竹本 弘一(たけもとひろかず 、1928年6月1日 - 19… 竹本 弘一(たけもとひろかず 、1928年6月1日 - 1993年3月18日)は、映画・テレビドラマ作品の監督・演出家。和歌山県出身。 東映映画撮影所で数々の映画作品に助監督として携わったが、当時の映画業界は斜陽を迎えていたため監督への昇進は叶わず、テレビの世界に活路を求めた。1966年、38歳の時に『悪魔くん』で監督デビューを果たす。以降は主に、東映のテレビ作品で辣腕を振るい『キイハンター』・『プレイガール』・『バーディー大作戦』などの大人向けアクション作品を演出する。他にも『仮面ライダー』・『秘密戦隊ゴレンジャー』など多くのキャラクター作品を演出し、幅広く活躍した。 長年活動を続けた東映を離れた後、大映テレビに移籍する。
黒田 実郎(くろだ じつお、1928年6月1日-1999年8… 黒田 実郎(くろだ じつお、1928年6月1日-1999年8月18日)は、幼児心理学者。 大阪市生まれ。1952年関西学院大学大学院心理学博士課程満期退学、ロンドン大学大学院心理学博士課程修了、聖和女子短期大学専任講師、55年助教授、61年教授、64年聖和女子大学教授、1970年「条件づけによる幼児の行動変容に関する実験研究」で関西学院大学文学博士。80年聖和大学教育学部教授。99年定年退任。没後正五位勲三等瑞宝章受勲。ジョン・ボウルビィのアタッチメント理論の権威であった。
佐藤 寿々江(さとう すずえ、1928年6月1日- 2016… 佐藤 寿々江(さとう すずえ、1928年6月1日- 2016年11月13日)は、日本の彩色家。現在の東京都渋谷区出身。 以前は映画館で上映される映画のポスター写真に色づけを加える彩色の作業に携わっていたが、1951年3月場所に日本相撲協会が、幕内最高優勝賞品の一つとして優勝額の贈呈を再開するにあたり、掲額される優勝額のモノクロ写真に、手作業で着色する作業を延べ62年間にわたって担当し続けた。この優勝額は5年余りにわたって蔵前国技館、次いで両国国技館に掲額された。 晩年は体調を崩したため、以前の同僚が彩色作業を手伝うこともあったが、2014年1月、優勝額を提供する毎日新聞社から、佐藤が高齢になったことに伴い、優勝額の着色作業から引退することを正式に発表。
安堂 信也(あんどう しんや、1927年6月1日 - 200… 安堂 信也(あんどう しんや、1927年6月1日 - 2000年10月18日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。早稲田大学名誉教授。 東京出身。京城で敗戦を迎える。1951年早稲田大学仏文科卒、大学院に進み、1952年パリ第3大学に留学。留学時代にはなだいなだと過ごすこともあった 。1954年帰国し、文学座で演劇の実践に携わる。1956年博士課程進学、1959年中退、1962年早稲田大学文学部専任講師、1965年助教授、1970年教授。演劇博物館副館長などを務め、1995年定年退任。 マイムやダンス・バレエに貢献した及川廣信のマイム研究所では大野一雄らと共に指導し門下から舞踏の大野慶人,マイムの佐々木博康らを輩出した。
根岸 謙之助(ねぎし けんのすけ、1925年〈大正14年〉6… 根岸 謙之助(ねぎし けんのすけ、1925年〈大正14年〉6月1日 - 1995年〈平成7年〉3月15日)は、日本の国文学者・民俗学者。 群馬県利根郡糸之瀬村(現・昭和村)出身。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、國學院大學文学部を卒業。折口信夫に師事する。 群馬県立前橋工業高等学校教諭、群馬県立高崎工業高等学校教諭、群馬県立前橋高等学校教諭をへて、群馬大学医療技術短期大学部教授。 1991年に定年退官、名誉教授、上武大学教授。 1991年に『医療民俗論』で柳田賞受賞。1992年に「医療民俗学論」で國學院大學民俗学博士となる。群馬県史編纂調査委員、群馬県文学賞選考委員も務めた。日本民俗学会会員。
各務 章(かがみ あきら、1925年6月1日 - 2012年… 各務 章(かがみ あきら、1925年6月1日 - 2012年2月7日)は、日本の詩人。教育者。 福岡市に生まれる。1943年福岡県中学修猷館を卒業。1944年召集されて満洲へ出征するが、翌年肺結核のため帰国。1945年旧制福岡高等学校を経て、1948年九州大学法文学部法科を卒業。 胸部外科手術を受けた後、1952年福岡県立鞍手高等学校教諭となり、福岡県立教育研究所(福岡県教育センターの前身)研究員、福岡県立修猷館高等学校教頭、福岡県立福岡高等学校教頭、福岡県教育庁主任指導主事、福岡県立筑紫中央高等学校校長、福岡県立筑紫丘高等学校校長、九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長を歴任。 学生時代の1944年に、湯川達典、田中小実昌らと回覧誌『止里加比(とりかひ)』を出版。
寺岡雅之(てらおか まさゆき、1925年6月1日 - 199… 寺岡雅之(てらおか まさゆき、1925年6月1日 - 1990年11月24日)は日本の大蔵官僚。南九州財務局長、中国財務局長などを務めた。 大分県出身。旧制第一高等学校、東京大学法学部法律学科卒業。東大法学部在学中の1950年1月に国家公務員六級職試験を合格。1950年4月 大蔵省に入省。主計局総務課に配属。1969年8月 関東財務局理財部長。1970年7月 国税庁徴収部徴収課長。1971年6月 国税庁徴収部管理課長。1972年6月27日 南九州財務局長。1973年1月16日 中国財務局長。1974年7月10日 大臣官房付。同年7月 退官。同年10月 日本定航保全専務取締役。1981年6月3日 中小企業退職金共済事業団理事(〜1985年7月12日)。
鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 199… 鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。テクノベンチャー創業者。 山口県出身。旧制成蹊高等学校、東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。日本冷蔵(現・ニチレイ)に入社後、食品化学研究のためフルブライト留学生として渡米。マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。日本人として戦後初の博士の称号を受ける。 帰国後は、食品会社クノールの元親会社で多国籍総合食品化学会社のCPC(現・Ingredion)に入社し、同社極東代表および同子会社・日本CPC会長に就任。また、父・鮎川義介が設立した中小企業助成会を再編し、1974年にテクノベンチャー株式会社として改称して、代表取締役社長に就任。
森下 彰子(もりした あやこ、1922年6月1日 - 194… 森下 彰子(もりした あやこ、1922年6月1日 - 1945年8月6日)は日本の女優。
白石 道義(しろいし みちよし、1922年6月1日 - 20… 白石 道義(しろいし みちよし、1922年6月1日 - 2013年10月5日)は、日本の経営者。東京都出身。 1944年に中央大学法学部を卒業し、1946年に日産火災海上保険に入社。1972年6月に取締役に就任し、1976年7月に常務、1978年7月に専務を経て、同年11月には社長に就任。1981年7月に会長を経て、1984年7月に相談役に就任。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 2013年10月5日心不全のために死去。91歳没。
清水 夏樹(しみず なつき、1922年(大正11年)6月1日… 清水 夏樹(しみず なつき、1922年(大正11年)6月1日 - 2007年(平成19年))は、日本の実業家。入間川ゴム社長・会長。 1922年(大正11年)6月1日、東京都に生まれた。北木島石材社長の片岡孫四郎の四男である。入間川ゴムの創業者であり社長の清水逸平の養子となった。 1949年(昭和22年)に東京大学経済学部経済学科を卒業し、日興証券に入社して債券部に勤務した。1951年(昭和26年)7月、家業の入間川ゴム副社長に就任した。1953年(昭和28年)8月30日、長男の清水秀樹が生まれた。妻は逸平の長女である玲子。1961年(昭和36年)には海外のゴム事情の視察を行った。 1963年(昭和38年)11月、養父の逸平は入間川ゴム会長に就任し、夏樹が入間川ゴム社長に就任した。
石川 次夫(いしかわ つぎお、1922年(大正11年)6月1… 石川 次夫(いしかわ つぎお、1922年(大正11年)6月1日 - 2011年(平成23年)2月21日)は、昭和から平成時代の政治家。宮城県名取市長。 名取市出身。東北帝国大学卒業。 1955年(昭和30年)名取町収入役、1958年(昭和33年)名取市収入役、1971年(昭和46年)助役を経て、1980年(昭和55年)名取市長に当選。6期24年務めた。
木屋 隆安(きや たかやす、1921年6月1日 - 1992… 木屋 隆安(きや たかやす、1921年6月1日 - 1992年3月11日)は、日本の作家、ジャーナリスト。 東京市芝白金三光町に生まれる。本籍・福岡県。1942年大東文化学院本科卒業、広島文理科大学文学部史学科入学。43年11月学徒動員、福岡歩兵24連隊入隊。45年満洲でソ連に捕えられ抑留、1950年に帰国、時事通信社入社、松山支社、本社政治部、地方部、外信部員、香港特派員、前橋支部長(モスクワ特派員の内示を受けるが入国拒否に遭う)。社会部次長、文化部長、社会部長、72年退社、1973年内外ニュース主筆、78年退社、中外ニュース社取締役主筆・編集主幹、専務。吉川晋に師事して小説も書いた。
今堀 和友(いまほり かずとも、1920年6月1日 - 20… 今堀 和友(いまほり かずとも、1920年6月1日 - 2016年5月8日)は、日本の生化学者。東京大学名誉教授。大阪府大阪市出身。父は教育者・心理学者の今堀友市、兄は東洋史学者・今堀誠二、生物学者・今堀宏三。弟子に2016年度ノーベル生理学・医学賞受賞者である大隅良典がいる。
吉田 俊秀(よしだ としひで、1920年6月1日- 1986… 吉田 俊秀(よしだ としひで、1920年6月1日- 1986年7月7日)は、日本の遺伝学者・哺乳類学者。 元国立遺伝学研究所細胞遺伝部長、東京医科大学客員教授。北海道大学理学部動物学科卒業、北大では牧野佐二郎教授の弟子。1954年、北海道大学より「ネズミ腫瘍の細胞学的、組織学的研究」で理学博士を取得。1986年7月7日午後零時55分、肝不全のため、東京都新宿区西新宿の東京医大病院で死去、66歳。1964年日本遺伝学会賞受賞。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
樋口 隆康(ひぐち たかやす、1919年6月1日 - 201… 樋口 隆康(ひぐち たかやす、1919年6月1日 - 2015年4月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授。文学博士(京都大学・1962年)。 福岡県田川郡添田町に生まれる。小倉中学校、第一高等学校を経て、1943年京都帝国大学文学部史学科卒。 1957年京都大学文学部助教授、同年より敦煌を調査。1959年以降、京都大学学術調査隊に参加してインド、アフガニスタン、パキスタンなどの仏教遺跡を調査。1975年教授。1983年定年退官、名誉教授。泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所長。なら・シルクロード博覧会・総合プロデューサー代行、シルクロード学研究センター所長、京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長を歴任。
相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014… 相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014年6月26日)は、日本の経済学者。同志社大学経済学部名誉教授。夫人は作家の相見とし子(1925 - 2005年)。プロ写真家であった長男、相見明は1981年にアメリカで不慮の事故死。 作詞家もず唱平の目にとまり、作曲家の山上敏が演歌に仕上げた。 相見志郎は島倉千代子の大ファンの一人である。
李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1… 李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1日 - 1996年9月6日または1999年9月6日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 漢字表記は李正烋とも。号は鳳剛(ポンガン、봉강)。 日本統治時代の全羅南道光山郡(現・光州広域市)出身。法政大学専門部法科卒。大韓青年団全羅南道組織部長・総務部長、国民会光山郡支部長・光山郡支部委員長、光州産業株式会社常務取締役、自由党光山甲区党委員長・中央委員、国会国防分科委員を務めた。 1996年9月6日に死去。享年78。 1955年11月の第3代国会議員在任中、同年春に10万ファンの無取引小切手を発行した疑いで「詐欺罪」の被告として告訴された。
松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日… 松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の建築家・土木技術者、政治家。郷里である富山県小矢部市の市長を4期14年務めた。市長としては「メルヘン建築」の建設で知られる。 1917年(大正6年)、富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。砺波中学校(現在の富山県立砺波高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進む。 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。重要河川の改修工事に携わる。建設省北陸地方建設局長在任中の1969年(昭和44年)には、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応した。同年、建設省を退官。
大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 19… 大谷 米一(おおたに よねいち、1916年6月1日 - 1995年5月9日)は、日本の経営者。ニューオータニ社長、会長を務めた。大谷米太郎の三男として生まれ、叔父の大谷竹次郎の養子となった。長男は大谷和彦。 東京都出身。1939年に早稲田大学商学部を卒業。 1961年にニューオータニ取締役に就任し、副社長を経て、1973年5月には社長に就任し、1993年6月には会長に就任。 1987年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1995年5月9日肺癌のために死去。78歳没。 日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主でもあり、勝負服の柄は桃、青袖、冠名には「キオイ」を用いた。主な所有馬にはオープン特別戦2勝のキオイドリームがいる。
福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002… 福岡 隆(ふくおか たかし、1916年6月1日 - 2002年4月9日)は、日本の速記者・評論家。 広島県因島に生まれる。小学三年で父を亡くす。1929年上京して簿記学校で速記を学び、英語の学校を卒業。早稲田大学文学通信教育部修了。海軍学校暗号科を卒業した。田鎖綱紀の知遇を得る。1959年から9年間、松本清張の専属速記者となる。谷崎潤一郎の速記もした。日本速記協会副理事長。 2002年4月9日、脳梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1… 渡辺 佳英(わたなべ よしふさ、1915年(大正4年)6月1日 - 1993年(平成5年)4月28日)は、日本の実業家。東洋パルプ元社長。中小企業金融公庫元総裁。元通産省官僚。 妻は、帝国海軍史上屈指の英才と評される、堀悌吉 海軍中将の次女。 星野嘉一の次男として愛知県に生まれ、外祖母・渡辺縫子の養子となる。 1937年(昭和12年)高等文官試験の行政科と司法科をとり、翌年1938年(昭和13年)3月東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年4月に商工省に入省。入省後間もなく、内閣法制局参事官に転じ、新憲法にも貢献した。 1948年(昭和23年)通産省に復帰。その後、繊維局化学繊維課長、資源長石炭生産局生産課長、工業技術庁調整課長、公益事業委員会審査課長、企業局企業第一課長を歴任し、1952年(昭和27年)退官。
徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - … 徳永真一郎(とくなが しんいちろう、1914年6月1日 - 2001年12月5日)は、歴史小説家。元毎日新聞編集局参与。本名は德永眞一。地域的には主に近江を舞台に、時代的には戦国時代および幕末を舞台に、歴史上の人物を描写した作品を発表し続けた。 香川県綾歌郡飯山町(現在の丸亀市)に生まれる。旧制高松中学校(現、香川県立高松高等学校)を卒業。 1940年に毎日新聞社入社。毎日新聞社鳥取支局長、大津支局長、学生新聞編集部長などの職を歴任した。学生新聞編集部に在籍中に連載した「少年三国志」が東映から映画化された。 1964年(昭和39年)に吉川英治賞を受賞。1969年(昭和44年)に55歳で退職。1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)までの4年をびわ湖放送局で常務の職にあった。
角屋 正隆(すみや まさたか、1914年6月1日 - 200… 角屋 正隆(すみや まさたか、1914年6月1日 - 2008年4月29日)は、日本の経営者。東京出版販売(現在のトーハン)社長を務めた。新潟県出身。 1932年に東京堂に入社し、1934年に中央大学経済学部経済学科を卒業。1946年に日本出版配給を経て、1949年に東京出版販売に転職。 1961年5月に取締役に就任し、1967年に常務、1975年に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1984年6月には社長に昇格。1987年6月には会長に就任。 2008年4月29日老衰のために死去。93歳没。
石黒 慶之助(いしぐろ けいのすけ、1913年(大正2年)6… 石黒 慶之助(いしぐろ けいのすけ、1913年(大正2年)6月1日 - 1998年(平成10年)1月19日)は、日本の歯科医師、海軍軍人、歯科医大尉、歯学士、医学博士、開業歯科医、(社)鶴岡地区歯科医師会会長、(社)山形県歯科医師会理事、山形県歯科医師政治連盟顧問、栄典は正五位・勲五等・双光旭日章。
小木曽 定彰(おぎそ さだあき、1913年(大正2年)6月1… 小木曽 定彰(おぎそ さだあき、1913年(大正2年)6月1日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、日本の建築家、建築学者。計画原論がある時期から音、光、熱、空気、色などに専門分化していく過程において、最初の専門学者にあげられる。 日照や照明の分野から着手した研究はその後居住環境全般に及び、今日の建築環境工学の基礎となる。また、東京大学や東京理科大学、日本大学などで教鞭を執り、人材育成にも貢献した。 1913年、東京府生まれ。父は松山市出身の松平定振で、のち小木曽達三の養子となった。1940年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同大学院に進む。 1942年から立て続けに照明学会雑誌上で発表した昼光光源に関する多数の研究は「心理の探究」だったとしており、これは求道者としての姿をよく示すもので、理学的に見ても価値が高い研究となっている。
陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - … 陸奥ノ洋 光司(むつのなだ こうじ、1913年6月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は溝口弥二郎。最高位は十両14枚目。 青森県青森市出身。出羽海部屋に入門し、1931年3月に本名の「溝口」で初土俵を踏む。1938年5月に十両に昇進。この間四股名を「溝江」から「陸奥ノ洋」に変えた。新十両の場所は5勝8敗と負け越し、幕下に落ちてからは勝ち越すことなく1940年5月で廃業した。 溝口→溝江→陸奥ノ洋
槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年… 槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年9月3日)は、日本のプロレタリア詩人。本名は吉田 豊道(よしだ ほうどう)。 高知県高知市生まれ。1931年、日本プロレタリア作家同盟高知支部を作り、その後、「槇村 浩(まきむら こう)」のペンネームで作家活動をした。反戦運動・労働運動にも参加し、反戦詩『間島パルチザンの歌』は代表作とされている。 槇村の作品は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え、日本兵士に中国軍兵士と共同して日本軍への反乱を呼びかけるなど、当時のプロレタリア文学においても例のない国際連帯の視点に貫かれていた。これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去。
高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 … 高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 - 1982年7月21日)は、日本の歴史学者。専門は西洋経済史・フランス史。 福井県今立郡河和田村(現在の鯖江市河和田町)の地主の家に生まれる。1929年、第一高等学校文科甲類に進学し、1932年に卒業。同年、東京帝国大学文学部西洋史学科入学。同期入学に林健太郎、秀村欣二らがいる。1935年に卒業し、大学院に進学する。東京市立上野中学校教諭等を経て、1941年に京城帝国大学助教授に任じられる。1947年東京大学社会科学研究所赴任。1950年5月に助教授、1952年6月に教授となる。その間、1952年から1953年にフランス政府招聘客員教授も務めた。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 200… 永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 2006年6月3日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は固体物理学で、特に反強磁性体の理論の仕事は名高い。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
荻野 凖平(おぎの じゅんぺい、1909年(明治42年)6月… 荻野 凖平(おぎの じゅんぺい、1909年(明治42年)6月1日 - 2001年(平成13年)1月22日)は、日本の政治家。(旧)静岡市長。位階は従四位。
八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993… 八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993年12月15日)は、日本の実業家。九州朝日放送の社長を務めた。 岩手県出身(一部の文献では東京都出身との記載有り)。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社し、政治部長、論説委員副主幹、西部本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任した。 1971年5月に九州朝日放送に転じ、専務に就任し、1973年5月には社長に昇格。1981年6月には会長に就任。1978年から1980年までは日本民間放送連盟副会長も務めた。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年12月15日、脳梗塞により死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飛田 勇(とびた いさむ、1909年6月1日 - 1975年… 飛田 勇(とびた いさむ、1909年6月1日 - 1975年11月17日)は、日本の経営者。千葉興業銀行頭取を務めた。愛知県出身。 1935年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 輸出入銀行、日本銀行での勤務を経て、1962年10月に千葉興業銀行専務に就任し、1965年5月に副頭取を経て、1969年4月には頭取に昇格。 1975年11月17日脳出血のために死去。66歳没。
小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 200… 小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 2003年3月10日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。長崎県出身。 1934年3月に早稲田大学文学部を卒業し、1935年10月に朝日新聞社に入社。 1964年11月に長崎新聞社専務を経て、1968年11月から1976年12月までに社長を務めた。 2003年3月10日肺気腫のために死去。93歳没。
齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1… 齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1981年10月30日)は、日本の技術者、実業家。位階は正四位。勲等は勲二等。 トヨタ自動車工業株式会社会長(第3代)、社団法人自動車技術会会長(第9代)などを歴任した。 愛知県出身。1927年、旧制前橋中学校卒業。1931年、第八高等学校理科甲類卒業。1935年、東北帝国大学工学部機械工学科卒業、豊田自動織機自動車部入社。 創業期には数少なかった大学出身の技術者として、トヨタ自動車創業者豊田喜一郎の日本車生産構想を補佐し、日中戦争中、菅隆俊のもと、岩岡次郎、豊田英二と挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)建設構想にあたった。第3代トヨタ自動車工業会長、第9代自動車技術会会長などを歴任。
高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明… 高砂 政郎(たかすな せいろう / まさろう、1907年(明治40年)6月1日 - 1989年(平成元年)10月9日)は、昭和期の政治家。塩尻市長(第2代)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 長野県東筑摩郡塩尻町(現:塩尻市)生まれ。1925年(大正14年)3月、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業。1947年(昭和22年)塩尻町議会議員、1959年(昭和34年)4月、塩尻市議会議員に当選し1967年(昭和42年)4月まで連続2期在任。同年4月に前市長の小松多喜雄を2328票差の1万3170票で破り、塩尻市長に当選。全国初の日本共産党籍をもつ市長として注目された。前市長のワンマン体制への批判の他、高度経済成長下で、道路・交通問題、下水道や不足する住宅の整備、特別養護老人ホームの建設、公害対策など福祉や市民生活に直結した問題に取り組み支持を得た。
和島 芳男(わじま よしお、1905年 6月1日- 1983… 和島 芳男(わじま よしお、1905年 6月1日- 1983年2月28日)は、日本の歴史学者。 東京府東京市生まれ。1926年静岡高等学校卒業。1929年東京帝国大学文学部国史学科卒。立教大学講師、1936年神戸女学院專門學校教授、神戸女学院大学教授、1966年同学長、のち大手前女子大学教授。日本思想史が専門で、特に日本宋学史研究で功績を残した。
幡瀬川 邦七郎(はたせがわ くにしちろう、1905年6月1日… 幡瀬川 邦七郎(はたせがわ くにしちろう、1905年6月1日 - 1974年5月12日)は、秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は大野 邦七郎(おおの くにしちろう)(旧姓:佐藤)。最高位は東関脇。 1905年6月1日に秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)で小作農家を営む家に生まれる。子供の時から骨太の体格で、運動神経が良いために動きも俊敏で度胸があり、幡野小学校で相撲を取り始めた。県内の小学校対抗試合でも高等科の生徒を向こうに回して圧勝したが、負けず嫌いの性格だったために決勝戦で敗れると悔しさのあまり泣くほどだった。小兵ながら宮相撲で圧倒的な強さを誇っており、家業でも大人顔負けの作業量を引き受けて周囲を驚かせた。
大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月… 大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月1日 – 1971年(昭和46年)7月22日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県那須郡境村(烏山町境を経て現那須烏山市)で生まれる。弁護士の書生のかたわら下野中学校(現作新学院高等学校)を卒業。中央大学専門部法科に進学し、三輪寿壮弁護士事務所の書生をしながら1927年(昭和2年)に大学を卒業。高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)宇都宮市で弁護士を開業した。 三輪の薫陶を受け日本労農党に入党し、1930年(昭和5年)宇都宮市会議員選挙(初回の普通選挙)で黒沢幸一と共に当選。労農大衆党栃木県連執行委員、栃木農民組合執行委員を務め、小作争議、労働争議を指導した。
淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 19… 淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 1976年12月3日)は、日本の経済学者・地理学者・禅画研究家、立命館大学名誉教授。 京都府生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)で学び、1921年、20歳の時、名古屋高等商業学校に一期生として入学して、宮田喜代蔵 (1896-1977) の経済学などを学んだ。1924年、京都帝国大学経済学部独逸経済学科に入学。財部静治 (1881-1946) 教授の統計学に傾き、経済地理学へと向かう。1927年京都帝国大学経済学部卒。立命館大学教授、1967年定年退任、名誉教授、大阪学院大学教授。 禅画の研究、蒐集を行った。
野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日… 野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日 - 1979年(昭和54年)1月22日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1958年)(学位論文「日本労働法の形成過程と理論」)。早稲田大学名誉教授。 千葉県出身。早稲田大学法学部卒。欧米に留学後早稲田大学法学部助教授、教授。1958年「日本労働法の形成過程と理論」で早稲田大学より法学博士の学位を取得。1973年定年退任、名誉教授、日本福祉大学教授、学監。労働法研究、戦後の労働運動を理論的に支えた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1… 青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1日 - 昭和54年(1979年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月… 春山 定(はるやま さだむ、1900年 <明治33年> 6月1日 - 1974年 <昭和49年> 7月10日)は、日本の経営者。大分県大分市出身。位階は従四位。 1925年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、帝国生命保険に入社。 1947年3月に取締役、同年7月に朝日生命保険常務を経て、1961年5月には社長に就任。1965年5月から1971年5月までに会長を務めた。 1965年6月から1967年6月までに生命保険協会会長を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章し、1940年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年7月10日急性心不全により死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996… 加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996年1月1日)は、日本の政治家、教育者。宮城県角田市長(初代・2代・3代)。元宮城県議会議員(1期)。元角田町長。角田市名誉市民。位階は正六位。 1900年(明治33年)に現在の角田市内で生まれ、1918年(大正7年)3月、角田中学校を卒業し、1919年(大正8年)宮城師範学校本科第2部を卒業。角田小学校などの校長を務めた。 戦後1947年(昭和22年)の宮城県議会議員選挙に当選し、県議会議員となった。 1954年(昭和29年)10月の新設合併により拡大した角田町の町長選挙が11月に行われ出馬し、当選。初代町長に町長に就任した。1958年(昭和33年)10月1日、市制施行により角田市が誕生。
大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900… 大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日 - 1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性アニメ監督である。 戦前期には江戸千代紙を用いた切り絵アニメーション、戦後は影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、とりわけ後者は日本のアニメーションとして初めて国際的な評価を受ける。特に1953年にカンヌ国際映画祭短篇部門に出品した『くじら』(1952年完成)は上映会場で画家パブロ・ピカソにも絶賛された。手塚治虫は「わが国のアニメーションの最初の功労者」としている。没後、大藤の生涯の業績を記念して毎日映画コンクールの中に大藤信郎賞が設けられた。 東京浅草の蓄音機録音スタジオを経営する家で、8人兄弟の7番目の子として生を享ける。
石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治3… 石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治32年)6月1日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の思想家、活動家。戦前・戦後にかけ、一貫して国家社会主義者として活動した[要出典]。 岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、1934年(昭和9年)3月10日、大日本国家社会党を設立、総理(党首)となる。
中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 195… 中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 1956年11月15日)は、昭和期の司書。石川県立図書館や東京都立日比谷図書館の館長を歴任し、近代日本の図書館発展に大きな影響を与えた。号は自邦居士あるいは空人生。 滋賀県甲賀郡柏木村(後水口町を経て、現在は甲賀市)宇田の出身。事情により学業が思うように任せず、膳所中学校を卒業したのは20歳になってからで、以後第八高等学校 を経て、1920年に京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎の門下となる。また、高校時代より飯田攩隠と親交を持ち、彼の元で度々座禅を組んだという。その後、大学院に進んだが、1923年に一年志願兵に志願したのを機に中退、除隊後は28歳で石川県主事となった。