茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日… 茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日 - 1985年(昭和60年)11月24日)は、日本の俳人、医師、法医学者。医学博士。第9代新潟大学学長、新潟大学医学部第12代学部長。本名は茂野 錄良(しげの ろくろう)。 新潟県新潟市出身。1943年(昭和18年)11月に新潟中学校を繰り上げ卒業、1945年(昭和20年)10月に海軍兵学校を卒業、1950年(昭和25年)3月に新潟医科大学を卒業。 1951年(昭和26年)7月に新潟大学新潟医科大学法医学教室助手に就任、同年9月から同教室教授で俳人の高野素十から俳句の指導を受け、「六花」の俳号を授かった。 1953年(昭和28年)4月に新潟大学医学部法医学教室助手に就任、1954年(昭和29年)8月に新潟大学医学部法医学教室(担任:山内峻呉教授)講師に就任。
城戸崎 愛(きどさき あい、1925年7月1日 - 2020… 城戸崎 愛(きどさき あい、1925年7月1日 - 2020年2月13日)は、日本の料理研究家・料理家。兵庫県出身。愛称は「ラブおばさん」。 1945年、東京家政学院卒業。 結婚後、夫が食通だったこともあって東京會舘クッキングスクールで料理を学ぶ。夫の赴任先であるパリのル・コルドン・ブルーではフランス料理を学んだ。 帰国後、料理研究家として活動を始め、名前の愛に因んで「ラブおばさん」の愛称でNHK『きょうの料理』の人気講師となる。 晩年は[いつ?]「non・no」「MORE」等の雑誌で家庭料理やお菓子を紹介していたが、高齢のためかメディアへの露出も減っていた。 2020年2月13日に急性心不全で死去。
伊藤 博(いとう はく、1925年〈大正14年〉7月1日 -… 伊藤 博(いとう はく、1925年〈大正14年〉7月1日 - 2003年〈平成15年〉10月6日)は、日本の文学者(万葉学者)。筑波大学名誉教授。伊藤益(筑波大学名誉教授)は息子。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)出身。1952年(昭和27年)京都大学文学部文学科卒業。斎藤茂吉の『萬葉秀歌』の影響により万葉集研究を志す。京都大学在学中、澤瀉久孝の下で『万葉集』などの上代文学を学ぶ。 専修大学助教授、筑波大学教授、共立女子大学学長等を歴任。その他には萬葉学会代表も務めた。 伊藤は、一首ごとに注釈を付けるという万葉研究の伝統的な研究手法に疑問を抱いており、万葉集は複数の歌からなる歌群によって構成され、全体で一つの物語となると考えていた。
荒木 茂(あらき しげる、1925年7月1日 - 生死不明)… 荒木 茂(あらき しげる、1925年7月1日 - 生死不明)は、大阪府池田市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 浪華商業ではエースピッチャー。1946年に阪急軍へ入団。1試合登板し、すぐに内野手へ転向。1950年に新球団の大洋ホエールズへ移籍。1952年に引退。 引退後は大阪でゴルフ場の支配人になった。
大原 一三(おおはら いちぞう、1924年7月1日 - 20… 大原 一三(おおはら いちぞう、1924年7月1日 - 2005年11月3日)は、日本の政治家、大蔵官僚。衆議院議員(7期)、農林水産大臣(第23代)を務めた。位階は従三位、勲等は勲一等。 宮崎県東臼杵郡北方村(後の北方町、現延岡市)出身。に生まれる。北方小学校、宮崎県立延岡商業学校(現宮崎県立延岡商業高等学校)、旧制台北高等学校、旧制第一高等学校を経て、1951年、東京大学法学部政治学科卒業。東大法学部政治学科4年次に国家公務員六級職試験(行政職、法律職)を合格。大蔵省に入省。主税局に配属。 1957年6月、御坊税務署長。1958年6月、沼津税務署長。1961年8月、東京国税局総務部総務課長。
板垣 正(いたがき ただし、1924年(大正13年)7月1日… 板垣 正(いたがき ただし、1924年(大正13年)7月1日 - )は、日本の政治家。元自由民主党所属参議院議員。日本遺族会顧問。日本会議代表委員。板垣征四郎の次男。
大宮 真琴(おおみや まこと、1924年7月1日 - 199… 大宮 真琴(おおみや まこと、1924年7月1日 - 1995年5月14日)は日本の音楽学者、お茶の水女子大学名誉教授。ハイドン研究家。本名は誠。 1924年、東京で生まれた。京都大学法学部で学び、1947年に卒業。東京大学文学部に移り、1951年に卒業した。同大学大学院美学科に進学し、1953年に修士課程修了。 フェリス女学院短期大学助教授の後、お茶の水女子大学助教授に転じ、後に教授昇格。1988年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は沖縄県立芸術大学教授として教鞭を執った。1990年、学位論文『ヨーゼフ・ハイドンリラ楽曲研究』を大阪大学に提出して文学博士を取得。ヨーゼフ・ハイドン研究所(ケルン)理事。
深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 201… 深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 2017年1月2日)は、日本の版画家、銅版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。 銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における戦後銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。 初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。
杉田 庄一(すぎた しょういち、1924年(大正13年)7月… 杉田 庄一(すぎた しょういち、1924年(大正13年)7月1日 - 1945年(昭和20年)4月15日)は、日本の海軍軍人。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少尉。 1924年7月1日、新潟県東頸城郡安塚村(現上越市)で大農家の次男として生れる。家が山中にあったので険しい山道を渡って麓にある学校に通い、雪の日でも休むことはなかった。そのため足腰が鍛えられ、杉田はよく「軍は厳しいとよく言うが俺の家の方がずっと厳しい」と語っていた。1940年(昭和15年)、舞鶴海兵団に入団。1941年2月、予科練丙3期に入り、戦闘機専修練習生となる。同期生には杉野計雄、谷水竹雄らがいる。 1942年(昭和17年)4月、第6航空隊に配属。
田幸 敏治(たこう としはる、1923年7月1日 - 201… 田幸 敏治(たこう としはる、1923年7月1日 - 2011年12月24日)は、日本の応用物理学者。東京工業大学名誉教授。元応用物理学会会長。元日本分光学会会長。 1923年7月1日生まれ。1941年12月大阪市立都島工業学校機械科、戦時繰り上げ卒業。旧制高校への進学希望がつのり、始めた受験勉強の無理と戦前・戦中の食糧事情が重なり、結核を患う。旧制松山高等学校を経て、1944年10月東京帝国大学理学部物理学科入学。1947年9月同大学卒業後は、東京大学理工学研究所研究員となる。1956年1月中央計量検定所主任研究員。1970年12月東京工業大学教授、精密工学研究所の併任教授。1972年東京工業大学精密工学研究所に転任、電気計測部門教授。
小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 200… 小林 靖雄(こばやし やすお、1922年7月1日 - 2003年10月6日)は、日本の経営学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1962年)(学位論文「原価管理に関する研究」)。東京工業大学名誉教授。第3期日本中小企業学会会長。勲三等旭日中綬章受章。 東京出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。1962年「原価管理に関する研究」で経営学博士(神戸大学)の学位を取得。1947年東京工業大学経営工学科助手(磯部喜一研究室)、1953年助教授、1962年教授、1976年工学部長、1983年定年退官、名誉教授、放送大学副学長、西東京科学大学(帝京科学大学)教授、1995-2000年同学長。2003年帝京大学医学部附属病院で死去。
村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997… 村瀬 敏郎(むらせ としお、1921年7月1日 - 1997年12月14日)は日本の医師。日本医師会会長を務めた。 旧制横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)を経て、1946年に慶應義塾大学医学部を卒業。翌年より国立三島病院で勤務し、この頃から小児科を専門とした。1950年に静岡県由比町(現・静岡市清水区)に村瀬医院を開業し、1964年に東京都渋谷区に医院を移している。 1972年からは厚生省予防接種禁忌小委員会の委員なども務め、予防接種行政に関する提言を行なって1976年の予防接種法改正に貢献した。1984年に日本医師会の常任理事となり、公衆衛生への功労で厚生大臣賞を受賞した。翌年には厚生省のAIDS調査検討委員会の委員としてアメリカの状況を調査している。
土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 199… 土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 1999年1月25日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 後に若松(わかまつ)と改姓。なお、姓の読みはどいがきではなく正しくはどいかいとと読むと言うが、なかなか正しく読んでもらえず、そのまま「どいがき」で通したと言う。 両リーグ分立前後を代表する捕手で、1947年から1952年まで6年連続でベストナインを獲得。熱血的な性格からニューヨーク・ヤンキースの往年の名捕手にあやかって和製ヨギ・ベラと呼ばれた。末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。 幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。
武石 勇(たけいし いさむ、1920年7月1日 - 1995… 武石 勇(たけいし いさむ、1920年7月1日 - 1995年)は日本の漆芸家、漆絵作家。漆を用いた様々な作品を残した。 1920年(大正9年)大阪府に生まれる。1933年(昭和8年)大阪市立天王寺尋常高等小学校卒業後、大阪市立工芸学校へ進み木材工芸技術を習得。第二次世界大戦後に復員し、茨木市で創作活動を始める。日展に入選したほか、第17回日ソ展にも入選し、入選作はソビエト連邦政府買い上げとなった。1965年(昭和40年)茨木市より文化功労者表彰、1971年(昭和46年)大阪府工芸功労賞。1995年(平成7年)茨木市にて死去。75歳。 2021年(令和3年)、茨木市の茨木市立川端康成文学館にて企画展「生誕100年 武石勇 漆の世界」が開催された。
岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年>… 岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年> 7月1日 - 2006年 <平成18年> 6月17日)は、日本の工学者。工学博士。専門は航空力学。九州大学名誉教授、熊本工業大学(崇城大学)名誉教授。位階は正四位。プロペラの研究や、ショックチューブとショックネンタルを用いた流体力学研究が特に知られており、日本の航空力学の基礎を築いたと評価されている。 朝鮮総督府の養蚕試験場で生まれ、間もなく父・岩崎行高が鹿児島高等農林学校教授に就任したため鹿児島県鹿児島市で育つ。なお、祖父の岩崎行親は鹿児島県における中高等教育草創期の中心的人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)に進学し、模型飛行機づくりに熱中する。
日高 広為(日高 廣爲、ひだか ひろため、1919年(大正8… 日高 広為(日高 廣爲、ひだか ひろため、1919年(大正8年)7月1日 - 1991年(平成3年)1月1日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)を経て、1942年(昭和17年)早稲田大学商業部を卒業した。 1942年(昭和17年)満州電気化学に入社。召集され陸軍に入隊し、大刀洗陸軍飛行学校教官、少年飛行兵区隊長などを務めて終戦を迎えた。 戦後、1946年(昭和21年)霧島村農業会経済部長に就任。青年運動に取り組んだ。姶良郡たばこ耕作連合会長、鹿児島県議会議員(4期)、同副議長(3期)、自由民主党鹿児島県連政調会長(5期)などを務めた。
富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日… 富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日 - 2007年〈平成19年〉12月21日)は、戦後日本を代表する建築家。香川県生まれ。 1919年7月、香川県に生まれて間もなく、一家は朝鮮半島へと移住した。しかし、富家の幼少時、外地でまん延したチフスが原因で一家は子供を除いて全滅してしまった。引き揚げた富家は京都下鴨にある親族の家庭に引き取られて育った。その後、京都府立第一中学校を1937年(昭和12年)に卒業、第三高等学校(理科甲類、1942年卒業)を経て京都帝国大学建築学部(現・京都大学工学部建築学科)へ進学した。入学後ほどなく徴兵され北満州への従軍を余儀なくされたものの、終戦後は復学して建築学科を卒業。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日… 久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の経営者。テレビ西日本元社長。 東京都出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1951年に文化放送に入社した。1961年にフジテレビジョンの総務部長に就任し、取締役、常務、専務を歴任した。 1973年にテレビ西日本の専務に就任し、1979年から1985年までに社長を務めた、1985年以降、取締役相談役、顧問、フジテレビジョン監査役を歴任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1989年9月21日腎不全のために死去。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年… 金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年3月22日)は日本の実業家。死亡時の役職は東宝代表取締役副社長、生活衛生同業組合京都興行理事長。東京都小平市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 20… 大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 2010年2月1日)は日本の医学者。岡山大学名誉教授。専門は公衆衛生学。 福岡県出身。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1939年九州帝国大学医学部卒業。同年5月九州帝国大学医学部第3内科(小野寺直助教授)に入局するが、同年7月には海軍軍医となり、横須賀海軍病院、海軍軍医学校、連合艦隊第4潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、海軍潜水学校、ラバウル潜水艦基地に勤務する。 1946年5月復員。同年10月九州帝国大学大学院特別研究生となり、1948年9月満了。九州大学医学部助手を経て、1950年5月助教授に就任。
玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 … 玉置 猛夫(たまき たけお、1914年(大正3年)7月1日 – 2010年(平成22年)4月21日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1941年(昭和16年)神戸商業大学(現神戸大学)を卒業した。 1941年、日本銀行に入行。外国為替局、考査局、為替管理局などで勤務し、1960年(昭和35年)に退行した。 1960年11月の第29回衆議院議員総選挙に香川県第1区から無所属で出馬して落選し、以後1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙まで2回連続で立候補したがいずれも落選。1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
斉藤 国治(齊藤 国治、さいとう くにじ、1913年7月1日… 斉藤 国治(齊藤 国治、さいとう くにじ、1913年7月1日 - 2003年2月21日)は、日本の天文学者、天文学史家。 東京天文台在職中は、太陽光の高精度スペクトルを研究するとともに、世界各地に日食観測のために渡航した。太陽コロナの極付近から出る光条について報告した論文は、今まで国際学術誌に100回近く引用されている。また、明治以後の日食、ハレー彗星、金星の太陽面通過観測の歴史の詳細な総合報告を発表した。退職後はパソコンPC9801を購入して、主に日本と中国の古い記録に残る天文現象の検証に精力的に取り組んだ。その成果は、『星の古記録』(岩波新書)など、10冊以上の著作となって実を結んだ。そうした天文現象の古記録を現代天文学によって検証する分野に対して「古天文学」と呼ぶことを提唱したが、賛否両論が起こった。
横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 … 横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 - 1998年(平成10年)11月30日)は、日本の実業家。1953年(昭和28年)の老舗百貨店、白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた。 愛知県中島郡平和村(平和町を経て現・稲沢市)の貧しい農家に二男として生まれた。生まれたとき、真っ赤な赤子であったことから、こんな赤い子は千人に一人いるかいないかだということで「千市」と名付けられた。本人はその名は好きではなく、1947年(昭和22年)「英樹」と改名する。 父親の鉞次郎(えつじろう)は18、9歳の頃に尻の出来物の手術をしたところ足が悪くなり仕事をしなくなった。
白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年… 白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年1月7日)は、北朝鮮の詩人。平安北道定州の出身。 本貫は水原白氏。本名は白夔行。1929年に日本へ留学。青山学院英文科を卒業したのち咸興で英語教師となった。ペンネームの「石」という一字は、敬愛していた石川啄木から取っている。なお白石の出生年は啄木の没年でもあり、同時代的な交流はない。 白石の詩の世界は、当時のモダニズムの影響をうけながらも、郷土的な叙情の世界を方言で表す特徴を持っている。1938年の作『私とナターシャと白いロバ』ではモダニズムのイメージを用い、『エビガラスズメが来る夕方』『カズラン峠』などでは一般の読者もわからない方言を用いるなど、民俗的な世界を表している。
小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年… 小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年〉7月1日 - 2014年〈平成26年〉7月29日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長を務めた。群馬県出身。 1912年、現在の群馬県前橋市小坂子町に生まれる。芳賀小学校を経て群馬師範学校を卒業。満洲に渡り撫順・吉林小で教員として勤務。1940年に北京大学を卒業し、1938年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)に入社。1943年に召集され海軍二等兵としてインパール作戦にも参加するが生還を果たす。 1946年帰国し毎日新聞社に復職。政治報道に従事し、安部晋太郎・竹内黎一・小林正巳は当時の部下にあたる。神戸支局長、政治部長、大阪本社編集局長を歴任。
鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1… 鳥居 久靖(とりい ひさやす、戸籍名 鶴美、1911年7月1日 - 1973年7月1日)は、日本の中国語学者・中国文学者。元天理大学教授。 愛知県八名郡石巻村(現豊橋市嵩山町)の農家の二男として生まれる。1927年、県から学資補助を受けながら愛知県岡崎師範学校(現愛知教育大学)本科一部に進学。1932年、豊橋市内の学校に奉職するも、1935年、県に頼んで南満洲鉄道株式会社奉天教育研究所に出向。ここで中国語と出会い、中国語を専攻する。1939年に一時帰国し、結婚。1940年、新京(現長春市)の新京商業学校で教鞭を執る。1942年、帰国して天理外国語学校(現天理大学)教授となる。そのかたわら、立命館大学法学部に在籍し、1944年に卒業した。
鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年… 鏡川 四郎(かがみかわ しろう、1911年7月1日 - 没年不明)は、高知県香美郡野市町(現香美市)出身で、二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は西山 四郎。最高位は十両12枚目。 同郷の元前頭の土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年10月に初土俵を踏む。1941年1月十両に昇進。十両は3場所つとめたが、いずれも大負けして勝ち越すことができなかった。1945年11月で廃業した。
稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993… 稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993年12月17日)は、日本のロシア文学者、歌人、作家。 福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。1934年大阪外国語学校ロシア語科卒。日本ロシア文学会理事。国鉄門司鉄道局勤務、実業之世界社および日露通信社の記者、陸軍航空通信学校教官などの経歴を有する。 交通新聞に私小説的な作品である『或る女の横顔』を連載。姉妹編として短編集『妻の体温』がある。また「創作」(若山牧水が創始者)に参加した歌人でもあり、昭和万葉集に作品が収められている。
加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1… 加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1978年1月26日)は、日本の歌舞伎評論家。 山口県生まれ、慶應義塾大学文学部国文科卒。在学中から岡鬼太郎に師事し、松竹、NHK勤務のかたわら戦時中より演劇評論を始める。1966年新設の国立劇場に勤務、芸能制作室長、芸能調査室長、1976年退任。 1978年1月、三原橋の街角で倒れ、死去。68歳没。『演劇界』に「家須満」の名で執筆していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不… 小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新字体表記小川 国松(おがわ くにまつ)、旧芸名澤村 國丸(さわむら くにまる、新字体表記沢村 国丸)、菊池 一郎(きくち いちろう)ほか変遷がある。映画・新派での子役出身で、松竹蒲田撮影所の少年スターから「純情型二枚目俳優」となる。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。父は同地で絹糸商を営んでいた。 旧制小学校在籍時、満8歳であった1916年(大正5年)11月12日に公開された天然色活動写真(天活)製作・配給、吉野二郎監督による『水戸三郎丸』に、「澤村 國丸」の名で五代目澤村四郎五郎らとともに出演、主演した記録がある。
安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年… 安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年7月8日)は、俳人、随筆家。前号・安住あつし。 東京市芝区生まれ。1917年に福島県平町(現・いわき市)に移り磐城中学に入学。1923年、父の事業の失敗のため東京に戻り、立教中学校に転入、1926年卒業。逓信官吏練習所を卒業を経て1928年に逓信省簡易保険局に入所。父の事業の失敗で上級学校に進めなかったことは、俳人として名をなして以降もつねに意識のなかにあったという。 1930年、同僚に誘われて短歌結社「覇王樹」に入会し、短歌を橋田東声に師事。同時期にやはり同僚に誘われ、上司の富安風生が主宰する「若葉」に入会し俳句を風生に師事。以後8年の間短歌と俳句をともに続ける。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。
越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 … 越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月24日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。
小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日… 小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日 - 1981年〈昭和56年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。長野県小諸市長。 長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)で、小山重右衛門、婦美野の息子として生まれた。旧制小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制青山学院専門部商科修了。1930年(昭和5年)丸五商店に入社し、丸五商会に改組し代表取締役となる。1944年(昭和19年)計理士を開業。1947年(昭和22年)小諸商工会議所会頭となる。1951年(昭和26年)長野県商工信用組合監事に就任した。 1953年(昭和28年)小諸市教育委員、1963年(昭和38年)小諸市議会議員となり1971年(昭和46年)まで2期在任し、同議長も務めた。
香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年… 香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年〈昭和50年〉2月7日)は日本の小説家で、探険小説や幻想小説で活躍したほか、映画『ゴジラ』の原作者としても知られる。本名は山田 鉀治(やまだ こうじ)。東京都出身。 東京神楽坂に生まれる。新宿区立牛込仲之小学校(当時は東京市牛込尋常小学校)卒。東京府立第四中学時代に横山又次郎『前世界史』を読んだことをきっかけに、恐竜をはじめとした古生物に魅せられ、独学で地質学や古生物学を学ぶ。法政大学経済学部を中退し、1927年、祖父や父と同じく大蔵省に入省して預金部に勤める。1933年に結婚し、一女をもうける。 1940年、北原白秋門下の歌人・筏井嘉一が創刊した短歌誌「蒼生」に参加し、歌人として文芸活動を開始。
小瀧 彬(小滝 彬、こだき あきら、明治37年(1904年)… 小瀧 彬(小滝 彬、こだき あきら、明治37年(1904年)7月1日 - 昭和33年(1958年)5月28日)は、日本の外務・商工官僚、政治家。参議院議員(2期)、防衛庁長官(第6代、第7代)。位階は正三位。 島根県雲南市(旧飯石郡三刀屋町)出身。東山中学、旧制松江高校文科甲類を経て、1927年東京帝国大学経済学部。 総領事、外務省情報部長、貿易庁輸出局長、通商産業省通商監、国際捕鯨委員会日本政府代表、終戦連絡大阪事務局局長。戦時中は陸軍司政官に任命された。 1950年に行われた第2回参議院議員通常選挙の島根県選挙区に自由党公認で立候補。国民民主党公認の櫻内義雄にわずか389票差で敗れた。しかし小瀧側は、櫻内の票の中に無効票(櫻内義雄の父櫻内幸雄の名を書いたものが義雄の有効票に数えられていた)が含まれているとの訴えを起こした。
池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1… 池田 宣政(いけだ のぶまさ、1904年(明治37年)7月1日 - 1988年(昭和63年)1月9日)は、昭和期の政治家、実業家、華族。侯爵、貴族院議員。旧岡山藩池田家第15代当主。初名は政鈞。 岡山県岡山市で、旧岡山藩主家13代当主、侯爵・池田詮政の三男として生まれる。学習院高等科で学んだ。兄で先代の池田禎政がスペインかぜのため26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため1920年(大正9年)家督を相続し、同年3月10日、侯爵を襲爵した。1925年(大正14年)欧米各国を視察した。 1934年(昭和9年)6月30日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任。農林省委員、農商務省委員、厚生省行政委員、帝国飛行協会(現日本航空協会)理事などを務めた。
奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月… 奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月1日 - 1974年(昭和49年)6月25日)は、京都市北区生まれの日本画家。 主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。1946年(昭和21年)第2回日展において「浄晨」が特選。
有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980… 有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980年10月28日)は、昭和期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。名村汽船取締役。 性病薬の有田ドラッグを経営し言論活動でも名を馳せた有田音松の次男として生まれる。東京帝国大学倫理科を卒業し、大阪薬学専門学校講師、終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。1946年総選挙(大阪府第1区)に日本自由党公認で初当選、その後民主自由党→自由党に所属し当選5回(大阪1区)。衆議院運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、第3次吉田内閣では商工政務次官→通産政務次官を務めた。1953年の国会予算審議では、社会党右派の堤ツルヨから「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった。
阪本 一郎(さかもと いちろう、1904年7月1日 - 19… 阪本 一郎(さかもと いちろう、1904年7月1日 - 1987年8月2日)は、日本の教育心理学者。東京第一師範学校・東京学芸大学・日本女子大学・立正女子大学短大・文教大学女子短大部の教授を歴任。勲三等瑞宝章受章者。 東京文理科大学教育学部心理学科卒。同研究科博士課程修了。1961年「語彙の教育心理学的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京府青山師範学校教諭、同付属小学校主事、東京第一師範学校教授、同教育研究所主事、東京学芸大学教授、同付属図書館長、1970年定年、日本女子大学教授、立正女子大学短大教授、文教大学女子短大部教授。 日本読書学会会長、名誉会長、76年国際読書功労賞。児童心理学、教育心理学、児童文化専攻。
江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年… 江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年12月8日)は、日本の作曲家、海軍軍人。海軍軍楽隊員。本名江口 源吾(えぐち げんご)。 岐阜県養老郡時村大字上(現・岐阜県大垣市上石津町上)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学し、信時潔の許などでチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。 1931年(昭和6年)に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した『忘られぬ花』が松平晃(レコードでは池上利夫)の歌唱により大ヒット。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、190… 慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、1901年7月1日または1902年7月1日 - 1982年12月31日〈陰暦11月17日〉)は、大韓民国の政治家。昌原郡守、居昌郡守、第2代韓国国会議員、第7代農林部長官、初代農協中央会長を歴任した。 号は素岡(ソガン、소강)。本貫は居昌慎氏。 慶尚南道居昌郡南上面出身。1918年に早稲田大学政経科を修了した後は居昌郡庁で勤務していた。1932年に居昌郡書記として勤務する時には賄賂事件により懲役10か月の刑を宣告された。その後は1936年に創立された居昌薬酒合名会社の支配人を務め、1937年と1938年の朝鮮酒類品評会で優等賞を獲得した。1938年には居昌邑で郡内初の養魚場を開設し、養魚を行った。
山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日… 山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県匝瑳郡匝瑳村中台(八日市場町、八日市場市中台を経て現匝瑳市中台)出身。1919年(大正8年)茂原農学校(千葉県立茂原農業高等学校を経て現千葉県立茂原樟陽高等学校)を卒業した。 千葉県匝瑳村農業会長、同村産業組合長、千葉県農会議員、同県信用販売購買連合会専務理事、同食糧営団理事、同農業会会長、全国販売農業協同組合連合会長、中央蚕糸協会理事、全国乾繭協同組合連合会副会長、全国農業共済協会理事、農民教育協会理事、千葉県農業協同組合連合会理事、同農業共済保険組合連合会長、東邦海運取締役、共栄火災海上保険取締役、関東いすゞ自動車販売(現関東いすゞ自動車)取締役、いすゞ産業社長などを務めた。
松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990… 松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990年5月3日)は、日本の法学者、警察官僚、衆議院議員(当選1回)。専門は行政法。地方自治法や警察法を研究対象としている。 福井県福井市で生まれ、まもなく北海道追分町(のち安平町)に移住。1922年(大正11年)に北海道帝国大学農学部卒業。1924年、京都帝国大学法学部英法科卒業。 北海道庁警部兼通訳、北海道警察練習所所長、北海道庁外事課長・警視課長、沖縄県警察部長、長崎県警察部長、宮城県学務部長、茨城県内務部長、茨城新聞社理事などを歴任。 1947年には、第23回衆議院議員総選挙で日本自由党公認で、北海道4区から出馬し初当選するが、1949年の第24回衆議院議員総選挙では落選。
山崎 巌(やまざき いわお、1900年7月1日 - 1979… 山崎 巌(やまざき いわお、1900年7月1日 - 1979年4月19日)は、日本の経営者。横河電機製作所(現在の横河電機)社長を務めた。山形県出身。 1927年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1938年8月に横河電機製作所(現在の横河電機)に転じ、同年12月に取締役に就任し、1945年11月に常務、1949年12月に専務を経て、1960年11月に社長に就任。1966年11月には会長に就任。 1962年9月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1979年4月19日尿毒症のために死去。78歳没。
森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年… 森 正蔵(もり しょうぞう/せいぞう、1900年(明治33年)7月1日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は、新聞記者。毎日新聞東京本社社会部長・出版局長取締役・論説委員長などを歴任し、戦後書いた「旋風二十年」がベストセラーとなった。 森正蔵は、1900年(明治33年)7月1日滋賀県滋賀郡小松村(現滋賀県大津市北小松)に生まれ、1924年(大正13年)東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語部を卒業し、2年後に毎日新聞社大阪本社に入社した。毎日新聞ではハルピン・奉天特派員を経てソ連特派員としてモスクワに駐在した。帰国後大阪本社外信部ロシア課長になり、当時の新聞界において有数のソ連通と言われた。