篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1… 安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1985年4月27日)は、日本の河川工学者、資源問題研究者。河川開発、水害問題のほか、資源問題を国際的視野で研究した。 内務省土木局技師安芸杏一の長男として新潟市に生まれる。兄弟構成は6人兄弟一女5男で、他5人とも大学出である。東京で育ち、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)に進学。府立中時代は水練部主将を務める。四修で新潟高等学校 (旧制)に進学。同校を卒業後、東京帝国大学文学部英文科に進むが、1年後に工学部土木工学科に再入学。再入学した土木工学科では水理学者物部長穂のもとで河川工学を修める。1926年同学科卒業、内務省に入省。東京土木出張所内務工手。
柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年… 柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年11月19日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(立命館大学・論文博士・1950年)(学位論文「ローマ法における売主瑕疵担保責任研究」)。第4代神戸大学学長。叙正三位、旭日重光章追贈。京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)生まれ(本籍は鹿児島県)。弟子に、高木多喜男らがいる。 1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業して第三高等学校に進み、1922年(大正11年)に文科甲類を卒業後、京都帝国大学に進学。1925年(大正14年)京都帝国大学法学部法律科を卒業するとともに同大学助手に就任した。
勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 198… 勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 1984年1月13日)は、日本の作家・思想家である。パリ、モスクワに滞在中フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした。21世紀においては、大粛清に対する先駆的批判者として「日本のソルジェニーツィン」と紹介されることもある。 長野県木曽郡読書村(現南木曽町)に生まれる。島崎藤村とは旧知であり、若いころから文学に憧れた。1914年旧制愛知一中に入学。1919年早稲田大学に入学し、フランス文学、ロシア文学を専攻する。在学中の1924年(大正13年)、フランスに留学、パリ大学で学び、フランス共産党に入党した。
川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9… 川並 秀雄(かわなみ ひでお、1901年〈明治34年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月24日)は、日本の文学研究家。愛知県出身、関西大学卒業。 関西大学大学院でアメリカ・イギリス文学研究を納めた後、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけてアメリカ合衆国のロチェスター大学、ケンブリッジ大学で比較文学研究を納めた。 1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)まで、アメリカの大学で客員教授として教壇に立った。帰国後は関西大学、大阪商業大学、関西学院大学の講師を歴任。日本国内外で日本文学、特に石川啄木の生涯と文学についての講義を行なった。一方で啄木や有島武郎の研究家としても知られ、資料の発掘に貢献、啄木研究の最長老ともいわれた。
岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1… 岩崎 純孝(いわさき じゅんこう、1901年4月9日 - 1971年2月27日)は、日本の伊文学者。日本ファシズム連盟創設者。 静岡県出身。かつて平塚市長を務めた作家の戸川貞雄の弟。東京外国語学校イタリア語科卒業。本名は「よしたか」(漢字は同じ)。 イタリアのファシズムの台頭に応じてファシズム文学、イタリア文学の翻訳家として活躍。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。戦後は児童文学の再話・翻訳などを多く手掛け、ボッカッチョ「デカメロン」、ダヌンツィオ「死の勝利」などを訳した。「沙漠の秘密」「馬と少年」などの創作童話も書いた。 没後の1988年に、絶版となって久しいボンテンペルリ『わが夢の女』が、ちくま文庫に収められ話題となった(『わが夢の女』は短編集であり、そのうちの1篇「太陽の中の女」が、『ちくま文学の森4 おかしい話』にも所収、新版・ちくま文庫、2010年)。
大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4… 大間知 篤三(おおまち とくぞう、1900年(明治33年)4月9日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は、日本の民俗学者。 1900年、富山県富山市愛宕町生まれ。呉服屋を営む旧家に生まれ、父は富山橋北銀行の頭取。富山中学校、第四高等学校卒、1927年、東京帝国大学文学部独文科卒。在学中、新人会に所属し、幹事長を務める。 卒業後には労働農民党書記を務め、日本共産党に入る。金沢連隊に入営ののち、1927年三・一五事件で三年間下獄。大間知ら、1927年2月『政治批判』創刊、1928年2月まで。1931年、出所して大宅壮一の翻訳団に加わる。1933年より柳田國男に師事、民間伝承の会(現日本民俗学会)の創立に参加。
時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33… 時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉6月26日)は、日本の経済学者。早稲田大学第9代総長。日本私立大学連盟第5代会長。 長男は元一橋大学経済学部教授で計量経済学者の時子山和彦。 1900年4月8日、大阪府堺市に生まれる。旧制桃山中学校(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。早稲田大学附属第一高等学院文科(政経)、早稲田大学政治経済学部経済学科を経て、1927年4月、早稲田大学大学院(財政学・統計学専攻)に進学し、1929年3月まで在籍する。1933年4月から在外研究員としてアメリカ合衆国・ドイツに留学する。 1939年4月から早稲田大学専門部政治経済科教授に、1940年2月から同大学政治経済学部教授に、1949年4月から第一・第二政治経済学部教授および同学部長になる。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 … 佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 - 1971年9月21日)は、日本の映画会社経営者、実業家である。東洋汽船、ユニヴァーサル映画東京支社、パラマウント映画支配人を経て、東宝映画取締役、映画配給社理事、東宝常務取締役、太泉スタヂオ専務取締役、新東宝初代社長、日米映画社長、新外映配給社長を歴任した。「配給の神様」の異名をとり、フリーブッキング制(自由配給制度)の立案者として知られる。 1898年(明治31年)4月9日、千葉県に生まれる。父の元治郎は、君津郡青堀町に所在した南総銀行の大貫支店長を務めていた。 早稲田大学理工学部(現在の早稲田大学理工学術院)を卒業し、東洋汽船に入社、文書課長を務める。
竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉… 竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉4月9日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の経済学者、教育者。立教大学商学部教授・経済学部教授、国士舘大学教授。 1895年4月9日生まれ。慶應義塾大学理財科を卒業したのち、三井銀行に入行。 同行で4年間の勤務のあと退職し、慶応義塾大学教授のトーマス・E・ジョンの元で研究助手を務め、同大学大学院で経済学および人口論を専攻する。1920年(大正9年)3月、同大学理財科大学院を修了。 1925年(大正14年)に立教大学商学部(現・経済学部・経営学部)教授に就任。経済原論や銀行論を講じる。 1937年(昭和12年)に立教大学スキー部が創設されると、初代部長を務めた。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971年2月24日)は、日本のドイツ文学者。 1895年、神奈川県横須賀市生まれ。東京帝国大学文学部独文科で学び、1918年に卒業した。 卒業後は第四高等学校教授となった。戦後の1949年7月、第14代第四高等学校校長となった(1950年3月まで)。一方で、同1949年は国立学校設置法の施行による新制金沢大学が設置され、包摂されることとなったことから金沢大学教授となった。1960年に金沢大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は桃山学院大学教授として教鞭をとった。 なお、1909年生まれのドイツ文学者に名古屋大学教授を務めた伊藤武雄がいるが、全くの別人である。
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 19… 黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。 黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9… 柴崎 恵次(しばざき けいじ、1894年(明治27年)4月9日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 兵庫県加東郡上東条村(現、加東市)森出身。旧制兵庫県立小野中学校を経て海軍兵学校卒業(43期)。アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日に戦死し、海軍中将に特別進級している。柴崎の戦死は、司令部があった地下壕を負傷者の治療にあてるために移動している最中であった。このことを知った部下達は、「司令官は我々を助けるために戦死した。司令官のためにも最後まで戦う」と決意した。
安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日… 安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 福岡県出身。1912年(明治45年)、小学校教員となり、訓導に進んだ。1918年(大正7年)に日本大学高等師範部を卒業し、内務属となる。1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格。富山県属、同警視・警務課長、青森県事務官、鹿児島県事務官、朝鮮総督府事務官・平安南道警察部長を歴任した。 1932年(昭和7年)より関東庁事務官に転じ、金州民政署長、内務局地方課長、旅順民政署長を歴任。1938年(昭和13年)に関東専売局長に就任した。 退官後、福岡市助役を務めた。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日… 細見 惟雄(ほそみ これお、1892年(明治25年)4月9日 - 1963年(昭和38年)8月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士25期。最終階級は陸軍中将。
田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月… 田中 恭吉(たなか きょうきち、明治25年(1892年)4月9日 - 大正4年(1915年)10月23日)は、和歌山県和歌山市出身の文人・芸術家。特に版画家としてよく知られている。 明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校(後に和歌山中学校と統合)を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月… 竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日 - 1979年(昭和54年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。竹下一清の二男として生まれる。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 19… 道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 1981年3月8日)は、日本の実業家。元味の素社長。広島県広島市仁保島本浦(現南区本浦)出身。 広島商業卒業後渡米。オハイオ北部大学、コロンビア両大学で学ぶ。サンミット神崎商店支配人を経て、1918年、味の素の前身・鈴木商店に入社。1935年、同店の外国課長で帰国するまで米国に在勤し、製品の米国市場売り込み、及び原料買い付けなどに手腕を発揮した。1940年取締役、その後1945年、終戦直後の常務時代には、GHQの要請でDDTの製造に協力、これが同社戦後再建の原動力となった。1947年専務を経て1950年、戦後初めて同族以外から同社4代目社長に就任。
戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 196… 戸田 正三(とだ しょうぞう、1885年4月9日 - 1961年11月20日)は、日本の衛生学者、京都大学名誉教授、金沢大学初代学長、医学博士。実用的な衛生学の樹立をめざし研究した人物として知られ、食生活、服装、住宅、上下水道などを日本の風土に適した形で普及させることを目指した。戸田式開襟シャツの発明者としても知られる。 兵庫県朝来郡中川村生まれ。旧制兵庫県立豊岡中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1910年に京都帝国大学医科大学を卒業。1912年から4年間欧米各国(独英仏米)に留学。1916年、京都帝国大学教授(衛生学担当)に就任。1923年、雑誌『国民衛生』を創刊。関東大震災後の1925年、東京市保健局長を兼務して復興に尽力。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治… 大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治15年)4月9日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、日本の実業家・教育者。号を三空居士と称した。大倉喜八郎の大倉財閥とは全く関係がない。 大倉洋紙店(現・新生紙パルプ商事)会長。現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設。第10・11代東洋大学学長。 1882年4月9日、佐賀県神埼郡西郷村(現神埼市)の士族・江原家に生まれる。1902年に旧制佐賀中学校、1906年に上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社。社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長に就任、事業を大きく発展させる。 日本の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、教育の重要性を説き、私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里である佐賀県西郷村に農村工芸学院などを開設したほか、この考えをさらに広く普及させるべく、1932年には現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設する。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉… 杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。 静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校・数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(18… 木下 謙次郎(きのした けんじろう、明治2年2月28日(1869年4月9日) - 昭和22年(1947年)3月28日)は、日本の明治から昭和初期にかけての政治家。貴族院議員、衆議院議員、関東長官。美食家としても知られ、著書『美味求真』は、食通の原典として今日も名高い。 1869年(明治2年)に大分県宇佐郡安心院町木裳(現在の宇佐市)に生まれる。1892年(明治25年)東京法学院(現中央大学)卒業。政治家を志し、貴族院議員、衆議院議員として当選9回。この間、所属政党は、国民党、立憲同志会・憲政会、立憲政友会、政友本党などにめまぐるしく移り変わり、政界の策士と呼ばれた。選挙違反事件に連座したこともあったが、1927年(昭和2年)の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20… 神村 吉郎(かみむら きちろう、1867年4月9日(尚泰20年3月5日) - 1942年(昭和17年)1月24日)は、沖縄県出身の政治家、実業家。衆議院議員。琉球政府で行政副主席を務めた神村孝太郎は長男。 具志川間切天願(現うるま市字天願)で、代々地頭代を務める神村家の神村孝吉の長男として生まれる。1889年、沖縄県尋常師範学校を卒業し、帝国大学農科大学実科で学び、1892年に卒業した。 1894年、沖縄県属に就任。その後退官し、1898年、沖縄県農工銀行創立委員となり、1899年に設立後、監査役に就任。同年、謝花昇らと沖縄倶楽部を結成し自由民権運動に加わったが、1900年、農工銀行重役改選において支配者層につき取締役に選出された。
山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応… 山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日)- 1943年(昭和18年)8月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。 伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋(鳥取県久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した。 1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた。
前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年… 前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1926年(大正15年)6月17日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、ジャーナリスト。族籍は和歌山県平民。 紀伊国那賀郡田中村(現在の和歌山県紀の川市)出身。前川彌兵衛の長男。 年少のころより政治に興味を持ち、自由民権運動に心酔した。1885年(明治18年)、那賀郡長児玉仲児の知遇を得て、郡書記となるが、児玉の欧化主義と合わず、2年で辞職した。その後、和歌山県会の書記となるが、児玉が県会議員に当選し、議長に就任したため辞職した。 官を辞した後は新聞記者となり、紀陽新報主筆を経て、大阪で立憲改進党機関紙の「東雲新聞」に入った。
留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年… 留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(のち教護院、後の児童自立支援施設)教育の実践家。 児童養護施設東京家庭学校(東京都杉並区高井戸東)および児童自立支援施設北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡)の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 1864年4月9日(元治元年3月4日)、髪結い床を営む吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として備中国高梁新町(後の岡山県高梁市新町)に生まれ、まもなく隣の南町(後の高梁市南町)で米屋を営んでいた留岡金助(1835年-1904年)の養子となった。
津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2… 津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2月22日) - 1933年(昭和8年)12月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。前名・光三郎。 素封家・津村重兵衛の長男として紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡山崎村(岩出町を経て現岩出市)で生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続し紀陵と改名した。 1884年(明治17年)中野黒木村外8カ村戸長に就任。和歌山県会議員を経て、紀南索道、野上軽便鉄道、秋津川水力電気各社長、和歌山倉庫銀行取締役などを歴任した。1918年(大正7年)6月和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月3… 桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月30日) - 1911年(明治44年)11月6日)は、日本の明治期における外科医、侍医。宮内省侍医。越後国新津(現在の新潟市秋葉区)出身。従四位勲四等。 1861年4月9日(文久元年2月30日)に越後国新発田藩領新津村(後に中蒲原郡新津町→新津市)の士族桂愼吾の六男として誕生。幼名は秀助。1887年(明治20年)7月9日に東京帝国大学医科大学を卒業(明治19年度卒業生)した。 卒業後東京帝国大学医学部においてドイツの外科医で、お雇い外国人であるユリウス・スクリバ博士の助手となった後、済生学舎及び第一高等中学校医学部(後に千葉医科大学を経て千葉大学医学部)教諭となり外科学を担当したが、1889年(明治22年)5月2日宮内省侍医局に異動となり第一高等中学校の後任に大学同期の三輪徳寛を推薦した。
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月3… 日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日) - 1934年(昭和9年)1月22日)は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。 書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する。 1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る。のち1901年(明治34年)工学博士。
岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延… 岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延元年3月19日)- 1942年(昭和17年)11月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。 播磨国飾東郡八重畑村(兵庫県飾東郡谷内村、飾磨郡谷内村、飾東村を経て現姫路市飾東町)で、代々農業を営む家に生まれた。普通学を修めた。 1880年(明治13年)小学校教員となり8年間在任。1888年(明治21年)兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。その他、徴兵参事員、旅団徴兵参事員なども務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第7区、進歩党)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(兵庫県第7区、憲政本党)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年… 高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年3月7日) - 1915年(大正4年)5月29日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。 越後国頸城郡板倉村(現在の新潟県上越市)出身。板倉村会議員、中頸城郡会議員、新潟県会議員、同参事会員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立憲改進党系の高田新聞社社長を務め、上越電気株式会社取締役に選ばれた。
納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2… 納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2月24日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月10日)は、日本の写真家。正岡子規最後の肖像写真を撮影したことで知られる。本名は美算。 飯沼慾斎の義弟長矩の七男として、岐阜県大垣市に生まれる。6歳の時「納屋才」の屋号で魚市を営む中島家の養子となり、11歳で家業を継いだ。 三重県桑名市で最初の写真館「笛橋堂」を開業し、明治期東海写真界の発展に寄与した。上京した後は、根岸に名を「春光堂」と改めて写真館を開業した。
神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(… 神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(1841年4月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の実業家。本姓は梅谷で、名は胤保、号は松雲。播磨国印南郡大塩村(現在の兵庫県姫路市大塩町)出身で、慶應3年に兵庫開港商社取締役世話役に就任し、兵庫運河建設に大きく貢献した[要出典]。のち、神戸市会議長を務める。「神戸発展の父」とも呼ばれる[要出典]。 播磨国印南郡大塩村(現兵庫県姫路市大塩町)の大庄屋の三男に生まれ、15歳で兵庫出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となる。 神田家の家督を継いだ兵右衛門は、慶應3年(1867年)7月、兵庫開港商社取締役世話役に命じられた。
伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2… 伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2月24日) - 1917年(大正6年)2月24日)は、刈谷藩士、政治家(衆議院議員2期)、実業家。別名は伊藤 三弥(いとう さんや)。 天保7年2月24日(旧暦)(1836年)、三河国碧海郡の刈谷城内に生まれた。兵庫県出身、伊勢国出身とされることもある。父は伊藤庄兵衛保秀。刈谷藩の藩校である文礼館に学び、尾張国の儒学者である伊藤両村の私塾でも学んだ。17歳で京都に出ると、頼三樹三郎の私塾で学ぶ中で尊王思想が芽生えた。 安政6年(1859年)7月にはいとを妻に娶った。同年に父が死去すると、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居していた際に岩倉邸に仕え、岩倉具視と志士との連絡役を担った。
岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835… 岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835年4月9日) - 大正9年(1920年)12月9日)は、上野館林藩士。通称は鈕吾。別名に斯波弾正。江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係であったため、勤王活動家として活動した。尊皇派の公家高松実村(高松保実の継嗣)の家老職を名乗り、偽勅使事件(高松隊)の中心人物の一人として、信濃国や甲斐国で諸大名や町家から金品を接収した。事件後は謹慎処分で済まされた。 安政元年(1854年)から明治2年(1869年)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述した。
千神 彩花(ちがみ あやか、4月9日 - )は、RSK山陽放… 千神 彩花(ちがみ あやか、4月9日 - )は、RSK山陽放送のアナウンサー。 広島県福山市出身。その東隣にある岡山県笠岡市にも住んでいたことがあり、2021年度からの公式プロフィールには同市も出身地の1つとして記載されている。 福山暁の星女子中学校・高等学校、法政大学文学部日本文学科を卒業後、2017年に山陽放送(当時の社名)に入社。
北澤 裕輔(きたざわ ゆうすけ、4月9日 - )は、日本の俳… 北澤 裕輔(きたざわ ゆうすけ、4月9日 - )は、日本の俳優である。東京都出身。劇団四季所属。国立音楽大学声楽科卒業。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
岩崎 良美(いわさき よしみ、4月9日 - )は、フリーアナ… 岩崎 良美(いわさき よしみ、4月9日 - )は、フリーアナウンサー。福井テレビジョン放送の元アナウンサー。株式会社ライムライトに所属していた。 群馬県出身。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。2004年福井テレビに入社。2007年退社。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
NAO KIDERA (PINK BABYS)(ナオ キデラ… NAO KIDERA (PINK BABYS)(ナオ キデラ、4月9日 - )は日本の女性歌手。愛知県津島市出身。別名儀はNAO (PINK BABYS)。 ダンスボーカルユニット、PINK BABYSのリードシンガーである。パラレルキャリアとしてJR東日本の車内販売員として勤務。 歌手コンテストの常連だった母親の影響で小学生から歌に目覚める。中学・高校時代は地元の公民館などでメインアクトとして出演。 高校卒業後、制服に憧れて車内販売員として勤務。六本木マハラジャなどのディスコに出演中に音楽プロデューサーの目に止まってオーディションを受ける。 新世代ユーロビート・ユニット、女性3人組のPINK BABYSのリードシンガーとして2010年にシングル「BABY WANT YOU」でデビュー。
高橋 春香(たかはし はるか、4月9日 - )は、日本の女性… 高橋 春香(たかはし はるか、4月9日 - )は、日本の女性声優。北海道札幌市厚別区出身。RME所属。 高校生の頃から声優への道が夢だった。北海道大学水産学部海洋生産システム学科卒業。大学では音響魚群探知機でのクラゲ探知の研究をしていた。出版社のFAX指導部勤務を経て、声優となる。 以前[いつ?]はケッケコーポレーションに所属していた。 2014年よりKickstarterで支援を募って製作されていたインディーズアニメ『Under the Dog』では、支援者からの投票によるオーディションで大空直美とともに選出され、メインキャラクターの1人・日向さゆり役を担当した。 趣味は競馬、スタンプラリー。
篠原 美季(しのはら みき、4月9日 -)は、日本の小説家、… 篠原 美季(しのはら みき、4月9日 -)は、日本の小説家、児童文学作家。東京都生まれ。明治学院大学社会学部社会学科卒業。OL、フリーターを経る。2000年、『英国妖異譚』で講談社主催のライトノベルの賞、第8回ホワイトハート大賞優秀賞を受賞し、デビュー。『英国妖異譚』は2004年にドラマCD化された。香谷美季(かがや みき)名義で児童書を執筆している。