国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985… 国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985年)は、日本の数学教育研究者、数学教師。 1894年、新潟に生まれる。新潟県高田師範学校を経て、1920年3月に東京高等師範学校理科第一部(数学)を卒業。その後、新潟師範学校の教諭、女子学習院教授、日本大学付属櫻丘高等学校の教頭を務めた。
職業が教師:438人
国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985… 国元 東九郎(くにもと とうくろう、1894年 - 1985年)は、日本の数学教育研究者、数学教師。 1894年、新潟に生まれる。新潟県高田師範学校を経て、1920年3月に東京高等師範学校理科第一部(数学)を卒業。その後、新潟師範学校の教諭、女子学習院教授、日本大学付属櫻丘高等学校の教頭を務めた。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。
物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930… 物部赳夫(ものべ たけお、1893年6月23日 - 1930年7月25日)は日本ホーリネス教会ブラジル宣教師である。ブラジル福音ホーリネス教団の生みの親とされている人物。 長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)の万福寺の住職の次男として生まれる。東京鉄道学校で学び、国鉄に就職する。1915年、同僚の死を通して、求道を始め、同県上諏訪町(現諏訪市)の福音伝道館に通い、高橋俊三に導かれて、中田重治より洗礼を受ける。 1917年に聖会で献身を決意する。1918年に柏木聖書学院に入学する。1919年に卒業して物部さよと結婚して物部姓になり、小樽教会に赴任する。1922年に品川教会に転任する。 1925年にブラジル伝道を決意し、7月に日本ホーリネス教会最初の宣教師として、ブラジルのサントスに行く。
平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日… 平井 直衛(ひらい なおえ、1893年〈明治26年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉9月15日)は、岩手県出身の教員・酒造家・興行主。紫波郡日詰町(現・紫波町)議会議員・日詰町議会議長。言語学者の金田一京助は実兄。 1893年(明治26年)6月3日、岩手県盛岡市下厨河65番地の金田一家に生まれた。父は金田一久米之助、母は金田一ヤス。直衛は四男であり、兄に金田一京助がいる。 岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)を卒業した。1916年(大正5年)12月には岩手県紫波郡日詰町の平井キヌと結婚して平井家の婿養子となった。父の金田一久米之助が事業に失敗したことで経済的に苦しく、結婚の代わりに帝国大学進学に際して平井家から学費援助を受ける条件があったためである。
野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月1… 野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月28日)は、日本の教員、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。日本退職公務員連盟会長。国民党、国民協同党、自由民主党を渡り歩いた。協同組合主義者。旧姓・正田。 群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、正田豊吉、そうの四男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1913年(大正2年)群馬県師範学校本科二部を卒業。 世良田尋常高等小学校を皮切りに、群馬県内の小学校で教師として勤務。1922年(大正11年)に野本家に婿入りした。生品小学校、矢場川小学校、広沢小学校、伊勢崎小学校、太田小学校で校長を歴任。
小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 19… 中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 1970年8月24日)は、京都府出身の美術家、図画教師である。本名は中井 政治郎。 1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった。 岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日… 原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の科学ジャーナリスト、教員。科学雑誌や科学の啓蒙書の編集者・作家。『子供の科学』初代編集長。漫画家前谷惟光の父。 1890年(明治23年)1月1日、名古屋に生まれる。1907年東北帝国大学予科入学、1910年中退。第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理科大学(後の東京大学理学部)を卒業。東京府立第一中学校で教員を務めるかたわら翻訳に携わる。教職を辞めた後、科学雑誌『子供と科学』(1917年)、『少年科学』(1917年)、『科学画報』(1923年)、『子供の科学』(1924年)を次々と創刊。
徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12… 徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12日または12月6日 - 1966年)は、日本統治時代の朝鮮、満洲および大韓民国の実業家、教員、政治家。制憲韓国国会議員。 号は夢撨(モンチョ、몽초)。 全羅南道光州(現・光州広域市)または谷城出身。京畿工業伝習所応用化学科を経て、朴賛翊と共に西間島へ渡満し、私立敦校教員を務めた後、帰国し中央大学専門部法学部卒。抱川郡青城第七学校教員を務めた後、吉林省延吉府和龍県にイムソン学校を設立し、東興学校校長を務めた。以後講演家、朝鮮民立大学期成会光州地方部創立総会執行委員、新幹会光州支部会員、在満同胞擁護同盟準備委員、光州商民大会執行委員、湖南銀行本店嘱託、海南興産株式会社支配人、煉瓦製造工場経営者、韓国建国準備委員会光州府委員会委員・副委員長、韓国民主党光州支部総務、大韓独立促成国民会光州支部副委員長、光州国民協同組合理事長、南朝鮮過渡立法議員、制憲国会議員、国会法制司法委員・麗順事件調査収拾対策委員、弾劾裁判官正裁判官を歴任した。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
李 康雨(イ・ガンウ、朝鮮語: 이강우、1889年 - 没年… 李 康雨(イ・ガンウ、朝鮮語: 이강우、1889年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教員、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道晋州出身。私立サンギ高等測量学校鉱山科、漢城官立外国語学校卒。普成専門学校(現・高麗大学校)法科在学中は反日演説を行い逮捕されたが、途中脱出して中国に亡命した。その後は日本に渡り、日本大学法科に入学した。在学中の1919年3月初、晋州で金在華らと共に独立万歳デモを計画した。独立宣言文と教諭文の印刷、太極旗の製作と民衆への配布を事前に行った上、3月18日の晋州市の日に市場に集まった群衆を糾合し、独立万歳デモを実施した。後に逮捕され、保安法と出版法違反により懲役1年6か月の有期刑を受け、しばらく監獄で過ごした後、日本大学に復学した。
柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年… 柳 来琬(リュ・レワン、朝鮮語: 류래완/柳來琬、1888年5月12日 - 1956年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は晋州柳氏(朝鮮語版)、号は怡雲(イウン、이운)。ユ・レワン(漢字同、유래완)という表記も見られる。 京畿道楊平郡出身。神戸市立湊川商工実業学校商業科卒、早稲田大学修了。大韓独立普成団組織団長を務めたが、三・一運動の普成団事件で1年間投獄された。その後は私立養成女学校教員、楊平郡楊西学堂教員、楊平公立普通学校学務委員、楊平郡食糧事務嘱託、楊平面内務主任、楊平面協議会員を歴任した。解放後は初代楊平面長、韓国民主党楊平郡支部支部長、南朝鮮過度立法議院代議員、制憲国会議員、社団法人楊平郡畜産協会会長を歴任した。
佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 19… 佐藤 繁彦(さとう しげひこ、1887年9月24日 - 1935年4月16日)は、日本の牧師、神学校教師。日本におけるマルティン・ルターの研究の開拓者である。 1887年(明治20年)福島県会津若松市に生まれる。1907年(明治40年)に第一高等学校に入学する。 同年キリスト教に入信して、組合教会の指導者の海老名弾正から本郷教会で洗礼を受ける。1910年(明治43年)に東京帝国大学に入学するが、同年京都帝国大学に転校する。1913年(大正2年)、京都帝大卒業後、東京帝大大学院でルターの研究を始めた。大学院時代は、日本基督教会の神学校の東京神学社でも学び、富士見町教会で牧会する植村正久に師事した。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。
橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年… 橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 明治19年(1886年)7月3日に滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生。 明治39年(1906年)滋賀県立彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年(1910年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)二部を卒業した。その後、郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年(1921年)中学校教員試験検定に合格し翌11年(1922年)より滋賀県女子師範学校、県立大津高等女学校の教諭となった。
中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4… 中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4月26日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の教諭、日本語(国語)の教育者、研究者。日本語方言の開合研究の黎明期に、日本統治下の台湾に勤務した時の経験から、初めて越後方言の開合音(アウ・オウの別)について報告した。 明治19年(1886年)に新潟県刈羽郡高田村堀(現柏崎市堀)に生まれた。明治40年(1907年)に高田師範学校を卒業し、同年に小学校教員免許を取得し、同校の訓導を務めた。後に新潟県の大貫尋常小学校、富山県立魚津中学校で教職を歴任した。 大正6年(1917年)には台湾総督府国語学校に助教授として赴任し、国語(日本語)教育に従事した後、台北女子高等学校普通学校に教諭を担任した。
鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年… 鳥居 維(とりい つな、1886年4月11日 - 1966年9月14日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師。 愛知県出身。1906年7月に東京音楽学校本科器楽部を卒業。1909年9月に同校研究科器楽部ヴァイオリン専攻を修了した。安藤幸とアレクサンドル・モギレフスキーに師事。1906年9月から1944年3月まで東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン専攻の音楽教師を務め、1912年4月に教務嘱託、1919年4月に講師、1929年6月に助教授、1934年11月に教授となった。1930年から1941年まで同校管弦楽部員(ヴァイオリン)。大日本作曲家協会員および大日本音楽協会員。 邦楽に通じ、三味線楽譜の著作がある。
山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1… 山井 基清(やまのい もときよ、1885年8月29日 - 1970年12月8日)は、日本の雅楽師、ヴァイオリニスト、ヴィオリスト、作曲家、音楽教師。 山井基万(もとかず)の三男として生まれる。1898年より宮内省式部職雅楽部楽生となり、式部職雇音楽教師ヴィルヘルム・ドゥブラヴチッチ(1901年に来日)、安藤幸、アウグスト・ユンケルにヴァイオリンを師事する。楽生として左舞、笛、箏、ヴァイオリン、ヴィオラを担当した。1908年に東京音楽学校器楽科を卒業し、同年に式部職楽部楽手、1909年に楽師となる。1922年に長男の山井清雄(すみお)が生まれる。1922年に芝忠重とともにドイツに留学して1924年に帰国。
水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月1… 水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月16日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、教師、西南学院院長。 旧制東筑中学、西南学院中学部教師、西南学院高等部長。1927年8月に米国の南部バプテスト神学校に留学し、一年後に帰国。1933年、西南学院第4代院長(日本人初)に就任し1948年に健康上の理由で勇退するまで在任。1921年中学部の英語教師時代に新約聖書「ヨハネの手紙一」からイメージを受け西南学院校歌を作詞する。作曲は島崎赤太郎。「岸を洗う紺碧の波」「松の緑青春の色」に始まる校歌であるが、当時、同校は現在埋立されているのと違って、木造の校舎のすぐ裏は海であり、まさに白砂青松であった。
堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月… 堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月28日 - 1981年(昭和56年)1月8日)は、日本・台湾の教員・自然史研究家。教員として各地を転々とした中で自然史・理科教育の研究で功績を残した。特に1917年(大正6年)-1947年(昭和22年)の30年間を台湾・台北市で過ごし、その間に台湾の自然史研究で多数の報告・執筆を行った。 明治17年(1884年)3月28日、長崎県西彼杵郡雪浦村(現・西海市大瀬戸町雪浦地区)の農家の長男として生まれたが、幼い頃から動植物への興味関心が高かった。雪浦尋常小学校補習科(現・西海市立雪浦小学校)修了後は農業をしていたが、学問の道を志して20歳にして佐賀県立農学校(現・佐賀県立佐賀農業高等学校)へ進んだ。
小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1… 小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1904年9月21日または9月22日)は、明治時代の日本の教員。田山花袋の小説『田舎教師』のモデルになったことで知られる。 栃木県足利郡小俣村(現・足利市)に生まれる。父の家業が不振となったため、9歳だった1893年6月に埼玉県熊谷町に転居した。 埼玉県第二尋常中学校(のちの埼玉県立熊谷中学校、現・埼玉県立熊谷高等学校)に進学した。家庭の貧窮がさらに進んだため、中学在学中の1900年の冬に北埼玉郡忍町(現・行田市)に再度転居している。中学卒業時には弘中又一(夏目漱石の小説『坊っちゃん』のモデル)が教員におり、弘中赴任後の最初の卒業生でもあった。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年… 衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年2月16日)は、日本の宣教師。アメリカの日系人教会でも牧師を務めた。日本人マフィアのモンタナ・ジョーこと衛藤健の実父でもある。 大分県竹田に生まれる。大分師範学校卒業後、1903年(明治36年)徴兵検査に合格し、第12師団に所属。1904年(明治37年)の日露戦争の際には遼陽会戦に参加。歩兵連隊の司令部で戦闘報告書を書く任務に就く。 関西学院の創立にも関わり、体操の教師を務めた。1917年(大正6年)に日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、彼らを救済するためにストックトンで教会を開く。
井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9… 井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9月2日 - 1966年(昭和41年)6月20日)は、日本出身の台湾宣教師である。 1882年(明治15年)、高知県幡多郡川崎村(現・四万十市)に生まれた。小学校は高等科で終了し、病院や村役場に事務員として勤務した。1900年に立身出世を願い、上京して昼間は郵便局に勤め、夜は大成学館で勉強に励んだ。この頃、メソジストの本郷教会に通い、内村鑑三の著作を読んで求道した。1903年より、中田重治の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月中田より洗礼を受けた。1905年9月に東洋宣教会の聖書学院に入学し、聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月… 長谷川 五作(はせがわ ごさく、1880年(明治13年)2月15日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、旧制中学校の教員。長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代町)においてビン詰めによるエノキタケの人工栽培法を考案した。
新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) … 新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) - 1941年(昭和16年))は、日本の俳人・教員。本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る。 1879年(明治12年)、岡山県吉野郡大野村(現・美作市)川上で父和太郎、母こまのの二男として代々庄屋や酒造家だった旧家に生まれ、睦之助と名付けられる。俳号の一五坊は睦のムツを6に掛け、一と五に分けたと推測される。1892年(明治25年)13歳で上京して神田中学院、翌26年国語伝習所、翌27年哲学館予科を経て明治28年小石川哲学館本科教育部に入学後18歳で卒業。1898年(明治31年)の夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。
真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月1… 真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月10日 - 1926年〈大正15年〉10月25日)は、日本の教員・作詞家。本名は瀧吉(たききち)。京都府加佐郡河守町新町(現:京都府福知山市大江町新町)出身。代表作は『戦友』など。 1878年(明治11年)10月10日、京都府加佐郡河守町新町の貧しい農家の次男として生まれる。生家では農業の他、蝋燭製造や製紙業を営んでいたとされている。 1885年(明治18年)、河守学校初等科に入学〈翌年「小学校令」により尋常科に改名〉。河守尋常小学校を卒業後は、糸問屋に奉公し、その後実家の蝋燭製造に従事した。 1892年(明治25年)河守地方六ヵ町村組合立高等小学校3年に編入学。
岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 194… 岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 1943年8月18日)は、明治・大正期の英語教師。戦前の受験英語指導で小野圭次郎・山崎貞と並んで知られている。 父は備後銀行頭取などを務めた岡田胖十郎。妹には、田山花袋の小説『蒲団』に登場する横山芳子のモデルで小説家の岡田美知代や、北海道帝国大学教授や広島県庄原市長を務めた八谷正義の妻・八谷萬寿代がいる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)の豪商の家に生まれる。同志社普通学校、慶應義塾を卒業後、渡米しオベリン大学に留学。帰国後神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授を経て、1907年に新渡戸稲造に請われて第一高等学校(現・東京大学)教授となる。
野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25… 野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月3日)は、日本の英語教師。陸軍士官学校英語教官、明治学院講師。夏目漱石の弟子として知られ、漱石の日記や随筆等に度々登場する。 1897年(明治30年)鹿児島県尋常中学造士館卒業後、第五高等学校文科一に進学した。1900年(明治33年)、東京帝国大学英文学科に入学した。小泉八雲や夏目漱石の教えを受ける。同級生に皆川正禧がいて親友となる。卒業後、1904年(明治37年)2月から東京日比谷中学校講師、陸軍士官学校英語教官、明治学院講師を経た後、漱石の斡旋で、1908年(明治41年)6月、郷里鹿児島の第七高等学校造士館教授に就任した。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16… 小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16日 - 1945年(昭和20年)6月15日)は戦前日本のドイツ語教師。石川県士族。熊本市第五高等学校で44年間ドイツ語を教えた。 1875年(明治8年)3月16日石川県金沢に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中)第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。 1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校本科第1年級に入学し、徳永富・蒲生重実にドイツ語を学んだ。
野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日… 野村 益三(のむら ますぞう、1875年(明治8年)3月5日 - 1959年(昭和34年)12月25日)は、明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。 外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。父の死去に伴い、1909年(明治42年)2月19日に子爵を襲爵した。 東京帝国大学農学部を修了し、1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1905年(明治38年)和歌山県立粉河中学校教諭に就任。以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
星名 ヒサ(ほしな ヒサ、1874年(明治7年)6月21日 … 星名 ヒサ(ほしな ヒサ、1874年(明治7年)6月21日 - 1954年(昭和29年))は、日本の教員。同志社女学校に学び、夫星名謙一郎とのハワイ、テキサスでの生活を経て英語、裁縫を身につけ、松山女学校、同志社女子専門学校で教えた。同志社では長く宣教師メアリー・フローレンス・デントンに仕えた。 1874年(明治7年)6月21日愛媛県宇和郡卯之町で酒や醤油の醸造を営む旧家末光家の三男五女の第4子・三女として生まれた。地元卯之町の開明学校を卒業し、吉田町の油商浅野家に嫁いだが、離婚した。 1895年(明治28年)京都同志社女学校普通科2年に編入し、1898年(明治31年)6月卒業し、専門部英文学科に進学したが、1899年(明治32年)長兄類太郎が死去し、両親も体調不良のため、7月退学して卯之町の実家に戻り、妹トモと家事を助けた。
宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年… 宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年)- 1933年(昭和8年))は、明治期から昭和期にかけて活動した日本の漢詩人、教師。福岡県久留米に生まれ、各地を放浪としながら台湾や中国でも活動した。帰郷後は詩作を行いながら門弟を集め教育を行うなど九州詩壇の盟主となった。代表作に『侠文章』(田岡嶺雲との共著)、伝記『鄭成功』など。 本名は宮崎 繁吉(みやざき しげきち)。字は子寔、初号は柳溪。来城、来城小隠と名乗っていたが、赤髪天狗・赤髪などの筆名を使った文章も見られる。 1871年(明治4年)に久留米裏町(現在の荘島松ヶ枝町)で、久留米藩士であり俳人の宮﨑松語の長男として生まれる。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日… 奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。 明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。 1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
石川 角次郎(いしかわ かくじろう、1867年8月2日(慶応… 石川 角次郎(いしかわ かくじろう、1867年8月2日(慶応3年7月3日) - 1930年12月29日)は、日本の宣教師、基督教会(ディサイプルス)の指導者。日本の牧師、日本の教育者である。 英語学者の石川林四郎は、実弟にあたる。 1867年(慶応3年)下野国足利(現・栃木県足利市)に生まれる。 1883年(明治15年)植村正久に洗礼を受ける。1884年大学予備門に入学する。1887年にアメリカに留学する。サンフランシスコ私大、オハイオ州立大学を卒業して、英文学の修士号(M.A.)を取得する。 サンフランシスコでW・K・アズビルから洗礼を受けてディサイプルス派になる。 1902年(明治35年)ディサイプルス派から援助を受けない、独立宣教師として帰国する。
上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶… 上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶応2年10月9日〉 - 1936年〈昭和11年〉6月4日)は、日本の薬学者、薬学博士、東京薬学専門学校理事兼校長、資産家、実業家。大日本麦酒顧問。族籍は東京府士族。 東京府士族・上野銈三郎の三男。小石川久堅町(現・東京都文京区)生まれ。1883年、家督を相続した。 第一高等中学校を経て1891年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。日本麦酒会社に入り技師となり1906年、技師長に進んだ。同社解散に伴い大日本麦酒目黒工場長に就任した。1908年、薬学博士の学位を取得。 1917年、取締役に挙げられ転じて1925年、監査役となる。
富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月1… 富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月18日〉 - 明治18年〈1885年〉12月2日)は、日本の社会運動家、教師。婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。 播磨国龍野の醤油問屋の娘として生まれる。兄一人、姉三人、妹一人いる。幼い頃から学問が好きで、1878年に公立龍野中学校入学、1881年(明治14年)同校を卒業し、翌年小学高等科教員免許を受ける。京都にのぼり岸田俊子のもとで学ぶ、その後上京し、自由燈の校正係となり、その後絵入自由新聞の記者として奉職。日本で最初の女性新聞記者と呼ばれる。新聞記者従事中に、福田英子と知り合い、婦人解放運動を活動させる。
アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams… アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams、1866年?-1937年)は、アメリカのアメリカン・ボード宣教師。ニューハンプシャー州出身。医療・社会福祉に従事し、石井十次、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4… 安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の教師、牧師、経済学者、社会主義者、政治家。 キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 福岡藩士岡本権之丞の次男として現在の福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。 小学校を卒業したのち附属小学校に進んで山座円次郎、不破彦麿、塚本道遠らと級友となり、1879年3月に優秀な成績で卒業したが、実家が貧しかったこと、付近に中学が設立されていなかったこともあり、地元の漢学塾に入門した。
奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元… 奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元年3月22日) - 1912年(明治45年)1月2日)は、日本の盲目の盲学校教師。盲学校の職業教育に理療を確立させた。 1864年、加賀国(現在の石川県金沢市)で生まれる。3歳のときに失明した。8歳から加賀藩医久保三柳について鍼灸・按摩術を学んだ。研究意欲が旺盛で、西洋医学を学ぶことの必要を感じ、金沢医学専門学校の教師や学生について解剖・生理・病理などを学び、鍼灸・按摩術の研究をする。上京してさらに研鑽を積みたいという志を持つが、父親は盲人の一人旅に強く反対していた。その父親が亡くなったことから、1886年(明治19年)に上京し、築地の訓盲唖院に入学する。
乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863… 乗松 雅休(のりまつ まさやす、文久3年7月12日(1863年8月25日) - 大正10年(1921年)2月12日)は、日本のプロテスタント最初の海外宣教師。 伊予松山藩士の子供として生まれた。旧制松山中学を卒業して20代で上京して神奈川県庁に就職。1887年日本基督公会で、稲垣信牧師から洗礼を受けた。その後、明治学院に入学したとされるが、乗松の在学を証明する証拠はない。神学生時代、乗松は日本基督教会で奉仕していた。 1888年11月、イギリスから来日したプリマス・ブレザレンの宣教師ハーバード・ブランドは教会組織や信条を拒否する活動を開始していた。1889年10月以降、ブランドは聖餐を伴う礼拝を始め、キリスト同信会が誕生する。
イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabel… イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabella S Blackmore,1863年1月7日 - 1942年1月2日)は、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会の宣教師である。 東洋英和女学校校長、山梨英和女学校校長、静岡英和女学校理事、東京女子大学理事長等を歴任した教育者。それらの功績により文部大臣から表彰を受けている。 カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理を務める。また、多くの社会事業に携わり、永坂孤女院を設立して運営したり、日本基督婦人矯風会理事を務めたりした。 1863年(文久2年)1月7日 カナダのノバスコシア州のオンズロー(Onslow)で父リチャード・ブラックモーア(Richard)、母マリンダ・ブラックモーア(Malinda)の娘として生まれる。
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月… 渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は日本の翻訳家、著作家、教師、ジャーナリスト、自由民権家として明治期に活躍した人物である。渋江抽斎の実子で、本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。森鷗外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であるというのが一般的な評価である。 渋江は親交の深かった多くの民権家が民権運動後期に至り、アジアへの国権拡張を主張する中で、誰もが唱えなかった植民地問題について深い理解があった。多くの自由民権思想家が自国民の自由民権だけを意識してきたのに対して、渋江は代表作『万国戦史』の編纂をとおして戦史思想を展開し植民地政策に反対を唱えた。