大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年… 大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月17日) は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員。 群馬県群馬郡渋川町(北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町)で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し、上京して 独学。 1926年(大正15年)帝国通信社に入社し無産政党、労働問題の担当記者となる。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不… 繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記絵島 千歌子、本名・旧芸名東 八重子(あずま やえこ)。舞台協会在籍時、日活向島撮影所との提携で映画初出演を果たし、後年は東亜キネマ甲陽撮影所の看板女優として大正末期まで活動した。 1903年(明治36年)2月8日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれる。『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば、本名は東 八枝(あずま やえ)であるという。 日本聖公会系の立教高等女学校(現在の立教女学院中学校・高等学校)を卒業する。満18歳のときに1921年(大正10年)、花柳章太郎が同年に設立した新派の劇団・新劇座に参加、翌1922年(大正11年)には、山田隆弥らの新劇の劇団・舞台協会に参加している。
早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8… 早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8日 - 1976年(昭和51年)6月10日)は、日本の内務官僚。最後の官選青森県知事。 宮城県加美郡小野田村出身。早坂伊勢松の二男として生まれる。宮城県仙台第二中学校、第二高等学校文科甲類を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、山形県、熊本県、新潟県、富山県、岐阜県などで勤務。さらに、大阪府工場課長を経て、1945年、北海道庁内務部長に就任。 1947年3月、青森県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。
宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 19… 宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 1988年7月12日)は、日本の民俗学者。 1901年、長野県上田市に生まれる。9歳の時に家族とともに東京に移り住んだ。1928年に慶應義塾大学文学部史学科卒業後、台湾に渡り、台北帝国大学で民俗学の講師をしながら台湾原住民の研究を行い、現在の台湾原住民に関する学問的基礎を築いた。1943年、京城帝国大学に転任し、人文科学研究所の助教授に就任した。 戦後は中華民国政府に請われて台湾に残り、台湾大学の教授を務めた。1948年に日本に帰国。その後は東海大学教授として文学部長など要職を歴任した。1972年に退官し、1975年に名誉教授となった。1988年に死去した。
川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日… 川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日 - 昭和58年〈1983年〉9月29日)は、富山県砺波市の洋画家。農家の次男に生まれて一時は画家を志すも、長兄の死により農業を継ぎ、その傍ら教師として多くの画家を育てた。 「人間疎外の美術、描くことそれ自体すら否定する美術、それで満足出来るならそれを実行するがよい。しかし大宇宙を信じ、その無限を見つめ片影を感受し、その表現に一生をささげる気概と意欲を燃やして生きることはなんと意義のあることであろうと夢想するものである。」と述べ、中央画壇に対しては批判的であった。 戦時中、近隣の町に疎開してきた版画家の棟方志功や織田一磨、伊藤四郎などの生活を支援するために発表会や研修会などを企画して開催し、彼らとの交流を深めた。
梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月… 梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月8日 - 1978年(昭和53年)10月9日)は、日本の農商務官僚、政治家。参議院議員。 兵庫県で裁判所勤務・梶原甚三郎の長男として生まれる。大阪府立北野中学校、第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、農商務省に入省し嘱託となる。 以後、農商務属・食料局業務課配属、農務局米穀課配属、農林属、産業組合事務官、専任農林事務官、産業組合事務官兼農林事務官、水産講習所教授兼農林事務官、農林事務官、京城米穀事務所長、農林書記官、経済更生部産業組合課長、山林局監理課長、米穀局米政課長、農務局農政課長、大臣官房文書課長、兼大臣官房調査課長、商工省繊維局長、企画院第四部長、農商省物価局長、馬政局長官などを歴任し、1945年4月、農商省農政局長に就任し、同年8月に退官した。
足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)… 足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)2月8日 - 1990年(平成2年)12月19日)は日本の実業家。素封家。島根県能義郡飯梨村字古川(現・安来市古川町)出身。 実家は農業を営む。尋常小学校卒業後、家業を手伝う傍ら、村の商売の手伝いをし、次第に商売に深い関心を寄せてゆく。14歳の頃、炭を大八車で運搬する傍らそれを売ることで、初めて商売を手がけることになる。その後はさらに商売を手がけてゆき、類い希な商才を発揮してゆくことになる。 第二次世界大戦後は、敗戦後の瓦礫の中を駆け回り、大阪を商売の本拠地として、大阪と安来を商売で往復するようになる。その後、不動産投資を手がけるようになり、一代で財産を築く。
塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1… 塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1980年1月30日)は、浄土宗僧侶・仏教史学者。中国仏教研究の世界的権威。京都大学名誉教授。元日本学士院会員。 1898年、愛知県海部郡七宝村(現・あま市)で生まれた。15歳の時に仏門に入った。佛教専門学校(現・佛教大学)で学び、1918年に卒業。その後は東京に出て宗教大学(現・大正大学)研究科に進み、1920年に卒業。博士課程は京都帝国大学文学部哲学科インド哲学専科で修め、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡に師事。1923年に修了し、その後は京都帝国大学文学部史学科東洋史専科で学んだ。東洋史学は桑原隲蔵、羽田亨に師事し、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡の下で学び、仏教学・史学を併修した独自の学風であった。
藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 19… 藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 1975年2月25日)は、日本の僧侶(曹洞宗)、大学経営者。佐賀県杵島郡大町町出身。 賢崇寺第29代住職、駒沢女子学園学監、駒澤大学学監などを歴任。「駒大中興の祖」と呼ばれる。 佐賀県神埼郡城田村の光円寺住職の父・亮雄と母センの長男として生まれる。1925年、曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大学在学中、学内誌「第一義」の編集に携わる(1922年から卒業迄)。1923年、夏休みを早めに切り上げて上京したため、関東大震災に遇う。広川弘禅や安藤文雄らと共に曹洞宗大学の単科大学昇格運動に積極的に関わった。 苦学して大学卒業後、曹洞宗総務院に務めるが程なく帰郷し宗侶として活動。
柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2… 柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2月8日 - ?)は日本の教育者、実業家、政治家。元鳥取県議会議員、米子市議会議員。 元鳥取県議会議員の柳谷中は長男。 鳥取県出身。丈四郎の長男。 大正12年(1923年)早稲田大学商学部卒業。 倉吉中学校・米子高等女学校各教諭の後、昭和16年(1941年)日本海新聞に入社、米子支社長、取締役総務局長を歴任。 其間米子市議、米子市国民健康保険組合常務理事となり、昭和30年(1955年)8月米子自動車学校理事長・校長に就任。 趣味は釣、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市皆生・米子市角盤町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月… 茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月8日 - 昭和51年(1976年)8月12日)は、近藤浩一路に師事した水墨画家。日本美術院院友を辞し『新興美術院』を創設した。 滋賀県野洲市小篠原出身の茨木家。移り住んだ近江八幡市博労町の初代から数えて五代目の芳蔵こと茨木杉風。菩提寺の近江八幡市東漸寺から長男陽介の意志により大先祖の菩提寺で、本堂に近江八景の襖絵を残す養専寺の墓地に移し眠る。 茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家 梅田屋に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年… 野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年6月7日)は、昭和期の日本の政治家。総理府総務長官・自治大臣。位階は正三位。元衆議院議員の野田毅は娘婿。 熊本県飽託郡川口村(現・熊本市南区)出身。 旧制熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)を経て、1923年早稲田大学法学部独法科を卒業後、国民新聞記者、東京朝日新聞政治部記者、神奈川新聞社社長、町田忠治商工大臣秘書官を経て、1936年第19回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧神奈川2区より立候補して当選を果たす。以後戦後も含めて当選8回。戦前は軍需政務次官、商工省参与などを務めた。政党解消後は翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属した。
川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8… 川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8日 - 1986年(昭和61年)12月3日)は、日本の陸軍軍人、栄養学者。最終階級は陸軍主計少将。農学博士。 京都府出身。東本願寺内陣・川島幸之助の四男として生まれる。京都二中を卒業し、陸軍経理学校に入学。1918年(大正7年)5月、同校(12期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第12連隊付となる。第11師団経理部員、第8師団経理部員、独立守備歩兵第4大隊付兼関東軍経理部員などを歴任。 1927年(昭和2年)5月、経理学校高等科(5期)を卒業した。さらに、員外学生として東京帝国大学農学部農芸化学科に1930年(昭和5年)5月15日まで3年間派遣された。
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 … 榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。
谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987… 谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987年1月13日)は、日本の洋画家。戦前に金羊会を主宰して南國美術展を創設し、戦後は鹿児島市立美術館初代館長や顧問として鹿児島県の洋画振興に尽力した。代表的な作品として「自画像」と「琉球風景」が挙げられる。 鹿児島県鹿児島市山之口町出身。旧姓・益山。生年月日(1894年2月8日)が午の年午の日であるのにちなみ午二と名づけられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(鹿児島二中)で大牟礼南島に学び、学外の山下兼秀からも指導をうける。1913年に上京して黒田清輝の葵橋洋画研究所でデッサンを修練し、貴族院議員千頭清臣(元鹿児島県知事)の書生をしながら東京美術学校西洋画科に入学。
高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)… 高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)2月8日 - 1957年(昭和32年)12月7日)は日本の政治家。衆議院議員(2期)。宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)長。 宮城県大崎市で生まれた。明治大学法学部卒業後、米国ワシントン大学ランドスクールで政治学を専攻。コロンビア大学でも学んだ。在米8年。帰国後は明治大学講師となった。 その後、日東窯業、明治大学出版部、鳴子木材、東北鉱山資材各取締役、日東紡績理事、荒尾嶽鉱業取締役社長、鳴子町会議員となる。 1948年(昭和23年)5月21日に旧宮城2区で行われた第23回衆議院議員補欠選挙に民主党から立候補し当選。翌年の第24回衆議院議員総選挙で再選。
白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 197… 白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 1976年1月19日)は、愛知県豊橋市出身の画家。 1894年(明治27年)2月8日、愛知県渥美郡花田村(現豊橋市)に白井徳平の二男として生まれた。本名は龍、字名は瀧司。従兄弟の白井永川から絵の手解きを受け、静古と号した。他に烟巌とも。1917年(大正6年)、南宗画家の松林桂月に師事し、烟嵓と号する。1920年(大正9年)第2回帝展に「幽栖」が初入選した。 1896年(明治29年)の日本南画院創設に参加し、日本南画院では理事も務めた。大正・昭和を通じて帝展、新文展、日展を中心に日本南画院展など団体展を舞台に活躍した。 1918年から1933年まで外海家と養子縁組していた時期があり、この期間は外海烟巖名義。
村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月… 村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月8日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の政治家。新潟県新潟市長(3期、第17代~第19代)。 1892年(明治25年)長岡市の生まれ。1915年(大正4年)慶應義塾大学を卒業。自宅は湊二町通二ノ町26-9。戦後まもなく新潟商工会議所会頭を務めたあと、1947年(昭和22年)初の公選新潟市長に当選、1959年(昭和34年)まで3期12年間在職。この間、戦後の混乱した市民生活の建て直しや、新潟大火の災害復旧、在日朝鮮人の帰国業務などに尽力。その後、新潟信用金庫理事長、県社会福祉協議会会長など、幅広い活動を行った。 1981年(昭和56年)9月16日、脳梗塞のため、入院先の済生会新潟病院で死去。
吉永 時次(よしなが ときじ、1892年2月8日 - 197… 吉永 時次(よしなが ときじ、1892年2月8日 - 1976年3月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、警視総監。旧姓・岸本。 岡山県上道郡幡多村(現:岡山市中区)出身。岸本栄三郎の二男として生まれる。1928年、吉永光野の入夫となり改姓。 第六高等学校首席卒業を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り、警視庁警部となる。 以後、地方事務官、宮崎県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長などを歴任。 1936年4月、和歌山県知事に就任。
清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈… 清沢 洌(きよさわ きよし、旧字体: 淸澤 洌、1890年〈明治23年〉2月8日 - 1945年〈昭和20年〉5月21日)は、日本のジャーナリスト、評論家。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。 なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。パスポート名はRETSU KIYOSAWAとなっていた。 長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較的裕福な農家の三男として生まれた。井口喜源治の主宰する研成義塾で学んだ。1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航し、塾生たちとともに「シアトル穂高倶楽部」を結成した。
翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年… 翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年2月14日)は、日本の作家、ジャーナリスト。幼名信(ノブ)、筆名六渓、号太稚、稚翁、稚仙。 富山県上新川郡六郎谷(ろくろだん)村壱番地(現在の中新川郡立山町六郎谷)に漢方医の父・翁源指(げんし)(文久元年3月6日生)、母・フシイ(慶應2年1月3日生)の次男として誕生。富山中学校(現在の富山県立富山高等学校)に入学して校友会月刊誌や雄弁会で文才を発揮する。3年生のときに寄宿舎の舎監に反抗して糞を床に撒く事件を起こして新聞沙汰となり、知事や県議会も巻き込む騒ぎとなったため、首謀者ではなかったものの放校処分に遭う(しかし同窓会名簿には第19回卒業生として記載されている)。
後藤 市右衛門(ごとう いちえもん、前名・仙三、1888年〈… 後藤 市右衛門(ごとう いちえもん、前名・仙三、1888年〈明治21年〉2月8日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の商人(質商)、地主・家主、実業家、鳥取県多額納税者。 鳥取県米子市内町出身。実業家・後藤快五郎の長男。前名・仙三を改め、1927年、家督を相続する。質商を営む。山陰土地監査役、昭和保全、雲陽実業銀行各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は書画、骨董、俳句、和歌。宗教は真宗。住所は米子市内町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1… 中西 伊之助(なかにし いのすけ、1887年2月8日 - 1958年9月1日)は、日本の作家、労働運動家、政治家。衆議院議員を2期務めた。 1887年2月8日、京都府久世郡槇島村(現・宇治市)の農家に出生し私生児として届け出された。旧制大成中学校(5年級編入学)を経て海軍兵学校に志願するも、出自を理由に入校はならなかった。その後、中央大学、早稲田大学に入るがいずれも中退。 少年・青年時代から機関車掃除夫や陸軍宇治火薬造所職工、新聞配達、南満州鉄道社員など、多種多様な職に就く傍ら無産運動にも尽力。朝鮮で新聞記者を務めていた時代には、藤田組による鉱山労働者虐待の実態を報じ、投獄されたこともある。 帰国後の1919年に日本交通労働組合へ入り、同組合理事長として東京市電争議を主導するが、治安警察法違反により検挙投獄となる。
南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2… 南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2月8日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、日本の弁護士。富山県高岡市長。勲五等双光旭日章。 富山県高岡市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。三共株式会社秘書・泰昌製薬株式会社取締役を務め、1921年(大正10年)に退職した。同年、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)、高岡市長に選出され、1930年(昭和5年)まで在任した。 退任後は日本興業銀行取締役、高岡土地株式会社監査役を務め、1932年(昭和7年)より再び弁護士を開業した。1940年(昭和15年)から検事に転じ、岡山地方裁判所検事、横須賀区裁判所検事を務めた。
藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8… 藤岡 郊二(ふじおか ひろじ、1884年(明治17年)2月8日 - 不明 )は、日本の実業家である。倉敷紡績・倉敷絹織(現クラレ)の取締役。岡山県総社市出身。 1884年(明治17年)2月、岡山県吉備郡日美村(現在の総社市)で代々医者の家系である藤岡信道の次男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1903年(明治36年)、第六高等学校 (旧制)へ入学し、同級生に建築家の薬師寺主計がいた。1906年(明治39年)、同校を卒業、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1909年(明治42年)7月に同大学を優良で卒業。兵庫県に当時あった龍野電気株式会社へ主任技師として就職した。 2年間、龍野電気に務めた後、1911年(明治44年)7月より、倉敷紡績へ転職する。
木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日… 木下 信(きのした まこと、1884年〈明治17年〉2月8日 - 1959年〈昭和34年〉6月27日)は、日本の内務官僚、政治家。憲政会系県知事、台湾総督府総務長官、衆議院議員。 長野県上伊那郡中箕輪村(現:箕輪町)に木下彦四郎の四男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し内務省に入省、長野県属となる。 以後、熊本県鹿本郡長、同上益城郡長、長野県小県郡長、同県理事官、秋田県警察部長、北海道庁拓殖部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1924年(大正13年)6月、鳥取県知事に就任。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 196… 小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 1962年7月27日)は、日本の美容家、婦人運動家、小説家。出生名は寺本みち子(てらもと みちこ)、号は美留藻(みるも)。兵庫県出身。 1883年(明治16年)2月8日、兵庫県加東郡社村(加東市)出身。教育者の寺本武・ぬいの長女。旧姓は寺本。号は美留藻(みるも)。小学校卒業後、独学で教員検定試験に合格し、郷里で2年間、神戸市立神戸小学校で3年間、上京後も2年間、小学校正教員の教職に就いた。 同じ時期、平民社の社会主義婦人講演会に出席し「生まれて初めてわが魂をゆさぶる内容」に感銘し、社会主義そのものよりも女性解放に魅せられて平民社に出入りする。
清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2… 清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2月8日 - 1963年(昭和38年)11月28日)は、日本の鉄道・内務官僚、政治家。官選和歌山県知事、衆議院議員。 富山県下新川郡大家庄村(現朝日町)出身。清水源次郎の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに同大学院で学ぶ。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、同参事を歴任。 その後、内務省に転じ山形県西置賜郡長に就任。以後、栃木県理事官、奈良県警察部長、宮崎県警察部長、山形県警察部長、山形県書記官・警察部長、同県書記官・内務部長などを歴任。
中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1… 中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1963年12月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家。朝鮮・旧満州及び静岡県などにおいて多くの銀行や公共建築の設計を手がけたことで知られる。 中村与資平は、1880年に静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に中村貞一郎の長男として生まれた(中村は慶長年間からの庄屋(官号:与左衛門)で,与資平は第14代にあたる)。1889年に下堀学校(現・浜松市立与進小学校)を卒業し、1893年には浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)を卒業した。1899年に静岡県浜松尋常中学校(現静岡県立浜松北高等学校)を卒業し、その後、1902年に第三高等学校を卒業した。
大平 賢作(おおだいら けんさく、1880年2月8日 - 1… 大平 賢作(おおだいら けんさく、1880年2月8日 - 1953年12月17日)は、日本の銀行家。住友銀行頭取・会長。
浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 197… 浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 1972年8月14日)は、日本の政治家。愛知県猿投村長、猿投村議会議員、西加茂郡会議員などを歴任した。 元衆議院議員の浦野幸男は長男。 愛知県四郷村(現・豊田市四郷町下古屋)に、農業を営む浦野又一の次男として出生。尋常小学校花本学校(現・豊田市立青木小学校)卒業。1902年から米穀飼料肥料商を営む。1918年から西加茂郡会議員を1期務め、1931年から1947年にかけて猿投村議会議員を務めた。その間、猿投信用販売購買利用組合理事長も務めた。同理事長として機械化導入を唱え、大正末から昭和初期にかけて、足踏み脱穀機、牛馬耕運機を取り入れ、牛馬耕を広く指導した。
上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月… 上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月8日 - 1936年〈昭和11年〉12月1日)は、日本の政治家・衆議院議員(奈良市選出、憲政会)、会社重役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。奈良県生駒郡伏見村(現・奈良市)、平民・上村光亨の長男。郡山中学校、第三高等学校を経て、1905年、京都帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得た。1907年、家督を相続した。 大韓帝国財務官兼農工銀行監理官、東洋拓殖参事、奈良銀行(のち国立六十八銀行、現南都銀行)監査役、豊国火災保険東京支店長、同社支配人、千日土地建物取締役等を務めた。 1917年(大正6年)4月20日に実施された第13回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2… 笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2月8日 - 1937年(昭和11年)11月2日)は、日本の検事。裁判官。 香川県高松市出身。1904年(明治37年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。福島地方裁判所判事、熊谷区裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事代理、東京控訴院判事代理、横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所検事・同区裁判所検事、土浦区裁判所検事を歴任し、1920年(大正9年)に朝鮮総督府検事に転じた。京城地方法院検事、法務局刑事課長、高等法院検事、京城地方法院検事正を経て、1932年(昭和7年)に法務局長に就任した。1934年(昭和9年)から高等法院検事長を務めた。
增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉… 增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉2月8日 - )は、日本の教育者。位階は従六位。勲等は勲六等。姓の「增」は「増」の旧字体であり、名の「衞」は「衛」の旧字体であるため、增田 又右衛門、増田 又右衞門、増田 又右衛門、とも表記される。 北浜高等女学校校長、静岡県小笠郡視学などを歴任した。 静岡県出身の教育者である。北浜高等女学校の校長に就任し、小笠郡女子青年団の団長を務めるなど、静岡県の女子教育の発展に尽力した。 1877年(明治10年)2月8日、增田甚藏の長男として生まれた。松芳学舎の門を叩き、国学や漢学を学んだ。さらに静岡県師範学校に進学し、これを卒業している。また、皇典講究所においても学んでいる。
相川 茂郷(あいかわ しげさと、1877年〈明治10年〉2月… 相川 茂郷(あいかわ しげさと、1877年〈明治10年〉2月8日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。兵庫県明石市長。族籍は東京府平民。 神奈川県平民・相川正麿の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。分家した。北京財政学堂に入り、台湾総督府警視となり、澎湖庁長、嘉義庁長等を歴任、台湾総督府事務官に昇進勤務した。 1921年(大正10年)に明石市長に選出された。東京市に原籍を有した。
森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 195… 森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 1957年9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1900年、東京法学院卒。司法官試補、検事代理、判事となる。その後、弁護士となり、大津弁護士会会長を務める。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金1000円の判決を受けた。これにより従七位返上を命じられ、大礼記念章を褫奪された。1957年に死去した。
広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月… 広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月8日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、日本の実業家。大同生命第2代社長。 1876年(明治9年)、子爵・一柳末徳の次男として東京で生まれる。 東京帝国大学在学中に広岡浅子(明治・大正期の実業家)の娘・亀子との縁談がまとまり、1901年(明治34年)に結婚、広岡家の婿養子となる。 1904年(明治37年)、岳父・広岡信五郎(浅子の夫)の死を機に加島銀行に入社し、浅子らの事業を継承。 1909年(明治42年)、加島屋9代目当主・広岡久右衛門正秋の死を機に、加島銀行頭取、大同生命第2代社長に就任。 1910年(明治43年)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の前身)の初代社長に就任(1912年に辞任)。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(… 大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日)は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。 江戸で幕臣・大鳥圭介の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)7日10日に男爵を襲爵した。 1890年(明治23年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科第一部を卒業。同年、外務省試補となるが、1896年(明治29年)台湾総督府に転じ台北県書記官となり、台湾総督府民政局参事官・台北県支庁長、総督秘書官を務めた。1901年(明治34年)外交官及領事官試験に合格。外交官に転じ、大韓帝国公使館勤務、オランダ公使館勤務、ウラジオストク総領事、外務書記官、フランス大使館参事官、駐メキシコ公使を歴任した。
竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日… 竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日〈1854年2月8日〉 - 1903年〈明治36年〉4月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 上野国邑楽郡赤岩村(のち群馬県邑楽郡永楽村→千代田村、現・千代田町)の塩田家に生まれる。国学、漢学を学び、大学南校で教育を受け、さらにアメリカに留学する。帰国後、武蔵忍藩領大里郡熊谷町(埼玉県大里郡熊谷町を経て現熊谷市)の竹井家の養子となる。熊谷宿戸長、埼玉県属、埼玉県会議員を経て、1880年(明治13年)4月27日に同2代目副議長に就任した。 1885年(明治18年)大蔵省に入省し、大蔵省総務局会計課長となると東京府麹町区に転居した。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天… 石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天保12年12月28日) - 1930年(昭和5年)10月20日)は、幕末の小倉藩士、明治期の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員。錦鶏間祗候。 豊前国企救郡(現・福岡県北九州市)において小倉藩士の家に生まれる。第二次長州征討において長州藩との停戦に尽力した。 明治2年(1869年)、明治政府に出仕し民部官書記となる。以後、民部兼大蔵大録、監督大佑、庶務大佑、土木権正、土木権頭、内務権大書記官などを歴任し、1877年、初代の内務省土木局長に就任。「土木の石井」と称された。その後、西南戦争時に熊本県権令心得として務めた。 1884年2月に岩手県令に就任。
工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(184… 工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(1842年2月8日) – 明治37年(1904年)4月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 弘前藩士櫛引儀三郎(錯斎)の子として生まれ、幼名を峯次郎といった。19歳で同藩士工藤秀四郎の養子となり、姓名を改めた。戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟のために奥羽諸藩を奔走したが、弘前藩が新政府軍に帰順すると、禁錮となった。しかしすぐに赦免され、参軍助役として秋田や水沢口で盛岡藩と戦い、盛岡に入城し、さらに箱館にも出陣した。 1869年(明治2年)、公議所書記に選ばれて上京。さらに民部省土木権少祐に任ぜられ、各地の河川の調査に赴き、土木権少祐、土木中属に昇進した。