千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日… 谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日 - 1994年〈平成6年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。内閣官房副長官、最後の官選奈良県知事。 三重県津市出身。谷口周三郎の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、京都府属となる。 以後、富山県の課長、静岡県警察部警務課長、神奈川県商工課長、内務事務官、警保局勤務、岐阜県経済部長、厚生省軍事保護院職業課長、内閣参事官などを歴任。 1947年3月、前任の野村万作が知事選に出馬のため辞任したことに伴い奈良県知事に発令された。知事選挙を執行して同年4月に退任。
実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993… 実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993年8月16日)は、日本の国文学者、関西学院大学名誉教授。 千葉県東金町出身。東北帝国大学卒業。岡崎義恵に師事。1941年関西学院大学法文学部講師、42年助教授、46年教授。50年文学部長。56年図書館長。60年関西学院理事。日本文芸理論、中世和歌や歌論を研究した。63年日本文芸学会を設立、会長となる。76年大学を定年退任、名誉教授。八幡大学教授、山梨英和短期大学教授。著作集全十巻がある。
兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日… 兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、日本のヴァイオリニスト。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1930年東京音楽学校卒業。安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う。1937年母校助教授。1947年教授。弦楽科主任・管弦楽部長となる。室内楽の研究と演奏活動の傍ら、付属音楽高等学校校長も兼務。1974年退官して東京芸術大学名誉教授。後に昭和音楽大学副学長となる。 大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がいる。全日本学生音楽コンクールや日本音楽コンクールなど多くのコンクールでも審査員を務め、彼の死後の1989年には全日本学生音楽コンクールのヴァイオリン部門の一位におくられる賞が兎束賞と名付けられた。
小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日… 小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日 - 1996年(平成8年)2月5日)は、日本の脚本家、映画監督。青森県八戸市出身。 青森県八戸市柏崎新町の母の実家玉内家で誕生。旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業。白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加する。関東大震災に遭遇し帰郷するも、「大震災救援」のための演劇活動に精力を注いだ。 1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。
渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 19… 渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 1980年5月17日)は日本画家。南画の大家。本名は渡瀬幸成。 長野県下伊那郡根羽村に生まれる。幼いころから大平小洲、山本梅荘に師事。尋常小学校高等科を卒業後は上京して福田浩湖塾に入門。一方で、旧制錦城中学校、正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学んだ。1925年(大正14年)には京都へ移り、福田静処に和漢文学・詩書を学ぶ。以後、京都に定住する。 1933年(昭和8年)第14回帝展に「河口」が初入選、以後は帝展、文展、日展、日本南画院を中心に出品する。1937年(昭和12年)京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞。 戦後は同志と南画院を結成して活動を続け、水墨を基調に山水花鳥に新生面を開いた。
島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月… 島村 三七雄(しまむら みなお、1904年(明治37年)7月9日 - 1978年(昭和53年)10月25日)とは、日本の洋画家。大阪府大阪市北区出身。 1904年(明治37年)7月9日、大阪府大阪市北区に生まれる。 1924年(大正13年)3月、大阪府立天王寺中学校卒業。同年4月、東京美術学校西洋画科入学。在学中の1928年(昭和3年)10月、帝展に「読書」が初入選。翌1929年(昭和4年)、東京美術学校西洋画科を卒業。 同年渡仏、フランスで「午後」がサロン・ドートンヌ入選。翌1930年(昭和5年)パリ国立美術学校のリュシアン・シモン教室に入学するも2年後の1932年(昭和7年)に中退する。その後ポール・ランソンのアカデミー・ランソンでフレスコ画法を学び、1933年(昭和8年)からサロン・デザルティスト・フランセに毎年出品を開始、翌1934年(昭和9年)出品の「ユゲット・トノン孃肖像」はマンション・オノラブル賞を受賞している。
坂本 実(さかもと みのる、1904年7月9日 - 1970… 坂本 実(さかもと みのる、1904年7月9日 - 1970年2月6日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。
江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日… 江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日 - 1968年(昭和43年)1月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。初代司法卿であった江藤新平の孫。 東京生まれ。父は江藤新平の二男で衆議院議員の江藤新作。冬に生まれた兄が冬雄と名付けられたのと同じく、夏に生まれたので夏雄と名付けられた。第五高等学校、1928年京都帝国大学経済学部卒業後、南満洲鉄道職員、満洲国官吏、興亜院秘書官などを経て1946年3月、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党所属として佐賀選挙区に出馬し初当選を果たす。その後、GHQによる公職追放の余波もあり2期にわたり出馬しなかったが、1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に自由党から再出馬する。
小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7… 小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1987年(昭和62年)9月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。 福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。1918年(大正7年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。 本宮町農業協同組合長、本宮地区消費生活協同組合長、福島県信用農業協同組合連合会理事、福島県消費生活協同組合連合会理事などを務めた。 政界では、本宮町議会議員、福島県議会議員に在任。1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙に福島県第1区で当選した鈴木周次郎について、1957年(昭和32年)公職選挙法違反による当選無効が確定したため、同年9月に実施された再選挙に日本社会党公認で立候補して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年… 一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1986年(昭和61年)6月28日)は、昭和時代の獣医師。家畜寄生虫学者。農学博士。 東京府に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学農学部獣医学実科を卒業。 同学部助手を経て、1930年(昭和5年)朝鮮総督府獣疫血清研究所助手となる。1937年(昭和12年)5月、水原高等農林学校(現ソウル大学校校農業科学生命大学)助教授、1938年(昭和13年)朝鮮総督府農事試験場技師、1939年(昭和14年)水原高等農林学校獣医学科教授となり、終戦を迎えた。 戦後帰国し、1945年(昭和20年)長野県北佐久郡農学校教諭、1946年(昭和21年)大阪獣医畜産専門学校を経て、1949年(昭和24年)浪速大学(現大阪府立大学)農学部教授となった。
神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月… 神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月9日 - 1989年1月4日)は、日本の仏教学者。浄土真宗の僧侶。 兵庫県東保福専寺・神子上憲了の子。1926年龍谷大学卒業。1961年「他力廻向思想の研究」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。龍谷大学教授、1963年奈良大学教授、名誉教授。浄土真宗勧学。子は神子上恵群(1936- 、2003-07年龍谷大学学長)。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
青山 なを(あおやま なお、1900年〈明治33年〉7月9日… 青山 なを(あおやま なお、1900年〈明治33年〉7月9日 - 1985年〈昭和60年〉8月1日 )は、日本の文学博士で日本女性史の研究者。 1900年三浦助次郎と静の次女として東京府東京市本所区花町(現:東京都墨田区緑四丁目)に生まれる。東京女子高等師範学校付属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)から、東京女子大学国文科へ進み、1923年に卒業する。在学中に、垣内松三、沼波瓊音の薫陶を受け、学問史への関心を深めていく。 1928年に東北帝国大学法文学部に入学、村岡典嗣を指導者として日本思想史を研究。1931年に学士試験に合格し、その後、大学院に進学して日本女性精神史を研究する。 安井てつの勧めで、東京女子大学講師に就任。
神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)… 神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年(明治31年)7月9日 - 1980年(昭和55年)12月25日)は日本の実業家。
和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 … 和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 - 1923年〈大正12年〉2月14日)は日本の社会運動家、農民運動家。早稲田大学の学生運動団体であった民人同盟会および建設者同盟の中心人物。 青森県上北郡三本木村(現在の十和田市)出身。父・足也が畜産技師として岐阜県庁に赴任した関係で、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)に進み、柔道部にて平野力三や三宅正一と知り合う。旧制中学時代の和田は、トゥルゲーネフやトルストイを好んで読んでいたという。その後、早稲田大学に進学する。 1919年(大正8年)2月、早稲田大学の学生を中心とした社会運動団体・民人同盟会の創立に参加する。しかし、まもなく中心メンバーの高津正道と和田の間で路線対立が生じる。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - … 陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - 1982年5月14日 )は、大正時代の力士。振分部屋所属。本名は須藤 金作(すどう きんさく)。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市)出身。最高位は西十両9枚目。 浪ノ音の振分部屋に入門、1915年1月場所「一ノ音」の四股名で初土俵を踏む。1918年5月「陸奥錦」に改名した。1920年5月場所新十両。2場所つとめて幕下に落ちた。1922年1月に再十両となったが、0勝5敗に終わり幕下に落ちた。その後1923年5月場所限りで廃業した。 廃業後すぐに警視庁に入り巡査となり、柔道を学び中野正三十段の指導を受けて1923年に講道館へ入門。入門から3ヶ月で初段を取得してから段位を上げ、入門から5年後の1928年には5段位を取得した。
川北 禎一(かわきた ていいち、1896年7月9日 - 19… 川北 禎一(かわきた ていいち、1896年7月9日 - 1981年6月9日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、日本興業銀行頭取を務めた。 大阪府立天王寺高等学校を卒業。 1922年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1947年5月に副総裁に就任。 1949年6月には日本興業銀行総裁に就任。 1950年4月に民間銀行に転換した後は頭取に就任し、1961年11月までに務めた。 1955年4月から1965年2月までに文化財保護委員を務め、日本自然保護協会会長なども歴任。 1966年11月に勲一等瑞宝章を受章。 1981年6月9日、心筋梗塞のために死去。84歳没。
松平 銑之助(まつだいら せんのすけ、1896年(明治29年… 松平 銑之助(まつだいら せんのすけ、1896年(明治29年)7月9日 - 1978年(昭和53年)12月22日)は、昭和期の官吏、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧小幡藩主家当主、子爵・松平忠恕の八男として生まれる。甥・子爵松平忠相(義兄松平忠禎長男)の死去に伴い家督を継承し、1924年(大正13年)10月15日、子爵を襲爵した。 早稲田大学文科を修了。1926年(大正15年)衆議院兼逓信属に就任。その後、衆議院理事官、昭和食糧顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和21年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9… 竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9日 - 1980年(昭和55年)2月18日)は、日本の社会学者・社会福祉学者。日本における社会福祉学の構築に寄与した研究者で、ソーシャル・ケースワーク研究の黎明期を支えた第一人者。日本ソーシャルワーカー協会の初代会長。 京都府京都市生まれ。父は同志社神学科にて学び、愛二が生まれてのち長崎県を中心に九州伝道を行った牧師であり、母も伝道の道にいた人物であるとされる。幼少期の愛二も両親の伝道の旅に付き添ったため、書類によってはその道程の地域を出身地としたものも散見される。 1913年に旧制同志社中学校を卒業し、神戸三菱造船所に就職。1924年に学問への志、断ち難く三菱造船を辞して米国への私費留学へと赴く。
川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、18… 川西 英(かわにし ひで、Hide Kawanishi、1894年7月9日 - 1965年2月20日) は日本の版画家、画家。本名は川西英雄。 1894年(明治27年)、兵庫県神戸市兵庫区東出町に回船・穀物問屋の七男として生まれる。1915年(大正4年)、神戸商業学校を卒業後、家業を継ぐ。1922年(大正11年)からは兵庫東出郵便局長を務めた。画家を志した時期についての資料は見つかっていないが、16歳のとき(1910年)に『セシル・アルディン作品の模写』(京都国立近代美術館蔵)を描いている。木版画は山本鼎の作品をみて志したとされ、1920年代より長らく国画会と日本版画協会を主な活動の場とした。1937年(昭和12年)に出版された『神戸百景』はエキゾチックな都市風景と風俗を描いた作品で、彼の代表作である。
尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 194… 尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家・教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘。埼玉県出身。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀江書院を創業、社長を務める。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して前者の代表、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1… 東 令三郎(ひがし れいさぶろう、1893年7月9日 - 1968年6月26日)は、日本の経営者。西日本相互銀行社長を務めた。愛媛県出身。 1920年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業。野村銀行での勤務を経て、1944年12月に西日本無尽(のちの西日本相互銀行)社長に就任。1962年10月から1965年5月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章。 1968年6月26日肺癌のために死去。74歳没。
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7… 長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。
霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973… 霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973年1月28日)は、日本の物理学者・教育者・教育学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員の霜田光一は息子。 埼玉県出身。本名・利平。1912年東京美術学校卒。小・中学校教師を経て、1920年東京帝国大学で美学・心理学の研究をする。1928年英国へ留学、教育家A・S・ニイルに師事。帰国後、主婦之友社で児童相談を担当。のち、井荻児童研究所を設立し所長となる。多摩美術大学教授、長野女子短期大学教授も務めた。1968年『ニイル著作集』で第5回日本翻訳文化賞受賞。堀真一郎、國分康孝が門下にいる。
篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月… 川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月9日 - 昭和34年(1959年)4月17日)は明治・大正・昭和期の詩人、評論家。本名は誠。 曾祖父は幕末の旗本・外国奉行、川路聖謨。父は川路寛堂、母はハナ子(浅野長祚の五女、母方の祖父は岩城隆喜)。 東京府芝区三田生まれ。幼少期は福山市や淡路島の洲本で過ごした。洲本中学時代から文学に関心を持ち、『中学世界』『ハガキ文学』『小国民』などに投稿を始めた。 1903年(明治36年)中学校を中退し、京都の美術工芸学校に入学した。1906年(明治39年)から口語自由詩の詩作を始める。同年、美術工芸学校卒業後は関西美術院の夜学に通い、浅井忠に油絵を学ぶ。
竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月… 竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県仙台市出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。宮城県警部、京都府警視・中立売警察署長、警視庁警視・深川警察署(のち西平野警察署)長、同監察官を務めた。1918年(大正7年)、朝鮮総督府に移り、黄海道警察部長、平安北道警察部長、朝鮮総督府山林部林務課長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、同警察部長、咸鏡北道知事を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、富寧水力電気株式会社社長、朝鮮水産開発株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社社長を務めた。
石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年… 石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年〉7月9日 - 1989年〈平成元年〉9月6日)は、日本の実業家、政治家。石原興業社長。衆議院議員(大阪府第一区選出、当選1回)。広島県尾道市長(16代、17代)。 大阪府出身。広島県・石原善平の息子。1910年、早稲田大学専門部法律科卒業。1911年、分家する。洋銑鉄業、鉄商を営む。 大阪朝日新聞社政治部記者となる。大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員、奈良市長を歴任。立憲民政党に所属する。早稲田大学商議員、日の丸電線専務取締役、奈良市街自動車、大阪電線各社長などをつとめる。奈良県多額納税者に列する。 1931年2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」を提出し、同年3月26日衆議院本会議において可決された。
三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日… 三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。 北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。 1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(1910年(明治43年)に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。
井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月… 井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月9日 - 1962年(昭和37年)9月19日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。国務大臣。 鹿児島県頴娃郡郡村(揖宿郡頴娃村、頴娃町を経て現南九州市)に生まれる。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鈴木商店社員、読売新聞記者を経て、1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会所属で鹿児島県第1区から立候補し初当選。以後通算当選7回。政友会では床次竹二郎派、中島知久平派に所属した。 戦後は日本進歩党、民主党、同志クラブ、民主自由党、自由党、自由民主党と渡り歩き、1946年(昭和21年)第22回総選挙では進歩党公認で、翌1947年(昭和22年)第23回総選挙では民主党公認で、1949年(昭和24年)第24回総選挙では民自党公認で当選している。
亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9… 亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9日 - 1977年〈昭和52年〉9月16日)は、明治 - 昭和時代の洋画家。 1886年(明治19年)に横浜で生まれた。 1902年(明治35年)女子美術学校洋画科に入学。 1907年(明治40年)女子美術大学卒業後、東京勧業博覧会に行き、満谷国四郎の作品に感銘を受け、師事する。その後太平洋画研究会にて、中村不折からデッサンを学ぶ。 1909年(明治42年)に第3回文展に初出品。その際に出品した「白かすり」が入選した。 1911年(明治44年)に第5回文展に「読書」を出品。こちらも入選した。 1913年(大正2年)に第7回文展に「離れゆく心」を出品。
斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 19… 斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 1960年7月5日)は、日本キリスト教青年会(YMCA)同盟総主事である。日本のJ・R・モットと言われた。 1886年(明治19年)福岡県企救郡大里村に生まれる。第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部で学ぶ。1911年(明治44年)東京帝国大学を卒業後に、第五高等学校で英文学の教授になる。ジョン・モット、G・M・フィッシャーの影響を受けて、1917年(大正6年)に教師を辞職して、YMCA同盟主事に就任する。1921年(大正10年)には総主事になる。 1924年(大正13年)から10年間、東京キリスト教青年会総主事に就任して、関東大震災後の復興のために尽力する。
波江 悌夫(なみえ やすお、1885年7月9日 - 1965… 波江 悌夫(なみえ やすお、1885年7月9日 - 1965年2月8日)は、大阪を中心に活躍した建築家。大阪城天守閣の基本設計を行ったことなどで知られる。
若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日… 若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日 - 1943年(昭和18年)12月9日)は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 熊本県出身。1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。
堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)… 堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)7月9日 – 1941年(昭和16年)2月5日)は、衆議院議員(国民同志会)。彦根町長。 滋賀県犬上郡彦根町(現在の彦根市)出身。1908年(明治41年)、早稲田大学政治経済科を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計に任じられた。彦根町会議員を経て、彦根町長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月… 高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月9日 - 昭和14年(1939年)9月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)、ジャーナリスト。 堺県丹南郡野田村(現在の大阪府堺市東区)出身。文学寮高等科(現在の龍谷大学)を卒業。中央公論社、中央新聞社、大阪朝日新聞社の記者を経て、大阪新聞通信社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に立憲国民党から出馬し、当選を果たした。その後、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。 その他、大阪府立憲青年会幹事長、河泉農業組合長などを務めた。
島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7… 島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7月9日 - 1933年〈昭和8年〉4月13日)は、日本の作曲家、音楽教育者であり、オルガン奏者である。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊次郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ、小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。
小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4… 小栗 盛太郎(おぐり もりたろう、1871年7月9日(明治4年5月22日) - 1949年(昭和24年)11月12日)は、日本の会計検査院検査官。福岡県若松市長。神奈川県横須賀市長。 岐阜県出身。平民・小栗辨之右衛門の長男。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事、検事を務めた後、会計検査院に転じ、検査官・第二部第二課長を務めた。 後、福岡県若松市長を経て、1928年(昭和3年)3月、神奈川県横須賀市長に就任した。関東大震災の震災復旧、復興事業による赤字財政を立て直すため、経費の緊縮や海軍助成金の増額認可獲得などに奔走したが、世界恐慌の状況下でうまく事は運ばず、1930年(昭和5年)5月、病により辞任した。
本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈186… 高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈1862年7月9日〉 - 昭和25年〈1950年〉12月30日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は豊正。号は靖斎。 警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した、昭和初期剣道界の第一人者。 武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれる。幼少時から祖父で忍藩剣術指南役の高野佐吉郎に中西派一刀流剣術を学ぶ。5歳のとき忍藩主松平忠誠の御前で中西派一刀流の組太刀56本を演武し、褒賞を賜る。 その後、上京して山岡鉄舟に師事し、明治19年(1886年)警視庁巡査に任官。本所元町署撃剣世話掛を務め、「警視庁の三郎三傑」の一人に数えられる。
笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日… 笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日〉- 1941年〈昭和16年〉1月7日)は、幕末の前橋藩士、明治期の政治家。衆議院議員、前橋市長。幼名・鏘吉。 武蔵国入間郡川越で川越藩士、侍医・笹治玄碩の息子として生まれる。居城の移転に伴い上野国勢多郡前橋に転居。家業を継ぐことを好まず、儒学を修めるため江戸に出て紀州藩儒・渡辺曽輔に入門した。紀州藩が長州征討に参加することに伴い渡辺が帰藩の命を受けたため、幕臣林靏梁に師事した。慶応3年(1867年)時勢の変遷に伴い前橋に戻り、親幕尊王攘夷の立場で活動したが、その意思を貫くことが困難となり脱藩。江戸で捕縛され前橋に送還され、明治元年11月6日(1868年12月19日)死一等を減じ廃嫡のうえ自宅禁錮を命ぜられた。
知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育… 知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育13年5月27日) - 1929年(昭和4年)5月18日)は、琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家。 琉球藩時代は砂糖奉行等を務め、廃藩後は尚家経営の沖縄広運(株)社長。1908年には初の民選首里区長に選ばれた。 唐手は松村宗棍に師事した。 1847年、首里当蔵町(しゅりとうのくら)に生まれる。知花家は尚質王の第五王子、東風平王子朝春(こちんだあんじちょうしゅん)を始祖とする勝連御殿(かちれんうどぅん)から分家した首里士族であり、琉球王国時代は知花殿内(ちばなどぅんち)と呼ばれた名家であった。小林流開祖の知花朝信は甥に当たる。
華 陽子(はな ようこ、7月9日 - )は、元宝塚歌劇団花組… 華 陽子(はな ようこ、7月9日 - )は、元宝塚歌劇団花組娘役スターで、現在は昭和プロダクション所属の女優・タレント。
市川 孝典 (いちかわ こうすけ、xxxx年7月9日 - … 市川 孝典 (いちかわ こうすけ、xxxx年7月9日 - )は、日本の現代美術家、芸術家、美術家。 神奈川県横須賀市出身。身長183cm。体重80kg血液型はB型。自らの作品制作を行うかたわら、Soni.&Co.®︎(ソニアンドカンパニー)を主宰し、活発な活動を展開している。 60種類以上の線香を温度や太さなどで使い分けながら描くScorch Paintings(スコーチ・ペインティングス)シリーズ(線香画®︎)、幾層もの色のレイヤーを削り出し描くScrape Works (スクレープ・ワークス)シリーズ、Scratch Works (スクラッチ・ワークス)シリーズ、による創作活動をおこなっている。