田川 茂(たがわ しげる、1925年12月10日 - 202… 田川 茂(たがわ しげる、1925年12月10日 - 2023年7月12日)は、日本の教育者で、暁星国際学園理事長を務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
12月10日生まれ:346人
田川 茂(たがわ しげる、1925年12月10日 - 202… 田川 茂(たがわ しげる、1925年12月10日 - 2023年7月12日)は、日本の教育者で、暁星国際学園理事長を務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
辻 一彦(つじ かずひこ、1924年12月10日 - 200… 辻 一彦(つじ かずひこ、1924年12月10日 - 2008年9月5日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(5期)を歴任。福井県遠敷郡口名田村(現・福井県小浜市)谷田部出身。長男は、福井県議会議員だった辻一憲。次男は、衆議院議員、元青森大学社会学部教授の辻英之。 1941年千葉農業専門学校(千葉大学園芸学部の前身)を卒業し教師や農業講習所講師を経て1971年の第9回参議院議員通常選挙で日本社会党公認で福井県選挙区で当選。1977年の第11回参議院議員通常選挙で落選。 1983年の第37回衆議院議員総選挙に無所属で出馬、当選を果たすも後に社会党を除名される。 1985年、院内会派「社会党・護憲共同」に参加、1986年第38回衆議院議員総選挙では社会党推薦で再選し、同年12月復党。
松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2… 松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2003年1月27日) は、日本の生態学者。元国立極地研究所所長。元南極地域観測隊隊長。 鹿児島県加世田市(現在の南さつま市)生まれ。旧制鹿児島県立川辺中学校(現:鹿児島県立川辺高等学校)出身。1952年、東北大学理学部生物学科卒業。動物生態学加藤陸奥雄教授のもとで、害虫の研究を行い、東北大学理学部助手を経て、1963年に東北大学理学部助教授。同年、国立科学博物館第二研究部極地課研究員。1965年、東北大学理学博士。1968年、第11次南極地域観測隊隊長。1973年、国立極地研究所教授・資料主幹。1981年、国立極地研究所研究主幹。1984年、国立極地研究所所長。
景山 崇人(かげやま たかと、1923年12月10日 - 2… 景山 崇人(かげやま たかと、1923年12月10日 - 2009年9月5日)は、広島県出身の実業家。戦艦大和乗組員。タカキベーカリー社長を務めた。
辛島宜夫(からしま よしお、1923年12月10日 - )は… 辛島宜夫(からしま よしお、1923年12月10日 - )は、日本の占星術師。上海生まれ。血液型はB型。星座は射手座。 占い師の他に抽象画家、オブジェ作家、音楽家、オカルト研究家などの顔を持つ。 戦時下を中国で過ごすが終戦と共に日本へ帰国。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)卒業。数度の結婚に及んでいる。 占星タロット占い集団『水星の部屋』主宰、池袋コミュニティカレッジ占星タロット占い講座講師、日本占星学アカデミータロット学科講師などを務めた。その他、音楽や美術、切り絵などの活動も盛んに行っていた。近年ではシルエット切り絵師として横浜のラーメン博物館にて活動。 近年はすべての活動を引退し、2020年3月現在の消息は明らかでない。
千葉 信男(ちば のぶお、1923年12月10日 - 196… 千葉 信男(ちば のぶお、1923年12月10日 - 1967年8月10日)は、日本の俳優、コメディアン。 実業家の千葉芳男と友子(1896年生、宮城県の大友耕三の妹)の三男として東京府東京市淀橋区下落合(現在の東京都新宿区)に生まれる。兄に恭、茂、姉に篤子、弟に孝、芝之がいる。 父芳男は1889年11月3日に宮城県志田郡の仙台藩士族千葉軍記(農事試験場の助手を勤めたのち、上海に渡り、旅館の萬蔵館を経営)の長男として生まれ、東京商工学校卒業後、浅野セメントに入社し、本社検査課や川崎、深川両工場のスレート部、共同販売会社主任、東京支店長心得などを務めたのち独立。1931年に日本スレート販売株式会社が創立されると社長となった。
大澤 文夫(おおさわ ふみお、1922年12月10日 - 2… 大澤 文夫(おおさわ ふみお、1922年12月10日 - 2019年3月4日)は、日本の物理学者(生物物理学)。理学博士(名古屋大学・1958年)。名古屋大学名誉教授、大阪大学名誉教授、日本学士院会員。勲等は勲二等。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で大沢 文夫(おおさわ ふみお)とも表記される。ラテン文字転写ではFumio Oosawaとも表記される。 名古屋帝国大学理学部助手、名古屋大学理学部教授、名古屋大学理学部分子生物学研究施設施設長、愛知工業大学教授などを歴任。 1922年(大正11年)12月10日に大阪府で生まれた物理学者。日本の生物物理学の創設・開拓・牽引者として知られる。戦後、学問研究では異端とも思える状況の中で、物理学者の立場から生物の研究を開始した。
秀村 選三(ひでむら せんぞう、1922年12月10日 -2… 秀村 選三(ひでむら せんぞう、1922年12月10日 -2021年4月15日)は、日本の日本社会経済史学者。九州大学名誉教授。 1922年、福岡県福岡市にて出生。福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)を卒業後、福岡高等学校 (旧制)で学んだ。1942年、京都帝国大学経済学部に入学。京大への志望理由は、当時同大学教授で日本経済史学の権威として知られた本庄栄治郎の下で学ぶためであった。太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1943年9月、学徒出陣で海軍に入隊して突撃部隊に所属。 終戦後に復学するが、経済難で学費が払えなくなり、当時京大教授であった蜷川虎三の勧めで故郷に近い九州帝国大学法文学部に転校。1946年5月より九州帝国大学の宮本又次、竹内理三、喜多野清一らの下で学んだ。
大沢 文夫(おおさわ ふみお、大澤 文夫、Oosawa, F… 大沢 文夫(おおさわ ふみお、大澤 文夫、Oosawa, Fumio、1922年12月10日 - )は、日本の生物物理学者。戦後、学問研究では異端とも思える状況の中で、物理学者の立場から生物の研究を開始した。海外の研究に依存しないで日本で独自の研究を展開し、世界的な研究をした。直接の弟子が数百人と多く、弟子以外にも多くの研究者に多大な影響を与えた。日本の生物物理学の創設・開拓・牽引者。名古屋大学名誉教授/大阪大学名誉教授。小谷正雄の直弟子。寺田寅彦の孫弟子。理学博士。作家富士正晴の義弟。
平ノ戸 千代蔵(ひらのと ちよぞう、1921年12月10日 … 平ノ戸 千代蔵(ひらのと ちよぞう、1921年12月10日 - 2009年1月2日[要出典])は、長崎県佐世保市東浜町出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は磯本 千代一(いそもと ちよいち)。最高位は東前頭17枚目(1955年3月場所)。現役時代の体格は174cm、97kg。得意手は右四つ、寄り。 1940年に上京し、同じ佐世保市出身の肥州山の伝で、出羽海部屋へ入門。同年5月場所で初土俵を踏んだ。 当初の四股名は本名と同じ「磯本」だったが、「磯ノ海」「大湊」を経て、1951年1月より故郷に程近い北松浦郡平戸町(現在の平戸市)と同郷の先輩でもある「平ノ戸三之助」に因んだ「平ノ戸」に改名。 三段目時代の1943年5月、応召され、1946年11月場所の直前まで復帰が叶わなかった。
佐藤 一(さとう はじめ、1921年12月10日 - 200… 佐藤 一(さとう はじめ、1921年12月10日 - 2009年6月17日)は、日本の労働評論家。松川事件の被告の一人。 栃木県日光市に生まれる。1936年今市高等小学校卒業、38年5月国際精機設計部に入り、W・R・ゴーハム技師長の指導を受ける。1941年東京芝浦電気・マツダ研究所に入る。 1943年6月海軍に召集され、通信学校で電探の教育を受けて青森、稚内、樺太に勤務。 1945年8月復員、東芝に復帰。鶴見工場設計部勤務となり、労働組合役員兼務。 1949年、松川事件の被疑者として逮捕され、第一審で死刑の判決を受ける。1963年9月12日、最高裁は検察側の再上告を棄却し、被告人20人の無罪が確定した。
慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2… 慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2007年9月20日)は、日本の化学者。東京工業大学(のちの東京科学大学)名誉教授。第4代沼津工業高等専門学校校長等を経て、東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長として北陸先端科学技術大学院大学設立にあたり、初代学長を務めた。元触媒学会会長。 北海道滝川市生まれ。1945年九州帝国大学理学部化学科卒業。1956年北海道大学理学博士。北海道大学助教授、東京工業大学(のちの東京科学大学)教授、東京理科大学教授を経て、1982年沼津工業高等専門学校校長。1985年豊橋技術科学大学参与。1988年東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長。1990年初代北陸先端科学技術大学院大学学長。
中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - … 中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - 没年不明)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1947年1月に第四銀行に入行した。1974年11月に取締役に就任し、1976年11月に常務、1978年11月に専務を経て、1983年3月に頭取に就任した。1990年3月に会長に就任し、1996年6月から1998年6月までに取締役を務めた。 1988年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等瑞宝章を受章した。
小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2… 小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2003年4月23日 )は、日本の経営者。広島ホームテレビ社長を務めた。 広島県広島市出身。1942年に法政大学予科を卒業し、1943年に芸備銀行(現在の広島銀行)に入社した。1971年に取締役に就任し、1981年に常務、1984年に専務を経て、1985年に広島ホームテレビ社長に就任。1989年に名誉会長に就任し、1990年から相談役を務めた。 2003年4月23日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 200… 林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 2007年2月5日)は、日本の歴史家(日本史)。立教大学名誉教授。 織物業史・農村工業史を専門とし、マニュファクチュア論争に大きな影響を与える。『豊島区史』などの自治体史編纂にも従事した他、古文書解読字典の編纂など、近世古文書学にも通じる。 愛知県中島郡(現在の一宮市)生まれ。生家は美濃路・起宿の脇本陣。立教大学文学部史学科に進学し、当時講師として出講していた伊東多三郎の指導を受けて日本近世史を専攻するようになった。起宿を取り上げた卒業論文の採点も伊東が行った。1943年卒業。 台湾から復員後、本郷高等学校に勤務。1951年開成高等学校に転じ、文部省検定の教科書を使わずに、手作りの「開成日本史」を活用した。
越智 伊平(おち いへい、1920年〈大正9年〉12月10日… 越智 伊平(おち いへい、1920年〈大正9年〉12月10日 - 2000年〈平成12年〉3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(10期、自由民主党)。越智電気商会(現四国通建)創業者。位階は正三位、勲等は勲一等。 愛媛県越智郡(旧玉川町、現今治市)鈍川出身。1941年相模原工学校卒。戦後、越智電気商会を設立。1954年7月、鈍川公民館建設費として22万円寄付により1955年1月18日紺綬褒章受章。 1955年今治市議会議員選挙にトップで初当選、1959年愛媛県議会議員選挙でもトップで初当選。1962年10月、今治市立今治小学校給食費として10万円寄付により1963年10月24日、紺綬褒章受章(飾版)。
松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 … 松崎 鉄之介(まつざき てつのすけ、1918年12月10日 - 2014年8月22日)は、神奈川県出身の俳人。本名・敏雄。 横浜市生まれ。横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)卒。在学中より俳句をはじめ、「馬酔木」に投句。1939年、加藤楸邨の勧めに従って大野林火に師事し、「石楠」に入会。1947年、復員後に林火の「濱」に同人として参加。1949年、東京国税局に入局。1970年、退職し銀座で税理士事務所を経営する。 1971年、俳人協会設立に参加し理事を務め、俳句文学館建設にも寄与した。1982年、林火の死去にともない「濱」主宰を継承。同年、『信篤き国』により第22回俳人協会賞受賞。同年俳人協会会長に就任。
田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月1… 田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月10日 - 1985年10月7日)は、日本の地理学者。専門は人文地理学、特に都市地理学。宮城教育大学名誉教授、東北大学名誉教授。 東京神田生まれ。旧制東京府立五中から旧制浦和高等学校(現埼玉大学)に進学。卒業後東京帝国大学理学部に進んだ。 学生時代に、木内信蔵が主導して行なわれた東京市四谷谷町小住宅密集地区の学際的調査に参加したことを機に、都市地理学研究者として注目され、後には「木内門下生きっての都市地理学者」と評されるに至った。 1944年1月17日旧姓小石弘子と結婚。仙台に疎開する。 1945年に長男の好美(よしはる)、1950年に長女のさつきをもうける。
木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月1… 木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月10日 - 1994年(平成6年)8月16日)は、昭和期の政治学者、教育者、政治家。衆議院議員。父は初代法務大臣の木村篤太郎。 神奈川県出身。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。戦後にシカゴ大学で学んだ。 東京帝大法学部助手となり、召集され陸軍中尉で復員した。その後、東京教育大学助教授、シカゴ大学政治学客員教授などを務めた。小田原女子短期大学(現小田原短期大学)を創立して理事長兼副学長に就任した。 1958年(昭和33年)5月の第28回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から出馬したが落選。次の第29回総選挙でも落選したが、1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙で初当選し、衆議院議員に1期在任した。
尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、191… 尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、1917年12月10日 - 2000年4月5日)は、大韓民国の実業家、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は漆原尹氏(朝鮮語版)。号は曙東(ソドン、서동)。 日本統治時代の慶尚南道の巨済島(現・巨済市河清面)出身。日本大学法学部卒。1960年の第5代総選挙では民主党の公認で巨済郡選挙区から立候補し、他の11人の候補者を抑えて初当選した。1992年、75歳の尹は第14代総選挙に同じ選挙区から5回目の出馬をしたが、当選は第5代のたった1回であった。また、長春韓国僑民青年団長、大韓青年団(朝鮮語版)新馬山特別団副団長、産業日報社主幹・副社長、ミョンドク愛育園長、チャンソン青果株式会社社長、イリャン産業株式会社専務、ハニャン商事社長、用達業協会長などを務めた。
白井 永二(しらい えいじ、1915年〈大正4年〉12月10… 白井 永二(しらい えいじ、1915年〈大正4年〉12月10日 - 2008年〈平成20年〉1月1日)は、日本の民俗学者、神職。神社本庁総長、日本会議顧問、鶴岡八幡宮名誉宮司などを務めた。 愛知県豊橋市花田町西羽田に生まれる。1928年、豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)卒業。國學院大學国文科卒業。折口信夫に師事し祝詞を研究。鶴岡八幡宮宮司を務め、かたわら菅江真澄などの研究を行った。 1979年2月24日、国際勝共連合と自民党の国防関係国会議員が中心となり、「スパイ防止法制定促進国民会議」が設立された。呼びかけ人は木内信胤、朝比奈宗源、宇野精一、郷司浩平、宝井馬琴、三輪知雄の6人。サンケイ会館で設立発起人総会が開かれ、白井は発起人に名を連ねた。
大野 忠男(おおの ただお、1915年12月10日 - 19… 大野 忠男(おおの ただお、1915年12月10日 - 1998年8月20日)は、日本の経済学者。大阪大学名誉教授。 1915年、岡山県児島郡灘崎町(現岡山市)生まれ。1938年、東京帝国大学法学部を卒業。商工省、岡山大学教授をへて、1971年より大阪大学経済学部教授。1973年、『シュムペーター体系研究』を大阪大学に提出して経済学博士号を取得。1979年に同大学を定年退官し、名誉教授となる。以降は、追手門学院大学教授、1984年より大阪学院大学教授を務めた。1990年退職。
大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日… 大木 実(おおき みのる、1913年(大正2年)12月10日 - 1996年(平成8年)4月17日)は、日本の詩人である。 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)の生まれ。幼年の頃は実母が病気により死去し、さらに関東大震災により継母および実弟、実妹が犠牲となる等不遇の生活を過ごした。その後は電機学校(現在の東京電機大学)に入学したが、中退しその後は大蔵省土木寮の工員や出版社に勤務し、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の大宮市役所の職員となる等職を転々とした。 その後は少年時代から北原白秋や西條八十の童謡に親しんだことや学生時代に佐藤春夫や室生犀星といった日本人詩人のみならず、フョードル・ドストエフスキーやシャルル=ルイ・フィリップ等の海外の小説家が執筆した作品に傾倒し詩人としての活動を始める。
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10… 堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。本名は栗原 正至。 実兄は浪曲師の港家小柳丸(初代)、次男はマルチタレントの堺正章。甥にボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名:栗原重夫)がいる。 東京府東京市本所区太平町1丁目(現:東京都墨田区太平1丁目)の桶製造業の家に8人兄弟の末子の3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退し11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991… 菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991年3月18日)は、日本の実業家、化学技師。雅号は木桃。セントラル硝子常務取締役・監査役。 第94代内閣総理大臣菅直人の父。武蔵野市議会議員菅源太郎の祖父。三井信託銀行専務を務めた平地弘和は長女の夫。広島大学医学部教授を務めた医学者の津下健哉は義弟。 岡山県久米郡福渡町下神目(現岡山市北区建部町下神目)出身。江戸時代、菅家は村の庄屋を務めた家柄であった。父の菅實は開業医であり、久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。 1936年、東京工業大学(東京科学大学の前身)応用化学科卒業。1937年1月、宇部曹達工業(セントラル硝子の前身)に入社。取締役技術部長を経て1965年、セントラル硝子常務取締役に就任、1977年、同社監査役。
おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月… おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月10日 - 1996年12月14日)は、日本の児童文学作家。 夫は小説家の大江賢次。 1912年(大正元年)12月10日、長崎県野母崎町(現・長崎市)生まれ。高浜高等小学校卒業。 19歳で上京、独学で保母となり保育園で働くなか、小説家として名の売れ始めた大江賢次と結婚。戦時中、夫・賢次の実家である鳥取県に疎開中に長崎への原子爆弾投下によって姉や甥・姪を亡くす。夫・賢次の影響もあって、亡くなった親族や数多くの原爆犠牲者のために原爆の悲劇を記録として残し、また多くの人々に伝えるため、40歳から児童文学の創作をはじめる。 1961年(昭和36年)、長崎への原爆投下による孤児たちを題材にした「南の風の物語」で第5回未明文学賞奨励賞を受賞。
平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 20… 平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 2005年2月24日)は、日本の英文学者。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
野田 又夫(のだ またお、1910年12月10日 - 200… 野田 又夫(のだ またお、1910年12月10日 - 2004年4月22日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。 1910年(明治3年)、大阪府で生まれた。旧制大阪府立高津中学校(大阪府立高津高等学校の前身)で学び、この時の同期生には森三樹三郎(大阪大学名誉教授)がいた。1927年(昭和2年)、同中学校を卒業し、旧制大阪高等学校へ進学。3年間を過ごしたのち、京都帝国大学文学部哲学科へ進学した。 大学では、旧制大阪高等学校時代から同窓の保田與重郎(日本浪曼派で知られる)らと共に雑誌を発行し、それを西田幾多郎に持っていくなどして西田と交流していた。野田が京都帝国大学に在学した時期は「京都学派」が興隆した時期であり、西洋哲学の研究評伝集・弘文堂「西哲叢書」で最年少の執筆者としてデカルトを担当した。
平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1… 平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1995年5月31日)は、中国哲学者、専攻は儒教経典の成立史的研究など。京都大学名誉教授。
森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月… 森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月10日 - 平成20年(2008年)2月20日)は、日本の染織家で友禅染めの重要無形文化財保持者(人間国宝)。蒔糊技法を用いた友禅染め作品で知られる。 森口華弘は、明治42年(1909年)12月10日に滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ、平七郎と名付けられた。森口家は農業と米屋を営み、華弘は5人兄弟の3番目3男で偏食、病弱小柄で大変大人しく、誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度も喧嘩をしなかったと伝えられる。12歳で小学校を卒業すると、遠縁が営む京都の薬店に奉公に出、夜は薬剤師を目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業が義務付けられ、金銭的にゆとりがなく専門学校に進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - … 板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - 1987年10月6日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に関西ペイントに入社。1958年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1972年5月に社長に就任。1978年5月には取締役相談役に就任し、同年6月から相談役に専任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年10月6日に脳梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 19… 松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 1994年8月9日)は、日本の漢文学者。 熊本県出身。1938年東京文理科大学漢文学科卒。諸橋轍次に師事。1962年「江戸時代の詩風及び詩論の研究」で東京教育大学文学博士。和歌山大学教授、72年定年退官、名誉教授、日本大学教授。1972年「江戸時代の詩風詩論―明清の詩論とその摂取」で日本学士院賞・恩賜賞受賞。同年和歌山県文化賞、1980年勲二等瑞宝章受章。和歌山大学名誉教授の生駒道弘は女婿
伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10… 伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10日 - 1987年(昭和62年)1月21日)は、囲碁の棋士。旧名は清子、旧姓は川田。栃木県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下、七段。女流選手権戦5連覇を含む優勝7回など。力戦派で巴流、巴御前の異名を取った。 足利市に生まれる。1917年(大正6年)に方円社の喜多文子に入門。その後中央棋院に所属し、若手棋士の研究会六華会にも参加。1924年の日本棋院設立とともに初段となる。1927年秋期、1929年秋期、1930年秋期の大手合乙組優勝。1940年三段。1943年四段。1952年に第1期女流選手権戦で、決勝で武田みさおを破って優勝。翌年は挑戦者杉内寿子に敗れるが、1957年からは5連覇。
桂井 和雄(かつらい かずお、1907年〈明治40年〉12月… 桂井 和雄(かつらい かずお、1907年〈明治40年〉12月10日 - 1989年〈平成元年〉8月9日)は、日本の民俗学者。 高知県高知市出身。早稲田第二高等学院中退。小学校教諭、校長、高知県福祉事業財団会長などを務めながら昔話を採集。1984年『土佐民俗選集』で柳田賞受賞。土佐民俗学会長。
伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月1… 伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身。魚屋の丁稚の子として生まれる。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った。 長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 … 前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本の政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。
志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12… 志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12月10日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 防衛庁長官(第15代)、衆議院議員(9期)を務めた。 岩手県東磐井郡大原町(のちの大東町、一関市)出身。岩手県立一関中学校を経て、1931年(昭和6年)早稲田大学政治経済学部政治学科卒。朝日新聞記者を経て、1941年大日本産業報国会参事、1942年に翼賛選挙に非推薦で立候補し敗れる[要出典]。1947年の総選挙で初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。保守合同後も有田喜一・荒木万寿夫・小島徹三らと芦田均派を維持するが、芦田の死後は三木武夫派に加入。
ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12… ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は仁平 久(にへい ひさし)。別表記ジョウ・オハラ、ジョー・オ・ハラ、ジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所、大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる。 1903年(明治36年)12月20日、秋田県秋田市に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している。
正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月1… 正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月10日 - 1982年(昭和57年)4月6日)は、日本の経済学者、官僚、ジャーナリスト、政治家(鎌倉市長)。
大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月… 大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月10日 – 1990年《平成2年》11月26日)は、日本の逓信官僚。 岡山県玉野市宇藤木出身。旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。初代郵政事務次官。在任期間は1949年6月1日~1954年2月1日。その後国際電信電話(現在のKDDIの前身の一)社長、エフエム東京社長。 三人兄弟の三男で、長兄は栄(さかえ)、次兄は哲生(てっせい)。次兄は岡山市議会議員を1回務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - … 時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - 1987年10月18日)は、日本の実業家、スポーツ指導者。 熊谷組創設者の一人で、代表取締役を務めた。また、スポーツでは熊谷組野球部の部長や監督も務めていた。 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で生まれる。船員を志して福井県立小浜水産学校に進学し、1921年3月に卒業後は早稲田大学に進む。大学時代は相撲部に所属した。 1928年3月に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業して、飛鳥組(現・飛島建設)に入社した。この就職は、早稲田大学進学前に、建設中だった小浜線の工事のために飛島組の関係者が自宅を宿舎としており、その影響を受けたとされる。 大同電力寝覚発電所建設工事の時は現地に常駐した。
和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月… 和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月10日 - 1971年 <昭和46年> 5月29日)は、日本の実業家。共和水産社長。境港商工会議所副会頭。境港水産振興協会長。位階は正六位。 香川県大川郡津田町(現・さぬき市)出身。1920年、日本水産に入り朝鮮に勤務。1937年、朝鮮日水を設立、取締役。1940年、朝鮮慶北迎日郡九龍浦学校組合議員。 1941年、九龍浦漁業組合特別議員。1942年、九龍浦邑初代邑会議員。1945年、引き揚げる。1947年、朝鮮日水を共和水産に改称、常務。1952年、社長に就任、同年に境町商業会議所議員、同年に鳥取県西部海区漁業調整委員会長。1953年、鳥取県巾着組合副組合長。
浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1… 浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の球審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。
井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月1… 井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月10日 - 没年不詳)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)理事。 井染祿朗(陸軍中将)、好美の長男として生まれた。1925年(大正14年)明治大学商学部を卒業した。大倉商事電気課長、居初電解精油取締役、北東漁業取締役などを務めた。 1917年(大正6年)に日本初のサッカー・クラブチームとして発足した、東京蹴球団に選手として参加。 1921年(大正10年)、上海で行われた第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、選手として出場。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームとされている。
入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1… 入来 重盛(いりき しげもり、1900年12月10日 - 1984年2月9日)は、日本の生物学者・動物学者。東京教育大学名誉教授。専門は動物細胞学・細胞生物学。理学博士。 現在の鹿児島県鹿児島市谷山地区出身。(旧制)鹿児島県立第二鹿児島中学校、東京高等師範学校、京都帝国大学理学部卒業。「両棲類の染色体、とくに性染色体に関する研究」の論文で理学博士号取得。 東京高等師範学校および東京文理科大学の教授から学制改革によって東京教育大学理学部教授となり、1964年に定年退官。著書に『動物の解剖』(地球出版、1966年)などがあり、生物学や理科の教科書・参考書の共著をしているほか、児童向け図鑑の編著・共著が多数ある。
服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月… 服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月10日 - 1991年(平成3年)3月14日)は日本の実業家。山形県山形市出身。 父は山形新聞社長の服部敬吉(旧新発田藩士湯浅保之進の子で、現在の新潟県新発田市出身。山形人の服部茂の養子となる。1872年2月〜1952年12月1日)。山形県立新庄中学校を経て早稲田大学政経学部経済科卒業後、同大学大学院へ進学する。在学中は早稲田大学新聞発刊に関わっている。卒業後、朝日新聞社記者を経て、1928年(昭和3年)に父が社長を務める山形新聞の専務取締役として迎えられる。山形新聞は戦時下、県内の中小他紙を吸収合併し県内随一の報道機関に成長する。また、父敬吉と戦時下に進められた県内交通会社の合併の裁定をし、山形交通(現・山交バス)と庄内交通の2社にまとめた。