廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 200… 廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 2000年1月12日)は日本の植物学者である。専門はセリ科植物の分類学的研究である。 岐阜県出身、東京大学植物学科を経て、カリフォルニア大学に留学した。京都大学教授を長く務めた。昭和30年頃から警察の植物鑑定に協力し、『捜査植物学』全4巻を出版し、京都府警永年捜査貢献賞を受賞した。
6月7日生まれ:305人
廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 200… 廣江美之助(ひろえ みのすけ、1914年6月7日 - 2000年1月12日)は日本の植物学者である。専門はセリ科植物の分類学的研究である。 岐阜県出身、東京大学植物学科を経て、カリフォルニア大学に留学した。京都大学教授を長く務めた。昭和30年頃から警察の植物鑑定に協力し、『捜査植物学』全4巻を出版し、京都府警永年捜査貢献賞を受賞した。
中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日… 中田 大三(なかだ だいぞう、1914年〈大正3年〉6月7日 - 1998年〈平成10年〉3月25日)は、日本の実業家。神戸電鉄をはじめとする神戸電鉄グループの発展に大きく尽力した。 1914年(大正3年)6月7日に山梨県甲府市に生まれる。1936年(昭和11年)山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄で会社としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。1966年(昭和41年)11月に取締役に就任し、1969年(昭和44年)5月に常務となった。 神戸電鉄では、1970年(昭和45年)に三木駅衝突事故や丸山駅追突事故など多数の負傷者を出す重大事故を繰り返して大阪陸運局(現・近畿運輸局)より特別監査が行われており、さらに1954年(昭和29年)以来無配状態を続けるという経営状態で、これを受けて社長の原泰良や専務・常務が退任する事態になっていた。
西出 大三(にしで だいぞう、1913年6月7日 - 199… 西出 大三(にしで だいぞう、1913年6月7日 - 1995年7月8日)は日本の截金師。1985年に諸工芸の截金の分野で2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 石川県生まれ。金沢一中を経て、東京美術学校(現・東京藝術大学)で彫刻を学ぶ。在学中に彫刻家の高村光雲が、京都の浄瑠璃寺の秘仏「木造吉祥天立像」の模刻を製作する際、台座に施された截金の文様が復元不可能であり金泥で代用したことを聞き、截金の研究に取り組むようになる。それ以後、数多くの藤原・鎌倉期の仏像・仏画の截金作品を見て回り、製作技法や道具を研究して、独力での復元に成功した。 西出は元来彫刻家であったため、その造型技術を活かし、馬・牛・犬・雀・鶏などの動物や鳥類を彫刻し、これらに截金を施す作風を得意とした。
芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明… 芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
中野 ツヤ(なかの つや、大正2年(1913年)6月7日 -… 中野 ツヤ(なかの つや、大正2年(1913年)6月7日 - 平成23年(2011年)9月16日)は、日本の教育者。元学校法人鷗友学園特別顧問。石川志づ初代理事長のあとをつぎ、学校法人鷗友学園の第二代理事長を22年間つとめた。 父は東京府会議長をつとめた中野勇治郎。兄は大阪高裁長官をつとめた中野次雄。経済人類学者の栗本慎一郎は妹トシ子の長男。 1913年、東京生まれ。東京府立第一高等女学校(現都立白鷗中学高等学校)、津田英学塾(現津田塾大学)を卒業。1945年東京都教育局へ。都庁初の女性管理職として活躍し、1959年に民生局婦人部長。 1971年より鷗友学園理事、1981年~2003年理事長。 財団法人都民劇場理事、内閣売春対策審議会委員、墨田区教育委員、墨田女性センター館長、その他多くの社会福祉法人の理事等をつとめた。
松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 19… 松崎 壽和(まつざき ひさかず、1913年6月7日 - 1986年5月30日)は日本の東洋考古学者。 1913年、山口県吉敷郡東岐波村(現・宇部市)生まれ。旧制山口高等学校を経て東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。1939~1940年、北京へ滞在し、興亜院嘱託を務める。その後、文部省嘱託の後、1948年旧制広島高等学校教授、1949年広島大学文学部助教授、1965年に教授となる。 広島大学では草戸千軒町遺跡、帝釈峡遺跡の発掘を指揮した。また、1971年にイラン学術調査隊の一員としてカスピ海東南岸で遺跡の調査を行った。1976年に広島県文化財審議会委員を務める。1977年に広島大学退官後、広島県埋蔵文化財調査センターの常務理事を務めた。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7… 奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 - 2003年(平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員。1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名は奧田 嚴三(おくだ げんそう)。妻は人形作家の奥田小由女。 「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。 歌人としても著名で、1981年正月には宮中歌会始の召人に選ばれた。
森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年… 森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年2月25日)は、日本の生物学者(生態学・時間生物学)。勲二等。京都大学名誉教授、滋賀大学名誉教授、静岡女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学・1945年)。 ラテン文字転写の際にSyuiti Moriと表記される場合もある。 京都大学理学部教授、京都大学理学部附属大津臨湖実験所所長、京都大学理学部学部長、日本学術会議会員、静岡女子大学学長(第3代)、滋賀大学学長(第7代)、滋賀大学経済短期大学部学長(第7代)、環境市民代表(初代)などを歴任した。 徳島県出身の生態学や時間生物学を専攻する生物学者である。「日本の生態学の草分け」と評されており、太平洋戦争後の日本における生態学の確立に大きな役割を果たした。
村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年… 村川 幸信(むらかわ ゆきのぶ、1911年6月7日 - 没年不明)は、香川県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)。 高松中学(現・香川県立高松高等学校)在学中には、梶原英夫(のち東大野球部でプレー。1943年に戦病死)とバッテリーを組んでいたが、野球に熱中する余り、学業が疎かになり落第。仕方なく高松中を中退し、大谷中学校(京都府)の4年生に編入。ここで、当時一塁手だった青柴憲一(のち東京巨人軍に在籍)と出会い、青柴を投手に転向させ、たちまち名バッテリーとして京都府下では評判になった(甲子園出場は果たせなかった)。 1931年に青柴と共に、前年(1930年)に旧関西六大学野球連盟に加盟したばかりの立命館大学野球部に所属。
森 亮(もり りょう、1911年6月7日 - 1994年3月… 森 亮(もり りょう、1911年6月7日 - 1994年3月19日)は、日本の英文学・比較文学者、詩人、翻訳家。 大阪府生まれ。東京帝国大学英文科卒。旧制松江高等学校教授、お茶の水女子大学教授。 「新体詩抄」や「海潮音」など明治期の訳詩集の研究のほか、小泉八雲の研究でも知られ、『小泉八雲作品集』を翻訳。また『ラフカディオ・ハーン作品集』の編集と解説を担当。 1992年に訳詩集『晩国仙果』で第43回読売文学賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年… 八木 一男(やぎ かずお、1911年6月7日 - 1976年9月11日)は、日本の政治家、部落解放運動家。元部落解放同盟中央執行委員。父は元衆議院議員の八木逸郎。 1911年奈良市に生まれる。東京帝国大学経済学部卒業とともに社会運動に参加。戦後、日本社会党に入党。1952年、第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区より立候補し当選。8期つとめた。社会党内の「部落解放特別委員会」設立に尽力し、党の部落解放政策要綱を作成した。 1959年部落解放審議会設置法案を国会に提出し同和対策審議会を設置させた。 1965年8月11日「同和対策審議会」答申が出されたとき、八木一男はとても感激した様子だったという。
松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - … 松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - 2001年12月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1935年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に通商産業省に入省し、通商局長などを歴任した。 1960年に丸紅の顧問に就任し、常務、専務を経て、1971年に副社長に就任し、1975年6月に社長に昇格した。ロッキード事件で揺れていた会社の立て直しに尽力した。1981年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役に就任した。 2001年12月17日心不全のために死去。91歳没。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1987年〈昭和62年〉4月19日)は、日本の小説家、翻訳家。 北海道函館市出身。函館中学卒業。1926年に上京、松本泰のもとに寄宿する。1933年、立教大学予科を経て、法政大学文学部独文科に入学する。関口存男・片山敏彦にドイツ語・ドイツ文学を学び、豊島与志雄からフランス文学を学ぶ。 同学科を卒業後、1936年、南満州鉄道株式会社に入社。1942年、満鉄を退社し、満洲国協和会調査部に入る。1945年、ソ連侵攻により捕虜収容所に収容され、5年に及ぶシベリア抑留となった。 1951年、抑留経験をもとに雑誌『近代文学』に「シベリヤ物語」を発表した。
上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 … 上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1980年〈昭和55年〉4月13日)は、日本の版画家。1950年代初めには「魚沼六郎」という名でも作品を発表していた。プロレタリア芸術を探求して原爆も多く題材とし、海外でも高く評価された。 長野県更級郡今里村(現・長野市川中島町今里)に内村家に生まれ、長野中学校(現・長野高等学校)を卒業後、1929年に東京美術学校に進む。しかし、共産主義運動に影響を受けて学内改革運動に関わり、1932年に検挙・拘留を経て、1933年に放校処分となる。 その後、東京や郷里で綿製品仕上げ工や鉄道工夫、土工などの労働に従事し、その傍ら須坂の版画家・小林朝治に感化されて木版画を始め、1935年に川中島で木版画の頒布会を開いた。
脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7… 脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7日 - 2005年(平成17年)11月27日)は昭和期に活躍した日本の洋画家。新制作協会創立会員。童話的で温かな印象を受ける作風が特徴。実子は洋画家の脇田愛二郎。
平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7… 平井 豊一(ひらい とよいち、1907年(明治40年)6月7日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の英文学者。法政大学名誉教授。 1907年(明治40年)6月7日、新潟県で生まれる。 1930年(昭和5年)に法政大学高等師範部を卒業し、1933年(昭和8年)に法政大学法文学部英文学科を卒業する。 1993年(平成5年)10月22日、心不全により死去、86歳。 ウィリアム・シェイクスピアとジェイムズ・ジョイスを専門としており、その膨大な蔵書が法政大学図書館に平井豊一文庫(和書3702冊、洋書10320冊)として収められている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> … 佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> 6月7日 - 1985年 <昭和60年> 6月17日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。位階は従五位。 1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に大阪府農工銀行に入行。 1937年3月に日本勧業銀行を経て、1951年1月に泉州銀行に転じ、常務に就任し、1958年4月に専務を経て、1963年10月に頭取に就任した。1974年11月に取締役相談役に就任した。 1973年に泉州高等学校の設立に携わり、泉州学園名誉理事長を務め、関西経済連合会顧問、日本少年野球連盟副会長なども歴任。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲四等旭日小綬章を受章。
朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 -… 朴 峻(パク・チュン、朝鮮語: 박준、1905年6月7日 - 1973年12月16日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲国会議員。本貫は密陽朴氏。 朴 埈(読み、ハングル同)とも表記される。 慶尚北道(現・大邱広域市)軍威郡またはソウル鍾路出身。日本大学法学部政経科卒。日本政府施行弁護士試験合格後、満洲国の間島省で東振学校校長を務めた。解放後は海外通信社社長、国際評論社社長、ソウル合同消費組合理事長を歴任し、1948年5月の初代総選挙に軍威郡選挙区から無所属で立候補して、国会議員に当選した。同年6月より資格審査委員会に所属し、7月に無所属倶楽部の代表として、国務総理などの要職に現過渡政府と韓国民主党側の人物の起用を拒否する建議書を大統領の李承晩に伝えた。
田口 啓作(たぐち けいさく、1905年(明治38年)6月7… 田口 啓作(たぐち けいさく、1905年(明治38年)6月7日 - 1991年(平成3年)6月10日)は、日本の農学者。農学博士(北海道大学・論文博士・1957年)。専門は作物育種学。北海道拓殖短期大学元学長。 東京府(現在の東京都)生まれ。1933年(昭和8年)北海道帝国大学農学部卒業。同年、同農学部助手。1940年宮城農学校助教授。その後、農林水産省東北農業試験場主任研究員を経て、1957年(昭和32年)北海道大学農学部教授。同学生部長。同農学部附属農場長。1969年北海道大学定年退官。同名誉教授。北海道拓殖短期大学教授。1975年北海道拓殖短期大学学長。1981年北海道拓殖短期大学退職。1991年6月10日、肺梗塞のため逝去。
帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 199… 帯刀 貞代(たてわき さだよ、1904年6月7日 - 1990年3月31日)は、日本の女性運動家、新日本婦人の会代表委員。 島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)出身。松江高等女学校(現・島根県立松江北高等学校)卒業後の1924年に上京、織本利との結婚をきっかけに労働運動に関わる(1929年離婚)。昭和初め、全国婦人同盟や無産婦人同盟の結成に参加した。 1929年8月、東洋モスリン亀戸工場の女性労働者を主たる対象として「労働女塾」を開いた。労働者意識と女子教育を組み合わせた教育活動を行う。1930年同工場の閉鎖を巡る労働争議に参加、その後検挙と投獄を繰り返しながら執筆活動を行った。戦後も婦人解放運動に取り組んだ。
井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1… 井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1985年9月24日)は、和歌山県出身の野球選手。
九鬼 紋十郎(くき もんじゅうろう、1902年(明治35年)… 九鬼 紋十郎(くき もんじゅうろう、1902年(明治35年)6月7日 - 1986年(昭和61年)10月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。九鬼産業グループを経営する四日市九鬼家当主。九鬼紋十郎という名は、本家の九鬼紋七とともに四日市九鬼家で当主が代々襲名していた。三重県四日市市出身。 1902年(明治35年)6月7日に、九鬼水軍の末裔である四日市九鬼家の当主8代目九鬼紋七の実弟の九鬼紋十郎(1869年生まれ、幼名・金松)の長男として誕生した。幼名は九鬼金平。のち九鬼紋十郎を襲名した。父である先代の紋十郎(金松)は先々代紋十郎の養子となり、家業の肥料商と紋十郎の名を継ぎ、四日市米穀株式取引所理事などを務めた多額納税者であった。
李 相慶(イ・サンギョン、朝鮮語: 이상경、1902年6月7… 李 相慶(イ・サンギョン、朝鮮語: 이상경、1902年6月7日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、水利組合理事、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 父は中枢院賛議を務めた李恩雨(朝鮮語版)。 本籍は慶尚南道河東郡。明治大学法学部、日本大学卒。日本統治時代の朝鮮では官僚を経て、郷里で蟾津江水利組合理事を務めた。光復後は大韓独立促成国民会河東郡支部長などを経て、1950年の第2代総選挙に国民会の公認で立候補して当選し、国会議員となった。朝鮮戦争の際、孝子洞で身を隠していたところ北朝鮮に拉致された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員に就任。以降の動向や活動ついての詳細は不明。
比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7… 比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7日 - 1956年(昭和31年)10月25日)は、沖縄県の官僚、教育者、琉球政府の政治家。1952年4月から1956年10月まで琉球政府行政主席を務めた。琉球民主党初代総裁。 沖縄県中頭郡読谷村に生まれる。小学校時代に事故で右腕を失うも、勉学に励み、1925年(大正14年)早稲田大学文学部英文学科を卒業する。 和歌山県の高野山中学に勤務後、約20年間の教員生活を送り、母校である沖縄県立第二中学校の教諭および沖縄県立第三中学校の教頭を務める。 沖縄戦では県立第三中学校の学徒隊を率いたが生還し、終戦後、沖縄民政府に採用されて、翻訳課長や官房長などを歴任した。
石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 197… 石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 1972年10月1日)は、日本の映画監督。 秋田県平鹿郡増田町(現・横手市)生まれ。1926年に『愛傷』で監督デビュー。東亜キネマでは主に剣戟映画を手がけていたが、帝キネ、新興キネマ時代に鈴木澄子主演の女性映画、明治もので頭角を現し、東宝京都時代には花街映画の傑作を立て続けに発表した。浪曲映画から戦後は観光映画まで、生涯に手がけた映画は約90本。戦後は京都の花街・上七軒で妻とお茶屋を営みながら北野をどりの作・演出を行った。 新東宝に在籍していた映画監督の加戸野五郎は実弟。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日… 水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日 - 1976年(昭和51年)7月7日)は、日本の内務官僚、実業家。内務省警保局長、海軍司政長官。 兵庫県出身。農業・水池亀松の三男として生まれる。小野中学校を経て、第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し警保局保安課に配属。 1926年11月から1927年10月まで北京に駐在。以後、地方事務官・鹿児島県勤務、地方警視・奈良県警察部特別高等警察課長、北海道庁警察部特別高等警察課長、警察講習所教授、内務事務官・警保局保安課勤務、宮内書記官・大臣官房総務課勤務、警視庁官房主事、内務書記官・警保局警務課長、警視庁特別高等警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長などを歴任。
小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6… 小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6月7日 - 1971年 <昭和46年> 8月17日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1932年に安藤組(のちの安藤建設)に入社し、監査役にも就任。 1938年に取締役、1943年に専務を経て、1962年6月に社長に就任。1969年10月には会長に就任。 1970年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1971年8月17日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6… 松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 台湾台北で、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ、広島県呉市広育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て経て、1921年(大正10年)東京帝国法学部卒業し外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任。 1942年(昭和17年)、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年に東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7… 中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永。 1897年(明治30年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した。
坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7… 坂本 龍起(さかもと たつき、1894年(明治27年)6月7日 - 1969年(昭和44年)11月1日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 福岡県福岡市出身。旧福岡藩士の坂本百太郎と母チョウ(同藩士の池田良助の長女)の長男として生まれる。父百太郎は炭鉱王・貝島太助が宮田町の貝島炭鉱に設立した私立大之浦小学校の教員を務めていた。 1914年、第一高等学校大学予科卒業。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。 外務属、外務事務官、外交官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館三等書記官、同二等書記官、ブエノスアイレス領事、モンテビデオ領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務書記官・拓務書記官、通商局第三課長、同第二課長、亜米利加局第一課長、同第二課長などを歴任。
沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6… 沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6月7日 - 1970年2月13日)は、日本の実業家。鳥取県岩井郡浦富村(現・岩美郡岩美町)出身。 オックスフォード大学卒。三菱財閥本社にはいる。その後、三菱より富士紡績に派遣され、大正14年32歳にして取締役就任、昭和19年代表取締役専務(社長に継ぐ次席幹部)に就任。鈴木商店再建のため日本商事(後の双日)設立に尽力、各務記念財団理事、後楽社社長にもなる。 終戦後、財閥解体により公職追放。混乱期の中、大山ハム、東京特殊紡績、ジャパパム・エンジニアリング・カンパニーを創業し社長を務める。日伯中央協会理事として日本・ブラジルの友好につとめる傍ら、(財)日本科学振興財団の役員(評議員)として設立に尽力する。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日… 石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の英米文学者。 山口県出身。東京外国語学校英語科を経て、1916年京都帝国大学英文科卒。同志社大学教授、1924年京都帝大文学部助教授、1934年教授、京都大学教授、1951年定年退官、大阪市立大学教授、1958年京都女子大学教授を務めた。18世紀およびヴィクトリア朝の英文学研究、またフランクリンなど初期アメリカ文学の研究を行い多数の著作を著した。特にキリスト教的傾向が強い。 1979年6月30日、脳溢血のため京都市北区の鞍馬口病院で死去。89歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 19… 中山 福蔵(なかやま ふくぞう、1887年6月7日 - 1978年10月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 熊本県玉名郡江田村出身。中山勝平の二男。7歳のときに父が亡くなり、母に連れられ鹿児島県の志布志に移る。 1903年志布志尋常高等小学校を卒業し、長崎県の鎮西学館(鎮西学院)入学。1905年鎮西学館より大阪府立富田林中学校 (旧制)2年に編入し、さらに1907年(明治40年)奈良県立郡山中学校 (旧制)へ転校。1908年に第七高等学校造士館へ入学し、1911年 7月に卒業。同年東京帝国大学法学部に入学し、1918年卒業。大学卒業後、東京で弁護士となるが、東大の同級生と法廷で争うことを避けて大阪に弁護士事務所を開き、大阪弁護士会所属で活動。
藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7… 品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7日 - 1935年(昭和10年)4月14日)は、日本の宗教家。1905年(明治38年)に心教を開教した。心教では「扇下」と呼ばれた。 1873年(明治6年)6月7日、新潟県刈羽郡柏崎町比角2061番にて、父・富八と母・ハステの間に生れる。家は呉服屋であった。両親は熱心な仏教信仰者であり、俊平自身も常に経文を読誦し、礼拝を怠らず、常に学究心と道心とを忘れなかった。 柏崎町比角尋常小学校を卒業後、星野漢学塾で漢学を学び、大道長安や平井天海に就き仏教を修めると同時に、町の道場で剣道の修業を積んだ。その後上京し山口三之助や福来友吉と交わり、その後もしばしば上京しては仏教、儒教、キリスト教、哲学、剣道など各分野の大家のもとを訪れ研究したとされる。
白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4… 白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4月27日) - 1935年(昭和10年)10月23日)は日本の実業家である。 現在の兵庫県三田市に生まれた。父は白洲退蔵、子に白洲次郎、孫に牧山桂子がいる。 幼少期よりアメリカ人の家庭教師にも学び、1882年(明治15年)にバラの築地大学校に入塾。築地大学校卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。このときの留学仲間に、近衛篤麿や新渡戸稲造、樺山愛輔らがいた。帰国後は三井銀行や大阪紡績に勤めるが中途で退社。 その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月… 浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月24日> - 1912年6月1日)は、日本の僧侶、仏教学者。名古屋市天年寺第16世、曹洞宗大学林教授などを歴任。号は打睡庵。 名古屋南鍛冶屋町の浅野束穂の三男に生まれる。1879年、洗月院三世の天珠について得度。それ以来、白鳥鼎三、鷹林冷生に12年間にわたり随侍。1885年、法持寺の天珠の下で立身。1889年、天珠の室に入って嗣法。1891年、永平寺で転衣出世。1893年、天年寺に首先住職した。 1899年、曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。内地留学生となり、京都・浄土宗専門学院長の大鹿感成に倶舎論、唯識、因明などを学ぶ。その後、東大寺戒壇院長老の上田照遍に華厳、天台の講義を受ける。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月… 浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月7日(万延元年4月18日)- 1933年(昭和8年)6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。馬政局長官を務め、馬政の権威として知られた。 甲斐国巨摩郡西井出村(のち山梨県北巨摩郡大泉村、現北杜市大泉町西井出)で、酒醸造業・浅川周蔵の四男として生まれる。甲府徽典館で学び、小学校訓導、校長を務めたが視学官と対立して免職となり、1881年、陸軍教導団に入団。1886年6月25日、陸軍騎兵少尉に任官し、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を優等で卒業し、騎兵第1大隊小隊長に任じられた。1889年5月、陸軍留学生としてドイツ帝国へ留学を命ぜられ、1892年5月に帰国した。
山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年… 山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年5月16日〉 - 1924年〈大正13年〉5月7日)は、日本の政治家。 山本郡富根村(後に二ツ井町となり現在は能代市の一部)出身。1873年(明治6年)に秋田市の白土塾で学んだ。家督を受け継いでおり、妻や子もいたが、妻や妻の兄(瀬谷長治)の理解を得て、1879年(明治12年)3月16日に上京した。東京では二松学舎に入学し秋田県出身の狩野良知の元に1週間に1度「不可解のカ処質問」をしに赴く勉学に励み、自由民権思想を吸収した。およそ4か月半東京に滞在した後、暑気に当たったことと流行のコレラの心配から帰郷した。1880年(明治13年)に遐迩新聞に「国会開設建議有志団結案」を発表。
天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4… 天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4月23日) - 1928年(昭和3年)3月8日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。旧姓は井上。 八王子宿(現八王子市)の井上太郎兵衛の二男として生まれ、18歳の時に神奈川県津久井郡鳥屋村(津久井町を経て現相模原市緑区)の名主・天野三郎助の養子となる。上京し尾崎行雄と共に勉学に励んだのち、1885年(明治18年)養父の跡を継ぎ鳥屋村ほか2か村組合戸長となった。1889年(明治22年)初代鳥屋村長に就任し、治山治水に尽力した。1891年(明治24年)神奈川県会議員、1903年(明治36年)津久井郡会議員、同議長を歴任した。
高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈… 高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈1830年6月7日〉 - 1886年〈明治19年〉12月10日)は、上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)出身の養蚕業者。清温育を生み出し日本中に広めた。長五郎は通称で、名は重礼。 その遺跡である「高山社跡」は国の史跡に指定されており、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産となっている。 文政13年(1830年)4月17日に高山村で生まれた。高山家は戦国時代以降、この村に住むようになったと伝えられており、高山彦九郎と共通の先祖を持つという。 経済観念に乏しい父のもとで傾いていた家にあって、幼時に母をなくし、祖母に育てられた。この祖母が敬虔な気持ちを持って養蚕業に熱心に打ち込んでいたが、蚕病によってたびたび深い悲しみに暮れることがあった。
鈴華 ゆう子(すずはな ゆうこ、6月7日生まれ、年齢非公開)… 鈴華 ゆう子(すずはな ゆうこ、6月7日生まれ、年齢非公開)は、茨城県水戸市出身の日本の歌手、作詞家、作曲家、詩吟師範(吟道鈴華流 宗家)、ピアノ奏者、声優、ラジオパーソナリティ。 ユニバーサルミュージック、和楽器バンドは株式会社イグナイトマネージメント、ソロおよび華風月は株式会社INOKA SOUND、それぞれに所属する。詩吟師範で、ソロの歌手活動や和楽器バンド・ボーカルを担当し、華風月でボーカル・ピアノを担当する。配偶者は和楽器バンドと華風月のメンバーで箏を担当するいぶくろ聖志で1女の母である。いばらき大使、水戸大使を務める。鈴華メソッド代表のほか吟道鈴華流を創流した初代宗家である。 3歳からクラシックピアノを始める。
天満 のどか(てんま のどか、6月7日 - )は、日本の元プ… 天満 のどか(てんま のどか、6月7日 - )は、日本の元プロレスラー。現役時代は東京女子プロレスに所属していた。岡山県津山市出身。実妹はプロレスラーの愛野ユキ。
玉樹 庵(たまき いおり、6月7日 - )は、日本の漫画家、… 玉樹 庵(たまき いおり、6月7日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。 大分県大分市出身。現在は愛知県一宮市在住。 学生時代からゲームのキャラクターデザインなどで活躍。2014年から「LINEマンガ」で連載した『微笑女Mitsu』は、初日から20万ダウンロードを突破し人気を得る。 FOD(フジテレビオンデマンド)では月9ドラマ「恋仲」をコミカライズし話題に。絵のクオリティの高さ、表現力には定評がある。