く報道番組の制作に従事し、調査報道に取り組んた。1973年には、和歌山県で起きた地震、津波の流言さわぎを取材し、後に著書『災害情報とメディア』の中でこの事件を検証している。
小堀 啓爾(こぼり けいじ、1940年 - 2003年9月1… 小堀 啓爾(こぼり けいじ、1940年 - 2003年9月10日)は、囲碁の観戦記者、ライター。 徳島県徳島市出身。1969年から日本棋院職員として勤務し、のち退社してフリー。1981年から約22年にわたり、毎日新聞の囲碁本因坊戦の観戦記を担当した。 2003年9月10日、間質性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
石井 宏(いしい ひろし、1939年9月21日 - )は、東… 石井 宏(いしい ひろし、1939年9月21日 - )は、東京都出身の元競泳選手でのちに解説者、共同通信記者、現在は日本大学常務理事。1960年ローマオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト。日本大学卒業。 義兄弟に元フィギュアスケート選手の長瀬洋子と藤森美恵子(共に、旧姓 大岩)、甥に2024年パリオリンピック総合馬術の団体銅メダリストである大岩義明がいる。
藤田 太寅(ふじた たかのぶ、1938年〈昭和13年〉1月1… 藤田 太寅(ふじた たかのぶ、1938年〈昭和13年〉1月17日 - 2018年〈平成30年〉5月28日)は日本の経済ジャーナリストで、元NHK記者・解説委員。 東京都出身。麻布中学校・高等学校卒業。寅年に生まれたことから「太寅」と命名された。 東京大学文学部社会学科を卒業後、1963年NHKに記者として入局。初任地は新潟局。東京に異動後は報道局経済部で当時の大蔵省、経済企画庁などを担当。その後大阪局報道デスクを経て報道局記者に復帰。「NHK特集」等の制作・演出を担当。1990年に解説委員となり、経済番組の進行役などを務め分かりやすい解説でお茶の間に親しまれた。1999年に定年退職。 1999年4月、関西学院大学総合政策学部教授就任。
中平 邦彦(なかひら くにひこ、1938年 - )は、日本の… 中平 邦彦(なかひら くにひこ、1938年 - )は、日本の将棋観戦記者、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。筆名=原田 史郎。武庫川女子大学講師。現代風俗研究会、日本文芸家協会会員。 兵庫県芦屋市生まれ。同志社大学卒業。神戸新聞社に入社、論説委員長、1988年、論説副委員長。 将棋の観戦記者としても知られ、東京新聞などの王位戦(神戸新聞社は1973年から主催に加わる)で執筆も行う。1987年「パルモア病院日記-三宅廉と二万人の赤ん坊たち」で第11回井植文化賞(報道出版部門)。2017年、第24回大山康晴賞を受賞。
中村 慶一郎(なかむら けいいちろう、1934年〈昭和9年〉… 中村 慶一郎(なかむら けいいちろう、1934年〈昭和9年〉6月29日 - 2020年〈令和2年〉10月29日)は、日本の政治評論家、元読売新聞政治部記者。内閣総理大臣秘書官(三木内閣)、内閣官房参与、国民新党顧問を務めた。 東京府の出身で、早稲田大学政治経済学部を卒業後の1957年に読売新聞社へ入社して地方部と政治部に勤務する。政治部で三木派の番記者を務めた。 1974年に読売新聞社を退職して12月に発足した三木内閣で総理秘書官を務めた。三木内閣退陣後はラジオ関東報道部長を経て、政治評論家として日本テレビ系列の「読売新聞あすの朝刊」でニュースキャスターを、早朝番組「ルンルンあさ6生情報」と「ジパングあさ6」、深夜ニュースワイド「NNNきょうの出来事」でそれぞれコメンテーターを担当した[要出典]。
和田 千年(わだ ちとせ、1934年 - )は、元日本テレビ… 和田 千年(わだ ちとせ、1934年 - )は、元日本テレビ記者、解説員。広島大学附属福山高等学校、早稲田大学卒業。 報道の第一線で活動。1988~90年代前半に読売新聞あすの朝刊の司会を務めた。
山田 隆(やまだ たかし、1933年5月24日 - 1998… 山田 隆(やまだ たかし、1933年5月24日 - 1998年9月8日)は、日本のプロレス記者・評論家。 東京スポーツ新聞社に所属していた。北海道北見市出身。 1959年東京スポーツに入社、1967年9月22日から日本テレビの『日本プロレス中継』で解説者を務める。ターザン・タイラーの手錠事件写真を紹介するなど、海外マット界の情報を生かすというこれまでには無い画期的な解説を取り入れた。ジャイアント馬場との親交が深く、1972年の全日本プロレス旗揚げから1980年代末まで、長年に渡り『全日本プロレス中継』の解説者を務めた。 特に1981年世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦(蔵前国技館、優勝決定戦)にてスタン・ハンセンが乱入し、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組に助太刀した、いわゆるスタン・ハンセン乱入事件の時に山田が発した「ハンセンですよ!」は今でもプロレスファンの語り草になっている[要出典]。
稲福 健蔵(いなふく けんぞう、1932年1月12日 - 1… 稲福 健蔵(いなふく けんぞう、1932年1月12日 - 1996年)は、日本のアナウンサー・報道記者である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。
田村 竜騎兵(たむら りゅうきへい、1931年〈昭和6年〉6… 田村 竜騎兵(たむら りゅうきへい、1931年〈昭和6年〉6月24日 - 1990年〈平成2年〉2月14日)は、朝日新聞社の記者、囲碁ライター。群馬県出身、本名は田村孝雄。観戦記者として著書多数。朝日新聞東京本社編集委員をつとめた。本名・孝雄。 群馬県山田郡大間々町(現・みどり市)に生まれる。群馬県立桐生高等学校卒業、群馬大学医学部中退。その後、早稲田大学に転じ、囲碁部で村上文祥と同期生となる。1955年に早稲田大学商学部を卒業、日本棋院の『棋道』誌編集部に所属し、編集長だった宇崎玄々子に師事。『棋道』で記事を書いた他、東京新聞、産経新聞で牧伸太郎の筆名で観戦記を執筆。 宇崎玄々子の引退後、1960年より朝日新聞観戦記者となり、囲碁・将棋ともに観戦記を執筆した(将棋は「龍」名義)。
勝部 領樹(かつべ りょうじゅ、1931年〈昭和6年〉3月3… 勝部 領樹(かつべ りょうじゅ、1931年〈昭和6年〉3月30日 - 2018年〈平成30年〉12月18日)は、日本の放送記者、ニュースキャスター。NHKで活動した。 島根県佐田町出身。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、NHKに入局。故郷に近い松江放送局が初任地であった。以後、社会部の記者として活動。 1966年に旅客機墜落事故が連続して発生した当時は、NHK本局の社会部キャップを務めており、勝部の下で遊軍記者だった柳田邦男がこれらの事故を題材にして刊行した『マッハの恐怖』には、当時の勝部が登場している。 1977年、磯村尚徳の後任として2代目の「ニュースセンター9時」キャスター(末常尚志と競演)となり、2年間務めた。
田辺 忠幸(たなべ ただゆき、1931年1月28日 - 20… 田辺 忠幸(たなべ ただゆき、1931年1月28日 - 2008年1月6日)は、日本の将棋観戦記者、将棋ライター。 東京都生まれ。早稲田大学在学中は将棋部正選手として活躍。1956年共同通信社に入社、1959年より運動部で将棋、囲碁、相撲、柔道などを担当。1974年棋王戦創設に参画し、その運営に当たった。 大阪支社運動部長などを歴任し、1991年定年退職。以後はフリーの観戦記者として活動した。 1997年、将棋ペンクラブ大賞。2000年から2007年まで、将棋ペンクラブ大賞の選考委員をつとめた。2002年、大山康晴賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 200… 井口 昭夫(いぐち あきお、1931年1月18日 - 2008年5月8日)は、囲碁・将棋の観戦記者。兵庫県出身。 神戸市外国語大学卒業。1953年、毎日新聞社に入社。学芸部副部長、学芸部編集専門委員を経て、1982年編集委員。 将棋・囲碁担当記者として、約40年にわたって囲碁の本因坊戦、将棋の名人戦、王将戦の観戦記を書いた。 1989年、第一回将棋ペンクラブ大賞(新聞観戦記部門)を受賞。将棋ペンクラブ代表幹事(事務局長)。 2000年、大山康晴賞(第7回)を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
福富 達(ふくとみ とおる、1930年〈昭和5年〉9月30日… 福富 達(ふくとみ とおる、1930年〈昭和5年〉9月30日 - )は、東京都出身の記者、ニュースキャスター。本名同じ。 1951年、早稲田大学政経学部在学中に読売新聞社入社。最初は横浜支局配属となって警察回りからキャリアをスタート。大学の方は引き続き聴講生として在籍した後、1952年6月に卒業。その後東京本社へ移籍し政治部記者として活躍、首相官邸記者クラブのキャップを務める。政治部長昇進を目前とした1974年春に読売新聞社を退社し、系列の日本テレビ放送網に移籍。「NNN JUST NEWS」のメインキャスター、「久米宏のTVスクランブル」コメンテーターなどを務めた後、解説委員に。副委員長、委員長、委員主幹を担当した。
小松 錬平(こまつ れんぺい、1929年3月31日 - 20… 小松 錬平(こまつ れんぺい、1929年3月31日 - 2010年代前半)は、日本のジャーナリスト、元朝日新聞東京本社記者、元ニュースキャスター。故人。 北海道釧路市出身。1952年に東京大学農学部水産学科を卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部・東京部・科学部各次長などを経て、1972年から編集委員。1974年『朝日新聞テレビ夕刊』の解説役でテレビ初出演。1976年4月から『ANNニュースレーダー』(NET→テレビ朝日)のキャスターを担当し、以後約10年間(途中、『ANNニュースファイナル』担当による中断時期あり)にわたってテレビ朝日の夕方の顔として活躍した。 1989年に朝日新聞社を退社。その後、神奈川新聞客員論説委員や日本鯨類研究所評議員を歴任。
高丘 季昭(たかおか すえあき、1929年(昭和4年)1月1… 高丘 季昭(たかおか すえあき、1929年(昭和4年)1月14日 - 1996年(平成8年)3月13日)は、日本の実業家、記者、華族。ファミリーマート会長、西友会長、セゾングループ代表幹事などを歴任した。華族制度廃止前の爵位は子爵。 東京生まれ。子爵高丘家・高丘和季の子。妻は子爵・高木正得の四女・小夜子。母方の祖父は男爵・千秋季隆。 1930年に父・和季が死去したため爵位を継ぎ、1947年の華族制度廃止まで務める。1951年に東京大学法学部政治学科を卒業後、東京新聞に入社。経済記者を務めるほか、労組委員長も担う。 ニッポン放送解説委員を経て、東大時代から交友があった堤清二からの誘いで、1963年西武百貨店に入社する。
中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭… 中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭和元年〉 - 2023年〈令和5年〉12月28日)は、大阪生まれ、広島県広島市出身のスポーツライター、元サッカー選手、サッカー記者(自らは「サッカー愛好家」と称した。詳細は後述)。元朝日新聞論説委員。 旧制広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)・旧制広島高等学校(現・広島大学)を経て東京大学を卒業。1945年広島高等学校2年の夏、爆心地から1. 8キロの修理工場内で広島への原爆投下に遭遇。勤労動員で北部に向かう途中、偶然トラックがブレーキ故障を起こし、その修理のためトラックの下に潜り込んでいたところに原爆が投下された。この結果、奇跡的に一命をとりとめたが、父は行方不明、母は死亡した。
岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015… 岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015年9月22日)は、日本の料理記者、食生活ジャーナリスト。旧姓は宮城(みやぎ)。 沖縄出身の両親のもと、東京で生まれる。父親はアメリカで苦学して養殖業を学び、カナダと日本で牡蠣養殖を成功させた人物。女子栄養学園卒の友人がつくったロールサンドの味に魅了され料理に興味を持つ。永田町小学校(現:麹町小学校)から東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に転入し卒業。東京府立第三高等女学校(現:東京都立駒場高等学校)を経て、1942年、女子栄養学園(現:日本栄養大学)卒業。東大農学部勤務後、21歳で軍人と見合い結婚し、1947年から夫婦で千葉県でカキの養殖業を手がける。
山本 亨介(やまもと きょうすけ、1923年4月29日 - … 山本 亨介(やまもと きょうすけ、1923年4月29日 - 1995年11月10日)は、日本の将棋観戦記者、将棋史研究者、小説家。ペンネームは天狗太郎。日本文芸家協会会員。 和歌山県東牟妻郡古座町出身。1943年、彦根高等商業学校卒業。 1946年に大阪日日新聞に入社し、吉井栄治の後をうけて将棋を担当。1951年に上京してサンケイ新聞記者となり、将棋・囲碁を担当、天狗太郎のペンネームで観戦記を執筆。1960年朝日新聞東京本社に移り、観戦記に健筆をふるう。1963年に退社してフリーの文筆活動に。 かたわら1953年頃から将棋史の研究に着手し、「将棋文化史」「将棋庶民史」「名棋士名勝負」「勝負師の門」「学徒出陣ふたたび」などを発表。
林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年1… 林 裕(はやし ゆたか、1922年7月7日 - 1986年10月19日)は、日本の囲碁に関する評論家、編集者、観戦記者、研究家。日本棋院所属の後に執筆に専念。 東京渋谷出身。姉が福原義虎七段と結婚した縁で、1941年頃から日本棋院に出入りするようになる。1943年に学徒動員で応召。 1946年、中央大学法学部卒。戦後1948年に、村島誼紀らが『碁の新聞』を出す際に編集を任される(3号で終刊)。その後『棋道』編集の手伝いをしていて、1950年日本棋院事務局に入り、『棋道』『囲碁クラブ』や棋書を編集。編集部長、中央会館事務局長を務め、1968年には「囲碁史展」(日本橋東急百貨店)を主導した。1969年退職。
宇賀田 達雄(うがた たつお、1922年5月7日 - 201… 宇賀田 達雄(うがた たつお、1922年5月7日 - 2012年5月24日)は、日本の民藝運動研究者、美術評論家、編集者、記者。妻の宇賀田けようは板画家棟方志功の長女。
伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2… 伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2008年2月27日)は日本のジャーナリスト、中国研究者、中日新聞東京支社記者・論説委員。旧姓は中山。 京都府生まれ。戦前の上海にあった東亜同文書院大学を卒業。 その後中日新聞社に入社し、中日新聞記者として文化大革命当時の中国に駐在し、中国の内情を報道した。1967年2月、1966年度ボーン国際記者賞(現・ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
細川 隆一郎(ほそかわ りゅういちろう、1919年1月1日 … 細川 隆一郎(ほそかわ りゅういちろう、1919年1月1日 - 2009年8月25日)は、日本の政治記者・評論家・コメンテーター、タレント・ラジオパーソナリティである。第79代内閣総理大臣の細川護熙は遠い親戚関係に当たる。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日… 熊倉 正弥(くまくら まさや、1915年-1995年)は、日本の記者、作家。神田仁人(ほうじん)とも 。 熊倉弥五郎の次男で、姉に島津フミヨがいる。慶應大学出身。1939年に朝日新聞社へ入社し、論説委員などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日… 小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日 - 1986年〈昭和61年〉1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。新潟日報社第4代社長、會津八一記念館初代館長。 新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた。 そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った。 包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた。
森 三郎(もり さぶろう、1911年1月25日 - 1993… 森 三郎(もり さぶろう、1911年1月25日 - 1993年8月27日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の童話作家・編集記者。書誌学者の森銑三は16歳年上の兄である。新美南吉、坪田譲治、平塚武二らとともに『赤い鳥』の作家として活躍した。 1911年(明治44年)1月25日、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。兄が2人、姉が1人おり、4人兄弟姉妹の末子(三男)である。父親の森五市は呉服商だった。父親は好んで昔話を語る人であり、母親は書物を大切にする人だった。 1917年(大正6年)に亀城小学校に入学し、小学校時代には鈴木三重吉の『世界童話集』を読んでいた。1918年(大正7年)に鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊すると、兄の森銑三によって与えられた創刊号を読んで没頭した。
菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)… 菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)は、日本の報道記者、実業家。 1937年に同盟通信に入社し、中国戦線に記者として従軍。1941年12月、陸軍報道班員としてマレー作戦に従軍、第25軍司令部要人の通訳を務めるなどした。シンガポール陥落後は第25軍参謀部の情報工作に関与。戦後行われたシンガポール華僑粛清事件の戦犯裁判では杉田一次ら第25軍司令部参謀からの伝聞内容について証言。戦後、吉田茂首相秘書官等を経て1956年に空港グランドサービス社長。 1911年、東京で、実父が陸軍大将菱刈隆という軍人一家に生まれる。父からは、自動車の運転と外国語、写真を習っておくように言われていた。
三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996… 三堀 将(みほり しょう、1910年2月14日 - 1996年10月7日)は、日本のジャーナリスト、囲碁観戦記者、囲碁ライター。読売新聞社新聞監査委員長、報知新聞社副社長を歴任。 神奈川県出身。本名は将(ただし)。他の筆名は丘目山人(おかめ-さんじん)。 旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部卒業。1932年、読売新聞社に入社して囲碁担当となる。1938年から3年間、覆面子(4代目)の名で囲碁観戦記を執筆。呉清源対木谷実の「打ち込み十番碁」を取材するなど活躍。 戦後、出版部長、特信部長、新聞監査委員長などを経て1963年、報知新聞副社長。 1967年に辞任してフリーの囲碁ライターとして読売新聞社主催の棋聖戦などで健筆を振るい、囲碁界のご意見番的存在だった。
相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4… 相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4日)は日本の雑誌編集者、記者。雑誌「改造」の編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、山口県に生まれる。広島高等学校理科を病気で中退後、上京し、法政大学予科に入学、1932年に同大学法文学部独文科に進学する。在学中、大学内の左翼読書会グループに参加し、『戦旗』やマルクスの『賃労働と資本』などを読む。1934年に卒業し、神保町の尚文堂書店に勤務し、月刊『独逸語』の編集・校正に携わる。1937年に改造社に入社し、編集部に所属、記者として勤務する。雑誌『大陸』の記者などをし、1940年に編集主任、1941年10月頃に雑誌『改造』の編集次長となる。
篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)… 篠崎 護(しのざき まもる、1908年2月 - 1991年)は、戦前日本の報道記者・スパイ、日本軍占領下シンガポールの軍政幹部、戦後日本の実業家、著作家。 「抗日活動に関わっていない」とする証明書を大量に発行することにより、日本軍の憲兵隊による監視を逃れ命を救われた人々が多数存在することから、「日本のシンドラー」と呼ばれる。 篠崎は、1947年に行われたシンガポール華僑粛清事件の裁判に検察側証人として出廷した際に、日本軍のシンガポール占領直後に昭南警備隊によって行われた同事件に際し、日本軍による住民の大量虐殺があったことを認める一方で、自身が同警備隊の河村参郎司令官から良民保護の依頼を受け、これに従って保護証数万枚を不特定多数の市民に配り、また警備隊の分隊長と交渉して、同警備隊に殺害されそうになった華僑数千人の人名を救った、と証言して河村に対する情状酌量を求め、自著の中でも同趣旨の叙述をしている。
伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - … 伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - 1963年2月20日)は、元毎日新聞社記者、元プロレス解説者、元ラグビー選手(日本代表キャップ2)。
藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 19… 藤井 健造(ふじい けんぞう、1906年1月14日 - 1991年 2月10日)は、神戸又新日報記者、大日本帝国陸軍情報将校、大手前大学創立者。大阪府守口市出身。 藤井健造は1906年(明治39年)、大阪府北河内郡守口町(現・守口市)に、樋口家の長男として生まれた。幼い頃から馬と自動車に興味を持ち、関西大学へ進学後は馬術部で活躍し、第4回全国乗馬大会では個人三等で入賞している。 神戸又新日報記者時代 大学卒業後、神戸又新日報に記者として入社するも、馬と車に情熱を燃やした。1932年ロサンゼルスオリンピックでは、バロン西の愛称で知られる男爵の西竹一陸軍中尉が障害飛越競技で出場することから、自費通信員の資格を得て、民間人で唯一の付き人として同行渡米し、担当記者として取材。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月2… 安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月24日 – 1953年〈昭和28年〉1月15日)は、大正から昭和にかけての文筆家・翻訳者・報道記者。別名義として安藤十九木や杉森鵬程もあり、他にもXYZや十九気などの筆名もあったという。維新史の研究者から実録文学の執筆に転じ、また、西園寺公望や野口遵に関する書籍を特に多く出版した。 山口県岩国市の警察官・安藤徳明の子として生まれる。最初は軍人を志し、広島陸軍地方幼年学校第21期生として入学。善通寺歩兵第43連隊士官候補生を経て、陸軍士官学校第36期生となる。しかしこの後の安藤は、軍人としてのキャリアを進まなかった。 軍人の道を諦めた安藤は京都帝国大学史科に転じ、維新史を専攻した。
塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 19… 塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 1981年10月26日)は、日本新聞連合社の記者。妻の美代子は、小野寺百合子の妹。 1920年、兵庫県立伊丹中学校卒業。1924年、関西学院専門部文学科卒業。同年4月、日本新聞連合社大阪支社に入社。1931年12月、ベルリン支局長として赴任。1933年5月に帰国し外国経済部次席兼翻訳部主任。著書に「新興ロシアの横顔」がある。
佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931… 佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931年12月21日)は、日本の翻訳家、雑誌記者。群馬県室田町(現高崎市)出身。 東京神田の順天中学校を卒業後、1924年に東京外国語学校イタリア語科卒業。同年5月に発行された文芸雑誌「南歐文學」の編集人を務め、イタリア文学紹介、翻訳などで活躍した。同誌の発行元は三田書房、発行人は甲斐田イヨ。南ヨーロッパの文学を紹介・研究することを目的とし、原語からの翻訳やエッセイなどが掲載された。全2冊で、1号は同年5月に発行され、巻頭にポール・クローデルの肖像と題字「水に聴く」を掲載。2号は翌6月の発行。 翌1925年にキネマ旬報社に編集部員として入社し、映画評論、脚色等で活躍した。
榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月1… 榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月15日 – 1987年〈昭和62年〉4月28日)は、日本の雑誌記者、教育者、政治家。衆議院議員(2期)、女性初の代議士の一人。旧姓は間野。 現在の静岡県三島市に生まれる。 1917年(大正6年)、フェリス和英女学校を卒業。1919年(大正8年)、青山女学院英文専門科本科卒業。同年、雑誌「婦人の友」の記者となる。自由学園教授などを経て、1927年(昭和2年)に経済学者の榊原巌と結婚。結婚後、夫とともにドイツとイギリスに留学する。マルブルグ大学(ドイツ)、セリオーク大学(イギリス)等で聴講する。 帰国後、夫・巌が福島経済専門学校(現福島大学経済経営学類)教授に就任したことにより福島県に移り、福島高等女学校で教鞭を執る。
波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923… 波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923年6月9日)は、中央公論社の『婦人公論』記者、有島武郎の愛人で心中相手。 出自は不明ながら、当時の新聞報道によれば、実業家の林謙吉郞が新橋の芸者に生ませた庶子であるとされる。父親が用意した麻布の別宅に実母と暮らし、月の7日間と夏冬の休暇を父親宅で過ごす生活の中で育つ。実践女学校に入学後、その美貌から父親は秋子を園遊会などさまざまな会に同伴者として連れ回した。大正元年(1912年)実践女学校を卒業。卒論にルターの宗教改革を選び、その参考書を探しに友人の紹介で、米国帰りの英語塾経営者であった波多野春房(烏峰)の家を訪ね、知り合う。 波多野は前妻の安子を離縁して18歳の秋子と同棲し、秋子の母が亡くなった翌1913年に結婚。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1… 岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1943年4月28日)は日本の記者、労働運動家。木曜会、新人会の参加者。クロポトキンとレーニンにちなむ黒田 礼二(くろだ れいじ)の筆名で知られる。 高知県長岡郡大篠村(現・南国市)出身。第一高等学校卒業。東京帝国大学の新人会(前期新人会)に参加。また、麻生久らの木曜会に参加する。1916年に東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、満鉄東亜経済調査局に勤務し、ロシア革命について研究。1920年の第2回ILO総会に政府代表嘱託として参加後、大阪朝日新聞モスクワ特派員、ベルリン特派員などを歴任。1922年のプロフィンテルン第2回大会において山本懸蔵の通訳として活躍。
鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年… 鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年9月11日)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師。 レフ・トルストイの『戦争と平和』の全訳やカナダでの労働組合運動で知られる(後述)。 鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(… 岡田(永代) 美知代(おかだ(ながよ) みちよ、1885年(明治18年)4月15日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、明治期から昭和期の小説家、雑誌記者。田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎の長女として生まれる。第一高等学校・明治大学で教鞭を取り、草創期の駿台高等豫備學校講師だった岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いだ。クリスチャンの家であった。 1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。佐々城信子が同時期に通っており、面識があった。
濱田 苔花(はまだ たいか、1884年 - 1962年)は、… 濱田 苔花(はまだ たいか、1884年 - 1962年)は、岡山県出身で鹿児島県初の女性記者。男尊女卑の気風が強かったとされる明治時代の鹿児島県にあって、他に先駆けて女性ジャーナリストとして活動した。本名は濱田亀鶴(はまだ かつ)。岡崎理七郎の二女。
大内 地山(おおうち ちざん、1880年(明治13年)2月2… 大内 地山(おおうち ちざん、1880年(明治13年)2月2日 - 1948年(昭和23年)2月7日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した水戸学者、郷土史家、『常総新聞』記者。幼名は勘五郎で、1889年(明治22年)に本名を逸朗(いちら)に改めた。 茨城県那珂郡前浜村前浜(現・ひたちなか市阿字ケ浦町)に、父・平三郎と母・ふくの第5子として生まれる。1894年(明治27年)に那珂郡立第二高等小学校(現・ひたちなか市立那珂湊第一小学校)の第1回卒業生となり、栗田寛の私塾・輔仁学舎(家塾輔仁学舎(かじゅくほじんがくしゃ)とも言う)に入門した。その後、1898年(明治31年)9月に上京し東京法学院に入学、1901年(明治34年)7月に卒業した。
相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈… 相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈明治13年〉 - 1956年〈昭和31年〉)は、大正から昭和にかけて活動した日本のジャーナリスト、新聞記者、教育記者、小説家。国民新聞社(後の東京新聞社、現・東京新聞/中日新聞)のほか、平民新聞社、読売新聞社、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社などでも活動した。徳富蘇峰の側近として秘書も務め、蘇峰会の本部常任幹事を務めた。ほかに国民教育奨励会専務理事も務めている。号は、如楓、蓬莱子、景楠、景楠外史、蓬村など。 埼玉県鷲宮町葛梅(現・久喜市)にて生まれる。 東京に出て、築地の立教学校(現・立教大学)に学んで卒業。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)にも修学した。