橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月… 橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月8日 - 1997年〈平成9年〉12月11日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。群馬県出身。 1922年、群馬県富岡市出身の父・市郎の子として台湾に生まれる。台南市旧制第一中学校、旧制台北高等学校理科甲類卒。1944年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1946年に沖電気工業に入社した。1970年に取締役に就任し、1975年に常務、1979年6月に専務を経て、1982年5月に社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1992年10月に相談役を経て、1993年6月に特別顧問に就任。通信機械工業会会長も務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等瑞宝章を受章。
富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 -… 富岡 惣一郎(とみおか そういちろう、1922年1月8日 - 1994年5月31日)は、日本の洋画家。 新潟県高田市南本町出身。新潟県立高田商工学校卒業。黄変や亀裂、剥落などのない白い絵の具を自ら開発して作品を手がけ、「トミオカホワイト」と呼ばれた。著名な作品に「白の世界シリーズ」など。 現在[いつ?]、新潟県南魚沼市の八海山山麓には、1990年(平成2年)11月に開館した「トミオカホワイト美術館」があり、富岡惣一郎の作品が多数収蔵・展示されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
青木 外志夫(あおき としお、1921年1月8日 - 200… 青木 外志夫(あおき としお、1921年1月8日 - 2006年9月6日 )は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。元経済地理学会会長。 孫はメモリーアスリートの青木健。 滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)生まれ。旧制・滋賀県立彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)を経て、1941年に旧制・彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)を卒業。同年、旧制・東京商科大学(現・一橋大学)に進学するも、1943年12月、学徒出陣により歩兵第一五一連隊に応召。1944年に半年繰上げで卒業となる。1945年9月に歩兵第四四三連隊より復員し、1949年東京商科大学研究科に特別研究生として入学。1954年に同研究科(5年課程)を修了後、一橋大学経済学部助手、専任講師、助教授を経て、1965年に教授昇任。
金 英煥(キム・ヨンファン、김영환、1921年1月8日 - … 金 英煥(キム・ヨンファン、김영환、1921年1月8日 - 1954年3月4日)は、大韓民国の軍人。韓国空軍創設者の1人。父に金埈元。兄に金貞烈。 1921年1月 に生まれる。1939年3月、京畿公立高等学校卒業。卒業後は津田沼飛行学校に入学。1944年、関西大学入学。航空部におり、学生航空の鳥人として有名であったという。1945年、学徒出陣して陸軍予備士官学校に入学。卒業後は砲兵少尉となり咸興地区で終戦を迎えた。 1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10016番)。第6連隊の創設に参加して同連隊A中隊長。隊員の多くが共産主義で意見が合わず、ついに集団で殴打される事件が起きると中隊長を辞した。
村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月… 村上 一平(むらかみ いっぺい、大正10年(1922年)1月8日 - )は、日本の実業家。医療法人 同愛会 博愛病院理事長。ハクアイ社長。裁判所調停委員。 元米子市長野坂寛治は、父常三のいとこにあたる 鳥取県米子市尾高町出身。 啓成小学校、米子中学校(現在の米子東高校)を経て昭和19年(1944年)京都帝国大学経済学部卒業。昭和21年(1946年)米子市国民健康保険組合常務理事。昭和23年(1948年)米子信用金庫勤務、昭和29年(1954年)米子駅前支店長(初代)、昭和33年(1958年)米子西支店長。 昭和36年(1961年)市長である野坂が大山観光開発の社長になったので手伝うために入社する。
早石 修(はやいし おさむ、1920年1月8日 - 2015… 早石 修(はやいし おさむ、1920年1月8日 - 2015年12月17日)は、日本の医師、医学者。専門は生化学、医化学。京都大学名誉教授、大阪バイオサイエンス研究所理事長。医学博士(1949年、大阪大学)。アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。京都大学医学部医化学教室の主任教授として、多くの研究者を育てたことで知られる。
森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 19… 森嶋 東三(もりしま とうぞう、1920年1月8日 - 1984年6月7日)は、日本の経営者、銀行家。東ソー社長を務めた。山梨県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年に日本興業銀行に入行。1962年5月に取締役に就任し、1972年11月に常務を経て、1975年5月に副頭取に就任。1978年6月に東洋曹達工業(現在の東ソー)顧問と副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。 1984年6月7日胆管癌のために死去。64歳没。
原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12… 原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12月23日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本炭鉱労働組合(炭労)委員長。 北海道夕張市生まれ。1935年夕張市鹿の谷高等小学校卒業。北海道の中小炭鉱に入り、兵役を経て、1944年北海道炭礦汽船平和鉱業所に入社。1946年平和炭鉱労組書記長、1947年同労組委員長。1950年北海道炭鉱汽船労働組合連合会(北炭労連)副委員長。1951年日本炭鉱労働組合(炭労)副委員長。1952年の破防法をめぐる炭労の左右対立では左派を代表する立場にたち、同年の炭労スト、1953年の三井炭鉱労連の「英雄なき113日の闘い」などを指導。1956年炭労委員長となり、1959年から1960年の三井三池闘争を指導したが、最終的に中労委の藤林斡旋案(会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職する)を受諾して、炭労は敗北した。
来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年… 来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。 外交官である父・来栖三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれる。アメリカ滞在時は、「ベア」の愛称で呼ばれていた。1927年(昭和2年)に日本に帰国し、暁星中学校を経て、1937年(昭和12年)に横浜高等工業学校(現:横浜国立大学工学部)に入学。高工時代はラグビー部のキャプテンを務めていた。1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業し、翌4月に川西航空機に入社した。 その白人の血が色濃く出た混血ゆえに、普段から強い偏見やいじめに遭っていたが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まり、周りから容貌について揶揄されることは無く、本人も弱音を漏らす事は少なかった。
光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8… 光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8日 - 1999年(平成11年)4月11日)は日本の建築家。兵庫県庁舎などモダニズムの作品を残した。位階は正五位。 福岡県出身。1942年、東京工業大学建築科卒業。召集を受け、ビルマ戦線で終戦を迎え、捕虜生活となる。日本に帰還後、1948年に兵庫県庁入り。1950年に営繕課へ配属され、以後、県庁舎や県立近代美術館の設計に当たる。1970年に退職し、明石工業高等専門学校教授。1979年、同校を辞し、光安建築設計事務所を開設する。兵庫県建築設計監理協会会長などを務めた。1999年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
帆足 正音(ほあし まさと、1919年(大正8年)1月8日 … 帆足 正音(ほあし まさと、1919年(大正8年)1月8日 - 1942年(昭和17年)3月15日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍予備中尉。マレー沖海戦においてイギリス艦隊を発見した偵察機の機長である。 大分県玖珠郡森町(現・大分県玖珠郡玖珠町)出身。父は浄土真宗本願寺派・鷹巣山光林寺の住職である。龍谷大学専門部に入学し、1938年(昭和13年)1月から、1940年(昭和15年)3月まで海軍予備航空団で飛行訓練を受ける。大学を卒業し僧侶の資格を得た後、海軍航空予備学生となり霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊。1941年(昭和16年)4月、訓練終了と共に予備少尉に任官した。同日充員召集を受け、木更津海軍航空隊附となる。
大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 197… 大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 1975年10月4日)は、日本の政治家。2人目の和歌山県公選知事(1967年4月23日 - 1975年10月4日)として3期を務めた。長男は前和歌山市長の故 大橋建一。 和歌山市出身。父の仕事の関係で京畿道京城府(現・ソウル特別市)に生まれた。第五高等学校を卒業。1941年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部卒業後、内務省に入省し千葉県属となる。千葉県警察部勤務を経て、短期現役海軍主計科士官(8期)を志願。1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎え解員(復員)した。
田村 三郎(たむら さぶろう、1917年〈大正6年〉1月8日… 田村 三郎(たむら さぶろう、1917年〈大正6年〉1月8日 - 2015年〈平成27年〉12月4日)は、日本の農芸化学者(生物有機化学)。位階は従三位。勲等は文化勲章。学位は農学博士(東京大学・1954年)。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。 満州国大陸科学院での勤務を経て、東京帝国大学農学部副手、東京大学農学部教授、富山県立技術短期大学学長、東京農業大学教授などを歴任した。 1917年(大正6年)、群馬県吾妻郡沢田村(現・中之条町)四万温泉で旅館業を営む田村茂三郎の三男として生まれる。1929年(昭和4年)上京し、旧制武蔵高等学校を卒業。1939年(昭和14年)東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。
吉光 久(よしみつ ひさし、1917年1月8日 - 1996… 吉光 久(よしみつ ひさし、1917年1月8日 - 1996年10月24日)は、日本の経営者。日本合成ゴム(現在のJSR)社長を務めた。広島県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、1942年に商工省に入省。1966年に通商産業省化学工学長、1968年に重工業局長、1969年に中小企業庁長官を経て、1971年に日本開発銀行理事に就任。1974年11月に日本合成ゴム専務に就任し、1975年5月に副社長を経て、1982年6月に社長に就任。1987年6月には相談役に就任。 1988年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1996年10月24日呼吸不全のために死去。79歳没。
佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月… 佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年(大正4年)1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。雅号は良素。 民社党委員長(第4代)、衆議院議員(12期)、参議院議員(1期)を歴任。 元鹿島建設副社長鹿島新吉は岳父に当たり元中央大学総長の升本喜兵衛は実兄、甥に初代養父市長の佐々木憲二がいる。 兵庫県養父郡伊佐村浅間(八鹿町を経て現養父市八鹿町浅間)生まれ。旧制豊岡中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部を卒業。創立間もない日本発送電に入社し、1946年に日本電気産業労働組合協議会(翌年電産労組として単一化される)が結成されると、初代書記長兼副闘争委員長となる。
松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 201… 松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 2011年1月1日)は、京都府出身の元女子水泳選手。1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに競泳女子代表として出場した。 舞鶴市に生まれる。父は大日本帝国海軍の軍人であり、一時横須賀市に移ったが、関東大震災のため舞鶴に戻った。水泳に取り組むきっかけは、高等女学校3年のときに訪れた。父の退役に伴い転校した市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)には、プールと水泳部があり、当時の水泳部顧問にクロール泳法を習ってめざましい進歩を見せた。翌年、大阪府立女子校の水泳大会に出場して50メートル自由形で日本記録に並ぶ好記録を出し、さらに次の年には50メートル自由形及び100メートル自由形で日本新記録を出していた。
大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年… 大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋→武隈部屋所属。本名は真光 弁。最高位は十両15枚目。 大阪府岸和田市出身。1932年2月、「眞光」の四股名で初土俵を踏む。元両國の武隈が部屋を出羽海部屋から独立した際に移籍した。1942年5月に十両に昇進、四股名も「大和泉」から「大泉」に改めた。この場所6勝9敗と負け越し、幕下に落ちた。1年後の1943年5月に廃業した。
若林 正武(わかはやし まさたけ、1913年(大正2年)1月… 若林 正武(わかはやし まさたけ、1913年(大正2年)1月8日 - 1984年(昭和59年)8月22日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、林野庁長官。 長野県更級郡上山田村(上山田町を経て現千曲市)で生まれる。1937年(昭和12年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。同年、朝鮮総督府に入府。その後、応召した。 1947年(昭和22年)農林省に入省し、同山林局、経済安定本部、林野庁、石川県、帯広営林局、山梨県などで勤務し、林野庁長官に1966年(昭和41年)7月から1967年(昭和42年)9月まで在任して退官した。その他、中央鳥獣審議会委員、中央森林審議会委員、歴史的風土審議会委員などを務めた。
杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月… 杉本 龍造(すぎもと りゅうぞう、1913年(大正2年)1月8日 - 1997年(平成9年)2月10日)は、日本の政治家。三重県鈴鹿市長を務めた。位階は正五位。勲等は旭日中綬章。鈴鹿市名誉市民。 河芸郡箕田村(現在の鈴鹿市)出身、家業は代々続いた造り酒屋で屋号は箕田屋と言われていた。夫人も四日市市の造り酒屋から輿入れしている。 1942年6月、河芸郡神戸町議会議員、翌1943年2月に合併により鈴鹿市議会議員に就任。1946年に33歳の若さで鈴鹿市の2代目市長に就任。翌1947年、公職選挙法施行による市長選挙に立候補し、無投票のまま公選市長として就任。 1957年5月三重県市長会会長、1970年6月全国市長会副会長、1971年7月全国市長会相談役を歴任。
藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年… 藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の俳優である。 昭和期において、黒澤明監督作品の主演を多数務めるなど、日本映画界の大スターの一人であった。戦時中は戦意高揚映画に、戦後も戦争映画に多く出演した。 1912年(明治45年)1月8日、福岡県久留米市京町に生れる。 1929年(昭和4年)に南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後上京し大学を受験するも失敗、帰途京都に立ち寄り、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で古海卓二の助監督を務めていた郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められる。 1930年(昭和5年)これが縁となって、右太プロに入り、エキストラとして出演する。
内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912… 内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912年1月8日 - 1986年3月16日)は、昭和期の政治家、文部官僚。文部大臣(第100代)、参議院議員(3期)。大妻女子大学学長。 神奈川県中郡西秦野村渋沢(現秦野市)に、葉タバコ農家を営む諸星喜之助の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現神奈川県立小田原高等学校)、東京高等師範学校を経て、1936年東京文理科大学英語英文科を卒業、文部省社会教育局に嘱託として入省する。また同年に内藤春子と結婚し、内藤家の養子となった。文部省入省後の1942年に高等文官試験に合格し、大臣官房文書課総務掛長となる。 戦後は省内随一の英語力を武器に、GHQとの折衝で活躍し頭角を顕した。
今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年… 今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本の映画監督。
賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5… 賀古 明(かこ あきら、1911年1月8日 - 1995年5月9日)は、国文学者。 愛知県生まれ。國學院大学文学部国文科卒。1962年「万葉集歌語の研究」で文学博士。和洋女子短期大学教授、東邦大学教授。
大塚 茂(おおつか しげる、1911年 <明治44年> 1月… 大塚 茂(おおつか しげる、1911年 <明治44年> 1月8日 - 2004年 <平成16年> 4月13日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官・日本航空常務理事・新東京国際空港公団総裁を歴任した。 東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大法学部政治学科在学中に高等試験行政科を合格。1936年、逓信省入省。貯金保険局保険業務課長、資材局調整課長、大臣官房文書課長、大臣官房資材部長、名古屋郵政局長、大臣官房人事部長などを務める。1957年10月、簡易保険局長。その後は貯金局長となり、1961年6月16日、郵政事務次官。1962年5月、退官。 郵政事務次官退官後、日本航空の常務理事となるが、「次の埼玉県知事に推す」と請われて1966年に埼玉県副知事になる。
高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 -… 高松 棟一郎(たかまつ とういちろう、1911年1月8日 - 1959年5月26日)は、日本のジャーナリスト。父は真岡町長や下野銀行支店長を務め、煙草元売捌所を営業していた高松 甚一郎。弟は洋画家でグラフィックデザイナーの高松 甚二郎。栃木県出身。1935年、東京帝国大学独文科卒。東京日日新聞(のち毎日新聞)に入社。ロンドン、ニューヨーク特派員となり1941年の日米開戦で交換船により帰国。戦後、1948年、『サンデー毎日』編集長。退社後、東京大学新聞研究所教授となるが、48歳で死去。 林芙美子の恋人だったと言われており、桐野夏生は『ナニカアル』で高松をモデルとした斎藤という新聞記者と、1942年から1943年の間にボルネオなどで会い、そのため生まれた子が、芙美子が養子とした泰(作中では晋)だという仮説を提示している。
田中 敦(たなか あつし、1910年1月8日 - 1998年… 田中 敦(たなか あつし、1910年1月8日 - 1998年10月24日)は、日本の経営者。倉敷紡績社長、会長を務めた。 京都府亀岡市出身。1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1944年4月に倉敷紡績に転じ、1955年6月に取締役に就任し、1959年6月に常務、1962年3月に専務を経て、1964年6月に副社長に就任し、1965年6月に社長に昇格。1979年7月には会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。 1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1998年10月24日、心不全のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
魚返 善雄(おがえり よしお、1910年1月8日 - 196… 魚返 善雄(おがえり よしお、1910年1月8日 - 1966年3月27日)は、日本の言語学者、中国文学研究者。信濃憂人の別号を持つ。 1910年、大分県玖珠郡北山田村(現・玖珠町)に生まれた。1926年より上海の東亜同文書院に学ぶが、病気のため1929年に中退して帰郷。1933年に文部省検定試験に合格し、英語と支那語の教師資格を取得して東亜学校で教職に就いた。1937年より日華学会理事、NHK嘱託として北京語放送を担当。1939年より東京帝国大学(新制後は東京大学文学部)非常勤講師を27年務めた。戦時中、東京高等師範学校教授。 太平洋戦争後は東洋大学、駒澤大学、東洋大学客員教授として教鞭をとった。
三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8… 三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8月8日)は、日本の工学者。玉川大学教授。 1910年、東京生まれ。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)、東京工業大学卒業。三井化学を経て、玉川大学工学部教授。長年に渡り品質管理の普及に尽力した。1952年、デミング賞受賞。1980年、藍綬褒章受章。 第2次世界大戦終戦直後、戦後復興を目指し、1945年に日本規格協会、1946年に日本科学技術連盟(Japanese Union of Scientists and Engineers、以下JUSE)がそれぞれ活動を開始した。1948年にJUSEに設立された統計的品質管理調査委員会メンバーとして、朝香鐵一、石川馨、河田龍夫、茅野健、西堀榮三郎、増山元三郎、水野滋らとともに活動を開始し、戦後復興を目指す日本産業界に品質管理の普及を行った。
岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8… 岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。三菱モンサント化成(現・三菱ケミカル)の元社長。 林雅之助の長男として東京府(現・東京都)に生まれ、三菱財閥の岩崎小弥太の婿養子となった。父・雅之助は外交官・林董の長男。 淑子夫人は岩崎俊弥の次女で小弥太の養女。なお淑子の母・八穂は盧高朗の六女にあたる(盧家は元々明帰化族の出であり、代々長崎で唐通事を任じられていた)。俊弥は小弥太の弟なので淑子は伯父の養女になり忠雄を婿養子として迎えたことになる。また順天堂大学の基礎を作った医師・佐藤泰然は忠雄の曾祖父にあたる。実姉の義弟(夫の弟)に潮田江次。
新郷 重夫(しんごう しげお、Shigeo Shingo、1… 新郷 重夫(しんごう しげお、Shigeo Shingo、1909年(明治42年)1月8日 - 1990年(平成2年)11月14日)は、日本の技術者。特に品質工学分野において功績を残している。日本国内よりも海外、特にアメリカで高い評価を受けている。今日でも、新郷の著作はアメリカを中心に多数出版されている。 ポカヨケや金型のシングル段取り変え(SMED)などの基本コンセプトを残していることでも知られ、今日でもそれらの著作が出版されている。 彼の功績を称え、ユタ州立大学(Utah State University)を中心に設立された新郷賞(The Shingo Prize)は、「製造業のノーベル賞」とも称される。
三並 義忠(みなみ よしただ、1908年(明治41年)1月8… 三並 義忠(みなみ よしただ、1908年(明治41年)1月8日 - 1966年(昭和41年)9月1日 )は、昭和期の工学技術者。自動電気釜の開発者として知られる。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)出身。小学校を卒業後鉄道省に入省。鉄道機関士を目指し働きながら大阪市立都島工業専修学校(現・大阪府立都島工業高等学校定時制課程)で学ぶ。1928年に鉄道省を退職して上京。芝浦工学校(現・芝浦工業大学)を卒業。 ドイツ系の機械商社アンドリュウス社に入った。1932年または1934年に独立し光伸社を設立。精密測定器を製作した。戦後はテープレコーダーや16ミリ映画のトーキー、圧力釜などを作った。 1952年に東京芝浦電気(東芝)と関係し、自動電気釜を発明した。
竹山 謙三郎(たけやま けんざぶろう、1908年 <明治41… 竹山 謙三郎(たけやま けんざぶろう、1908年 <明治41年> 1月8日 - 1986年 <昭和61年> 3月13日)は、日本の建築家、建築構造学、建築防災学の研究者。位階は従四位。 静岡県浜松市出身。1932年に東京帝国大学工学部を卒業。同年大蔵省営繕管財局に嘱託技師として入局。1945年工学博士(東大、木構造)。1946年、戦災復興院第二技術研究所技師、建設省建築研究所、1955年、同所長。1961年に退職。東京都立大学教授。1963年、鹿島建設技術研究所4代目所長に就任、1966年、所内に電子計算センターを新設し日本初の超高層「霞が関ビル」の建設に大きく貢献した。1968年退職、日本女子大学教授。
林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日… 林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日 - 1991年(平成3年)11月12日)は、日本の内務官僚、陸上自衛官。東京帝国大学卒業(法学部卒)。初代統合幕僚会議議長。第11代日本赤十字社社長。陸軍中将林弥三吉の息子である。正三位勲一等旭日大綬章。
森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月… 森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月8日 - 1982年〈昭和57年〉11月18日)は、戦時中から戦後にかけて日本における農業実習を説いた人物である。 福岡県田川郡香春町生まれ、福岡県立田川農林高等学校を経て鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)、農林省(現・農林水産省)を経て、秋田県農業試験場で研究員として勤務していたが、第二次世界大戦で森友三治(満州国副参事官、満州国にて死亡)、森友一(日本海軍、戦死)が亡くなり森友家の跡継ぎ不在となったため、福岡県へ帰郷。帰郷後も農業研究の経験を活かし、農業実習の指導や農村における副業についても研究・指導、また国連職員としてモンゴルでの農業普及にも貢献した。
小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8… 小坂 佐久馬(こさか さくま、1906年(明治39年)1月8日 - 1988年(昭和63年)7月20日)は、昭和期の日本の出版事業家。 現在の北海道旭川市に生まれる。 1928年、旭川師範学校(現在の北海道教育大学旭川校)を卒業後、北海道内の小学校で教員として勤務した。 穂高書房社長などを経て、1948年、設立に参画した教育出版専務となる。以後、副社長(1963年)を経て、1967年に社長に就任した。1975年に社長を宍戸馨に禅譲、のち相談役に退く。他に教科書協会常務理事などを務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日… 金 英基(キム・ヨンギ、朝鮮語: 김영기、1905年1月8日 - 1989年5月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は慶州金氏。 京畿道安城郡出身。中東中学校卒、日本大学専門部法科卒または中退。朝鮮日報記者・取締役、新幹会会員、株式会社三益社支配人を経て、解放後は安城郡小作委員会委員、好城産業株式会社専務、朝鮮農工株式会社取締役、安城産業株式会社専務取締役、大韓逓信事業協会理事、平沢税務署所属調査委員、韓国独立党安城郡委員長・中央党執行委員、大韓独立促成国民会安城支部委員長、大韓労総安城支部顧問、大韓農民総同盟安城支部顧問・副委員長、国会懲戒委員会委員長・懲戒資格委員会委員長・財政経済委員会常任委員、京畿道知事、大韓海運公社監事、忠北旅客株式会社社長、制憲同志会総務幹事・副会長を務めた。
馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年… 馬 海松(ま かいしょう、1905年1月8日 - 1966年11月6日)は、朝鮮の児童文学作家。本名は馬 湘圭(マ・サンギュ、마산규)。創作童話の執筆に生涯を捧げ、方定煥と共に朝鮮の児童文学運動を先駆を担う。その文才は菊池寛に認められ、『文藝春秋』の編集部に入り、のち『モダン日本』の社長となる。朝鮮人にして日本の文化界の一流文人として活動した。詩人の馬鍾基は子。 1905年1月8日、京畿道(現:黄海北道)開城市大化洞52番地に生まれる。父は木川馬氏の馬応輝、母は密陽朴氏の朴光玉で、7人兄妹の6番目である。幼名は昌録。6歳の頃から書堂で漢文を習い、1912年、7歳で開城第一公立普通学校に入学、1916年に卒業する。
高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 197… 高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 1978年2月28日)は、昭和期の政治家、内務・警察官僚。位階は正三位。 衆議院議員(8期)、文部大臣を歴任した。 山口県美祢郡東厚保村(現・美祢市)小杉に、農業・高見政五郎の次男として生まれる。高等小学校を卒業後、炭焼きをしながら独学で教員免許を取得、小学校代用教員となる。その後軍隊生活等を経て、1928年大阪府天王寺師範学校第二部(現・大阪教育大学)を卒業、1929年関西大学専門部法科卒業後、大阪府庁学務部に勤務するが、1929年に高等文官試験行政科に合格する。翌1930年には法律科にも合格し、1938年内務省に入省する。 秋田県社会部長、警視庁警視、和歌山県警察部長、奈良県経済部長等を経て、静岡県経済部長となるが、1951年次期県知事の有力候補者であった県総務部長の斎藤寿夫と親しいことを理由に、当時の小林武治知事によって左遷される。
大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 199… 大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 1991年4月29日)は、日本の法学者(憲法)。法学博士(立命館大学・論文博士・1947年)。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。山形県出身[要出典]。 戦後、押し付け憲法論、憲法無効論、改憲論を積極的に唱えた。 旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)を経て、1929年に京都帝国大学法学部卒業。同大では佐々木惣一に憲法を学ぶ。1947年立命館大学より法学博士の学位を取得。 1930年、和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)講師、1939年、同教授。1947年、大阪府立淀川工業専門学校(大阪府立大学工学部の前身)校長、1947年12月京都大学法学部教授(国法学講座)、1950年から1956年まで大阪大学教授兼任、1956年9月京都大学法学部長(1958年12月まで)、1966年4月京都大学を定年退官し名誉教授となる。
山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8… 山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8日 - 1994年〈平成6年〉2月26日)は、日本の文学者(フランス文学)。愛知大学名誉教授。 京城帝国大学法文学部助教授、愛知大学文学部教授、愛知大学文学部学部長、愛知大学教養部部長などを歴任した。 静岡県出身のフランス文学を専攻する文学研究者である。シャルル・ボードレールやアンドレ・ジッドの作品の研究で知られている。当初は京城帝国大学で教鞭を執り、太平洋戦争後は長年に亘り愛知大学で教鞭を執った。 1903年(明治36年)1月8日に山崎豐太郞の二男として生まれ、静岡県小笠郡で育った。愛知県名古屋市に所在する旧制高等学校にて学んだ。東京府東京市に所在する東京帝国大学に進学し、文学部の仏文学専攻で学んだ。
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉… 河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉1月8日 - 1980年〈昭和55年〉9月22日)は、日本の文芸評論家・音楽評論家。日本芸術院会員、文化功労者。 ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者でもあった。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。 父邦彦は日本郵船の造船工学技師。1902年(明治35年)、赴任先だった長崎市で生まれた。本籍地は山口県岩国市。河上家は江戸時代は岩国藩士であった。祖父逸は勝海舟、今北洪川、玉乃世履らに師事した。
石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979… 石坂 弘(いしざか ひろし、1902年1月8日 - 1979年12月15日)は、日本の農林官僚。 熊本県出身。中学済々黌を卒業。1924年に高文行政科に合格し、1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。朝日新聞社での勤務を経て、1927年に農林省に入省。1961年8月に日本中央競馬会副理事長に就任し、1962年6月から1967年2月までに理事長を務め、1967年2月から顧問を務めた。 1979年12月15日呼吸不全のために死去。77歳没。
塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年… 塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年8月1日)は、社会福祉家。 島根県生まれ。幼名・僧哲。東洋大学社会福祉学科卒。1923年、関東大震災の時、日比谷公園で被災した子供らの相談に当たる。卒業後、知的障害者施設藤倉学園の研修生となる。のち本所のスラム街へセツラーとして入り、東京市社会局勤務。戦後東京都民生局調査室に勤務し、東京都新宿生活館初代館長。老人福祉事業に取りくみ、老人クラブの結成などに関わる。1956年定年、東洋大学社会学部教授、佛教大学教授、東北福祉大学教授。
西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日… 西尾 寿男(にしお としお、1900年(明治33年)1月8日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、日本の鉄道省・運輸省官僚。日本交通公社(現・JTB)初代社長。鉄道弘済会や日本ホテル協会理事長を歴任した。 滋賀県彦根市出身。麹町小学校、第一高等学校等を経て、東京帝国大学卒業。高等文官試験行政科に合格し鉄道省(後に運輸省)に入省。仙台鉄道局長、運輸局旅客課長などを歴任した。戦後は財団法人鉄道弘済会理事長を務めるが、在任中の1954年、贈収賄により東京地検特捜部によって元参院議員高田寛と共に逮捕された(いわゆる陸運疑獄に発展)。これを機に運輸省を退官し、1955年に日本交通公社(現・JTB)の株式会社となってから初の代表取締役社長に就任し、後に会長を歴任した。
藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 199… 藤原 太一(ふじわら たいち、1900年1月8日 - 1990年1月)は、日本のグラフィックデザイナー。著書『図案化せる実用文字』(1925年)と『絵を配した図案文字』(1926年)によって知られる。長崎県南松浦郡福江村(現在の五島市)出身で、関西を拠点として活動した。 1900年(明治33年)1月8日、五島列島を構成する福江島の福江村において生まれる。中学校卒業後に上阪し、1918年(大正7年)にデザイナーとして森下博薬房(森下仁丹)広告部に入社する。 1925年(大正14年)12月、大鐙閣から著書『図案化せる実用文字』が刊行された。本書は独学で広告図案を研究していた藤原による文字デザインを集成したものであり、藤原は「集の初めに」において「今日この種の参考書が、かなり必要にせまられてゐるにも拘らず未だかうしたものゝ完全な出版を見ない」とし、「図案文字発達上の一基礎ともなり、刺戟ともならば、幸ひ此の上なきこと」であると述べている。
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日… 大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。 茨城県出身。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、高萩町長、同消防団長、茨城県会議員、同議長などを務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月… 泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月8日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は、昭和時代の政治家。教育者。愛媛県新居浜市長。 愛媛県宇摩郡別子山村(現新居浜市)に生まれる。泉半次の長男。1922年(大正11年)愛媛県師範学校(現在の愛媛大学教育学部)卒業。 同年から1955年(昭和30年)まで新居郡内の小学校教員、小学校長、県教育組合副委員長を経て、1955年(昭和30年)から愛媛県議会議員を2期務める。1965年(昭和40年)社会党公認で新居浜市長に当選。5期20年在任し全国最高齢かつ唯一の社会党公認市長だったが、1984年(昭和59年)10月、病気のため任期満了を待たずに辞任した。
山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月… 山内 継喜(やまうち つぐよし、1897年(明治30年)1月8日 - 1973年(昭和48年)12月26日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選山形県知事、陸軍司政長官、初代勝山市長。 福井県大野郡荒土村(現:勝山市荒土町境)で、山内喜一郎の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し青森県属となる。 1923年、警視庁警視となる。以後、板橋警察署長、大塚警察署長、本富士警察署長、警視庁監察官、台湾総督府事務官、青森県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。
田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8… 田中 啓一(たなか けいいち、1896年(明治29年)1月8日 – 1977年(昭和52年)6月10日)は、日本の農林官僚、政治家。富山県知事、衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 岐阜県出身。田中喜三郎の長男として生まれる。東京高等師範学校を経て、1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、京都師範学校教諭を経て農商務省に入省し農務局属となる。 以後、農林事務官、東京競馬倶楽部書記長兼理事、日本競馬会理事、農林省山林局木炭第一課長、農林大臣秘書官、米穀管理局第一部長、食品局長、九州地方行政協議会参事官、九州地方総監府第二部長などを歴任。戦後、1946年1月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。
三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日… 三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日 - 1965年(昭和40年)2月8日)は、日本の政治家。参議院議員、宮城県知事を歴任した。 宮城県の大崎地方(旧古川市域)生まれ。宮城県立古川中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省に入省した。 1943年(昭和18年)、運輸省(現在の国土交通省)施設局長に就任。1953年(昭和28年)、参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し初当選、参議院議員となった。翌1954年(昭和29年)、日本民主党に入党、国会対策委員長などを務めた。1950年から1951年までは、土木学会の会長職にもあった。