斎藤 昭俊(齋藤昭俊、さいとう あきとし、1930年3月15… 斎藤 昭俊(齋藤昭俊、さいとう あきとし、1930年3月15日 - )は、日本の宗教学・仏教学者、大正大学名誉教授。インド宗教、仏教教育が専門。 栃木県栃木市の真言宗の寺に生まれる。1954年大正大学大学院修士課程修了(宗教学)。1956年インド・ベナレス・ヒンドゥー大学大学院に学ぶ(インド政府招聘留学生)。大正大学助教授、教授、教養部長。98年「仏教教育における指導原理の研究」で大正大学文学博士。2000年定年退任、名誉教授、日本仏教教育学会名誉会長、全国青少年教化協議会事務総長。
黒崎 健時(くろさき けんじ、もしくは名前の読みが「たけとき… 黒崎 健時(くろさき けんじ、もしくは名前の読みが「たけとき」、1930年3月15日 - )は、日本の空手家。別名:黒崎 明。栃木県下都賀郡桑村出身。キックボクシング・目白ジム、新格闘術・黒崎道場、黒崎総合格闘技スクールを主宰。元・極真会館最高師範(七段)。 当初は国士舘大学の一期生である福田久一郎に剣道を習っていたが、その後、革新系皇道派思想の佐郷屋留雄に預けられ、師事していた時に、佐郷屋の紹介で大山倍達の門下生となった。 自著『必死の力必死の心』には1953年目白野天道場に入門したと書いているが、当時の黒帯門下生は「黒崎と言う人を見たことがない」と言われ「立教裏道場時代からではないか」と答えている。
柏龍 成彦(かしわりゅう しげひこ、1930年3月15日 -… 柏龍 成彦(かしわりゅう しげひこ、1930年3月15日 - 1992年7月4日)は、現在の静岡県浜松市旧中瀬村小島出身で錦島部屋、伊勢ノ海部屋に所属した元大相撲力士。本名は藤森 終吉(ふじもり しゅうきち)。177cm、94kg。最高位は東十両17枚目(1957年11月場所)。得意手は左四つ、寄り。 1949年1月場所にて、18歳で初土俵。出世は早いほうではなかったが、無類の稽古熱心で地力を付けていき、1956年3月場所にて十両昇進。十両は計6場所務めたが、1958年に入ってから盲腸炎による不振が続き、1958年9月場所限りで廃業した。
中内 守(なかうち まもる、1929年3月15日 - 201… 中内 守(なかうち まもる、1929年3月15日 - 2017年8月27日)は、日本の経営者。サンテレビジョン社長を務めた。兵庫県神戸市出身。中内功の弟。 1952年に神戸大学経済学部を卒業し、同年に東亜紡織に入社。1962年にダイエー系列の紳士服専門店であるロベルトに転じ、1970年には社長に就任し、1985年にサンテレビジョン副社長に就任し、1987年6月から1996年6月までに社長を務め、1987年4月にはオリエンタルホテル取締役に就任。 2017年8月27日心不全のために死去。88歳没。
大窪 一玄(おおくぼ いちげん、1929年(昭和4年)3月1… 大窪 一玄(おおくぼ いちげん、1929年(昭和4年)3月15日 - 2015年(平成27年)3月2日)は、日本の囲碁棋士。石川県出身、増淵辰子八段門下、日本棋院所属、九段。王座戦準優勝など。旧名幸雄。1999年現役引退。 石川県小松市に生まれる。1939年(昭和14年)増淵辰子に入門し、翌年院生。1944年初段。1946年に若手棋士の研究会「金曜会」参加。1948年大手合秋期2部優勝、同年藤沢庫之助を中心とした研究会「黎明会」参加。1949年五段。1950年大手合春期2部優勝。1953年青年棋士選手権戦2部優勝。1958年首相杯争奪高段者トーナメント優勝、七段。1963年十段戦敗者組決勝進出。
坂本 百大(さかもと ひゃくだい、1928年3月15日 - … 坂本 百大(さかもと ひゃくだい、1928年3月15日 - 2020年12月17日)は、日本の哲学者(科学哲学・記号論理学・記号学・生命倫理・心の哲学)。心身問題に対するひとつの解答として原一元論を提唱した。青山学院大学名誉教授。 1928年、台湾で生まれた。東京都目黒区出身。1948年、第一高等学校文科丙類に入学。1949年に卒業し、東京大学教養学部に入学。東京大学文学部哲学科に移り、1954年を卒業。同大学院人文科学研究科に進んで、1956年に修士課程を修了。1958年よりジョンズ・ホプキンス大学大学院哲学科で学び、その後もカリフォルニア大学ロサンジェルス校大学院哲学科、カリフォルニア大学バークレー校数学科で学んだ。
岡田 昭守(おかだ あきもり、1927年(昭和2年)3月15… 岡田 昭守(おかだ あきもり、1927年(昭和2年)3月15日 - 1992年(平成4年)5月30日)は、日本の政治家、茨城県龍ケ崎市長を務めた(3期)。 茨城県出身。1942年(昭和17年)旧制茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業した。電機会社に勤めた後、稲敷郡龍ケ崎町役場に奉職する。龍ケ崎市制施行後の市役所内では消防署長、議会事務局長、総務部長、助役を務めた。助役時代の1981年(昭和56年)5月30日、当時の龍ケ崎市長の中村忠雄が交通事故により死去した。その後を受けて市長選挙に立候補し、当選した。当選後は前市長が進めたニュータウンの造成を中心とする総合都市を計画を実施し、「産業文化都市・龍ケ崎」を位置づけした。
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2… 関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2020年4月9日)は、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:東京都渋谷区)出身(北豊島郡巣鴨町〈現:豊島区巣鴨〉生まれ)のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 現役時代は近鉄、巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した。2003年、野球殿堂入り。 藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄であったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いであった。やがて、兼務していた法政大に掛り切りとなった藤田が去り、後任監督から二塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるようになった。
宇野 藤雄(うの ふじお、1927年3月15日 - )は、日… 宇野 藤雄(うの ふじお、1927年3月15日 - )は、日本の画家。日本画及び洋画を専門とする。 愛知県丹羽郡羽黒村(現・愛知県犬山市)出身。幼いころより絵が好きで小学校時代は得意な絵で訓導(教師)より成績表で褒め称えられていたという。青春期は時あたかも第二次世界大戦中とぶつかり、自身も徴兵により軍隊に取られたこともあり、絵筆を握ることもままならなかった。 戦争終了後、20歳になった時から画家としての活動を始め、1952年度の二科展で初入選し、以後23年連続入選を果たしている。自身は和歌・俳句、仏教などあらゆる日本文化を研究しつくし、研究から得た知識をキャンパスに表現する手法を長年執っている。
はた のぼる(1927年3月15日 - 2022年11月22… はた のぼる(1927年3月15日 - 2022年11月22日)は、日本のお笑い芸人。 福井県鯖江市出身。本名・川畑 正雄(かわばた まさお)。東京演芸協会名誉会長。日本演芸家連合・常任理事。5代目鈴々舎馬風ファミリーの一員。 1951年 - コミックバンド「フラット・セブン」を結成。 1959年 - 灘康次とモダンカンカンに加入。当時の芸名は「畑のぼる」 1964年 - モダンカンカンを退団し、「はたのぼるとポニーズ」(スリーボンボンと改名)を結成。 1968年 - スリーボンボンを解散し、漫談師となる。 1981年 - ロンドンで開催された「一芸名人世界大会」で準優勝する。 1996年 - 日本芸能実演家団体協議会(芸団協)芸能功労者表彰。
五十嵐 広三(いがらし こうぞう、1926年3月15日 - … 五十嵐 広三(いがらし こうぞう、1926年3月15日 - 2013年5月7日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。 企業組合ほっかい民芸舎理事長、北海道民芸品株式会社代表取締役社長、北海道旭川市長、衆議院議員(5期)、建設大臣(第59代)、内閣官房長官(第58代)、株式会社ほくみん代表取締役会長などを歴任。 1926年生まれ。1943年に北海道庁立旭川商業学校(現・北海道旭川商業高等学校)を卒業後、愛別村立愛山国民学校の助教として勤務した。その後、陸軍第7師団に入営し訓練を受けていたが、1945年に太平洋戦争が終結した。その後、1953年に民芸品販売店を開き、ほっかい民芸舎の理事長、北海道民芸品の社長などを歴任した。
坂本 文次郎(さかもと ぶんじろう、1926年3月15日 -… 坂本 文次郎(さかもと ぶんじろう、1926年3月15日 - 1994年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)。 旧制海草中学卒業後は、社会人野球の日本発送電と海南日東紡を経て、1951年に大映スターズへ入団。同年は主に三塁手として起用され、規定打席(31位、打率.242)にも到達した。1953年には全試合出場を果たし、打率.280(15位)を記録。1954年には三塁手シーズン最多補殺をマークした。これは今でも日本記録である。1955年は自己最高の打率.295(12位)を残す。1958年までレギュラーを守るが、同年のシーズン終盤から葛城隆雄が台頭し定位置を譲る。しかし1960年には二塁手、遊撃手として復活、96試合に先発し初のリーグ優勝に貢献した。
金川 千尋(かながわ ちひろ、1926年3月15日 - 20… 金川 千尋(かながわ ちひろ、1926年3月15日 - 2023年1月1日 )は、日本の経営者。信越化学工業社長、会長を歴任した。 日本統治時代の朝鮮・大邱生まれ、東京都出身。1950年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に極東物産(のちの三井物産)に入社。1962年2月に信越化学工業に転じ、1975年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1983年8月に副社長に就任し、1990年8月には社長に昇格した。2010年6月から会長を務めた。 取締役就任翌年に、信越化学が米国のロビンテック社との合弁で設立したシンテックの合弁側持ち株を買収して100%子会社化することを提案、当時の社長・小田切新太郎が取締役会の反対を押し切り買収を決断、シンテックの経営を任された金川は世界一の塩ビメーカーに育て、信越化学グループの利益源となる超優良企業に育てた。
早川 宗八郎(はやかわ そうはちろう、1926年3月15日 … 早川 宗八郎(はやかわ そうはちろう、1926年3月15日 - 2014年8月26日)は、日本の工学者。東京工業大学名誉教授、同大学元理学部長、職業能力開発総合大学校元校長、同大学校名誉教授。日本基督教団の牧師でもあった。東京大学工学博士。専門は固体光物性、紛体物性、エネルギー変換物性。 東京市本所区に生まれる。父50歳、母41歳という老齢の父母のもと、7人兄弟の末子として誕生した(8人目の子供だが1人は夭逝していた)。下町育ちそのままに、中学2年生までは毎日午後9時過ぎまでガキ大将として日々を過ごした。また、幼年のころから剣道の修練に励んだ。中学3年生のときにそれまでの生活にむなしさを感じ、第一高等学校に入ることと、剣道から禅の道に転換する目標を立てた。
河原 勇(かわはら いさむ、1926年(大正15年)3月15… 河原 勇(かわはら いさむ、1926年(大正15年)3月15日 - 2012年(平成24年)3月1日)は、日本の政治家。東京都目黒区長(2期)。 1926年3月15日、杉並区に生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業。東京都出納長室主査、目黒区戸籍課長、区民課長、総務課長、福祉問題担当主幹、区民センター管理事務所長、区民部長、企画部長、助役を経て、1990年自・社・公・民・社民連・進歩・スポーツ平和・サラ新の8党からの推薦を受けて目黒区長選挙に出馬し、当選。1994年には自・社・新生・公・日本新・さきがけ・民社7党の推薦を受けて再選を果たした。1998年5月に区長引退を表明し、10月20日の任期満了に伴って辞任した。
大川 清(おおかわ きよし、1925年3月15日 - 200… 大川 清(おおかわ きよし、1925年3月15日 - 2004年7月10日)は、日本の考古学者。陶芸家。国士舘大学名誉教授、日本窯業史研究所社長。歴史考古学、奈良・平安期古瓦、窯業史研究。
砂川 重信(すなかわ しげのぶ、1925年3月15日 - 1… 砂川 重信(すなかわ しげのぶ、1925年3月15日 - 1998年8月7日)は、日本の理論物理学者。大阪大学名誉教授。 1925年、東京に生まれる。大阪大学理学部物理学科卒業。1960年大阪大学助教授、1963年東北大学教授を経て、1966年大阪大学教授になる。その後、1988年に退官して同大学名誉教授になる。 数多くの物理学の書物を著した。 1998年8月7日、腎不全のため逝去。享年73。
原 寿雄(はら としお、1925年3月15日 - 2017年… 原 寿雄(はら としお、1925年3月15日 - 2017年11月30日)は、日本のジャーナリスト。小和田次郎のペンネームでコラム集を著した。 神奈川県平塚市生まれ。平塚農業学校、海軍経理学校、旧制一高を経て、1950年、東京大学法学部卒業。社団法人共同通信社に入社。新聞労連副委員長、社会部記者、バンコク支局長、外信部長を経て1977年に編集局長、1985年に専務理事・編集主幹に就任。1986年から1992年まで社団法人共同通信社の傘下にある事業部門、株式会社共同通信社の社長を務めた。 2007年、松田浩・桂敬一・野中章弘が世話人を務める「原さん、永井さんをNHK会長候補に推薦する会」より、「日本における言論・報道界のご意見番的存在で、卓越した見識と知性を兼ね備えたジャーナリスト・文化人」と橋本元一の後任のNHK会長の推薦を受けた。
光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 20… 光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 2000年3月8日)は、日本の建築家、都市計画学者。九州大学名誉教授。工学博士。社団法人日本都市計画学会九州支部初代支部長、財団法人福岡都市科学研究所初代理事長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。「地方都市の計画と設計における基本的考察」により工学博士の学位を取得(東京大学、1971年2月18日)。 九州大学工学部建築学科の創設期に、九州大学での講義を兼務していた丹下健三(東京大学助教授、当時)の後を受けて助教授として赴任し、定年退官まで同学科の発展に寄与した。 丹下研究室時代には、倉吉市庁舎(1956年、鳥取県倉吉市)の設計等を担当した。九州大学では、建築学教室、九州大学五十周年記念講堂、工学部七十五周年記念庭園等を設計し、キャンパスの整備に貢献するとともに、九州各地において数多くの学校建築、商業建築、公共建築等を手がけた。
室賀 三郎(むろが さぶろう、1925年 <大正14年> 3… 室賀 三郎(むろが さぶろう、1925年 <大正14年> 3月15日 - 2009年 <平成21年> 12月9日)は、日本の情報通信、コンピュータ分野の科学者。日本のコンピュータパイオニアとして知られ、アメリカのイリノイ大学教授を38年間つとめた。 静岡県沼津市生まれ。1947年、東京大学電気工学科卒業、国有鉄道技術研究所に就職。世界最初の音声タイプライタの特許を申請する。1950年電波庁に転職し、1953年フルブライト奨学金でマサチューセッツ工科大学に留学。1954年から半年間、イリノイ大学に研究助手として留学。日本人として初めての大型コンピュータの使用経験を持つ人物となった。1955年に帰国。
田江 岑子(たえ みねこ、1925年(大正14年) 3月15… 田江 岑子(たえ みねこ、1925年(大正14年) 3月15日- )は日本の歌人。岩手県宮古市出身で盛岡市に在住。2025年(令和7年)12月1日、永眠。享年100. 1925年岩手県川井村(現在の宮古市西部)に生まれる。結婚後は盛岡に住む。1961年、新墾社に入社。1973年、未来短歌会に入会。1974年、『北宴』文学会の復刊に参加。1982年、『岬』創刊に参加。1984年、季刊個人誌『淼』を発刊し、1988年に終刊。翌1989年、季刊個人誌『漨』を発刊、1994年に終刊。1982年、第28回角川短歌賞に応募し、474人中の34人の候補に残る。 第一歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の刊行は著者50歳の時。
今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 201… 今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 2015年11月11日)は、旭化成副社長、蝶理社長。2015年、肺炎により91歳で死去。第69第衆議院議長の伊藤宗一郎とは旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)の同級生。
本野 盛幸(もとの もりゆき、1924年3月15日 - 20… 本野 盛幸(もとの もりゆき、1924年3月15日 - 2012年8月24日)は、日本の外交官。元駐フランス大使。元日仏会館名誉理事長。元外務大臣本野一郎は祖父。 父親は外交官の本野盛一 (1895-1953)、母親は伊東義五郎の三女で日仏混血の清子(仏名レネー・マリー)。幼少時代は日本国外で暮らし、10歳になって日本に戻った。旧制学習院高等科から東北帝国大学を経て海軍に入り、軍令部特務班員となる。終戦後は東京大学法学部を経て外務省に入省し、外務公務員、外交官となった。 外務省経済局長、1978年から在モロッコ大使、在ニューヨーク総領事等を経て、1983年に外務審議官(経済担当)、1984年からフランス大使。
神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 -… 神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 - 1999年1月8日)は日本の政治家。参議院議員(日本共産党公認、通算3期)。日本共産党中央委員会名誉幹部会委員。 京都府京都市下京区出身。日活撮影所の表具師の長男。1941年(昭和16年)旧制京都第二中学校卒業後、学徒出陣して久留米陸軍予備士官学校に入学。1945年(昭和20年)に東亜同文書院大学を卒業。翌年西日本新聞政治部記者となるが、二・一ゼネスト参加を理由に解雇される。1948年(昭和23年)京都府職員となり労働組合活動を始め、翌年には京都府職員労働組合書記長に就任した。1952年には日本共産党へ入党すると共に府職員労働組合書記長となる。
安恒 良一(やすつね りょういち、1924年3月15日 - … 安恒 良一(やすつね りょういち、1924年3月15日 - )は日本の政治家。元日本社会党参議院議員(連続3期)。
田所 祐(たどころ ゆう、1924年3月15日 - 2005… 田所 祐(たどころ ゆう、1924年3月15日 - 2005年1月13日)は、日本の内科医師、馬主。 兵庫県神戸市にある総合病院である田所病院の院長であった。 兵庫県神戸市にある田所医院の院長として、弟の順、健とともに医師として活動した。阪神タイガースの専属ドクター、さらに日本ボクシングコミッション公認ドクターとして関西エリアでのボクシング興行でリングドクターを務めていた。 1995年の阪神・淡路大震災では、病院兼自宅が半壊、被害に巻き込まれた順とその夫人を亡くすという不幸に見舞われた。そのような状況であったが、同年12月28日には、所有馬マヤノトップガンが有馬記念を制して得た賞金の一部(1000万円)を日本赤十字兵庫県支部へ寄付した。
朴 容万(パク・ヨンマン、朝鮮語: 박용만/朴容萬、1924… 朴 容万(パク・ヨンマン、朝鮮語: 박용만/朴容萬、1924年3月15日 - 1996年10月19日)は、大韓民国の政治家。第9・10・12・13代大韓民国国会議員。本貫は密陽朴氏。号は嶺岩(ヨンアム、영암/嶺岩)。 日本統治時代の慶尚北道豊基郡(現・栄州市)に生まれた。1942年、金泉高を卒業後に内地に渡り、1944年に中央大学専門部法科を卒業した。1945年に早稲田大学文学部英文学科を中退し、翌年にソウル大学校文理科大学に編入し、1949年に卒業。 光復後、ソウルで留学生同盟本部委員長を務め、1946年7月に李哲承などと共に全国学生総連盟を組織し、共同議長を務めた。反共・反託闘争を通じて李承晩の信任を得たため、その後は李の大統領秘書官を務めた。
安齋 伸(あんざい しん、1923年3月15日 - 1998… 安齋 伸(あんざい しん、1923年3月15日 - 1998年1月1日)は、日本の宗教学者。 1923年、宮城県仙台市生まれ。1949年、東京帝国大学文学部宗教学科を卒業。ウィーン大学社会学科博士課程修了。1954年に上智大学文学部助手となり、講師、助教授を経て教授。1993年定年、名誉教授。
神尾 昌一(かみお しょういち、1923年3月15日 - 2… 神尾 昌一(かみお しょういち、1923年3月15日 - 2006年3月4日)は、日本の銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。 東京都出身。1944年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1946年に埼玉銀行に入行。 1974年5月に取締役に就任し、1978年8月に常務、1981年6月に専務を経て、1982年6月に副頭取に就任し、1987年6月には頭取に昇格。1989年3月に取締役に退き、同年6月に相談役、1998年4月に特別顧問を経て、同年12月から2001年10月までに名誉顧問に就任。 1990年11月に藍綬褒章を受章。 2006年3月4日急性肺炎のために死去。82歳没。
三井 脩(みつい おさむ、1923年〈大正12年〉3月15日… 三井 脩(みつい おさむ、1923年〈大正12年〉3月15日 - 1992年〈平成4年〉8月11日)は、日本の内務・警察官僚。第10代警察庁長官、日本道路交通情報センター理事長。位階は正三位。 熊本県出身。旧制大阪高等学校卒。1943年12月、佐世保第二海兵団(相浦)に入団。1944年、東京帝国大学法学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願。同年2月、海軍経理学校に入学し同年9月に卒業。海軍対潜学校に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年、突撃隊(伏龍部隊)に移り終戦を迎えた。同年9月、海軍主計中尉に昇進して解員(復員)した。 1946年、内務省に入省し神奈川県に配属。以後、宮崎県総務部地方課勤務、熊本県経済部農務課勤務、国家地方警察徳島県本部警備部長、国家地方警察長崎県本部警備部長、国家地方警察本部警備部警備第一課長補佐、警察庁警備部警備第一課長補佐、警視庁第一方面本部長、山梨県警察本部長、防衛庁防衛局第二課長、警察庁警備局公安第一課長、警視庁公安部長、同警務部長、同副総監、警視庁警備局長、警察庁次長などを歴任。
石原 豪人(いしはら ごうじん、1923年3月15日 - 1… 石原 豪人(いしはら ごうじん、1923年3月15日 - 1998年6月19日)は、日本のイラストレーター。別ペンネームに林月光(はやし げっこう)。本名:石原徹。島根県簸川郡大社町出身。日本大学芸術学部中退。 18歳で満州に渡り、映画看板などを描く。体調を崩したため、1955年頃(昭和30年)から挿絵画家としての仕事を始める。以後40年間にわたって精力的に描き続けた。 テレビがなかった時代の映画の看板から始まり、光文社の江戸川乱歩シリーズの挿絵(『魔法人形』ほか数巻のみ)、立風書房のジャガーバックスシリーズを始めとする怪奇系児童書、小学館の「なぜなに学習百科」シリーズ、各社の学年誌・少年雑誌・少女雑誌の怪獣・怪人・幽霊・妖怪・怪奇現象などのイラストを手がけた。
宮川 ひろ(みやかわ ひろ、1923年〈大正12年〉3月15… 宮川 ひろ(みやかわ ひろ、1923年〈大正12年〉3月15日 - 2018年〈平成30年〉12月29日)は、日本の児童文学作家。沼田市名誉市民。 長男は児童文学研究者の宮川健郎。 1923年、群馬県利根郡東村千鳥(利根村を経て現・沼田市)に生まれる。群馬県女子師範学校に進学するが病気のため中退を余儀なくされる。東京の金華学園教員養成所を卒業後、公立小学校教員(地方公務員)となる。この時期には学童集団疎開にもかかわった。 坪田譲治の講演を聴いたことで文学を志し、1965年に日本児童文学者協会が開講した「新日本童話教室」に参加。同人誌『どうわ教室』をあまんきみこらと創刊したほか、雑誌『びわの実学校』に作品を投稿した。
田辺昇一(たなべ しょういち、1922年3月15日 - 20… 田辺昇一(たなべ しょういち、1922年3月15日 - 2015年12月22日)は、日本の経営コンサルタント。タナベ経営(現:タナベコンサルティンググループ)の創業者・名誉会長。 福井県小浜市出身。1945年東北帝国大学工学部航空力学科卒。成瀬政男に師事。岡田金属工業勤務、京都能率協会理事を経て、田辺経営相談所を設立、のちタナベ経営とし、社長。経営コンサルタント。
広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月… 広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月15日 - 1944年〈昭和19年〉9月13日)は、滋賀県出身のプロ野球選手(投手)。戦前期に巨人軍で活躍した。 1934年、12歳のとき、地元の琵琶湖を横断する遠泳大会で14㎞を泳ぎ切って大評判となる。 1935年に大津商業に入学。1938年の夏の甲子園の県予選では外野手として出場するが、準決勝で膳所中学に敗退する。1939年正月の京滋中等対抗野球大会では、初めて対戦した神田武夫を擁する京都商業に完敗するが、前年の夏の甲子園を制した平安中学を破りって2勝1敗となり、大津商業として初の春の甲子園大会に選ばれる。甲子園では1回戦で小倉工業と対戦、広瀬は一番・遊撃手を務めるが、緊張のせいか無安打2失策と奮わず、チームも1-3で敗れた。
岡本 三男(おかもと みつお、1921年3月15日 - 没年… 岡本 三男(おかもと みつお、1921年3月15日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 1950年に創設された西日本パイレーツへ入団。 球団消滅に伴って1951年に大洋ホエールズへ移籍。1952年引退。
杉浦澄子(すぎうら すみこ、1921年3月15日- )は、裏… 杉浦澄子(すぎうら すみこ、1921年3月15日- )は、裏千家流の茶人、陶芸研究家。 浅井竹五郎の次女として名古屋に生まれる。別名・澄心庵、杉浦宗美。愛知県立第一高等女学校卒。1941年東京女子大学英文科中退。東京大学印度哲学研究室にて中村元の指導をうける。裏千家茶道教授。
後藤 義夫(ごとう よしお、1921年3月15日 - 200… 後藤 義夫(ごとう よしお、1921年3月15日 - 2004年3月31日)は、日本の経営者。帝国興信所(現在の帝国データバンク)社長を務めた。東京都出身。 1941年に帝国興信所に入社し、1943年には慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。 1942年に取締役に就任し、1954年に副社長を経て、1963年には社長に就任。1998年には会長に就任。 2004年3月31日多臓器不全のために死去。83歳没。
貝谷 八百子(かいたに やおこ、1921年3月15日 - 1… 貝谷 八百子(かいたに やおこ、1921年3月15日 - 1991年3月5日)は、日本のバレリーナ、振付家である。本名・貝谷スミ子。 1921年(大正10年)、貝谷真孜の三女として福岡県大牟田市で生まれる。生家は鉱山主で、豊かな家庭だったといわれる。1933年(昭和8年)、文化学院に入学するため上京し、1934年(昭和9年)からエリアナ・パブロワにバレエを学んだ。1938年(昭和13年)、貝谷バレエ団を立ち上げ、歌舞伎座を借り切ってデビュー公演を行った。1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)まで、二階堂トクヨの日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)でクラシックバレエを指導した。
東郷 晴子(とうごう はるこ、1920年〈大正9年〉3月15… 東郷 晴子(とうごう はるこ、1920年〈大正9年〉3月15日 - 2011年〈平成23年〉3月3日)は、日本の女優。元宝塚歌劇団雪組組長。東京都出身。本名は森治子。 桜蔭高等女学校(現:桜蔭中学校・高等学校)卒業。宝塚歌劇団時代の愛称はハコちゃん。 1937年、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入る。宝塚入団時の成績は93人中2位。同期生に越路吹雪、乙羽信子、月丘夢路、大路三千緒らがいた。1955年、宝塚歌劇団を退団。 その後は、映画、舞台、テレビドラマに出演した。 2011年3月3日、呼吸不全のため横浜市の病院で死去。90歳没。 社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
玉腰 忠義(たまごし ただよし、1920年3月15日 - 1… 玉腰 忠義(たまごし ただよし、1920年3月15日 - 1957年1月16日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
岸田 綱太郎(きしだ つなたろう、1920年3月15日 - … 岸田 綱太郎(きしだ つなたろう、1920年3月15日 - 2006年9月13日)は、医学博士。位階は正五位。ラブレ乳酸菌(英語版)の発見、インターフェロンの研究などで知られる。 ウイルスなどの侵入から体を守るタンパク質・インターフェロンの研究を1960年代から始め、1972年に日本で初めてヒトインターフェロンを人工的に生成し、肝炎や白血病の患者らに投与した。原爆投下2カ月後の広島に京都府立医大調査団の一員として赴いた経験から、反核医師の会京都代表を務め、核兵器反対や平和を訴える講演活動なども続けていた。 東京都出身。京都府立医科大学名誉教授。鮎川哲也賞受賞作家の岸田るり子は長女。同志社大学文学部、京都府立医科大学卒。
西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2… 西郷 竹彦(さいごう たけひこ、1920年3月15日 - 2017年6月12日)は、日本の文芸学者、児童文学研究者、ロシア文学翻訳家。 鹿児島市生まれ。幼くして両親に死なれ孤児として育つ。上京後、土方などをして苦学、東京帝国大学理学部応用物理学科に学ぶ。 第四航空師団に召集され朝鮮平壌航空隊に配属。敗戦時、ソ連の捕虜となり、のちモスクワ東洋大学日本学部講師として日本文化・文学を教え、1949年帰国。 ロシア児童文学の翻訳を多数行い、のち文学教育を中心として多数の翻訳、創作、論考、著書を著した。文芸教育研究協議会(文芸研)の理論的支柱であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡田 重精(おかだ しげきよ、1920年3月15日 - 20… 岡田 重精(おかだ しげきよ、1920年3月15日 - 2013年8月11日)は、日本の宗教学者。学校法人皇學館大学理事長、皇學館大学名誉教授。文学博士(東北大学)。 高知県出身。1943年に神宮皇學館大學専門部を卒業し、兵役に服した後、1946年に東北帝国大学法文学部に入学、1949年に同大学を卒業。 ただちに同大学助手となり、1951年に退官。続いて大学院特別研究生。その後、1954年に東北大学文学部東北文化研究室研究員・宮城県工業高等学校教諭、1966年に皇學館女子短期大学助教授、1971年に皇學館短期大学教授、1975年に皇學館大学教授、神道研究所長・学生部長・文学部長等併任。北京大学・ハワイ大学ほか海外招聘講義。
甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920… 甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920年)3月15日 - 1997年12月26日)は、日本の画家、曹洞宗の僧侶(大分県中津市崇禅寺の13世住職)。白日会会員で油彩、日本画、彫刻をよくした。 大正9年、大分県宇佐市清水の清水寺に生まれる。地方画家であった祖父、叔父の絵画を見、また兄の作画する姿に接し、幼少時より絵画に憧憬を抱く。その後、兄から自分の果たせなかった夢を託され、東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科に進学し、小林萬吾、南薫造、伊原宇三郎、石橋犀水、川﨑小虎、矢澤弦月、関野聖雲に学び、1941年に卒業した。 1948年の創元展に「渓流」が初入選。1951年には「石彿」により受賞。
春名 和雄(はるな かずお、1919年3月15日 - 200… 春名 和雄(はるな かずお、1919年3月15日 - 2002年3月3日)は、日本の経営者。神奈川県横浜市出身。 1940年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に丸紅の前身である大同貿易に入社。 ロンドン支店長などを経て、1968年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を歴任し、1983年に社長に就任した。1987年から1997年までに会長を務めた。 経済界における中国通とも知られており、社長時代には対中ビジネスを切り開き、1991年から1999年までに日中経済協会副会長を務めた。 2002年3月3日心不全のために死去。82歳没。
矢橋 浩吉(やばし こうきち、1919年3月15日 - 20… 矢橋 浩吉(やばし こうきち、1919年3月15日 - 2016年10月6日)は、昭和期の実業家。元揖斐川電気工業(現・イビデン)社長。愛知県名古屋市出身。旧制名古屋高等商業学校卒。 旧姓は亀山。父・亀山恭平、母・正子の三男。時期は不明だが、矢橋家(大垣市赤坂町の県内屈指の旧家)に婿入りしている。 在任中はプリント配線板、セラミックスといった事業を育て、今日のイビデンの主力事業の礎を築いた。その一方、オイルショック等の影響で業績が悪化したため、1976年に緊急合理化対策を発表し、大量の人員整理等を行った。さらに事業の分社化を行い、イビデン電子工業、イビデングラファイト、イビデン計算センター(現・タック)、イビデン興産)などを設立した。
安西 均(あんざい ひとし、1919年3月15日 - 199… 安西 均(あんざい ひとし、1919年3月15日 - 1994年2月8日)は、日本の詩人。日本現代詩人会会長、日本文芸家協会会員。作家の増田俊也は従甥。 福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市筑紫)生まれ。福岡師範学校(現・福岡教育大学)中退。師範学校在学中に文学を志す。1943年朝日新聞社福岡総局、東京本社学芸部記者などを務める。学芸部では詩壇を担当した[要出典]。戦後は「九州文学」に参加し、火野葦平や劉寒吉、野田宇太郎などと出会い、「母音」の丸山豊に師事する。また、伊藤桂一主宰の「山河」、高田敏子主宰の「野火」をはじめ、「歴程」「地球」「山の樹」などの詩誌に参加する[要出典]。1983年『暗喩の夏』で第1回現代詩花椿賞受賞。
広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正… 広沢 賢一(廣澤 賢一、ひろさわ けんいち、1919年〈大正8年〉3月15日 - 2003年〈平成15年〉2月15日)は、日本の政治家、政治活動家。日本社会党から衆議院議員当選1回。男性。 東京府出身。1942年(昭和17年)早稲田大学政治経済学部卒。第二次世界大戦敗戦後、大内兵衛、鈴木茂三郎の社会主義政治経済研究所所員となり、1949年に日本社会党本部書記となる。その後、鈴木の秘書を務める傍ら、党政策審議会事務次長、組織部長企画室長を歴任。 1959年、浅沼稲次郎社会党書記長を団長とした中華人民共和国訪問団に随行した。浅沼は右派の出身で、左派で鈴木茂三郎・佐々木更三派の広沢を「ゴクサ(極左の誤読)」と呼んでいた。
和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999… 和田 春生(わだ はるお、1919年3月15日 - 1999年10月17日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 東京府東京市四谷区四谷左門町生まれ。三重県伊勢市出身。1939年鳥羽商船学校(現鳥羽商船高等専門学校)卒、山下汽船に航海士として入社。1945年全日本海員組合に参加し、1948年組織部長。1950年総評結成に参加して常任幹事となるが、1952年秋季闘争での総評の敗北を機に総評主流の左傾的傾向を批判、海員組合・全繊同盟・全映演・日放労の「四単産批判」取りまとめの中心となる。その後、日放労を除いた3単産を中心に総評内の右派系単産をまとめ1954年に全労会議を結成して初代書記長となり、解散まで右派労働戦線の旗手的存在だった。
盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019… 盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者。青森山田学園特別顧問、青森大学名誉教授。 青森県七戸町生まれ。県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、弘前高等学校文化乙類卒、1941年、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部卒業。 翌年より近衛歩兵第5連隊補充隊に入営、陸軍経理学校を経て主計将校となり、歩兵第31連隊に配属。1944年(昭和19年)に主計大尉に累進し、歩兵第131連隊(長:重広三馬大佐)本部高級主計となる。7月の動員下令後、八戸市に宿営し物資調達のため奔走した。11月、派兵先が中支と決まり漢口に上陸。1945年3月、宝慶に新規編成された独立混成第86旅団(長:上野源吉少将)司令部に転じ、終戦を迎える。