竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - … 竹前 重吉(たけまえ じゅうきち、1922年6月15日 - 2011年9月11日)は、日本の映画監督である。名の読みは「しげきち」説あり。日本映画監督協会会員。 1922年(大正11年)6月15日、山梨県甲府市に生まれる。 1940年(昭和15年)、旧制・甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業、第二次世界大戦の召集を受け出征、戦後1946年(昭和21年)に南方戦線から復員する。1947年(昭和22年)、俳優の長谷川一夫が主宰する新演伎座の文芸部に入社し、映画監督の衣笠貞之助や冬島泰三に師事する。 1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)助監督課に移籍、冬島のほか、豊田四郎、丸根賛太郎、佐伯幸三らの助監督を務め、1959年(昭和29年)、同社が製作した劇場用映画『やりくりアパート』で監督に昇進、社員から契約監督となる。
渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15… 渡邊 進(わたなべ すすむ、1922年〈大正11年〉6月15日 - 2003年〈平成15年〉12月22日)は、日本の医師・医学者・教育者・元地方公務員・医学博士(北海道大学)。北海道女子大学名誉学長・北海道女子短期大学名誉教授である。北海道出身で「渡辺進」とも表記される。 ただし、北海道女子短期大学記念誌では、「渡邉進」と表記されている。 1946年(昭和21年)、名古屋帝国大学医学部公衆衛生科を卒業する。同医学部助手を務める。翌年の1947年(昭和22年)に医師免許を取得する。 1948年(昭和23年)、札幌市役所教育部技師として入所する。 1949年(昭和24年)、札幌市保健所に入所する。1956年(昭和31年)、同所長となる。
木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 -… 木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 - 2008年(平成20年)8月3日)は、日本の小説家。 北海道旭川市生まれ。旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)、北海道帝国大学工学部卒業。1943年に海軍予備学生として横須賀海兵団に入団。占守島派遣や内地転属を経て終戦を迎える。北海日日新聞創刊に参加し、新聞合併を経て北海タイムスの記者として勤務。文化部長や論説委員を務めた。その傍ら1949年より旭川の文芸同人誌「冬濤」に参加。1952年より同誌編集責任者を務めた。旭川市の郷土史研究書である『旭川今昔ばなし』も著した。
川口 敬次郎(かわぐち けいじろう、1919年6月15日 -… 川口 敬次郎(かわぐち けいじろう、1919年6月15日 - 1991年11月29日)は、熊本県出身のプロ野球選手(投手)。旧姓:岡本。
山本 壮一郎(やまもと そういちろう、旧字体では「壯一郎」。… 山本 壮一郎(やまもと そういちろう、旧字体では「壯一郎」。1919年6月15日 - 2001年1月18日)は、日本の内務官僚、政治家。 全国知事会副会長、宮城県知事、宮城県副知事などを歴任。 大阪府大阪市天王寺区生まれ。旧制大阪高校を経て、1943年(昭和18年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。高等試験に合格し、同年内務省に入省するが、太平洋戦争激化に伴い、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入校。1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。第二南遣艦隊司令部・第22特別根拠地隊に配属。1945年3月、海軍主計大尉に昇進しボルネオで終戦を迎えた。
河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 19… 河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 1995年4月8日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長、会長を務めた。石川県出身。 1939年に大分高等商業学校を卒業し、1946年10月にブラザーミシン販売に入社。 1954年6月にブラザー工業に転じ、1969年7月に取締役に就任し、1975年1月に常務、1977年2月に専務を経て、1981年2月には社長に就任。1989年2月に会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1995年4月8日腎不全のために死去。76歳没。
津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992… 津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992年11月15日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。専攻は近世史で、社会経済史、教育史などの分野にもとりくんだ。 1918年、大阪府西成郡今宮町(現・大阪市西成区)で生まれた。1942年、東京文理科大学を卒業。 卒業後は、岐阜県中津農林学校教諭となったが、入営・召集のため休職し、1946年に復員。 戦後は大阪第一師範学校勤務した。1949年の学制改革で師範学校が大阪学芸大学となると同校講師となった。東京教育大学講師を経て、1953年より東京教育大学助教授。1962年、学位論文『封建経済政策の展開と市場構造』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。
山本 正淑(やまもと まさよし、1916年(大正5年)6月1… 山本 正淑(やまもと まさよし、1916年(大正5年)6月15日 - 2009年(平成21年)9月5日)は、日本の厚生官僚。高知県出身。厚生事務次官、日本赤十字社社長などを歴任した。 旧制高知高等学校を経て東京帝国大学を卒業後、1940年(昭和15年)厚生省に入省。 退官後は、医療金融公庫総裁、財団法人厚生年金事業振興団理事長を経て、1987年(昭和62年)4月1日から1996年(平成8年)10月まで第12代日本赤十字社社長を務めた。 2009年(平成21年)9月5日、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去、93歳。
山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2… 山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本の随筆家・編集者。東京市下谷根岸出身。 東京の下谷根岸に生まれる。父・山本三郎(1879-1928)は、坪内逍遥に傾倒し慶応から早稲田に転学し、詩人・山本露葉として児玉花外、山田枯柳らとともに若手の新体詩人として注目されたが、夏彦は三男で小学6年時に、父は50歳で亡くなった。なお祖父は高利貸しの山本義上(1848-1909)で、父の代は資産家であった。 父・露葉の友人であった武林無想庵に連れられ15歳で渡仏。3年後に帰国し、24歳のときにフランス童話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビュー。戦後まもない1950年に工作社を創立、没時まで編集兼発行人、コラムニストとしても活動した。
伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 19… 伊藤 一郎(いとう いちろう、1915年6月15日 - 1991年5月6日)は、日本の工学者。京都大学名誉教授。京都市出身。資源工学の第一人者として活躍した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?… 立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?)は、日本の農林官僚。農林省蚕糸局長等を務め、退官後は農業機械化研究所理事長、日本蚕糸事業団理事長、日本食糧倉庫株式会社社長、大日本蚕糸会会頭等を歴任。 鹿児島県生まれ。串木野市(いちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1932年第七高等学校造士館文科卒業。1937年東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年農林省に入省し、馬政局、食糧管理局、企画院、興亜院、大東亜省等に勤務。1945年食糧管理局外地課長となり、以降農林省総務局経済課長、群馬県経済部長兼農地部長、農林省農地局経済課長、食糧庁総務部企画課長、大臣官房文書課長、水産庁漁政部長、水産庁生産部長、農地局管理部長、農林大臣官房参事官を経て、1958年8月農林経済局統計調査部長就任(同年9月農林水産技術会議事務局研究調整官併任)。
小篠 綾子(こしの あやこ、1913年(大正2年)6月15日… 小篠 綾子(こしの あやこ、1913年(大正2年)6月15日 - 2006年(平成18年)3月26日)は、日本のファッションデザイナーである。同じくファッションデザイナーとなったコシノ三姉妹(コシノヒロコ、コシノジュンコ、コシノミチコ)の母親としても知られる。
舛田 精一(ますだ せいいち、1913年6月15日 - 没年… 舛田 精一(ますだ せいいち、1913年6月15日 - 没年不明(1989年以降) )は、日本の会計学者。 東京出身。早稲田大学政治経済学部卒、日本鋼管に入社し、経理関係の課長、次長を務める。1960年東京シヤリングへ出向し、常務取締役経理部長。1964年日本鋼管を退社し、舛田財務研究所を創設、所長となる。経理関係の実用書を多数執筆した。
丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 19… 丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。
伊藤 正男(いとう まさお、1911年6月15日 - 200… 伊藤 正男(いとう まさお、1911年6月15日 - 2002年4月25日)は、日本の工学者、実業家。 東京都出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部機械工学科卒業。いすゞ自動車取締役社長、取締役会長、理事を歴任。 いすゞの前身である自動車工業株式会社の成立直後に入社、同社のディーゼルエンジン研究開始(1934年)当初から開発に従事し、現役技術者としての経歴を一貫してエンジン技術に傾注した。長きにわたり自動車用ディーゼルエンジンの開発普及に努め、日本における自動車用ディーゼルエンジンの育ての親と呼ばれる。伊藤の主導で開発された予燃焼室式高速ディーゼルエンジンの基本設計は、日本陸軍の標準エンジン・統制型一〇〇式発動機の燃焼室設計に採用され、のち1970年代に直噴式エンジンが市場の主流になるまで、30年以上にわたり日本製の高速ディーゼル機関向け基本レイアウトとして広く利用された。
権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 197… 権田 次良(ごんだ じろう、1911年6月15日 - 1973年4月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1935年に東京帝国大学法学部法科を卒業。 三井物産での勤務を経て、1947年に三井船舶に転じ、1960年5月に取締役、1962年10月に常務、1970年5月に副社長を経て、1972年5月に社長に就任 1973年4月21日、胃癌のために死去。61歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1… 照錦 富治(てるにしき とみじ、1911年6月15日 - 1971年3月9日)は、伊勢ノ海部屋、花籠部屋に所属した元力士。また11、13代放駒、10代花籠。本名は照井 富治(てるい とみじ)。現在の岩手県花巻市出身。164cm、105kg。最高位は西十両4枚目。得意技は右四つ、寄り、下手投げ。 1926年5月場所に初土俵。1932年5月場所に十両昇進。1937年に右腕の関節を痛め、更に右大腿部を脱臼して一時は三段目まで陥落したが、そこから奮起して1940年1月場所に十両に復帰した。その後は入幕を果たせぬまま1943年1月場所に引退。その後は11代放駒を襲名、以後10代花籠、そして放駒を再襲名した。
今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1… 今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1978年6月28日)は、東京市浅草区雷門(現:東京都台東区雷門)出身の俳優。本名は小野寺 幸男。旧芸名は今村 原兵、今村 原平、今村 源平。 専修商科学校卒業。1929年に新東京歌劇団文芸部に入る。俳優に転向し、天勝一座を経て、1934年から俳優の草間実に師事。帝国キネマ、新興演芸を経て、1939年に吉本興業に入社。1944年に「今村原兵楽劇団」を創立。1946年にムーランルージュ新宿座に入り、1951年の解散まで在籍。その後は衣笠プロ、東京俳優生活協同組合などに所属していた。 1978年6月28日、脳出血の為、東京都世田谷区駒沢の国立第二病院で死去。
吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 198… 吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 1988年1月12日)は、日本の美術史学者。東京藝術大学名誉教授。日本南画研究が専門。 東京府出身。東京帝国大学卒業。東京国立博物館勤務、多摩美術大学講師、東京芸大助教授、1967年教授。1973年定年退官、名誉教授。
田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月… 田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月15日 - 1990年 <平成2年> 11月21日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長、会長を務めた。位階は従五位。 群馬県出身。1934年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年5月に日本製鉄に入社。1957年5月に富士製鐵取締役に就任し、1960年7月に東海製鐵専務を経て、1965年3月に山陽特殊製鋼管財人代理に就任し、1967年12月から1970年12月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1990年11月21日肺炎のためにで死去。82歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998… 玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998年2月28日)は、日本の哲学者、岐阜大学名誉教授。 大阪府出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学文学部哲学科卒業。報知新聞や東亜研究所に勤務したのち、日本医科大学教授、岐阜農業専門学校教授を経て、1949年(昭和24年)岐阜大学教授、1971年(昭和46年)岐阜歯科大学教授、1981年(昭和56年)学長(途中で朝日大学に改名)、1989年退職。日本学術会議会員。
海野 建夫(うんの たてお、1905年6月15日 - 198… 海野 建夫(うんの たてお、1905年6月15日 - 1982年11月17日)は、日本の彫金家。東京学芸大学名誉教授。日展参事。改組日展出品作「雨もよい」により日本芸術院賞を受賞した。 東京上野に生まれる。1921年に吉川霊華に師事し、のち東京美術学校で彫金を学び、1928年に金工科彫金部を卒業、1931年に研究科を修了した。在学中の1929年第10回帝展で「彫金花盛器」が初入選し、1932年第13回帝展で「鉄製ファイヤースクリン」が特選となった。1937年のパリ万国博覧会では「秋手鏡」が銀賞を受賞した。 戦後は日展で1949年以後たびたび審査員を務め、1950年から依嘱出品、1958年会員、1961年評議員となった。
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 19… 江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。 1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ、画家を志して15歳の時に東京に出た。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬に大和絵を学んだ。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選。 1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた。
森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981… 森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981年4月8日)は、日本の歴史学者、岩手大学名誉教授、経済学博士。主な研究テーマは南部藩を中心とする近世史だが、中尊寺金色堂の調査にも参加するなど、活動分野は多岐にわたった。 岩手県盛岡市の豪商の家に生まれる。盛岡中学から法政大学経済学部に進み、小野武夫の下で近世日本経済史を研究した。1929年卒業。岩手県教育会書記を務め、岩手師範学校教授。 1947年、昭和天皇が岩手県に戦後巡幸された際に拝謁し、岩手県の開拓史について奏上する。その後、1949年に岩手大学教授、1969年定年退官。学内では学芸学部長、教育学部長を歴任した。退官後は、盛岡短期大学講師や富士大学教授を務めた。
岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 19… 岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 1983年9月1日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサー。俳優としての芸名は「山内光(やまのうち ひかる)」。 横浜の商家の娘・よねと番頭の美平の間に生まれる。ドイツ、ソ連で舞台美術、映画、写真の技術を学んだ。日活、松竹で俳優として映画に出演する一方、日本プロレタリア映画同盟、写真・映画団体「国際光画協会」、写真集団「日本工房」、「中央工房」などに関わり、プロパガンダグラフ雑誌「FRONT」を発行する「東方社」の創設に参加。多くの映画人、写真家、美術家らに影響を与えた。戦後は、南方熊楠遺稿の出版に関わった後、東京シネマを興し、科学映画を中心とする短編映画が、内外で高く評価されたことで、そのプロデューサーとして知られた。
朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 19… 朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 1986年)は、日本の会計学者・公認会計士・高校教員。札幌商科大学名誉教授。北海道札幌啓北商業高等学校元校長。 『朝倉和夫教授略歴・著作目録(朝倉和夫教授喜寿記念論文集)』(札幌商科大学学会論集、商経編 1981年) この項目は、会計に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト 会計)。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年… 奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日 - 2004年(平成16年)5月5日)は、日本の洋画家。女優・奈良岡朋子(東京都文京区出身)の父である。 青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。 初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。感銘、影響を受けた本として、倉田百三の『出家とその弟子』を挙げている。 1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。一度画家を志して上京するが家族に連れ戻され、1925年(大正14年)再び上京する。
音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月… 音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月15日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の漆芸家である。本名:芳雄。本姓は木村。 香川県高松市の生まれ。石井磬堂の門下となり、「讃岐彫」と呼ばれる木彫や彫漆を学んだ。その後独立し、玉楮象谷の作風を研究した後にこの作風を模して作成した漆器を多く作成する。その後は東京に移住し、1942年(昭和17年)に開催された第5回文展にて音丸の作品が出品された。 後に自身の作風は現代風を取り入れた玉手箱等、彫漆の作風に新しく取り入れたものにより、1955年(昭和30年)に「彫漆」分野として人間国宝(重要無形文化財)に認定された。その後は多くの門下を輩出し、1982年(昭和57年)に門下の育成によって「公益信託音丸漆芸奨励基金」の創設に携わった。
小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月… 小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月15日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。 神奈川県足柄生まれ。父良造は大蔵省官吏。1923年東京高等師範学校理科卒後、秋田県立本荘中学校で教諭となる。教職を勤める傍ら東北帝国大学にてハンス・モーリッシュ教授から植物学の指導を受ける。その後京都帝国大学理学部(植物)に入学。1927年卒後、同大大学院にて植物生理生態学者郡場寛に師事。1930年京都府女子師範学校教授に就任。1932年奈良女子高等師範学校教授、1949年より奈良女子大学教授(植物学教室、理学部学部長)。1964年より帝塚山大学教授(教養学部学部長、学長代理)。
藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月1… 藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月15日 - 1986年(昭和61年)10月30日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 京都市で子爵・藤井行徳の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1930年(昭和5年)10月15日、子爵を襲爵した。 1926年(大正15年)京都帝国大学文学部を卒業。同年、私立京都薬学専門学校教授に就任。1937年(昭和12年)殿掌となり、大喪使祭官を務めた。 1942年(昭和17年)3月31日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15… 館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月6日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鹿島郡七尾町(現七尾市)で生まれる。1916年(大正5年)石川県立七尾中学校(現石川県立七尾高等学校)を卒業し、小学校准訓導心得となる。 1920年(大正9年)鉄道省に入省し函館駅改札掛に就任。鉄道局書記、鉄道官補、函館駅助役を歴任。1946年(昭和21年)函館駅従業員労働組合の結成発起人となり、また同年5月に結成された国鉄北海道労働組合の委員長に就任。同年4月、第22回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で北海道第3区から日本社会党所属で出馬して初当選。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。
高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月1… 高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月15日 - 1974年(昭和49年)12月6日)は、日本の弁護士、政治家。京都市長(第19代)。国立京都国際会館初代館長。京都自由人権協会理事長。初代京都市会議長で第1回衆議院議員を務めた中村栄助の三男。 中村栄助の三男として京都市に生まれる。京都府立二中では野球部で小西作太郎とバッテリーを組んでいた。第五高等学校を経て1918年に京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。学生時代は河上肇を顧問とする労学会に所属、キリスト教社会主義運動に参加。1917年、友愛会の初代京都支部長に選ばれた。賀川豊彦の影響により普選運動に携わった。 京大助手、同志社大学講師を経て、神戸で弁護士を開業した。
粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)… 粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)6月15日 - 不明 )は、日本の新聞記者であり、政治家である。岡山新聞(現:山陽新聞)の常務取締役、岡山交通取締役、岡山県議会議長を務めた。岡山県岡山市出身。 1892年(明治25年)岡山県御津郡大野村野田(現:岡山市)に粕山治三郎の次男として出生。その後、1905年(明治18年)に旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には、映画監督となる中川紫郎がいた。1910年(明治43年)に同校を卒業し、17歳で山陽新報(現:山陽新聞)へ入社する。 山陽新報へ入社してから2年後の1912年(明治45年)、大日本帝国海軍に志願し入隊。
小山田 正直(おやまだ まさなお、1892年〈明治25年〉6… 小山田 正直(おやまだ まさなお、1892年〈明治25年〉6月15日 - 没年不明)は、大正から昭和時代の政治家。公吏。静岡県沼津市長。 福島県出身。小山田直三の四男として生まれ、のち小山田重四郎の養子となり、1922年(大正11年)分家し一家を創立する。1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学商業科を卒業し、東京火災保険会社に入り、1918年(大正7年)大阪基督教青年会主事となり、1919年(大正8年)東京市に奉職し電気局電車課勤務、同局労働課長、同経理課長を経て、1931年(昭和6年)沼津市助役となった。その後、1933年(昭和8年)10月に同市長に就任した。1935年(昭和10年)7月まで務めた。
古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6… 河野 悦次郎(こうの えつじろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛媛県出身。木工業・河野民吉の二男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。陸軍歩兵学校付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1926年(大正15年)2月、参謀本部付勤務(支那班)となり、支那駐屯軍参謀を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)3月、歩兵第1連隊大隊長となり、歩兵第75連隊付(竜井村駐在)、第3師団参謀、第8師団参謀を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進む。
山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6… 山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1934年(昭和9年)4月20日)は、大正末期から昭和初期の橋梁技術者。複雑な構造をもつ可動橋を得意とし、多数の跳上橋を設計。数学の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを解析。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。 1891年(明治24年)6月に大阪で生まれる。1914年(大正3年)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科を卒業。 1915年(大正4年)に米国に渡航して、アメリカンブリッジカンパニーに入社。シカゴを中心とする各地の可動橋の設計や製作に従事するかたわら、イリノイ大学やアーマー大学で橋梁を研究。
永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 19… 永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 1975年7月25日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を生え抜きとして初めて務めた。 島根県出身。1917年に東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入行。取締役を経て、1941年から1947年までに頭取を務めた。 北海道曹達会長、北海道商工会議所顧問、北海道クラブ相談役などを歴任した。 1960年に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1975年7月25日、腎不全のために死去。85歳没。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
橘 智恵子(たちばな ちえこ、1889年(明治22年)6月1… 橘 智恵子(たちばな ちえこ、1889年(明治22年)6月15日 - 1922年(大正11年)11月1日)は、日本の明治期から大正期にかけての女性。 北海道函館市の弥生尋常小学校の元教員で、歌人・石川啄木の同僚であった。啄木の数多くの短歌のモデルになったとされる。 北海道札幌郡札幌村14番地(現・札幌市東区北11条東12丁目)で、農園主・橘仁(富山県射水郡長慶寺村(現・高岡市)出身)とその妻イツ(三河国刈谷藩家老・矢野貞胤の三女)の長女として生まれる。六男一女の第三子(家族の詳しい来歴については「家族・親族」欄参照)。 智恵子は北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、同校補習科で初等教員の資格を得て、1906年(明治39年)に函館区立弥生尋常小学校の訓導(教諭)となる。
銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 19… 銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 1979年7月22日)は、日本の社会学者、教育者。 1889年、大分県宇佐郡長州町(現宇佐市)に生まれる。1912年、広島高等師範学校国語漢文部を卒業後、和歌山県立粉河中学校の教員を2年間務めた。その後、広島高等師範学校専攻科を経て、1914年に京都帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。1917年に卒業後は京都市役所、大原社会問題研究所、倉敷紡績株式会社に勤め、大学時代に研究した社会問題、労働問題などの実践を行った。1921年、京都帝国大学大学院に入学。西田幾多郎、米田庄太郎の指導を受ける。大学院在学中から佛教専門学校、龍谷大学で社会学関係の講師を務めており、1925年に大学院を退学。
菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月1… 菅原 英伍(すがわら えいご、1886年(明治19年)6月15日 – 1964年(昭和39年)2月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。 宮城県栗原郡一迫村(現在の栗原市)出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士を開業し、仙台弁護士会長、東北弁護士連合会会長を歴任した。また宮城県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第16回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他、斎川電気株式会社社長、仙台電気工業株式会社取締役、広瀬電力株式会社監査役などを務めた。
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 … 谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。 滋賀県西浅井郡庄村(のち同郡永原村→伊香郡永原村→同郡西浅井村、現・長浜市西浅井町庄)に生まれる。早稲田大学通信教育部法科を卒業し、故郷永原村の村会議員・村長を務め、県農協連合会長・県農業会議長等を歴任し、県会議員を2期務めた。1958年(昭和33年)に滋賀県知事選に立候補し、自由民主党反主流派(堤派)と社会党の支持と農業団体を背景にした選挙戦において、元農林大臣で現職知事の森幸太郎を破り第39代滋賀県知事に就任した。以降2期知事職にあり、1973年(昭和48年)8月9日老衰により自宅で死去した。
山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15… 山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第38代)、運輸大臣、衆議院議員などを務めた。 茨城県水戸市出身。長倉松平家家老の家筋である山崎直の四男。11歳で家族と共に上京し、麻布中学、旧制第一高等学校を呼吸器の病気で中退した後、静岡県の代用教員から徳富蘇峰の招きで京城日報の記者に。さらに大連へ移って満洲日報社長を務める。東洋拓殖の副総裁であった、立憲政友会の政治家野田卯太郎の知遇を得、姪婿となるなど政治の基礎を作った。 原内閣で中橋徳五郎文部大臣の秘書官を務めた後、1920年(大正9年)の総選挙で立憲政友会公認で埼玉県第4区から総選挙に立候補し初当選、以後衆院議員を10期務め、廣田内閣では農林政務次官に就任。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。