長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1… 磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1997年4月5日)は、日本の都市社会学研究者。
谷野 せつ(たにの せつ、1903年1月10日 - 1999… 谷野 せつ(たにの せつ、1903年1月10日 - 1999年1月28日)は、日本の官僚。日本における最初期の女性行政官であり、女性の労働環境を調査した先駆的な取り組みで知られる。 千葉県出身。1926年3月、日本女子大学校社会事業部女工保全科を卒業し、内務省社会局労働部監督課で工場監督官補を務める初の女性となった。1939年に厚生省労働局監督課兼指導課を務める。1941年には大日本産業報国会中央本部に参加した。 戦時中の谷野は、既婚女性や女性労働者の過酷な労働環境を書きつつ、皇国史観にもとづいた精神論を報告している。他方で、女性労働者への技術協力や職業教育を行って養成を充実させ、労働災害の減少を進めた。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – … 宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – 1997年12月20日)は、日本の経営者である。第二次世界大戦後の沖縄において沖縄機械製塩、大東糖業、琉球煙草、琉球セメントなど多数の企業を設立し、オリオンビールの具志堅宗精、国場組の国場幸太郎、大城組の大城鎌吉らとともに「沖縄財界四天王」に数えられる。その功績は「沖縄の産業復興の父」「戦後沖縄の混迷期脱出を象徴する代表的な経済人」などと評される。 宮城仁四郎は1902年(明治35年)1月10日に沖縄県国頭郡大宜味村字根路銘で、父・仁孝と母・ウシの間に生まれた。7人兄弟(4男3女)の末っ子であった。父の仁孝は建設業に従事しており、仁四郎は「当時としてはまずまずの生活を送っていた」と述べている。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(190… 渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。
入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10… 入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京府出身。 府立三中、第一高等学校、東京帝国大学卒業。1924年に内務省に入り、1927年、法制局参事官となる。 戦後の1945年9月には法制局第一部長、同年11月には法制局次長、1946年3月には法制局長官となり、日本国憲法の立案責任者になった。1946年5月18日、昭和天皇により貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 日本国憲法により帝国議会及び貴族院は廃止され、国立国会図書館専門調査員であったところ、芦田内閣期の1948年7月に衆議院の法制局長に任命された。
岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34… 岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の社会運動家、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 栃木県下都賀郡藤岡町(現栃木市)で生まれた。1924年、拓殖大学を卒業。同年、報知新聞社に記者として入社し、1925年に退社した。 1927年、日本労農党に加わり、同党関西事務局書記長、全国労農青年同盟書記長、全国大衆党中央委員、日本大衆党中央委員、社会大衆党中央委員などを歴任し、労働運動、農民運動を指導。1934年、社会活動から身を引き東京製鐵社員となる。 戦後、日本社会党に入党し、栃木県労働組合協議会の結成に関わった。
井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 19… 井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 1975年6月23日)は、日本の経営者。東京証券取引所理事長を務めた。 三重県出身。1924年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1948年4月に理事に就任し、1954年6月から1959年6月までに副総裁を務め、1961年4月から1967年4月までに東京証券取引所理事長を務めた。 1975年6月23日、脳血栓のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1… 岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉2月18日)は、日本の内務官僚・政治家。 東京帝国大学経済学部卒業後、内務省に入省。警察畑を歩み公職追放後の1955年(昭和30年)衆議院議員に東京4区から初当選(連続当選6回)。岸内閣の内閣官房副長官、労働・行政管理・通産の各政務次官、自民党東京都連幹事長などを歴任したが、入閣はできず1972年の衆院選で落選し政界を引退した。墓所は多磨霊園。 1901年(明治34年)1月10日、三重県津市出身。 水戸高校を卒業し、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部経済学科卒業・高等文官試験行政科に合格する。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月1… 宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月10日 - 1972年(昭和47年)6月14日)は、日本の医学者。国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ。位階は従三位。 第五高等学校学生時代、ハンナ・リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。1934年(昭和9年)九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。1951年(昭和26年)の参議院に参考人として招かれ、光田健輔と共に隔離政策の強化を主張したが、批判をあび、後に発言を取り消した。
森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 19… 森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 1977年1月12日)は、日本の歌人・国文学者。学位は、文学博士。二松学舎大学名誉教授。歌人の槇弥生子は子の妻。歌人の森本平は孫。 1900年(明治33年)、熊本県熊本市新町に生まれる。1920年(大正9年)、第五高等学校在学中に短歌雑誌「白路」を創刊、この年「アララギ」に入会。「白路」の名は当時第五高等学校の教授であった高木市之助の命名という。1923年(大正12年)、東京帝国大学文科へ進学し、佐佐木信綱、久松潜一、高木市之助に学ぶ。1946年(昭和21年)「白路」を復刊し社主となる。1929年(昭和4年)二松学舎専門学校教授となり、のち二松学舎大学教授となる。
田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 199… 田上 松衛(たがみ まつえ、1900年1月10日 - 1995年1月28日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。横浜市会議員(3期)。神奈川県議会議員(2期) 鹿児島県揖宿郡山川村(現・指宿市)に生まれる。1917年、鹿児島県大成実業補習学校高等部卒業。1920年、日本海員組合結成に参画。 1926年には社会民衆党、1932年には社会大衆党の創立委員になった。1936年6月、神奈川県会議員選挙に横浜市神奈川区選挙区から立候補して初当選を果たした。1938年3月5日、横浜市会議員選挙に第2選挙区から社会大衆党公認で立候補して初当選を果たした。1940年、県会議員選挙に社会大衆党を抜け、中立候補で神奈川区選挙区から立候補したが、落選した。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月1… 大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月10日 - 1992年(平成4年)4月5日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。12代目当主。 1899年(明治32年)1月、京都府京都市伏見区で大倉恒吉の長男として生まれる。1923年(大正12年)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業と同時に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。その後、月桂冠株式会社の前身である大倉恒吉商店に入社し、大倉恒吉商店、共同酒造株式会社各常務、東京菱油商会、江田醸造研究所株式会社各監査を歴任後、1945年(昭和20年)に大倉酒造(現・月桂冠)株式会社代表取締役社長(のち会長)に就任した。
松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かね… 松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かねと、1898年(明治31年)1月10日 - 1984年(昭和59年)5月23日)は、日本の社会運動家、教育者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野市)で、裁判官の息子として生まれる。父の転勤に伴い各地の小学校へ転校した。1915年、長野県立上田中学校を卒業し、第七高等学校造士館に入学。同年12月、メソヂスト鹿児島教会(現:日本基督教団鹿児島加治屋町教会)で洗礼を受けた。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、新人会の結成に加わった。1921年、同大法学部を卒業した。 卒業後、大阪市社会部に勤務し、その後、大阪労働学校主事兼講師に就任。
鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日… 鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日 - 1960年(昭和35年)9月1日[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政長官。 鶴丈一郎の三男として大阪府大阪市に生まれる。第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)同大卒業と同時に台湾総督府殖産局農務課に奉職。 翌年12月、台南州警務局警務課長に転じ、1927年(昭和2年)台北州内務部勧業課長、1930年(昭和5年)同州地方課長、1931年(昭和6年)総督府交通局参事、逓信部庶務課長兼海事課長、1933年(昭和8年)総督府高等海員審判所審判官、1935年(昭和10年)台中州内務部長を経て、1936年(昭和11年)台南州内務部長に就任。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 … 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 - 1984年5月11日)は、日本の西洋史学者。一橋大学名誉教授。南山大学名誉教授。 東京府八王子生まれ。1919年に東京高等商業学校を、1921年に同校専攻部経済科を卒業。三浦新七門下。同年4月東京商科大学助手。1925年に東京商科大学予科教授兼助教授。 1926年からオーストリアに留学し、アルフォンス・ドプシュ(英語版)や、ベルリンでフリードリヒ・マイネッケに師事した。また、留学中和辻哲郎や大西克礼と交友を持った。1928年からイタリア、アメリカ合衆国に留学。 1936年東京商科大学教授。1946年東京商科大学附属図書館長。1949年一橋大学教授兼東京商科大学教授。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年… 西 文雄(にし ふみお、1897年1月10日 - 1990年9月3日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会範士)。 主に福岡県に拠点を置き、選手として熊本・福岡対県試合や全日本選士権大会で活躍する傍ら、福岡・満州対抗試合や全日本東西対抗大会の開催に尽力するなど柔道界の運営にも携わった。その技量は名人・達人の域に達していたと云われるが、晩年は故あって講道館と全日本柔道連盟に反目し、柔道界からは距離を置いて過ごした。 東京府青梅市の出身。中学生となって静岡県浜松市の旧制浜松中学校(現・県立浜松北高校)に在学中、他校の柔道教師であった戸田順吉に傾倒し、1915年に旧制浜松中学校を卒業するのと前後して戸田が指導する静岡市の講道館分道場義正館へ入門した。
高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月… 高嶋 辰彦(たかしま たつひこ、1897年(明治30年)1月10日 - 1978年(昭和53年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・多賀谷。高島と表記される場合がある。 福井県出身。港湾業・多賀谷儀三郎の四男として生まれ、陸軍中佐・高嶋嘉蔵の養子となる。四日市中学校(現三重県立四日市高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を首席で卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を首席で卒業した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(軍事課)を経て、1929年(昭和4年)1月からドイツ駐在として、ベルリン大学、キール大学で学んだ。
岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1… 岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1972年7月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。戦後は日本共産党員として活動した。弟は名戦闘機搭乗員で鹿屋基地司令・岡村基春大佐(海軍兵学校50期)。末妹の清子は艦爆の神様江草隆繁大佐の妻。 1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。 横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。
若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉… 若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉1月10日 - 1969年〈昭和44年〉11月9日)は、大正・昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。1916年(大正5年)札幌師範学校本科一部を卒業した。 虻田第一小学校、札幌北九条小学校、札幌師範学校訓導、小樽市潮見台小学校長、札幌市中央創成小学校長、同市西創成小学校長を歴任。この間、教材の改良などを行い、児童の自発的な活動を重視した教育を実践した。 1945年(昭和20年)12月、札幌市教職員組合委員長に就任。1946年(昭和21年)北海道教員組合(現北海道教職員組合)初代委員長となる。
西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1… 西島 麦南(にしじま ばくなん、1895年1月10日 - 1981年10月11日)は、熊本県出身の俳人、校正者。本名・西島九州男(にしじま くすお)。 熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区植木町)生まれ。済々黌卒業。1915年、雑誌「雲母」の前身「キラヽ」に参加。1916年、上京し、出版社の警眼社に入社。1918年、武者小路実篤の「新しき村」に参加し、3年ほど農耕に従事。1922年12月、上京し、大鐙閣などを経て、1924年、岩波書店に入社する。戦後は校正課の初代課長を務め、55歳の停年後も特別嘱託として勤務し、1970年に75歳で退職するまで校正実務を担当し、「校正の神様」とたたえられた。 俳句は飯田蛇笏に師事。
簡牛 凡夫(かんぎゅう つねお、1894年(明治27年)1月… 簡牛 凡夫(かんぎゅう つねお、1894年(明治27年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、大蔵政務次官、可也村村長を歴任した。
青山 義雄(あおやま よしお、1894年1月10日 - 19… 青山 義雄(あおやま よしお、1894年1月10日 - 1996年10月9日)は、洋画家。フランスに渡り、アンリ・マティスに才能を認められ、生涯、親交を結んだ。美術評論家・コレクターとして知られる福島繁太郎とは家族ぐるみの交際をした。梅原龍三郎に請われて国画会会員となる。第1回佐分賞、中村彝賞を受賞。 神奈川県立近代美術館などに作品が収蔵されている。 日清戦争が勃発した1894年(明治27年)、青山は神奈川県横須賀市に生まれた。海軍省書記官を勤める父の仕事に従い、9歳の時に北海道根室市に引っ越した。以来、北海道の大地が青山の精神形成や画家人生に大きな影響を及ぼす。 小さい頃から絵や文学を好んだ青山は父や周囲の反対を押し切り、画家になる決意を固め上京した。
石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10… 石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第26期、東京帝国大学工学部火薬学科卒業。1932年(昭和7年)に陸軍造兵廠火工廠研究課長に就任し、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所に転じた。1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠火工廠技術課長に着任。1939年(昭和14年)3月に兼陸軍造兵廠火工廠検査課長を経て、1940年(昭和15年)1月20日に陸軍燃料廠附となる。 同年8月1日に陸軍燃料廠整備部長兼研究部長に就任し、1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級した。
川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 197… 川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 1972年7月24日)は、国文学者、俳人。 埼玉県出身。本名は以志。俳号は露石。三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)卒。沼波瓊音に俳句を学ぶ。別府大学教授、梅花女子大学教授。一茶、芭蕉、女流俳人などを研究。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1月10日 - 1971年 <昭和46年> 1月10日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1913年に山口高等商業学校を卒業し、1922年に藤倉電線に入社。 取締役、常務を経て、1948年5月には社長に就任。1961年7月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1971年1月10日、肺機能障害のために死去。79歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日… 竹田 復(たけだ さかえ、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)11月7日)は、日本の中国文学者・中国語学者。東京教育大学名誉教授。 山梨県生まれ。父は漢学者・竹田左膳。病弱なため和歌山県で小学校を終え、静岡中学校、1914年第一高等学校卒、1918年東京帝国大学文学部支那文学科卒、大学院入学、1921年から1924年北京に学ぶ。 1925年より第一高等学校教授、東京帝国大学文学部助教授を兼任。1945年に「支那口語文学源流考」で東京帝国大学文学博士を取得。1945年1月、東京文理科大学教授。1948年東京教育大学(現筑波大学)教授、1952年定年退官、東洋大学教授、1958年日本大学教授、1964年大東文化大学教授、1967年名誉教授。
辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日… 辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日 - 1938年(昭和13年)10月17日)は、日本の陸上競技選手、弁護士、政治家。 父は建築家の辰野金吾、兄はフランス文学者の辰野隆。 1891年、東京市赤坂に生まれる。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。東大在学時の1913年(大正2年)、第1回全国陸上大会において砲丸投げで9m00の記録を打ち立てて優勝する。父・金吾、兄・隆ともども相撲好きで、保はとくに強く、一高時代には出羽海部屋に通っていた。 1917年に東大法学部を卒業後、岩田宙造の法律事務所に入って実務研修する。同年、中山瑞彦の娘千代子と結婚。翌1918年に独立して弁護士を開業し、法律事務および特許関係の仕事に従事する。
新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943… 新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943年2月28日)は、日本の俳優である[3]。本名は新井淳一(一説に本名同じ)。新派出身で、現代劇の映画を中心に出演した。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月1… 酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月10日 - 昭和31年(1956年)10月3日)は、出羽庄内藩11代藩主・酒井忠篤の3男。松ヶ岡開墾場2代総長。酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長。 庄内藩主11代酒井忠篤の3男として鶴岡市家中新町に生れ、酒井家内の学問所文会堂で学び、旧制中学の課程を家庭教師について終了した。明治44年(1911年)22歳のとき、松平親懐の後を受けて松ヶ岡開墾場2代総長となり、その後、酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長など数多くの役職を歴任した。
鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月1… 鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉11月8日)は、日本の生物学者(生化学・農芸化学)。旧姓は「荒木」(あらき)。京都帝国大学農学部教授、農学部教授。 1888年(明治21年)1月、福島県に生まれた。上京して東京帝国大学の農科大学に進学し、農芸化学科にて学んだ。このとき鈴木梅太郎に師事し、のちに梅太郎の娘婿となった。1912年(明治45年)、東京帝国大学の農科大学を卒業。なお、後年に博士論文「『ビオス』ニ関スル研究」を執筆し、1925年(大正14年)に東京帝国大学より農学博士の学位が授与された。 大学卒業後は生物学者として研鑽を重ね、1923年(大正12年)に京都帝国大学教授に就任。
村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月1… 村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1953年〈昭和28年〉10月23日)は、日本の政治家。青森県八戸市の8代目市長。 青森県上北郡百石村(百石町→おいらせ町の前身)に生まれる。青森県立第二中学校(現青森県立八戸高等学校)、京北中学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業、東亜同文書院教授。 1913年(大正2年)に東亜同文書院教授を退任。1914年(大正3年)高等文官試験外交科(外交官及領事館試験)に合格し、同年在長春領事官補、高等官七等となる。 在ホノルル領事官補を経て、1918年(大正7年)在ニューヨーク領事官補。1919年(大正8年)在中国外交官補。
金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10… 金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10日 - 1969年(昭和44年)5月29日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第2代市長。 1888年(明治21年)3月1日山形県西田川郡加茂村(現・鶴岡市加茂)に飛塚元次郎の次男として生れる。その後、東田川郡広瀬村(現・鶴岡市羽黒町)の酒造業経営・今野岩治の婿養子となり、「岩治」を襲名する。 1905年(明治38年)、荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し(同窓生に小林鉄太郎がいた。)、 大阪工業高等学校で学ぶ。その後は、 会社員を経て、鶴岡市会議員となる。 1927年(昭和2年)5月 鶴岡市長選挙に立候補して初当選。同年10月、 同職を辞任し山形県会議員選挙に立候補するが落選。
小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月1… 小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月10日 - 1950年(昭和25年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 福島県田村郡飯豊村(現在の小野町)出身。第二高等学校を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。大場茂馬の弁護士事務所に勤務した後、1917年(大正6年)に東京市麹町区に事務所を開いた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に日米信託株式会社顧問を務めた。
矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1… 矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉6月21日)は、日本の政治家。大蔵大臣。 愛媛県三豊郡桑山村(現・香川県三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。 1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警察部警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。 1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。
沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957… 沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957年9月3日)は、ドイツを中心に、ヨーロッパで活動した日本人のサーカス芸人、曲芸師。 愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり、16歳だった1902年に(14歳だった1900年とする記述もある)、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した。1904年、日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャ、エジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった。
岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)… 岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)1月10日 - 1969年(昭和44年)7月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県馭謨郡(屋久島)、のちの上屋久村(熊毛郡上屋久村、上屋久町を経て現屋久島町)で生まれる。同村宮之浦地区で郵便配達をしながら独学。その後神戸に移り、浪速銀行神戸支店で奉公人として働きながらパルモア英学院(のちパルモア学院専門学校)で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後、浪速銀行神戸支店書記補を経て、1916年(大正5年)三十字商会支配人となる。その後、藤田商事取締役、大和海上火災専務取締役、太平洋海上火災専務取締役、朝日生命専務取締役、第一毛糸監査役などを務めた。
小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10… 小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1961年〈昭和36年〉8月18日)は、日本の実業家。昭和石油第2代社長、元住友海上火災保険専務取締役。 新潟県新潟区古町通5番町(現 新潟市中央区古町通5番町)出身。 1898年(明治31年)3月に新潟高等小学校を卒業、1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校本科を卒業。 1907年(明治40年)8月に住友本店に入社、主計課に勤務、1916年(大正5年)3月に住友東京販売店支配人に就任、1919年(大正8年)3月に住友伸銅所副支配人に就任、1925年(大正14年)2月に住友合資会社伸銅所支配人に就任、1927年(昭和2年)4月に住友合資会社製銅販売店支配人に就任、1928年(昭和3年)7月に住友別子鉱山支配人兼大阪支店長に就任。
清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 19… 清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 1964年9月13日)は、日本の歴史学者。広島文理科大学教授。神道史、国体論史の研究で知られる。 1885年、大分県速見郡南杵築村(現・杵築市)で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1910年に卒業。同大学大学院に進んだ。 京都帝国大学大学図書館司書、内務省神社局嘱託を経て、日本大学講師に就いた。1922年より広島高等師範学校教授。1926年に学位論文『徳川幕府神社制度ノ研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。1929年に広島高等師範学校が広島文理科大学に改組となって以降は同校教授。1943年に広島文理科大学を筆禍事件のため辞した。
加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月… 今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月10日 - 1971年(昭和46年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、八日市市長。旧姓・三浦。 京都府京都市下京区綾小路通出身。三浦寛一の二男として生まれ、今宿家の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省。内務省に転じ滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同理事官、熊本県理事官、福岡県事務官、千葉県警察部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。 1926年9月、沖縄県知事に就任。第1次若槻内閣総辞職に伴い1927年5月に辞任。1929年9月、佐賀県知事に就任。