小松 俊典(こまつ としのり、1935年〈昭和10年〉3月1… 小松 俊典(こまつ としのり、1935年〈昭和10年〉3月10日 - 2020年〈令和2年〉12月4日)は、日本の言語学者(英語学・英語教育)。位階は従四位。学位は修士(ポートランド大学・1970年)。静岡県立大学名誉教授、静岡県立大学教職員テニスクラブ名誉会長。 駐日ニュージーランド大使館での勤務を経て、大同工業大学助教授、静岡薬科大学助教授、静岡県立大学国際関係学部教授などを歴任した。 英語学や英語教育を専攻する言語学者である。日本における中等教育や高等教育の英作文に対する研究などが知られる。駐日ニュージーランド大使館で勤務した経験を持ち、大同工業大学、静岡薬科大学、静岡県立大学などで教鞭を執った。
椙山 拳一郎(すぎやま けんいちろう、1934年3月10日 … 椙山 拳一郎(すぎやま けんいちろう、1934年3月10日 - 2015年4月)は、日本の俳優である。本名は杉山 健一郎(読み同じ)、初期芸名は杉山 健(すぎやま けん)、杉山 拳一郎(本名と読み同じ)。「椙山挙一郎」は誤り。 1934年(昭和9年)3月10日、東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区新橋)に生まれる。 1949年(昭和24年)4月、当時日本橋兜町にあり、戦後男女共学になった東京都立紅葉川高等学校に入学、1952年(昭和27年)3月、同校を卒業、同年4月に明治大学法学部に進学する。同学在学中は演劇活動を行っていたが、健康上の理由で満21歳になる1955年(昭和30年)に同学を中途退学した。
中本 忠子(なかもと ちかこ、1934年3月10日 - )は… 中本 忠子(なかもと ちかこ、1934年3月10日 - )は、日本の元保護司・ボランティア活動家・慈善家。食べて語ろう会理事長。居場所のない子供たちに約40年食事を振る舞う活動をしており、子ども食堂の元祖とされる。関わってきた子供たちから「ばっちゃん」と呼ばれ慕われている。 広島県の大柿町(現:江田島市)に生まれる。 1980年に保護司となる。この頃から、居住している広島市中区基町で、居場所のない子供たちに手料理を振る舞う活動を始める。保護司は2010年まで務めた。 2015年8月、「食べて語ろう会」を設立して理事長に就任。これまでの活動を「食べて語ろう会」で引き継ぐ。 2017年1月7日、NHKスペシャルにて『ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜』が放送される。
籠尾 良雄(かごお よしお、1934年3月10日 ‐ 200… 籠尾 良雄(かごお よしお、1934年3月10日 ‐ 2002年11月23日)は、日本の高校野球指導者。高知県出身。 高知県宇佐町(現在の土佐市)生まれ。土佐中学校・高等学校に進学。高校では野球部に入らず、溝淵峯夫監督からコーチ術を学び、休日に帰郷して宇佐中学校で教えていた。早稲田大学教育学部でも野球部に入らず森茂雄監督にコーチ術を学び、宇佐中学校野球部監督として指導していた。当時の教え子に片田謙二、横山小次郎、有藤通世、浜村孝、山下司、井本隆がいる。卒業後は帰郷して中学校教師となり、1963年に高知市立高知商業高等学校教諭に転じたが、野球部の部長しか空きがないため1学期で退職、母校の土佐高校教諭に転じた。
藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー(エイ)、本名:安孫子 … 藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー(エイ)、本名:安孫子 素雄(あびこ もとお)、1934年3月10日 - )は、日本の漫画家。コンビ解消後は本名で紹介されることも多い。大垣女子短期大学客員教授。座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」。血液型はA型。
和田 八束(わだ やつか、1934年3月10日 - )は、日… 和田 八束(わだ やつか、1934年3月10日 - )は、日本の経済学者。立教大学名誉教授。専門は、財政学・税制論。東京都生まれ。
石原 舜三(いしはら しゅんそう、1934年3月10日 - … 石原 舜三(いしはら しゅんそう、1934年3月10日 - 2020年3月2日 )は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。理学博士(東京大学・論文博士・1970年)。 広島県安芸郡府中町生まれ。1956年に広島大学理学部地学科を卒業後、工業技術院地質調査所(地質調査総合センターの前身)に入所。ウラン探査プロジェクト担当となる。1963年アメリカ合衆国コロンビア大学にて斑岩モリブデン鉱床の研究で修士の学位取得。1970年東京大学より理学博士の学位を取得。学位論文の表題は、Molybdenum mineralization in Daito-Yamasa area, eastern Shimane Prefecture, Japan (島根県東部大東-山佐地域のモリブデン鉱化作用)。
中山 真彦(なかやま まさひこ、1934年3月10日 - 2… 中山 真彦(なかやま まさひこ、1934年3月10日 - 2018年9月23日)は、日本のフランス文学者、比較文学者、東京工業大学名誉教授。正しくは中山眞彦。 京城府(現・ソウル特別市)生まれ。本籍地佐賀県、後に東京都。東京大学文学部仏文科卒、1959年同大学院修士課程修了、同博士課程中退、1963年千葉大学文理学部助手、1968年東京工業大学助教授、教授、1991年定年前に退官、名誉教授、東京女子大学教授、2002年退任。1998年フランス政府から教育功労章を授与される。 フランス文学研究のほか、日本文学の仏訳についても研究。
梶川 孝義(かじかわ たかよし、1934年3月10日 - )… 梶川 孝義(かじかわ たかよし、1934年3月10日 - )は、日本の元競泳選手。早稲田大学出身。第15回ヘルシンキオリンピック競技大会代表選手選考会を兼ねた第28回日本選手権水泳競技大会の100m平泳ぎで優勝し、200m平泳ぎで3位となり、オリンピック代表選手に選出された。その後1952年ヘルシンキオリンピックの競泳競技・男子200m平泳ぎに出場し、5位入賞した。 日本選手権水泳競技大会においては、前述のように1952年の100m平泳ぎで優勝しているほか、1951年・53年の200m平泳ぎで優勝している。
奥田 陸子(おくだ りくこ、むつこ、1934年〈昭和9年〉3… 奥田 陸子(おくだ りくこ、むつこ、1934年〈昭和9年〉3月10日 - )は、日本の研究者。 東京府東京市淀橋区(東京都新宿区)百人町生まれ。富山大学薬学部専攻科修了。大学卒業後は研究員となる。 1960年(昭和35年)、結婚に伴い名古屋市に移住。翌年の1961年(昭和36年)から1963年(昭和38年)にはフランスに生物化学研究のために留学。帰国後すぐ双子を出産。子供をもうけたことにより、研究者としてのキャリアは断念するも、翻訳を生業とすることで薬学や生物化学との関係を継続することを選択する。また、子供の生育環境、また、それに関わるまちづくりの分野に興味をもつようになる。 奥田が居住したのは、名古屋市内とはいえ未だ人間の手が入っていない自然が残る地域であり、また公共図書館も近くにないような場所であり、「天白ミニ文庫」と称して自宅を開放する活動をはじめた。
丹保 憲仁(たんぼ のりひと、1933年3月10日 - 20… 丹保 憲仁(たんぼ のりひと、1933年3月10日 - 2023年8月6日)は、日本の工学者。地方独立行政法人北海道立総合研究機構理事長。北海道大学および放送大学名誉教授。位階は従三位。工学博士。専門は環境工学。 北海道天塩郡豊富町出身。国際水協会会長、北海道大学総長、放送大学長などを歴任。
平 凡太郎(たいら ぼんたろう、1933年3月10日 - 2… 平 凡太郎(たいら ぼんたろう、1933年3月10日 - 2002年10月4日)は、東京市(現:東京都)中野区出身の俳優、コメディアン。本名平正美。 東洋工業学校(現:東洋高等学校)卒。 15歳の時に九州地方で「コミック一座」を立ち上げ、全国を巡業。その後は喜劇俳優の柳家金語楼に弟子入りし、「メリケン小僧」の名でデビュー。 映画、テレビドラマ、舞台と幅広く活動。森川信、由利徹、谷村昌彦らと喜劇の一時代を築いた。 1950年、東宝の専属女優であった持田和代(柏まゆみ)と結婚(1985年、死別)。1988年、桂子と再婚。 2002年10月4日、肺炎のため死去。69歳没。 弟子は俳優・司会者の仲良太郎。
利光 哲夫(としみつ てつお、1933年3月10日 - 20… 利光 哲夫(としみつ てつお、1933年3月10日 - 2003年3月14日)は、日本の演劇評論家、翻訳家。 東京生まれ。学習院大学大学院仏文学専攻修士課程修了。演劇雑誌『テアトロ』編集長のほか、フランス演劇の翻訳などをおこなう。
中西 由行(なかにし よしゆき、1932年3月10日 - )… 中西 由行(なかにし よしゆき、1932年3月10日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(投手)。 1951年に愛知県立横須賀高等学校から名古屋に入団。制球は悪かったが、左腕からの快速球とドロップカーブを武器に3年目の1953年に初勝利を挙げ、この年は4完封を含む6勝を挙げた。 しかし翌1954年には1試合の登板に終わり、チームの初優勝に貢献できなかった。 年明けの1955年に伊藤四郎とともにトンボに移籍。「若くて馬力のある選手を」ということで移籍し、大いに期待されたが南海戦での1勝だけに終わり、この年限りで引退した。
中村 功一(なかむら こういち、1932年(昭和7年)3月1… 中村 功一(なかむら こういち、1932年(昭和7年)3月10日 - )は、日本の政治家。元東近江市長(1期)、元八日市市長(3期)。旭日小綬章受章。 滋賀県八日市市(現・東近江市)出身。滋賀県立神愛高等学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒。滋賀県庁に入り、企画部水政室長、県議会事務局長、農林部長などを経て、八日市市助役となる。 1994年の八日市市長選挙に立候補して初当選、3期務めた。3期目途中の2005年2月11日、八日市市は近隣4町と合併し「東近江市」が発足した。発足直後の東近江市長選挙に立候補し、元県議の西澤久夫を破り初当選した。同市長は1期務め、2009年に引退。2015年に東近江市の名誉市民に選ばれた。
西尾 哲(にしお あきら、1932年3月10日 - )は、日… 西尾 哲(にしお あきら、1932年3月10日 - )は、日本の経営者。大阪府出身。 1957年に大阪市立大学(現大阪公立大学)理工学部高分子化学科を卒業し、同年に日商に入社。 1984年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1989年6月に副社長に就任し、翌年6月には社長に昇格した。1999年6月に相談役に就任した。 1998年11月に藍綬褒章を受章した。
世良 譲(せら ゆずる、1932年3月10日 - 2004年… 世良 譲(せら ゆずる、1932年3月10日 - 2004年2月17日)は、日本のジャズピアニスト。本名は世良 哲壮(せら てっそう)。 島根県大原郡木次町(現在の雲南市)出身。明治大学在学中の1950年から、プロ活動を始め、奥田宗宏とブルースカイ・オーケストラなどに在籍した。 1965年、白木秀雄クインテットの一員としてベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演し、国際的に注目を浴びる。 1974年から7年間、TBSテレビ「サウンド・イン"S"」に出演し、軽妙な語りで広く親しまれた。 1988年、世良譲トリオ自己のトリオとしてモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演し、スイス放送曲より絶賛される。
米盛 裕二(よねもり ゆうじ、1932年3月10日 - 20… 米盛 裕二(よねもり ゆうじ、1932年3月10日 - 2008年3月19日)は、日本の哲学者、琉球大学名誉教授。 沖縄出身。1955年、琉球大学卒業。1960年、オハイオ州立大学大学院博士課程修了。チャールズ・サンダース・パースの哲学を日本に紹介した。
川端 季雄 (かわばた すえお、1931年3月10日 - 2… 川端 季雄 (かわばた すえお、1931年3月10日 - 2001年9月12日)は、日本の化学工学者。京都大学名誉教授。滋賀県立大学名誉教授。 奈良県生まれ。1955年京都工芸繊維大学工芸学部桟織工芸学科卒業。1960年京都大学大学院工学研究科博士課程修了、京都大学工学部助手。1961年工学博士。1964年カリフォルニア工科大学研究員。 京都大学工学部助教授を経て、1983年京都大学工学部教授。1994年停年退官、京都大学名誉教授。同年から滋賀県立大学開設準備室顧問として滋賀県立大学設立にあたり、1995年から滋賀県立大学工学部材料科学科長・教授。2001年定年退職、滋賀県立大学名誉教授。同年9月12日、肝不全のため死去。
弟子 シギ子(てし シギこ、1931年〈昭和6年〉3月10日… 弟子 シギ子(てし シギこ、1931年〈昭和6年〉3月10日 - 2024年〈令和6年〉4月1日)は、日本のアイヌ文化伝承者。阿寒アイヌ民族文化保存会で、結成当初から中心的な役割をはたし、古式舞踊の伝承・保存に尽力した。また、伝統楽器ムックリの名手として、日本国外の口琴大会への参加をはじめ、国際交流を通してアイヌ文化を世界に紹介されるなど、アイヌ文化の振興並びに普及啓発に寄与した。 北海道川上郡弟子屈村(現在の弟子屈町)屈斜路コタンで誕生した。アイヌの生まれながら、自身はすでにアイヌ語やアイヌの風習を禁じられていたが、親戚や周囲の人々のアイヌ語やサコロベ(英雄叙事詩)などのアイヌ文化に囲まれて育った。
船川利夫(ふなかわ としお、1931年(昭和6年)3月10日… 船川利夫(ふなかわ としお、1931年(昭和6年)3月10日 - 2008年(平成20年)10月4日)は、島根県安来市後小路(うしろこうじ)生まれの作曲家である。箏曲家・作曲家古川太郎の高弟。代表作に、組曲「出雲路」・尺八と箏のための「複協奏曲」・交響詩「海」・飾画などがある。 富士山・九月十日・春日山懐古・峨眉山月の歌・金州城外・寒梅・常盤狐を抱くの図に題す・山行・江南の春・早に白帝城を発す 己亥の歳・静夜思・生田に宿す・海南行・川中島・夜墨水を下る・宝船・城山・楓橋夜泊・青葉の笛
小川 英(おがわ えい、1930年3月10日 - 1994年… 小川 英(おがわ えい、1930年3月10日 - 1994年4月27日)は、日本の脚本家。本名:小川英二。別名:江里 明。 東京出身。旧制鎌倉中学校(現鎌倉学園)、中央大学法学部卒業。脚本家・池田一朗に師事し、主に日活のアクション映画を執筆。1960年代の日活アクション映画の黄金期を支えた一人である。1970年頃からはテレビドラマに活動の主軸を移し、『太陽にほえろ!』では、番組開始から終了まで関わり、主としてシナリオの監修・手直しをする役割を務めた。これと並行して、アクション、サスペンス、時代劇など、幅広いジャンルで数多くのドラマ作品の脚本を執筆している。 1960年代末には、坪島孝、田波靖男、岩内克己らと映像制作プロダクション「ジャック・プロダクション」を設立。
高木 正幸(たかぎ まさゆき、1930年(昭和5年)3月10… 高木 正幸(たかぎ まさゆき、1930年(昭和5年)3月10日 - 1998年(平成10年)7月13日)は、日本のジャーナリスト、評論家。 1953年(昭和28年)、熊本大学文学部英文学科卒業。同年、朝日新聞社入社。鹿児島支局、西部本社、東京本社社会部、首都部次長を経て、1974年(昭和49年)から東京本社編集委員。 全共闘運動の時代から学生運動に関わる記事を多数執筆し、次いで部落問題の専門記者として鳴らした。1980年(昭和55年)までは部落解放同盟の見解に共鳴し、部落解放同盟寄りの記者と見られていた。この間、シルクロード踏査隊に参加。 1982年(昭和57年)から北九州市同和対策審議会委員。
前川 旦(まえかわ たん、1930年〈昭和5年〉3月10日 … 前川 旦(まえかわ たん、1930年〈昭和5年〉3月10日 - 1986年〈昭和61年〉5月11日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。香川県高松市出身。 新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
柴田 義人(しばた よしひと、1930年3月10日 - 20… 柴田 義人(しばた よしひと、1930年3月10日 - 2002年12月10日)は、日本の経済学者。経済学博士(北海道大学)。専門は経済原論・経済変動論。北海学園大学名誉教授。元・北海学園大学学長。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
大畑 佳司(おおはた よしじ、1930年3月10日 - 20… 大畑 佳司(おおはた よしじ、1930年3月10日 - 2016年1月21日)は、日本の教育者、教育評論家。 埼玉県秩父市出身。秩父青年学校卒業。浦和市立文蔵小学校教諭など小学校教師を務めた。全国生活指導研究協議会(全生研)会員。教育に関する多くの著作をなした。
武井 静夫(たけい しずお、1929年3月10日- )は、日… 武井 静夫(たけい しずお、1929年3月10日- )は、日本近代文学研究者。 北海道後志管内倶知安町生まれ。倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)卒、札幌師範学校(現北海道教育大学札幌分校)卒、1949年倶知安町寒別小学校教諭、53年北海道倶知安高等学校教諭。この間に日本大学文理学部国文学科を通信教育で卒業。中学時代に高山亮二から国語を習い、のち同僚としてともに有島武郎を研究。1967年北海道砂川南高等学校教諭、1970年北海道仁木商業高等学校教諭。 「人名編」『北海道文学大事典』北海道新聞社、217頁。https://www.h-bungaku.or.jp/issue/pdf/jiten02.pdf。
中嶌 邦(なかじま くに、1929年3月10日 - )は、日… 中嶌 邦(なかじま くに、1929年3月10日 - )は、日本史学者、日本女子大学名誉教授。1948年日本女子大学校文学科卒、1952年東京文理科大学文学部卒業。日本女子大学文学部助手、助教授、教授、1999年名誉教授。日本近現代史専攻。日本女子大学女子教育研究所員。日本女子大学の創立者成瀬仁蔵や大学の歴史に詳しい。
大塚 正徳(おおつか まさのり、1929年3月10日 - )… 大塚 正徳(おおつか まさのり、1929年3月10日 - )は、日本の薬理学者。医学博士。東京医科歯科大学名誉教授。 北海道札幌市生まれ。1953年、東京大学医学部医学科卒業。1959年、東京大学医学博士、「哺乳動物心臟のプルキニエ線維に対するアドレナリンの作用」。 母校の助手・助教授などを経て、1966年から東京医歯大教授。 神経伝達物質の研究で知られ、1964~1966年のハーバード大学留学中、γ-アミノ酪酸(GABA)が神経伝達物質として機能することを初めて証明した。また、1971~1983年には、脳内ペプチドの一種P物質が、神経伝達物質として機能することを明らかにした。 以上の業績により1974年ベルツ賞2等賞、1977年武田医学賞、1983年学士院賞を受賞。
謝 世輝(しゃ せいき、1929年3月10日 - )は、日本… 謝 世輝(しゃ せいき、1929年3月10日 - )は、日本の物理学者。本名:河津 世輝。台湾出身。 台湾・台南市出身。国立台湾大学卒業、1959年名古屋大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了、「高エネルギーにおける重陽子の光分解」で理学博士。その後東京大学素粒子研究所をへて、相模工業大学助教授、教授、東海大学文明研究所教授。 はじめ子供向けの宇宙の本などを書いていたが、1970年代に西洋中心でない世界史を執筆、1980年代からは自己啓発書を多く書いた。
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 … 渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。 没後に国民栄誉賞を受賞している。 1928年3月10日、東京府東京市下谷区(現:台東区下谷)で、地方新聞の記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄・健一郎がいる。 1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。
岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 200… 岡田 善雄(おかだ よしお、1928年3月10日 - 2008年1月16日)は、日本の医学者(細胞工学)、医師。位階は従三位。勲等は勲一等。大阪大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪大学微生物病研究所教授、大阪大学細胞工学センターセンター長、財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長などを歴任した。 広島県呉市出身の細胞生物学者である。バイオテクノロジーの基本技術である「細胞融合現象」を発見した細胞工学のパイオニアとして知られている。大阪大学名誉教授。 大阪大学微生物病研究所助手となった後の1955年、ウイルスをがん細胞に注射したところ、見たこともない巨大細胞ができた。「生物の細胞は互いに細胞膜で隔てられ、受精などを除いて合体はありえない」という生物学の常識を覆す大発見の瞬間だった。
奥平卓(おくだいら たかし、1928年3月10日 - )は、… 奥平卓(おくだいら たかし、1928年3月10日 - )は、日本の中国文学者。北海道情報大学教授を歴任。 東京生まれ。東京都立大学 (1949-2011)大学院中国文学科修士課程修了。高校教諭、短大教師、北京外国語師範学院教員、北海道情報大学教授を歴任。
嶌村 剛雄(しまむら つよお、1928年3月10日 - 19… 嶌村 剛雄(しまむら つよお、1928年3月10日 - 1994年6月4日)は、日本の会計学者。元明治大学教授(在職死亡)。 熊本市出身。立教大学卒、同大学院経済学研究科博士課程満期退学、1977年「会計上の資産概念に関する研究」で、明治大学より経営学博士の学位を取得。明治大学経営学部助教授、教授を務め、在任中に66歳で死去した。
荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日… 荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1945年〈昭和20年〉5月27日)は、群馬県桐生市出身の大日本帝国陸軍軍人、操縦士、陸軍特別攻撃隊第72振武隊員。 「子犬を抱いた少年兵」(右図)の写真で知られる。 1928年(昭和3年)3月10日、桐生市宮前町で菓子屋を営む荒木丑次・ツマの次男として生まれる。 1940年(昭和15年)3月、桐生市西小学校を卒業。翌年、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。 1943年(昭和18年)3月5日、海軍飛行予科練習生(予科練)試験に合格するも、その後の入隊時の身体検査で不合格となった。そのため体を鍛えて同年8月に陸軍少年飛行兵(15期乙)試験を受けて合格。
稲葉 三千男(いなば みちお、1927年(昭和2年)3月10… 稲葉 三千男(いなば みちお、1927年(昭和2年)3月10日 - 2002年(平成14年)9月8日)は、日本の社会学者、政治家。東京大学名誉教授。元東京都東久留米市長(3期)。位階は正四位。勲等は勲三等瑞宝章。東久留米市議会議員の間宮みきは次女。 福岡県福岡市生まれ。広島県立広島商業学校、第一高等学校 (旧制)を経て、1953年、東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会科学研究科社会学専門課程(B)新聞学に進学、在学中1958年より東京大学新聞研究所(現東京大学大学院情報学環・学際情報学府)助手。1962年に助教授、1972年に教授に昇格し、1980年から1984年まで、新聞研究所長を務めた。
川添 昭二(かわぞえ しょうじ、1927年3月10日 - 2… 川添 昭二(かわぞえ しょうじ、1927年3月10日 - 2018年3月22日)は、日本の歴史学者、九州大学名誉教授。 佐賀県唐津市生まれ。1952年九州大学文学部史学科国史専攻卒業。1969年1月九州大学文学部助教授、1975年8月教授。1980年「九州探題の研究」で九大文学博士。1990年定年退官、名誉教授、福岡大学人文学部教授、1997年退任。叙従四位、瑞宝小綬章追贈。 中世の九州史を専攻する。禰寝氏(根占氏)研究の第一人者。元寇、日蓮についての著書も多い。
利光 三津夫(りこう みつお、1927年3月10日 - 20… 利光 三津夫(りこう みつお、1927年3月10日 - 2009年9月13日)は、日本の法制史学者。法学博士(京都大学・論文博士・1962年)。慶應義塾大学名誉教授、清和大学名誉学長。 1950年慶應義塾大学法学部卒業、同講師、助教授、教授、1962年「律の研究」で、法学博士(京都大学)の学位を取得。1991年定年退任、名誉教授、清和大学学長。日本貨幣協会会長。古代律令制を研究したが、のち貨幣史で知られた。 2003年、勲三等旭日中綬章を受章。2009年9月13日、心不全のため死去。
犬丸 一郎(いぬまる いちろう、1926年3月10日 - 2… 犬丸 一郎(いぬまる いちろう、1926年3月10日 - 2020年3月3日)は、日本の実業家。帝国ホテル元社長。犬丸徹三の子。 帝国ホテル社長を務めた犬丸徹三の長男として東京・麹町に生まれる。慶應義塾幼稚舎、普通部、予科を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。若い頃はバンドマンであり、浜口庫之助、平岡精二らとともにジャズバンド「スウィング・サーフライダーズ」を結成してベースを担当し、ホテルや進駐軍のクラブなどで演奏していた。 1949年帝国ホテル入社。清掃係、客室係、調理場勤務を経て米国留学。当初犬丸の社長昇格に難色を示していたメインバンクの第一勧業銀行に対し、筆頭株主である国際興業創業者の小佐野賢治会長の強い推しのもと、1986年社長に就任。
大竹 利典(おおたけ りすけ、1926年〈大正15年〉3月1… 大竹 利典(おおたけ りすけ、1926年〈大正15年〉3月10日 - 2021年6月7日)は、日本の武道家。千葉県成田市出身。天真正伝香取神道流の師範、そして同市にある神武館道場の館長を長年務めた。 16才の折(1942年)に天真正伝香取神道流の林弥左衛門家清師範に入門。1960年6月に同流儀が千葉県の無形文化財に指定され、大竹が同保持者となった。 多数の執筆を残している。また、映画『蜩ノ記』で岡田准一に武術指導も行った。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 200… 小林 稔(こばやし みのる、1926年3月10日 - 2009年1月27日)は、日本の騎手、競走馬調教師。兵庫県出身(東京府出生)。 第二次大戦中の1944年に騎手デビュー。戦後、トラックオーで1951年の菊花賞と1952年秋の天皇賞に優勝した。1964年に騎手を引退し、調教師に転身。1970年代より関西の有力調教師として定着し、1996年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬フサイチコンコルドを代表として数々の活躍馬を輩出した。中央競馬通算5525戦899勝、うち重賞51勝。最多勝利調教師4回、最高勝率調教師、最多賞金獲得調教師、優秀技術調教師各1回。 父は騎手・調教師の小林三雄三(みおみ)、実弟・小林功も騎手であった。
白龍山 慶祐(はくりゅうやま よしひろ、1926年3月10日… 白龍山 慶祐(はくりゅうやま よしひろ、1926年3月10日 - 1968年8月25日)は、秋田県雄勝郡雄勝町(※現役当時、現・同県湯沢市)出身で荒磯部屋(入門時は伊勢ヶ濱部屋)に所属した大相撲力士。本名は金子 寅男(かねこ とらお)。最高位は西前頭12枚目(1956年3月場所)。現役時代の体格は176cm、109kg。得意手は右四つ、寄り、内無双。 14歳の時に上京し、同郷の元関脇・清瀬川が率いる伊勢ヶ濱部屋(後、荒磯部屋に改称)へ入門。1941年1月場所で初土俵を踏んだ。 「両邦山」の名で番付に載るまでに2年かかるなど当初は苦戦したが、その後は順調に番付を上げ、1947年11月場所で新十両に昇進。
松島 鈞(まつしま ひとし、1925年(大正14年)3月10… 松島 鈞(まつしま ひとし、1925年(大正14年)3月10日 - 2011年(平成23年)12月17日)は、日本の教育学者。筑波大学名誉教授。 静岡県生まれ。1952年東京文理科大学教育学科卒、1966年「フランス革命期における公教育組織の成立過程とその思想に関する研究」で東京教育大学教育学博士。千葉大学助教授、東京学芸大学助教授、東京教育大学教授、筑波大学教授、教育学系長、1984年副学長。1989年定年退官、名誉教授、大正大学教授、1996年聖徳大学教授、東京成徳学園理事、副学長。在任中に死去。2003年春、勲三等旭日中綬章受勲。没後正四位。
大塚 野百合(おおつか のゆり、1924年3月10日 - )… 大塚 野百合(おおつか のゆり、1924年3月10日 - )は、日本の英文学者、キリスト教文化・賛美歌研究家。恵泉女学園大学名誉教授。キリスト教文化功労者。
服部 幸三(はっとり こうぞう、1924年3月10日 - 2… 服部 幸三(はっとり こうぞう、1924年3月10日 - 2009年10月8日)は、日本の音楽学者。東京芸術大学名誉教授。 西洋音楽史、特にバロック音楽に造詣が深く、著作、翻訳、ラジオ番組を通じて日本におけるバロック音楽の普及に貢献した。また、音楽学会(現日本音楽学会)の設立に参画し、長年、東京芸術大学楽理科で教鞭を取り、日本における音楽学の発展に寄与した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
内藤 登(ないとう のぼる、1923年(大正12年)3月10… 内藤 登(ないとう のぼる、1923年(大正12年)3月10日 - 2008年(平成20年)9月8日)は、日本の政治家。山梨県韮崎市長(4期)。位階は従四位。 山梨県出身。1943年亜細亜大学経済学部卒。卒業後は陸軍に入る。1951年北巨摩郡円野村会議員に当選。円野村は合併で韮崎市となり、韮崎市議会議員となる。同市の副議長、議長を務めた。1967年山梨県議会議員に当選。3期務め、副議長、議長を務める。1978年韮崎市長に当選。市長は1994年まで4期務めた。2008年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松原 純一(まつばら じゅんいち、1923年3月10日 - … 松原 純一(まつばら じゅんいち、1923年3月10日 - 1966年6月22日)は、日本の編集者・近代文学研究者。元相模女子大学教授。角川書店創業当時の中心人物。 創業当初の角川書店の中心人物として活躍し、角川源義を助けた。のち相模女子大教授に就任。森鷗外に関心をもち、自ら推進した「表現」誌上に「舞姫」論及び小倉時代の鷗外について論考を発表、また森しげ女の小説についても言及している。
大類 純(おおるい じゅん、1923年3月10日-1989年… 大類 純(おおるい じゅん、1923年3月10日-1989年3月18日)はインド学者。国士舘大学教授を歴任。 中国青島生まれ。1950年旧制東京大学帝国文学部印度哲学梵文学科卒、同大助手、東洋大学講師、助教授、1967年国士舘大学助教授、73年教授、その後文学部長、評議員。
郡司 利男(ぐんし としお、1923年 <大正12年> 3月… 郡司 利男(ぐんし としお、1923年 <大正12年> 3月10日 - 1999年 <平成11年> 10月4日)は、日本の英語学者、言語学者、言語文化研究者、翻訳家。明治学院大学教授、同・言語文化研究所所長、筑波大学教授、同・附属図書館長、獨協大学教授、鹿児島女子大学(現・志學館大学)教授、同・学長等を歴任した。筑波大学および獨協大学の名誉教授。位階は正五位。 本名の利男のほか、筆名として郡司 外史(ぐんし がいし)、俳号として酔眼(すいがん)を用いた。 1923年3月10日、鹿児島県囎唹郡志布志町(現・志布志市)に生まれる。 郵便局通信事務員を経て、1943年、中央大学第二予科(英法)に入学するが翌1944年除籍。
井波 唯志(いなみ ただし、1923年3月10日 - 201… 井波 唯志(いなみ ただし、1923年3月10日 - 2011年1月25日)は、日本の漆芸家。加賀蒔絵の系譜に学びつつ、日展を主たる発表の場として活動し、作品「晴礁」により日本芸術院賞を受賞した。 石川県金沢市に生まれ、代々加賀蒔絵を営む家に育った。伝統的な漆芸技法を基盤としながら、日展を中心に漆屏風や漆芸額などを発表し、抽象性を帯びた現代的な作風で評価を受けた。 1923年、金沢市に生まれる。本名は忠。父は二代目喜六斎で、井波はその長男であった。1944年、東京美術学校附属文部省工芸技術講習所を卒業した。在学中には漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に学んだとされる。 卒業後は父から加賀蒔絵の技術を学んだが、活動の中心は日本工芸会ではなく、日展および日本現代工芸美術展に置かれた。